ラスール朝 あさ
1264年 ねん のラスール朝 あさ の支配 しはい 領域 りょういき
ラスール朝 あさ (アラビア語 ご : بنو رسول ) は、13世紀 せいき から15世紀 せいき にかけてイエメン を支配 しはい したスンナ派 は のイスラーム王朝 おうちょう 。アイユーブ朝 あさ に仕 つか えたテュルク系 けい のアミール であるマンスール1世 せい を創始 そうし 者 しゃ とする。
1229年 ねん にイエメンを治 おさ めるアイユーブ朝 あさ のスルターン の代理 だいり となったマンスール1世 せい はラスール朝 あさ を創始 そうし する。その後 ご も外 そと 向 む きにはアイユーブ朝 あさ への忠誠 ちゅうせい を示 しめ していたが、1235年 ねん にアッバース朝 あさ のカリフ からイエメン支配 しはい の承認 しょうにん を得 え て名実 めいじつ ともに独立 どくりつ した。マンスール1世 せい を継 つ いだムザッファル1世 せい がラスール朝 あさ の最盛 さいせい 期 き とされている。ラスール朝 あさ は国際 こくさい 貿易 ぼうえき の一大 いちだい 中継 ちゅうけい 地 ち として栄 さか えたが、たびたび内紛 ないふん が発生 はっせい した。特 とく に第 だい 12代 だい スルターンの死後 しご は5人 にん のスルターンが立 た って抗 こう 争 そう を繰 く り広 ひろ げたため分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい となり、その中 なか でターヒル家 か が台頭 たいとう した。1454年 ねん に第 だい 17代 だい スルターンであるムアイヤド2世 せい がターヒル家 か に身柄 みがら を確保 かくほ されたことでラスール朝 あさ は滅亡 めつぼう し、ターヒル家 か によるターヒル朝 あさ が成立 せいりつ した。
9世紀 せいき の初 はじ め、正統 せいとう カリフ時代 じだい に始 はじ まり、西 にし はイベリア半島 はんとう のピレネー山脈 さんみゃく 、東 ひがし はヒマラヤ山脈 ひまらやさんみゃく に至 いた ったムスリムによる征服 せいふく 活動 かつどう が停止 ていし したことにより、地中海 ちちゅうかい 世界 せかい においてアッバース朝 あさ とビザンツ帝国 ていこく の勢力 せいりょく が均衡 きんこう した。また、イベリア半島 はんとう ではアブド・アッラフマーン1世 せい のもとで後 こう ウマイヤ朝 あさ の基礎 きそ が整 ととの えられた。こうしたことなどを要因 よういん として、紅海 こうかい を経由 けいゆ した交易 こうえき が盛 さか んになり、イエメンは地中海 ちちゅうかい 世界 せかい とインド洋 いんどよう 世界 せかい の重要 じゅうよう な結節 けっせつ 点 てん となった。なお、イエメンとはマッカ (メッカ)以南 いなん の南西 なんせい アラビアを広 ひろ く指 さ す単語 たんご であり、時代 じだい や史料 しりょう によって変動 へんどう はあるものの、ほぼ現在 げんざい のイエメン共和 きょうわ 国 こく の領域 りょういき を示 しめ している。
1169年 ねん にサラーフッディーン がザンギー朝 あさ の実権 じっけん を握 にぎ ったことに始 はじ まるアイユーブ朝 あさ にとって、紅海 こうかい 経由 けいゆ の交易 こうえき 路 ろ の安全 あんぜん を確保 かくほ することは喫緊 きっきん の課題 かだい であった。そのため、サラーフッディーンは1173年 ねん に兄 あに のトゥーラーン・シャー (英語 えいご 版 ばん ) が率 ひき いるテュルク・クルド系 けい で構成 こうせい される部隊 ぶたい をイエメンに派遣 はけん した。当時 とうじ のイエメンにはマフディー朝 あさ やズライゥ朝 あさ 、ハムダーン朝 あさ などの地方 ちほう 政権 せいけん が割拠 かっきょ していたが、アイユーブ朝 ちょう 軍 ぐん はそれらを打 う ち破 やぶ り、ザイド派 は 勢力 せいりょく が支配 しはい していた北部 ほくぶ を除 のぞ くイエメンの支配 しはい を確立 かくりつ した。これによって成立 せいりつ したイエメン・アイユーブ朝 あさ は、アイユーブ一族 いちぞく の者 もの をスルターンとし、先行 せんこう する諸 しょ 王朝 おうちょう が構築 こうちく していた支配 しはい 体制 たいせい とアイユーブ朝 あさ の行政 ぎょうせい 機構 きこう を組 く み合 あ わせてイエメンを統治 とうち した。
ラスール家 か がイエメンに流入 りゅうにゅう した時期 じき については2つの説 せつ がある。1つ目 め は、トゥーラーン・シャーとともに1173年 ねん に侵攻 しんこう したという説 せつ であり、2つ目 め は、1183年 ねん に流入 りゅうにゅう したという説 せつ である。いずれにせよ、ラスール家 か はアイユーブ朝 あさ のスルターンのアミールとしてイエメンに流入 りゅうにゅう した。
ラスール家 か はムハンマド・ブン・ハールーン を始祖 しそ とする一族 いちぞく である。同家 どうけ の出自 しゅつじ が南 みなみ アラブ系 けい だとする史書 ししょ も在 あ るが、そのほかの史料 しりょう や現代 げんだい の研究 けんきゅう から、同家 どうけ はテュルク系 けい だと考 かんが えられている。ラスール(アラビア語 ご : رسول )とはアラビア語 ご で使徒 しと を意味 いみ し、ムハンマド・ブン・ハールーンのあだ名 な に由来 ゆらい する。
ラスール朝 あさ の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
イエメン・アイユーブ朝 あさ の6代目 だいめ スルターンであるマスウード・ユースフはヌール・アッディーン(後 ご のマンスール1世 せい )に厚 あつ い信頼 しんらい を寄 よ せていた。1228年 ねん または1229年 ねん (ヒジュラ暦 れき 626年 ねん )、新 あら たな任地 にんち に移 うつ ることとなったマスウードは、次 つぎ のスルターンが派遣 はけん されるまでの代行 だいこう 者 しゃ としてヌール・アッディーンを指名 しめい した。しかし、マスウードは道中 どうちゅう で死去 しきょ し、また、次 つぎ のスルターンは派遣 はけん されてこなかった。そのため、この1229年 ねん にラスール朝 あさ が成立 せいりつ したとされている。ヌール・アッディーンはこの年 とし からマンスールと名乗 なの るようになった[注釈 ちゅうしゃく 1] 。マンスール1世 せい は外 そと 向 む きにはアイユーブ朝 あさ のカリフに忠誠 ちゅうせい を示 しめ していたが、1233年 ねん には独自 どくじ に貨幣 かへい の鋳造 ちゅうぞう を始 はじ めた。1235年 ねん にアッバース朝 あさ のカリフであるムスタンスィル よりイエメン支配 しはい の承認 しょうにん を受 う け、これによってラスール朝 あさ は名実 めいじつ ともに独立 どくりつ した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
ラスール朝 あさ の当初 とうしょ の領域 りょういき はアイユーブ朝 あさ 時代 じだい に支配 しはい した、紅海 こうかい 沿 ぞ いの平原 へいげん であるティハーマ と南 みなみ イエメンだった。マンスール1世 せい は南部 なんぶ の山岳 さんがく 地帯 ちたい のタイッズ から北部 ほくぶ のサナア に至 いた るまで支配 しはい 地域 ちいき を広 ひろ げ、また、アイユーブ朝 あさ が十字軍 じゅうじぐん の対処 たいしょ に追 お われている隙 すき をついてヒジャーズ に派兵 はへい し、1241年 ねん または1242年 ねん にはマッカ からアイユーブ朝 あさ の勢力 せいりょく を排除 はいじょ した。この際 さい にマンスール1世 せい はマッカのマスジド・ハラーム の西側 にしがわ にマドラサ を建設 けんせつ した。このほか、マンスール1世 せい はマディーナ の外港 がいこう であるヤンブゥを支配 しはい した。
1249年 ねん または1250年 ねん 、マンスール1世 せい はタイッズの北 きた にあるジャナドにおいて、自 みずか らの甥 おい の差 さ し金 がね によって護衛 ごえい であるマムルーク に殺害 さつがい された。マンスール1世 せい の3人 にん の息子 むすこ の間 あいだ では激 はげ しい後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いが起 お こり、ムザッファル1世 せい が2代目 だいめ スルターンとなった。
ムザッファル1世 せい の治世 ちせい [ 編集 へんしゅう ]
ムザッファル1世 せい の治世 ちせい はラスール朝 あさ における最盛 さいせい 期 き とされている。ムザッファル1世 せい の初期 しょき の治世 ちせい は、マンスール1世 せい が放置 ほうち していたティハーマと南 みなみ イエメンの支配 しはい を再 ふたた び確立 かくりつ することに費 つい やされた。その後 ご 、ムザッファル1世 せい は、北 きた はヒジャーズ、東 ひがし はハドラマウト まで支配 しはい し、さらに東 ひがし にあり、乳香 にゅうこう の産地 さんち として名高 なだか く海上 かいじょう 交易 こうえき ルートの重要 じゅうよう な結節 けっせつ 点 てん としても栄 さか えていたズファールに派兵 はへい した。当時 とうじ のズファールはハブーディー朝 あさ と呼 よ ばれる王朝 おうちょう の首都 しゅと であった。ムザッファルは1279年 ねん の夏 なつ にズファールに侵攻 しんこう を開始 かいし した。ハブーディー朝 あさ はスルターンであったサーリムのもとで激 はげ しく抵抗 ていこう したが敗北 はいぼく し、サーリムは処刑 しょけい された。こうした広域 こういき の支配 しはい を確立 かくりつ したことによりラスール朝 あさ は運輸 うんゆ ・貿易 ぼうえき における影響 えいきょう 力 りょく を得 え た。インド洋 いんどよう やペルシア湾 わん 、中国 ちゅうごく の商人 しょうにん や有力 ゆうりょく 者 しゃ はラスール朝 あさ に相次 あいつ いで使者 ししゃ を派遣 はけん して通商 つうしょう 関係 かんけい の強化 きょうか に努 つと めた。
ムザッファル1世 せい の治世 ちせい においてタイッズが新 あら たにラスール朝 あさ の首都 しゅと となった。
ムザッファル1世 せい 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
アシュラフ1世 せい が王位 おうい に就 つ く前 まえ に作成 さくせい したアストロラーベ 。アシュラフ1世 せい は様々 さまざま な学術 がくじゅつ 的 てき 文書 ぶんしょ を残 のこ しており、その中 なか にはアストロラーベの作成 さくせい に関 かん するものもある。
1295年 ねん 、死期 しき を悟 さと ったムザッファル1世 せい は息子 むすこ であるアシュラフ1世 せい を次期 じき スルターンに指名 しめい してスルターン位 い を移譲 いじょう した。ムザッファル1世 せい は同年 どうねん に死去 しきょ した。ムザッファル1世 せい の死去 しきょ の報 ほう を聞 き いたアシュラフ1世 せい の兄弟 きょうだい であるムアイヤド1世 せい は、スルターン位 い を狙 ねら ってアシュラフ1世 せい を攻撃 こうげき した。アシュラフ1世 せい はこれを撃退 げきたい し、ムアイヤド1世 せい は幽閉 ゆうへい された。
アシュラフ1世 せい は1296年 ねん 、在位 ざいい 2年 ねん 目 め にして急死 きゅうし した。アシュラフ1世 せい の息子 むすこ であるアーディルとナースィルはそれぞれ遠方 えんぽう に滞在 たいざい していたため、幽閉 ゆうへい されていたムアイヤド1世 せい が第 だい 4代 だい スルターンに即位 そくい した。これ以降 いこう 、ムアイヤド1世 せい の直系 ちょっけい の子孫 しそん がラスール朝 あさ のスルターンとなる。ムアイヤド1世 せい の治世 ちせい にはザイド派 は 勢力 せいりょく の攻撃 こうげき やクルド人 じん などによる反乱 はんらん 、また、兄弟 きょうだい であるマスウード1世 せい や、前述 ぜんじゅつ のナースィルによる謀反 むほん が発生 はっせい するなど政治 せいじ 的 てき な混乱 こんらん が発生 はっせい した。しかし、経済 けいざい は安定 あんてい 的 てき な成長 せいちょう を続 つづ けた。
ムアイヤド1世 せい の後 のち を継 つ いだムジャーヒド は即位 そくい 後 ご から叔父 おじ にあたるマンスールやその息子 むすこ であるザーヒルとスルターン位 い を巡 めぐ って対立 たいりつ した。ザーヒルは12年 ねん に渡 わた ってティハーマを支配 しはい したため、この間 あいだ 、ラスール朝 あさ は2つに分割 ぶんかつ された。この内紛 ないふん に誘発 ゆうはつ されてラスール朝 あさ の各地 かくち で部族 ぶぞく 衝突 しょうとつ が発生 はっせい した。これを受 う けてムジャーヒドはマムルーク朝 あさ のスルターンであるナースィルに援軍 えんぐん の派遣 はけん を要請 ようせい した。イエメンへの勢力 せいりょく 拡大 かくだい を狙 ねら っていたナースィルはイエメンに向 む けてマムルークとアラブの混合 こんごう 部隊 ぶたい を派遣 はけん した。マムルーク朝 ちょう 軍 ぐん は1325年 ねん にザビードに侵入 しんにゅう した。これを知 し ったザビードの住民 じゅうみん やザーヒルはムジャーヒドに降伏 ごうぶく し、ラスール朝 あさ は統一 とういつ へ向 む かった。
マムルーク朝 あさ 軍 ぐん によってイエメンが支配 しはい されることを恐 おそ れたムジャーヒドは、彼 かれ らへの糧食 りょうしょく や物資 ぶっし の提供 ていきょう を拒 こば んだ。これを受 う けてマムルーク朝 ちょう 軍 ぐん は各 かく 都市 とし で略奪 りゃくだつ を行 おこな ったが、1325年 ねん 8月 がつ にはマッカに撤退 てったい した。
内紛 ないふん と滅亡 めつぼう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 12代 だい スルターンであるアシュラフ4世 せい 以降 いこう 、5人 にん のスルターンが次々 つぎつぎ に擁立 ようりつ され、激 はげ しい内部 ないぶ 抗 こう 争 そう を繰 く り広 ひろ げたため、ラスール朝 あさ は分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい となった。1442年 ねん 、第 だい 13代 だい スルターンにはムザッファル2世 せい が立 た ったが、同年 どうねん にはアブド(後述 こうじゅつ )によってナースィル2世 せい が第 だい 15代 だい スルターンとして担 かつ がれたほか、翌年 よくねん の1443年 ねん にはザビードの守備 しゅび 隊 たい や住民 じゅうみん に擁立 ようりつ されて第 だい 10代スルターンであるアシュラフ3世 せい の息子 むすこ であるマスウード が第 だい 16代 だい スルターンとなった。ムザッファル2世 せい とマスウードは武力 ぶりょく を用 もち いた内紛 ないふん を開始 かいし し、首都 しゅと であるタイッズを巡 めぐ って1448年 ねん まで抗 こう 争 そう を繰 く り広 ひろ げた。ムザッファル2世 せい とマスウードの内紛 ないふん による混乱 こんらん と弱体 じゃくたい 化 か を嫌悪 けんお したザビードの守備 しゅび 軍 ぐん らは1451年 ねん 、新 あら たにムアイヤド2世 せい を第 だい 17代 だい スルターンとして擁立 ようりつ した。しかし、その後 ご 、ザビードの有力 ゆうりょく 者 しゃ は、当時 とうじ アデンを占領 せんりょう していた、南部 なんぶ 山岳 さんがく 地帯 ちたい 出身 しゅっしん の部族 ぶぞく であるターヒル家 か に帰順 きじゅん した。ターヒル家 か は急速 きゅうそく にイエメンの都市 とし を制圧 せいあつ した。
1454年 ねん 、ムアイヤド2世 せい はアデンにてターヒル家 か によって身柄 みがら を確保 かくほ され、全 すべ ての所持 しょじ 品 ひん を没収 ぼっしゅう された。これによってラスール朝 あさ は滅亡 めつぼう し、ターヒル家 か によるターヒル朝 あさ が成立 せいりつ した。ムアイヤド2世 せい にはわずかな武器 ぶき と馬 うま が与 あた えられてマッカへ亡命 ぼうめい し、1466年 ねん 、そこで死去 しきょ した。
1173年 ねん または1183年 ねん - ラスール家 か がイエメンに流入 りゅうにゅう
1229年 ねん - ヌール・アッディーン(マンスール1世 せい )によってラスール朝 あさ が成立 せいりつ
1235年 ねん - アッバース朝 あさ カリフよりイエメン支配 しはい の承認 しょうにん を得 え たことによりラスール朝 あさ が名実 めいじつ ともに独立 どくりつ
1249年 ねん または1250年 ねん - マンスール1世 せい が暗殺 あんさつ される
1279年 ねん - ムザッファル1世 せい が海上 かいじょう 交易 こうえき ルートの重要 じゅうよう な結節 けっせつ 点 てん であるズファールを征服 せいふく
1321年 ねん - ムジャーヒドが即位 そくい 。ムジャーヒドの即位 そくい を認 みと めない勢力 せいりょく との間 あいだ で争 あらそ いが起 お こり、分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい になる
1325年 ねん - マムルーク朝 あさ 軍 ぐん によるイエメン侵攻 しんこう 。これによって分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい が収束 しゅうそく
1439年 ねん - アシュラフ4世 せい が即位 そくい 。これ以降 いこう 、5人 にん のスルターンが立 た ちラスール朝 あさ は分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい になる
1454年 ねん - ムアイヤド2世 せい がターヒル家 か に確保 かくほ されたことによりラスール朝 あさ が滅亡 めつぼう 。ターヒル朝 あさ が成立 せいりつ
政府 せいふ ・行政 ぎょうせい [ 編集 へんしゅう ]
ラスール朝 あさ の君主 くんしゅ はスルターンであった。第 だい 2代 だい スルターンであるムザッファル1世 せい は1258年 ねん にアッバース朝 あさ のカリフであるムスタスィムがフレグ 率 ひき いるモンゴル軍 ぐん に殺害 さつがい されると自 みずか らをカリフと称 しょう するようになったが、ムザッファル1世 せい 以降 いこう のスルターンが積極 せっきょく 的 てき にカリフを名乗 なの った形跡 けいせき はない。ラスール朝 あさ のスルターンたちの墓 はか は、廟 びょう のような形式 けいしき を取 と らず、自 みずか らが設立 せつりつ したマドラサの内部 ないぶ に作 つく られた。墓 はか は化粧 けしょう しっくいや金箔 きんぱく で装飾 そうしょく された豪華 ごうか なものだった。ラスール家 か の娘 むすめ たちは主 おも に学者 がくしゃ と結婚 けっこん させられたが、時 とき には他 た の部族 ぶぞく と政略 せいりゃく 結婚 けっこん をすることがあった。
行政 ぎょうせい ・宮廷 きゅうてい 機関 きかん [ 編集 へんしゅう ]
ラスール朝 あさ の行政 ぎょうせい 機関 きかん や宮廷 きゅうてい 機関 きかん は、イエメン・アイユーブ朝 あさ など、ラスール朝 あさ に先行 せんこう する諸 しょ 王朝 おうちょう のものが継承 けいしょう された。例 たと えば、食材 しょくざい の分配 ぶんぱい に関与 かんよ した宮廷 きゅうてい 組織 そしき であり、「館 かん 」を意味 いみ する「ハーナ」という機関 きかん が挙 あ げられる。ラスール朝 あさ の官僚 かんりょう 機構 きこう は、アイユーブ朝 あさ の支配 しはい 体制 たいせい を継承 けいしょう したマムルーク朝 あさ から影響 えいきょう を受 う けたという説 せつ があるが、馬場 ばば (2017) は、ラスール朝 あさ の基盤 きばん となる機構 きこう はマムルーク朝 あさ 成立 せいりつ 以前 いぜん に完成 かんせい していたとしている。また、ラスール朝 あさ に存在 そんざい する宮廷 きゅうてい 機関 きかん も存在 そんざい した。例 たと えば、応接 おうせつ 館 かん と呼称 こしょう される、宮廷 きゅうてい 訪問 ほうもん 者 しゃ への対応 たいおう をする機関 きかん が存在 そんざい した。
ラスール朝 あさ の宮廷 きゅうてい に従事 じゅうじ していた去勢 きょせい された奴隷 どれい であるハーディムのうち、高位 こうい のものはタワーシーと呼 よ ばれた。タワーシーはアミールとして軍 ぐん を率 ひき いたほか、スルターンの代理 だいり を務 つと めた。また、ラスール家 か の家内 かない を監督 かんとく するズィマームという役職 やくしょく を務 つと めることもあった。タワーシーはこうした責務 せきむ と引 ひ き換 か えにイクター を授与 じゅよ されるといった恩恵 おんけい を享受 きょうじゅ した。また、タワーシーはラスール朝 あさ の各地 かくち に様々 さまざま な建築 けんちく 物 ぶつ を建設 けんせつ した[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
マラーキブ・アッ=ディーワーン (marākib al-dīwān) と呼 よ ばれたラスール朝 あさ の行政 ぎょうせい 機関 きかん は、アデンとエジプトの港 みなと であるアイダーブとの間 あいだ で物資 ぶっし や人々 ひとびと を運 はこ ぶための艦隊 かんたい を有 ゆう していた[注釈 ちゅうしゃく 4] 。また、後述 こうじゅつ するように、ラスール朝 あさ は商人 しょうにん の船 ふね を海賊 かいぞく から守 まも るという目的 もくてき で、ガレー船 せん で構成 こうせい されるシャワーニー船団 せんだん という海軍 かいぐん 戦力 せんりょく を有 ゆう していた。シャワーニー船団 せんだん はムザッファル1世 せい の時代 じだい にズファールを攻略 こうりゃく する際 さい にも用 もち いられた。
ラスール朝 あさ には司法 しほう 機構 きこう としてシャーフィイー学派 がくは の大 だい カーディー が置 お かれ、その下 した にカーディーやハーキム が設置 せっち されていた[注釈 ちゅうしゃく 5] 。カーディーの任免 にんめん は大 だい カーディーの職務 しょくむ だったが、2代 だい スルターンであるムザッファルの治世 ちせい には大 だい カーディーではなく、ウラマー の名門 めいもん であるイムラーン家 か によってカーディーが任命 にんめい されていた。ムザッファルの治世 ちせい においてイムラーン家 か は司法 しほう で勢力 せいりょく を伸 の ばし、中央 ちゅうおう 官職 かんしょく で特権 とっけん 的 てき な地位 ちい を占 し めたが、これによって同家 どうけ による不正 ふせい が発生 はっせい し、ラスール朝 あさ の司法 しほう に混乱 こんらん が生 しょう じた。しかし、ムザッファルの息子 むすこ であり第 だい 3代 だい スルターンであるアシュラフの死後 しご 、同 おな じくウラマーの名門 めいもん であるムハンマド・ブン・ウマル家 か が台頭 たいとう したことを一因 いちいん としてイムラーン家 か は失脚 しっきゃく した。その後 ご 、ムハンマド・ブン・ウマル家 か も、第 だい 4代 だい スルターンであるムアッヤドの転覆 てんぷく を謀 はか って失敗 しっぱい したことで失脚 しっきゃく した。
ラスール朝 あさ は、元々 もともと イエメンに住 す んでいた人々 ひとびと が多数 たすう 派 は を占 し めていたが、アイユーブ朝 あさ の侵攻 しんこう 以来 いらい 、イエメンには北方 ほっぽう からテュルク ・クルド系 けい が、また、東 ひがし アフリカからヌビア系 けい 、エチオピア系 けい の人々 ひとびと が流入 りゅうにゅう していた。アフリカ系 けい とイエメン人 じん との混血 こんけつ が進 すす んだほか、クルド系 けい は、イエメン社会 しゃかい との同化 どうか が進 すす んだため1388年 ねん 以降 いこう の史料 しりょう には登場 とうじょう しなくなった。
ラスール朝 あさ においてはザビード 、タイッズとアデン が交通 こうつう の要衝 ようしょう となっており、ラスール朝 あさ を移動 いどう するラクダ引 び きの起点 きてん ならびに終点 しゅうてん となっていた。ザビードは紅海 こうかい 沿岸 えんがん に広 ひろ がる平原 へいげん であるティハーマに位置 いち する都市 とし で、古 ふる くからマッカ巡礼 じゅんれい への中継 ちゅうけい 都市 とし として用 もち いられていた[注釈 ちゅうしゃく 6] 。特 とく に、ザビードから北 きた へ向 む かう街道 かいどう は「スルターンの道 みち 」と呼 よ ばれていた。タイッズは南部 なんぶ の高原 こうげん 地域 ちいき に位置 いち しており、ラスール王家 おうけ の居住 きょじゅう 地 ち が置 お かれていた。また、アデンは古 ふる くから国際 こくさい 貿易 ぼうえき 港 こう として機能 きのう しており、商業 しょうぎょう 活動 かつどう を中心 ちゅうしん とする都市 とし だった。
ラスール朝 あさ のもとでは男性 だんせい を指 さ すアブドや去勢 きょせい された男性 だんせい を指 さ すハーディム、女性 じょせい を指 さ すジャーリヤと呼 よ ばれる奴隷 どれい が存在 そんざい した。こうした奴隷 どれい はエチオピア やザンジュ からラスール朝 あさ へもたらされた。2021年 ねん 現在 げんざい のイエメンにはアフダーム と呼 よ ばれる被 ひ 差別 さべつ 民 みん が存在 そんざい する。アフダームは多数 たすう 派 は のイエメン人 じん と比 くら べて肌 はだ の色 いろ が黒 くろ いほかアフリカ系 けい の顔立 かおだ ちをしており、こうした奴隷 どれい がアフダームになったという説 せつ がある[注釈 ちゅうしゃく 7] 。ラスール家 か や諸 しょ 部族 ぶぞく が有 ゆう していた男性 だんせい 奴隷 どれい であるアブドはしだいに特定 とくてい の集団 しゅうだん となった。アブドは農耕 のうこう してラスール朝 あさ に税 ぜい を納 おさ め、また、ラスール朝 あさ からは穀物 こくもつ が支給 しきゅう された。アブドは軍事 ぐんじ 力 りょく を有 ゆう してラスール朝 あさ に協力 きょうりょく した。しかし、第 だい 5代 だい ムジャーヒドとザーヒルとの間 あいだ でラスール朝 あさ が内紛 ないふん 状態 じょうたい になった際 さい にはザーヒル側 がわ につくなどラスール朝 あさ に反抗 はんこう することもあった。
アデンで鋳造 ちゅうぞう されたラスール朝 あさ の貨幣 かへい 。魚 さかな が刻印 こくいん されている。
全 すべ てのスルターンが貨幣 かへい を製造 せいぞう した。貨幣 かへい は主 おも にアデンやタイッズ、ザビード、そしてティハーマにあり、マッカ巡礼 じゅんれい 道 どう の宿駅 しゅくえき として栄 さか えていた都市 とし であるマフジャム で鋳造 ちゅうぞう された。ラスール朝 あさ の貨幣 かへい には生 い き物 もの が刻印 こくいん されており、鋳造 ちゅうぞう された場所 ばしょ によって刻印 こくいん が異 こと なる。アデンで鋳造 ちゅうぞう されたものには魚 さかな が、タイッズで鋳造 ちゅうぞう されたものには座 すわ った人間 にんげん が、ザビードで鋳造 ちゅうぞう されたものには鳥 とり が、マフジャムで鋳造 ちゅうぞう されたものにはライオンが刻印 こくいん された。
ラスール朝 あさ はインド洋 いんどよう 世界 せかい と地中海 ちちゅうかい 世界 せかい を結 むす ぶ結節 けっせつ 点 てん にあったことを利用 りよう して、支配 しはい 下 か にある主要 しゅよう な港湾 こうわん では入港 にゅうこう 税 ぜい を徴収 ちょうしゅう したほか、輸入 ゆにゅう 品目 ひんもく ごとに細 こま かく規定 きてい された関税 かんぜい 、仲介 ちゅうかい 税 ぜい 、また、また、カーリミー商人 しょうにん など商人 しょうにん の船 ふね を守 まも るという目的 もくてき で設立 せつりつ された海軍 かいぐん 戦力 せんりょく であるシャワーニー船団 せんだん の維持 いじ ・運営 うんえい という名目 めいもく で、商人 しょうにん からシャワーニー税 ぜい を徴収 ちょうしゅう した。こうした税制 ぜいせい はアイユーブ朝 あさ のものが踏襲 とうしゅう された。このほかにも農業 のうぎょう 地帯 ちたい からはハラージュが徴収 ちょうしゅう された。ただし、王族 おうぞく や高官 こうかん 、カーディー、ファキーフ の私有地 しゆうち や遺産 いさん は免税 めんぜい 対象 たいしょう となっていた。
イエメンはアラビア半島 はんとう のなかで唯一 ゆいいつ 可耕地 かこうち をもつ地域 ちいき であり、降雨 こうう と灌漑 かんがい システムの発達 はったつ によって「緑 みどり のイエメン」として知 し られていた。なかでもザビードを中心 ちゅうしん としたティハーマ は農業 のうぎょう 生産 せいさん 性 せい が高 たか かった。ザビードの周辺 しゅうへん ではザクロやナツメヤシ、ショウガなどが生産 せいさん されていた。それらは一度 いちど ザビードに集 あつ められてから各地 かくち に輸送 ゆそう されていた。また、タイッズの周辺 しゅうへん ではサトウキビが生産 せいさん 、加工 かこう されていたほか、タイッズの北方 ほっぽう にあるジャナドでは肉 にく や香料 こうりょう 、香辛料 こうしんりょう が供給 きょうきゅう されていた。
ラスール朝 あさ はイエメンからヒジャーズ に至 いた るまでの広域 こういき な支配 しはい を確立 かくりつ しており、国際 こくさい 運輸 うんゆ や貿易 ぼうえき 活動 かつどう に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした。ラスール朝 あさ はカリカット やクーラム・マライ といったインドの諸 しょ 都市 とし 、キーシュ といったペルシア湾 わん の港 みなと などとの通商 つうしょう 関係 かんけい を深 ふか め、国際 こくさい 運輸 うんゆ ・貿易 ぼうえき の一大 いちだい 中継 ちゅうけい 地 ち となった。インド洋 いんどよう ・地中海 ちちゅうかい 間 あいだ の貿易 ぼうえき に大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を及 およ ぼすようになると共 とも に、当時 とうじ 新興 しんこう 勢力 せいりょく として台頭 たいとう していたカーリミー商人 しょうにん との間 あいだ に緊密 きんみつ な連携 れんけい が築 きず かれ、彼 かれ らから安全 あんぜん 保障 ほしょう 費用 ひよう としてシャワーニー税 ぜい (保安 ほあん 税 ぜい / al-shawānī)を徴収 ちょうしゅう することと引 ひ き換 か えに、支配 しはい 下 か にある主 しゅ 要港 ようこう の警備 けいび ・監督 かんとく 官 かん 、徴税 ちょうぜい 業務 ぎょうむ の長官 ちょうかん にカーリミー商人 しょうにん の代表 だいひょう 者 しゃ を任命 にんめい し、またワズィール (宰相 さいしょう )職 しょく にも登用 とうよう した。13世紀 せいき から14世紀 せいき にかけてカーリミー商人 しょうにん によるエジプト・イエメン・インド間 あいだ の貿易 ぼうえき が最盛 さいせい 期 き を迎 むか え、この時期 じき がラスール朝 あさ にとっても最 もっと も経済 けいざい が安定 あんてい した時期 じき となった。アデン には多数 たすう のインド人 じん 商人 しょうにん たちも集 あつ まり、イブン・バットゥータ はアデンに出入 でい りするインド商船 しょうせん の数 かず の多 おお さを記録 きろく している。当時 とうじ のアデンはまた、アラブ産 さん の馬 うま をインドに輸出 ゆしゅつ する重要 じゅうよう な中継 ちゅうけい 拠点 きょてん であった。ナースィル1世 せい の治世 ちせい である1418年 ねん から1419年 ねん にかけては明 あきら の鄭 てい 和 かず が率 ひき いる艦隊 かんたい がラスール朝 あさ のアデンを訪 おとず れ、中国 ちゅうごく からの贈 おく り物 もの が献上 けんじょう された。
ムザッファル1世 せい によって建造 けんぞう されたムザッファル・モスク。複数 ふくすう のドームが設置 せっち されている。
ラスール朝 あさ はスンナ派 は の王朝 おうちょう だった。200年 ねん に渡 わた るラスール朝 あさ の支配 しはい によってイエメン南部 なんぶ やティハーマにはスンナ派 は が定着 ていちゃく した。イエメン北部 ほくぶ にはシーア派 は の分派 ぶんぱ であるザイド派 は が広 ひろ がっていた。ラスール朝 あさ の時代 じだい 、ザイド派 は は大 おお いに伸長 しんちょう しており、ラスール朝 あさ はこれに対抗 たいこう してスンナ派 は の維持 いじ と拡大 かくだい を図 はか っていた。
ラスール朝 あさ では積極 せっきょく 的 てき に建設 けんせつ 事業 じぎょう が行 おこな われており、モスク はマドラサに次 つ いで多 おお く建設 けんせつ された。ラスール朝 あさ において建設 けんせつ されたモスクは、複数 ふくすう のドームが設置 せっち されるというアイユーブ朝 あさ の建築 けんちく 様式 ようしき が継承 けいしょう されたものだった。ラスール朝 あさ の影響 えいきょう 下 か において、複数 ふくすう のドームが設置 せっち される建築 けんちく 様式 ようしき のモスクがイエメンで広 ひろ がった。
ラスール朝 あさ の歴代 れきだい のスルターンの多 おお くは学者 がくしゃ であった。彼 かれ らは幅広 はばひろ い分野 ぶんや に興味 きょうみ を示 しめ し、学問 がくもん を奨励 しょうれい していた。例 たと えば、第 だい 3代 だい アシュラフ1世 せい は天文学 てんもんがく や暦法 れきほう 、農業 のうぎょう についての著作 ちょさく を残 のこ しているほか、法学 ほうがく 者 しゃ であった第 だい 6代 だい アフダルは農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ についての著作 ちょさく を残 のこ している。例 たと えば、ザビードで教鞭 きょうべん を取 と っていたウラマーが法学 ほうがく 書 しょ を作成 さくせい した際 さい には48,000ディルハム の報酬 ほうしゅう がスルターンから与 あた えられた。他 ほか にも、辞書 じしょ 学者 がくしゃ であったマジドッディーン・フィールーザーバーディー がスルターンに招聘 しょうへい されてイエメンに到着 とうちゃく した際 さい には4,000ディルハムが与 あた えられた[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
ラスール朝 あさ においては様々 さまざま な建設 けんせつ 事業 じぎょう が行 おこな われたが、なかでも高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん であるマドラサ が最 もっと も多 おお く、69校 こう が建設 けんせつ された。これはラスール朝 あさ での建設 けんせつ 事業 じぎょう の過半数 かはんすう を占 し めている。こうしたマドラサはワクフ によって運営 うんえい された。多 おお くのマドラサを建設 けんせつ した理由 りゆう について、栗山 くりやま (1994) は、外国 がいこく 人 じん 勢力 せいりょく だったラスール朝 あさ がイエメンの人々 ひとびと に対 たい して自分 じぶん たちの権威 けんい を認 みと めさせるためであり、またシーア派 は の分派 ぶんぱ であるザイド派 は に対抗 たいこう してスンナ派 は 勢力 せいりょく の維持 いじ と拡大 かくだい を図 はか ったためであると推測 すいそく している。イエメン内 ない に限 かぎ らず、1241年 ねん または1242年 ねん にマッカからアイユーブ朝 あさ 勢力 せいりょく を追放 ついほう した際 さい には、初代 しょだい のマンスール1世 せい はマッカにシャーフィイー学派 がくは のマドラサを設立 せつりつ した。このマドラサは北 きた アフリカからマッカを訪 おとず れた巡礼 じゅんれい 者 しゃ より称賛 しょうさん を受 う けた。また、第 だい 2代 だい ムザッファル1世 せい や、第 だい 5代 だい ムジャーヒド、第 だい 6代 だい アフダルもマッカにマドラサを設立 せつりつ した。
馬場 ばば (2017) をもとに作成 さくせい 。
マンスール1世 せい (在位 ざいい :1229年 ねん - 1249年 ねん または1250年 ねん )
ムザッファル1世 せい (在位 ざいい :1249年 ねん または1250年 ねん - 1295年 ねん )
アシュラフ1世 せい (在位 ざいい :1295年 ねん - 1296年 ねん )
ムアイヤド1世 せい (在位 ざいい :1296年 ねん - 1321年 ねん )
ムジャーヒド (在位 ざいい :1321年 ねん - 1363年 ねん )
アフダル (在位 ざいい :1363年 ねん - 1377年 ねん )
アシュラフ2世 せい (在位 ざいい :1377年 ねん - 1400年 ねん )
ナースィル1世 せい (在位 ざいい :1400年 ねん - 1424年 ねん )
マンスール2世 せい (在位 ざいい :1424年 ねん - 1427年 ねん
アシュラフ3世 せい (在位 ざいい :1427年 ねん - 1428年 ねん )
ザーヒル (在位 ざいい :1428年 ねん - 1439年 ねん )
アシュラフ4世 せい (在位 ざいい :1439年 ねん - 1442年 ねん )
ムザッファル2世 せい (在位 ざいい :1442年 ねん - ?)
ムファッダル (在位 ざいい :1442年 ねん )
ナースィル2世 せい (在位 ざいい :1442年 ねん - 1443年 ねん )
マスウード (在位 ざいい :1443年 ねん - 1454年 ねん )
ムアイヤド2世 せい (在位 ざいい :1451年 ねん - 1454年 ねん )
日本 にっぽん イスラム協会 きょうかい (2002) ならびに馬場 ばば (2017) をもとに作成 さくせい 。
^ 以下 いか 、マンスール1世 せい と表記 ひょうき する。
^ この時代 じだい にはアッバース朝 あさ カリフは名目 めいもく 上 じょう の存在 そんざい であったが、ムスリムの間 あいだ では宗教 しゅうきょう 的 てき 威信 いしん が保 たも たれ、また、イスラーム法理 ほうり 論 ろん 家 か はカリフの権威 けんい を認 みと めていたため、独立 どくりつ 君主 くんしゅ にはカリフの承認 しょうにん が必要 ひつよう だった。
^ 例 たと えば、マンスール1世 せい の姉妹 しまい のハーディムであったファーヒルという人物 じんぶつ は1230年 ねん 頃 ごろ にマドラサを建設 けんせつ した。このマドラサは建設 けんせつ から100年 ねん 経 た っても機能 きのう していたという。
^ アイザーブは11世紀 せいき から14世紀 せいき にかけて紅海 こうかい 交易 こうえき で栄 さか えた都市 とし である。しかし、14世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう は他 た の港 みなと が発展 はってん したことでアイザーブの重要 じゅうよう 性 せい は薄 うす れた。
^ ラスール朝 あさ の創設 そうせつ 者 しゃ であるマンスール1世 せい はもともとハナフィー学派 がくは であったが、夢 ゆめ で預言 よげん 者 しゃ ムハンマドに勧 すす められたとしてシャーフィイー学派 がくは に法学 ほうがく 派 は を変更 へんこう した。
^ イエメン道 どう と呼 よ ばれた巡礼 じゅんれい 道 どう はマッカへの主要 しゅよう な巡礼 じゅんれい 道 どう のひとつであり、東 ひがし アフリカやインド、東南 とうなん アジアから訪 おとず れた巡礼 じゅんれい 者 しゃ によって用 もち いられた。
^ 他 ほか にも、ヒムヤル王国 おうこく 時代 じだい にエチオピアから流入 りゅうにゅう した人々 ひとびと や、ラスール朝 あさ 以前 いぜん の諸 しょ 王朝 おうちょう による支配 しはい 下 か で流入 りゅうにゅう したアフリカ系 けい の人々 ひとびと に起源 きげん を求 もと める説 せつ があり、決定的 けっていてき なものはない。
^ 第 だい 3代 だい アシュラフ1世 せい の息子 むすこ であるアーディルに支払 しはら われた給与 きゅうよ は2,871ディナールであり、第 だい 2代 だい ムザッファル1世 せい につかえていたマムルークや料理人 りょうりにん など93人 にん に支払 しはら われた給与 きゅうよ の総額 そうがく は1,156.5ディナールだった。
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