大木たいぼく戸森ともりみぎもん

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大木戸おおきど もりみぎもん
大木たいぼく戸森ともりみぎもん(1912ねんごろ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 大木戸おおきど もりみぎもん
本名ほんみょう 内田うちだ 光蔵みつぞう
生年月日せいねんがっぴ 1876ねん5月13にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1930-11-07) 1930ねん11月7にち(54さいぼつ
出身しゅっしん 兵庫ひょうごけんうさぎはらぐん魚崎うおざきむらげん兵庫ひょうごけん神戸こうべ東灘ひがしなだ魚崎南うおざきみなみまち
身長しんちょう 178cm
体重たいじゅう 125kg
BMI 39.45
所属しょぞく部屋へや みなと部屋へや大坂おおさか
得意とくいわざ みぎよっつ、り、両手りょうてとっ
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい23だい横綱よこづな
幕内まくうち戦歴せんれき 143しょう20はい6引分ひきわけ4あずか
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう10かい大坂おおさか
データ
はつ土俵どひょう 1896ねん9月場所ばしょ
入幕にゅうまく 1903ねん1がつ場所ばしょ
引退いんたい 1914ねん1がつ場所ばしょ
備考びこう
2012ねん7がつ18にち現在げんざい

大木戸おおきど もりみぎもん(おおきど もりえもん、1876ねん5月13にち - 1930ねん11月7にち)は、兵庫ひょうごけんうさぎはらぐん魚崎うおざきむらげん兵庫ひょうごけん神戸こうべ東灘ひがしなだ魚崎南うおざきみなみまち出身しゅっしんみなと部屋へや大坂おおさか)に所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい23だい横綱よこづな本名ほんみょう内田うちだ 光蔵みつぞう(うちだ みつぞう)。

生年月日せいねんがっぴは「1878ねん11月2にち」とするせつ有力ゆうりょくだったが、大木戸おおきどのちみなと襲名しゅうめいした呼出よびだしたきさん生年月日せいねんがっぴであることが判明はんめいした。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

大坂おおさか相撲すもう第一人者だいいちにんしゃ[編集へんしゅう]

1876ねん5月13にちに、「なだ生一本きいっぽん」で有名ゆうめい兵庫ひょうごけんうさぎはらぐん魚崎うおざきむらげん兵庫ひょうごけん神戸こうべ東灘ひがしなだ魚崎南うおざきみなみまち)で酒樽さかだる製造せいぞうぎょういとないえまれた。体格たいかくさから地元じもと子供こども相撲すもうでは大関おおぜきとして活躍かつやくし、あまりの力強ちからづよさに生家せいかたるこわしてばかりだったという。港湾こうわん労働ろうどう荒仕事あらしごとをこなしながら草相撲くさずもうでも活躍かつやくしていたところ、にちしん戦争せんそう従軍じゅうぐんちゅうった大坂おおさか相撲すもう力士りきし紹介しょうかいで、だい13だいみなと由良ゆらみぎ衛門えもんもと小結こむすび黒柳くろやなぎ松治郎まつじろう)に入門にゅうもんし、1896ねん9月場所ばしょで「だい城戸きど平八へいはち光蔵みつぞう)」の四股しこめいはつ土俵どひょうむ。1898ねん10がつ場所ばしょさんだん昇進しょうしんしたさいに、「大木たいぼく戸森ともりみぎもん」と改名かいめい1903ねん1がつ場所ばしょしん入幕にゅうまくたす。

大坂おおさか相撲すもうでは無類むるいつよさをほこった、はつ公認こうにん横綱よこづな若島わかしま権四郎けんしろう唯一ゆいいつ太刀打たちう出来でき力士りきしとされていた。その言葉ことばとおり、小結こむすびだった1904ねん1がつ場所ばしょ、さらに関脇せきわけ昇進しょうしんした同年どうねん5がつ場所ばしょ連続れんぞくして若島わかしまやぶ[ちゅう 1]1905ねん1がつ場所ばしょには大関おおぜき昇進しょうしんした。この入幕にゅうまくから大関おおぜき昇進しょうしん時期じきには東京とうきょう相撲すもうとの合併がっぺい興行こうぎょう巡業じゅんぎょうおこなわれており、東京とうきょう常陸ひたち山谷さんやみぎもんをかけられ、稽古けいこをつけられていたことがスピード出世しゅっせにつながった。大木戸おおきど自身じしん常陸山ひたちやまにかわいがられていた由縁ゆえんなん東京とうきょう相撲すもうへの加入かにゅう決意けついしたが、大坂おおさか相撲すもう看板かんばん力士りきしであるために協会きょうかい首脳しゅのうおがたおされ、断念だんねんする結果けっかとなった。この事態じたいが、すうねん横綱よこづな免許めんきょをめぐるトラブルの遠因えんいんともなる。

若島わかしま負傷ふしょうによって現役げんえき引退いんたい余儀よぎなくされたのち大坂おおさか相撲すもうでは最強さいきょうほこり、両手りょうてとっ威力いりょくは「はつ相手あいて土俵どひょうそと」とまでわれ、東京とうきょう相撲すもう太刀たちさんみねみぎもん彷彿ほうふつとさせた。大関おおぜきだっただい木戸きど1908ねん6がつ場所ばしょから1909ねん5月場所ばしょまで3場所ばしょ連続れんぞくの9せん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう記録きろくした[ちゅう 2]

横綱よこづな免許めんきょをめぐるトラブル[編集へんしゅう]

この成績せいせき大坂おおさか相撲すもうは、1909ねん吉田よしだつかさ横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよ申請しんせいしたが、吉田よしだつかさ横綱よこづな免許めんきょをすぐに授与じゅよせず、「同年どうねん11がつ開催かいさいする博多はかたでの合併がっぺい興行こうぎょう結果けっか判断はんだんしたい」と回答かいとうしてきた。だい木戸きどはこの合併がっぺい興行こうぎょうで3しょう1はい3引分ひきわけ3きゅうという不本意ふほんい成績せいせきのこしたことで横綱よこづな昇進しょうしん遠退とおのいたとおもわれた矢先やさき仲介ちゅうかいしゃ後押あとおしで大坂おおさか相撲すもう吉田よしだつかさ横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよさい申請しんせいするが、今度こんど吉田よしだつかさから申請しんせいしょに「東京とうきょう相撲すもう横綱よこづなによるばん」をもとめた。当時とうじ常陸山ひたちやまによって大坂おおさか相撲すもう有力ゆうりょく力士りきし次々つぎつぎ東京とうきょう相撲すもうかれていた背景はいけいがあり、大坂おおさか相撲すもう東京とうきょう相撲すもう毛嫌けぎらいしていたためにばん難色なんしょくしめし、引退いんたいしたばかりの若島わかしまばんだけで申請しんせいおこなおうとしたことで、大坂おおさか相撲すもう吉田よしだつかさ交渉こうしょう決裂けつれつした。

その大坂おおさか相撲すもう吉田よしだつかさ無視むしして住吉すみよし神社じんじゃ共謀きょうぼうし、1910ねん1がつ6にちだい木戸きどたいする横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよ大木戸おおきど奉納ほうのう横綱よこづな土俵入どひょういおこなった。これをった吉田よしだつかさ無断むだん授与じゅよした大坂おおさか相撲すもう激怒げきどして破門はもん宣告せんこくしたほか、東京とうきょう相撲すもう大坂おおさか相撲すもうたいして絶縁ぜつえん宣言せんげんたたきつけるだい事件じけん発展はってんした。このままではだい木戸きど公認こうにん横綱よこづなとされるままだったが、1912ねん12月に大坂おおさか相撲すもう東京とうきょう相撲すもう吉田よしだつかさ両者りょうしゃ正式せいしき謝罪しゃざいし、大木戸おおきどへの横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよあらためて申請しんせいした。吉田よしだつかさは「大木戸おおきど横綱よこづな撤回てっかい(ただし、大阪おおさか熊本くまもと以外いがいでの地方ちほう巡業じゅんぎょうでは横綱よこづな黙認もくにん)」「今後こんご大坂おおさか相撲すもう横綱よこづな免許めんきょ申請しんせいするさいは、東京とうきょう相撲すもう横綱よこづなばんめて口添くちぞえをおこなうこと」を条件じょうけんとした。大坂おおさか相撲すもうはこれを承認しょうにんしたことで東京とうきょう相撲すもう絶縁ぜつえん宣言せんげん撤回てっかい大木戸おおきど横綱よこづな免許めんきょあらためて申請しんせいされ、すでに36さい全盛期ぜんせいきぎたとはいえ、これでようやく公認こうにん横綱よこづなとなった。

不本意ふほんい引退いんたい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

しかし、公認こうにん横綱よこづなとして最初さいしょ本場所ほんばしょである1913ねん1がつは5しょう3はい2きゅうるわず、同年どうねん4がつ開催かいさいされた東京とうきょう大坂おおさか合併がっぺい興行こうぎょうでは、東京とうきょう相撲すもう伊勢いせはま慶太郎けいたろうとの取組とりくみちゅうめまいがしたという。さらにあかるい場所ばしょ電気でんきけようとしたために眼科がんかかつまれ、さらに海軍かいぐん病院びょういん検査けんさけたところ、脳溢血のういっけつ判明はんめいした。すぐに手術しゅじゅつおこなって一命いちめいめたが半身不随はんしんふずいになってしまい、このような状態じょうたいでは現役げんえき続行ぞっこうなど出来できはずいため、同年どうねん5がつ場所ばしょ1914ねん1がつ場所ばしょ全休ぜんきゅうしたのを最後さいご現役げんえき引退いんたいした。

引退いんたい頭取とうどり年寄としより)・みなと襲名しゅうめいしたが、病身びょうしん引退いんたい相撲すもう横綱よこづならしからぬものになってしまい、健康けんこうめん改善かいぜんられないことで親方おやかたとしての職務しょくむにも支障ししょうがあったため、1916ねん6がつ廃業はいぎょうした。晩年ばんねんは「横綱よこづな」という居酒屋いざかや経営けいえい、また煙草たばこ売店ばいてんいとな細々こまごま生活せいかつしていたとつたわっており、1930ねん11月7にち脳卒中のうそっちゅう死去しきょ、54さいぼつ直前ちょくぜんには大阪医科大学おおさかいかだいがく附属ふぞく医院いいん自身じしん解剖かいぼうもう遺骸いがい同院どういん献体けんたいされた[1]大木戸おおきどには最期さいごまで身寄みよりが存在そんざいせず、はか場所ばしょ現在げんざいでも判明はんめいしていない。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

大坂おおさか相撲すもうでは幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうが10かいあり、そのうち5かい全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうだった。筋骨きんこつ隆々りゅうりゅう体格たいかくうえ威力いりょく猛烈もうれつ破壊はかいりょくがあった。また、みぎよっつからの上手じょうずえをせる一方いっぽうで、怪力かいりき似合にあわずたくみなぜんさばきをせるなど、頭脳ずのうてき相撲すもうぶりで大坂おおさか相撲すもう最強さいきょう力士りきしともわれた。

幕内まくうち成績せいせきでは先輩せんぱい横綱よこづなである若島わかしま権四郎けんしろう勝率しょうりつ(.920)、優勝ゆうしょう相当そうとう成績せいせき)4かいたいして、勝率しょうりつ.877、優勝ゆうしょう10かい善戦ぜんせんしており、東西とうざい合併がっぺい相撲すもう大坂おおさか相撲すもう東京とうきょう相撲すもうくらべて力量りきりょうおとることが判明はんめいしても、太刀たちさんみねみぎ衛門えもんに5しょう10はい5ふん[2][3]駒ヶ嶽こまがだけ國力こくりょくに1しょう1はい1あずかあらいわ亀之助かめのすけに3しょうなど「大坂おおさかだい木戸きどあり」と勇名ゆうめいとどろかせた。しかし、東京とうきょう相撲すもう力士りきしとの対戦たいせんでは若島わかしまほどの成績せいせきげられず、これが原因げんいん評価ひょうかげることになった。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 大坂おおさか相撲すもう公認こうにん横綱よこづなとしては唯一ゆいいつはつ土俵どひょうから引退いんたいまで一貫いっかんして大坂おおさか相撲すもう所属しょぞくだった[ちゅう 3]
  • 現存げんそんする大坂おおさか相撲すもう時代じだい写真しゃしんでは、大木戸おおきどめている横綱よこづなかたぎゃくになっている。上記じょうき写真しゃしんかた現在げんざいつなとはぎゃくで、宮城みやぎさん福松ふくまつ大坂おおさか相撲すもう時代じだい写真しゃしんにもめている横綱よこづなかたぎゃくのものがある。
  • 大木戸おおきど横綱よこづな土俵入どひょうい新聞しんぶん記者きしゃによると、「蹲踞そんきょしてチリをり、柏手かしわで万歳ばんざいしてあたま真上まうえつ。土俵どひょう中央ちゅうおうときあしそろえて直立ちょくりつ不動ふどう両手りょうてひらかたかた極端きょくたんなほどに節度せつどけるから、はじめてかれ大木戸おおきど)を東京とうきょうきゃくは『よッ、体操たいそう!』とこえをかけた」といており[4]、なかなか個性こせいてき土俵入どひょういりだったとおもわれる。
  • 現役げんえき時代じだい結婚けっこんしているがすう離婚りこんれきがあるうえに、身体しんたい不自由ふじゆうになるとつまげられるなど、横綱よこづなでありながら余生よせいさびしいものだった。
  • 右腕うわんには入墨いれずみ硫酸りゅうさんったきずがあったという[4]
  • 1993ねん平成へいせい5ねん)、神戸こうべ在住ざいじゅう有志ゆうしにより、出身しゅっしん東灘ひがしなだ魚崎南うおざきみなみまちに「だいじゅうさんだい横綱よこづな 大木たいぼく戸森ともりみぎ衛門えもん 生誕せいたんいしぶみ」の石碑せきひ建立こんりゅうされた[5]

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

大坂おおさか相撲すもう本場所ほんばしょにおけるじゅうりょう昇進しょうしん以降いこう成績せいせきしめす。

場所ばしょ 地位ちい 成績せいせき 備考びこう
明治めいじ35ねん(1902ねん)6がつ場所ばしょ 西にしじゅうりょう1 6しょう1はい1ふん2きゅう
明治めいじ36ねん(1903ねん)1がつ場所ばしょ 西前にしまえあたま6 6しょう3はい1きゅう
明治めいじ36ねん(1903ねん)5がつ場所ばしょ 西前にしまえあたま1 6しょう2はい2きゅう
明治めいじ37ねん(1904ねん)1がつ場所ばしょ 西にし小結こむすび 8しょう0はい1ふん1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう
明治めいじ37ねん(1904ねん)5がつ場所ばしょ 西にし関脇せきわけ 8しょう0はい1あずか1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(2)
明治めいじ38ねん(1905ねん)1がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 9しょう0はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(3)
明治めいじ38ねん(1905ねん)6がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 6しょう1はい2ふん1きゅう
明治めいじ39ねん(1906ねん)2がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 9しょう0はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(4)
明治めいじ39ねん(1906ねん)5がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 8しょう1はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(5)
明治めいじ40ねん(1907ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 3しょう1はい2あずか4きゅう
明治めいじ40ねん(1907ねん)6がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 7しょう0はい1あずか2きゅう
明治めいじ41ねん(1908ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 7しょう2はい1きゅう
明治めいじ41ねん(1908ねん)6がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 9しょう0はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(6)
明治めいじ42ねん(1909ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 9しょう0はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(7)
明治めいじ42ねん(1909ねん)5がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 9しょう0はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(8)
翌年よくねん1がつ大坂おおさか相撲すもう独断どくだん横綱よこづな免許めんきょ
明治めいじ43ねん(1910ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 6しょう2はい1ふん1きゅう
明治めいじ43ねん(1910ねん)5がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 8しょう1はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(9)
明治めいじ44ねん(1911ねん)2がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 7しょう1はい1ふん1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(10)
明治めいじ44ねん(1911ねん)9がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 6しょう2はい2きゅう
明治めいじ45ねん(1912ねん)5がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 7しょう1はい1ふん1きゅう 場所ばしょ12がつ吉田よしだつかさから横綱よこづな免許めんきょ
大正たいしょう2ねん(1913ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 5しょう3はい2きゅう
大正たいしょう2ねん(1913ねん)5がつ場所ばしょ 東大とうだいせき横綱よこづな 10きゅう
大正たいしょう3ねん(1914ねん)1がつ場所ばしょ ひがし横綱よこづな 10きゅう 引退いんたい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 大坂おおさか相撲すもう本場所ほんばしょ若島わかしま勝利しょうりしたのはだい木戸きどのみである。
  2. ^ 3場所ばしょ連続れんぞく全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう東京とうきょう相撲すもう大坂おおさか相撲すもうとおして史上しじょうはつで、2017ねん現在げんざいでも大木戸おおきどのほか、そう葉山はやま定次さだじ(5場所ばしょ連続れんぞく最多さいた記録きろく)・はくほうしょう(4場所ばしょ連続れんぞく)しか記録きろくしていない。
  3. ^ 若島わかしま宮城みやぎさん東京とうきょう相撲すもうだいにしき京都きょうと相撲すもうからの移籍いせきである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 1934ねん1がつ18にち関西かんさい日報にっぽう
  2. ^ 大相撲おおずもうめい力士りきし100せん」、小島こじま貞二ていじちょ秋田あきた書店しょてん
  3. ^ 東西とうざい合併がっぺい相撲すもう対戦たいせん成績せいせき”. sumohima.web.fc2.com. 2021ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 小島こじま貞二ていじ (1984ねん) 『横綱よこづな草紙ぞうし
  5. ^ 日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい公式こうしきTwitter(2014ねん3がつ1にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]