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りゅう如意にょい

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りゅう 如意にょい(りゅう にょい/りゅう じょい、紀元前きげんぜん207ねん[1] - 紀元前きげんぜん194ねん)は、前漢ぜんかん初期しょき諸侯しょこうおうだいおう、のちちょうおう)で、高祖こうそ劉邦りゅうほう庶子しょしだい3)。生母せいぼ戚夫じんかくれおうおくりなされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

劉邦りゅうほうがまだ沛公時代じだいこうはり従軍じゅうぐんしてていすえ現在げんざい山東さんとうしょう菏沢ていすえ)で、現地げんち出身しゅっしんの戚夫じん出会であった。劉邦りゅうほう彼女かのじょ美貌びぼうめて自分じぶん側室そくしつにしたという。

戚夫じん劉邦りゅうほう寵愛ちょうあい一身いっしんけており、また如意にょい庶子しょしながら劉邦りゅうほうていて、活発かっぱつ性格せいかく少年しょうねんであったという。如意にょい有力ゆうりょく皇太子こうたいし候補こうほとして、異母いぼけいりゅうみつるめぐみみかど)とその地位ちいあらそうこととなる。

しかし、りょ重臣じゅうしんたちの反対はんたいにより、りゅうみつる皇太子こうたいしたもった。紀元前きげんぜん198ねん、10さい[1]になった如意にょいだいおうふうじられ、のちちょうおうてんふうされる。そのさい暗殺あんさつおそれた劉邦りゅうほうにより、自身じしん過去かこしかりつけたことがある璽御しゅうあきら劉邦りゅうほう忠誠ちゅうせいくし項羽こうう殺害さつがいされたしゅう従弟じゅうてい)を信任しんにんし、ちょう宰相さいしょうえた。

紀元前きげんぜん195ねんなつ4がつちち劉邦りゅうほう没後ぼつご如意にょいと戚夫じんりょ雉に皇太子こうたいしあらそいのことでうらみをった。りょ雉は幾度いくどとなく如意にょい入朝にゅうちょうさせ、暗殺あんさつしようとしたが、しゅうあきら努力どりょくにより入朝にゅうちょうてきわなかった。

紀元前きげんぜん194ねんふゆに、りょ雉はしゅうあきら長安ながやすせているあいだ如意にょい長安ながやす入朝にゅうちょうさせた。異母いぼけいめぐみみかどりゅうみつる)ははは如意にょい暗殺あんさつすると予測よそくし、如意にょい長安ながやす入朝にゅうちょうしたさいにはみずからのがわいてころされないように警備けいびした。しかしあるめぐみみかどりではなれたすきりょ雉がりゅう如意にょい毒殺どくさつした。それをっためぐみみかど嗚咽おえつしてひどくかなしんだ。

また、生母せいぼの戚夫じんあいだもなく宮中きゅうちゅうらえられ、「ひと彘(ひとぶた)」としょうしてなぶごろしにされた。それをめぐみみかど衝撃しょうげきけて政務せいむほうし、酒色しゅしょくおぼれて23さい急死きゅうしした。また、しゅうあきらりゅう如意にょい死後しご参内さんだいせずに3ねん逝去せいきょした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 史記しきちょう丞相じょうしょう列伝れつでん