(Translated by https://www.hiragana.jp/)
江夏豊 - Wikipedia コンテンツにスキップ

江夏えなつゆたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
江夏えなつ ゆたか
「CARP Legend Game 2022」に出場しゅつじょうした江夏えなつゆたか
(2022ねん3がつ21にちMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島ひろしまにて)
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 兵庫ひょうごけん尼崎あまがさき
生年月日せいねんがっぴ (1948-05-15) 1948ねん5月15にち(76さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
179 cm
90 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき ひだりとうひだり
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1966ねん だい1ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1967ねん4がつ13にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1984ねん7がつ12にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

江夏えなつ ゆたか(えなつ ゆたか、1948ねん5月15にち - )は、兵庫ひょうごけん尼崎あまがさき出身しゅっしん奈良ならけん吉野よしのぐんまれ[1][2])のもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)、解説かいせつしゃ評論ひょうろんタレント

2023ねん現在げんざいでも日本にっぽん記録きろくであるシーズン401だつ三振さんしん達成たっせいしたほか、NPB最多さいたタイ記録たいきろくとなる最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅ現在げんざい最多さいたセーブ投手とうしゅ)を6かい獲得かくとくしている。プレーそのものについても「オールスター9連続れんぞくだつ三振さんしん」「江夏えなつの21きゅう」などおおくのエピソードをつ。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

あにからわれて左利ひだりききに

[編集へんしゅう]

1948ねん5がつ15にち奈良ならけん吉野よしのぐんにてまれる。鹿児島かごしまけん出身しゅっしんはは大阪おおさかにいたころ大阪大おおさかだい空襲くうしゅう疎開そかいさき奈良ならけん吉野よしのぐん江夏えなつ父親ちちおやとなる男性だんせい出会であい、ゆたかまれた。江夏えなつ母親ははおやにとってゆたか三男さんなんたり、14さい年上としうえ長男ちょうなん、7さい年上としうえ次男じなん、と3にんとも父親ちちおや全員ぜんいんことなるという複雑ふくざつ家庭かてい環境かんきょうであり[3]江夏えなつせい母方ははかたせいだった。父親ちちおやゆたかまれてまもなく失踪しっそうゆたかはこのころのことをまったおぼえておらず、物心ぶっしんがついたときからははから「おとうさんはとっくにんだ。わかれた」といいきかせられてそだった。なお、「江夏えなつ」とはみなみ九州きゅうしゅうおおせいで、ははは「先祖せんぞ辿たどると島津しまつはん家老がろうたる」とかたっていた[4]。また、霧島酒造きりしましゅぞう創業そうぎょうしたのは祖父そふだという[2]

江夏えなつは、生後せいご半年はんとしほどで母親ははおや故郷こきょうである鹿児島かごしまけん日置ひおきぐん市来いちきまちげんいちき串木野くしきの)の実家じっかして5年間ねんかんごす。その母親ははおや2人ふたりあにとも兵庫ひょうごけん尼崎あまがさきし、尼崎あまがさき市立しりつ園田そのだ中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう高校こうこう卒業そつぎょうまで尼崎あまがさきそだった[2]

幼少ようしょうは、近所きんじょ子供こどもたち粗末そまつ道具どうぐ野球やきゅうたのしんでいた。小学校しょうがっこう5年生ねんせいとき長兄ちょうけいから、ようやくまともなグラブをってもらえたが、あたえられたのは左利ひだりきようのグラブであり、「おまえひだりでやれ」とわれ、みぎきであったが、ひだりげに転向てんこうすることとなった[5][6]

尼崎あまがさき市立しりつ園田そのだ中学校ちゅうがっこうでは野球やきゅう入部にゅうぶするも、入部にゅうぶ2ヶ月かげつ経過けいかしてもたまひろいしかさせてもらえないことに不満ふまんいて上級生じょうきゅうせい直訴じきそするが、これが乱闘らんとうさわぎへ発展はってんしてしまい、野球やきゅう退すさする[7]。このとき監督かんとくだった教師きょうしから「野球やきゅういろんなスポーツの結晶けっしょうだから、いろんなスポーツを体験たいけんするように」とさとされ、バレーボールラグビー相撲すもうなどを経験けいけん最終さいしゅうてき陸上りくじょういた。陸上りくじょうでは砲丸投ほうがんな選手せんしゅとして活躍かつやくし、けん大会たいかい優勝ゆうしょうしたこともある[8]一方いっぽう野球やきゅうも、あにつとめる会社かいしゃくさ野球やきゅうチームにされてプレーするなどつづけていた[9]

中学ちゅうがく卒業そつぎょう進学しんがくせず「100%就職しゅうしょく」するつもりでいたが、中学ちゅうがく時代じだい野球やきゅう陸上りくじょう世話せわになった教師きょうしから進学しんがくつよすすめられ、報徳ほうとく学園がくえんなみしょう野球やきゅう強豪きょうごうこうおとずれて、そのなかから進学しんがくさき大阪学院大学おおさかがくいんだいがく高校こうこうめて進学しんがくする[9]

大阪学院大学おおさかがくいんだいがく高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく本格ほんかくてき野球やきゅうはじめる[10]当時とうじ野球やきゅう監督かんとく塩釜しおがまきょうは、学生がくせい時代じだいにラグビーで国体こくたい出場しゅつじょうした経験けいけんがあるスポーツマンであったが、野球やきゅう経験けいけん一切いっさいなかった[ちゅう 1]江夏えなつ高校こうこうの3年間ねんかん塩釜しおがまから野球やきゅう技術ぎじゅつてき指導しどうけたことがなかったが、熱血ねっけつてき指導しどう選手せんしゅ指導しどうし、江夏えなつかれるものをかんじていたという[11]塩釜しおがま猛烈もうれつなスパルタ練習れんしゅう部員ぶいんし、練習れんしゅうわったのちつかれで学校がっこうから徒歩とほわずか10ぶん実家じっかまで、途中とちゅうやすやすみながら1あいだかることもしばしばだった。

1966ねんなつ甲子園こうしえん大阪おおさか予選よせんでは準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつするが、のちに阪神はんしんタイガース同僚どうりょうとなる桜塚さくらづかだか奥田おくださとしてるって惜敗せきはい。しかし予選よせん6試合しあいげ81だつ三振さんしん、2失点しってんという好成績こうせいせきのこした。また、いちしがらみえの本塁打ほんるいだたれたことがく、唯一ゆいいつたれたのは明星みょうじょうだか平野ひらのひかりやすしにランニング本塁打ほんるいだゆるしたのみだった[12]

江夏えなつ高校こうこう時代じだいかえって、衝撃しょうげきてきだった出来事できごととして鈴木すずき啓示けいじとの対戦たいせんげている。2年生ねんせいのある鈴木すずきようする育英いくえいだか練習れんしゅう試合しあいおこない、延長えんちょう15かいすえに0-0のけにわった。この試合しあいで、江夏えなつ四球しきゅうしながらも完投かんとうして15だつ三振さんしんげる好投こうとうせる一方いっぽう、3年生ねんせいエースだった鈴木すずきはそれをおおきく上回うわまわる27だつ三振さんしん記録きろくした。4ばん打者だしゃとして打席だせきった江夏えなつは、鈴木すずきとうじる速度そくどのある直球ちょっきゅう落差らくさするどいカーブにあしず、「1きゅうもかすらなかった」と述懐じゅっかいしている[13]。この出来事できごとがきっかけで江夏えなつは、鈴木すずきとうじていたカーブを習得しゅうとくしたい願望がんぼう芽生めばえたという。

阪神はんしん入団にゅうだんつづ快挙かいきょ達成たっせい

[編集へんしゅう]

藤本ふじもと村山むらやまらとの出会であ

[編集へんしゅう]

1966ねんだい1ドラフト会議かいぎにおいて、阪神はんしんタイガース読売よみうりジャイアンツ東映とうえいフライヤーズ阪急はんきゅうブレーブスから1指名しめいけ、競合きょうごう抽選ちゅうせん結果けっか阪神はんしん指名しめいけん獲得かくとくした。しかし、東海大学とうかいだいがく総長そうちょう松前まさき重義しげよし江夏えなつさそいに直々じきじき大阪おおさかたこともあって本人ほんにん進学しんがくめており、担当たんとうスカウトの河西かさい俊雄としおいにてもそのことわつづけていた[14]

その阪神はんしん交渉こうしょうつづけ、河西かさい自身じしんおなじくスカウトをつとめる佐川さがわ直行なおゆきとも交渉こうしょうせきくと、いきなり佐川さがわから「おまえみたいなピッチャーはべつしいとはおもわん。おれは(入団にゅうだんしてもしなくても)どうでもええんや」とわれた。これには江夏えなつ我慢がまん限界げんかいになり「それならはいったるわ!」とはっし、入団にゅうだんまった[15]

江夏えなつ入団にゅうだんしてしばらくったころ佐川さがわ再会さいかいしたさい入団にゅうだんはなしになると、「あれはオレの話術わじゅつ戦術せんじゅつや。まともにっても絶対ぜったいOKとわんのがかっとったからいからした」とわれ、江夏えなつ自身じしんも「まんまと術中じゅっちゅうにはまった」と回顧かいこしている[15]。しかし、江夏えなつともに3にん仲間なかま進学しんがく内定ないていさせていたが、江夏えなつのプロりで3にん進学しんがく白紙はくしになり、進学しんがくさき高校こうこう系列けいれつ大阪学院大学おおさかがくいんだいがくわったことで、これについて江夏えなつ本人ほんにんは「もうわけないことをした」とべている[15]

背番号せばんごう入団にゅうだん当初とうしょのみ「71」を着用ちゃくようしていたが、のちに球団きゅうだんから「1」「13」「28」のどれかを着用ちゃくようすることをすすめられた江夏えなつは、1は「ライバルである鈴木すずき啓示けいじおな番号ばんごう真似まねをするようだから」、13を「なんとなく縁起えんぎわる番号ばんごう」という理由りゆう候補こうほからし、消去しょうきょほうで28を選択せんたくした。28ばんについてあに相談そうだんしたときには「末広すえひろがりみたいな数字すうじで、いいんじゃないか」とわれたという[16]。ちなみに、2014ねん12月30にち放送ほうそうの「背番号せばんごうクロニクル」(NHK BS1)の番組ばんぐみないでは、28が完全かんぜんすうであることが紹介しょうかいされているが、江夏えなつ本人ほんにんは「『完全かんぜんすう』ってなになのか、それすらぼくりませんでした」とかたっている。

1967ねん春季しゅんきキャンプでは、高校こうこう時代じだいまでげられなかった変化球へんかきゅう習得しゅうとくするために権藤ごんどう正利まさとしをはじめとする先輩せんぱい投手とうしゅじんおしえをうたが、どのかた完全かんぜん習得しゅうとくできないまま公式こうしきせんはじまってしまった。それでもつよし速球そっきゅう武器ぶき新人しんじんでありながらシーズン最多さいただつ三振さんしん225を記録きろくし、防御ぼうぎょりつ2.74(リーグ10)と一定いってい成績せいせきのこした。一方いっぽうあずか四球しきゅう本塁打ほんるいだおおく、打撃だげきりょくとぼしい当時とうじのチーム事情じじょう[ちゅう 2]かさなって12しょう13はいすう上回うわまわり、新人しんじんおうのタイトルもたけうえ四郎しろうはばまれて獲得かくとくはならなかった。ただ、球団きゅうだんとは1しょう10まんえんのインセンティブ契約けいやくむすんでいたため、年俸ねんぽう相当そうとう収入しゅうにゅうたという[18]

シーズン最多さいただつ三振さんしんのプロ野球やきゅうしん記録きろく

[編集へんしゅう]

1968ねんのキャンプでは、あらたに投手とうしゅコーチに就任しゅうにんしたはやし義一ぎいちによって砲丸投ほうがんなげの影響えいきょうからくる「かつげ」のくせ矯正きょうせいされ、変化球へんかきゅう徹底的てっていてきおしまれた。これによって制球せいきゅうりょく向上こうじょうたましゅやし、開幕かいまくから前年ぜんねん上回うわまわるペースで勝利しょうりすうだつ三振さんしんすうばしていった。このとしさかい江夏えなつ血行けっこう障害しょうがいなや村山むらやまみのるわってエースとなり、球界きゅうかい代表だいひょうする投手とうしゅ成長せいちょうした。このことから江夏えなつ温厚おんこう真摯しんし指導しどうしてくれたはやしを「お師匠ししょうさん」とび、したっている。村山むらやまたいしてもストイックな野球やきゅうかん感銘かんめいけて弟子入でしいりを決意けついし、練習れんしゅうからロッカールームにいたるまで村山むらやま至近しきん距離きょり一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく観察かんさつしていたが、初年度しょねんど江夏えなつ好成績こうせいせきのこすと村山むらやま露骨ろこつ江夏えなつとおざけるようになった。江夏えなつはエースのうばわれそうになった村山むらやま器量きりょうせまさゆえの行動こうどう憤慨ふんがいしていたが、のちに自身じしんいち人前にんまえ投手とうしゅとしてみとめてくれたがゆえの「弟子でし卒業そつぎょう」という意思いし表示ひょうじ気付きづき、「あれが本物ほんもののプロ。勝負しょうぶかただとおしえてもらった」と自著じちょなかかたっている。

こだわったおう貞治さだはるとの対戦たいせん

[編集へんしゅう]

1968ねん9月17にちたい読売よみうりジャイアンツたたかえ阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)でおう貞治さだはるから三振さんしんうばい、稲尾いなお和久かずひさ日本にっぽん記録きろく更新こうしんするシーズン354だつ三振さんしん記録きろくした[19][ちゅう 3]。そして試合しあいでは日本にっぽんタイ記録たいきろくとなる353おうからうばったが、江夏えなつ本人ほんにんはこれを日本にっぽん記録きろく更新こうしん勘違かんちがいしており、ベンチにもどってから捕手ほしゅつじ恭彦やすひこ指摘してきされてはじめて気付きづいたという[19]。そこで江夏えなつ後続こうぞく打者だしゃすべ意図いとてき凡打ぼんだり、つぎおう打席だせき宣言せんげんどお記録きろく更新こうしんとなる354三振さんしんうばってみせるというはなわざをやってのけた[19]江夏えなつ後年こうねん、「(おう以外いがい野手やしゅから三振さんしんうばうより)もりさんと高橋たかはしさんから三振さんしんらないようにするのが、むしろ大変たいへんだった。とく高橋たかはしさんを2ストライクまでんだのが一番いちばんこまった」とかたっている。しかもこの試合しあいでは、延長えんちょう12かい江夏えなつみずからがサヨナラ安打あんだはなって勝利しょうりしている[19]同年どうねんだつ三振さんしんすう最終さいしゅうてきに401個いっこまでばした[20]

オールスターゲーム9しゃ連続れんぞくだつ三振さんしん

[編集へんしゅう]

1971ねん7がつ17にちオールスターゲームだい1せん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)で登板とうばんした江夏えなつは、速球そっきゅう抜群ばつぐん制球せいきゅうりょくパシフィック・リーグ打者だしゃから次々つぎつぎ三振さんしんうばい、史上しじょうはつの9しゃ連続れんぞくだつ三振さんしん記録きろくした。オールスターゲームでの投手とうしゅ規定きていにより3イニングまでしか登板とうばんできないため、この記録きろくは1試合しあいにおける事実じじつじょう最多さいただつ三振さんしんすうであり[ちゅう 4]現在げんざいでもオールスターゲームにおける単独たんどく記録きろくである。打者だしゃがキャッチャーフライをったさい捕手ほしゅ田淵たぶち幸一こういちいかけるも「るな!」とさけんでせいしたとされているが、実際じっさいには打球だきゅうがそのまま観客かんきゃくせきはいるためにわなくていいと江夏えなつおもったことにくわえて、三振さんしんうばっている最中さいちゅうだったこともあって江夏えなつ自身じしんがテンポよく投球とうきゅうしたかったために「うな!」とさけんだものだと著書ちょしょかたっている。

このあとセ・リーグは、江夏えなつのちけて登板とうばんした渡辺わたなべしげるたけ高橋たかはし一三かずみ水谷みずたに寿ことぶきしん小谷おたに正勝まさかつ継投けいとうでパ・リーグを安打あんだ1四球しきゅう1失策しっさく16だつ三振さんしんおさえ、継投けいとうによるノーヒットノーラン達成たっせいしている[21]

9連続れんぞくだつ三振さんしん記録きろくしたさいのボールは江夏えなつ手元てもとく、行方ゆくえ不明ふめいとなっている。これは、捕手ほしゅ田淵たぶち幸一こういち江夏えなつ記録きろく達成たっせいらず、球審きゅうしん三振さんしんコールをくと同時どうじ無意識むいしき観客かんきゃくせきれてしまったためとされており、当時とうじ映像えいぞうても田淵たぶち球審きゅうしん三振さんしんコールの確認かくにん直後ちょくごがり、ベンチ方向ほうこうあるしながら後方こうほう観客かんきゃくせきへボールをれる様子ようす確認かくにんできる。ただ、後年こうねんになって江夏えなつ番組ばんぐみおう理恵りえ共演きょうえんしたさいに、「田淵たぶちというキャッチャーはボールをれてしまった。でもきみのおとうさん(おう貞治さだはる)がひろってくれてスッとわたしてくれたんだよ」とべている。

江夏えなつ前年ぜんねんのオールスターゲームにおいても5連続れんぞく三振さんしん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう開催かいさいだい3せんでは1三振さんしんうばっており、連続れんぞく15だつ三振さんしんもオールスター記録きろくとなっている。さらにこの試合しあい江夏えなつは、1960ねんたつみはじめ史上しじょう2にんの「オールスターゲームにおける投手とうしゅ本塁打ほんるいだ」をはなっており、これを最後さいごにオールスターゲームにおける投手とうしゅ本塁打ほんるいだ記録きろくされていない。

史上しじょうはつ延長えんちょうノーヒットノーランとVいっ

[編集へんしゅう]

1973ねん8がつ30にちたい中日ちゅうにちドラゴンズたたかえ阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)では、史上しじょう59かいとなるノーヒットノーラン達成たっせいした。相手あいて先発せんぱつ松本まつもとみゆきぎょう延長えんちょうせんまでい、11かいうら松本まつもととうじた初球しょきゅうをライトがわラッキーゾーンはこび、「みずからサヨナラ本塁打ほんるいだはなつ」という劇的げきてきかたち史上しじょうはつ延長えんちょうせんノーヒットノーラン達成たっせいした。2022ねん現在げんざいにおいても日本にっぽんプロ野球やきゅう延長えんちょうせんノーヒットノーランを達成たっせいしているのは江夏えなつだけである[22]

しかし、当時とうじ読売よみうりジャイアンツ前人未到ぜんじんみとう9連覇れんぱ(いわゆるV9)げている只中ただなかで、チームは優勝ゆうしょうあらそいにくわわるものの、優勝ゆうしょう経験けいけんすることはできなかった。なかでも9連覇れんぱゆるした1973ねんは、あと1引分ひきわけでも阪神はんしんのリーグ優勝ゆうしょうまる試合しあい(10がつ20日はつかたい中日ちゅうにちドラゴンズ最終さいしゅうせん)に先発せんぱつするも5かい3失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅとなり[23]、チームもったほうがリーグ優勝ゆうしょうという10月22にち甲子園こうしえん球場きゅうじょうでの巨人きょじんせんで0-9で大敗たいはいし、またも優勝ゆうしょうのがした[24]

江夏えなつ現役げんえき引退いんたい、この試合しあいでは前日ぜんじつ長田ながた睦夫むつお球団きゅうだん代表だいひょう鈴木すずき一男かずお常務じょうむから「優勝ゆうしょうするとかねかるからのこり2試合しあいってくれるな。監督かんとく了承りょうしょうしているから」とわれたとあきらかにしている[25][23]。その一方いっぽう起用きようについては「試合しあいけるためにエースをげさせるわけく、あとで『中日ちゅうにちせん上田うえだ巨人きょじんせん江夏えなつけばかった』というこえもあったけどそれは結果けっかろんであって、あと1しょうすればいいとなったらぼしおおほうからくのは当然とうぜん残念ざんねん結果けっかになったんですが、ぼくいまでもあれは正攻法せいこうほうだったとおもう。ぼくちからおよばなかったからけたということ」と采配さいはい理解りかいしめしている[26]他方たほうたい中日ちゅうにちせん試合しあいには、途中とちゅうでの降板こうばん(7かいひょう2走者そうしゃ打席だせき代打だいだおくられる)について「あんなところでめられたら先発せんぱつした意味いみがあらへん。ひとをバカにしとる。最終さいしゅうせん? らん!」と発言はつげんして「ベンチないがぎくしゃく」したともつたえられており、22にちたい巨人きょじんせん先発せんぱつしてKOされた上田うえだは「ベンチないのぎくしゃく」で巨人きょじんせんまえに「プツンとめていたものがれた」と後年こうねんべている[24]

周囲しゅういとの確執かくしつ阪神はんしん放出ほうしゅつ

[編集へんしゅう]

1973ねんシーズンちゅうから監督かんとく金田かねだただしやすしとのあいだ確執かくしつしょうじていた[27]事態じたいった球団きゅうだん社長しゃちょう戸沢とざわ一隆かずたかが11月前半ぜんはん江夏えなつ面談めんだんして真意しんいさぐったさい江夏えなつは「このままの状態じょうたいでは、あの監督かんとくしたではやっていけない」とくちにした[28]。すでに阪神電鉄はんしんでんてつ本社ほんしゃ金田かねだ江夏えなつ残留ざんりゅうさせることをめていたが[28]金田かねだ戸沢とざわとの面談めんだん選手せんしゅから反発はんぱつされている江夏えなつ言動げんどう問題もんだいし「チーム全体ぜんたいからみてマイナスである」と主張しゅちょうした[29]。11月下旬げじゅんにオーナーの野田のだ忠二郎ちゅうじろう江夏えなつについてタイガースばん記者きしゃからわれ「野球やきゅうは9にんでやるもので、1人ひとりのためにあとの8にん犠牲ぎせいにはできない」「"うわさ"としてしかいていないので、12月の契約けいやく更改こうかいせき選手せんしゅに"真相しんそう"をく。それで反感はんかんがあまりつよいようならかんがえたい」とこたえたことで、スポーツ新聞しんぶんが「江夏えなつ放出ほうしゅつ」とほうじる事態じたいになった[29]新聞しんぶん球団きゅうだん納会のうかい江夏えなつ戸沢とざわ報道ほうどうについてめ、「おまえ気持きもちはわっとらんのか」とかれた江夏えなつあらためて金田かねだしたではプレーできないとこたえるとともに、トレードなら引退いんたいするともくちにした[30]。しかし戸沢とざわは12月上旬じょうじゅん放出ほうしゅつ意図いとがないことを明言めいげんする[30]。すると今度こんど金田かねだ江夏えなつ残留ざんりゅうでのチームづくりは「ちが方向ほうこう」として辞意じい表明ひょうめいした[31]。だが、江夏えなつ有力ゆうりょく後援こうえんしゃから「我慢がまんしてあやまる」よう説得せっとくけたことで金田かねだへの謝罪しゃざい意思いし戸沢とざわしめ[32]、それをけた金田かねだ辞意じい撤回てっかいして留任りゅうにんすることになったものの、江夏えなつを「不問ふもん」としたことでチームないには依然いぜん内紛ないふんたねのこったと指摘してきされた[33]

1974ねんより、100きゅうえるとかならみぎひじしびれだすなどおとろえを自覚じかくするようになり、ながいイニングをげることが困難こんなんになる[34]。このとしは12しょう14はい8セーブとぼし前年ぜんねんの24しょうから半減はんげんし、チームも4Bクラスにわり、このとしかぎりで金田かねだ監督かんとく辞任じにんした。オフに結婚けっこん発表はっぴょうした。

1975ねんからは吉田よしだ義男よしお監督かんとく就任しゅうにんし、江夏えなつは4がつ5にちたい中日ちゅうにちドラゴンズせん開幕かいまくせん)に先発せんぱつ起用きようされ、4ねんぶりに中日ちゅうにちからぼしげる。4がつ20日はつか巨人きょじんせんではおたがいに通算つうさん149しょうげている堀内ほりうち恒夫つねおい、江夏えなつって一足ひとあしさき通算つうさん150しょう達成たっせいした。試合しあいに「ふわーっといくのがぼくのペース。巨人きょじんとう、とうとかたくなってぼくのペースにはまっていた」とかたった。ピッチングでは、スローボールをとうはじめ、それまでのつよし速球そっきゅう投手とうしゅからのモデルチェンジを本格ほんかくてき模索もさくはじめた[35]血行けっこう障害しょうがいがさらに深刻しんこくになり、うでがむくんでキャッチボール困難こんなん状態じょうたいになることもしばしばあった。後半こうはんせんからは、吉田よしだ意向いこうもあり、リリーフでの登板とうばん機会きかいえる。

江夏えなつ監督かんとく吉田よしだ現役げんえき時代じだいからなかわるく、したしかったつじけいコーチがあいだはいることでようやくコミュニケーションがれる状態じょうたいだった。江夏えなつながいイニングで球威きゅういちるようになったのを吉田よしだは、江夏えなつたいおさえへの転向てんこうをそれとなく打診だしんしたが、当時とうじ江夏えなつにはそのまったかったとかたっている[36]

そして、江夏えなつついにトレードされることになる。1975ねん12月24にち日刊にっかんスポーツが「阪神はんしん南海なんかいとのあいだ江夏えなつ江本えもと孟紀たけのりふく複数ふくすうトレードが成立せいりつする見込みこみである」と報道ほうどう[37]。これをった江夏えなつ球団きゅうだん事務所じむしょおとずれ、球団きゅうだん社長しゃちょう長田ながた睦夫むつおたい報道ほうどう真偽しんぎたしかめたが「きみをトレードするはない」と否定ひていした。しかし翌月よくげつの1976ねん1がつ19にち球団きゅうだんからしを長田ながたはなったが長田ながたは「チームにもうとする姿勢しせいられない」としてトレードを通告つうこく[38]報道陣ほうどうじんたいし「さびしい。なにのためにこれまで阪神はんしん頑張がんばってきたのか」と球団きゅうだんたい不満ふまんあらわにした[38][39]。23にち球団きゅうだんから南海なんかいホークスへの複数ふくすうトレードを通告つうこくされ[40]「2,3にちかんがえる時間じかんしい」とこたえてすぐには了承りょうしょうしなかったものの[41]、26にち長田ながた南海なんかいへのトレードをれるとつたえると南海なんかい阪神はんしん即座そくざ江夏えなつ望月もちづきたかし江本えもと孟紀たけのり池内いけうちゆたか長谷川はせがわつとむ島野しまの育夫いくおのトレードが成立せいりつしたと発表はっぴょう[42]江夏えなつ入団にゅうだん以来いらい9年間ねんかん選手せんしゅ生活せいかつごした阪神はんしんわかれをげた。

監督かんとく吉田よしだは、江夏えなつのトレードが成立せいりつしたのち報道陣ほうどうじんたいし「トレードはフロントがめたことでわたしらなかった」とこたえていた[43]。しかしのちに、1975ねんれに江夏えなつのトレードを決断けつだんしていたとみとめ、このとき球団きゅうだん社長しゃちょう長田ながたから「きみはトレードのはなしらなかったということにしておこう」とけられて同意どういし、あのような発言はつげんにつながったと釈明しゃくめいしている[44]野村のむらも、すでに1975ねんなつ吉田よしだから江夏えなつのトレードを打診だしんされていたことをみとめている[45]。しかし江夏えなつによると、吉田よしだ実母じつぼ後援こうえんしゃなど江夏えなつ周囲しゅうい関係かんけいしゃに「江夏えなつをトレードすることは絶対ぜったいにない」と明言めいげんしたということであり、実際じっさいはそのぎゃくであったため、江夏えなつ吉田よしだたいし「ぼくをトレードにすのは結構けっこうだけれど、おやまでだますことはないだろう」と批判ひはんした[45]

南海なんかい移籍いせき野村のむら野球やきゅうかん

[編集へんしゅう]

江夏えなつ阪神はんしんからトレード通告つうこくされた直後ちょくごは、人間にんげん不信ふしんおちいっていたこともあってそれをれる心境しんきょうになく、引退いんたいさえかんがえていた[46]。しかし、日刊にっかんスポーツの記者きしゃからの「トレードのはなしべつにして、一度いちどってみてはどうか」のすすめで、大阪おおさかのプラザホテルにて野村のむら会食かいしょくした[46]江夏えなつ野村のむらうなりいきなり「おい、おまえ。あのとき意識いしきしてボールをはなったろう」とわれる。野村のむら指摘してきしたのは、1975ねん10がつ1にち広島ひろしませんで、一死いっし満塁まんるい場面ばめん衣笠きぬがさ祥雄よしおたい意図いとてきにボールだまげて三振さんしんった投球とうきゅうのことであった[46]江夏えなつはこの指摘してきに「そんなことをおぼえていたのか」というおどろきと戸惑とまどいをかんじたが、野村のむらはこののち野球やきゅうはなし終始しゅうしし、トレードのはなし一切いっさいしなかった。江夏えなつ野村のむらわかれたのち野村のむらとの会談かいだん反芻はんすうして「野村のむらというひと面白おもしろひとだ」とかんじ、南海なんかいへのトレードをれることを決意けついした[47]

江夏えなつ南海なんかい入団にゅうだんにあたり、心機一転しんきいってん意味合いみあいもあり背番号せばんごう阪神はんしん時代じだいの「28」から「17」へと変更へんこうした。3月13にち大阪おおさか球場きゅうじょうでの巨人きょじんとのオープンせん先発せんぱつ江夏えなつ知名度ちめいど人気にんきチームの巨人きょじんせんということもあり観衆かんしゅうは3まん2せんにん大入おおいりで球団きゅうだんとして12ねんぶりとなるオープンせん満員まんいん札止ふだどめを盛況せいきょうだった[48]江夏えなつは5かいげ96きゅう、1失点しってんで、だつ三振さんしんはゼロだった。

4がつ4にち太平洋たいへいようクラブ・ライオンズとの開幕かいまくせんの9かい救援きゅうえんはつ登板とうばんたし、7にち大阪おおさか球場きゅうじょうでの近鉄きんてつせんはつ先発せんぱつ、9かい11,2るいとなったところで佐藤さとう道郎みちお交代こうたいし、移籍いせきはつ勝利しょうりげた。しかしその先発せんぱつ好投こうとうしながら打線だせん援護えんごがなくぼしにつながらないという試合しあいつづく。6月15にち太平洋たいへいようせんで4かいまでに4本塁打ほんるいだたれて降板こうばんし、はやくも8はいきっした[49]。6月27にち日本にほんハムせん移籍いせきはつ完封かんぷう勝利しょうりげた[50]前半ぜんはんせんえて4しょう8はい、1ねんつうじては6しょう12はい9セーブにわり、プロ以来いらいはじめてぼしが2ケタをった。

1977ねんは、1がつひだりひじ神経しんけいえん診断しんだんされ、春季しゅんきキャンプではさむさもありスロー調整ちょうせいつづけた。4月18にち近鉄きんてつせんはつ先発せんぱつし、変化球へんかきゅうでかわす投球とうきゅう主体しゅたいに6かいげ3失点しってん内容ないようだった。開幕かいまく1かげつの5がつ8にち日本にほんハムせん完投かんとうでシーズンはつ勝利しょうりげる。そして5がつ31にち近鉄きんてつせん先発せんぱつして5かい4失点しってん降板こうばん、これが現役げんえき最後さいご先発せんぱつ登板とうばんとなった。

江夏えなつは5月8にち日生にっせい球場きゅうじょうでの近鉄きんてつとの試合しあいまえ外野がいやでウォーミングアップちゅうに、監督かんとく野村のむらから「リリーフをやらないか」と打診だしんされる。江夏えなつすで先発せんぱつ投手とうしゅとしてながいイニングをげることが困難こんなんになっており、すで前年ぜんねんからそれとなく野村のむら打診だしんしていた。このときになってはじめてはっきりと野村のむらからもうわたされたが江夏えなつは「なにってんの。そんなこと、とんでもない」とこたえる[51]。その野村のむらが「リリーフをやれと」説得せっとくし、江夏えなつがそれを拒否きょひするという「問答もんどう」がつづいた。そしてある野村のむらは「野球やきゅうかい革命かくめいこしてみないか」とくちにする。江夏えなつが「革命かくめいってなんですか」とくと野村のむらは「いまはピッチングマシンの発達はったつ打者だしゃはいくらでも練習れんしゅうができる一方いっぽう投手とうしゅ場合ばあいかた消耗しょうもうひんなので練習れんしゅうにも限度げんどがある。そのため、これからのプロ野球やきゅうだかとうひく傾向けいこうがますますつよまる。投手とうしゅがそれに対抗たいこうするには、先発せんぱつ救援きゅうえん分業ぶんぎょうさせるしか方法ほうほうはない」とべ、今後こんご球界きゅうかいにおけるおさ投手とうしゅ重要じゅうようせい力説りきせつした[52]野村のむらの「革命かくめいこそう」という言葉ことばかれた江夏えなつは、おさえへの転向てんこうにようやく同意どういした。

江夏えなつはこれ以後いごおさえに転向てんこうし、当時とうじ記録きろくである6試合しあい連続れんぞくセーブを樹立じゅりつ最終さいしゅうてきに4しょう2はい19セーブの成績せいせきでパ・リーグの最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅかがやいた。

広島ひろしま移籍いせき江夏えなつの21きゅう

[編集へんしゅう]

1977ねんオフ、野村のむら公私こうし混同こんどう理由りゆう南海なんかい監督かんとく解任かいにんされ、退団たいだん決定けっていした。野村のむらした江夏えなつ球団きゅうだんたいし「野村のむらさんがめる以上いじょう南海なんかいしてください」とトレードを志願しがん同年どうねん12がつ22にち金銭きんせんトレードで広島東洋ひろしまとうようカープ移籍いせきした[53]。この移籍いせきには、野村のむらによる広島ひろしま監督かんとくちくへの推薦すいせんもあった[54]

広島ひろしま移籍いせき阪神はんしん時代じだい晩年ばんねんからおとろえていた直球ちょっきゅう威力いりょく回復かいふくしだし、これによりおも打者だしゃげられるようになって投球とうきゅうはばひろがっていった[55]自信じしん回復かいふくした江夏えなつ復調ふくちょうし、5しょう4はい12セーブをげた。そして1979ねんには9しょう6はい25セーブをげ、チームの4ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん。プロ13ねんはつ優勝ゆうしょうあじわい、優勝ゆうしょう決定けってい試合しあいとなった10月6にち阪神はんしんせんでセーブをげ、胴上どうあ投手とうしゅになった。近鉄きんてつバファローズとの日本にっぽんシリーズ最終さいしゅうだい7せんの7かいうらから登板とうばんし、9かいうら無死むし満塁まんるいのピンチをまねくも、そこから佐々木ささき恭介きょうすけ三振さんしん一死いっしから石渡いしわたしげるのスクイズをはずして走者そうしゃして2、そして石渡いしわた三振さんしんってピンチをけ、このとし2度目どめ胴上どうあ投手とうしゅとなり、広島ひろしまはつ日本一にっぽんいちみちびいた。この投球とうきゅうよく1980ねん4がつのスポーツ・グラフィック・ナンバー創刊そうかんごうで、山際やまぎわ淳司あつしさくによる「江夏えなつの21きゅう」としてられるようになり、プロ野球やきゅう史上しじょう最高さいこうめい場面ばめんひとつとしてかたがれている[56]

同年どうねんオフ、セ・リーグMVPをはつ受賞じゅしょう。また、歌手かしゅとして「おれ」というレコードをリリースし、7まんまいげた。

1980ねん7がつ22にちのオールスターゲームだい3せん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)では、セ・リーグが2-0とっていたが9かいうらに1てんまでられ、無死むし満塁まんるいのピンチを背負せおった野村のむらおさむ大洋たいようホエールズ)を救援きゅうえんし、レオン・リーゆうふじ通世みちよともロッテオリオンズ)、山内やまうち新一しんいち南海なんかいホークス[ちゅう 5]を3しゃ連続れんぞく三振さんしんり、先制せんせいはなった真弓まゆみ明信あきのぶ本塁打ほんるいだはなったかけぬの雅之まさゆきおさえてMVPを獲得かくとくした。前年ぜんねんつづいて9しょう6はい21セーブをげ、チームの2ねん連続れんぞく日本一にっぽんいち貢献こうけんした。11月10にち高橋たかはし直樹なおきとのトレードで日本にほんハムファイターズへの移籍いせき発表はっぴょうされた。

日本にほんハム時代じだいふたたびパ・リーグへ

[編集へんしゅう]

1980ねん日本にっぽんハムファイターズは、パ・リーグ後期こうきシーズンで優勝ゆうしょうあらそいをえんじていた。みずからのチーム強化きょうか手応てごたえをかんじていた大沢おおさわ啓二けいじ監督かんとくは、広島ひろしま江夏えなつをオフに放出ほうしゅつするという情報じょうほう入手にゅうしゅすると[57]極秘ごくひうら広島ひろしまりし、オーナーの松田まつだ耕平こうへい直談判じかだんぱんしエース・高橋たかはし直樹なおきとの交換こうかんトレードを成立せいりつさせ[58]江夏えなつ獲得かくとく成功せいこうした。日本にっぽんシリーズ終了しゅうりょう江夏えなつの「またちがうチームで優勝ゆうしょうしたい」という発言はつげん新聞しんぶんて、大沢おおさわから電話でんわで「江夏えなつすのなら、おれにくれ。おれはまだ優勝ゆうしょうしていないから」[59]べている。大沢おおさわ親分おやぶんはだ江夏えなつ気性きしょうっていたようで、大沢おおさわも「江夏えなつ最後さいご(9かい)に使つかうのががチームのちパターン」として江夏えなつ信頼しんらい江夏えなつもそれにこたえるように1981ねんはリリーフエースとして優勝ゆうしょう貢献こうけんし、MVPにかがやいた。りょうリーグでの受賞じゅしょう史上しじょうはつ快挙かいきょで、広島ひろしま時代じだい1979ねんから1983ねんまで5ねん連続れんぞくりょうリーグにまたがっての最多さいたセーブ投手とうしゅのタイトルを獲得かくとくし、同時どうじ史上しじょうはつとなるぜん12球団きゅうだんセーブの記録きろく達成たっせいした。

1982ねんには通算つうさん200しょう達成たっせいし、入会にゅうかい条件じょうけんたして日本にっぽんプロ野球やきゅう名球会めいきゅうかい入会にゅうかいする。チームは後期こうき優勝ゆうしょうたし、前期ぜんき優勝ゆうしょうした広岡ひろおか達朗たつろう監督かんとくひきいる西武せいぶライオンズとプレーオフで対決たいけつする。事前じぜん予想よそうでは西武せいぶ打線だせんがシーズンつうじて江夏えなつおさえられていたことから日本にほんハムが優勢ゆうせいられていたが、広岡ひろおか江夏えなつ投球とうきゅうしたのち守備しゅびおおきななんがあることを見抜みぬいており、江夏えなつ周辺しゅうへん執拗しつようプッシュバント仕掛しかけさせた。これによって投球とうきゅうリズムをくずした江夏えなつ西武せいぶ打線だせんつかまり、日本にほんハムは西武せいぶやぶれて日本にっぽんシリーズ出場しゅつじょうたせなかった。これによって、江夏えなつ広岡ひろおか戦略せんりゃくするどさに尊敬そんけいねんいだくようになる。

前年ぜんねん日本一にっぽんいち広島ひろしまから移籍いせきしたこともあって、当時とうじ日本にほんハムのチームりょくはお粗末そまつなものだったという。当時とうじチームメイトだった大宮おおみや龍男たつお岡部おかべ憲章のりあきあいだしばしげるゆう坂巻さかまきあきらなどは大沢おおさわからたのまれて江夏えなつ指導しどうしたとわれており、江夏えなつ自身じしん当時とうじかえって「かれらと一緒いっしょ野球やきゅうをやって自分じぶん自身じしん勉強べんきょうになった」と後述こうじゅつしている。

西武せいぶ時代じだい江夏えなつ現役げんえき晩年ばんねん

[編集へんしゅう]

1983ねんのシーズン終了しゅうりょう大沢おおさわ監督かんとく勇退ゆうたい江夏えなつはこれをけ、大沢おおさわわれて日本にほんハムに移籍いせきした経緯けいいがあったため「大沢おおさわさんがけば自分じぶんもそこまで」とかんが大沢おおさわにそのことをつたえると、大沢おおさわは「おれがいなかったら、おまえ、でたほうがいいだろう」とこたえた[60]。こののち一軍いちぐん投手とうしゅコーチの植村うえむら義信よしのぶしん監督かんとく就任しゅうにんすると、植村うえむら江夏えなつ戦力せんりょく構想こうそうからはずし、江夏えなつのトレードが決定けっていした[60]移籍いせきにあたって江夏えなつは、現場げんばはなれるも常務じょうむ取締役とりしまりやくとして球団きゅうだん本部ほんぶのこ大沢おおさわから希望きぼう球団きゅうだんわれ、「広島ひろしまとか阪神はんしんとか、巨人きょじんたおすチームならってもいい。しかし西武せいぶいやである」とこたえていた[ちゅう 6]。しかし、同年どうねん12がつ13にち柴田しばた保光やすみつ木村きむらひろとの交換こうかんトレードで西武せいぶライオンズへの移籍いせき決定けっていした。西武せいぶおさえとしてこのとし2しょう4はい34セーブをげたもり繁和しげかずがいたにもかかわらず江夏えなつ獲得かくとくした理由りゆうについて、坂井さかい保之やすゆき球団きゅうだん代表だいひょう後年こうねん、「巨人きょじん江夏えなつ獲得かくとくしてくるとみて、巨人きょじんられるまえ自分じぶんのところへれる」という意図いとによるものだったとかたっている[63]。また大沢おおさわも、江夏えなつ移籍いせきすすめたさいにはすで西武せいぶからもうれがあり、きびしい広岡ひろおか野球やきゅうほう江夏えなつのためになるとかんがえたとべていた[ちゅう 7]

1984ねん開幕かいまくから江夏えなつ調子ちょうしがらず、シーズン途中とちゅう体調たいちょう不良ふりょううったえた。広岡ひろおかは、江夏えなつ体調たいちょう報告ほうこく再三さいさんにわたっておおきくちがうことに不信ふしんかんいだき、ぐんちと入院にゅういんめいじた。その一方いっぽう江夏えなつも、ぐんちの決定けってい広岡ひろおか本人ほんにんからではなく新聞しんぶん報道ほうどうるなど、広岡ひろおか選手せんしゅとコミュニケーションをらないことに不満ふまんつのらせていた。チームも同年どうねん優勝ゆうしょうあらそいから早々そうそう脱落だつらくし、シーズン途中とちゅうはやくも来季らいき見据みすえた若手わかて中心ちゅうしん起用きようわったことで、7がつ12にち登板とうばん最後さいご江夏えなつ出番でばんあたえられることはかった。江夏えなつは、史上しじょうはつの200セーブと通算つうさん3000だつ三振さんしん目前もくぜんにしながら、同年どうねんかぎりで西武せいぶ退団たいだん現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいした。阪神はんしん時代じだいにバッテリーをみ、西武せいぶふたた同僚どうりょうとなった田淵たぶちことなり、球団きゅうだん主催しゅさい引退いんたい試合しあいおこなわれなかった。

メジャー挑戦ちょうせん

[編集へんしゅう]

引退いんたい試合しあいおこなわれなかったことにたいして、かつて創刊そうかんのCMに江夏えなつ起用きようしていた雑誌ざっしNumber初代しょだい編集へんしゅうちょうで、当時とうじ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう編集へんしゅうちょうだった岡崎おかざき満義みつよしらのはからいで、1985ねん1がつ19にち東京とうきょう多摩たま多摩たま市営しえい球場きゅうじょうにてNumberを発行はっこうする文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ主催しゅさい名球会めいきゅうかい協力きょうりょくした、「たったひとりの引退いんたいしき」が実施じっしされ、球場きゅうじょう収容しゅうよう人数にんずういっぱいの1まん5000にん観衆かんしゅうめかけた[65][66]地元じもとのリトルリーグ同士どうし試合しあい途中とちゅう監督かんとくやくビートたけし観衆かんしゅうまえて「わたしいちふんだけ時間じかんをください」と宣言せんげんすると[67]阪神はんしん時代じだいのユニフォーム[ちゅう 8]江夏えなつ登板とうばん、かつてバッテリーをんだつじ恭彦やすひこ捕手ほしゅつとめた。少年しょうねん野球やきゅう選手せんしゅから、落合おちあい博満ひろみつ山本やまもと浩二こうじ福本ふくもとゆたか球団きゅうだん垣根かきねえてあつまった選手せんしゅ・OBの8めい相手あいて日本にっぽんでの最後さいご投球とうきゅう披露ひろうした。引退いんたいしき挨拶あいさつ江夏えなつメジャーリーグ挑戦ちょうせん意志いし表明ひょうめいし、「江夏えなつゆたか36さい本当ほんとうにバカなおとこかもかりません。ですが、日本にっぽんかえってきたときには、たった一言ひとこと、『ごくろうさん』、それだけってやってください」とかたった[68]

江夏えなつは1984ねん12月27にち、ロサンゼルスにてダン野村のむら立会たちあいのもとでミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約けいやくむす[69]、85ねん2がつどう球団きゅうだんのスプリング・トレーニングにノン・ロースター・プレイヤーとして参加さんか背番号せばんごうは「68」で[70]中継なかつ左腕さわんの1わくとしてメジャー昇格しょうかく目指めざした。2月21にちにサンシティーでのキャンプに合流ごうりゅうし、28にちのフリー打撃だげきはつ登板とうばん。3月8にち紅白こうはくせんはつ登板とうばんして1かい安打あんだおさえた。

3月13にちのサンフランシスコ・ジャイアンツせんでオープンせんはつ登板とうばんし、2かい安打あんだ失点しってん内容ないよう上々じょうじょうのスタートを[71]、18にちのシアトル・マリナーズせんは2かい1安打あんだ失点しってんはつ勝利しょうりげ、23にちのサンディエゴ・パドレスせん本塁打ほんるいだびてはつ失点しってんも2かいげ3安打あんだ1失点しってん、2イニング二死にし満塁まんるいのピンチをまねきカウント0-3から強打者きょうだしゃテリー・ケネディ三振さんしん仕留しとめた[72]監督かんとくジョージ・バンバーガーは18にち江夏えなつのメジャー昇格しょうかくかくりつは「70パーセント」[73]、25にちには「75パーセント」だとかたった[72]

しかし、26にちのシカゴ・カブスせんで1かい4安打あんだ4失点しってん[74]、30にちのアスレチックスせんで2かい4安打あんだ3失点しってん[75]、4がつ2にちのカリフォルニア・エンゼルスせんも2かい4安打あんだ2失点しってんはつ敗戦はいせん投手とうしゅとなり[76]、3試合しあい連続れんぞくまれる。そして4がつ4にち球団きゅうだん最終さいしゅうロースター25にん最終さいしゅう選考せんこうおこなったが江夏えなつはそのなか選出せんしゅつされず、江夏えなつ解雇かいこ通告つうこくされた[77]投手とうしゅコーチのハーム・スターレットは「正直しょうじきなところ、2週間しゅうかんまえはリストのなか江夏えなつれていた。ダメになったのはかれが2イニングしかげられないこと。中継なかつ投手とうしゅは3,4イニングはげられないと‥」[78]指摘してきし、後半こうはんまれた投球とうきゅうから、江夏えなつ首脳しゅのうじんから中継なかつぎで3イニングとたないと判断はんだんされた[79]

監督かんとくのジョージ・バンバーガーは「江夏えなつはよくやった。わかくて有望ゆうぼう選手せんしゅ大勢おおぜいいるので、36さい江夏えなつをマイナーリーグにいておくことはできない。できることならそうしたかったが、やむをない。どこかほかのチームが江夏えなつ興味きょうみっていないかをいてみるのが江夏えなつたいしてできることのすべてだ」とべた[78]最終さいしゅうてきにロースターりにはいたらなかったため公式こうしき背番号せばんごう記録きろくには江夏えなつ着用ちゃくようした68ばん記載きさいされていない[80]

江夏えなつはサンシティーにまり、球団きゅうだんからのオファーをった。だが江夏えなつ獲得かくとくする球団きゅうだんあらわれず4がつ8にちにブルワーズのゼネラル・マネジャー、ハリー・ダルトンからブルワーズから1Aストックトンへの入団にゅうだんけられたが[81]これをことわり、これによって江夏えなつのメジャー挑戦ちょうせん完全かんぜん終幕しゅうまくした。一部いちぶ南海なんかいりがほうじられたが江夏えなつ日本にっぽん球界きゅうかい復帰ふっき完全かんぜん否定ひてい[82]野球やきゅう評論ひょうろんとしてさい出発しゅっぱつすると明言めいげんした[82]。16にち同日どうじつ東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ紙上しじょうにて同誌どうし評論ひょうろん就任しゅうにんすると表明ひょうめいした[83]江夏えなつは4がつ17にちにアメリカから帰国きこくした。

江夏えなつは、このときにメジャーリーグに挑戦ちょうせんした理由りゆうについて、「だいリーグりが一番いちばん目的もくてきやったら絶対ぜったいのこっている。マイナー下位かいからのスタートもあったし、翌年よくねんさい挑戦ちょうせんすることもできた」としたうえで、「オレは不完全ふかんぜん燃焼ねんしょうこしてくすぶつづけている『投手とうしゅたましい』の『場所ばしょ』がしかった。オレは広岡ひろおかというおとこに『場所ばしょ』(西武せいぶ)をられた。もう一度いちど納得なっとく出来でき場所ばしょげてみたかった。だいリーグのキャンプに参加さんかして納得なっとくできた」とコメントしている[84]一方いっぽうで、ブルワーズのスカウト部長ぶちょうだったレイ・ポイテビントは「リリーフの左腕さわん投手とうしゅのボブ・マッカラーとエナツをくらべてみると、エナツのほうすこかった。だが、チーム事情じじょうでエナツに一旦いったんマイナーきを宣告せんこくすることとなり、かれには電話でんわで『チャンスはある。しばらくマイナーにいてくれ』とつたえた。エナツはマイナーきをれてくれるとおもったが、記者きしゃ会見かいけんひらいて日本にっぽんかえってしまった。その半月はんつきにマッカラーは骨折こっせつした。エナツがもしのこっていたら、だいリーガーになれた」と証言しょうげんしている[85]

現役げんえき引退いんたい

[編集へんしゅう]

1985ねんからは日本にほんテレビラジオ日本にっぽん野球やきゅう解説かいせつしゃ東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ野球やきゅう評論ひょうろんとして活動かつどうするかたわら、映画えいが・テレビドラマ・バラエティ番組ばんぐみ出演しゅつえんするなど、タレント俳優はいゆうとしても活動かつどうしていた。

1993ねん3がつ2にち覚醒剤かくせいざい取締とりしまりほう違反いはん所持しょじ使用しよう)の現行げんこうはん逮捕たいほされる[86]逮捕たいほすうにちまえまで日本にっぽんハムファイターズの臨時りんじ投手とうしゅコーチをつとめており、世間せけん衝撃しょうげきはしった。起訴きそされた犯罪はんざい事実じじつは、覚醒剤かくせいざい水溶液すいようえきやく0.25mlを左腕さわん注射ちゅうしゃした覚醒剤かくせいざい使用しよう[87]と、覚醒剤かくせいざい合計ごうけい52.117gおよび覚醒剤かくせいざい水溶液すいようえきやく0.5mlの所持しょじである[87]裁判さいばん同年どうねんおこなわれ、情状じょうじょう証人しょうにんとして野村のむら克也かつや江本えもと孟紀たけのり出廷しゅってい[88][89]、また江夏えなつ親友しんゆうとして証言しょうげんだいったころもりゅう祥雄よしお寛大かんだい処置しょちうったえた[90]同年どうねん7がつ15にち横浜よこはま地方裁判所ちほうさいばんしょでのいちしん判決はんけつでは、「大量たいりょう覚醒剤かくせいざいやく100g)を入手にゅうしゅし、本件ほんけん検挙けんきょされるまですうねんにわたって使用しようつづけ、昨年さくねん9がつごろからは同居どうきょしていた女性じょせいにもすすめて一緒いっしょ使用しようさせた」ことがしめされた。そして「覚醒剤かくせいざい所持しょじりょうやく52gと、自己じこ使用しようものとしてはまれるほどの大量たいりょう[87]」「同居どうきょ女性じょせい覚醒剤かくせいざい使用しようつみ有罪ゆうざい判決はんけつけており、そのきっかけをつくった[87]」と指摘してきされ、「けい執行しっこう猶予ゆうよ相当そうとうとする事案じあんとは到底とうていみとめられない」として懲役ちょうえき2ねん4ヶ月かげつ実刑じっけい判決はんけつをいいわたされた[87]江夏えなつがわ実刑じっけい判決はんけつ不服ふふくとして控訴こうそしたものの、同年どうねん12がつ24にち東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ控訴こうそ棄却ききゃく江夏えなつ上告じょうこくせずけい確定かくていし、そのまま静岡しずおか刑務所けいむしょ収監しゅうかんされ[86]、1995ねん4がつ仮釈放かりしゃくほうされた[86]

仮釈放かりしゃくほうされてから1ヶ月かげつの6がつには文化放送ぶんかほうそうのラジオに出演しゅつえんし、野球やきゅう論評ろんぴょうおこなっている。1996ねんから2010ねんまではデイリースポーツ野球やきゅう評論ひょうろんつとめたほか、テレビ大阪てれびおおさか野球やきゅう解説かいせつしゃつとめており[91]、わかりやすく明晰めいせき技術ぎじゅつろんたか評価ひょうかている。選手せんしゅ君付くんづけで野球やきゅう解説かいせつしゃのはしりで、これは野球やきゅう選手せんしゅという職業しょくぎょうへのリスペクトからであると本人ほんにんかたっている。また、『週刊しゅうかんプレイボーイ』(集英社しゅうえいしゃ)で『江夏えなつゆたかのアウトロー野球やきゅうろん』を連載れんさいちゅう。2007ねんまで『週刊しゅうかんベースボール』(スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ)で『江夏えなつゆたか球界きゅうかいにんげん交遊こうゆうでんたまじんぞう」』も連載れんさいしていた。

マスターズリーグ東京とうきょうドリームスやモルツ球団きゅうだん所属しょぞくしているほか、阪神はんしんタイガースにおいては2015ねんには一軍いちぐん春季しゅんきキャンプ、2016ねんにはぐん春季しゅんきキャンプでそれぞれ臨時りんじコーチをつとめた。

2024ねん7がつ15にち東京とうきょうドームで開催かいさいされた巨人きょじん-阪神はんしんOBせんでは車椅子くるまいす来場らいじょうした[92]。サンケイスポーツの稲見いなみまこと酸素さんそボンベを使用しようしていることにもれ、その姿すがたに「衝撃しょうげきけた」とかたっている[93]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

[編集へんしゅう]

投手とうしゅとして

[編集へんしゅう]

1960ねんだいから1980ねんだい前半ぜんはんにかけて、先発せんぱつ・リリーフ両方りょうほうもっとたか評価ひょうかけた左腕さわん投手とうしゅである。阪神はんしん時代じだい先発せんぱつとしてだつ三振さんしん記録きろくなどかがやかしい成績せいせきのこした。一般いっぱんに、つよし速球そっきゅう投手とうしゅといえば制球せいきゅうくない印象いんしょうがあるが、江夏えなつ当時とうじ代表だいひょうする速球そっきゅう投手とうしゅでありながら制球せいきゅうりょく抜群ばつぐんで、それが実績じっせきつながったとおもわれる。一方いっぽう野村のむら克也かつや打診だしんでリリーフに転向てんこうした南海なんかい時代じだいからは、そのたか制球せいきゅうりょくあらたなかがやきをはなった。リリーフとしては、当時とうじ記録きろく採用さいようまえだったが1967ねんから1973ねんにかけて合計ごうけい37セーブをげている。

南海なんかいでは、血行けっこう障害しょうがい心臓しんぞう疾患しっかんなどでながいイニングをげられなくなったものの、50きゅう程度ていどみじかいイニングなら戦力せんりょくになるとかんがえた野村のむらは、江夏えなつへリリーフへの転向てんこう打診だしんした。「野球やきゅうかい革命かくめいこそう」という野村のむら説得せっとくにより、1977ねん6がつリリーフ投手とうしゅへと転向てんこう決意けついした。当時とうじ日本にっぽんにはリリーフ専門せんもん投手とうしゅ調整ちょうせいほう確立かくりつされておらず、ずっとベンチにすわって待機たいきしていることが腰痛ようつうちの江夏えなつにはからかったことから、いの記者きしゃメジャーリーグでのリリーフ投手とうしゅ調整ちょうせいほうなどをき、自己流じこりゅう調整ちょうせいはじめた。試合しあいはじまっても5かいまでベンチにはいらず、ロッカールームでマッサージをけたり睡眠すいみんったりする調整ちょうせいほうは、当時とうじチームない球界きゅうかい非難ひなんびたが、現在げんざいではぜん試合しあい待機たいき義務付ぎむづけられるリリーフ投手とうしゅのコンディション維持いじ方法ほうほうとして定着ていちゃくしている。

現役げんえき時代じだい末期まっき西武せいぶライオンズ捕手ほしゅとして江夏えなつ投球とうきゅうけた伊東いとうつとむは、江夏えなつたか制球せいきゅうりょくと、投球とうきゅう瞬間しゅんかん指先ゆびさき操作そうさだけで瞬時しゅんじにコースをえ、捕手ほしゅたましやすいところへ投球とうきゅうする並外なみはずれた技術ぎじゅつ、さらには三塁さんるい走者そうしゃうごきをず、サイン交換こうかんをしていないにもかかわらずスクイズ見抜みぬ的確てきかく判断はんだんりょく驚嘆きょうたんしたとかたっている[94]。このことから江夏えなつは、現在げんざいも「20世紀せいき最高さいこう投手とうしゅ一人ひとり」とのごえたかく、広島ひろしま日本にほんハム時代じだい大車輪だいしゃりん活躍かつやく優勝ゆうしょう貢献こうけんしたことから「優勝ゆうしょう請負人うけおいにん」の異名いみょうった。Yahoo! JAPAN企画きかくした「20世紀せいき日本にっぽんプロ野球やきゅうベストナイン」の投手とうしゅ部門ぶもんでは、沢村さわむら栄治えいじ金田かねだ正一しょういち稲尾いなお和久かずひさ往年おうねんめい投手とうしゅおさえて1選出せんしゅつされている。

たましゅまよったとき結論けつろんとしてげるのは、「アウトコースのぐ」だと発言はつげんしたことがある[95]

打者だしゃとの対戦たいせん

[編集へんしゅう]

阪神はんしん時代じだい江夏えなつは、巨人きょじんおう貞治さだはるから三振さんしんうばうことにとくにこだわっていた。それは村山むらやま節目ふしめ記録きろくとなる三振さんしんつね長嶋ながしま茂雄しげおからうばうようにしていたことを真似まねしたもので、新人しんじん時代じだい村山むらやまが「おまえ相手あいてはアレ(おう)、オレはこっち(長嶋ながしま)や」と江夏えなつい、ひだりたいひだりになるおうをライバルとするようめいじられたともされている[96]。これ以降いこう江夏えなつおうとの勝負しょうぶ固執こしつし、通算つうさん57だつ三振さんしん一方いっぽうで、直球ちょっきゅう勝負しょうぶいどんだために20ほんもの本塁打ほんるいだびている。おうからもっとおお三振さんしんうばった投手とうしゅ江夏えなつだが、江夏えなつからもっとおお本塁打ほんるいだはなった打者だしゃおうである[ちゅう 3]

ねじめ正一しょういち著書ちょしょ落合おちあい博満ひろみつ 変人へんじん研究けんきゅう』の対談たいだんなかで、江夏えなつは、「一番いちばんめにくい打者だしゃは、あるたましゅをひたすらもの」とかたっており、その典型てんけい落合おちあいげている。現役げんえき時代じだいのある江夏えなつ落合おちあい麻雀まーじゃんたのしんでいたところ、江夏えなつは「ピッチャーは特定とくていたましゅたれるのが一番いちばんいやなんだ。おまえ落合おちあい)みたいにコロコロねらだまえていたら一生いっしょう、オレからはてない」と落合おちあいいた。その1982ねんたいロッテオリオンズせん落合おちあい対戦たいせんし、結果けっか三振さんしんだったものの、この打席だせき落合おちあいカーブ以外いがいたましゅには見向みむきもしなかったことに江夏えなつ気付きづき、「落合おちあい成長せいちょうて、非常ひじょう感慨深かんがいぶかいものがあった」とかたっている。そのカーブは、新人しんじん時代じだいのあるたい読売よみうりジャイアンツせんおう貞治さだはるから「ゆたか江夏えなつ)のカーブはわかっていてもてない。がらないから」とわれたという[97]

記録きろく

[編集へんしゅう]

投手とうしゅとして

[編集へんしゅう]

阪神はんしん時代じだいは、最多さいた勝利しょうり(1968・73ねん)、最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ(1969ねん)、最優秀さいゆうしゅう投手とうしゅ沢村さわむら栄治えいじしょうともに1968ねん)のタイトルを獲得かくとく、シーズン20しょう以上いじょうが4、6ねん連続れんぞくリーグ最多さいただつ三振さんしん達成たっせいし、わずか4ねん1970ねんには通算つうさんだつ三振さんしんすう記録きろく保持ほじしゃである金田かねだ正一しょういち上回うわまわ史上しじょう最短さいたんで、通算つうさん1000だつ三振さんしん記録きろくするなど、名実めいじつともにセントラル・リーグ代表だいひょうする投手とうしゅとなった。

プロ2ねんの1968ねんにマークしたシーズン401だつ三振さんしんは2021ねん現在げんざいでも日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろくであり、世界せかい記録きろくとして認定にんていされていないものの、MLB記録きろくノーラン・ライアンの383)をも上回うわまわっている。また、江夏えなつだつ三振さんしんすうだけでなくだつ三振さんしんりつきわめてたかく、通算つうさん18年間ねんかん実働じつどう期間きかんだつ三振さんしんすう投球とうきゅう回数かいすう上回うわまわったとしが9もある。しかもそのうち4は、先発せんぱつ投手とうしゅだった阪神はんしん時代じだい記録きろくしている。シーズンのだつ三振さんしんすう投球とうきゅう回数かいすう上回うわまわることは、佐々木ささき主浩おもひろなどのおさ投手とうしゅではめずらしくないが、先発せんぱつ投手とうしゅではまれである。江夏えなつのライバルだった堀内ほりうち恒夫つねおは、ついにいち達成たっせいできなかった。

なお、広島ひろしま在籍ざいせき時代じだい対戦たいせんした古巣ふるす阪神はんしんタイガースせんではいち勝利しょうり投手とうしゅになれず、現役げんえき通算つうさんでのぜん球団きゅうだん勝利しょうりのがしている。

打撃だげき

[編集へんしゅう]

江夏えなつ打者だしゃとして、ノーヒットノーラン達成たっせい試合しあいとオールスター9しゃ連続れんぞくだつ三振さんしん達成たっせい試合しあいでどちらも本塁打ほんるいだっており、ノーヒットノーランは自身じしんサヨナラ本塁打ほんるいだ達成たっせいしている。公式こうしきせんでの通算つうさんは852打数だすう128安打あんだ打率だりつ.150、7本塁打ほんるいだ記録きろくのこしている。

親交しんこう

[編集へんしゅう]

江夏えなつ高校こうこう時代じだい練習れんしゅう試合しあいはじめて対戦たいせんして以来いらい鈴木すずき啓示けいじ親交しんこうふかい。その一方いっぽうで、鈴木すずき確執かくしつがあった野茂のも英雄ひでおからは師匠ししょうとしてしたわれていた。かつて近鉄きんてつバファローズにおいて監督かんとくつとめていた鈴木すずきとエースだった野茂のも衝突しょうとつ沙汰ざたされていたころ江夏えなつは「トレーニングにかんする野茂のも主張しゅちょうもわかるが、みずからの経験けいけんからかんがえると鈴木すずきうこともすべ間違まちがっているわけではなく、このけんだけは野茂のも同調どうちょう出来できない」と自著じちょかたっている。

南海なんかい時代じだい野村のむら感銘かんめいけたきっかけとなった広島ひろしません試合しあい三振さんしんうばった衣笠きぬがさとは、江夏えなつ広島ひろしま在籍ざいせきしていたころから無二むに親友しんゆうとなり、現役げんえき引退いんたい衣笠きぬがさくなるまで交流こうりゅうつづいた。江夏えなつ著書ちょしょによると、「広島ひろしま時代じだいは、よめさんといる時間じかんよりサチ(衣笠きぬがさ)といる時間じかんほうながかった」とい、衣笠きぬがさ没後ぼつごは「いいヤツを友人ゆうじんった。オレの宝物ほうもつだ。自分じぶんもすぐいかけて、あの野球やきゅう談議だんぎをするよ」とそのいたんだ[98]

監督かんとくとのかかわ

[編集へんしゅう]

藤本ふじもと定義さだよし

[編集へんしゅう]

新人しんじん時代じだい江夏えなつは、当時とうじ監督かんとくだった藤本ふじもと定義さだよし非常ひじょうにかわいがられていた。「おに監督かんとく」として数々かずかずめい選手せんしゅそだげた藤本ふじもとだが、野球やきゅうじんとしてさい晩年ばんねんかっていた当時とうじ好々爺こうこうやとしており、江夏えなつ一服いっぷくしながら球界きゅうかい昔話むかしばなしかせるのをこのんでいた。江夏えなつ藤本ふじもとかげで「おじいちゃん」とんでいたが、藤本ふじもとオールスターゲームで江夏えなつを3連投れんとうさせた川上かわかみ哲治てつじるや、シーズン再開さいかい巨人きょじんせん川上かわかみ阪神はんしんベンチにし、「おい、あきら!うちのゆたか江夏えなつ)を乱暴らんぼう使つかいやがって!この馬鹿ばか野郎やろう!」と普段ふだんとはまったくの別人べつじんのような剣幕けんまくしかけたことがあった。球団きゅうだんでありながら江夏えなつにとってきびしいだい監督かんとく川上かわかみが、直立ちょくりつ不動ふどう姿勢しせい好々爺こうこうや藤本ふじもと怒鳴どなられているのをたりにした江夏えなつは、おに監督かんとく時代じだい藤本ふじもと突然とつぜんよみがえったことに心底しんそこおどろいたという[16]藤本ふじもと江夏えなつ関係かんけい藤本ふじもと退団たいだんしたのちつづき、江夏えなつがのちに南海なんかいホークスへトレードされたさいには、藤本ふじもとはショックをけて号泣ごうきゅうし、体調たいちょうくずしてしまった。また、広島ひろしま時代じだい江夏えなつ自身じしんはつ優勝ゆうしょうめたさいには、すで高齢こうれい歩行ほこうもままならなかったにもかかわらず、広島ひろしまのベンチうらまでけて「本当ほんとうによかったなぁ!おめでとう」となみだながらに直接ちょくせつ祝福しゅくふくしていた。

野村のむら克也かつや

[編集へんしゅう]

南海なんかい移籍いせき野村のむらからリリーフ転向てんこう打診だしんされてれ、最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅかがやくなど実績じっせきのこした江夏えなつ野村のむら傾倒けいとうしていき、自宅じたく近所きんじょ同士どうしだったこともあって家族かぞくぐるみのいをしていたという。江夏えなつ夜遊よあそびなどで帰宅きたくおそくなったさいは、野村のむらがまだおさなかった江夏えなつむすめ自宅じたく風呂ふろれたりすることもあったという。

江夏えなつ野村のむらしたうきっかけは、江夏えなつ自身じしん前述ぜんじゅつ移籍いせき交渉こうしょうにおける広島ひろしませんでの指摘してきだったというが、野村のむらはこの出来事できごとについてはあくまでも南海なんかいへの移籍いせき決意けついした要因よういんぎないとしている。野村のむらによると、江夏えなつ自身じしんしたうようになったのは、江夏えなつ意図いとてきともおもえる制球せいきゅうミスでやぶれた試合しあいのちくろきり事件じけんいにして「疑惑ぎわくたれた人間にんげんが、『自分じぶん潔白けっぱくだ』とくちなんってもだれしんじない。マウンドでの態度たいどしめせ」ときびしく叱責しっせきしたところ、「阪神はんしん時代じだいにはそんないにくいことをってくれるひとはいなかった」と感激かんげきしたことだったという。江夏えなつ現在げんざいいたるまで、「野球やきゅうかんしての見識けんしき間違まちがいなく球界きゅうかいいち」と野村のむらひょうし、野村のむら生前せいぜん江夏えなつを「自分じぶんせっした投手とうしゅでは一番いちばん頭脳ずのうったヤツ。史上しじょう最高さいこう速球そっきゅう投手とうしゅ」とたか評価ひょうかしていた。

広岡ひろおか達朗たつろう

[編集へんしゅう]

日本にほんハム時代じだい監督かんとく就任しゅうにんした広岡ひろおか江夏えなつ弱点じゃくてん守備しゅびにあると見抜みぬき、チーム一丸いちがんでバント練習れんしゅうみ、プレーオフでは西武せいぶのバントめにくっした。この経験けいけんから、江夏えなつ広岡ひろおか野球やきゅうかん傾倒けいとうしていくようになる。しかし1984ねん西武せいぶ移籍いせきは、その厳格げんかく管理かんり野球やきゅう嫌気いやけし、広岡ひろおか反発はんぱつするようになる。

江夏えなつ西武せいぶ退団たいだん直接的ちょくせつてき原因げんいんは、広岡ひろおかとの確執かくしつだった。自著じちょによると、江夏えなつ事前じぜん野村のむらわれていたことでヘッドコーチかくもり昌彦まさひこバッテリーコーチのうことはよくいたが(野村のむらもりはチームをえて長年ながねん親友しんゆうである)、広岡ひろおかとはまったくそりがわなかった。衝突しょうとつ決定的けっていてき原因げんいんは、1984ねんのキャンプのある経営けいえいじん参加さんかした朝食ちょうしょくかいせきで、健康けんこうのための栄養えいようがくおもきをいて玄米げんまい豆乳とうにゅうなどを選手せんしゅ普段ふだんから強制きょうせいする広岡ひろおかや、のコーチ・選手せんしゅがいるなかで「ねぇ監督かんとく、こんなものべてなんで痛風つうふうなの?」といかけて広岡ひろおかいかりをってしまい、それ以降いこう出場しゅつじょう機会きかいらされたとされている。江夏えなつぐんちとなったのはプロ18ねんはつのことだった[99]

なお、江夏えなつ前述ぜんじゅつ事情じじょうから広岡ひろおかについて「人間にんげんてきゆるせないところがあった」とかたっているが、一方いっぽう日本にほんハム時代じだい西武せいぶからけた執拗しつようなバントめなどから広岡ひろおか野球やきゅうかんたか評価ひょうかしており、「人間にんげんとして問題もんだいがあっても、野球やきゅうというめんではおしえられることがおおかったし、素晴すばらしい指導しどうしゃ」と、監督かんとくとしての広岡ひろおかたか評価ひょうかしている[100]広岡ひろおかも「江夏えなつげることにかんしては素晴すばらしかったし、なにっても抜群ばつぐんあたまがいい」と評価ひょうかしている[101]

趣味しゅみ嗜好しこう

[編集へんしゅう]

司馬しばりょう太郎たろう作品さくひん愛読あいどくしており、なかでも『えよけん』をおりとしてげている。その理由りゆうは、かたな一本いっぽんたたか新撰しんせんぐみ左手ひだりて一本いっぽんたたか自分じぶん、さらには主役しゅやく土方ひじかた歳三としぞう最期さいごである函館はこだてと、自身じしん現役げんえき時代じだいにメジャーリーグへ挑戦ちょうせんしたであるアリゾナしゅうみょうかさなっておもえたことと、登場とうじょう人物じんぶつである一人ひとり女性じょせい非常ひじょう魅力みりょくてきおもえたことだという[102]

現在げんざいいんさけしない。体質たいしつてきけないわけではいが、阪神はんしん時代じだいに1970ねんの7がつまつから心臓しんぞう発作ほっさなやまされており、主治医しゅじいから「いまの無茶むちゃ生活せいかつつづければ間違まちがいなくすうねん以内いないいのちとす。さけタバコおんな麻雀まーじゃん、どれかをとどめろ」とわれてさけめ、心臓しんぞうびょう克服こくふくしてそのまま現在げんざいいたっている[103]。ただしタバコだけはどうしてもめられないと、『ニュースステーション』(テレビ朝日てれびあさひないのコーナー「最後さいご晩餐ばんさん」でかたっており、一時いちじはタバコをおおときで1にちあたり最大さいだいやく80ほんっていた[104]

その

[編集へんしゅう]

無類むるい阪神はんしんファンである作家さっか小川おがわ洋子ようこの『博士はかせあいした数式すうしき』(だい1かい本屋ほんや大賞たいしょう受賞じゅしょう)では、阪神はんしん時代じだい背番号せばんごう28完全かんぜんすう)の意味いみ題材だいざいに、著者ちょしゃから熱烈ねつれつオマージュささげられている。江夏えなつ本人ほんにんも、この作品さくひん映画えいがされたさいにコメントをせている。

詳細しょうさい情報じょうほう

[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

[編集へんしゅう]
とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1967 阪神はんしん 42 29 8 2 0 12 13 -- -- .480 923 230.1 167 27 88 1 3 225 3 1 81 70 2.74 1.11
1968 49 37 26 8 3 25 12 -- -- .676 1259 329.0 200 29 97 2 4 401 2 0 83 78 2.13 0.90
1969 44 23 17 7 3 15 10 -- -- .600 1000 258.1 172 17 78 1 3 262 3 0 56 52 1.81 0.97
1970 52 37 25 8 3 21 17 -- -- .553 1295 337.2 232 29 73 5 3 340 5 1 87 80 2.13 0.90
1971 45 30 16 6 4 15 14 -- -- .517 1006 263.2 182 25 66 3 2 267 5 2 77 70 2.39 0.94
1972 49 31 16 3 3 23 8 -- -- .742 1059 269.2 195 30 60 3 4 233 0 1 86 76 2.53 0.95
1973 53 39 18 7 2 24 13 -- -- .649 1228 307.0 258 23 82 6 4 215 4 0 95 88 2.58 1.11
1974 41 23 12 2 1 12 14 8 -- .462 772 197.2 153 24 50 3 2 149 3 0 65 60 2.73 1.03
1975 49 27 9 1 1 12 12 6 -- .500 852 208.1 169 24 72 7 2 132 2 0 92 71 3.07 1.16
1976 南海なんかい 36 20 6 1 1 6 12 9 -- .333 612 148.1 115 12 61 0 4 109 4 0 58 49 2.98 1.19
1977 41 3 1 0 0 4 2 19 -- .667 346 84.0 72 5 21 0 5 60 2 0 28 26 2.79 1.11
1978 広島ひろしま 49 0 0 0 0 5 4 12 -- .556 395 95.1 77 7 38 3 2 99 1 1 32 32 3.03 1.21
1979 55 0 0 0 0 9 5 22 -- .643 420 104.2 77 10 36 2 1 117 3 0 31 31 2.66 1.08
1980 53 0 0 0 0 9 6 21 -- .600 334 86.0 61 12 20 4 1 86 1 0 27 25 2.62 0.94
1981 日本にほんハム 45 0 0 0 0 3 6 25 -- .333 339 83.0 69 10 24 0 1 75 1 0 30 26 2.82 1.12
1982 55 0 0 0 0 8 4 29 -- .667 354 91.0 56 8 31 1 2 107 0 0 22 20 1.98 0.96
1983 51 0 0 0 0 2 4 34 -- .333 318 77.1 63 6 27 1 3 82 2 0 24 20 2.33 1.16
1984 西武せいぶ 20 0 0 0 0 1 2 8 -- .333 106 24.2 22 1 12 1 0 28 2 0 11 10 3.65 1.38
通算つうさん:18ねん 829 299 154 45 21 206 158 193 -- .566 12618 3196.0 2340 299 936 43 46 2987 43 6 985 884 2.49 1.03
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこうあか太字ふとじはNPBにおける歴代れきだい最高さいこう

通算つうさん打撃だげき成績せいせき

[編集へんしゅう]

打率だりつ.150(852打数だすう128安打あんだ)、7本塁打ほんるいだ、52打点だてん[105]

タイトル

[編集へんしゅう]

表彰ひょうしょう

[編集へんしゅう]

記録きろく

[編集へんしゅう]
はつ記録きろく
  • はつ登板とうばん:1967ねん4がつ13にちたい大洋たいようホエールズ2回戦かいせん川崎球場かわさききゅうじょう)、2かいうらに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん、4かい失点しってん
  • はつだつ三振さんしん同上どうじょう、2かいうら伊藤いとういさおから
  • はつ先発せんぱつ:1967ねん4がつ19にちたい大洋たいようホエールズ3回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)、2かい4失点しってん自責じせきてん3)で敗戦はいせん投手とうしゅ
  • はつ勝利しょうりはつ完投かんとう勝利しょうり:1967ねん4がつ29にちたい広島ひろしまカープ1回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)、9かい1失点しってん
  • はつ完封かんぷう勝利しょうり:1967ねん5がつ28にちたい大洋たいようホエールズ6回戦かいせん川崎球場かわさききゅうじょう
  • はつセーブ:1974ねん4がつ10日とおかたい広島東洋ひろしまとうようカープ2回戦かいせん広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょう)、7かいうらに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、3かい失点しってん
節目ふしめ記録きろく
  • 1000だつ三振さんしん:1970ねん7がつ2にちたい大洋たいようホエールズ12回戦かいせん川崎球場かわさききゅうじょう)、7かいうら重松しげまつ省三しょうぞうから ※史上しじょう38にん
  • 1500だつ三振さんしん:1972ねん4がつ12にちたい読売よみうりジャイアンツ1回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)、2かいひょう堀内ほりうち恒夫つねおから ※史上しじょう18にん
  • 100しょう:1972ねん6がつ21にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ12回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)、9かい3失点しってん完投かんとう勝利しょうり史上しじょう58にん
  • 2000だつ三振さんしん:1974ねん6がつ13にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ11回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)、7かいひょう深沢ふかざわ修一しゅういちから ※史上しじょう8にん
  • 150しょう:1975ねん 4がつ20日はつかたい読売よみうりジャイアンツ3回戦かいせん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)、9かい2失点しってん完投かんとう勝利しょうり史上しじょう27にん
  • 500試合しあい登板とうばん:1977ねん9がつ25にちたい日本にっぽんハムファイターズ後期こうき12回戦かいせん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)、9かいうら1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2/3かい失点しってん
  • 2500だつ三振さんしん:1979ねん5がつ11にちたい読売よみうりジャイアンツ5回戦かいせん広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょう)、5かいひょうおう貞治さだはるから ※史上しじょう7にん
  • 600試合しあい登板とうばん:1979ねん9がつ19にちたい阪神はんしんタイガース23回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)、6かいうら2に3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、3かい1/3を1失点しってん史上しじょう18にん
  • 100セーブ:1981ねん5がつ6にちたい阪急はんきゅうブレーブス前期ぜんき3回戦かいせん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)、8かいひょう1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい2/3を失点しってん史上しじょうはつ
  • 700試合しあい登板とうばん:1981ねん9がつ12にちたい阪急はんきゅうブレーブス後期こうき10回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、10かいうら1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう加藤かとう英司えいじ左前ひだりまえサヨナラ適時てきじびサヨナラけ ※史上しじょう9にん
  • 200しょう:1982ねん7がつ2にちたい近鉄きんてつバファローズ後期こうき1回戦かいせん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)、7かいひょう2に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい1/3を失点しってん史上しじょう18にん
  • 800試合しあい登板とうばん:1983ねん8がつ30にちたい西武せいぶライオンズ18回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、7かいうら2に4番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい1/3を3失点しってんでセーブ投手とうしゅ史上しじょう5にん
その記録きろく

背番号せばんごう

[編集へんしゅう]
  • 71 (1967ねん入団にゅうだん当初とうしょ
  • 28 (1967ねん - 1975ねん
  • 17 (1976ねん - 1977ねん
  • 26 (1978ねん - 1983ねん
  • 18 (1984ねん

関連かんれん情報じょうほう

[編集へんしゅう]

著書ちょしょ

[編集へんしゅう]

連載れんさい

[編集へんしゅう]
  • 江夏えなつゆたかのアウトロー野球やきゅうろん』(週刊しゅうかんプレイボーイ、集英社しゅうえいしゃ
  • 江夏えなつゆたか球界きゅうかいにんげん交遊こうゆうでんたまじんぞう」』(週刊しゅうかんベースボール、ベースボールマガジンしゃ

出演しゅつえん番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]

出演しゅつえん作品さくひん

[編集へんしゅう]
映画えいが
テレビ
  • 日本にほんハム(1980ねん
  • モブキャスト『モバプロ2 レジェンド』(2017ねん

漫画まんが・アニメ

[編集へんしゅう]

レコード

[編集へんしゅう]
EP
  • 江夏えなつゆたかおれBめん女心おんなごころ(Victor SV-6687) うた江夏えなつゆたか
  • あずま為五郎ためごろう『さすらいぼし』(ミノルフォン) 作詞さくし江夏えなつゆたか

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 塩釜しおがま野球やきゅう監督かんとく就任しゅうにんしたのは、同校どうこう野球やきゅう誕生たんじょうしたとき監督かんとくがいなかったところ「それじゃおれがやる」と志願しがんしたためであったという。
  2. ^ 江夏えなつ後年こうねん、「きょじんでもチーム打率だりつが.250にたなかったのだから、阪神はんしんなんて.210~.220くらいだった」と述懐じゅっかいしている[17]。なお、1967ねん実際じっさいのチーム打率だりつ巨人きょじんが.265、阪神はんしんは.245である。
  3. ^ a b ただし、野村のむら克也かつや著書ちょしょ「オレとO・N」によると、試合しあい前日ぜんじつのスポーツ新聞しんぶん掲載けいさいされた江夏えなつのインタビューとして「日本にっぽん記録きろくはONからりたい」、試合しあい当日とうじつ直前ちょくぜんのインタビューでは江夏えなつが「おう長嶋ながしま連続れんぞくして(三振さんしんを)りたい」とかたっていたといい、さらに「おうむかし、『江夏えなつのそのはなしまゆつば』とっていた」「(おうの)つぎ打者だしゃ長嶋ながしまには、わせたバッティングでショートゴロをたれてしまっている」とべている。このことからさっするに、江夏えなつ本人ほんにん美化びかしてはなしたことがマスコミで誇張こちょうされたままなんじゅうねん経過けいかし、本人ほんにん収拾しゅうしゅうがつかなくなってしまったので、ONは「江夏えなつがそうしておきたいならべつかまわない」というスタンスだったこともあって、“長嶋ながしまからしん記録きろくねらったもののたれてしまった。仕方しかたないので打順だじゅんいちまわりさせておうるまで、選手せんしゅからは三振さんしんらないようにする”というのが真相しんそうだろうとべている。
  4. ^ オールスターゲームでは、投手とうしゅがイニング途中とちゅうから登板とうばんした場合ばあいつぎのイニングからかぞえて3イニングまで登板とうばん可能かのうである。また、場合ばあいは1イニング4だつ三振さんしん以上いじょう可能かのうのため、きわめて特殊とくしゅなケースではあるがルールじょうでは1試合しあい10だつ三振さんしん以上いじょう不可能ふかのうではない。
  5. ^ パ・リーグの野手やしゅ全員ぜんいん出場しゅつじょうしていたため、パ・リーグ監督かんとく西本にしもと幸雄ゆきお打撃だげき山内さんない松沼まつぬま博久ひろひさ西武せいぶライオンズ)の代打だいだ起用きようしていた。
  6. ^ 江夏えなつ自身じしんは、当時とうじ日本にほんハムとおな東京とうきょう本拠地ほんきょちヤクルトスワローズあたりが移籍いせきさきではないかとおもっていたという。また、セ・リーグならヤクルト、パ・リーグなら近鉄きんてつ希望きぼうしていた[61][62]
  7. ^ 大沢おおさわ江夏えなつとの対談たいだんでは、のちに江夏えなつ西武せいぶ在籍ざいせきが1ねんわったこともあって、大沢おおさわが「結局けっきょく江夏えなつ野球やきゅう人生じんせいをオレがちぢめたことになっちまったな」ともかたっている[64]
  8. ^ 1974ねん・1975ねん着用ちゃくようしたホームようユニフォームのレプリカだったが、実物じつぶつちがひだりそでには『OSAKA』ではなく、1976ねん以降いこうのものにじゅんじたとらマークがはいっていた。
  9. ^ 11球団きゅうだんから勝利しょうりしているが、阪神はんしんタイガースからは勝利しょうりわったため、ぜん球団きゅうだん勝利しょうり達成たっせい出来できなかった。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 江夏えなつゆたかはは 息子むすこつらぬいた不器用ぶきようあい グレートマザー物語ものがたり 2001ねん7がつ1にち」『テレビ朝日てれびあさひ。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 江夏えなつゆたかしんいえ履歴りれきしょ 江夏えなつゆたか」『週刊文春しゅうかんぶんしゅん』2009ねん12月31にち、2010ねん1がつ7にちごう、p102-105 ただし、霧島酒造きりしましゅぞう創業そうぎょうしゃとの関係かんけいについては、記事きじ信頼しんらいせい疑問ぎもんあり。ノート:霧島酒造きりしましゅぞう参照さんしょう
  3. ^ 江夏えなつゆたか左腕さわんほこ江夏えなつゆたか自伝じでんくさおもえしゃ、2001ねん、p.15
  4. ^ 江夏えなつゆたか(2)左利ひだりき長兄ちょうけいにたたきまれる 社会しゃかいじんくさ野球やきゅうすけ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』2017ねん12月2にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.22
  6. ^ 『なぜ阪神はんしんてないのか? 〜タイガース再建さいけんへの提言ていげん』(岡田おかだ彰布あきのぶとの共著きょうちょ角川かどかわONEテーマ21 (角川書店かどかわしょてん、2009ねん)p109
  7. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.23
  8. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.24
  9. ^ a b スポーツニッポン『「みち江夏えなつゆたか (3)』 2023ねん3がつ3にちづけ 18めんより
  10. ^ 江夏えなつゆたか、2001ねん、p.27
  11. ^ 江夏えなつ、2001ねん、pp.27-28
  12. ^ 『なぜ阪神はんしんてないのか? 〜タイガース再建さいけんへの提言ていげん』p148
  13. ^ 『なぜ阪神はんしんてないのか? 〜タイガース再建さいけんへの提言ていげん』p71
  14. ^ スポーツニッポン『「みち江夏えなつゆたか (6)』 2023ねん3がつ6にちづけ 22めんより
  15. ^ a b c スポーツニッポン『「みち江夏えなつゆたか (7)』 2023ねん3がつ7にちづけ 18めんより
  16. ^ a b スポーツニッポン『「みち江夏えなつゆたか (8)』 2023ねん3がつ8にちづけ 20めんより
  17. ^ 『なぜ阪神はんしんてないのか? 〜タイガース再建さいけんへの提言ていげん』p130。
  18. ^ 「あのとききみわかかった」ルーキー秘話ひわSports Graphic Number』2011ねん3がつ24にちごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2011ねん雑誌ざっし26854・3・24、50ぺーじ
  19. ^ a b c d 【9がつ17にち】1968ねんあきら43) しん記録きろくおうさんから 江夏えなつねらった日本にっぽんしんだつ三振さんしん記録きろく」『スポーツニッポン』2007ねん9がつ17にち。2012ねん8がつ26にち閲覧えつらん[リンク]
  20. ^ 80周年しゅうねん」『阪神はんしんタイガース 公式こうしきサイト』。2020ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  21. ^ 1971年度ねんどオールスター・ゲーム 試合しあい結果けっかだい1せん」『NPB.jp 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  22. ^ 【8がつ30にち】1973ねんあきら48) みずかおさえてって史上しじょうはつ記録きろく江夏えなつ晩夏ばんかかいとう」『スポーツニッポン』2007ねん8がつ30にち。2012ねん8がつ3にち閲覧えつらん[リンク]
  23. ^ a b 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん 江夏えなつおこらせた球団きゅうだん幹部かんぶ言葉ことばとは… とらばん疾風しっぷうろくよん(20)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ4にち。2023ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  24. ^ a b 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん 最終さいしゅう決戦けっせん暴徒ぼうとした阪神はんしんファン とらばん疾風しっぷうろくよん(21)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ5にち。2023ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  25. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.160
  26. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.162
  27. ^ 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん 江夏えなつvs金田かねだ監督かんとく、おいえ騒動そうどうまた勃発ぼっぱつ とらばん疾風しっぷうろくよん(23)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ7にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  28. ^ a b 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん ベンチの確執かくしつらぬふりの球団きゅうだん とらばん疾風しっぷうろくよん(24)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ8にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  29. ^ a b 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん 急転きゅうてん球界きゅうかい騒然そうぜんのストーブリーグ とらばん疾風しっぷうろくよん(26)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ12にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  30. ^ a b 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん放出ほうしゅつならめる」…球団きゅうだんせまった江夏えなつ とらばん疾風しっぷうろくよん(27)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ13にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  31. ^ 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん 一難いちなんってまた一難いちなん監督かんとく辞意じい とらばん疾風しっぷうろくよん(28)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ14にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  32. ^ 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん監督かんとくあやまる」江夏えなつ改心かいしんさせた後援こうえんしゃ とらばん疾風しっぷうろくよん(29)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ15にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  33. ^ 田所たどころ龍一りゅういち小林こばやししげるでん確執かくしつ騒動そうどう終結しゅうけつも、のこった火種ひだね とらばん疾風しっぷうろくよん(30)」『産経新聞さんけいしんぶん』2022ねん4がつ18にち。2023ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  34. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.169
  35. ^ 江夏えなつ、2001、p.172
  36. ^ 吉田よしだ義男よしおぎゅうわかまる履歴りれきしょ日経にっけいビジネス人文じんぶん、2009ねん、P159
  37. ^ 日刊にっかんスポーツ1975ねん12月24にち江夏えなつ南海なんかい江本えもと交換こうかん 球界きゅうかいはつの"エース同士どうし" 吉田よしだ野村のむらりょう監督かんとくだい英断えいだん
  38. ^ a b 日刊にっかんスポーツ1976ねん1がつ20日はつか1めん阪神はんしんついに江夏えなつ放出ほうしゅつ南海なんかい江本えもとらとトレード」
  39. ^ 勇者ゆうしゃ物語ものがたり】トレード通告つうこく 江夏えなつ首脳しゅのうじん不協和音ふきょうわおんて とらばん疾風しっぷうろく番外ばんがいへん132」『産経さんけいニュース』2020ねん12月17にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  40. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1976ねん1がつ24にち15めん「『南海なんかい江夏えなつ』は26にちに」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1976ねんp.673
  41. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1976ねん1がつ24にち15めん「『さんにち気持きもちの整理せいり』」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1976ねんp.673
  42. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1976ねん1がつ27にち17めん南海なんかい江夏えなつあす誕生たんじょう トレードを了承りょうしょう 阪神はんしんのファンには感謝かんしゃ読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1976ねんp.765
  43. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.176
  44. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.177
  45. ^ a b 江夏えなつ、2001ねん、p.180
  46. ^ a b c 江夏えなつ、2001ねん、p.184
  47. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.185
  48. ^ 日刊にっかんスポーツ1976ねん3がつ14にち2めん江夏えなつ人気にんきに3まん 大阪おおさか異変いへん
  49. ^ 日刊にっかんスポーツ1976ねん6がつ16にち3めん「あの1きゅうが‥江夏えなつ8はい "あれがボールか" ガックリむなしい抗議こうぎ
  50. ^ 日刊にっかんスポーツ1976ねん6がつ28にち7めん江夏えなつはつ完封かんぷう 後期こうきへピントピッタリ さすがです投球とうきゅうじゅつ あわや『完全かんぜん前期ぜんき屈辱くつじょくばす」
  51. ^ 江夏えなつ、2001ねん、p.197
  52. ^ 江夏えなつ、2017ねん、p.155
  53. ^ 勇者ゆうしゃ物語ものがたり希望きぼうかなわず江夏えなつ広島ひろしまへ 柏原かしわばらは… とらばん疾風しっぷうろく番外ばんがいへん181」『産経さんけいニュース』2021ねん3がつ8にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  54. ^ スポーツニッポン『「みち江夏えなつゆたか (23)』 2023ねん3がつ24にちづけ 18めんより
  55. ^ 江夏えなつゆたかえよ左腕さわん 江夏えなつゆたかという人生じんせい日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2017ねん、p.169
  56. ^ 江夏えなつの21きゅう “あかヘル野球やきゅう軌道きどうった1979ねん」『デイリースポーツ online』2022ねん7がつ14にち。2022ねん7がつ18にち閲覧えつらん
  57. ^ 大沢おおさわ啓二けいじ球界きゅうかい無頼ぶらい こんな野球やきゅうをやってきた』集英社しゅうえいしゃ、1996ねん、p.155
  58. ^ 大沢おおさわ、1996ねん、p.157
  59. ^ プロ野球やきゅうレジェンドがかたるあの、あのとき、ちく識、産経新聞さんけいしんぶん出版しゅっぱん、P203-204、2015ねん
  60. ^ a b 江夏えなつゆたか『このままわってたまるか プロ野球やきゅう世界せかい仁義じんぎはなかった』産業さんぎょう報知ほうちセンター、1985ねん、p.41
  61. ^ 左腕さわんほこり』p254 - p255。
  62. ^ 1984ねん江夏えなつゆたか西武せいぶへののぞまないトレード」のひょううら」『NEWSポストセブン』2020ねん6がつ9にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  63. ^ 雑誌ざっし週刊しゅうかんベースボール」(ベースボールマガジンしゃかん)2008ねん7がつ21にちごう134ページ巻末かんまつコラム「期間きかん延長えんちょう、トレードの効能こうのう
  64. ^ 球道きゅうどう無頼ぶらい』P187、P200。
  65. ^ スポーツニッポン1985ねん1がつ20日はつか3めん江夏えなついた わかれの一本杉いっぽんすぎ 球場きゅうじょうこらえきれずに」
  66. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん1がつ20日はつか3めん江夏えなつわかれの一本杉いっぽんすぎ 『たった一人ひとり引退いんたいしき』に惜別せきべつファン1まん6000にん 浩二こうじ落合おちあい胴上どうあげ」
  67. ^ 報知ほうち新聞しんぶん1985ねん1がつ20日はつか5めん江夏えなつ感激かんげき引退いんたいしき わかれの一本杉いっぽんすぎ球場きゅうじょう 16000にん祝福しゅくふく
  68. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん1がつ20日はつか3めん江夏えなつわかれメッセージ むねってアメリカへ」
  69. ^ デイリースポーツ1985ねん4がつ5にち1めん「ブぐん太平洋たいへいよう地域ちいきスカウト ダン野村のむら直撃ちょくげきインタビュー」
  70. ^ Yutaka Entasu, Milwaukee Brewer」『Japanese Baseball Cards』2013ねん2がつ25にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  71. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん3がつ15にち1めん江夏えなつめた 2かい6にんを28きゅう安打あんだ1四球しきゅう はつオープンせんにでSFジャイアンツバッサリ」
  72. ^ a b 日刊にっかんスポーツ1985ねん3がつ25にち3めんたかかいとう江夏えなつ 2満塁まんるい0-3からパドレス強打者きょうだしゃケネディ三振さんしん
  73. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん3がつ20日はつか1めん「バンバーガー監督かんとく質問しつもん
  74. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん3がつ28にち1めん江夏えなつ試練しれんはつなか2にち4失点しってん 悪夢あくむ打者だしゃ10にん サムライマンられた」
  75. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ1にち1めん江夏えなつピンチ いちはつって3失点しってん カブスせんつづきまた失敗しっぱい
  76. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ4にち1めん江夏えなつ無残むざん 最終さいしゅうテストも失敗しっぱい 2かい2失点しってんはつ黒星くろぼし
  77. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ5にち1めん江夏えなつ球団きゅうだんさそつ 3Aにものこれず 68ばんどこへ」
  78. ^ a b 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ5にち1めん「36さい年齢ねんれいがネックに」
  79. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ5にち2めん「メジャー江夏えなつたかった 3かいたないとくるしい」
  80. ^ Milwaukee Brewers Uniform Numbers」『Baseball-Reference.com』。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  81. ^ 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ10日とおか2めん江夏えなつ1Aからさそい ブルワーズ傘下さんかのストックトン 『意外いがい、なぜなんだ?』入団にゅうだん可能かのうせいすくない」
  82. ^ a b 日刊にっかんスポーツ1985ねん4がつ13にち3めん江夏えなつ南海なみかん 日本にっぽんでのプレー意思いしなし評論ひょうろん再出発さいしゅっぱつ
  83. ^ 東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ1985ねん4がつ16にち1めん江夏えなつ本紙ほんし評論ひょうろん再出発さいしゅっぱつ 一匹狼いっぴきおおかみあらたに挑戦ちょうせん 人生じんせいかんじさせる技術ぎじゅつを」
  84. ^ スポーツ・グラフィック・ナンバーへんごうだま列伝れつでん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこビジュアルばん、1986ねん、p.213
  85. ^ 藤澤ふじさわ文洋ふみひろ『やっぱりすごい メジャーリーグだい雑学ざつがく』、講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、pp.112-113
  86. ^ a b c 野球やきゅううみわたる-ニッポン人脈じんみゃく」『朝日新聞あさひしんぶん』2006ねん1がつ23にち。2020ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  87. ^ a b c d e 横浜よこはま地方裁判所ちほうさいばんしょ平成へいせい5ねん(わ)だい555ごうかくせいざい取締とりしまりほう違反いはん被告ひこく事件じけん判例はんれいタイムズ829ごう276-277ぺーじ
  88. ^ 江夏えなつゆたか公判こうはんでは衣笠きぬがさ祥雄よしお江本えもと孟紀たけのり大島おおしまなぎさ情状じょうじょう証人しょうにん」『スポーツニッポン』2016ねん5がつ18にち。2024ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  89. ^ 清原きよはら容疑ようぎしゃ復活ふっかつするための3つの必要ひつよう条件じょうけんした」『ダイヤモンド・オンライン』2016ねん2がつ9にち。2024ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  90. ^ 江夏えなつゆたかいちあやまちでなおった その「事実じじつ」こそが清原きよはら和博かずひろへのメッセージだ!」『産経新聞さんけいしんぶん』2016ねん4がつ16にち。2021ねん6がつ3にち閲覧えつらん
  91. ^ 阪神はんしん本拠ほんきょ開幕かいまくせん江夏えなつ田淵たぶち黄金おうごんバッテリー”復活ふっかつ - 野球やきゅう」『日刊にっかんスポーツ』2017ねん3がつ17にち。2017ねん7がつ9にち閲覧えつらん
  92. ^ 【OBせん阪神はんしんOB江夏えなつゆたかさん、くるまいすで来場らいじょう おう貞治さだはるさん田淵たぶち幸一こういちさんらがごえかける」『日刊にっかんスポーツ』2024ねん7がつ15にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  93. ^ 甘口あまくち辛口からくち衝撃しょうげきけたくるまいす姿すがた江夏えなつゆたか 自己じこ呼吸こきゅうできないもどかしさ…〝人生じんせいの21きゅう〟をたい」『サンスポ』2024ねん7がつ21にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  94. ^ 雑誌ざっし週刊しゅうかんベースボール」(ベースボールマガジンしゃかん)2008ねん7がつ21にちごう24-25ページ「江夏えなつの21きゅう本当ほんとうだったんだと強烈きょうれつ印象いんしょうけた 伊東いとうつとむかた最高峰さいこうほう投球とうきゅうじゅつ
  95. ^ 別冊べっさつベースボール「よみがえる1980年代ねんだいのプロ野球やきゅう PART8 1982ねんへん」54ぺーじはら出典しゅってん週刊しゅうかんベースボール1982ねん10がつ18にちごう 立川談志たてかわだんしとの対談たいだん記事きじ
  96. ^ 2012ねん8がつ17にち朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん1めんコラム「ニッポンじんみゃく
  97. ^ エースの資格しかく110-113ページ「おうさんだけには通用つうようした「がらない」カーブ」
  98. ^ 江夏えなつゆたか「オレのたからだ。すぐにける」衣笠きぬがさいた」『日刊にっかんスポーツ』2018ねん4がつ24にち。2018ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  99. ^ 江夏えなつゆたか 広岡ひろおか監督かんとくに「なんでいたふうなの」で2ぐんち?」『AERA dot.』2012ねん11月15にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  100. ^ 球界きゅうかいおおきな影響えいきょうあたえた広岡ひろおか達朗たつろうもと名物めいぶつばん記者きしゃかたるプロ野球やきゅうちょっと裏話うらばなし」『BASEBALL KING』2015ねん11月25にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  101. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ日本にっぽんプロ野球やきゅうトレード大鑑たいかん」でのインタビュー。『左腕さわんほこ江夏えなつゆたか自伝じでん』でもどう趣旨しゅし発言はつげんをおこなっている。
  102. ^ 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2005ねん7がつごう
  103. ^ 伝説でんせつ左腕さわん江夏えなつゆたかおそった悲運ひうん…34にん連続れんぞくアウトなのに投手とうしゅ」『AERA dot.』2019ねん2がつ28にち。2024ねん6がつ23にち閲覧えつらん
  104. ^ ナンバー『熱闘ねっとう!プロ野球やきゅうさんじゅうばん勝負しょうぶ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1992ねん、P192〜194
  105. ^ 江夏えなつ ゆたか西武せいぶライオンズ) | 個人こじん年度ねんどべつ成績せいせき」『NPB.jp 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  106. ^ 歴代れきだい授賞じゅしょうしゃ」『日本にっぽんプロスポーツ大賞たいしょう公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽんプロスポーツ協会きょうかい。2017ねん11月25にち閲覧えつらん
  107. ^ 達成たっせいしゃは「江夏えなつゆたか」ともうひとりだけ… 「ぜん球団きゅうだん勝利しょうり」「ぜん球団きゅうだん敗戦はいせん」した投手とうしゅ」『デイリー新潮しんちょう』2020ねん8がつ8にち。2024ねん7がつ21にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]