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ふみ (せい)

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ふみ(ふひと/ふみひと)とは、古代こだい日本にっぽんにおいて文筆ぶんぴつ記録きろく職務しょくむにあたった渡来とらいじんけいかんじん組織そしきのちせい(カバネ)の1つにてんじた。

元々もともとは「ふみひと」とまれ、「史人ふみと」「文人ぶんじん」「しょじん」などとも表記ひょうきされていたが、のちに「ふみひと」がりゃくされて「ふひと」ともまれるようになり、表記ひょうきも「ふみ」としるされるようになった。

漢字かんじ中国ちゅうごくもしくは朝鮮半島ちょうせんはんとうから伝来でんらいされたのが日本にっぽんにおける文字もじはじまりとされ、文筆ぶんぴつ記録きろくなど文字もじあつか業務ぎょうむ中国ちゅうごくけいおよ朝鮮半島ちょうせんはんとうけい渡来とらいじんによってになわれた。こうした業務ぎょうむおこな人々ひとびとがふみひと(史人ふみとにふひと(ふみ)としょうされ、のち一族いちぞくやその部民ぶみんをもってふみ(ふひとべ)として編成へんせいされた。

滋賀しがけん野洲やす西河原にしがわら宮ノ内みやのうち遺跡いせき確認かくにんされた、倉庫そうことみられるそうはしら建物たてものはしら抜取ぬきとあなから出土しゅつどした木簡もっかんには、「むべむべむくじん」や「ぶんさくじん石木いしきぬしすん文通ぶんつう」、「かち鹿しかくび大国たいこく」という人物じんぶつめいえるが、なかでも「ぶんさくじん」というのは、しん真智まちおうだいつちのえ戌年いぬどし578ねん)の「だいていつちのえ戌年いぬどしめい塢作」にえる「ぶんさくじん」と一致いっちしており、ふみひと(ふみ)の職掌しょくしょうあらわれいかんがえられる[1]

「ふひと」の制度せいど6世紀せいきはいってからとられ、のちぞくする人々ひとびとに「ふみ」のせいあたえられるようになっていった(『日本書紀にほんしょき』の記事きじじょうでは、欽明天皇てんのう14ねん553ねん)におうたつなんじふねさづけられたのが「ふみ」のせい最初さいしょであるが、「ふみひと/ふひと」の制度せいどがこの時点じてんにおいてすで存在そんざいしていたことになる)。せいしょうしたことがられているのは、田辺たなべふみ(たなべのふひと)・おもねちょく岐史(あちきのふひと)・ふね(ふねのふひと)・しろいのしし(しらいのふひと)など70いるが、いずれも渡来とらいじん末裔まつえいである。また、外交がいこう徴税ちょうぜいなど、文書ぶんしょ記録きろく作成さくせい必要ひつようとするほか分野ぶんやにおいてもせい人々ひとびと従事じゅうじしていた。ただし、漢字かんじ伝来でんらいおおきな貢献こうけんをしたとつたえられている阿知あち使ぬし末裔まつえいであるひがしかんじき王仁わに末裔まつえいである西にしあやくびせい特別とくべつあたえられておよび管掌かんしょうする立場たちばとなっていた。はちしょくせい成立せいりつあたらしいせい授与じゅよ対象たいしょうにならなかったふみせいものつづきそのせいもちいていたが、天平てんぴょうたから元年がんねん757ねん)に藤原ふじわらふみ藤原不比等ふじわらのふひとべつ表記ひょうき)をけるために「毘登」と表記ひょうきあらためたが13ねんもともどしたことが『ぞく日本にっぽんたからひさし元年がんねん770ねんきゅうがつみずのえいぬじょうしるされている(なお、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によれば、藤原不比等ふじわらのふひと幼少ようしょう田辺たなべ一人ひとりである田辺たなべ大隅おおすみ養育よういくされ、とうふみ)の名前なまえ自体じたいもそれに由来ゆらいしているとされている)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]