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チベットけい民族みんぞく

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チベットけい民族みんぞく(チベットけいみんぞく)とは、言語げんごがくじょうとしてのチベット・ビルマチベットぐん英語えいごばん(Bodish languages)をもちいるモンゴロイドけいしょぞく総称そうしょうである。北部ほくぶ騎馬きば民族みんぞく遊牧民ゆうぼくみん)がおおく、南部なんぶ農耕のうこう民族みんぞくおおい。

チベット高原こうげん起源きげんとするが、カシミールラダック地方ちほうパキスタンがわバルティスターン住人じゅうにんのように、かならずしも「チベットけい民族みんぞく一員いちいん」としての自意識じいしきっていない集団しゅうだんふく場合ばあいがある。

チベットけい民族みんぞく一部いちぶのうち、きたインドカシミールネパールネパールじん)やミャンマービルマぞく)では、ふるくからコーカソイドぞくするインド・アーリアけいとの混血こんけつがあり、中央ちゅうおうアジアにいたチベットけい民族みんぞく一部いちぶ現地げんちテュルクけい同化どうかしていった(サラールぞくなど)。

吐蕃の4つの有力ゆうりょく部族ぶぞく勢力せいりょく

かく民族みんぞく

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  1. チベット民族みんぞく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく民族みんぞく識別しきべつ工作こうさくでは「ぞうぞく」、「羌族」、ローバぞくメンパぞくなどに区分くぶんされ、少数しょうすう民族みんぞく位置付いちづけられた集団しゅうだん
    1. メンパぞくチベットマクマホン・ライン以南いなんやメン地方ちほう中国ちゅうごく西蔵にしくら自治じちロカツォナルンツェ)やニンティメトクザユル)の南部なんぶインドさい北東ほくとうアルナーチャル・プラデーシュしゅうなどに居住きょじゅうする独特どくとく風習ふうしゅうをもった集団しゅうだんメンバ英語えいごばんはなす。
  1. 東部とうぶチベット諸語しょご英語えいごばん(East Bodish languages)をもちいる民族みんぞく

その

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  1. ローバぞく(チベット自治じち居住きょじゅう
  2. チャンぞく四川しせんしょう居住きょじゅう
    プミぞく (雲南うんなんしょう居住きょじゅう。チャンぞくけい
  3. ネワールぞくネパール少数しょうすう民族みんぞく
  4. タマンぞく(ネパールの少数しょうすう民族みんぞく
  5. シェルパぞく(ネパールの少数しょうすう民族みんぞく
  6. マガールぞく(ネパールの少数しょうすう民族みんぞく
  7. レプチャじんきゅうシッキム王国おうこく。インドのシッキムしゅう
  8. ブティヤじんきゅうシッキム王国おうこく。インドのシッキムしゅう
  9. バルティじんパキスタンギルギット・バルティスタンしゅう居住きょじゅう。コーカソイドけいダルドぞく英語えいごばん混血こんけつ

そのにインド北部ほくぶレー地方ちほうにもチベットけい民族みんぞく存在そんざいする。

歴史れきし

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いんしゅう時代じだいにはという民族みんぞくがいた。『史記しきさくかくれ』がく『たけしょ紀年きねん』によると、羌はいん奴隷どれいとして苦難くなんいられたとべている。みかどからし(紂王)のだいにかつての臣下しんかだったりょひさしが羌出身しゅっしんきょうせいとされ[1]しゅうぶんおうたけおう父子ふしつかえて、いんほろぼした戦功せんこうにより、山東さんとうにあるひとしふうじられた。戦国せんごく時代じだい後期こうき紀元前きげんぜん386ねんひとしによってほろぼされた。

また、ぜん5世紀せいき春秋しゅんじゅう時代じだい末期まっきに羌の酋長しゅうちょう弋爰けん存在そんざいした。

さんこく時代じだい末期まっきえびすじゅうろくこく時代じだい隴西地方ちほうからたかしによってしょく地方ちほう移住いじゅうした氐系ともえ賨族の首長しゅちょうとく徐々じょじょ勢力せいりょくて、なりかんなりしょく)を建国けんこくしてつよぜいほこったが、あずますすむ安西あんざい将軍しょうぐん桓温によってほろぼされた。

さらに、おなじ氐出身しゅっしんぜんはた苻堅台頭たいとうして、これも勢力せいりょくほこるも淝水のたたかあずますすむやぶれ、配下はいか鮮卑慕容慕容たれ離反りはんするい、最後さいごは羌の首長しゅちょう姚萇裏切うらぎりで非業ひごう最期さいごげた。苻堅にかわってこうはたきずいた姚萇の政権せいけんも、417ねんあずますすむ将軍しょうぐんりゅうひろしりゅうそうたけみかど)によってほろぼされた。

苻堅の武将ぶしょうであったりょこうも氐出身しゅっしんで、甘粛かんせいで苻堅のくとこうりょう建国けんこくした。403ねんこうしん姚興(姚萇の)によってほろぼされた。

時代じだいながれて、7世紀せいきはじめにチベット高原こうげんにて鮮卑慕容吐谷渾支配しはいから独立どくりつした吐蕃勢力せいりょくて、南方なんぽうみなみみことのり対立たいりつしつつとうしんぞくした。しかし、安史やすしらんこると、吐蕃はやすろくやまんで、とうに叛いた。以降いこうから吐蕃はとうたいして優位ゆういった。とうしゅちょんただしによってほろんでだいじゅうこく時代じだいになると、吐蕃は勢力せいりょく拡大かくだいした。やがてそうきたそう)の時代じだいになると、おなじチベットけい羌であるタングートモンゴルしたテュルクけいという[2])とんで、そう背後はいごいて侵略しんりゃくかえした。しかし、吐蕃は内乱ないらんによってほろんでしまい、王室おうしつ四散しさんした。

一方いっぽう、タングートはとう時代じだいから存在そんざいしたが、上記じょうきの吐蕃に圧迫あっぱくされて甘粛かんせいやすしなつ地方ちほう北進ほくしんして、西にしなつ建国けんこくした。これもとうしんぞくしたため、鮮卑ふうつぶせばつせいからせいたまわった。西にしなつは吐蕃とことなり、はじめはそう反抗はんこうするも次第しだいしんぞくした。同時どうじちぎりりょうおんなしんきむにもしんぞくし、勢力せいりょくたもった。やがて、モンゴル帝国ていこくとなるチンギス・カン台頭たいとうすると、西にしなつかね属国ぞっこくとしてチンギス・カンとたたかうが、きむ援軍えんぐんおくらなかったために大敗たいはい和睦わぼくして、チンギス・カンにしんぞくした。しかし、のちにチンギス・カンに叛いたため、1227ねん滅亡めつぼうした。

17世紀せいき18世紀せいきにかけてモンゴルけいオイラトぞくするジュンガルチベット仏教ぶっきょうゲルク密接みっせつ関係かんけいにあるため、あきらまんしゅうきよしとは敵対てきたい関係かんけいにあった。しかし、オイラトの首長しゅちょうガルダンきよしかん熙帝遠征えんせいけ、最後さいごおいツェワンラブタンあにセンゲの)の裏切うらぎりで、アルタイ山脈さんみゃくほとりまでのがれて病死びょうしした。のタンチラがそのいだ。

以降いこうからし革命かくめいによる中華民国ちゅうかみんこくて、現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく統治とうちチベット自治じち中心ちゅうしんとするチベットけい民族みんぞく歴史れきし経由けいゆいたっており、ダライ・ラマ14せいひきいる人々ひとびとが、平和へいわてき独立どくりつ運動うんどうぜん世界せかいうったえている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 藤堂とうどうあきらせつ
  2. ^ 宮脇みやわき淳子じゅんこ『モンゴルの歴史れきし 遊牧民ゆうぼくみん誕生たんじょうからモンゴルこくまで』(2002ねんかたなすい書房しょぼう)137ページ、ドーソン訳注やくちゅうこうとおる)『モンゴル帝国ていこく1』(1989ねん平凡社へいぼんしゃ)309-311ページ(ただし、311ページでは「タングートはじつはチベットけいである」と記述きじゅつされている)。

関連かんれん項目こうもく

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