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鈴木すずき孝政たかまさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木すずき 孝政たかまさ
2013ねん7がつ7にち
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 千葉ちばけん山武さんぶぐん蓮沼はすぬまむらげん山武さんぶ[1]
生年月日せいねんがっぴ (1954-07-03) 1954ねん7がつ3にち(69さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
178 cm
78 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1972ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1973ねん4がつ19にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1989ねん10がつ14にち引退いんたい試合しあい
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
  • 中日ちゅうにちドラゴンズ (1995 - 1997, 2004, 2012 - 2013)

鈴木すずき 孝政たかまさ(すずき たかまさ、1954ねん7がつ3にち - )は、千葉ちばけん出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

プロまえ[編集へんしゅう]

蓮沼はすぬま小学校しょうがっこう蓮沼はすぬま中学校ちゅうがっこうから成東なるとう高校こうこう進学しんがく中学ちゅうがく時代じだいはサイドスローだったが高校こうこうではオーバースローに変更へんこう[1]鵜沢うざわ達雄たつお後継こうけいとして、速球そっきゅう武器ぶきに1ねんあきからエースの[1]

1971ねんにはなつ甲子園こうしえんけん予選よせんき、ひがし関東かんとう大会たいかい準決勝じゅんけっしょうすす[1]。しかし練習れんしゅう負傷ふしょうし、先発せんぱつひかえの及川おいかわ投手とうしゅゆずりリリーフにまわるが、竜ヶ崎りゅうがさきいちだかに1-2で惜敗せきはいした[1]

1972ねん春季しゅんき関東かんとう大会たいかいでは準決勝じゅんけっしょう日大三にちだいさんだか待井まちいのぼるつ。しかし決勝けっしょうでは登板とうばんせず、のちにプロで同僚どうりょうとなる田野たのくら利男としおのいただか敗退はいたいじゅん優勝ゆうしょうにとどまる。同年どうねんなつけん予選よせん準決勝じゅんけっしょう銚子商ちょうししょう根本ねもとたかしい0-1で完封かんぷうけ、甲子園こうしえんには出場しゅつじょうできなかった[1]高校こうこう同期どうき青木あおき康彰やすあき中堅ちゅうけんしゅ専大せんだい - 電電でんでん東京とうきょう)がいる。

プロ[編集へんしゅう]

1972ねんのプロ野球やきゅうドラフト会議かいぎ中日ちゅうにちドラゴンズに1指名しめいされて入団にゅうだん[1]中日ちゅうにちはこのとしのドラフトで球団きゅうだん親会社おやがいしゃ仲根なかね正広まさひろ指名しめい希望きぼうしていたが、このドラフト会議かいぎ監督かんとく与那嶺よなみねよう代理だいり出席しゅっせきしたヘッドけん投手とうしゅコーチの近藤こんどう貞雄さだおがミーティングでのスカウト報告ほうこくいたときにっかかるものをかん[2]鈴木すずきたいするとにかくボールがはやいの評価ひょうか近藤こんどうはこれほど魅力みりょくてき要素ようそはないと判断はんだんし、中日ちゅうにち指名しめい順番じゅんばんまわってきたときに仲根なかねのこっているにもかかわらず鈴木すずきを1指名しめいした[2]。また、仲根なかねとは本人ほんにん近鉄きんてつから移籍いせきしてきた1988ねんにチームメイトになった。
また鈴木すずき自身じしん在京ざいきょう球団きゅうだんからの指名しめいがなければ明治大学めいじだいがくへの進学しんがく内定ないてい島岡しまおか吉郎よしろうからとくにられたという)していたが、全体ぜんたい2番目ばんめ中日ちゅうにちにドラフト1指名しめいされた。本人ほんにん在京ざいきょう球団きゅうだんでなかったことからプロりせずに明治大学めいじだいがく進学しんがくするこころづもりだったが、近藤こんどうやスカウトなど中日ちゅうにちのスタッフが自宅じたく挨拶あいさつにやってきて、父親ちちおや中日ちゅうにちりを承諾しょうだくしてしまった。これをけ、明治大学めいじだいがく辞退じたいし、中日ちゅうにち入団にゅうだんすることとなった[3]本人ほんにんによると、このいちけん島岡しまおかから星野ほしのせんいち当時とうじ中日ちゅうにちのエースで明大めいだいOB)に連絡れんらくはいり、それをけて星野ほしのがルーキーの鈴木すずきをキャンプでの練習れんしゅうパートナーに指名しめいしたりするなどし、色々いろいろってくれたためにプロのみずにすんなりれることができたのではないかと述懐じゅっかいしている。

150kmだいびのあるかい速球そっきゅう武器ぶきに、ロングリリーフもこなす救援きゅうえん投手とうしゅとして活躍かつやく

1974ねんには35試合しあい登板とうばんし、リーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん同年どうねんロッテ・オリオンズとの日本にっぽんシリーズでは3試合しあい登板とうばんだい2せん先発せんぱつするが3かい失策しっさくくずれ1てんうしな降板こうばん。しかしだい3せんでは松本まつもとみゆきぎょうを7かい途中とちゅうからリリーフし、自身じしんのシリーズはつセーブを記録きろくした。だい5せんでも先発せんぱつだる正明まさあきうが2てんうしな惜敗せきはい日本一にっぽんいちはならなかった。ドラフトで指名しめいした近藤こんどうは「孝政たかまさはドラゴンズのしんリリーフエースとして、20ねんぶりの優勝ゆうしょう貢献こうけんしてくれたからよかったものの、かれがいつまでもぐんでうだつのがらないままだったら、間違まちがいなくぼくくびんでいたことだろう」と著書ちょしょなかしるしている[2]当時とうじスピードガンはまだ普及ふきゅうしていなかったが、セリーグではもっとたまはや投手とうしゅわれていた。

1975ねん最多さいたセーブ投手とうしゅかがやく。

1976ねん最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅ獲得かくとく。このとしの2.98という防御ぼうぎょりつ最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつのタイトルとしては現在げんざいもセ・リーグでもっとわる数字すうじである(パ・リーグをふくめると、2000ねんえびす信行のぶゆきが3.27、よく2001ねんネイサン・ミンチーが3.26と、防御ぼうぎょりつが3てんだい最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ獲得かくとくしている)。

1977ねんには先発せんぱつとリリーフ兼任けんにん自己じこ最高さいこうの18しょうげ、最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅのタイトルも獲得かくとくした。リリーフ投手とうしゅながら3年間ねんかん連続れんぞく(1975 - 1977ねん)で規定きてい投球とうきゅう回数かいすうまでつづけ、ひじいためる。

1982ねん5月23にち大洋たいようせん宮城みやぎ球場きゅうじょう)にて8かいから登板とうばんし、9-6とリードしていた9かいうら2走者そうしゃから3連続れんぞく単打たんだ満塁まんるいとなった長崎ながさき啓二けいじ逆転ぎゃくてんサヨナラ満塁まんるい本塁打ほんるいだたれ、マウンドでがっくりひざまずく。このいちけん転機てんきとなり、以後いご先発せんぱつ転向てんこう。このとし9しょうげてリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん直球ちょっきゅう緩急かんきゅう勝負しょうぶするなど技巧ぎこう投手とうしゅ転身てんしん同年どうねん西武せいぶとの日本にっぽんシリーズでは4試合しあい登板とうばんだい5せん先発せんぱつし4かい失点しってん好投こうとう。しかしリリーフで起用きようされた最終さいしゅうだい6せんでは、7かい片平かたひら晋作しんさくテリー・ウィットフィールド連続れんぞく本塁打ほんるいだゆる敗戦はいせん投手とうしゅとなった。

1984ねんに16しょうカムバックしょう獲得かくとく

1988ねんにもリーグ優勝ゆうしょう経験けいけんし、選手せんしゅ登録とうろくされながら同年どうねん日本にっぽんシリーズでの登板とうばん機会きかいはなかった。 さらにシリーズちゅうコーチに打撃だげき投手とうしゅ指示しじされ、シリーズ終了しゅうりょう星野ほしのせんいち監督かんとく来季らいき去就きょしゅうたずねられ、現役げんえき続行ぞっこう意思いしつたえる。

1989ねんオーストラリアキャンプにえらばれるもぐんスタートとなり、ウエスタン・リーグでの開幕かいまくせん登板とうばんめいじられ、結局けっきょくこのとしかぎりで現役げんえき引退いんたい引退いんたい発表はっぴょうする記者きしゃ会見かいけんで「バッターはごまかせても、ボールはごまかせない」と発言はつげんをする。その試合しあいでリリーフで登板とうばんし、現役げんえき最後さいごぼしげる。球団きゅうだんがわ引退いんたい試合しあいとして1989ねんナゴヤ球場きゅうじょうでのラストゲームだった大洋たいようせん先発せんぱつした。試合しあいにはチームメイトから胴上どうあげがされている[4]

現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

1990ねんからは1994ねんまでは、5年間ねんかんフジテレビ東海とうかいテレビ東海とうかいラジオ野球やきゅう解説かいせつしゃ中日ちゅうにちスポーツ野球やきゅう評論ひょうろんつとめた。

1995ねんから1997ねんまでは、3年間ねんかん中日ちゅうにち投手とうしゅコーチを担当たんとう、1995ねん監督かんとく高木たかぎ守道もち休養きゅうようし、ヘッドコーチ徳武とくたけじょうゆう監督かんとく代行だいこう就任しゅうにん徳武とくたけがさっそくコーチじん配置はいち転換てんかん着手ちゃくしゅ、2ぐん投手とうしゅコーチの鈴木すずきを1ぐん昇格しょうかくさせた[5]

1996ねんから1997ねんまではふたた中日ちゅうにちの2ぐん投手とうしゅコーチをつとめた。

1998ねんからは2003ねんまでは、6年間ねんかんふたたびフジテレビ・東海とうかいテレビ・東海とうかいラジオ野球やきゅう解説かいせつしゃ中日ちゅうにちスポーツ野球やきゅう評論ひょうろんとなる。また、プロ野球やきゅうマスターズリーグ開催かいさいされていた時期じきには、名古屋なごや80D'sersに投手とうしゅとして参加さんかしていた。

2004ねん、3ねん契約けいやく中日ちゅうにち一軍いちぐんヘッドコーチに就任しゅうにんし、7ねんぶりの現場げんば復帰ふっき。しかし、その一軍いちぐん投手とうしゅチーフコーチ、ぐん投手とうしゅコーチと異動いどうかえした挙句あげくに1ねん退団たいだんした(後述こうじゅつ[6]

2005ねんからは2011ねんまでは、7年間ねんかんふたたび、東海とうかいテレビ・東海とうかいラジオの野球やきゅう解説かいせつしゃ中日ちゅうにちスポーツの野球やきゅう評論ひょうろんになった。テレビの解説かいせつについては、キーきょく・フジテレビとの兼務けんむではなく、東海とうかいテレビと専属せんぞく契約けいやくむすんでいる。

2012ねんからは中日ちゅうにちぐん監督かんとくつとめた。

2013ねん10月4にち球団きゅうだんから来季らいき契約けいやくむすばないことを通告つうこく[7]。そのため、シーズン終了しゅうりょうフェニックスリーグでは、渡邉わたなべ博幸ひろゆき監督かんとく代行だいこうつとめた(後任こうにんぐん監督かんとく佐伯さえき貴弘たかひろ)。

2014ねんからはふたた現在げんざいまで、東海とうかいテレビ・東海とうかいラジオの野球やきゅう解説かいせつしゃ復帰ふっき2015ねん11月29にち中日ちゅうにちのOB会長かいちょう就任しゅうにんした[8]名古屋なごやうちホテルおこなわれたOBかい壇上だんじょうで「できれば8がつ子供こどもたちの夏休なつやす期間きかん首位しゅいと5ゲーム以内いないにいてほしい」とたにしげる元信もとのぶ監督かんとく要望ようぼうしたうえで、「最下位さいかい覚悟かくご優勝ゆうしょう目指めざせ、ということ。わか選手せんしゅたちがそのになったらとんでもないちから発揮はっきする。8月に5ゲーム以内いないというのはそういうこと。そのにさせることができる」と強調きょうちょうした[9]

2016ねんからは、野球やきゅう解説かいせつしゃ中日ちゅうにちOB会長かいちょうとしての活動かつどう並行へいこうしながら、「ドラゴンズベースボールアカデミー」(東海とうかい地区ちく小中学生しょうちゅうがくせいたいする野球やきゅう振興しんこう目的もくてきどう球団きゅうだん運営うんえいするNPO法人ほうじん)の初代しょだい校長こうちょうつとめる[10]。2023ねん11月26にち中日ちゅうにちOB会長かいちょう退任たいにんした[11]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

若手わかて時代じだい最速さいそく155km/hを記録きろくしたつよし速球そっきゅう武器ぶきにしてちから投球とうきゅうスタイルであったが、6ねんとなる1978ねん中盤ちゅうばんごろからひじいたみになやまされて直球ちょっきゅう球速きゅうそくが140km/hほどにまでみ、一時いちじはトレード要員よういんかぞえられるまでまれた。

そうしたなかで、当時とうじ投手とうしゅコーチであった権藤ごんどうひろしとともにあらたな投球とうきゅうスタイルを模索もさくし、権藤ごんどうから「おなじフォームからつよしなかじゃくさん種類しゅるい直球ちょっきゅう」をげて緩急かんきゅうをつけて打者だしゃのタイミングをはず投球とうきゅうチェンジ・オブ・ペース)をするよう提案ていあんされ、これを習得しゅうとくすることでおとろえた球威きゅういをカバーして技巧ぎこうとして復活ふっかつげた[12]

もと阪神はんしんタイガースのランディ・バース本塁打ほんるいだを12ほんたれたが、これはバースが日本にっぽん対戦たいせんした投手とうしゅなか最多さいたである。「一番いちばんいいバッターですからね、ぼくなかでは」とバースをひょうしており、現役げんえき当時とうじ先発せんぱつ登板とうばん前日ぜんじつにバースのかおかんでられなかったことなんもあったとのこと。ストライクをげたらたれるとおもい、1だけ「すこやすんでもらおう」と、バースのみぎひざねらってデッドボールをてたことがあったが、バースは「OK!」とって、かえって元気げんきになったという[13]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

2004ねん落合おちあい博満ひろみつ監督かんとく就任しゅうにんともない、3ねん契約けいやく中日ちゅうにち一軍いちぐんヘッドコーチに就任しゅうにん。しかし、ヘッドコーチの肩書かたがき球団きゅうだん主導しゅどうおこなわれ鈴木すずき本人ほんにんは『ヘッドコーチ』として受諾じゅだく落合おちあいは『投手とうしゅコーチ』として打診だしん、と双方そうほうでの相違そういがあり、結果けっか一軍いちぐん投手とうしゅチーフコーチに格下かくさげされ、さらにシーズン途中とちゅうにはぐん投手とうしゅコーチに異動いどうとなった。このさい球団きゅうだんがわから建前たてまえとして入院にゅういんすすめられたが、これはことわったという[14]結局けっきょく、シーズン終了しゅうりょう契約けいやくのこしたまま1ねん退団たいだんした[15]。この退団たいだん理由りゆうについては当時とうじより「落合おちあいがチームの機密きみつらすものきらったから」といううわさひろまっており、後年こうねん落合おちあいもり繁和しげかずらによって内情ないじょうかされ[16][17]鈴木すずき本人ほんにんもインタビューにて「落合おちあいさんはマスコミにあまりしゃべらないでしょ。そしたら記者きしゃはみんなおれのところにるでしょ。あっちがしゃべらないから、きにくるでしょ。なににもネタがなかったら、記者きしゃ仕事しごとにならない。それなりにしゃべってやればいいじゃない。それも仕事しごとだからね、プロの。そういうのもひとつ原因げんいんだったとおもうよ。おれはただ監督かんとく手伝てつだいをしようとおもっただけだったけど、ちょっとちがっていたね。」とかえっている[18]

もと女優じょゆう寺島てらしままゆみとは血縁けつえん関係かんけいいが、とお親戚しんせき関係かんけい

背番号せばんごう29は、実家じっか肉屋にくやであることに由来ゆらいする(現在げんざい兄嫁あによめ営業えいぎょうしている)。

小学校しょうがっこう6ねんとき東京とうきょう荒川あらかわった東京とうきょうスタジアムはじめて野球やきゅう観戦かんせんったさいに、鈴木すずきがバックネットの金網かなあみをかけてロッテオリオンズ練習れんしゅうていると、とおりかかったロッテの捕手ほしゅ醍醐だいご猛夫たけおから「あぶないよ、怪我けがするからね」とわれた。後年こうねん鈴木すずきがプロりして中日ちゅうにちドラゴンズの投手とうしゅになり、シーズンオフのイベントで醍醐だいごったさい東京とうきょうスタジアムでの出来事できごとはなしたら、醍醐だいごから「おぼえているよ、あのときか」とおどろかれたという[19]

1987ねん6月16にちナゴヤ球場きゅうじょうでの阪神はんしんせんで、打者だしゃとしてセンターにゴロの打球だきゅうはなったが、北村きたむら照文てるぶみ素早すばや一塁いちるい送球そうきゅうによってセンターゴロでアウトになったことがある。

公式こうしきせんにおいて長嶋ながしま茂雄しげお一茂かずしげ親子おやこ両方りょうほう対戦たいせん経験けいけんがある唯一ゆいいつ投手とうしゅである(オープンせんふくめると山田やまだ久志ひさし経験けいけんしゃ

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1973 中日ちゅうにち 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 3 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
1974 35 3 0 0 0 4 2 2 -- .667 253 64.0 53 10 14 3 0 53 2 0 26 25 3.52 1.05
1975 67 7 1 0 1 9 8 21 -- .529 583 148.1 113 15 25 10 6 117 0 0 53 49 2.98 0.93
1976 60 3 1 0 0 7 8 26 -- .467 589 148.1 116 24 27 6 2 118 2 1 54 49 2.98 0.96
1977 57 8 2 0 0 18 9 9 -- .667 701 170.0 156 33 35 5 4 131 3 1 76 71 3.76 1.12
1978 32 2 0 0 0 10 3 9 -- .769 326 82.0 64 9 21 1 0 46 2 0 22 19 2.09 1.04
1979 24 0 0 0 0 1 0 9 -- 1.000 182 44.2 40 7 14 1 1 33 2 0 18 15 3.00 1.21
1980 35 0 0 0 0 4 3 12 -- .571 224 55.2 52 5 9 2 0 36 0 0 17 17 2.73 1.10
1981 48 1 0 0 0 6 8 8 -- .429 321 76.0 83 10 18 8 2 43 2 0 27 27 3.20 1.33
1982 40 17 1 1 0 9 7 0 -- .563 538 133.0 137 13 24 8 1 56 2 1 52 46 3.11 1.21
1983 24 21 4 0 1 7 4 0 -- .636 535 130.2 135 17 15 1 0 48 0 0 65 53 3.65 1.15
1984 28 27 9 2 1 16 8 0 -- .667 706 168.0 192 24 33 4 0 60 1 0 89 76 4.07 1.34
1985 28 25 5 0 1 8 12 0 -- .400 706 158.1 204 16 40 5 1 66 0 0 83 73 4.15 1.54
1986 26 25 5 0 2 9 9 0 -- .500 653 162.2 156 23 33 5 3 78 2 0 60 57 3.15 1.16
1987 30 23 1 1 0 9 6 0 -- .600 553 130.0 147 19 29 3 1 60 1 0 70 65 4.50 1.35
1988 27 3 0 0 0 4 3 0 -- .571 231 54.2 59 5 13 3 2 34 1 0 25 19 3.13 1.32
1989 24 5 0 0 0 3 4 0 -- .429 252 61.0 61 10 14 1 2 27 0 0 32 32 4.72 1.23
通算つうさん:17ねん 586 170 29 4 6 124 94 96 -- .569 7356 1788.1 1768 240 364 66 25 1006 20 3 769 693 3.49 1.19
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

記録きろく[編集へんしゅう]

はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
  • 1000投球とうきゅう回数かいすう:1983ねん8がつ19にちたい阪神はんしんタイガース17回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、3かいひょう1死目しにめ達成たっせい
  • 100しょう:1986ねん4がつ12にちたいヤクルトスワローズ2回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、先発せんぱつ登板とうばんで6かい1失点しってん ※史上しじょう91にん
  • 1500投球とうきゅう回数かいすう:1986ねん8がつ15にちたい阪神はんしんタイガース20回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、6かいひょう2死目しにめ達成たっせい
  • 500試合しあい登板とうばん:1986ねん9がつ5にちたい阪神はんしんタイガース23回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、先発せんぱつ登板とうばんで7かい3失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅ ※史上しじょう95にん
  • 1000だつ三振さんしん:1989ねん7がつ21にちたいヤクルトスワローズ13回戦かいせん浜松はままつ球場きゅうじょう)、7かいひょうラリー・パリッシュから ※史上しじょう80にん
その記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 29 (1973ねん - 1989ねん
  • 93 (1995ねん
  • 82 (1996ねん - 1997ねん
  • 73 (2004ねん
  • 78 (2012ねん - 2013ねん

関連かんれん情報じょうほう[編集へんしゅう]

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

CM出演しゅつえん[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 流汗りゅうかん悟道ごどう野球やきゅうまなんだ人生じんせい哲学てつがく』(海越かいごし出版しゅっぱんしゃ:1995ねん4がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g プロ野球やきゅう人名じんめい事典じてん 2003(2003ねん日外にちがいアソシエーツ)、294ページ
  2. ^ a b c 近藤こんどう貞雄さだおちょ退場たいじょうがこわくて野球やきゅうができるか』、ドリームクエスト、2000ねん、p158-p160
  3. ^ みながらだもん」入団にゅうだん拒否きょひくつがえした“宴席えんせき交渉こうしょう” まさかの来襲らいしゅうに「返事へんじしちゃった」”. Full-Count(フルカウント) ― 野球やきゅうニュース・速報そくほう・コラム ― (2023ねん4がつ25にち). 2023ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ 鈴木すずき孝政たかまさ 昭和しょうわノート>(12) 星野ほしのせんいち 最後さいご大将たいしょう中日新聞ちゅうにちしんぶんWeb”. 中日新聞ちゅうにちしんぶんWeb. 2021ねん4がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ 「すまない徳武とくたけさん」相次あいついだ監督かんとく休養きゅうよう……波乱はらんの1995ねん 中日新聞ちゅうにちしんぶん、2022ねん4がつ30にち閲覧えつらん
  6. ^ おれ、いらないのかな」落合おちあいりゅうを1ねんったワケ 「入院にゅういんしろ」拒否きょひしてせた“意地いじ
  7. ^ 来季らいき契約けいやくについて中日ちゅうにち球団きゅうだん公式こうしきサイト2013ねん10がつ4にち配信はいしん
  8. ^ 鈴木すずき孝政たかまさ中日ちゅうにちOB会長かいちょう就任しゅうにんりゅうたましいもえかち頑張がんばれ」 - 日刊にっかんスポーツ2015ねん11月29にち配信はいしん
  9. ^ 中日ちゅうにち しんOB会長かいちょう鈴木すずき就任しゅうにん落合おちあいGMとの雪解ゆきど期待きたい - 2015ねん11月30にち 1600ふん配信はいしん
  10. ^ 鈴木すずき孝政たかまさがベースボールアカデミー校長こうちょう就任しゅうにん - 中日ちゅうにち球団きゅうだん公式こうしきサイト2015ねん12月16にち配信はいしん
  11. ^ 中日ちゅうにちドラゴンズOBかい鈴木すずき孝政たかまさ会長かいちょう退任たいにん小松こまつ辰雄たつおさんがしん会長かいちょうに「なにとかバックアップできるようにやっていきたい」 - 中日ちゅうにちスポーツ東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ
  12. ^ 鈴木すずき孝政たかまさ昭和しょうわノート⑪ 権藤ごんどうひろし復活ふっかつへの金言きんげん (中日新聞ちゅうにちしんぶん2020ねん6がつ13にち朝刊ちょうかん21ぺーじ
  13. ^ 地方ちほうくと、運転うんてんしゅさんに取材しゅざいするのが大好だいすきです。名物めいぶつも、みせ情報じょうほうも。 もと中日ちゅうにちドラゴンズ投手とうしゅ野球やきゅう解説かいせつしゃ 鈴木すずき孝政たかまささん”. めいタクeye. 名鉄めいてつ交通こうつう. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  14. ^ おれ、いらないのかな」落合おちあいりゅうを1ねんったワケ 「入院にゅういんしろ」拒否きょひしてせた“意地いじ
  15. ^ 2012ねん刊行かんこうされたもり繁和しげかず著書ちょしょ参謀さんぼう』では直接ちょくせつ当人とうにんこといたわけではいのだが、就任しゅうにんしたばかりの当時とうじ落合おちあい監督かんとくが「ヘッドじゃない」という記述きじゅつ後述こうじゅつ配置はいち転換てんかんのち退団たいだんしたとなっていることから鈴木すずきことおもわれる。
  16. ^ 落合おちあい博満ひろみつ 監督かんとく最初さいしょ組閣そかく「イメージどおりとそうでない2とおり…(情報じょうほうを)らすひともいてね」”. スポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ. 2023ねん12月28にち閲覧えつらん
  17. ^ もり繁和しげかず×二宮にのみや清純せいじゅん前編ぜんぺん>「いまだからはなせるオレりゅう真実しんじつ情報じょうほう漏洩ろうえいふせげ!”. 講談社こうだんしゃ. 2023ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  18. ^ おれ、いらないのかな」落合おちあいりゅうを1ねんったワケ 「入院にゅういんしろ」拒否きょひしてせた“意地いじ”. Full-Count. 2023ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  19. ^ “【ボクのおもSTADIUM】東京とうきょうスタジアム&駒沢こまざわ球場きゅうじょう. 中日ちゅうにちスポーツ. 中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ. (2016ねん4がつ20日はつか). https://web.archive.org/web/20160420095223/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016042002100014.html 2016ねん9がつ17にち閲覧えつらん [リンク]

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