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桃井ももい

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桃井ももい(もものいし/もものいうじ)は、日本にっぽん氏族しぞく清和せいわはじめ足利あしかが支族しぞくで、足利あしかが義兼よしかねである兵部ひょうぶしょう桃井ももい義助よしすけよしみもと元年がんねん1225ねん)に上野うえのこく群馬ぐんまぐん桃井ももいきょう現在げんざい群馬ぐんまけん北群馬きたぐんまぐん榛東しんとうむら旧名きゅうめい桃井ももいむら)の荘司しょうじ地頭じとう補任ほにんしょう)となり、苗字みょうじとし桃井ももいしょうした[1][2][3]。 

桃井ももい
家紋
本姓ほんせい 清和せいわはじめ河内かわうちはじめ
りゅう
いえ 桃井ももい義胤よしたね
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 上野うえのこく群馬ぐんまぐん桃井ももいしょう
おも根拠地こんきょち 越前えちぜんこく
えつ中国ちゅうごく
武蔵むさしこく
上野うえのこく
著名ちょめい人物じんぶつ 桃井ももいただしかい
桃井ももいただしつね
桃井ももい直信なおのぶ
桃井ももい尚義ひさよし
桃井ももい直弘なおひろ
桃井ももいさだしょく
桃井ももい義盛よしもり
桃井ももいけんよし
桃井ももい義孝よしたか
桃井ももいよしきょう
支流しりゅう分家ぶんけ さいわいわか
橋本はしもと
温井ぬくい
大河内おおこうち
牧村まきむら
みなもとせい湯浅ゆあさ
金子かねこ
篠原しのはら
浅見あさみ
阿久沢あくざわ
奥沢おくさわ
福本ふくもと
巻島まきしま
杉本すぎもと
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

ふたつの桃井ももい[編集へんしゅう]

平安へいあん後期こうき上野うえのこく群馬ぐんまぐん桃井ももいきょう在地ざいち領主りょうしゅしたものけい桃井ももい(物部ものべ)が支配しはいしたが、鎌倉かまくら初期しょき和田わだ合戦かっせん承久じょうきゅうらん没落ぼつらくし、足利あしかがけい桃井ももい中期ちゅうき以降いこう桃井ももいさと中心ちゅうしん勢力せいりょくばした。この桃井ももいは、とう村東むらひがし山子田やまこだ居館きょかんいたって地内じないながれるうまおう頭川ずかわ水系すいけい掌握しょうあくする一方いっぽう山野さんや耕地こうちとの境界きょうかい長大ちょうだいなシシドテをきずいてすすむのうつとめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

足利あしかが 3だい当主とうしゅ足利あしかがよしまごである桃井ももい義胤よしたねで、上野うえのこく群馬ぐんまぐん桃井ももいそうげん群馬ぐんまけん榛東しんとうむら桃井ももい)をりょうして「桃井ももい」をしょうしたのがはじまり。

概要がいよう[編集へんしゅう]

桃井ももい足利あしかが庶家であり[4]鎌倉かまくら時代ときよには御家人ごけにんとして桃井ももいしょうじゅうし、義助よしすけ曾孫そうそんだいいたり、三郎さぶろう桃井ももいたねけい子孫しそん桃井ももい尚義ひさよし)、しょう二郎じろう桃井ももいよりゆきただしけい子孫しそん桃井ももいただしつね桃井ももい直信なおのぶ兄弟きょうだい)の2系統けいとうかれた[1][2]

鎌倉かまくら時代じだい末期まっき[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよすえ動乱どうらんではろく探題たんだいめの足利尊氏あしかがたかうじぐん桃井ももいただしつね桃井ももい直信なおのぶ兄弟きょうだい鎌倉かまくらめの新田にった義貞よしさだぐん桃井ももい尚義ひさよしぞくして行動こうどうをともにしたのが、一族いちぞくではもっと著名ちょめいである。そうして鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう貢献こうけんした。

南北なんぼくあさ動乱どうらん[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさでの一族いちぞくみなみ朝方あさがたきた朝方あさがたかれてたたかった。 1333ねん(せいけい2ねん)には、桃井ももい一族いちぞく新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくら攻略こうりゃくせん従軍じゅうぐんしたが、たてたけし新政しんせい崩壊ほうかい武家ぶけかた宮方みやかた双方そうほう分裂ぶんれつして南北なんぼくあさ動乱どうらんむかえた。 とく武家ぶけかた桃井ももいただしつね直信なおのぶ兄弟きょうだい驍将ぎょうしょうとしてせた。 えつ中国ちゅうごく守護しゅごともなったちょくつねだったが、かんおう擾乱じょうらんときから足利あしかが直義ただよし直冬ただふゆいきおい有力ゆうりょく武将ぶしょうとしてつねたかし敵対てきたいしていたため直義ただよし敗北はいぼく北朝ほくちょう幕府ばくふ抵抗ていこうつづけつつも次第しだい衰退すいたいしていった[1]

一族いちぞく[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよにかけて諸国しょこくかれた桃井ももいがあった。本拠地ほんきょちである上野うえのこく所領しょりょうのあった越前えちぜんこく武蔵むさしこくえつ中国ちゅうごく信濃しなのこく越後えちごこく美濃みのこく隠岐おきこく紀伊きいこくなどにひろがった。 福井ふくいけんさいわいわか橋本はしもと蜂屋はちや群馬ぐんまけん榛東しんとうむらみなもとせい湯浅ゆあさ前橋まえばし阿久沢あくざわ奥沢おくさわ埼玉さいたまけん戸田とだ金子かねこしの幸手さって巻島まきしまという。 能登のとこく守護しゅご畠山はたけやま家臣かしん温井ぬくい、なお能登のとこく温井ぬくいは、桃井ももい直信なおのぶ の嫡男ちゃくなん景信かげのぶが(藤原ふじわらせい温井ぬくいけいじきむかえられ桃井ももいからせいあらためたもの、という。

著名ちょめいじん[編集へんしゅう]

室町むろまちさいわいわかまい創始そうししたさいわいわかとなった桃井ももいただしかいちょくつねまごたるという。幕末ばくまつ活躍かつやくした橋本はしもとひだりない輩出はいしゅつした橋本はしもと桃井ももいただしつね末裔まつえいしょうした。

桃井ももい直和なおかずまごにあたるにちたかし戦国せんごく時代じだい織田おだ信長のぶなが自刃じじんした本能寺ほんのうじへん有名ゆうめい本能寺ほんのうじ開山かいさんしている。

戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう越後えちご上杉うえすぎ家臣かしん桃井ももい義孝よしたかちょくかい末裔まつえいられる。

思想家しそうか桃井ももいどう(はじめは福本ふくもとせい)、剣術けんじゅつ桃井ももいはるぞう秋山あきやま多吉郎たきちろうがいる。また、富山大学とやまだいがく教授きょうじゅ倫理りんりがくせんもん杉本すぎもと新平しんぺい桃井ももいただしつね末裔まつえいとされる[5]

系図けいず[編集へんしゅう]

足利あしかが義兼よしかね2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
畠山はたけやま初代しょだい
畠山はたけやま太郎たろうよしじゅん
桃井ももい初代しょだい
桃井ももい次郎じろう義助よしすけ
足利あしかが三郎さぶろうよし3
 
 
 
 
義胤よしたね足利あしかが四郎しろう
 
 
 
 
よりゆき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三郎さぶろうけい初代しょだい
たね
しょうろうけい初代しょだい
よりゆきただし
 
 
 
 
 
 
[すうだいりゃく]すうだいりゃく
 
 
 
 
 
 
尚義ひさよしさだよりゆき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょくつね直信なおのぶ
 
 
 
 
直和なおかず

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c kotobank-桃井ももい, 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん.
  2. ^ a b kotobank-桃井ももい, 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ.
  3. ^ kotobank-桃井ももい, ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん.
  4. ^ 藪塚やぶづか 1976, p. [ようページ番号ばんごう].
  5. ^ 富山新聞社とやましんぶんしゃ へん越中えっちゅうひゃくいえ上巻じょうかん〉』北国きたぐに出版しゅっぱんしゃ、1970ねん、299,300ぺーじASIN B000J9DA86 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 桃井ももい”. コトバンク. 2018ねん10がつ29にち閲覧えつらん
  • 富山新聞社とやましんぶんしゃ越中えっちゅうひゃくいえ上巻じょうかん〉』(北国きたぐに出版しゅっぱんしゃ、1973ねん) ASIN: B000J9DA86
  • 富山とやまみなみ高等こうとう学校がっこうれき南北なんぼくあさ動乱どうらん桃井ももいただしつね : ちょくつね越中えっちゅう守護しゅご赴任ふにんろくひゃくじゅうねん記念きねんして』富山とやま県立けんりつ富山とやまみなみ高等こうとう学校がっこうれき、1993ねん10がつ 
  • 藪塚やぶづか, ごえづくり新田にった一門いちもんつづけ藪塚やぶづかごえづくり、1976ねんNCID BB00986234