山本 照
やまもと てる | |
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プロフィール | |
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1902 | |
1998 | |
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1932 | |
ジャンル |
スポーツ |
来歴 [編集 ]
4
1932
1942
その
1998
エピソード[編集 ]
相撲 実況 [編集 ]
- NHK
入局 前 の記者 の時代 について、「当時 の力士 は全 く話 をしてくれず、取材 には大変 苦労 した」と回想 している[10]。しかしその記者 歴 を活 かして力士 との交際 を深 め、アナウンサー時代 には放送 の中 に力士 の性格 や生活 ぶりを紹介 して評判 になった[11][8][12]。
- NHKに
迎 えられた当時 、相撲 放送 はラジオ中継 開始 (1928年 1月 )以来 の実況 アナウンサーである松内 則 三 の独壇場 であったが、松内 が同年 11月 の第 10回 夏季 オリンピックロサンゼルス大会 中継 後 に日本 の国際 連盟 脱退 に関 する取材 という大 仕事 が入 ったため、翌 1933年 1月 の春場所 を実況 するアナウンサーがいなくなってしまった。NHKと國民 新聞 は、本場所 中 に正面 の桟敷 席 で隣 り合 わせで仕事 をしていたこともあり、その意味 でNHKの実況 にとっても身近 でかつ、相撲 に詳 しい山本 に白羽 の矢 が立 ったのである[13][8][14][12]。
少年 時代 から相撲 の知識 は蓄 えており決 まり手 の知識 にも自信 はあったものの、アナウンス訓練 等 は一切 経験 しないままであったため「書 くこと」と「喋 ること」の違 いに戸惑 い苦労 したと、後 に回想 している。しかしこの場所 、春秋 園 事件 からの帰参 で別 番付 扱 い(いわゆる「別席 」)で全勝 優勝 を果 たした男女 ノ川登 三 を「無冠 の帝王 」と称 するなど、表現 の巧 さを発揮 した[15]。
同 じアナウンサーの中 で、美辞麗句 を並 べる松内 則 三 や、理路 整然 とした実況 の河西 三省 と比 べ、記者 からの転身 のためアナウンス能力 は拙劣 で三河 訛 りがありながらも独特 の味 と親 しみやすさを持 っていた山本 を、東京 放送 局 演芸 課長 であった久保田 万太郎 は「悪文 の魅力 」と評 したことがある[16][17]。
力士 に比 べて地味 な行司 ・呼出 の役割 などもアナウンスに織 り込 んでいた[11]。また、大相撲 は力士 のみならず行司 ・呼出 の三 者 で成 り立 つものであるから、行司 や呼出 が声 を発 しているときにアナウンサーは声 を挟 むべきではない、と説 いていた[18]。
和田 信 賢 ・志村 正 順 といった後輩 アナウンサーへの指導 ぶりも熱心 で、口 で説明 するだけではなく、自 ら上半身 裸 になって廻 しをつけ、実際 に組 ませながら相撲 の決 まり手 や立合 いの駆 け引 きを事細 かに説明 した。また、アナウンスの重点 を単 に勝 ち力士 に置 くのではなく、相手 力士 がどんな体勢 で負 けたのかもきちんと説明 せよ、と指導 した[18]。
相撲 界 の未来 について、ごっつあん体質 を脱却 していっそうの近代 化 を進 めないと、若貴 時代 が終 わったあとは人気 が低落 して再 び苦難 の時期 を迎 えるのではないか、と警鐘 を鳴 らしていた[19]。このことは1990年代 後半 以降 、若貴 ブームの終焉 による人気 低下 、時津風 部屋 力士 暴行 死 事件 、大相撲 野球 賭博 問題 、大相撲 八百長 問題 などの形 で立証 されることになった。
双 葉山 定次 [編集 ]
- 1939
年 1月 15日 、春場所 4日 目 に双 葉山 定次 が安藝 ノ海 節男 に敗 れて69連勝 がストップした時 の実況 担当 は和田 信 賢 だったが、実況 席 の控 えに山本 もいた[20][21]。双葉 山 が負 けるという番狂 わせに和田 も目 を疑 い、「双葉 山 は確 かに負 けましたね?」と問 いかけられた山本 は「うむ」と唇 をかみしめ悲痛 な表情 でうなずくのが精 いっぱいだった[22]。
- この
連勝 ストップの大 一番 は、安藝 ノ海 が双葉 山 の右足 に外 掛 けをとばしてから双葉 山 が右 に大 きく振 ったので、安藝 ノ海 の掛 けた足 が外 れたが、それから右足 を軸 にしてこらえた安藝 ノ海 が体 を浴 びせて双葉 山 を倒 すという展開 だった。ところが動転 していた和田 が決 まり手 を判断 できず、とっさに山本 へ実況 交代 を頼 んだ。場内 のどよめきの中 で山本 は、もともと双葉 山 は左足 が弱 い[23]という印象 から、「安藝 ノ海 の右 外 掛 け」と判断 して放送 した。自席 の前 にいた彦山 光三 も「照 さんやっぱり(双葉 山 の)左 だな」と言 うので見解 が一致 していた[24][25][26]。そのため号外 もラジオも新聞 もそろって「双葉 山 の左足 に外 掛 け」と報 じたが、後日 ニュース映画 を見 ると右足 に掛 かっていたことが判明 する[24][25][26]。山本 が「一世一代 の間違 いが生 じた」[25]と後 に振 り返 ったのに対 し、彦山 は山本 からの電話 でこの事実 を聞 いても「レンズと言 えども正確 とは言 えんよ」として自説 を曲 げなかったという[27][28]。
双葉 山 が引退 し年寄 ・時津風 を襲名 してからは、山本 とも懇意 であり対談 もすれば酒 を飲 む機会 もあった。山本 が熊本放送局 放送 部長 だった1948年 に時津風 が熊本 を訪 れた際 、「私 の相撲 で最 も良 かったのは?」と問 われた山本 が「13年 (1938年 )夏 の玉 錦 戦 」[29]と答 えた。これに対 し「実 はあの時 の玉 関 はずいぶん弱 っており、立 ち上 がった私 がドンと押 すと、玉 関 は土俵 を飛 び出 しそうになったので、慌 てて引 き戻 した」と時津風 が答 えたことに唖然 とし、この熱戦 を演 じた双葉 山 の凄 みを改 めて感 じたという[30]。
ベルリンオリンピック[編集 ]
- 1936
年 のベルリンオリンピックでは河西 三省 とともに陸上 競技 や水泳 の実況 を担当 した。当時 日本 が使用 していたマイクが、欧米 諸国 のそれと比 べて性能 が低 かったため、実況 アナウンサーの中 でも日本 は際立 って声 が大 きかったという[31]。小柄 な体格 に不 釣 り合 いな大声 を発 する山本 の姿 に、会場 の観衆 の中 には不審 がる者 もいたが、同盟 国 の日 の丸 を見 ると微笑 みが浮 かんだという[32]。 - マラソンの
実況 では、優勝 候補 のファン=カルロス・サバラを擁 するアルゼンチンと日本 が中継 で隣席 となっており、アルゼンチン側 はスタート前 から「サバラ、サバラ」と連呼 していた。そのサバラが32キロで脱落 した時 、アナウンサーが「サバラの大 馬鹿 野郎 !」と叫 び、さらに「もうマラソンの放送 は中止 する。ミスター・ヤマモト、アディオス(さよなら)」と言 ってさっさとマイクを片付 け、退席 した。山本 は呆然 としてその後 ろ姿 を見送 ったという[33][34]。 女子 200m平泳 ぎの実況 を担当 した河西 三省 が、五輪 実況 の激務 で体調 を崩 したため、山本 に「実況 を代 わってほしい」と言 うと、「頑張 ってくださいよ。今日 は日 の丸 が上 がるかもしれないじゃないですか」と激励 した[35]。結果 として「前畑 ガンバレ」の連呼 で日本 放送 史 に残 る名実 況 となり、前畑 秀子 も金 メダルを獲得 した。この時 、山本 はテーブルの上 に立 って実況 する(観客 総立 ちで実況 席 から見 えなくなったため)河西 の姿 に驚 きながらも、そのテーブルの脚 を懸命 に押 さえてサポートしていた[36][37]。- ちなみに
國民 新聞 記者 時代 の1929年 6月 、競技 会 出場 のため和歌山 から上京 した前畑 秀子 を東京 駅 で出迎 えている。水泳 選手 の育成 にかかわっていた「萬 朝 報 」の運動 部長 である鷺 田 重雄 からの依頼 であり、前畑 の印象 を「小学校 高等 科 にしては大柄 で肉付 きのいい身体 」としながらも、世界 的 選手 になるとは予想 だにしなかったという[38]。 - ベルリンオリンピックの
終盤 には山本 も河西 も疲労 が目立 ち始 めていた[39]。当時 のNHKの財政 が芳 しくなかった影響 か、現地 スタッフも2人 と団長 の頼 母 木 真六 のみだった[40]。そのため2人 のアナウンサーが、出場 選手 の確認 やレースの展開 状 況 ・選手 の表情 ・スタンドの雑感 などのチェックといったディレクターの役割 をも交互 に担 っていたのである[41]。中継 終了 後 は身体中 から力 が抜 け、予定 されていた打 ち上 げ慰労 会 もポツダム観光 も取 り止 めになるほどであった[42]。
戦時 中 、スマトラでの放送 [編集 ]
陸軍 による南方 の日本 軍 占領 地 での放送 局 開設 計画 により、山本 は1942年 11月スマトラへと派遣 されるが、最初 に降 り立 ったパレンバンでは、現地 の軍 司令 部 が空襲 を恐 れて放送 局 づくりに消極 的 だった。そのために暇 を持 て余 していた山本 は芝居 小屋 通 いを続 けるうち、インドネシア語 は日常 会話 に不自由 しないレベルにまで達 していた[43]。
参謀 部 の移駐 に伴 いパダンに移 ると、西海岸 州 長官 ・矢野 兼三 の理解 と協力 により、1943年 4月 に放送 局 が開設 した[44]。さらに1944年 10月にはメダンに移 る[45]。語学 の才 に長 けた山本 は現地 人 の職員 の間 でも人気 があり、日本人 8人 とインドネシア人 職員 の分担 により順調 な放送 業務 をこなしていたという[46]。
- メダンの
放送 局 に来 て以降 の山本 は、局長 室 にこもって連合 国 軍 側 の短波 放送 を聞 いて戦局 を把握 していた。軍 の師団 長 ・州 政府 長官 ・放送 局長 のみ、この放送 傍受 が認 められていたからである。中 でもニューデリーから発 する日本語 ニュースの時事 解説 は、日本 国内 では知 ることのできない戦局 の詳細 な推移 が分 かったのである[47]。
太平洋戦争 終結 を迎 える1945年 8月 14日 、翌日 に重大 放送 があるとの報 を受 けた山本 は現地 インドネシアの放送 でその告知 を行 った[48]。しかし、未明 になって近衛 第 二 師団 から放送 をしないようにとの要請 があり[49]、翌 15日 正午 には「都合 により取 りやめとなった」と放送 した[50]。山本 は中止 の告知 を放送 した後 、東京 発 の短波 放送 で玉音 放送 を聞 き、日本 の降伏 を知 った[51]。その後 メダン在住 の主 だった日本人 20数 人 を東海岸 州 官邸 に集 め、インドネシア人 の立 ち入 りを厳禁 した上 で放送 内容 を説明 した[52]。
スポーツ放送 について[編集 ]
晩年 、スポーツ放送 においてアナウンサーの勉強 不足 や解説 者 への依存 が目立 っており、放送 に深 みがないことを指摘 していた。放送 のハードウェア(衛星 中継 など)が発達 する一方 で、ソフトウェア(放送 内容 )の充実 が立 ち遅 れていると憂慮 していた[7]。
脚注 [編集 ]
- ^
橋本 (1997)、30頁 。 - ^
田 埜(2002)、140頁 。 - ^
橋本 (1997)、30頁 。 - ^
橋本 (1997)、32頁 。 - ^
向坂 ・出羽海 (1992)、302頁 。 - ^
東京 相撲 記者 クラブ会友 会 (1993)、58頁 。 - ^ a b
橋本 (1997)、243頁 。 - ^ a b c
向坂 ・出羽海 (1992)、300頁 。 - ^
田 埜(2002)、153頁 。 - ^
東京 相撲 記者 クラブ会友 会 (1993)、48頁 。 - ^ a b
橋本 (1997)、66頁 。 - ^ a b 『
大相撲 中継 』2017年 5月 27日 号 16頁 - ^
橋本 (1997)、46-47頁 。 - ^
田 埜(2002)、142頁 。 - ^
東京 相撲 記者 クラブ会友 会 (1993)、49頁 。 - ^
橋本 (1997)、24-25、73頁 。 - ^
田 埜(2002)、143頁 。 - ^ a b
橋本 (1997)、173頁 。 - ^
橋本 (1997)、244頁 。 - ^
橋本 (1997)、189頁 。 - ^
工藤 (1991)、170頁 。 - ^
橋本 (1997)、190頁 。 - ^
工藤 (1991)、169頁 。 - ^ a b
橋本 (1997)、191頁 。 - ^ a b c
工藤 (1991)、170頁 。 - ^ a b
田 埜(2002)、150頁 。 - ^
橋本 (1997)、192頁 。 - ^
工藤 (1991)、171頁 。 - ^ この
夏場所 千秋楽 の結 びの一番 であり、水 入 りの末 に双葉 山 が玉 錦 を寄 り倒 し66連勝 を達成 した。玉 錦 はこの年 の12月4日 に巡業 先 で急逝 したため、生涯 最後 の一番 となった。 - ^
橋本 (1997)、186-187頁 。 - ^
橋本 (1997)、123-126頁 。 - ^
橋本 (1997)、11-12頁 。 - ^
橋本 (1997)、130-133頁 。 - ^
鎌田 忠良 の『日章旗 とマラソン ベルリン・オリンピックの孫 基 禎 』(1984年 潮出版社 、1988年 講談社 文庫 )にもほぼ同 じエピソードが記 されている。ただ、アルゼンチンアナウンサーの最後 の台詞 は「私 はもうこれで放送 を中止 する。国民 の皆 さん、さようなら」となっており、橋本 の著書 とは多少 ニュアンスに違 いがある。 - ^
橋本 (1997)、142頁 。 - ^
橋本 (1997)、145-147頁 。 - ^
田 埜(2002)、148頁 。 - ^
橋本 (1997)、142-143頁 。 - ^
橋本 (1997)、140頁 。 - ^
橋本 (1997)、91-92頁 。 - ^
橋本 (1997)、140-141頁 。 - ^
橋本 (1997)、152頁 。 - ^
橋本 (1997)、207頁 。 - ^
橋本 (1997)、208頁 。 - ^
橋本 (1997)、209頁 。 - ^
橋本 (1997)、209,213頁 。 - ^
橋本 (1997)、212頁 。 - ^
橋本 (1997)、214頁 。 - ^
橋本 (1997)、215頁 。 - ^
橋本 (1997)、218、221-222頁 。一説 には、日本 敗戦 を機 にインドネシアの独立 運動 が一気 に激化 し、流血 事件 が起 こることを警戒 したためとされる。 - ^
橋本 (1997)、218頁 。 - ^
橋本 (1997)、220頁 。
参考 文献 [編集 ]
橋本 一夫 『明治 生 まれの「親分 」アナウンサー ―山本 照 とその時代 ―』ベ ースボ ール・マガジン社 、1997年 6月 。ISBN 4-583-03399-0。工藤 美代子 『一人 さみしき双葉 山 』筑摩書房 〈ちくま文庫 〉、1991年 3月 。ISBN 4-480-02516-2。向坂 松 彦、出羽海 智 敬 『ザ大相撲 〈92〜93年版 〉』同 文書 院 、1992年 5月 。ISBN 978-4810390117。田 埜哲文 『爺 言 ジイちゃんに訊 け!』集英社 、2002年 1月 。ISBN 4-08-780342-2。東京 相撲 記者 クラブ会友 会 編 『ペン持 つサムライたちへの鎮魂歌 :相撲 記者 碑 建立 75周年 記念 文集 』東京 相撲 記者 クラブ会友 会 、1993年 3月 。