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牛島うしじま和彦かずひこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
牛島うしじま 和彦かずひこ
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 大阪おおさか大東だいとう
生年月日せいねんがっぴ (1961-04-13) 1961ねん4がつ13にち(63さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
177 cm
70 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1979ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1980ねん8がつ24にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1993ねん8がつ18にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとくれき

牛島うしじま 和彦かずひこ(うしじま かずひこ、1961ねん4がつ13にち - )は、奈良ならけんまれ、大阪おおさか大東だいとう出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)、監督かんとく野球やきゅう解説かいせつしゃ所属しょぞく事務所じむしょ株式会社かぶしきがいしゃプラミン。

経歴けいれき

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プロまえ

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大東だいとう市立しりつよんじょう中学校ちゅうがっこう3ねん大会たいかい出場しゅつじょう。このとき優勝ゆうしょう候補こうほ筆頭ひっとう大体大だいたいだい付属ふぞく中学ちゅうがく対戦たいせんしたことで「ドカベン」こと捕手ほしゅ香川かがわ伸行のぶゆき出会であっている。天理てんり高校こうこうくつもりだったが、なみしょう高校こうこうがわから「3ねんつよいチームをつくりたい」と熱心ねっしんさそわれ、なみしょう高等こうとう学校がっこう進学しんがく先述せんじゅつ系列けいれつ中学ちゅうがくからがってくる香川かがわとバッテリーをみ、低迷ていめいしていた野球やきゅう復活ふっかつさせた[1]デーブ大久保おおくぼとの対談たいだんYouTube)において、牛島うしじま親族しんぞく奈良なら県内けんない強豪きょうごうこう監督かんとくがいるため、天理てんり高校こうこうへの入学にゅうがく反対はんたいされたことや、なみしょう高等こうとう学校がっこうOBの高田たかだしげる食事しょくじせきで、なみしょう高等こうとう学校がっこうへの入学にゅうがくさそわれたむね述懐じゅっかいしている。

2年生ねんせいはる選抜せんばつ大会たいかい、3年生ねんせいはる選抜せんばつ大会たいかいなつ選手権せんしゅけん大会たいかいと、合計ごうけい3甲子園こうしえん出場しゅつじょうたした。2年生ねんせいはるだい50かい選抜せんばつ高校こうこう野球やきゅう大会たいかいでは、高松たかまつ商業しょうぎょう高校こうこう香川かがわけん)に0-3で初戦しょせん敗退はいたい。3年生ねんせいはるだい51かい選抜せんばつ高校こうこう野球やきゅう大会たいかいでは決勝けっしょうせん進出しんしゅつ近畿きんきぜい同士どうし箕島みしま高校こうこう和歌山わかやまけん)に7-8で敗北はいぼくしたが[2]じゅん優勝ゆうしょうたした。3年生ねんせいなつには大阪おおさか予選よせん決勝けっしょうで、主砲しゅほう小早川こばやかわ毅彦たけひこようして4連続れんぞく甲子園こうしえんねらっていた前年ぜんねんなつ優勝ゆうしょうこうPL学園がくえん高校こうこうやぶって甲子園こうしえん代表だいひょうりをたす。だい61かい全国ぜんこく高校こうこう野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいでは、のちに中日ちゅうにちでチームメイトとなる上尾あげお高校こうこう埼玉さいたまけん)のひとしむらとおるからホームランをったこともあったが、準決勝じゅんけっしょう池田いけだ高校こうこう徳島とくしまけん)に0-2でやぶれてベスト4でまり、はるなつ連続れんぞく決勝けっしょうせん進出しんしゅつらなかった。

プロでの同期どうきとなる岡田おかだ彰布あきのぶ木田きだいさむ指名しめい集中しゅうちゅうするなか1979ねんのドラフト1中日ちゅうにちドラゴンズ単独たんどく指名しめい担当たんとうスカウトほうもと英明えいめい[3]

中日ちゅうにち時代じだい

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1979ねん中日ちゅうにちドラゴンズに入団にゅうだん背番号せばんごうを「17」「21」「24」のなかからえらぶようにわれた。細身ほそみだったので、数字すうじ字体じたいがスリムな番号ばんごうい、と「17」を選択せんたくした[4]

1980ねんから一軍いちぐん登板とうばんし、2しょうげる。

1981ねん開幕かいまく一軍いちぐんをつかみり、中継なかつぎとして一軍いちぐん定着ていちゃく

1982ねん鈴木すずき孝政たかまさ小松こまつ辰雄たつおのちいでリリーフエースとなり[ちゅう 1][5]、17セーブをげてチームのリーグ優勝ゆうしょうおおきく貢献こうけん同年どうねん西武せいぶとの日本にっぽんシリーズでは4試合しあい登板とうばんだい3せんでは8かいから鈴木すずき孝政たかまさのリリーフとして起用きようされ、シリーズはつ勝利しょうり記録きろくだい4せんでも9かい小松こまつ辰雄たつおをリリーフして失点しってんおさえ、シリーズはつセーブをげる。

1983ねんは、昨年さくねんの8がつ上旬じょうじゅんからヒジをいためてしまった影響えいきょうで、リリーフ失敗しっぱいつづく。気分きぶん転換てんかんねて先発せんぱつまわってはつの2ケタ10しょうげたが、シーズンをとおしての安定あんていかんにはけた。

1984ねんふたたびクローザーとなって自己じこ最高さいこうの29セーブをげ、最多さいたセーブ投手とうしゅとなる。

1985ねんシーズン途中とちゅう先発せんぱつ転向てんこうし、6しょう8セーブで、6完投かんとうもあった。

1986ねんオフ、ロッテオリオンズ主砲しゅほう落合おちあい博満ひろみつと1たい4の大型おおがたトレードが発表はっぴょうされる[6]ナゴヤ球場きゅうじょうちかくに自宅じたく購入こうにゅうし、星野ほしのせんいち監督かんとく就任しゅうにんしたばかりでこのまま現役げんえき中日ちゅうにちまっとうしようかというところでの出来事できごとであった[7]ため、最後さいごまで納得なっとくせずに抵抗ていこうするが、星野ほしの自宅じたくんで牛島うしじま説得せっとくした[8][9]

1987ねん落合おちあいとの4たい1の交換こうかんトレードで上川かみかわ誠二せいじ平沼ひらぬまじょうはれ桑田くわたしげるともにロッテへ移籍いせきした。移籍いせきたっては星野ほしのが「将来しょうらい中日ちゅうにち指導しどうしゃとしてもどす」とべたが、結局けっきょく中日ちゅうにち復帰ふっき実現じつげんせず、口約束くちやくそくわっている[ちゅう 2]背番号せばんごう17移籍いせき欠番けつばんとなったが、翌年よくねん開幕かいまくまえ西武せいぶから移籍いせきした村井むらい一男かずお着用ちゃくようし、その翌年よくねんには期待きたい高卒こうそつ新人しんじん上原うえはらあきらがれた。

なお高卒こうそつ新人しんじん時代じだいの1980ねん7がつ西武せいぶライオンズ球場きゅうじょうひらかれたジュニアオールスターゲームではオールウェスタンで出場しゅつじょう南海なんかいホークスりしていた香川かがわ久々ひさびさのバッテリーをんだが、試合しあいではオールイースタンの主砲しゅほうであった落合おちあいにタイムリーをびている。

ロッテ時代じだい

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背番号せばんごう27となり、前年ぜんねん引退いんたいした中日ちゅうにち時代じだい先輩せんぱい土屋つちや正勝まさかつ番号ばんごうぐ。移籍いせき初年しょねんの1987ねんは2しょう24セーブを記録きろくし、最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅのタイトルを獲得かくとく中日ちゅうにち時代じだいからあたためていた、改良かいりょうちゅうのスライダー、シュートを移籍いせき初年度しょねんど見事みごと披露ひろうして、タイトル獲得かくとくにつながった[10]

1988ねんは25セーブを記録きろくし、最多さいたセーブ投手とうしゅとなる(しかし、セーブポイントの最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅのタイトルは近鉄きんてつ吉井よしいじん獲得かくとくした)。

1989ねん先発せんぱつ転向てんこうし、自己じこ最高さいこうの12しょうげプロはじめて規定きてい投球とうきゅう回数かいすうもクリアした(とくにダイエーにたいしては7しょう1はい荒稼あらかせぎした)。あと1しょう最高さいこう勝率しょうりつのタイトルも取得しゅとくできそうであったが、12しょうげたのち右肩みぎかたつう登録とうろく抹消まっしょうされて[11]閉幕へいまくまでやく1かげつ登板とうばんはなかった。じつは10しょう時点じてん右肩みぎかたいためていたが、いためをみながら12しょうまでげた[12]右肩みぎかたつう対策たいさくとして、インナーマッスルをきたえて改善かいぜんはかることになった。テーブルきのうごきからスタートし、つぎゴムで負荷ふかをかけ、徐々じょじょ運動うんどう強度きょうどげていった[13]

1990ねん血行けっこう障害しょうがいくるしめられた。先年せんねん右肩みぎかたつう克服こくふくし、げられるようになって復活ふっかつできたとおもったころ血行けっこう障害しょうがいになった。くびかたいたみやしびれがひどく、医者いしゃに「野球やきゅう出来できなくていいから、普通ふつう生活せいかつできるようにしてほしい。」とおねがいしたほどだった[14]不調ふちょうつづき、不安ふあんつのるようになり、担当たんとう相談そうだんすると「よくわからないから不安ふあんになる。仕組しくみをることでこわくなくなる。」とわれてリハビリにのぞんだ[15]。ほぼ1シーズンをリハビリについやし、同年どうねんよく1991ねん勝利しょうりわった。

1992ねん4がつ7にちたい福岡ふくおかダイエー1回戦かいせんで、3ねん(924にち)ぶりの勝利しょうり完投かんとうかざる。ここにいたるまで、治療ちりょうのための病院びょういんさがしは難航なんこうし、3つ病院びょういんでやっと「なんとかなるかもしれない」とわれた。計画けいかくてきにリハビリにみ、時間じかんをかけていったので、にちがかかった。でも、時間じかんをかけないともたなかった、と牛島うしじま本人ほんにんかたっている[16]。ちなみにこの試合しあいはチームの千葉ちば移転いてん千葉ちばロッテマリーンズとしてのはつ勝利しょうりであった。元々もともと開幕かいまく2せん神戸こうべ登板とうばん予定よていだったが、あめでスライドしたため本拠地ほんきょち開幕かいまくせんげることになった[17]登板とうばんイニングはけるところまでとしかかんがえていなかったが、あれよあれよというあいだけたので、そのまま最後さいごまでげることになり、完投かんとうつことができた。復活ふっかつ勝利しょうりより、完投かんとうてたということが牛島うしじま個人こじんにとっての意味いみおおきく、自分じぶん自身じしんたいしての自信じしんになった[18]結局けっきょく同年どうねんは3しょうげた。

1993ねんはキャンプ終盤しゅうばん原因げんいん不明ふめい首筋くびすじつうでリタイア、首筋くびすじつうなおり、一軍いちぐん登板とうばんもしたが、ひじつうくるしみ、現役げんえき引退いんたいし、14年間ねんかん32さいわかさでプロ生活せいかつえた。

引退いんたい横浜よこはま監督かんとく時代じだい

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1994ねんTBS(TBSテレビ・TBSラジオ)とCBC(CBCテレビ・CBCラジオ)の野球やきゅう解説かいせつしゃ就任しゅうにん。11年間ねんかんつとめ、眼鏡めがねをかけた精悍せいかん顔立かおだちと理論りろんつさわやかな口調くちょう人気にんきがあった。スポーツニッポン野球やきゅう評論ひょうろんわせてつとめる。

1997ねんオフ横浜よこはまベイスターズ監督かんとく就任しゅうにんした権藤ごんどうひろしから一軍いちぐん投手とうしゅコーチの要請ようせいけるが、熟慮じゅくりょすえ子供こども学校がっこう問題もんだいもあるし、いえのローンものこっているので」とことわった[19]。1999ねんオフに中日ちゅうにち時代じだい同僚どうりょうだった大島おおしま康徳やすのり日本にっぽんハムファイターズ監督かんとく就任しゅうにん大島おおしまから一軍いちぐん投手とうしゅコーチの要請ようせいけるが球団きゅうだんした条件じょうけんわず就任しゅうにんいたらず[20]。コーチへの就任しゅうにん要請ようせいは、球団きゅうだん長嶋ながしま茂雄しげおはらたつとくなどからもあった。しかし投手とうしゅコーチは、投手とうしゅ味方みかたをしないと投手とうしゅ指示しじしたがわなくなり、投手とうしゅまもると監督かんとくとの関係かんけい悪化あっかする。その衝突しょうとつ不可避ふかひかんがえ、要請ようせいことわつづけた[21]恩義おんぎがある大島おおしまからの要請ようせい、その心配しんぱいかったが、すで多数たすう要請ようせいことわったのちであり、大島おおしま要請ようせいだけ受諾じゅだくとはいかなかった[22]

2005ねん横浜よこはまベイスターズ監督かんとく就任しゅうにん横浜よこはまとは現役げんえき時代じだいにはまったえんがないが、当時とうじ横浜よこはまはTBSが親会社おやがいしゃだったため、TBSの野球やきゅう解説かいせつしゃであったつながりから牛島うしじまこえがかかった[23]就任しゅうにん1ねんにして3ねん連続れんぞく最下位さいかいのチームをAクラスにみちびく。

2006ねん横浜よこはまのチーム不振ふしんともなどうシーズンをもって引責いんせき辞任じにん。8がつ上旬じょうじゅんには退団たいだん意向いこうかため、10日とおか佐々木ささき社長しゃちょうとのトップ会談かいだん辞意じいもうれた。9月3にち会見かいけんでは「一生懸命いっしょうけんめい応援おうえんしていただいているファンにもうわけないというおもいがつよく、決断けつだんした。選手せんしゅ本当ほんとう頑張がんばってくれたが、2ねん契約けいやくの2ねん結果けっかのこせなかったのは、わたし責任せきにんだとおもって会社かいしゃつたえた」とはなした。球宴きゅうえん期間きかんには「交流こうりゅう戦後せんごたたかかたができていた。故障こしょうしていた選手せんしゅ徐々じょじょもどってきていて戦力せんりょくあつみをしてくる。チームないでもいい意味いみでの競争きょうそうもできそう」とかえしをしていたが浮上ふじょう出来できなかった。

ただし、「成績せいせき不振ふしん引責いんせきというのは表向おもてむきで、実際じっさいはチーム強化きょうかめぐって消極しょうきょく姿勢しせいしめした球団きゅうだんとの確執かくしつ原因げんいん」といううわさささやかれている(2006ねん8がつ30にちかくスポーツほうじた辞任じにん報道ほうどう内容ないようによる)[24]

その、TBSとCBCのテレビとラジオの野球やきゅう解説かいせつしゃ、スポーツニッポンの野球やきゅう評論ひょうろん復帰ふっきした。現在げんざいは、解説かいせつしゃとして出演しゅつえんするかたわら、横浜よこはまベイスターズ監督かんとく当時とうじのフィジカルトレーナーである山口やまぐち光圀みつくにともに『Senseup+ Sports Academy』[25]開校かいこうし、技術ぎじゅつだけではなく、からだ使つかかたしんかたなど自身じしん経験けいけんしみなくつたえ、子供こどもたち指導しどうしている。また、2011ねんよりセガサミー硬式こうしき野球やきゅう特別とくべつ投手とうしゅコーチ(非常勤ひじょうきん)をつとめるほか[26]社会しゃかいじん野球やきゅうチームや大学だいがく野球やきゅう投手とうしゅ指導しどうおこなっている。

人物じんぶつ

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なみしょう高校こうこう時代じだいぎでこしいため、治療ちりょう専念せんねんして練習れんしゅうをしていない状態じょうたいなか宮崎みやざきおこなわれた招待しょうたい試合しあいでノーヒットノーランをしたり、マウンドに伝令でんれい選手せんしゅに「げてるのはおれや、だまってとけ」といいはなったり[2]さらには練習れんしゅう取材しゅざいたテレビのインタビューでも「おれげれば、チームは絶対ぜったいちますから」と豪語ごうごするなど、ながをしたあまいマスクと独特どくとくなキャラクターで女子じょし中高生ちゅうこうせいおもとした甲子園こうしえんギャルのあいだ人気にんきはくした[27]。1979ねんはる選抜せんばつでは準々じゅんじゅん決勝けっしょう延長えんちょう13かい221きゅうげぬいた翌日よくじつ東洋大とうようだい姫路ひめじだかとの準決勝じゅんけっしょうでも完投かんとう勝利しょうりをマークするなど、タフネスぶりの片鱗へんりんすで高校こうこう時代じだいからせていた。

その高校こうこう時代じだいにバッテリーをんでいた「ドカベン」こと香川かがわ伸行のぶゆきが、プロ野球やきゅう選手せんしゅとしての生活せいかつにおいてもとしごとに体重たいじゅうえていくのにたいし、牛島うしじまみずか注意ちゅういびかけていた。のちに牛島うしじまは、プロ野球やきゅう引退いんたい香川かがわたいする評価ひょうかとして「いずれは球界きゅうかい代表だいひょうする選手せんしゅになるとおもっていた。だが急激きゅうげきふとりだしたことで、年数ねんすうせばまってしまった」としんでいた。

高校こうこう卒業そつぎょう進路しんろ最初さいしょからプロしかかんがえず、実際じっさいにほとんどのプロ球団きゅうだんからこえがかかり、とく南海なんかいからはなみしょうから当人とうにん香川かがわ山本やまもと昭良あきらの3にん全員ぜんいんるというはなしがあったという。しかし、当時とうじテレビではプロ野球やきゅう中継ちゅうけい巨人きょじん戦中せんちゅうしんでパ・リーグの中継ちゅうけいをあまりテレビでおこなっていなかったこともあって、九州きゅうしゅうにいる当人とうにん祖父そふから、自分じぶんみみ不自由ふじゆうなので「ラジオじゃこえないからおまえのことがわからない、テレビでしかれない」と、巨人きょじんがいるセ・リーグにってほしいとわれたことで、パ・リーグ6球団きゅうだんすべ事前じぜんことわりをれていた。しかしこれで当時とうじ高校生こうこうせい入団にゅうだん拒否きょひ」「ぎゃく指名しめい」などとたたかれたという[3]中日ちゅうにちおなじくドラフト会議かいぎ前日ぜんじつ指名しめいするという連絡れんらく当人とうにんれていたきょじんからも指名しめいされる可能かのうせいがあったが、当時とうじ巨人きょじん監督かんとく長嶋ながしま茂雄しげおひだりピッチャーを希望きぼうしたために木田きだいさむ[ちゅう 3]指名しめい変更へんこうされ、結局けっきょく中日ちゅうにち単独たんどく指名しめいとなった[3]

中日ちゅうにち入団にゅうだん発表はっぴょう髪型かみがたはバリバリのリーゼントであった。ただし、先述せんじゅつのデーブ大久保おおくぼとのYoutube対談たいだんにおいて、牛島うしじまは「(あの髪型かみがたは)パンチパーマのびたもの」であるむね述懐じゅっかいしている。ルーキーとしてキャンプ初日しょにちにナインに挨拶あいさつをする牛島うしじま頭髪とうはつ星野ほしのせんいち早速さっそくきびしい指導しどうおこなったとするせつがある。ドラフトまえ才能さいのうこそあったもののあまりの素行そこうわるさから球団きゅうだん続出ぞくしゅつし、中日ちゅうにちも1指名しめい見送みおく予定よていだったが、当時とうじ監督かんとくだったなか利夫としおつよ希望きぼう星野ほしの(1981ねんより投手とうしゅコーチ補佐ほさ兼任けんにん)の「オレがきたなおしてやる」の一言ひとこと指名しめいめた。また、中日ちゅうにち時代じだいには選手せんしゅりょう門限もんげんやぶりの罰金ばっきんを「給料きゅうりょうから天引てんびきにしてくれ」といいのこしたり、部屋へやとびら罰金ばっきんをあらかじめけたりしてよるまちあそびにったというエピソードが牛島うしじま自身じしんからかたられている[28]。しまいには、優勝ゆうしょうなどに(年俸ねんぽうとはべつに)球団きゅうだんから支給しきゅうされる賞金しょうきん封筒ふうとうごと寮長りょうちょうわたして「これで当分とうぶん罰金ばっきんの)面倒めんどうてください」とったという[23]

中日ちゅうにち時代じだい小松こまつ辰雄たつおとも地元じもと企業きぎょう興和こうわ新薬しんやくのミカロン(頭髪とうはつフケやく)のCMに出演しゅつえんするなど高校こうこう時代じだいのイメージそのままで、あまいマスクでたか人気にんきた。引退いんたい名古屋なごや本社ほんしゃ眼鏡めがねてんメガネの和光わこう」のイメージキャラクターをつとめている。

なか利夫としお監督かんとく時代じだいのある、ミーティングで稲尾いなお和久かずひさ投手とうしゅコーチから投手とうしゅじん全員ぜんいんに「9かい2満塁まんるい、カウント2-3(2ストライク3ボール)からどんなたまげるか?」という質問しつもんされた。ほとんどの投手とうしゅ自分じぶんだまこたえるなか、ただ一人ひとり自分じぶんかりません」とこたえたのがルーキーの牛島うしじまだった。怪訝けげんそうなかお稲尾いなおたいして牛島うしじまは「どのような状況じょうきょうで2-3となったかによって、最後さいごげるたまわってくる。2-3となるまでの経緯けいいがないと、最後さいごたまめられない。点差てんさによってもげるたまわるし、一概いちがいめられるものではない」と持論じろんべた[23](のちに「150km/hの速球そっきゅうげられるわけでもないし、これっていう絶対ぜったいてき変化球へんかきゅうもなかったから、おこられるのを覚悟かくごでこうこたえるしかなかった」とかえっている)。しくもこれは稲尾いなお現役げんえき時代じだい実践じっせんしていたかんがえ、投球とうきゅうじゅつまった一致いっちしていた。このことからも、当時とうじから卓越たくえつした投球とうきゅうじゅつぬしであったことがかる。このエピソードは現在げんざいでも野球やきゅう関連かんれん漫画まんが流用りゅうようされるほど有名ゆうめいである。稲尾いなお牛島うしじま返答へんとういて、そので「それでいいんだ」と牛島うしじまめ、のちに「プロで一流いちりゅう投手とうしゅになれると直感ちょっかんした」とかたっている。一方いっぽう牛島うしじま本人ほんにんはこのときのことについて「稲尾いなおさんでなくもっとあたまかたいコーチだったら、きっときらわれてをつけられていただろう」と回顧かいこしている。稲尾いなおのちにロッテで監督かんとくつとめたが1986ねんオフに退任たいにんまり、したっていた落合おちあい移籍いせきする契機けいきとなったといわれている。

現役げんえき時代じだいから星野ほしのせんいちあこがれ、星野ほしの牛島うしじま可愛かわいがってきた。しかし星野ほしの牛島うしじま落合おちあい獲得かくとくため1986ねんあき中日ちゅうにち監督かんとく就任しゅうにん直後ちょくご、ロッテにトレードする。トレード決定けってい気持きもちの整理せいりかぬまま移籍いせき会見かいけんのぞむため東京とうきょうかう牛島うしじまを、星野ほしの名古屋なごやえき東海道新幹線とうかいどうしんかんせんホームで見送みおくった。牛島うしじま人目ひとめをはばからず号泣ごうきゅう(しかし、星野ほしのたいして「落合おちあいさんをむかえにたんですか?」と冗談じょうだんった)。星野ほしの後年こうねんのインタビューで「牛島うしじまは、のチームの野球やきゅう勉強べんきょうさせるつもりでトレードにした。いずれは中日ちゅうにち復帰ふっきさせるつもりだったが、実現じつげんしないまま引退いんたいしてしまった」とかたっている。

大島おおしま康徳やすのりとは中日ちゅうにち時代じだいはあまり交流こうりゅうく、名古屋なごやでは大島おおしまほう人気にんきしゃであり実績じっせきすぐれていたため、とも中日ちゅうにち在籍ざいせきしていたころ2人ふたり食事しょくじかけたことは1かいだけであったと、のちに2018ねん大島おおしまとの対談たいだんれている。ところが、とも移籍いせきともな東京とうきょう移住いじゅうすると、ときには一緒いっしょのマンションにらすほど親密しんみつなかになり、家族かぞくぐるみのいもあったという[7]対戦たいせんでは1988ねんは7打数だすう1安打あんだ牛島うしじま優勢ゆうせいで、1989ねんは6打数だすう5安打あんだ大島おおしまんでいた。大島おおしま牛島うしじまのカーブを警戒けいかいしていた一方いっぽうで、したしかったこととコントロールがいことからインコースにはないだろうとんでいた。大島おおしまほう中日ちゅうにち時代じだいにチームメイトの投手とうしゅくせ見抜みぬいており本人ほんにんにも中日ちゅうにち時代じだいおしえたが、牛島うしじまはクレバーなのでかなら逆手さかてってくるだろうとかんが大島おおしまうらをかくはいだま心掛こころがけた[29]

ロッテへの移籍いせき決定けっていした直後ちょくご牛島うしじまは「(1987ねん当時とうじの)12球団きゅうだんのフランチャイズ球場きゅうじょうで、これまで唯一ゆいいつオールスターゲームやオープンせんでもいち登板とうばん経験けいけんいのが、ロッテのフランチャイズである川崎球場かわさききゅうじょうだ」とはなした。牛島うしじま中日ちゅうにち入団にゅうだん川崎球場かわさききゅうじょうでは1980ねんと1985ねんにオールスターゲームが開催かいさいされたが、牛島うしじまはいずれも選出せんしゅつされなかった。

1988ねん10がつ19にち、ロッテたい近鉄きんてつダブルヘッダー(通称つうしょう10.19)のだい1試合しあい9かいひょう2二塁にるい先発せんぱつ投手とうしゅ小川おがわひろしをリリーフするが、代打だいだなしでん昌孝まさたか中前ちゅうぜん適時てきじきっし、鈴木すずき貴久たかひさしのホームインをゆるす。牛島うしじま後日ごじつテレビ朝日てれびあさひ「ニュースステーション」などかくメディアのインタビューをけたさいなしとなぜ勝負しょうぶしたかたずねられると「一塁いちるいいていたのであるかせようかと一瞬いっしゅんおもった。しかしあのとき近鉄きんてつ選手せんしゅはみんな気迫きはくみなぎっていた。執念しゅうねんめてきていたので(なし敬遠けいえんして)つぎ打者だしゃ勝負しょうぶしても、そのつぎつぎ打者だしゃ勝負しょうぶしても、結果けっかはきっとおなじ。だれ勝負しょうぶしてもおなじだった」と毅然きぜんった。また、後年こうねんおこなわれたべつのインタビューでは「なしでんさんはあのとしかぎりで引退いんたいめていたし、ひょっとしたら現役げんえき最後さいご打席だせきになるかもしれなかった。勝敗しょうはいかる場面ばめんだったが、“現役げんえき最後さいご敬遠けいえんじゃ、なしでんさんにたいして失礼しつれいになる”とおもって勝負しょうぶした」ともかたっている。

ロッテ時代じだいひじ故障こしょうため移籍いせきした当初とうしょほど活躍かつやく後年こうねんせられなかったが、そのあいだにプロ生活せいかつなかつちかった経験けいけん知識ちしき若手わかて投手とうしゅじんしげもなくおしえ、ナインからの信望しんぼう非常ひじょうあつかった。とく小宮山こみやまさとる伊良部いらぶ秀輝ひできをはじめとする投手とうしゅじんには技術ぎじゅつめん精神せいしんてきとも絶対ぜったいてきささえとなる。そのことのちながきにわたりテレビ・ラジオでの理論りろん解説かいせつ裏付うらづけとなっている。また、1992ねんのロッテ入団にゅうだん以来いらい牛島うしじましたつづけている吉田よしだ篤史あつしは、雑誌ざっし週刊しゅうかんベースボール』の選手せんしゅ名鑑めいかんの「野球やきゅう生活せいかつなかでのおものシーン」という設問せつもんに、自身じしんが1993ねん右肩みぎかた故障こしょうしたことと「牛島うしじまさんの現役げんえき引退いんたい」をつづけている。吉田よしだは2004ねん現役げんえき引退いんたい牛島うしじまさそいをけて横浜よこはまにコーチとして入閣にゅうかく牛島うしじま在任ざいにんちゅうはブルペン担当たんとう投手とうしゅコーチをつとめた。牛島うしじま現役げんえき晩年ばんねんにストッパーとして活躍かつやくした河本かわもといくこれ牛島うしじま引退いんたい背番号せばんごう27をいだ。小宮山こみやま横浜よこはま時代じだいに27をけている。

小林こばやしいたるは1991ねんの1年間ねんかんをロッテの練習れんしゅうせい当時とうじ東大とうだい4年生ねんせい在学ざいがくちゅうだったため)としてごしたが、このさいに、故障こしょうぐんらしだった牛島うしじま指導しどうけ、小林こばやしのちに「練習れんしゅうせいで、プロでもない中途半端ちゅうとはんぱ立場たちばで、ともすればきょつら状況じょうきょうなかなにかにつけてさくにこえをかけてくれた牛島うしじまさんには大変たいへん感謝かんしゃしています」とべている。

牛島うしじまはフォークボールをだまとしていたが、牛島うしじまはごく普通ふつうおおきさしかない。あるとしフジテレビプロ野球やきゅうニュース」のオフ企画きかくにゲストでばれた牛島うしじまはフォークのにぎかたわれると、うっすらわらいながらごくあさくボールをはさんでせた。「はあ、これであんなにちるんですか?」といまひとつ合点がてんのいかないアナウンサーにたいし、同席どうせきしていた関根せきねじゅんさんどう番組ばんぐみ解説かいせつしゃ)が突如とつじょわたしってますけどいません」と笑顔えがおでいいはなった。こうしてふくみをのこしたまま番組ばんぐみ一旦いったんCMへ。CMけ、牛島うしじまは「じつは…」とし、種明たねあかしをはじめた。牛島うしじまのフォークのにぎりは特殊とくしゅなもので、まず人差ひとさゆび中指なかゆびひらき、そのあいだにボールをじわじわてていく。すると、不意ふいに2つのゆびあいだ関節かんせつはずれてゆびけん部分ぶぶんがほぼくっつくほどの角度かくど一気いっきひらく、というものだった。これにはスタジオの全員ぜんいん絶句ぜっく牛島うしじまは「ゆびおおきくひらくようになりたいとおもってボールをはさことかえしていたら、あるとき関節かんせつ自由じゆうはずしたりもどしたりできるようになった」と証言しょうげんしていた。NHK総合そうごうディープピープル』の「フォークボール」のかいでも関節かんせつはずれる様子ようす公開こうかいし、マーク・クルーンおどろいたことをかたった。

横浜よこはま監督かんとく就任しゅうにん1ねんのキャンプでも、牛島うしじま独自どくじ理論りろん垣間見かいまみえた。そのひとつにげられるのが「ブルペンでの投球とうきゅう練習れんしゅうさい、キャッチャーはたまおんらすな」というものである。牛島うしじまによると「たまおんがいいということは、相手あいてバッターにたれやすいたまとく最近さいきん屋内おくないにブルペンがある球場きゅうじょうおおく、たまおん反響はんきょうしやすいため、調子ちょうしわる投手とうしゅが“いいだまがいっている”と勘違かんちがいすることがある」というのがその理由りゆうである。「キャッチャーはピッチャーを気持きもちよくげさせるためにおおきなミットおんす」という理論りろんをもっている伊東いとうつとむとは、対極たいきょく理論りろんである。

じつ牛島うしじまには、このたまおんにまつわるはら体験たいけんがある。現役げんえき時代じだい、ある地方ちほう球場きゅうじょうでの試合しあいまえにスタンドのブルペンで投球とうきゅう練習れんしゅうはじめた。ところが、いいイメージで直球ちょっきゅうとうじたのに、ブルペン捕手ほしゅのミットからは「ボコッ」というにぶおとしかかえってこない。不審ふしんおもってよくると、ブルペンの壁面へきめんには防音ぼうおん加工かこうほどこしてあり、おと反響はんきょうしないようになっていた。牛島うしじまは「このままでは調子ちょうしない」と判断はんだんしてメニューをえ、グラウンドにてキャッチボールをおこなった。「たまおんまどわされてはいけない」という理論りろんは、ここからまれたようである。

投手とうしゅくせなどを矯正きょうせいする技術ぎじゅつけており、マーク・クルーン入団にゅうだんさせるさいたまはやいがコントロールになんがあったことからフロントは難色なんしょくしめした。しかし、ビデオを牛島うしじま監督かんとくが「このくせなら矯正きょうせい可能かのう」と判断はんだんし、クルーン獲得かくとく決断けつだん牛島うしじま監督かんとく矯正きょうせいでクルーンは制球せいきゅうなんなおり、リリーフエースの佐々木ささき主浩おもひろからうばるほどの活躍かつやくせた。また、横浜よこはまにトレード入団にゅうだんして以来いらい不振ふしんつづいていた門倉かどくらけんは、「10センチあしたかげてみろ。」と牛島うしじま監督かんとくからアドバイスをけた結果けっか上手うまあいだができ、7ねんぶりに規定きてい投球とうきゅう回数かいすうをクリアし自己じこ最多さいたとなる11しょうげ、最終さいしゅうせんちゅう2にち登板とうばんさせる牛島うしじまはからいもあり同僚どうりょう三浦みうら大輔だいすけ同数どうすうでリーグ最多さいたの177だつ三振さんしん記録きろくして最多さいただつ三振さんしんのタイトルを獲得かくとくした。

だい飛行機ひこうきぎらであり、ロッテ時代じだい地方ちほうでの試合しあいおおく、とく札幌さっぽろ円山球場まるやまきゅうじょうでの試合しあい前後ぜんこうには移動いどう手段しゅだんあたまなやませることおおかったという。解説かいせつしゃ時代じだい長時間ちょうじかん飛行機ひこうき移動いどうきらって、アメリカメジャーリーグ視察しさつさそいをなんことわっている。また、横浜よこはま監督かんとく就任しゅうにんの2005ねん春季しゅんきキャンプのため宜野湾ぎのわんかうさいには緊張きんちょう面持おももちで飛行機ひこうき搭乗とうじょう那覇空港なはくうこう到着とうちゃく報道陣ほうどうじん久々ひさびさ飛行機ひこうき感想かんそうわれると「りるときれたね」と苦笑くしょうじりにこたえた。シーズンにはいってからも長崎ながさきビッグNスタジアムたい広島ひろしませんおこなわれたさい前日ぜんじつ移動いどうには飛行機ひこうき移動いどうのチームをはなれ、新横浜しんよこはまえきからあさ一番いちばん新幹線しんかんせんのぞみ1ごう」と在来ざいらいせん特急とっきゅうかもめ」をいで長崎ながさきまで移動いどうした。さらに交流こうりゅうせんさいフルキャストスタジアム宮城みやぎでのたい楽天らくてんせんカードは移動いどうなしで札幌さっぽろドームでのたい日本にほんハムせんだったが、たい楽天らくてんせんの3せん雨天うてん中止ちゅうしとなったのをしとし、翌朝よくあさ飛行機ひこうき移動いどうするチームをはなれてひとり寝台しんだい特急とっきゅう北斗星ほくとせい」で移動いどうする…という徹底てっていぶりであった。取材しゅざい記者きしゃにそのてんまれても、つねに「車窓しゃそうからうみながめられたりして気分きぶん転換てんかんになった」とうのコメントでかえしている。

2014ねん9がつ26にちなみしょう高校こうこう時代じだいにバッテリーをんだドカベン・香川かがわ伸行のぶゆき心筋梗塞しんきんこうそくにより52さい死去しきょ訃報ふほういた直後ちょくご牛島うしじまは「なんでや…まだはやいやろ。具合ぐあいわるいとはいていたが、つようんってるおとこだからきっとえるとおもっていた。こんなにはやってしまうとは…」とおおきな衝撃しょうげきけつつ、「最近さいきんちゅう会話かいわする機会きかいく、すうねんまえ母校ぼこうげん大体だいたい大浪おおなみしょう)の甲子園こうしえん出場しゅつじょうったのが最後さいごだった。もうボールをけてもらえへんのやな…」とさびしさをつのらせていた[1]

2018ねん8がつ8にちあさだい100かい全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん記念きねん大会たいかいレジェンド始球しきゅうしき登場とうじょうしたが、ワンバウンド投球とうきゅう苦笑にがわらいをかべた。なお牛島うしじまは「甲子園こうしえん始球しきゅうしきはなしときに、もしきていればキャッチャーは香川かがわだったのかな、とおもっていた」としのびながらコメントしている[30]観客かんきゃくせきでは香川かがわ夫人ふじんむすめたちが遺影いえいたずさえてこの登板とうばん見守みまもった。

監督かんとくとしての采配さいはい

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投手とうしゅ起用きようかんする采配さいはいでは、「クアトロK」などの中継なかつじん整備せいびしたが、その一方いっぽうでエースクラスの先発せんぱつ投手とうしゅ完投かんとうもとめる傾向けいこうつよかった。2005ねんには20完投かんとう記録きろくしており、そのうちの10完投かんとう三浦みうら大輔だいすけによるものであった。また、完投かんとういたらなくても先発せんぱつ投手とうしゅっきゅうすう100きゅうたっするか投球とうきゅう回数かいすうが7かい前後ぜんこうになるまでは、投球とうきゅう内容ないようにかかわらず続投ぞくとうさせていた。これらについて牛島うしじまは「多少たしょう時間じかんがかかってもエースピッチャーをそだてるべき」というかんがえをとっている[31]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1980 中日ちゅうにち 9 4 0 0 0 2 1 0 -- .667 111 27.0 23 4 12 0 0 14 0 0 16 15 5.00 1.30
1981 51 5 0 0 0 2 7 0 -- .222 434 104.1 84 11 59 6 0 82 3 0 39 32 2.76 1.37
1982 53 0 0 0 0 7 4 17 -- .636 301 77.1 44 6 28 4 1 75 0 0 12 12 1.40 0.93
1983 37 9 0 0 0 10 8 7 -- .556 395 88.0 104 10 30 2 1 69 0 0 55 44 4.50 1.52
1984 50 0 0 0 0 3 6 29 -- .333 307 75.2 60 6 25 5 1 67 1 0 25 23 2.74 1.12
1985 38 10 6 1 0 6 8 8 -- .429 504 116.1 103 17 60 9 4 82 0 0 47 45 3.48 1.40
1986 35 0 0 0 0 3 5 16 -- .375 227 55.0 46 5 19 3 0 46 1 0 18 17 2.78 1.18
1987 ロッテ 41 0 0 0 0 2 4 24 -- .333 230 55.2 46 6 16 6 2 59 1 0 15 8 1.29 1.11
1988 38 0 0 0 0 1 6 25 -- .143 213 46.1 49 4 29 2 0 46 3 0 24 23 4.47 1.68
1989 21 21 8 0 0 12 5 0 -- .706 632 148.2 134 13 75 0 0 115 7 1 66 60 3.63 1.41
1990 3 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 33 8.0 7 1 2 0 1 6 0 0 6 5 5.63 1.13
1991 1 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 22 4.2 8 1 0 0 0 5 0 0 3 2 3.86 1.71
1992 9 8 3 0 0 3 3 0 -- .500 227 54.0 43 5 21 0 1 48 0 0 18 16 2.67 1.19
1993 9 9 0 0 0 2 5 0 -- .286 199 44.0 56 6 15 0 1 32 1 0 30 26 5.32 1.61
通算つうさん:14ねん 395 68 17 1 0 53 64 126 -- .453 3835 905.0 807 95 391 37 12 746 17 1 374 328 3.26 1.32
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

年度ねんどべつ監督かんとく成績せいせき

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年度ねんど 球団きゅうだん 順位じゅんい 試合しあい 勝利しょうり 敗戦はいせん 引分ひきわけ 勝率しょうりつ ゲーム チーム
本塁打ほんるいだ
チーム
打率だりつ
チーム
防御ぼうぎょりつ
年齢ねんれい
2005ねん 横浜よこはま 3 146 69 70 7 .496 17.0 143 .265 3.68 44さい
2006ねん 6 146 58 84 4 .408 29.5 127 .257 4.25 45さい
通算つうさん:2ねん 292 127 154 11 .452 Aクラス1かい、Bクラス1かい

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
  • はつ登板とうばん:1980ねん8がつ24にちたい読売よみうりジャイアンツ20回戦かいせんナゴヤ球場きゅうじょう)、9かいひょうに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい失点しってん
  • はつだつ三振さんしん同上どうじょう、9かいひょう山本やまもと功児こうじから
  • はつ勝利しょうり:1980ねん8がつ30にちたい阪神はんしんタイガース19回戦かいせんナゴヤ球場きゅうじょう)、8かいひょうに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい失点しってん
  • はつ先発せんぱつはつ先発せんぱつ勝利しょうり:1980ねん9がつ6にちたいヤクルトスワローズ12回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、6かい1失点しってん
  • はつセーブ:1982ねん4がつ11にちたい読売よみうりジャイアンツ2回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、9かいひょう1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2/3かい失点しってん
  • はつ完投かんとう:1985ねん8がつ7にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ16回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、10かい失点しってん
  • はつ完投かんとう勝利しょうりはつ完封かんぷう勝利しょうり:1985ねん8がつ13にちたい横浜よこはま大洋たいようホエールズ14回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう
節目ふしめ記録きろく
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 17 (1980ねん - 1986ねん
  • 27 (1987ねん - 1993ねん
  • 72 (2005ねん - 2006ねん

出演しゅつえん番組ばんぐみ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 近藤こんどう貞雄さだお野球やきゅうはダンディズム』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1988ねん、P129。当時とうじ中日ちゅうにち監督かんとくだった近藤こんどうは「リリーフならちょう一流いちりゅうになるかもしれない」と判断はんだんし、(昭和しょうわ)57ねんからおさえにまわし、これが正解せいかいだったと著書ちょしょしるしている。また、投手とうしゅコーチだった権藤ごんどうひろしも「牛島うしじま先発せんぱつをするとあまたまもある。だけど勝負しょうぶどころでは素晴すばらしいピッチングをした。おさえの適正てきせいはあったとおもう」とかえった。
  2. ^ 2004ねんには中日ちゅうにち監督かんとく候補こうほげられていたが、トレード相手あいてである落合おちあい博満ひろみつ監督かんとく就任しゅうにん自身じしん後輩こうはいである立花たちばな龍司りゅうじ著書ちょしょ野手やしゅのための筋力きんりょくのトレーニング』より)。なお、平沼ひらぬま現役げんえき晩節ばんせつ上川かみかわ引退いんたいにコーチとして復帰ふっきした。
  3. ^ 巨人きょじんと、日本にほんハム大洋たいよう指名しめい重複じゅうふくし、抽選ちゅうせん結果けっか交渉こうしょうけん獲得かくとくした日本にほんハムに入団にゅうだん
  4. ^ J SPORTSと同時どうじ放送ほうそう解説かいせつ木下きのした富雄とみお牛島うしじま実況じっきょう坂上さかがみ俊次しゅんじ(RCC)
  5. ^ TBSラジオの野球やきゅう中継ちゅうけい全国ぜんこく配信はいしん撤退てったい以降いこう、JRN系列けいれつ単独たんどく加盟かめい各局かくきょくには、TBSラジオはDeNA主催しゅさいゲームのみうらおくりを継続けいぞくし、そののカードは文化放送ぶんかほうそうニッポン放送にっぽんほうそう・RFラジオ日本にっぽんうらおく業務ぎょうむ分担ぶんたんしている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b はやいやろ…牛島うしじまなみしょう時代じだいの“相棒あいぼういたむ「かれ背中せなかながら」スポニチ 2014ねん9がつ27にち掲載けいさい
  2. ^ a b 生意気なまいき」というほめ言葉ことばもっと似合にあったエース・牛島うしじま和彦かずひこ伝説でんせつ
  3. ^ a b c ぜん球団きゅうだん入団にゅうだん拒否きょひ牛島うしじま和彦かずひこ「えらいたたかれた」巨人きょじん指名しめい回避かいひ…ドラフト当日とうじつの“事件じけん”. Full-Count. 株式会社かぶしきがいしゃCreative2 (2024ねん6がつ2にち). 2024ねん6がつ3にち閲覧えつらん
  4. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2022ねん11月23にち
  5. ^ 全治ぜんち半年はんとしなのに…1かげつで“強制きょうせい復帰ふっき”「もどってこい」 牛島うしじま和彦かずひこなおらないみぎひじ「ずっといたかった」”. full-Count (2024ねん6がつ7にち). 2024ねん6がつ7にち閲覧えつらん
  6. ^ 落合おちあい博満ひろみつ秋山あきやま幸二こうじ糸井いとい嘉男よしお世紀せいきの“大型おおがたトレード”はこうして成立せいりつした!”. 新潮しんちょうデイリー (2021ねん11月17にち). 2022ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  7. ^ a b スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ週刊しゅうかんベースボール』2018ねん10がつ1にちごう p.65.
  8. ^ 星野ほしのせん一氏いちうじ 写真しゃしん特集とくしゅう
  9. ^ 牛島うしじま白紙はくし小切手こぎって星野ほしの監督かんとくあたま落合おちあいトレード獲得かくとく
  10. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2023ねん2がつ22にち
  11. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1989ねん10がつ12にち
  12. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2023ねん2がつ22にち
  13. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2023ねん11月29にち
  14. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2023ねん11月29にち
  15. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2023ねん11月29にち
  16. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2024ねん1がつ17にち
  17. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2024ねん1がつ17にち
  18. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2024ねん1がつ17にち
  19. ^ 横浜よこはま牛島新うしじましん監督かんとく冷静れいせい判断はんだんりょく注目ちゅうもく
  20. ^ 週刊しゅうかんベースボール2019ねん2がつ25にちごう冷静れいせい情熱じょうねつ野球やきゅうじん 大島おおしま康徳やすのりまけくっかたましい!! 大島おおしま康徳やすのりコラムだい94かい優勝ゆうしょう目指めざしてなにわるいんだ!」、68-69ぺーじ
  21. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2024ねん2がつ28にち
  22. ^ ドラゴンズスペシャル ドラたましいキング 2024ねん2がつ28にち
  23. ^ a b c だいよん ウィキペディアの牛島うしじま伝説でんせつをご本人ほんにん直撃ちょくげきしたらやっぱりすごかった - デーブ大久保おおくぼチャンネル・2021ねん3がつ18にち
  24. ^ なぞだらけのし9連戦れんせん。コーチへのおねがいは〇〇をわないこと牛島うしじま和彦かずひこさんコラボ3】 - YouTube
  25. ^ http://senseup-plus.com/
  26. ^ 東尾ひがしお牛島うしじまもセガサミー応援おうえん「ピッチャーが辛抱しんぼうした」 - スポーツニッポン・2012ねん7がつ18にち
  27. ^ 今井いまい美紀みきはらたつとく -その素顔すがお-』株式会社かぶしきがいしゃ三修社さんしゅうしゃ、2009ねん、76ページ、ISBN 978-4-384-08888-5
  28. ^ 2012ねん8がつ24にちのCBCドラゴンズナイターでの発言はつげんより。
  29. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ週刊しゅうかんベースボール』2018ねん10がつ1にちごう p.66.
  30. ^ 【レジェンド始球しきゅうしきなみしょう牛島うしじま和彦かずひこさん 盟友めいゆうへのおもいもむねに…スポニチ 2018ねん8がつ8にち掲載けいさい
  31. ^ なぜセ・リーグはエースがそだたないのか? 集英社しゅうえいしゃ スポルティーバ公式こうしきサイト (2010ねん9がつ13にち)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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