(Translated by https://www.hiragana.jp/)
劉旦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

りゅうだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

りゅう だん(りゅう たん ? - 紀元前きげんぜん80ねん)は、前漢ぜんかん皇族こうぞくつばめおう在位ざいい30ねん)。諡号しごうは剌(らつ)。長兄ちょうけいりゅうよりどころ次兄じけいひとしふところおうりゅう同母どうぼおとうと広陵こうりょう厲王りゅう異母弟いぼていあきら邑哀おうりゅうあきらみかど広陽こうようごろおうりゅうけんらがいる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

たけみかど三男さんなん生母せいぼひめ夫人ふじんとは別人べつじん)は2人ふたり男子だんしんだが、たけみかど寵愛ちょうあいうすゆうした。

博学はくがくで、天文てんもん狩猟しゅりょうなどをこのみ、遊説ゆうぜいこのんでまねいていた。紀元前きげんぜん117ねんもとかり6ねん)、つばめおうふうじられる。皇太子こうたいしりゅうよりどころ叛乱はんらんこしてに、当時とうじかれたけみかど最年長さいねんちょうだったため、「自分じぶん父君ふくん最年長さいねんちょうだから、かん太子たいしになるのは当然とうぜんである」とかんがえ、ちちたけみかど自分じぶん長安ながやす警護けいごにんくことをもとめた。だがたけみかど激怒げきどしてそれをつたえた使者ししゃごくくだし、つばめおう亡命ぼうめいしゃかくまったつみ理由りゆうつばめこく領土りょうどのうちの良郷よしさと安次やすじぶんやすの3けん没収ぼっしゅうした。たけみかどつばめおうおもわず、末子まっしあきらみかど)を後継こうけいしゃとした。

たけみかど崩御ほうぎょしてあきらみかど即位そくいしたときあきらみかど諸侯しょこうおう文書ぶんしょおくった。するとつばめおうは「この文書ぶんしょ封印ふういんちいさい。長安ながやすなに事件じけんがあったのではないか」とい、寵臣ちょうしん使者ししゃとして長安ながやす様子ようすさぐらせると、皇帝こうてい離宮りきゅう崩御ほうぎょされ、将軍しょうぐんたちがおさな太子たいし即位そくいさせたのだ、との証言しょうげんた。つばめおうはますますあやしみ、「こうたけ皇帝こうていおおきな功績こうせきとくがおありでしたので、全国ぜんこくびょうててはいかがでしょうか」と上奏じょうそうし、様子ようすうかがった。すると権力けんりょくにぎだい司馬しば大将軍だいしょうぐん霍光つばめおうぜに3,000まんおくり、13,000ふえふうして懐柔かいじゅうしようとした。つばめおうは「わたし皇帝こうていになるべきなのだから、そんなものはいらない」といかり、中山なかやまやすしおうりゅうまさるまごりゅうおさむひとしこうおうりゅうすすむまごりゅうさわらとクーデターを目論もくろんで、政務せいむることをゆるされたといつわり、軍備ぐんびととのえはじめた。

つばめおう紀元前きげんぜん88ねんこうもと元年がんねん)、「いま皇帝こうていたけみかどではない」とい、狩猟しゅりょう名目めいもく軍事ぐんじ演習えんしゅうおこない、謀反むほんこそうとした。しかし、あおしゅう刺史しし雋不うたぐ事前じぜん察知さっちして、りゅうちょうらを逮捕たいほして峻烈しゅんれつ調しらべた。叛乱はんらん首謀しゅぼうしゃとして嫌疑けんぎつばめおうにもかかったが、皇帝こうていあにということで皇帝こうてい命令めいれいによりとがめはなく、りゅうおさむりゅうさわらだけを処刑しょけいした。

歳月さいげつながれて紀元前きげんぜん80ねんもとおおとり元年がんねん)、ひだり将軍しょうぐん上官じょうかんは霍光と仲違なかたがいしてつばめおうちかづいてた。また、つばめおう同母どうぼあねの鄂邑公主こうしゅたけみかどむすめ)はぶたこうおうたかしたけみかどははあにおうしん末子まっし)のつまで、末弟ばっていあきらみかど養育よういくしていた。だがその鄂邑公主こうしゅ河間こうまひとであるちょう外人がいじん浮気うわきをして、彼女かのじょはその情夫じょうふひのと外人がいじん列侯れっこうにすべく霍光にたのんでいた。だが霍光は承諾しょうだくしなかったためおおいに気分きぶんがいした鄂邑公主こうしゅは霍光に敵愾心てきがいしんせて、上官じょうかん桀・上官じょうかんやす驃騎将軍しょうぐん父子ふしちかづいた。また霍光に不満ふまんった大夫たいふくわひろひつじさそい、つばめおうした集結しゅうけつして、霍光にたいするクーデターの準備じゅんびをした。つばめおうは「姦臣かんしん(霍光をす)がクーデターをこそうとしているので、わたし長安ながやす警護けいごいたしましょう」と上奏じょうそうし、上官じょうかん桀らは霍光が休暇きゅうか不在ふざいすき皇帝こうていせ、裁可さいかさせようとした。だがあきらみかどいつわりを見抜みぬき、裁可さいかしようとしなかったためにたくらみは失敗しっぱいした。鄂邑公主こうしゅ侍女じじょちちつばめくら叛乱はんらん計画けいかく通報つうほうし、かれ証言しょうげんから、ただちにつばめおう一味いちみ逮捕たいほした。こうして、あねぶた公主こうしゅたまもの上官じょうかん父子ふしくわひろひつじちょう外人がいじんらは処刑しょけいされた。つばめおう失敗しっぱいると印綬いんじゅくび自殺じさつした。また、つばめおう正室せいしつ以下いか女性じょせいたちも、20めいあまりが殉死じゅんしした。つばめこく領土りょうど皇帝こうてい直轄ちょっかつとなり、つばめおう嫡子ちゃくしとくゆるされて庶人とされた。

しかしすうねん、霍光はつばめおうりゅうだんに剌王の諡号しごうおくり、その嗣子ししであったりゅうけんつばめおうから改称かいしょうしてあらたに広陽こうようおうふうじた。この広陽こうよう王家おうけは、ころおうりゅうけんきよしおうりゅうしゅんおもえおうりゅう父子ふしだいて、りゅう璜の広陽こうようおうりゅうよしみは、しんおう簒奪さんだつさいおう莽即暗示あんじする証拠しょうこ献上けんじょうした功績こうせきによって、廃位はいいされずに扶美こうおうせい下賜かしされた。さんこく時代じだいたかし曹叡臨終りんじゅうい、補佐ほさ人選じんせんおこなったりゅうは、りゅうだん末裔まつえいにあたる。