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ラスールあさ

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ラスールあさ
アイユーブ朝 1229ねん - 1454ねん ターヒル朝 (イエメン)
ラスール朝の位置
1264ねんのラスールあさ支配しはい領域りょういき
宗教しゅうきょう イスラームスンナ
首都しゅと ザビード
タイッズ(ムザッファル1せいから)
スルターン
1229ねん - 1249ねん/1250ねん マンスール1せい
1249ねん/1250ねん - 1295ねんムザッファル1せい
1451ねん - 1454ねんムアイヤド2せい
変遷へんせん
成立せいりつ 1229ねん
名実めいじつともに独立どくりつ1235ねん
滅亡めつぼう1454ねん
通貨つうかディナール
現在げんざいイエメンの旗 イエメン

ラスールあさ (アラビア: بنو رسول‎) は、13世紀せいきから15世紀せいきにかけてイエメン支配しはいしたスンナイスラーム王朝おうちょうアイユーブあさつかえたテュルクけいアミールであるマンスール1せい創始そうししゃとする。

1229ねんにイエメンをおさめるアイユーブあさスルターン代理だいりとなったマンスール1せいはラスールあさ創始そうしする。そのそときにはアイユーブあさへの忠誠ちゅうせいしめしていたが、1235ねんアッバースあさカリフからイエメン支配しはい承認しょうにん名実めいじつともに独立どくりつした。マンスール1せいいだムザッファル1せいがラスールあさ最盛さいせいとされている。ラスールあさ国際こくさい貿易ぼうえき一大いちだい中継ちゅうけいとしてさかえたが、たびたび内紛ないふん発生はっせいした。とくだい12だいスルターンの死後しごは5にんのスルターンがってこうそうひろげたため分裂ぶんれつ状態じょうたいとなり、そのなかでターヒル台頭たいとうした。1454ねんだい17だいスルターンであるムアイヤド2せいがターヒル身柄みがら確保かくほされたことでラスールあさ滅亡めつぼうし、ターヒルによるターヒルあさ成立せいりつした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

背景はいけい[編集へんしゅう]

9世紀せいきはじめ、正統せいとうカリフ時代じだいはじまり、西にしイベリア半島はんとうピレネー山脈さんみゃくひがしヒマラヤ山脈ひまらやさんみゃくいたったムスリムによる征服せいふく活動かつどう停止ていししたことにより、地中海ちちゅうかい世界せかいにおいてアッバースあさビザンツ帝国ていこく勢力せいりょく均衡きんこうした[1][2]。また、イベリア半島はんとうではアブド・アッラフマーン1せいのもとでこうウマイヤあさ基礎きそととのえられた。こうしたことなどを要因よういんとして、紅海こうかい経由けいゆした交易こうえきさかんになり、イエメンは地中海ちちゅうかい世界せかいインド洋いんどよう世界せかい重要じゅうよう結節けっせつてんとなった[3]。なお、イエメンとはマッカ(メッカ)以南いなん南西なんせいアラビアをひろ単語たんごであり、時代じだい史料しりょうによって変動へんどうはあるものの、ほぼ現在げんざいのイエメン共和きょうわこく領域りょういきしめしている[4]

1169ねんサラーフッディーンザンギーあさ実権じっけんにぎったことにはじまるアイユーブあさにとって、紅海こうかい経由けいゆ交易こうえき安全あんぜん確保かくほすることは喫緊きっきん課題かだいであった。そのため、サラーフッディーンは1173ねんあにトゥーラーン・シャー英語えいごばんひきいるテュルク・クルドけい構成こうせいされる部隊ぶたいをイエメンに派遣はけんした。当時とうじのイエメンにはマフディーあさズライゥあさハムダーンあさなどの地方ちほう政権せいけん割拠かっきょしていたが、アイユーブちょうぐんはそれらをやぶり、ザイド勢力せいりょく支配しはいしていた北部ほくぶのぞくイエメンの支配しはい確立かくりつした。これによって成立せいりつしたイエメン・アイユーブあさは、アイユーブ一族いちぞくものをスルターンとし、先行せんこうするしょ王朝おうちょう構築こうちくしていた支配しはい体制たいせいとアイユーブあさ行政ぎょうせい機構きこうわせてイエメンを統治とうちした[5][6][7]

ラスールがイエメンに流入りゅうにゅうした時期じきについては2つのせつがある。1つは、トゥーラーン・シャーとともに1173ねん侵攻しんこうしたというせつであり、2つは、1183ねん流入りゅうにゅうしたというせつである。いずれにせよ、ラスールはアイユーブあさのスルターンのアミールとしてイエメンに流入りゅうにゅうした[8][9]

ラスールムハンマド・ブン・ハールーン始祖しそとする一族いちぞくである[8]同家どうけ出自しゅつじみなみアラブけいだとする史書ししょるが、そのほかの史料しりょう現代げんだい研究けんきゅうから、同家どうけはテュルクけいだとかんがえられている[10]。ラスール(アラビア: رسول‎)とはアラビア使徒しと意味いみ[11]、ムハンマド・ブン・ハールーンのあだ由来ゆらいする[8]

ラスールあさ成立せいりつ[編集へんしゅう]

イエメン・アイユーブあさの6代目だいめスルターンであるマスウード・ユースフはヌール・アッディーン(のマンスール1せい)にあつ信頼しんらいせていた[12][13]。1228ねんまたは1229ねん(ヒジュラれき626ねん)、あらたな任地にんちうつることとなったマスウードは、つぎのスルターンが派遣はけんされるまでの代行だいこうしゃとしてヌール・アッディーンを指名しめいした。しかし、マスウードは道中どうちゅう死去しきょし、また、つぎのスルターンは派遣はけんされてこなかった[8][12][13]。そのため、この1229ねんにラスールあさ成立せいりつしたとされている。ヌール・アッディーンはこのとしからマンスールと名乗なのるようになった[14][注釈ちゅうしゃく 1]。マンスール1せいそときにはアイユーブあさのカリフに忠誠ちゅうせいしめしていたが、1233ねんには独自どくじ貨幣かへい鋳造ちゅうぞうはじめた。1235ねんにアッバースあさのカリフであるムスタンスィルよりイエメン支配しはい承認しょうにんけ、これによってラスールあさ名実めいじつともに独立どくりつした[8][12][13][注釈ちゅうしゃく 2]

ラスールあさ当初とうしょ領域りょういきはアイユーブあさ時代じだい支配しはいした、紅海こうかい沿いの平原へいげんであるティハーマみなみイエメンだった[16]。マンスール1せい南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたいタイッズから北部ほくぶサナアいたるまで支配しはい地域ちいきひろげ、また、アイユーブあさ十字軍じゅうじぐん対処たいしょわれているすきをついてヒジャーズ派兵はへいし、1241ねんまたは1242ねんにはマッカからアイユーブあさ勢力せいりょく排除はいじょした[17][18]。このさいにマンスール1せいはマッカのマスジド・ハラーム西側にしがわマドラサ建設けんせつした[19]。このほか、マンスール1せいマディーナ外港がいこうであるヤンブゥを支配しはいした[17][18]

1249ねんまたは1250ねん、マンスール1せいはタイッズのきたにあるジャナドにおいて、みずからのおいがねによって護衛ごえいであるマムルーク殺害さつがいされた[20]。マンスール1せいの3にん息子むすこあいだでははげしい後継こうけいしゃあらそいがこり、ムザッファル1せいが2代目だいめスルターンとなった[17]

ムザッファル1せい治世ちせい[編集へんしゅう]

ムザッファル1せい治世ちせいはラスールあさにおける最盛さいせいとされている[21][17]。ムザッファル1せい初期しょき治世ちせいは、マンスール1せい放置ほうちしていたティハーマとみなみイエメンの支配しはいふたた確立かくりつすることについやされた[16]。その、ムザッファル1せいは、きたはヒジャーズ、ひがしハドラマウトまで支配しはいし、さらにひがしにあり、乳香にゅうこう産地さんちとして名高なだか海上かいじょう交易こうえきルートの重要じゅうよう結節けっせつてんとしてもさかえていたズファールに派兵はへいした[22]当時とうじのズファールはハブーディーあさばれる王朝おうちょう首都しゅとであった。ムザッファルは1279ねんなつにズファールに侵攻しんこう開始かいしした。ハブーディーあさはスルターンであったサーリムのもとではげしく抵抗ていこうしたが敗北はいぼくし、サーリムは処刑しょけいされた[23][24]。こうした広域こういき支配しはい確立かくりつしたことによりラスールあさ運輸うんゆ貿易ぼうえきにおける影響えいきょうりょくた。インド洋いんどようやペルシアわん中国ちゅうごく商人しょうにん有力ゆうりょくしゃはラスールあさ相次あいついで使者ししゃ派遣はけんして通商つうしょう関係かんけい強化きょうかつとめた[25]

ムザッファル1せい治世ちせいにおいてタイッズがあらたにラスールあさ首都しゅととなった[26]

ムザッファル1せい以降いこう[編集へんしゅう]

アシュラフ1せい王位おういまえ作成さくせいしたアストロラーベ。アシュラフ1せい様々さまざま学術がくじゅつてき文書ぶんしょのこしており、そのなかにはアストロラーベの作成さくせいかんするものもある[27]

1295ねん死期しきさとったムザッファル1せい息子むすこであるアシュラフ1せい次期じきスルターンに指名しめいしてスルターン移譲いじょうした[28][29]。ムザッファル1せい同年どうねん死去しきょした[16]。ムザッファル1せい死去しきょほういたアシュラフ1せい兄弟きょうだいであるムアイヤド1せいは、スルターンねらってアシュラフ1せい攻撃こうげきした。アシュラフ1せいはこれを撃退げきたいし、ムアイヤド1せい幽閉ゆうへいされた[29]

アシュラフ1せいは1296ねん在位ざいい2ねんにして急死きゅうしした。アシュラフ1せい息子むすこであるアーディルとナースィルはそれぞれ遠方えんぽう滞在たいざいしていたため、幽閉ゆうへいされていたムアイヤド1せいだい4だいスルターンに即位そくいした[29][28]。これ以降いこう、ムアイヤド1せい直系ちょっけい子孫しそんがラスールあさのスルターンとなる。ムアイヤド1せい治世ちせいにはザイド勢力せいりょく攻撃こうげきやクルドじんなどによる反乱はんらん、また、兄弟きょうだいであるマスウード1せいや、前述ぜんじゅつのナースィルによる謀反むほん発生はっせいするなど政治せいじてき混乱こんらん発生はっせいした。しかし、経済けいざい安定あんていてき成長せいちょうつづけた[30]

ムアイヤド1せいのちいだムジャーヒド即位そくいから叔父おじにあたるマンスールやその息子むすこであるザーヒルとスルターンめぐって対立たいりつした。ザーヒルは12ねんわたってティハーマを支配しはいしたため、このあいだ、ラスールあさは2つに分割ぶんかつされた[31]。この内紛ないふん誘発ゆうはつされてラスールあさ各地かくち部族ぶぞく衝突しょうとつ発生はっせいした。これをけてムジャーヒドはマムルークあさのスルターンであるナースィルに援軍えんぐん派遣はけん要請ようせいした。イエメンへの勢力せいりょく拡大かくだいねらっていたナースィルはイエメンにけてマムルークとアラブの混合こんごう部隊ぶたい派遣はけんした。マムルークちょうぐんは1325ねんにザビードに侵入しんにゅうした。これをったザビードの住民じゅうみんやザーヒルはムジャーヒドに降伏ごうぶくし、ラスールあさ統一とういつかった[32]

マムルークあさぐんによってイエメンが支配しはいされることをおそれたムジャーヒドは、かれらへの糧食りょうしょく物資ぶっし提供ていきょうこばんだ。これをけてマムルークちょうぐんかく都市とし略奪りゃくだつおこなったが、1325ねん8がつにはマッカに撤退てったいした[33]

内紛ないふん滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

だい12だいスルターンであるアシュラフ4せい以降いこう、5にんのスルターンが次々つぎつぎ擁立ようりつされ、はげしい内部ないぶこうそうひろげたため、ラスールあさ分裂ぶんれつ状態じょうたいとなった[34][35]。1442ねんだい13だいスルターンにはムザッファル2せいったが、同年どうねんにはアブド(後述こうじゅつ)によってナースィル2せいだい15だいスルターンとしてかつがれたほか[36][37]翌年よくねんの1443ねんにはザビードの守備しゅびたい住民じゅうみん擁立ようりつされてだい10代スルターンであるアシュラフ3せい息子むすこであるマスウードだい16だいスルターンとなった。ムザッファル2せいとマスウードは武力ぶりょくもちいた内紛ないふん開始かいしし、首都しゅとであるタイッズをめぐって1448ねんまでこうそうひろげた[36][35]。ムザッファル2せいとマスウードの内紛ないふんによる混乱こんらん弱体じゃくたい嫌悪けんおしたザビードの守備しゅびぐんらは1451ねんあらたにムアイヤド2せいだい17だいスルターンとして擁立ようりつした[38]。しかし、その、ザビードの有力ゆうりょくしゃは、当時とうじアデンを占領せんりょうしていた、南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたい出身しゅっしん部族ぶぞくであるターヒル帰順きじゅんした。ターヒル急速きゅうそくにイエメンの都市とし制圧せいあつした[39][40]

1454ねん、ムアイヤド2せいはアデンにてターヒルによって身柄みがら確保かくほされ、すべての所持しょじひん没収ぼっしゅうされた。これによってラスールあさ滅亡めつぼうし、ターヒルによるターヒルあさ成立せいりつした。ムアイヤド2せいにはわずかな武器ぶきうまあたえられてマッカへ亡命ぼうめいし、1466ねん、そこで死去しきょした[41]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 1173ねんまたは1183ねん - ラスールがイエメンに流入りゅうにゅう
  • 1229ねん - ヌール・アッディーン(マンスール1せい)によってラスールあさ成立せいりつ
  • 1235ねん - アッバースあさカリフよりイエメン支配しはい承認しょうにんたことによりラスールあさ名実めいじつともに独立どくりつ
  • 1249ねんまたは1250ねん - マンスール1せい暗殺あんさつされる
  • 1279ねん - ムザッファル1せい海上かいじょう交易こうえきルートの重要じゅうよう結節けっせつてんであるズファールを征服せいふく
  • 1321ねん - ムジャーヒドが即位そくい。ムジャーヒドの即位そくいみとめない勢力せいりょくとのあいだあらそいがこり、分裂ぶんれつ状態じょうたいになる
  • 1325ねん - マムルークあさぐんによるイエメン侵攻しんこう。これによって分裂ぶんれつ状態じょうたい収束しゅうそく
  • 1439ねん - アシュラフ4せい即位そくい。これ以降いこう、5にんのスルターンがちラスールあさ分裂ぶんれつ状態じょうたいになる
  • 1454ねん - ムアイヤド2せいがターヒル確保かくほされたことによりラスールあさ滅亡めつぼう。ターヒルあさ成立せいりつ

政府せいふ行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

王権おうけん[編集へんしゅう]

ラスールあさ君主くんしゅはスルターンであった。だい2だいスルターンであるムザッファル1せいは1258ねんにアッバースあさのカリフであるムスタスィムがフレグひきいるモンゴルぐん殺害さつがいされるとみずからをカリフとしょうするようになったが、ムザッファル1せい以降いこうのスルターンが積極せっきょくてきにカリフを名乗なのった形跡けいせきはない[42][43]。ラスールあさのスルターンたちのはかは、びょうのような形式けいしきらず、みずからが設立せつりつしたマドラサの内部ないぶつくられた。はか化粧けしょうしっくいや金箔きんぱく装飾そうしょくされた豪華ごうかなものだった[44]。ラスールむすめたちはおも学者がくしゃ結婚けっこんさせられたが、ときには部族ぶぞく政略せいりゃく結婚けっこんをすることがあった[45]

行政ぎょうせい宮廷きゅうてい機関きかん[編集へんしゅう]

ラスールあさ行政ぎょうせい機関きかん宮廷きゅうてい機関きかんは、イエメン・アイユーブあさなど、ラスールあさ先行せんこうするしょ王朝おうちょうのものが継承けいしょうされた[46][47]たとえば、食材しょくざい分配ぶんぱい関与かんよした宮廷きゅうてい組織そしきであり、「かん」を意味いみする「ハーナ」という機関きかんげられる[48]。ラスールあさ官僚かんりょう機構きこうは、アイユーブあさ支配しはい体制たいせい継承けいしょうしたマムルークあさから影響えいきょうけたというせつがあるが、馬場ばば (2017)は、ラスールあさ基盤きばんとなる機構きこうはマムルークあさ成立せいりつ以前いぜん完成かんせいしていたとしている[49]。また、ラスールあさ存在そんざいする宮廷きゅうてい機関きかん存在そんざいした。たとえば、応接おうせつかん呼称こしょうされる、宮廷きゅうてい訪問ほうもんしゃへの対応たいおうをする機関きかん存在そんざいした[50]

ラスールあさ宮廷きゅうてい従事じゅうじしていた去勢きょせいされた奴隷どれいであるハーディムのうち、高位こういのものはタワーシーとばれた。タワーシーはアミールとしてぐんひきいたほか、スルターンの代理だいりつとめた[51]。また、ラスール家内かない監督かんとくするズィマームという役職やくしょくつとめることもあった[52]。タワーシーはこうした責務せきむえにイクター授与じゅよされるといった恩恵おんけい享受きょうじゅした。また、タワーシーはラスールあさ各地かくち様々さまざま建築けんちくぶつ建設けんせつした[53][注釈ちゅうしゃく 3]

マラーキブ・アッ=ディーワーン (marākib al-dīwān) とばれたラスールあさ行政ぎょうせい機関きかんは、アデンとエジプトのみなとであるアイダーブとのあいだ物資ぶっし人々ひとびとはこぶための艦隊かんたいゆうしていた[55][注釈ちゅうしゃく 4]。また、後述こうじゅつするように、ラスールあさ商人しょうにんふね海賊かいぞくからまもるという目的もくてきで、ガレーせん構成こうせいされるシャワーニー船団せんだんという海軍かいぐん戦力せんりょくゆうしていた。シャワーニー船団せんだんはムザッファル1せい時代じだいにズファールを攻略こうりゃくするさいにももちいられた[55]

司法しほう[編集へんしゅう]

ラスールあさには司法しほう機構きこうとしてシャーフィイー学派がくはだいカーディーかれ、そのしたにカーディーやハーキム設置せっちされていた[注釈ちゅうしゃく 5]。カーディーの任免にんめんだいカーディーの職務しょくむだったが、2だいスルターンであるムザッファルの治世ちせいにはだいカーディーではなく、ウラマー名門めいもんであるイムラーンによってカーディーが任命にんめいされていた[58]。ムザッファルの治世ちせいにおいてイムラーン司法しほう勢力せいりょくばし、中央ちゅうおう官職かんしょく特権とっけんてき地位ちいめたが、これによって同家どうけによる不正ふせい発生はっせいし、ラスールあさ司法しほう混乱こんらんしょうじた。しかし、ムザッファルの息子むすこでありだい3だいスルターンであるアシュラフの死後しごおなじくウラマーの名門めいもんであるムハンマド・ブン・ウマル台頭たいとうしたことを一因いちいんとしてイムラーン失脚しっきゃくした[59]。その、ムハンマド・ブン・ウマルも、だい4だいスルターンであるムアッヤドの転覆てんぷくはかって失敗しっぱいしたことで失脚しっきゃくした[60]

社会しゃかい[編集へんしゅう]

民族みんぞく[編集へんしゅう]

ラスールあさは、元々もともとイエメンにんでいた人々ひとびと多数たすうめていたが、アイユーブあさ侵攻しんこう以来いらい、イエメンには北方ほっぽうからテュルククルドけいが、また、ひがしアフリカからヌビアけいエチオピアけい人々ひとびと流入りゅうにゅうしていた。アフリカけいとイエメンじんとの混血こんけつすすんだほか、クルドけいは、イエメン社会しゃかいとの同化どうかすすんだため1388ねん以降いこう史料しりょうには登場とうじょうしなくなった[61]

交通こうつう[編集へんしゅう]

ラスールあさにおいてはザビード、タイッズとアデン交通こうつう要衝ようしょうとなっており、ラスールあさ移動いどうするラクダきの起点きてんならびに終点しゅうてんとなっていた[62]。ザビードは紅海こうかい沿岸えんがんひろがる平原へいげんであるティハーマに位置いちする都市としで、ふるくからマッカ巡礼じゅんれいへの中継ちゅうけい都市としとしてもちいられていた[63][注釈ちゅうしゃく 6]とくに、ザビードからきたかう街道かいどうは「スルターンのみち」とばれていた[65]。タイッズは南部なんぶ高原こうげん地域ちいき位置いちしており、ラスール王家おうけ居住きょじゅうかれていた。また、アデンはふるくから国際こくさい貿易ぼうえきこうとして機能きのうしており、商業しょうぎょう活動かつどう中心ちゅうしんとする都市としだった[66]

奴隷どれい[編集へんしゅう]

ラスールあさのもとでは男性だんせいすアブドや去勢きょせいされた男性だんせいすハーディム、女性じょせいすジャーリヤとばれる奴隷どれい存在そんざいした。こうした奴隷どれいエチオピアザンジュからラスールあさへもたらされた[67]。2021ねん現在げんざいのイエメンにはアフダームばれる差別さべつみん存在そんざいする。アフダームは多数たすうのイエメンじんくらべてはだいろくろいほかアフリカけい顔立かおだちをしており、こうした奴隷どれいがアフダームになったというせつがある[37][注釈ちゅうしゃく 7]。ラスールしょ部族ぶぞくゆうしていた男性だんせい奴隷どれいであるアブドはしだいに特定とくてい集団しゅうだんとなった。アブドは農耕のうこうしてラスールあさぜいおさめ、また、ラスールあさからは穀物こくもつ支給しきゅうされた。アブドは軍事ぐんじりょくゆうしてラスールあさ協力きょうりょくした。しかし、だい5だいムジャーヒドとザーヒルとのあいだでラスールあさ内紛ないふん状態じょうたいになったさいにはザーヒルがわにつくなどラスールあさ反抗はんこうすることもあった[68]

経済けいざい[編集へんしゅう]

貨幣かへい[編集へんしゅう]

アデンで鋳造ちゅうぞうされたラスールあさ貨幣かへいさかな刻印こくいんされている。

すべてのスルターンが貨幣かへい製造せいぞうした。貨幣かへいおもにアデンやタイッズ、ザビード、そしてティハーマにあり、マッカ巡礼じゅんれいどう宿駅しゅくえきとしてさかえていた都市としであるマフジャム鋳造ちゅうぞうされた[16][69]。ラスールあさ貨幣かへいにはもの刻印こくいんされており、鋳造ちゅうぞうされた場所ばしょによって刻印こくいんことなる。アデンで鋳造ちゅうぞうされたものにはさかなが、タイッズで鋳造ちゅうぞうされたものにはすわった人間にんげんが、ザビードで鋳造ちゅうぞうされたものにはとりが、マフジャムで鋳造ちゅうぞうされたものにはライオンが刻印こくいんされた[16]

税制ぜいせい[編集へんしゅう]

ラスールあさインド洋いんどよう世界せかい地中海ちちゅうかい世界せかいむす結節けっせつてんにあったことを利用りようして、支配しはいにある主要しゅよう港湾こうわんでは入港にゅうこうぜい徴収ちょうしゅうしたほか、輸入ゆにゅう品目ひんもくごとにこまかく規定きていされた関税かんぜい仲介ちゅうかいぜい、また、また、カーリミー商人しょうにんなど商人しょうにんふねまもるという目的もくてき設立せつりつされた海軍かいぐん戦力せんりょくであるシャワーニー船団せんだん維持いじ運営うんえいという名目めいもくで、商人しょうにんからシャワーニーぜい徴収ちょうしゅうした[70][71]。こうした税制ぜいせいはアイユーブあさのものが踏襲とうしゅうされた[71]。このほかにも農業のうぎょう地帯ちたいからはハラージュが徴収ちょうしゅうされた[72]。ただし、王族おうぞく高官こうかん、カーディー、ファキーフ私有地しゆうち遺産いさん免税めんぜい対象たいしょうとなっていた[73]

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

イエメンはアラビア半島はんとうのなかで唯一ゆいいつ可耕地かこうちをもつ地域ちいきであり、降雨こうう灌漑かんがいシステムの発達はったつによって「みどりのイエメン」としてられていた。なかでもザビードを中心ちゅうしんとしたティハーマ農業のうぎょう生産せいさんせいたかかった[63]。ザビードの周辺しゅうへんではザクロやナツメヤシ、ショウガなどが生産せいさんされていた。それらは一度いちどザビードにあつめられてから各地かくち輸送ゆそうされていた[74]。また、タイッズの周辺しゅうへんではサトウキビが生産せいさん加工かこうされていたほか、タイッズの北方ほっぽうにあるジャナドではにく香料こうりょう香辛料こうしんりょう供給きょうきゅうされていた[75]

貿易ぼうえき[編集へんしゅう]

ラスールあさはイエメンからヒジャーズいたるまでの広域こういき支配しはい確立かくりつしており、国際こくさい運輸うんゆ貿易ぼうえき活動かつどうおおきな影響えいきょうおよぼした。ラスールあさカリカットクーラム・マライといったインドのしょ都市としキーシュといったペルシアわんみなとなどとの通商つうしょう関係かんけいふかめ、国際こくさい運輸うんゆ貿易ぼうえき一大いちだい中継ちゅうけいとなった[25]インド洋いんどよう地中海ちちゅうかいあいだ貿易ぼうえきおおきな影響えいきょうりょくおよぼすようになるとともに、当時とうじ新興しんこう勢力せいりょくとして台頭たいとうしていたカーリミー商人しょうにんとのあいだ緊密きんみつ連携れんけいきずかれ、かれらから安全あんぜん保障ほしょう費用ひようとしてシャワーニーぜい保安ほあんぜい / al-shawānī)を徴収ちょうしゅうすることとえに、支配しはいにあるしゅ要港ようこう警備けいび監督かんとくかん徴税ちょうぜい業務ぎょうむ長官ちょうかんにカーリミー商人しょうにん代表だいひょうしゃ任命にんめいし、またワズィール宰相さいしょうしょくにも登用とうようした[76]。13世紀せいきから14世紀せいきにかけてカーリミー商人しょうにんによるエジプト・イエメン・インドあいだ貿易ぼうえき最盛さいせいむかえ、この時期じきがラスールあさにとってももっと経済けいざい安定あんていした時期じきとなった[77]アデンには多数たすうのインドじん商人しょうにんたちもあつまり、イブン・バットゥータはアデンに出入でいりするインド商船しょうせんかずおおさを記録きろくしている[78]当時とうじのアデンはまた、アラブさんうまをインドに輸出ゆしゅつする重要じゅうよう中継ちゅうけい拠点きょてんであった[78]。ナースィル1せい治世ちせいである1418ねんから1419ねんにかけてはあきらていかずひきいる艦隊かんたいがラスールあさのアデンをおとずれ、中国ちゅうごくからのおくもの献上けんじょうされた[79]

文化ぶんか[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

ムザッファル1せいによって建造けんぞうされたムザッファル・モスク。複数ふくすうのドームが設置せっちされている[80]

ラスールあさスンナ王朝おうちょうだった[81][16]。200ねんわたるラスールあさ支配しはいによってイエメン南部なんぶやティハーマにはスンナ定着ていちゃくした[82][83]。イエメン北部ほくぶにはシーア分派ぶんぱであるザイドひろがっていた。ラスールあさ時代じだい、ザイドおおいに伸長しんちょうしており、ラスールあさはこれに対抗たいこうしてスンナ維持いじ拡大かくだいはかっていた[84]

ラスールあさでは積極せっきょくてき建設けんせつ事業じぎょうおこなわれており、モスクはマドラサにいでおお建設けんせつされた。ラスールあさにおいて建設けんせつされたモスクは、複数ふくすうのドームが設置せっちされるというアイユーブあさ建築けんちく様式ようしき継承けいしょうされたものだった[85]。ラスールあさ影響えいきょうにおいて、複数ふくすうのドームが設置せっちされる建築けんちく様式ようしきのモスクがイエメンでひろがった[86]

学問がくもん[編集へんしゅう]

ラスールあさ歴代れきだいのスルターンのおおくは学者がくしゃであった。かれらは幅広はばひろ分野ぶんや興味きょうみしめし、学問がくもん奨励しょうれいしていた。たとえば、だい3だいアシュラフ1せい天文学てんもんがく暦法れきほう農業のうぎょうについての著作ちょさくのこしているほか、法学ほうがくしゃであっただい6だいアフダルは農業のうぎょう技術ぎじゅつについての著作ちょさくのこしている[87][88]たとえば、ザビードで教鞭きょうべんっていたウラマーが法学ほうがくしょ作成さくせいしたさいには48,000ディルハム報酬ほうしゅうがスルターンからあたえられた[88]ほかにも、辞書じしょ学者がくしゃであったマジドッディーン・フィールーザーバーディーがスルターンに招聘しょうへいされてイエメンに到着とうちゃくしたさいには4,000ディルハムがあたえられた[88][注釈ちゅうしゃく 8]

ラスールあさにおいては様々さまざま建設けんせつ事業じぎょうおこなわれたが、なかでも高等こうとう教育きょういく機関きかんであるマドラサもっとおおく、69こう建設けんせつされた[90]。これはラスールあさでの建設けんせつ事業じぎょう過半数かはんすうめている。こうしたマドラサはワクフによって運営うんえいされた[91]おおくのマドラサを建設けんせつした理由りゆうについて、栗山くりやま (1994)は、外国がいこくじん勢力せいりょくだったラスールあさがイエメンの人々ひとびとたいして自分じぶんたちの権威けんいみとめさせるためであり、またシーア分派ぶんぱであるザイド対抗たいこうしてスンナ勢力せいりょく維持いじ拡大かくだいはかったためであると推測すいそくしている[84]。イエメンないかぎらず、1241ねんまたは1242ねんにマッカからアイユーブあさ勢力せいりょく追放ついほうしたさいには、初代しょだいのマンスール1せいはマッカにシャーフィイー学派がくはのマドラサを設立せつりつした。このマドラサはきたアフリカからマッカをおとずれた巡礼じゅんれいしゃより称賛しょうさんけた。また、だい2だいムザッファル1せいや、だい5だいムジャーヒド、だい6だいアフダルもマッカにマドラサを設立せつりつした[92]

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

馬場ばば (2017)をもとに作成さくせい[93]

  1. マンスール1せい在位ざいい1229ねん - 1249ねんまたは1250ねん
  2. ムザッファル1せい在位ざいい:1249ねんまたは1250ねん - 1295ねん
  3. アシュラフ1せい在位ざいい:1295ねん - 1296ねん
  4. ムアイヤド1せい在位ざいい:1296ねん - 1321ねん
  5. ムジャーヒド在位ざいい:1321ねん - 1363ねん
  6. アフダル在位ざいい:1363ねん - 1377ねん
  7. アシュラフ2せい在位ざいい:1377ねん - 1400ねん
  8. ナースィル1せい在位ざいい:1400ねん - 1424ねん
  9. マンスール2せい在位ざいい:1424ねん - 1427ねん
  10. アシュラフ3せい在位ざいい:1427ねん - 1428ねん
  11. ザーヒル在位ざいい:1428ねん - 1439ねん
  12. アシュラフ4せい在位ざいい:1439ねん - 1442ねん
  13. ムザッファル2せい在位ざいい:1442ねん - ?)
  14. ムファッダル在位ざいい:1442ねん
  15. ナースィル2せい在位ざいい:1442ねん - 1443ねん
  16. マスウード在位ざいい:1443ねん - 1454ねん
  17. ムアイヤド2せい在位ざいい1451ねん - 1454ねん

系図けいず[編集へんしゅう]

日本にっぽんイスラム協会きょうかい (2002)ならびに馬場ばば (2017)をもとに作成さくせい[94][93]

 
 
マンスール1せい1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムザッファル1せい2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アシュラフ1せい3
 
ムアイヤド1せい4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムジャーヒド5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アブドゥッラー
 
アフダル6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ユースフ
 
アシュラフ2せい7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウスマーン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マリク
 
ナースィル1せい8
 
 
 
 
 
ザーヒル11
 
 
 
マリク
 
イスマーイール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナースィル2せい15マンスール2せい9アシュラフ3せい10
 
アシュラフ4せい12
 
ムアイヤド2せい17
 
ムザッファル2せい13
 
ムファッダル14
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マスウード16
 
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 以下いか、マンスール1せい表記ひょうきする。
  2. ^ この時代じだいにはアッバースあさカリフは名目めいもくじょう存在そんざいであったが、ムスリムのあいだでは宗教しゅうきょうてき威信いしんたもたれ、また、イスラーム法理ほうりろんはカリフの権威けんいみとめていたため、独立どくりつ君主くんしゅにはカリフの承認しょうにん必要ひつようだった[15]
  3. ^ たとえば、マンスール1せい姉妹しまいのハーディムであったファーヒルという人物じんぶつは1230ねんごろにマドラサを建設けんせつした。このマドラサは建設けんせつから100ねんっても機能きのうしていたという[54]
  4. ^ アイザーブは11世紀せいきから14世紀せいきにかけて紅海こうかい交易こうえきさかえた都市としである。しかし、14世紀せいきなか以降いこうみなと発展はってんしたことでアイザーブの重要じゅうようせいうすれた[56]
  5. ^ ラスールあさ創設そうせつしゃであるマンスール1せいはもともとハナフィー学派がくはであったが、ゆめ預言よげんしゃムハンマドにすすめられたとしてシャーフィイー学派がくは法学ほうがく変更へんこうした[57]
  6. ^ イエメンどうばれた巡礼じゅんれいどうはマッカへの主要しゅよう巡礼じゅんれいどうのひとつであり、ひがしアフリカやインド、東南とうなんアジアからおとずれた巡礼じゅんれいしゃによってもちいられた[64]
  7. ^ ほかにも、ヒムヤル王国おうこく時代じだいにエチオピアから流入りゅうにゅうした人々ひとびとや、ラスールあさ以前いぜんしょ王朝おうちょうによる支配しはい流入りゅうにゅうしたアフリカけい人々ひとびと起源きげんもとめるせつがあり、決定的けっていてきなものはない[37]
  8. ^ だい3だいアシュラフ1せい息子むすこであるアーディルに支払しはらわれた給与きゅうよは2,871ディナールであり、だい2だいムザッファル1せいにつかえていたマムルークや料理人りょうりにんなど93にん支払しはらわれた給与きゅうよ総額そうがくは1,156.5ディナールだった[89]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ アームストロング 2017, p. 37.
  2. ^ しとみ 2018, p. 268.
  3. ^ しとみ 2018, p. 268, 269, 271.
  4. ^ 馬場ばば 2017, p. 110.
  5. ^ 馬場ばば 2017, p. 13.
  6. ^ しとみ 2018, p. 271.
  7. ^ 馬場ばば 2021, p. 163.
  8. ^ a b c d e Smith 1995, p. 455.
  9. ^ しとみ 2018, p. 272, 273.
  10. ^ 馬場ばば 2021, p. 163-164.
  11. ^ Cowan 1994, p. 391.
  12. ^ a b c 馬場ばば 2017, p. 16.
  13. ^ a b c しとみ 2018, p. 273.
  14. ^ 馬場ばば 2017, p. 17, 27.
  15. ^ 斎藤さいとう 1970, p. 47, 48.
  16. ^ a b c d e f Smith 1995, p. 456.
  17. ^ a b c d しとみ 2018, p. 274.
  18. ^ a b 家島いえじま 2021, p. 259.
  19. ^ Mortel 1997, p. 240.
  20. ^ Varisco 1993, p. 16.
  21. ^ 馬場ばば 2017, p. 17.
  22. ^ しとみ 2018, p. 274-275.
  23. ^ しとみ 2018, p. 275.
  24. ^ Vallet 2005, p. 289.
  25. ^ a b 家島いえじま 2021, p. 261.
  26. ^ Sadek 2003, p. 309, 310.
  27. ^ メトロポリタン美術館びじゅつかん.
  28. ^ a b 栗山くりやま 1999, p. 76.
  29. ^ a b c 馬場ばば 2017, p. 20.
  30. ^ 馬場ばば 2017, p. 21.
  31. ^ 馬場ばば 2021, p. 168.
  32. ^ 家島いえじま 2021, p. 266, 267.
  33. ^ 家島いえじま 2021, p. 268.
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  35. ^ a b 日本にっぽんイスラム協会きょうかい 2002, p. 578.
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  69. ^ 馬場ばば 2017, p. 107, 126.
  70. ^ しとみ 2018, p. 269, 276.
  71. ^ a b 栗山くりやま 2008, p. 31.
  72. ^ 馬場ばば 2017, p. 7.
  73. ^ 馬場ばば 2021, p. 168, 169.
  74. ^ 馬場ばば 2017, p. 106.
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  82. ^ Smith 1990, p. 139.
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  84. ^ a b 栗山くりやま 1994, p. 64, 65.
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  89. ^ 馬場ばば 2017, p. 182-184.
  90. ^ 栗山くりやま 1994, p. 56-57, 69-73.
  91. ^ 栗山くりやま 1994, p. 56-57.
  92. ^ Mortel 1997, p. 240-243.
  93. ^ a b 馬場ばば 2017, p. 18, 19.
  94. ^ 日本にっぽんイスラム協会きょうかい 2002, p. 577, 578.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

日本語にほんご文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 家島いえじま彦一ひこいち「15世紀せいきにおけるインド洋いんどよう通商つうしょう一齣ひとこま : ていかず遠征えんせい分隊ぶんたいのイエメン訪問ほうもんについて」『アジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究けんきゅうだい8ごう東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがくアジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1974ねん、137-155ぺーじISSN 03872807 
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  • 家島いえじま彦一ひこいちインド洋いんどよう海域かいいき世界せかい歴史れきし筑摩書房ちくましょぼうちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2021ねんISBN 978-4-480-51069-3 
  • 栗山くりやま保之やすゆき「ザビード -みなみアラビアの学術がくじゅつ都市とし-」『オリエント』だい37かんだい2ごう日本にっぽんオリエント学会がっかい、1994ねん、53-74ぺーじdoi:10.5356/jorient.37.2_53 
  • 栗山くりやま保之やすゆき「イエメン・ラスールあさとウラマー名家めいか」『オリエント』だい42かんだい1ごう日本にっぽんオリエント学会がっかい、1999ねん、67-83ぺーじdoi:10.5356/jorient.42.67 
  • 栗山くりやま保之やすゆき「13世紀せいきインド洋いんどよう交易こうえきこうアデン:取扱とりあつかい品目ひんもく分析ぶんせきから」『アジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究けんきゅうだい75ごう東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがくアジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、2008ねん、5-61ぺーじISSN 03872807 
  • 斎藤さいとう淑子としこ「スルタン=カリフせいいち解釈かいしゃく」『オリエント』だい13かんだい1-2ごう日本にっぽんオリエント学会がっかい、1970ねんdoi:10.5356/jorient.13.43 
  • しとみ勇造ゆうぞう物語ものがたり アラビアの歴史れきし中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2018ねんISBN 978-4-12-102496-1 
  • 日本にっぽんイスラム協会きょうかい へんしんイスラム事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2002ねんISBN 978-4-58-212633-4 
  • 馬場ばば多聞たもん宮廷きゅうてい食材しょくざい・ネットワーク・王権おうけん九州大学きゅうしゅうだいがく出版しゅっぱんかい、2017ねんISBN 978-4-7985-0200-7 
  • 馬場ばば多聞たもん ちょ中世ちゅうせいイエメンにおける奴隷どれい」、近藤こんどう洋平ようへい へん『アラビア半島はんとう歴史れきし文化ぶんか社会しゃかい東京大学とうきょうだいがく中東ちゅうとう地域ちいき研究けんきゅうセンター、2021ねん、159-174ぺーじISBN 978-4-90-695202-1 

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ウェブ出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]