がらすまご

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紀元前きげんぜん2世紀せいきごろ中央ちゅうおうアジアの地図ちず

がらすまご[1](うそん、拼音: wūsūn)は、紀元前きげんぜん161ねんから5世紀せいきにかけて、イシクみずうみ周辺しゅうへん現在げんざいキルギス)に存在そんざいした遊牧ゆうぼく国家こっか

歴史れきし[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん2世紀せいき匈奴きょうどがらすまご
2世紀せいき鮮卑がらすまご

前漢ぜんかん時代じだい[編集へんしゅう]

はたすえとし匈奴きょうどおかせひたすらたんのもとでモンゴル高原こうげん統一とういつし、さらに前漢ぜんかんぶんみかど時期じきになって、その周辺しゅうへんこくであったろうらんがらすまごよびおよびタリム盆地ぼんちの26こく匈奴きょうど征服せいふくされた。そのさいがらすまごおうであったなんかぶと(なんとうび)はころされ、こん(こんばく)は匈奴きょうどのもとでそだてられる。

やがてこん莫は匈奴きょうど手柄てがらてるようになり、ろううえたん在位ざいいぜん174ねん - ぜん161ねん)からがらすまごみんかえされ、西城さいじょう鎮守ちんじゅしながらも、次第しだい勢力せいりょくしていった。

紀元前きげんぜん161ねんろううえたん于がぬと、こん莫はがらすまごみんれ、西にし移動いどうし、イシクみずうみ周辺しゅうへん現在げんざいキルギス)にいた大月おおつき駆逐くちくしてがらすまごこく建国けんこくした。がらすまご次第しだい強大きょうだいとなり、匈奴きょうど勢力せいりょく範囲はんいぞくしながら、匈奴きょうど会議かいぎ出席しゅっせきしなくなった。

すうねん前漢ぜんかんちょう匈奴きょうどがらすまごはなし、かん服属ふくぞくさせるべく、たけみかど上奏じょうそうたけみかどちょう騫をちゅうろうしょう任命にんめいし、300にん部下ぶか1人ひとりにつき2とううますうまんうしひつじれ、さらにすうせんまん黄金おうごん絹織物きぬおりものたずさえさせ、ふしをもった副使ふくし多数たすうとともにがらすまご派遣はけんした。がらすまごおうこん莫はたんたいするのとおな儀礼ぎれいかん使節しせつ面会めんかいし、天子てんしたまわもの拝礼はいれいした。そこでちょう騫はかんたい匈奴きょうど共同きょうどう戦線せんせんることを提案ていあんした。しかし、こん自身じしん老齢ろうれいで、まずかんがどのくらいのくになのかもわからず、さらにこのころのがらすまご国内こくないみっつに分裂ぶんれつしており、がらすまご大臣だいじんたちは匈奴きょうどおそれており移住いじゅうのぞまなかったこともあって、こん莫が独断どくだんめられることではなく、ちょう騫ははっきりした返事へんじがもらえなかった。ちょう騫はいったんがらすまごものすうじゅうにんれて帰国きこくし、かん偉大いだいさをせつけた。それからちょう騫はいちねんあまりしてくなった。がらすまご使者ししゃたちは帰国きこくすると、かん人口じんこうおお裕福ゆうふくであることを報告ほうこくし、がらすまごものたちはますますかん尊敬そんけいするようになった。それからというものがらすまごをはじめ西域せいいき諸国しょこくかんとの交際こうさいはじめた。これをいた匈奴きょうどがらすまご攻撃こうげきしようと決意けついした。これをおそれたがらすまご公主こうしゅめとかん兄弟きょうだいとなることを希望きぼうした。がらすまごせんひきうま結納ゆいのうとしておくり、かん皇族こうぞくむすめであるこうみやこ公主こうしゅりゅう細君さいくんとつがせた。こん莫はこうみやこ公主こうしゅみぎ夫人ふじんとし、匈奴きょうどからもきたよめひだり夫人ふじんとした。しかしこん莫は自分じぶん老齢ろうれいだといい、こうみやこ公主こうしゅまご岑陬めとらせた。

ひろの2度目どめだいあて討伐とうばつさいし、たけみかどがらすまご使者ししゃおくり、協力きょうりょくしてだいあてつよう要請ようせいした。そこでがらすまごは2せん騎兵きへい出動しゅつどうさせたが、二股ふたまたをかけてそれ以上いじょうすすまなかった。

こん莫がぬと、まご岑陬わってった。岑陬というのはかんごうで、ぐん須靡という。じつこん莫というのもおうごう以下いかこんわたる)で、りょうおご靡といった。岑陬はこうみやこ公主こうしゅめとり、一女いちじょしょうおっとんだ。こうみやこ公主こうしゅぬと、かんはふたたびすわえおうりゅうつちのえまごかい公主こうしゅとし、岑陬にめとらせた。岑陬が臨終りんじゅうさいに、岑陬とえびすとのあいだまれたどろ靡はおさないので、王位おうい伯父おじだいろくおうあたえ、どろ靡が成長せいちょうしたら王位おういゆずるよう遺言ゆいごんした。岑陬がに、おう靡が即位そくいするとこえおうごうし、かいゆうめとり、三男さんなん二女じじょんだ。

あきらみかどすえとしつぼ衍鞮たんがらすまご攻撃こうげきし、くるまのべあくった。かい上書うわがきし、かん救援きゅうえん要請ようせいしたが、かんではあきらみかど崩御ほうぎょ返事へんじができなかった。せんみかど即位そくいすると、こんわたる(こんび:がらすまご君主くんしゅごう)のおう靡はふたたび上書うわがきして救援きゅうえん要請ようせいした。もとはじめ2ねんぜん72ねん)、かん要請ようせいおうじて、祁連将軍しょうぐん広明ひろあきりょう将軍しょうぐん范明ともぜん将軍しょうぐんかんぞうこう将軍しょうぐんがまるい将軍しょうぐんちょうたかしこくくもちゅう太守たいしゅとらきば将軍しょうぐんじゅん将軍しょうぐん派兵はへいした。こうじょうつねめぐみがらすまご西域せいいきへい指揮しきし、おう靡はみずか翕侯(きゅうこう:諸侯しょこう以下いか5まんひきいて西方せいほうからはいり、総勢そうぜい20すうまん匈奴きょうど攻撃こうげきした。将軍しょうぐんにはあまり戦功せんこうがなかったが、つねめぐみ指揮しきするがらすまごぐんには戦功せんこうがあったので、つねめぐみちょうこうふうぜられた。しかし、匈奴きょうど被害ひがい甚大じんだいで、がらすまごふかうらむこととなり、そのふゆつぼ衍鞮たん于はがらすまご報復ほうふく攻撃こうげきしたが、そのかえりに大雪おおゆきにあっておおくの人民じんみん畜産ちくさん凍死とうしした。さらにこれにじょうじてきたひのとれいひがしがらす西にしがらすまご攻撃こうげきされ、おおくの死傷ししょうしゃて、おおくの畜産ちくさんうしなった。これにより匈奴きょうどしたがっていた周辺しゅうへん諸国しょこく離反りはんし、匈奴きょうど大虚たいきょじゃくとなった。

おう靡がぬと、がらすまご貴人きじんたちはとも先代せんだい遺言ゆいごんしたがい、岑陬のどろててこんわたる即位そくいさせ、きょうおうごうした。きょうおうほどけゆうめとり、そのあいだみみずくんだ。かんまもる司馬しばふくこうにんあきらさむらいおくらせるべく2人ふたり派遣はけんしたが、かいきょうおうわずらわしくくるしめられていると告白こくはくしてきたので、2人ふたりかいきょうおう暗殺あんさつすることをはかった。宴会えんかいせききょうおうりかかるが、失敗しっぱいし、きょうおう負傷ふしょうしただけでうまってった。きょうおうほそ沈痩はにんあきらおよかいゆう赤谷あかたにじょうにて包囲ほういした。数カ月すうかげつ西域せいいきみやこまもるていよし諸国しょこくへいはっしてこれをすくった。かんちゅうろうしょうちょうつかわしてきょうおう治療ちりょうさせ、かね20きんたまわった。にんあきら長安ながやす連行れんこうされ斬首ざんしゅされた。くるま将軍しょうぐんちょうちょうおうかいらにきょうおう暗殺あんさつ尋問じんもんをしたさいかいゆうあたまをつかんでののしった。かいはこのことを上書うわがきしたので、ちょうおうぎゃく死刑しけいとなった。

こえおうおう靡とえびすとのであるがらす就屠は、きょうおう負傷ふしょうしたときに、翕侯らとともに避難ひなんしていた。きた山中さんちゅうにて、ははである匈奴きょうど帰順きじゅんし、きょうおう襲撃しゅうげきしてころし、みずかってこんわたるとなった。かんやぶ羌将ぐんからしたけけん派遣はけんしてこれをたせたが、西域せいいきみやこまもるていきちほどけゆう侍女じじょの馮嫽にがらす就屠を説得せっとくさせたので、がらす就屠は帰順きじゅんした。かんあらたにもとだいこんわたるがらす就屠をしょうこんわたるとし、がらすまご君主くんしゅふたつにけ、さらにその人民じんみんふたつにけ、ちょうこうつねめぐみ赤谷あかたにじょうにて監督かんとくさせた。

甘露かんろ3ねんぜん51ねん)、もと靡やみみずく靡がみな病死びょうししたので、かい遺骸いがいかんめたいと上書うわがきし、かいは3にんまごとともにかん帰国きこくし、たく奴婢ぬひたまわった。かいはその2ねんくなった。

もと靡のほしわってだいこんわたるとなるが、からだよわかったので、馮嫽は護衛ごえいをつけるよう上書うわがきした。のちに西域せいいきみやこまもるかんせんほし靡を廃位はいいして、ひだり大将たいしょうだいらくこんわたる即位そくいさせるべきだと上奏じょうそうしたが却下きゃっかされた。ほし靡がぬと、めすぐりだいこんわたる即位そくいした。

しょうこんわたるがらす就屠がぬと、拊離即位そくいしたが、おとうところされる。逃亡とうぼうし、かんきょった。かん使者ししゃは拊離のやすててしょうこんわたるとした。やす貴人きじんしゅうと莫匿ら3にん一味いちみまぎれさせ、これを刺殺さしころさせた。

のちやすくだみんころされ、かんはそのおとうとすえはたしょうこんわたるとした。ときだいこんわたるめすぐり靡は健在けんざいで、翕侯らはかれ心服しんぷくし、くにちゅうおう靡のとき以来いらい大安たいあんとなっていたが、しょうこんわたるすえしょうおそれて、貴人きじんがらすりょうめすぐり靡を刺殺さしころさせた。かんちゅうろうしょうだんかいむねつかわし、めすぐり靡のしたがえ叔父おじかいゆうまご)の秩靡だいこんわたるとした。だいこんわたるの翕侯のなん棲はすえしょうころし、すえしょうあにやすやす犁靡わってしょうこんわたるとなった。もとのべ2ねんぜん11ねん)、かんはふたたびだんかいむねめいじて、その太子たいしばんおからせた。

もと寿ことぶき2ねんぜん1ねん)、だいこんわたる秩靡とたん于はかん入朝にゅうちょうした。元始げんしなかいたり、すえしょうおとうとの卑爰疐はがらすりょうころし、かんかれこうふうじた。りょうこんわたるみなよわく、卑爰疐はりょうおかしたので、西域せいいきみやこまもるまごけんはこれをおそってころした。

[2]

こうかん時代じだい[編集へんしゅう]

1世紀せいき中央ちゅうおうアジアの地図ちず

こうかんながひらた17ねん74ねん)、がらすまごかん名馬めいばけんじてさむらい入朝にゅうちょうう。

たてはじめ8ねん83ねん)、まもるこう邑に護送ごそうされ、がらすまご使者ししゃ大小だいしょうこんわたるからのにしき帛をこうかん献上けんじょうした[3]

きたたかし時代じだい[編集へんしゅう]

きたたかしふとしのべ3ねん437ねん)、さむらいろうただし高明こうめいらはふとしたけみかどいのちけて西域せいいきかい、鄯善はじめ9カ国かこくを招撫し、がらすまごこくて、ただし琬はやぶらくフェルガナ)に、高明こうめいものした(チャーシュ:現在げんざいタシュケント)にいたった。このときがらすまごはたびたびやわしかおかされ、西にしねぎみねさんなかうつっていた[4]

5世紀せいきから6世紀せいきにかけてがらすまごぞく姿すがたした。

習俗しゅうぞく[編集へんしゅう]

がらすまご遊牧民ゆうぼくみんなので、その習俗しゅうぞくはほとんど匈奴きょうどおなじである。うまおおく、とみじんになると4~5せんひき所有しょゆうする。かおそちいわ西域せいいき諸国しょこくなかもっと中国ちゅうごく民族みんぞく容貌ようぼうことなり、くぼみ、はなたかく、あおあかがおであった。コーカソイド遺伝いでんてき影響えいきょう色濃いろこった集団しゅうだんだったようである。

地理ちり[編集へんしゅう]

もともとがらすまごぞくつきぞくとも敦煌とんこう付近ふきん河西かさい回廊かいろう)にらしていたが、こんちちだいになって隣国りんごく匈奴きょうど侵攻しんこうい、その支配しはいはいる。匈奴きょうどろううえたん在位ざいいぜん174ねん - ぜん161ねん)のだいになってイリ地方ちほう大月おおつき討伐とうばつめいぜられたこん莫は、ちち旧臣きゅうしんひきいて大月おおつきをイリ地方ちほうからし、そこに居座いすわった。紀元前きげんぜん161ねんこん莫はろううえたん于のじょうじて匈奴きょうどから独立どくりつし、イリ地方ちほうがらすまごこく建国けんこくする。これ以降いこうがらすまごかん親密しんみつ関係かんけいきずきながら独立どくりつたもち、5世紀せいきやわしか侵攻しんこうまでイリ地方ちほうくにっていた。

イリ地方ちほうではみなみ天山あまやま山脈さんみゃくかこまれながらイシクみずうみ周辺しゅうへん本拠ほんきょ赤谷あかたにじょう)をき、たびたび周辺しゅうへんこくらしていた。現在げんざい赤谷あかたにじょうのあったところはイシクみずうみ水没すいぼつしており、湖底こていでその遺跡いせきらしきものが発見はっけんされている。

政治せいじ体制たいせい[編集へんしゅう]

くにおさめる君主くんしゅこんわたる(こんび)といい、赤谷あかたにじょう本拠地ほんきょちとした。官職かんしょくそう宰相さいしょう)・だいろく左右さゆう大将たいしょう2人ふたりほうが3にん大将たいしょうじょうかく1人ひとりだいかん2人ふたりだい吏が1人ひとりしゃ中大ちゅうだい吏が2人ふたりくんが1にんいた。

支配しはい民族みんぞくがらすまごぞくだが、支配しはい民族みんぞくにはふさがぞくつきぞくがいた。これはがらすまごぞくイシクみずうみ周辺しゅうへん移住いじゅうして以前いぜんに、匈奴きょうどからのがれてきたつき氏族しぞくがおり、それよりもまえふさがぞくんでいたためである。もともとがらすまごぞくつき氏族しぞく同様どうよう匈奴きょうどめられる以前いぜん敦煌とんこう祁連あいだんでいた。

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

がらすまご君主くんしゅごうこんわたる(こんび)といい、のちにだいこんわたるしょうこんわたるかれ、二人ふたり君主くんしゅいただいた。

こんわたる

  1. こんりょうおご靡)…なんかぶと靡の
  2. 岑陬ぐん須靡)…こん莫のまご
  3. こえおうおう)…岑陬の従弟じゅうていだいろく
  4. きょうおうどろ)…岑陬の
  5. がらす就屠おう靡のしょうこんわたるとなる

だいこんわたる

  1. もとおう靡の長子ちょうし
  2. ほしもと靡の
  3. めすぐりほし靡の
  4. 秩靡もと靡のおとうとだいらくめすぐり靡のしたがえ叔父おじ

しょうこんわたる

  1. がらす就屠
  2. 拊離がらす就屠の
  3. やす…拊離の
  4. すえはたやすおとうと
  5. やす犁靡やす

秩靡とやす犁靡ののちおうみつるつづくとおもわれるが、それをつたえる史料しりょう発見はっけんされていない。

がらすまご語源ごげん[編集へんしゅう]

かんだい中国語ちゅうごくごにおける「がらすまご」は「アスウェン(âswin)」とまれる。これは古代こだいインドで「騎手きしゅ複数ふくすうがた」(または双子ふたご騎手きしゅかみ)を意味いみする「アシヴィン(aśvin)」にちかく、「がらすまご」の原名げんめいは「アシヴィン(aśvin)」であったと推測すいそくされる[5]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ とり(トリ)ではなくがらす(カラス)まご表記ひょうきする。
  2. ^ 史記しきだいあてでん、『漢書かんしょ西域せいいきでん
  3. ^ こう漢書かんしょはんはり列伝れつでん
  4. ^ しょ西域せいいきでん
  5. ^ ベックウィズ 2017,p536

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

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