山本やまもとあきら

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やまもと てる
山本やまもと あきら
ひだりから河西かさい三省みつよし山本やまもとあきらよりゆきはは真六しんろく
1936ねんベルリン五輪ごりん取材しゅざい
プロフィール
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん
北設楽きたしたらぐんそのむら足込あしこめげん東栄とうえいまち大字だいじ足込あしこめ
生年月日せいねんがっぴ 1902ねん11月18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1998-10-27) 1998ねん10月27にち(95さいぼつ
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう外国がいこく学校がっこうげん東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく)スペイン卒業そつぎょう
職歴しょくれき まんあさほう國民こくみん新聞しんぶんNHKなど
活動かつどう期間きかん 1932ねん - 1942ねん
ジャンル スポーツ中継ちゅうけい
担当たんとう番組ばんぐみ活動かつどう

山本やまもと あきらやまもと てる1902ねん11月18にち - 1998ねん10月27にち)は、愛知あいちけん出身しゅっしんNHKアナウンサーである。日本にっぽん相撲すもう中継ちゅうけいにおいて、松内まつうちのりさんつづ2人ふたりのアナウンサーであった。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

4にん兄妹きょうだい三男さんなん少年しょうねん時代じだい地元じもと草相撲くさずもう以来いらい相撲すもうきであった[1][2]愛知あいち県立けんりつだいよん中学校ちゅうがっこうげんどき習館高校こうこう)では相撲すもう所属しょぞく身体しんたいちいさかったが腕力わんりょくつよく、みぎよっつからの上手じょうず得意とくい県下けんか中学校ちゅうがっこう対抗たいこう相撲すもう大会たいかいにも出場しゅつじょうした[3]東京とうきょう外国がいこく学校がっこうげん東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく時代じだい大相撲おおずもう本場所ほんばしょ時期じき語学ごがく以外いがい授業じゅぎょうをサボっては国技こくぎかんかよめ、学友がくゆうからは「かくきょう」とばれるほどであった[4]

東京とうきょう外国がいこく学校がっこうスペイン卒業そつぎょう1925ねん4がつまんあさほう入社にゅうしゃ1927ねん10月には國民こくみん新聞しんぶんうつ相撲すもう記者きしゃとして活躍かつやく

1932ねん、NHKにむかえられ、アナウンサーに転身てんしん1933ねん1がつ春場所はるばしょ実況じっきょうデビュー。 そう葉山はやま定次さだじ全盛期ぜんせいきという戦前せんぜん相撲すもう熱狂ねっきょう時代じだい中心ちゅうしんに、10年間ねんかんラジオ実況じっきょう担当たんとうした。

1942ねん1がつ春場所はるばしょ放送ほうそう最後さいごにアナウンサーから退しりぞき、NHK名古屋放送局なごやほうそうきょく業務ぎょうむ課長かちょうとして異動いどう防空ぼうくう警報けいほう主任しゅにんねていた。戦時せんじちゅうインドネシアスマトラ島すまとらとうでの占領せんりょう放送ほうそうきょく開設かいせつかかわり、パレンバンパダンメダン滞在たいざいした。

戦後せんご、スマトラからシンガポールて、1946ねん5月9にち名古屋なごやこう接岸せつがん帰国きこく同年どうねん7がつにはNHK熊本放送局くまもとほうそうきょく放送ほうそう部長ぶちょうとしてNHKに復帰ふっき1950ねん東京とうきょう本部ほんぶ報道ほうどう部長ぶちょう1951ねん7がつには戦前せんぜんにも在籍ざいせきした名古屋放送局なごやほうそうきょく放送ほうそう部長ぶちょうとなり、後輩こうはい相撲すもうアナウンサーの育成いくせいつとめた。当時とうじ部下ぶかとして、テレビ実況じっきょう1953ねん5月開始かいし)のアナウンサーだい1ごうとなる石田いしだ吾郎ごろうや、「きの杉山すぎやま」としてめいアナウンサーとなる杉山すぎやま邦博くにひろらがいる[5][6]

そのNHK大阪おおさか放送ほうそうきょく次長じちょう放送ほうそう文化ぶんか研究所けんきゅうじょちょうて、1957ねん6月1にちには会長かいちょう秘書ひしょやく就任しゅうにんしたが、11月3にち会長かいちょう永田ながたきよし急逝きゅうせいし、事実じじつじょうNHKでの仕事しごと終焉しゅうえん半月はんつきの11月18にちにNHKを定年ていねん退職たいしょくした。

定年ていねん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい常務じょうむ取締役とりしまりやく日放にっぽう印刷いんさつ社長しゃちょうなどを歴任れきにん晩年ばんねん東京とうきょう阿佐ヶ谷あさがや自宅じたく悠々自適ゆうゆうじてき生活せいかつであったが、90だいとなったさい晩年ばんねんでも記憶きおく鮮明せんめいで、戦前せんぜんのスポーツ放送ほうそう南方なんぽう生活せいかつについてかた貴重きちょう証言しょうげんしゃであった[7][8][9]

1998ねん10がつ27にち1142ふん杉並すぎなみうち病院びょういんのう梗塞こうそくのため死去しきょ。 95さいぼつ

エピソード[編集へんしゅう]

相撲すもう実況じっきょう[編集へんしゅう]

  • NHK入局にゅうきょくまえ記者きしゃ時代じだいについて、「当時とうじ力士りきしまったはなしをしてくれず、取材しゅざいには大変たいへん苦労くろうした」と回想かいそうしている[10]。しかしその記者きしゃれきかして力士りきしとの交際こうさいふかめ、アナウンサー時代じだいには放送ほうそうなか力士りきし性格せいかく生活せいかつぶりを紹介しょうかいして評判ひょうばんになった[11][8][12]
  • NHKにむかえられた当時とうじ相撲すもう放送ほうそうはラジオ中継ちゅうけい開始かいし1928ねん1がつ以来いらい実況じっきょうアナウンサーである松内まつうちのりさん独壇場どくだんじょうであったが、松内まつうち同年どうねん11がつだい10かい夏季かきオリンピックロサンゼルス大会たいかい中継ちゅうけい日本にっぽん国際こくさい連盟れんめい脱退だったいかんする取材しゅざいというだい仕事しごとはいったため、よく1933ねん1がつ春場所はるばしょ実況じっきょうするアナウンサーがいなくなってしまった。NHKと國民こくみん新聞しんぶんは、本場所ほんばしょちゅう正面しょうめん桟敷さじきせきとなわせで仕事しごとをしていたこともあり、その意味いみでNHKの実況じっきょうにとっても身近みぢかでかつ、相撲すもうくわしい山本やまもと白羽しらはったのである[13][8][14][12]
  • 少年しょうねん時代じだいから相撲すもう知識ちしきたくわえておりまりしゅ知識ちしきにも自信じしんはあったものの、アナウンス訓練くんれんとう一切いっさい経験けいけんしないままであったため「くこと」と「しゃべること」のちがいに戸惑とまど苦労くろうしたと、のち回想かいそうしている。しかしこの場所ばしょ春秋しゅんじゅうえん事件じけんからの帰参きさんべつ番付ばんづけあつかい(いわゆる「別席べっせき」)で全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうたした男女だんじょ川登かわのぼりさんを「無冠むかん帝王ていおう」としょうするなど、表現ひょうげんたくみさを発揮はっきした[15]
  • おなじアナウンサーのなかで、美辞麗句びじれいくならべる松内まつうちのりさんや、理路りろ整然せいぜんとした実況じっきょう河西かさい三省みつよしくらべ、記者きしゃからの転身てんしんのためアナウンス能力のうりょく拙劣せつれつ三河みかわなまがありながらも独特どくとくあじしたしみやすさをっていた山本やまもとを、東京とうきょう放送ほうそうきょく演芸えんげい課長かちょうであった久保田くぼた万太郎まんたろうは「悪文あくぶん魅力みりょく」とひょうしたことがある[16][17]
  • 力士りきしくらべて地味じみ行司ぎょうじ呼出よびだし役割やくわりなどもアナウンスにんでいた[11]。また、大相撲おおずもう力士りきしのみならず行司ぎょうじ呼出よびだしさんしゃつものであるから、行司ぎょうじ呼出よびだしこえはっしているときにアナウンサーはこえはさむべきではない、といていた[18]
  • 和田わだしんけん志村しむらただしじゅんといった後輩こうはいアナウンサーへの指導しどうぶりも熱心ねっしんで、くち説明せつめいするだけではなく、みずか上半身じょうはんしんはだかになってまわをつけ、実際じっさいませながら相撲すもうまりしゅ立合たちあきを事細ことこまかに説明せつめいした。また、アナウンスの重点じゅうてんたん力士りきしくのではなく、相手あいて力士りきしがどんな体勢たいせいけたのかもきちんと説明せつめいせよ、と指導しどうした[18]

そう葉山はやま定次さだじ[編集へんしゅう]

  • 1939ねん1がつ15にち春場所はるばしょ4にちそう葉山はやま定次さだじ安藝あきうみ節男せつおやぶれて69連勝れんしょうがストップしたとき実況じっきょう担当たんとう和田わだしんけんだったが、実況じっきょうせきひかえに山本やまもともいた[20][21]双葉ふたばさんけるという番狂ばんくるわせに和田わだうたがい、「双葉ふたばさんたしかにけましたね?」といかけられた山本やまもとは「うむ」とくちびるをかみしめ悲痛ひつう表情ひょうじょうでうなずくのがせいいっぱいだった[22]
  • この連勝れんしょうストップのだい一番いちばんは、安藝あきうみ双葉ふたばさん右足みぎあしそとをとばしてから双葉ふたばさんみぎおおきくったので、安藝あきうみけたあしはずれたが、それから右足みぎあしじくにしてこらえた安藝あきうみからだびせて双葉ふたばさんたおすという展開てんかいだった。ところが動転どうてんしていた和田わだまりしゅ判断はんだんできず、とっさに山本やまもと実況じっきょう交代こうたいたのんだ。場内じょうないのどよめきのなか山本やまもとは、もともと双葉ふたばさん左足ひだりあしよわ[23]という印象いんしょうから、「安藝あきうみみぎそとけ」と判断はんだんして放送ほうそうした。自席じせきまえにいた彦山ひこさん光三みつぞうも「あきらさんやっぱり(双葉ふたばさんの)ひだりだな」とうので見解けんかい一致いっちしていた[24][25][26]。そのため号外ごうがいもラジオも新聞しんぶんもそろって「双葉ふたばさん左足ひだりあしそとけ」とほうじたが、後日ごじつニュース映画えいがると右足みぎあしかっていたことが判明はんめいする[24][25][26]山本やまもとが「一世一代いっせいちだい間違まちがいがしょうじた」[25]のちかえったのにたいし、彦山ひこさん山本やまもとからの電話でんわでこの事実じじついても「レンズとえども正確せいかくとはえんよ」として自説じせつげなかったという[27][28]
  • 双葉ふたばさん引退いんたい年寄としより時津風ときつかぜ襲名しゅうめいしてからは、山本やまもととも懇意こんいであり対談たいだんもすればさけ機会きかいもあった。山本やまもと熊本放送局くまもとほうそうきょく放送ほうそう部長ぶちょうだった1948ねん時津風ときつかぜ熊本くまもとおとずれたさい、「わたし相撲すもうもっとかったのは?」とわれた山本やまもとが「13ねん1938ねんなつたまにしきせん[29]こたえた。これにたいし「じつはあのときたませきはずいぶんよわっており、がったわたしがドンとすと、たませき土俵どひょうしそうになったので、あわててもどした」と時津風ときつかぜこたえたことに唖然あぜんとし、この熱戦ねっせんえんじた双葉ふたばさんすごみをあらためてかんじたという[30]

ベルリンオリンピック[編集へんしゅう]

  • 1936ねんベルリンオリンピックでは河西かさい三省みつよしとともに陸上りくじょう競技きょうぎ水泳すいえい実況じっきょう担当たんとうした。当時とうじ日本にっぽん使用しようしていたマイクが、欧米おうべい諸国しょこくのそれとくらべて性能せいのうひくかったため、実況じっきょうアナウンサーのなかでも日本にっぽん際立きわだってこえおおきかったという[31]小柄こがら体格たいかくいな大声おおごえはっする山本やまもと姿すがたに、会場かいじょう観衆かんしゅうなかには不審ふしんがるしゃもいたが、同盟どうめいこくまるると微笑ほほえみがかんだという[32]
  • マラソン実況じっきょうでは、優勝ゆうしょう候補こうほファン=カルロス・サバラようするアルゼンチン日本にっぽん中継ちゅうけい隣席りんせきとなっており、アルゼンチンがわはスタートまえから「サバラ、サバラ」と連呼れんこしていた。そのサバラが32キロで脱落だつらくしたとき、アナウンサーが「サバラのだい馬鹿ばか野郎やろう!」とさけび、さらに「もうマラソンの放送ほうそう中止ちゅうしする。ミスター・ヤマモト、アディオス(さよなら)」とってさっさとマイクを片付かたづけ、退席たいせきした。山本やまもと呆然ぼうぜんとしてそのうし姿すがた見送みおくったという[33][34]
  • 女子じょし200m平泳ひらおよ実況じっきょう担当たんとうした河西かさい三省みつよしが、五輪ごりん実況じっきょう激務げきむ体調たいちょうくずしたため、山本やまもとに「実況じっきょうわってほしい」とうと、「頑張がんばってくださいよ。今日きょうまるがるかもしれないじゃないですか」と激励げきれいした[35]結果けっかとして「前畑まえはたガンバレ」の連呼れんこ日本にっぽん放送ほうそうのこ名実めいじつきょうとなり、前畑まえはた秀子ひでこきんメダルを獲得かくとくした。このとき山本やまもとはテーブルのうえって実況じっきょうする(観客かんきゃく総立そうだちで実況じっきょうせきからえなくなったため)河西かさい姿すがたおどろきながらも、そのテーブルのあし懸命けんめいさえてサポートしていた[36][37]
  • ちなみに國民こくみん新聞しんぶん記者きしゃ時代じだい1929ねん6がつ競技きょうぎかい出場しゅつじょうのため和歌山わかやまから上京じょうきょうした前畑まえはた秀子ひでこ東京とうきょうえき出迎でむかえている。水泳すいえい選手せんしゅ育成いくせいにかかわっていた「まんあさほう」の運動うんどう部長ぶちょうであるさぎでん重雄しげおからの依頼いらいであり、前畑まえはた印象いんしょうを「小学校しょうがっこう高等こうとうにしては大柄おおがら肉付にくづきのいい身体しんたい」としながらも、世界せかいてき選手せんしゅになるとは予想よそうだにしなかったという[38]
  • ベルリンオリンピックの終盤しゅうばんには山本やまもと河西かさい疲労ひろう目立めだはじめていた[39]当時とうじのNHKの財政ざいせいかんばしくなかった影響えいきょうか、現地げんちスタッフも2人ふたり団長だんちょうよりゆきはは真六しんろくのみだった[40]。そのため2にんのアナウンサーが、出場しゅつじょう選手せんしゅ確認かくにんやレースの展開てんかいじょうきょう選手せんしゅ表情ひょうじょう・スタンドの雑感ざっかんなどのチェックといったディレクター役割やくわりをも交互こうごになっていたのである[41]中継ちゅうけい終了しゅうりょう身体中からたじゅうからちからけ、予定よていされていた慰労いろうかいポツダム観光かんこうめになるほどであった[42]

戦時せんじちゅう、スマトラでの放送ほうそう[編集へんしゅう]

  • 陸軍りくぐんによる南方なんぽう日本にっぽんぐん占領せんりょうでの放送ほうそうきょく開設かいせつ計画けいかくにより、山本やまもと1942ねん11月スマトラへと派遣はけんされるが、最初さいしょったパレンバンでは、現地げんちぐん司令しれい空襲くうしゅうおそれて放送ほうそうきょくづくりに消極しょうきょくてきだった。そのためにひまあましていた山本やまもと芝居しばい小屋こやがよいをつづけるうち、インドネシア日常にちじょう会話かいわ不自由ふじゆうしないレベルにまでたっしていた[43]
  • 参謀さんぼう移駐いちゅうともないパダンにうつると、西海岸にしかいがんしゅう長官ちょうかん矢野やの兼三けんぞう理解りかい協力きょうりょくにより、1943ねん4がつ放送ほうそうきょく開設かいせつした[44]。さらに1944ねん10月にはメダンにうつ[45]語学ごがくざいけた山本やまもと現地げんちじん職員しょくいんあいだでも人気にんきがあり、日本人にっぽんじん8にんとインドネシアじん職員しょくいん分担ぶんたんにより順調じゅんちょう放送ほうそう業務ぎょうむをこなしていたという[46]
  • メダンの放送ほうそうきょく以降いこう山本やまもとは、局長きょくちょうしつにこもって連合れんごうこくぐんがわ短波たんぱ放送ほうそういて戦局せんきょく把握はあくしていた。ぐん師団しだんちょうしゅう政府せいふ長官ちょうかん放送ほうそう局長きょくちょうのみ、この放送ほうそう傍受ぼうじゅみとめられていたからである。なかでもニューデリーからはっする日本語にほんごニュースの時事じじ解説かいせつは、日本にっぽん国内こくないではることのできない戦局せんきょく詳細しょうさい推移すいいかったのである[47]
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつむかえる1945ねん8がつ14にち翌日よくじつ重大じゅうだい放送ほうそうがあるとのほうけた山本やまもと現地げんちインドネシアの放送ほうそうでその告知こくちおこなった[48]。しかし、未明みめいになって近衛このえだい師団しだんから放送ほうそうをしないようにとの要請ようせいがあり[49]よく15にち正午しょうごには「都合つごうによりりやめとなった」と放送ほうそうした[50]山本やまもと中止ちゅうし告知こくち放送ほうそうしたのち東京とうきょうはつ短波たんぱ放送ほうそう玉音ぎょくおん放送ほうそうき、日本にっぽん降伏ごうぶくった[51]。そのメダン在住ざいじゅうおもだった日本人にっぽんじん20すうにん東海岸ひがしかいがんしゅう官邸かんていあつめ、インドネシアじんりを厳禁げんきんしたうえ放送ほうそう内容ないよう説明せつめいした[52]

スポーツ放送ほうそうについて[編集へんしゅう]

  • 晩年ばんねん、スポーツ放送ほうそうにおいてアナウンサーの勉強べんきょう不足ふそく解説かいせつしゃへの依存いぞん目立めだっており、放送ほうそうふかみがないことを指摘してきしていた。放送ほうそうのハードウェア(衛星えいせい中継ちゅうけいなど)が発達はったつする一方いっぽうで、ソフトウェア(放送ほうそう内容ないよう)の充実じゅうじつおくれていると憂慮ゆうりょしていた[7]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 橋本はしもと(1997)、30ぺーじ
  2. ^ 埜(2002)、140ぺーじ
  3. ^ 橋本はしもと(1997)、30ぺーじ
  4. ^ 橋本はしもと(1997)、32ぺーじ
  5. ^ 向坂さきさか出羽海でわのうみ(1992)、302ぺーじ
  6. ^ 東京とうきょう相撲すもう記者きしゃクラブ会友かいゆうかい(1993)、58ぺーじ
  7. ^ a b 橋本はしもと(1997)、243ぺーじ
  8. ^ a b c 向坂さきさか出羽海でわのうみ(1992)、300ぺーじ
  9. ^ 埜(2002)、153ぺーじ
  10. ^ 東京とうきょう相撲すもう記者きしゃクラブ会友かいゆうかい(1993)、48ぺーじ
  11. ^ a b 橋本はしもと(1997)、66ぺーじ
  12. ^ a b 大相撲おおずもう中継ちゅうけい』2017ねん5がつ27にちごう16ぺーじ
  13. ^ 橋本はしもと(1997)、46-47ぺーじ
  14. ^ 埜(2002)、142ぺーじ
  15. ^ 東京とうきょう相撲すもう記者きしゃクラブ会友かいゆうかい(1993)、49ぺーじ
  16. ^ 橋本はしもと(1997)、24-25、73ぺーじ
  17. ^ 埜(2002)、143ぺーじ
  18. ^ a b 橋本はしもと(1997)、173ぺーじ
  19. ^ 橋本はしもと(1997)、244ぺーじ
  20. ^ 橋本はしもと(1997)、189ぺーじ
  21. ^ 工藤くどう(1991)、170ぺーじ
  22. ^ 橋本はしもと(1997)、190ぺーじ
  23. ^ 工藤くどう(1991)、169ぺーじ
  24. ^ a b 橋本はしもと(1997)、191ぺーじ
  25. ^ a b c 工藤くどう(1991)、170ぺーじ
  26. ^ a b 埜(2002)、150ぺーじ
  27. ^ 橋本はしもと(1997)、192ぺーじ
  28. ^ 工藤くどう(1991)、171ぺーじ
  29. ^ この夏場所なつばしょ千秋楽せんしゅうらくむすびの一番いちばんであり、みずすえ双葉ふたばさんたまにしきたおし66連勝れんしょう達成たっせいした。たまにしきはこのとしの12月4にち巡業じゅんぎょうさき急逝きゅうせいしたため、生涯しょうがい最後さいご一番いちばんとなった。
  30. ^ 橋本はしもと(1997)、186-187ぺーじ
  31. ^ 橋本はしもと(1997)、123-126ぺーじ
  32. ^ 橋本はしもと(1997)、11-12ぺーじ
  33. ^ 橋本はしもと(1997)、130-133ぺーじ
  34. ^ 鎌田かまた忠良ただよしの『日章旗にっしょうきとマラソン ベルリン・オリンピックのまごもとただし』(1984ねん潮出版社うしおしゅっぱんしゃ1988ねん講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ)にもほぼおなじエピソードがしるされている。ただ、アルゼンチンアナウンサーの最後さいご台詞せりふは「わたしはもうこれで放送ほうそう中止ちゅうしする。国民こくみんみなさん、さようなら」となっており、橋本はしもと著書ちょしょとは多少たしょうニュアンスにちがいがある。
  35. ^ 橋本はしもと(1997)、142ぺーじ
  36. ^ 橋本はしもと(1997)、145-147ぺーじ
  37. ^ 埜(2002)、148ぺーじ
  38. ^ 橋本はしもと(1997)、142-143ぺーじ
  39. ^ 橋本はしもと(1997)、140ぺーじ
  40. ^ 橋本はしもと(1997)、91-92ぺーじ
  41. ^ 橋本はしもと(1997)、140-141ぺーじ
  42. ^ 橋本はしもと(1997)、152ぺーじ
  43. ^ 橋本はしもと(1997)、207ぺーじ
  44. ^ 橋本はしもと(1997)、208ぺーじ
  45. ^ 橋本はしもと(1997)、209ぺーじ
  46. ^ 橋本はしもと(1997)、209,213ぺーじ
  47. ^ 橋本はしもと(1997)、212ぺーじ
  48. ^ 橋本はしもと(1997)、214ぺーじ
  49. ^ 橋本はしもと(1997)、215ぺーじ
  50. ^ 橋本はしもと(1997)、218、221-222ぺーじ一説いっせつには、日本にっぽん敗戦はいせんインドネシアの独立どくりつ運動うんどう一気いっき激化げきかし、流血りゅうけつ事件じけんこることを警戒けいかいしたためとされる。
  51. ^ 橋本はしもと(1997)、218ぺーじ
  52. ^ 橋本はしもと(1997)、220ぺーじ


参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 橋本はしもと一夫かずお明治めいじまれの「親分おやぶん」アナウンサー ―山本やまもとあきらとその時代じだい―』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1997ねん6がつISBN 4-583-03399-0 
  • 工藤くどう美代子みよこ一人ひとりさみしき双葉ふたばさん筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま文庫ぶんこ〉、1991ねん3がつISBN 4-480-02516-2 
  • 向坂さきさかまつ出羽海でわのうみさとしけい『ザ 大相撲おおずもう〈92〜93年版ねんばん〉』どう文書ぶんしょいん、1992ねん5がつISBN 978-4810390117 
  • 埜哲ぶんじいげん ジイちゃんにけ!』集英社しゅうえいしゃ、2002ねん1がつISBN 4-08-780342-2 
  • 東京とうきょう相撲すもう記者きしゃクラブ会友かいゆうかい へん『ペンつサムライたちへの鎮魂歌ちんこんか: 相撲すもう記者きしゃ建立こんりゅう75周年しゅうねん記念きねん文集ぶんしゅう東京とうきょう相撲すもう記者きしゃクラブ会友かいゆうかい、1993ねん3がつ