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やすし (ずい)

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やすし(り あん、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくきたあまねからずいにかけての武人ぶじんとう高祖こうそふかし従兄じゅうけいにあたり、宗室そうしつとして西平にしだいらおうついふうされた。げんとくほんぬき隴西ぐん狄道けん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

きたあまねついたちつばめ恒三こうぞうしゅう刺史ししじょうたけけんおおやけ蔚(とらなななん)のとしてまれた。きたしゅう天和てんわ年間ねんかんみぎさむらい上士じょうし初任しょにんとし、じょうたけけんおおやけ爵位しゃくいいだ。どうしょうみぎ上士じょうしけた。580ねん楊堅丞相じょうしょうとなると、やすしはその側近そっきんとしてされ、職方しょくかたちゅう大夫たいふてんじた。やすし伯父おじやなしゅう刺史ししあきらが、きたあまねちょうおう宇文うぶんとともに楊堅の殺害さつがいはかり、やすしおとうとをその陰謀いんぼうさそった。悊は「これをそのままにするのは不忠ふちゅうであるし、密告みっこくするのは不義ふぎである。ちゅううしなうのでは、いかにしょしたらよいのだろうか?」とってやすし相談そうだんした。やすしは「丞相じょうしょうちちおなじである。そむくことができようか」とこたえた。そこでひそかに楊堅に報告ほうこくした。ちょうおう宇文うぶん招らが処刑しょけいされると、やすし兄弟きょうだい褒賞ほうしょうくわえられることとなったが、やすしは「兄弟きょうだい汗馬かんばろうなく、伯父おじ謀反むほんこしたしまつ。伯父おじいのちわりに褒賞ほうしょうもとめることができましょうか」といて謝絶しゃぜつした。楊堅はこのためつみあきら一身いっしんにとどめ、あきらこうがせた。まもなくやすし開府かいふどうさんつかさけ、ちょうぐんこうすすんだ。

581ねんずいてられると、やすしうちさむらいろうにんじられ、尚書しょうしょひだりすすむ黄門こうもんさむらいろうてんじた。南朝なんちょうひねたいする征戦せいせんにおいて、楊素した司馬しばとなり、行軍こうぐんそうかんね、しょくへいひきいて長江ながえながれに沿ってひがしくだした。ときにひねぐんしろすな駐屯ちゅうとんし、船上せんじょうにとどまっていた。やすししょしょう賛同さんどうをえてひねぐん夜襲やしゅうし、みずからはへいひきいて先鋒せんぽうち、ひねぐん撃破げきはした。功績こうせきによりくらいうえ大将軍だいしょうぐんすすみ、郢州刺史ししにんじられた。数日すうじつ鄧州刺史ししてんじた。やすし宮中きゅうちゅうしょくもとめ、ひだりりょう左右さゆう将軍しょうぐんにんじられた。まもなくみぎりょうぐん大将軍だいしょうぐんてんじた。おとうと悊とともに禁衛きんえいをつかさどり、ぶんみかど(楊堅)の信頼しんらいあつかった。588ねん突厥ずい北辺ほくへん侵入しんにゅうすると、やすし行軍こうぐんそうかんとなり、楊素のしたで突厥をった。べつどうとおって長川おさがわて、突厥ぐん渡河とかするところにたたかいをいどみ、撃破げきはした。601ねんやすししゅう刺史ししとして出向しゅっこうした。

くらいはしらこくすすんだ。水腫すいしゅわずらって、病没びょうぼつした。享年きょうねんは53。おくりなふところといった。とうてられると、れいおうついふうされ、さらに西平にしだいらおうついふうされた。

子女しじょ[編集へんしゅう]

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]