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よしきよし

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よしきよし
さだかん9ねん - 先天せんてん2ねん1がつ17にち
635ねん - 713ねん2がつ16にち
よしきよし想像そうぞう
生地きじ ひとししゅうやま茌県
寺院じいん ふつ授記てら
著作ちょさく南海なんかいよせ内法うちのりでん
だいから西域せいいき求法ぐほう高僧こうそうでん
テンプレートを表示ひょうじ

よしきよし(ぎじょう)は、とうそう俗姓ぞくせいちょう文明ぶんめい

インドナーランダ僧院そういんまなんだ学生がくせい一人ひとりであり、おおくの仏典ぶってん翻訳ほんやくして中国ちゅうごくかえった。

人物じんぶつ

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ナーランダへの旅路たびじ(7世紀せいき

ナーランダへのたび

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ひとししゅうやま茌県ひとである。おさなくして出家しゅっけし、15さいとき649ねんさだかん23ねん))には西域せいいきくだりこころざし、ほうあらわげん行跡ぎょうせき思慕しぼしていたという。

671ねん咸亨2ねん)、37さいばん禺県同志どうしすうじゅうめい出発しゅっぱつしようとしたが、余人よにんすべ辞退じたいしたため、よしきよし一人ひとり海路かいろインドわたることとなった。インドには西暦せいれき673ねん到着とうちゃくし、14年間ねんかんインドに滞在たいざいし、そのうち10年間ねんかんナーランダ僧院そういんごした[1]

帰路きろふたた海路かいろで、マレーインドネシアスマトラ島すまとらとうにあったシュリーヴィジャヤ王国おうこく中心ちゅうしん都市としパレンバンなど)をて、695ねんあかしきよし元年がんねん帰国きこく。25年間ねんかんに30あまりこく遊歴ゆうれきし、400、50まん頌のサンスクリットけいりつろん金剛こんごう舎利しゃり300つぶなどをもたらした。

中国ちゅうごくもど

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武則たけのりてんは、みずか洛陽らくよう上東うえひがし門外もんがい出迎でむかえ、みことのりによってふつ授記てらむかれた。以後いご仏典ぶってんかんやくおこなう。わけけい国家こっか事業じぎょうとして洛陽らくよう長安ながやすだいてらうち道場どうじょうおこなわれ、じつまたなんおもね儞真なみらの西域せいいき渡来とらいそうわけけい担当たんとうし、武則たけのりてんみずからがじょあらわした。かんやくされた経典きょうてんは56230かんおよんだ。また、『南海なんかいよせ内法うちのりでん』、『だいから西域せいいき求法ぐほう高僧こうそうでん』をあらわす。りょうちょとも、当時とうじのインドや中国ちゅうごく仏教ぶっきょう研究けんきゅう、あるいはインドや東南とうなんアジア社会しゃかい状況じょうきょうかんする貴重きちょう史料しりょうとなっている。

713ねん先天せんてん2ねん)、79さいくなった。ほう59。『そう高僧こうそうでんまき1につてあり。

小説しょうせつ作品さくひん

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  • 仁木にき英之ひでゆき 『よしきよし 異聞いぶん南海なんかい高僧こうそう西にしせいでん』 「別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう」(2010ねん3がつごう)よりすうかい連載れんさい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Scharfe, Hartmut (2002). Education in Ancient India. Handbook of Oriental Studies. 16. Brill. ISBN 9789004125568. https://books.google.com/books?id=7s19sZFRxCUC 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 現代げんだいやく 南海なんかいよせ内法うちのりでん なな世紀せいきインド仏教ぶっきょうそうとぎ日常にちじょう生活せいかつ宮林みやばやし昭彦あきひこ加藤かとう栄司えいじやく法蔵館ほうぞうかん 2004ねん
  • だいから西域せいいき求法ぐほう高僧こうそうでん ほか 現代げんだいやく一切経いっさいきょう1』 伊藤いとうたけやく大東だいとう出版しゅっぱんしゃ 1993ねん抄訳しょうやくばん

関連かんれん項目こうもく

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