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高師たかしかい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
こう かい
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい初期しょき
生誕せいたん 不明ふめい[1]
死没しぼつ 正平しょうへい8ねん/文和ふみかず2ねん6月12にち1353ねん7がつ13にち
別名べつめい 武蔵むさしはたかん[1]
官位かんい 左近さこん大夫たいふ将監しょうげん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ丹後たんご但馬たじま守護しゅご(丹波たんば守護しゅご?)
主君しゅくん 足利尊氏あしかがたかうじ
氏族しぞく こう
父母ちちはは ちち高師直こうのもろなお
兄弟きょうだい なつむすめ渋川しぶかわただしよりゆきしつ
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こう かい(こう の もろあきら)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう足利あしかが家臣かしん

生涯しょうがい

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室町むろまち幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじ執事しつじであった高師直こうのもろなお異母いぼ兄弟きょうだいなつがいる[注釈ちゅうしゃく 1]

かんおう擾乱じょうらんによりかんおう2ねん/正平しょうへい6ねん2がつ26にち1351ねん3月24にち)にちちじきをはじめおおくのこう一族いちぞく足利あしかが直義ただよし上杉うえすぎ能憲よしのりらによって殺害さつがいされたが、かい一族いちぞくべつ行動こうどうをしておりなんのがれている[1]じき後継こうけいしゃとされていたなつちちとともにたれたため、阿保あほ忠実ちゅうじつ荻野おぎの朝忠ちょうちゅうらによって「片田舎かたいなかかくれて」いたかい後継こうけいしゃとして擁立ようりつされたという[2][注釈ちゅうしゃく 2]

かんおう3ねん/正平しょうへい7ねん(1352ねんごろより丹後たんごこく守護しゅご[7]よく文和ふみかず2ねん/正平しょうへい8ねん(1353ねんごろより但馬たじまこく守護しゅご[8]にんぜられた。また、『太平たいへい』の記述きじゅつ[注釈ちゅうしゃく 3]から丹波たんばこく守護しゅごいていた可能かのうせいもある[注釈ちゅうしゃく 4]かいがこれらのくに守護しゅごしょくにんぜられたのは、かんおう擾乱じょうらん直義ただよし味方みかたし、いったん幕府ばくふ帰順きじゅんしたもののその向背こうはいあやぶまれていた山名やまなそなえるためとられている。

文和ふみかず2ねん/正平しょうへい8ねん(1353ねん)5がつ山名やまな佐々木ささきみちほまれ所領しょりょう問題もんだい対立たいりつ南朝なんちょうくみして幕府ばくふ反乱はんらんこす。出雲いずも佐々木ささきぐんやぶった山名やまなぐんは、楠木くすのき正儀まさよし連合れんごうして6がつはい京都きょうと突入とつにゅうはかる。かい丹波たんば丹後たんご但馬たじま国人くにびと糾合きゅうごうしてこれに対抗たいこうした[1][注釈ちゅうしゃく 5]かい奮戦ふんせんするもおよばず、6月12にち西山にしやま吉峯よしみね合戦かっせんやぶれて切腹せっぷく自害じがい)しててた[1]享年きょうねん不明ふめいだが10代から20だいくらいか。『太平たいへい』によれば、かい擁立ようりつした阿保あほ忠実ちゅうじつ荻野おぎの朝忠ちょうちゅうりょうかい自害じがいすすめ、かい切腹せっぷくするあいだ自分じぶんたちはのがびたという[注釈ちゅうしゃく 6]。しかし、『えんたいれき』ではけん阿保あほ高根たかね家臣かしんかいとともに切腹せっぷくし、荻野おぎの舎弟しゃていもまた討死うちじにしたとしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 太平たいへいだい32かん武蔵むさし将監しょうげん自害じがいこと」のだん[2]に「武蔵むさしもりじきおもはらに」とあり名前なまえれない側室そくしつであったことがわかる。
  2. ^ かい擁立ようりつした阿保あほ忠実ちゅうじつ直実なおみ)は武蔵むさしななとうとう出身しゅっしん武将ぶしょう高師直こうのもろなお配下はいかとして活躍かつやくし、『太平たいへい』では四條畷しじょうなわてたたか和田わだしん兵衛ひょうえようや、直義ただよし桃井ももいただしつねぐん激突げきとつした京都きょうと四条しじょう河原かわらでのたたかいにおける秋山あきやま光政みつまさとの一騎打いっきうちがえがかれている(『太平たいへいだい26かん和田わだくすのき討死うちじにこと[3]およだい29かん桃井ももい四条しじょう河原かわら合戦かっせんこと[4])。一方いっぽう荻野おぎの朝忠ちょうちゅう丹波たんば守護しゅごとなった仁木にきよりゆきあきらのもとで守護しゅごだいつとめたが、かんひさし2ねん/興国こうこく4ねん1343ねん)12月、南朝なんちょうつうじて反乱はんらんこそうとくわだてて、山名やまなめられて降伏ごうぶくした。この結果けっか責任せきにんって仁木にきよりゆきあきら丹波たんば守護しゅごしょくわって山名やまなにんぜられている(『太平たいへいだい25かん三宅みやけ荻野おぎの謀叛ぼうほんこと[5][6]。その阿保あほ忠実ちゅうじつ同様どうよう四條畷しじょうなわてたたかいに高師直こうのもろなお配下はいかとして参加さんかしている。
  3. ^ 丹波たんば丹後たんご但馬たじまさんヶ国かこくいきおいせんあつめ」[2]
  4. ^ 一般いっぱんには当時とうじ丹波たんば守護しゅご仁木にきよりゆきあきらとされ、執事しつじしょく忙殺ぼうさつされていたよりゆきあきらわってかい実質じっしつてき丹波たんば支配しはいしていたのではないかとする見方みかたがある[9]
  5. ^ 鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』では「荻野おぎのけん高橋たかはしらの旧師きゅうしちょく残党ざんとうによりかつがれ」とあるが、『えんたいれき文和ふみかず2ねん6がつ12にちじょう[10]では「高橋たかはし」は「高根たかね」とあり、参考さんこう文献ぶんけんもそれにしたがっている。
  6. ^ 太平たいへい』はかい自害じがい、そのくびろうと殺到さっとうした山名やまなぜいたいし、かい家臣かしん沼田ぬまたってかえし、奮戦ふんせんのちかいおおかぶさるようにして自害じがいしたこともつたえている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん、200ぺーじ 
  2. ^ a b c 太平たいへい , pp. 158–159.
  3. ^ 太平たいへい よん, pp. 228–237.
  4. ^ 太平たいへい よん, pp. 384–394.
  5. ^ 太平たいへい よん, pp. 157–159.
  6. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 1–16.
  7. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 17–27.
  8. ^ 佐藤さとう 1988, pp. 28–37.
  9. ^ 亀田かめだ 2016, pp. 180–182.
  10. ^ 太田おおた藤四郎とうしろう へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション えんたいれき』 4かんふとしようしゃ、1940ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920672 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 亀田かめだ俊和としかず高師直こうのもろなお しつ町新まちしん秩序ちつじょ創造そうぞうしゃ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-05806-3 
  • 亀田かめだ俊和としかずこう一族いちぞく南北なんぼくあさ内乱ないらん 室町むろまち幕府ばくふ草創そうそう立役者たてやくしゃえびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねんISBN 978-4-86403-190-5 
  • 太平たいへい よん兵藤ひょうどう裕己ひろみ こうちゅう岩波書店いわなみしょてん、2015ねんISBN 978-4-00-301434-9 
  • 太平たいへい 兵藤ひょうどう裕己ひろみ こうちゅう岩波書店いわなみしょてん、2016ねんISBN 978-4-00-301435-6 
  • 佐藤さとう進一しんいち室町むろまち幕府ばくふ守護しゅご制度せいど研究けんきゅう 東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1988ねんISBN 4-13-020086-0