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ひねいた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひねいた
しょくかん
ちんこうせい西にし将軍しょうぐん永安えいあんとく
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
しゅうなんじみなみぐん
死去しきょ 没年ぼつねんしょう
拼音 Chén Dào
叔至
主君しゅくん りゅうりゅうぜん
テンプレートを表示ひょうじ

ひね いた(ちん とう、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいにかけてのしょくかん武将ぶしょう叔至しゅうなんじみなみぐんひと

概要がいよう

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りゅうしゅう刺史ししつとめていたころからの家臣かしんで、しろ毦兵またはしろみみへいしょうされる精鋭せいえい部隊ぶたい[1]ちょうつとめ、名声めいせい官位かんいともにちょうくもいだため忠節ちゅうせつ勇武ゆうぶ武将ぶしょうとしてとなえられた。

けんきょう元年がんねん223ねん)、りゅう備の死後しご永安えいあんみやこただしせい西にし将軍しょうぐん官位かんいのぼり、ちんこうふうじられた。

けんきょう4ねん226ねん)、いわお永安えいあんからしゅう陣営じんえい移動いどうさせたが、ひねいたつづ永安えいあん駐留ちゅうりゅうし、守備しゅび継続けいぞくしている[2]在官ざいかんのまま死去しきょした[3]

三国志さんごくし』での明確めいかく記述きじゅつ以上いじょうである。しょくでは史官しかんをおいていなかったため記録きろく散逸さんいつしており、ちん寿ひさしが『しょくしょ三国志さんごくし)』を編纂へんさんするさい使つかえた資料しりょうはかなりすくなかった。しょくめいしんたたえる楊戯の『かん輔臣さん』では、ひねいたの「忠誠ちゅうせい」を評価ひょうかしている[4]。また、ちょうくも共々ともどもきのへい指揮しきして、勲功くんこうをあげたもうしょう」と賞賛しょうさんされている[4]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』には登場とうじょうしない。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 太平たいへい御覧ごらんまきさんよんいち
  2. ^ 華陽かようこくこころざし』では、永安えいあんとくちんこうになったのはこのときとなっている。ウィキソース出典 華陽かようこくこころざし/まきなな (中国ちゅうごく), 華陽かようこくこころざし/まきなな#りゅうしゅこころざし, ウィキソースより閲覧えつらん  - よんねん永安えいあんまもるいわおかえとくしゅうじょうともみ」〔ぐん〕〈りゅうほんさく。〉大城おおしろ。〈げんゆたかほんさくじょうともみぐん大城おおき」。ちょうなにおう石本いしもとさくかえとくしゅうともえぐん」,大城おおしろちょうけいたねしょ妄改也。〉いわおさらさく大城おおきともえこころざし》。以征西にし將軍しょうぐんなんじみなみひねいたとく永安えいあんふうていこうこれさいぶんみかどくずしあかりみかどりつ
  3. ^ ウィキソース出典 華陽かようこくこころざし ともえこころざし (中国ちゅうごく), 華陽かようこくこころざし/卷一けんいち#ともえひがしぐん, ウィキソースより閲覧えつらん  - いむかえしゅうせい西にし將軍しょうぐんなんじみなみひねいたためとくいたそつかん
  4. ^ a b ウィキソース出典 かん輔臣さんさんちょうりゅうちん叔至〉 (中国ちゅうごく), かん輔臣さん, ウィキソースより閲覧えつらん  - せいみなみあつおもせい西にし忠克ただかつみつるせんもう將之まさゆきれつ

参考さんこう文献ぶんけん

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正史せいし 三国志さんごくし 5 しょくしょ」(ちん寿ひさし しる裴松 ちゅう井波いなみ律子りつこ やく)ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ ISBN 4-480-08045-7