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加藤かとう伸一しんいち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
加藤かとう 伸一しんいち
KMGホールディングス硬式こうしき野球やきゅう 監督かんとく #80
福岡ふくおかソフトバンクホークス一軍いちぐん投手とうしゅコーチ時代じだい
(2014ねん5がつ29にち
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 鳥取とっとりけん倉吉くらよし
生年月日せいねんがっぴ (1965-07-19) 1965ねん7がつ19にち(59さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
181 cm
81 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1983ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1984ねん4がつ30にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 2004ねん9月24にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき

加藤かとう 伸一しんいち(かとう しんいち、1965ねん7がつ19にち - )は、鳥取とっとりけん倉吉くらよし出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん

経歴けいれき

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プロまえ

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倉吉くらよしきた高校こうこう1ねん1981ねんから速球そっきゅう投手とうしゅとして期待きたいされ、練習れんしゅう試合しあいではあるが、鳥取とっとり西にしせんノーヒットノーラン記録きろくしている。最上級さいじょうきゅうせい進級しんきゅうした1983ねんにはチームの不祥事ふしょうじ対外たいがい試合しあい禁止きんし処分しょぶんとなってしまい、結局けっきょく加藤かとう公式こうしきせん登板とうばんは2ねん1982ねんなつの2試合しあい(5-0倉吉くらよし工業こうぎょう高校こうこう)および(3-8鳥取とっとり城北しろきた高校こうこう)であったが、鳥取とっとり城北しろきた高校こうこうせん試合しあいでの登板とうばんがスカウトたちとどまった。同年どうねんドラフト会議かいぎにて南海なんかいホークスから1指名しめいけ、入団にゅうだん鳥取とっとりけん高校生こうこうせいとして史上しじょうはつのドラフト1指名しめいでもあった。当日とうじつ学生がくせいふくのまま校内こうない部員ぶいんらに胴上どうあげされている映像えいぞうがニュースでながれた。担当たんとうスカウト杉浦すぎうら正胤まさたね[1]

南海なんかい・ダイエー時代じだい

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シュート武器ぶきとして1ねん1984ねんシーズンから活躍かつやくし、中継なかつぎやおさえでの登板とうばんおおかったが、5しょう4はい4セーブ・防御ぼうぎょりつ2.76の成績せいせきのこした。セーブすう高卒こうそつ新人しんじん歴代れきだい最多さいた

同年代どうねんだいである藤本ふじもと修二しゅうじ畠山はたけやまじゅんともに「トリオ・ザ・10代」とばれた。

1985ねんシーズンからは先発せんぱつとしてげ、阪急はんきゅうとの開幕かいまくだい2せんでプロはつ完投かんとう勝利しょうり。オールスターゲームまでに防御ぼうぎょりつ3.25で8しょうをあげ、監督かんとく推薦すいせんでオールスターにはつ出場しゅつじょうした。後半こうはんみぎひじに違和感いわかんおぼえたのち[2]登板とうばん間隔かんかくけたりリリーフにまわったりするなど最終さいしゅうてきにシーズントータルで9しょう11はい1セーブ・防御ぼうぎょりつ4.09であった。

1986ねんシーズンもみぎひじつう影響えいきょうで3しょう10はい2セーブ・防御ぼうぎょりつ4.68と精彩せいさいく。

1987ねんシーズンは防御ぼうぎょりつ3てんだいりょうしたものの、14試合しあいで4しょう5はいわった。

1988ねん防御ぼうぎょりつ4.54とふたた安定あんていかんいたが、8しょう10はい3セーブの成績せいせきのこした。

1989ねんには、球団きゅうだんめいが「福岡ふくおかダイエーホークス」となる。3月に博多はかたえき井筒屋いづつや壁面へきめん成長せいちょうかぶ同僚どうりょうである佐々木ささきまことおなどし同期どうき入団にゅうだん)と「福岡ふくおかの、あたらしいかおです」というコピーとともに、しん球団きゅうだん真新まあたらしいユニフォームにをつつんだ全身ぜんしん写真しゃしん垂幕たれまくかざられた。移転いてん1ねん同年どうねんは、開幕かいまく3せん日本にほんハムせんでダイエー球団きゅうだんとしてのはつ勝利しょうりをあげるなど、自身じしんはつの2けた勝利しょうりとなる12しょうげた。

1990ねんシーズンは、田淵たぶち幸一こういちしん監督かんとくから開幕かいまく投手とうしゅ指名しめいされていたが[3]、キャンプを右肩みぎかた関節かんせつ周囲しゅういえん離脱りだつすると、そのままプロはじめて一軍いちぐん登板とうばんなしにわった。

1991ねんは2ねんぶりに一軍いちぐん登板とうばんし、4がつ21にち日本にほんハムせんで550にちぶりに勝利しょうり投手とうしゅとなる。14試合しあいで2しょう7はい防御ぼうぎょりつ6.03にわったが、登板とうばん間隔かんかく前半ぜんはんせんつき2かいペースだったのが8がつ以降いこうしゅう1かい登板とうばんするまでに回復かいふくした。

1992ねんシーズンはキャンプでふたた右肩みぎかた悪化あっかしたため、7がつ右肩みぎかた手術しゅじゅつけた。

1993ねんシーズンも右肩みぎかたのリハビリのため一軍いちぐん登板とうばんなしにわった。

1994ねんシーズンはリハビリから復帰ふっきし、オープンせん結果けっかのこしてローテーションりした。5度目どめ先発せんぱつ登板とうばんとなった5月18にち近鉄きんてつせんで998にちぶりに勝利しょうり投手とうしゅとなる。7月5にちのロッテせんで1721にちぶりの完投かんとう勝利しょうりをあげるなど、17試合しあいで3しょう5はい防御ぼうぎょりつ4.82の成績せいせきのこし、完全かんぜん復活ふっかつへの足掛あしがかりをつかんだかにえた[4]

1995ねんシーズンは故障こしょう出遅でおくれてぐん登板とうばん可能かのうになったころには一軍いちぐんはBクラスに低迷ていめいし、若手わかて中心ちゅうしん起用きようわっていたため一軍いちぐん登板とうばんできず、同年どうねんのシーズンオフに戦力せんりょくがい通告つうこくけた。

広島ひろしま時代じだい

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1996ねんシーズンに広島東洋ひろしまとうようカープにテスト入団にゅうだんたす。オープンせん期間きかんちゅう肉離にくばなれを発症はっしょうしたが、それをかくして開幕かいまくから先発せんぱつローテーションりし、2度目どめ登板とうばんの4がつ17にち横浜よこはませんで643にちぶりの勝利しょうり投手とうしゅとなった[1]。6ねんぶりに規定きてい投球とうきゅうかいたっして9しょうげ、カムバックしょう獲得かくとくするなどふたた活躍かつやくせる。

1997ねんシーズンは1しょう5はい防御ぼうぎょりつも7てんだい不調ふちょうわった。オフの契約けいやく更改こうかい球団きゅうだんがわ減額げんがく制限せいげん大幅おおはばえる契約けいやく金額きんがく提示ていじれる。れの条件じょうけんとして、翌年よくねんオフに自由じゆう契約けいやくになって退団たいだんする約束やくそく球団きゅうだんがわにとりつけた。

1998ねんシーズンは年間ねんかんつうじてローテーションをまもり、安定あんていかんのある投球とうきゅう規定きてい投球とうきゅう回数かいすうをクリアし、防御ぼうぎょりつ自己じこ最高さいこうの2.99で8しょう6はい成績せいせきおさめた。8月時点じてんでは防御ぼうぎょりつ2てんだい規定きてい投球とうきゅうかい到達とうたつ微妙びみょう状況じょうきょうだったが、秋口あきぐち加藤かとうがオフに退団たいだんすることをった広島ひろしま監督かんとく三村みつむら敏之としゆきによる、加藤かとう好条件こうじょうけん移籍いせきできるようにとの配慮はいりょにより、シーズン最終さいしゅう登板とうばん規定きてい投球とうきゅうかい防御ぼうぎょりつ2てんだい達成たっせいした[5](なお三村みつむらもこのとしかぎりで監督かんとく退任たいにんした)。

その前年ぜんねんオフの球団きゅうだんとの約束やくそく口約束くちやくそくにすぎなかった[5]が、約束やくそくどお自由じゆう契約けいやくになった。もっとも、約束やくそく内容ないようは2021ねん加藤かとう自身じしんがコラムでべるまでおおやけにされていなかったため[5]ながらくチーム若返わかがえりのための放出ほうしゅつほうじられてきた[6][7]

オリックス時代じだい

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1999ねんシーズンにはオリックス・ブルーウェーブ移籍いせき自由じゆう契約けいやくではあったが、前年ぜんねんより大幅おおはば好条件こうじょうけん推定すいてい年俸ねんぽう2,200まんえん→6,000まんえん)の契約けいやくとなった。このとし故障こしょう出遅でおくれて一軍いちぐんはつ登板とうばん6がつであったこともあり6しょうにとどまったが、自己じこ最多さいたでリーグトップタイの3完封かんぷうとリーグトップの四球しきゅう完投かんとう3かい記録きろくするなどの活躍かつやくせた。

2000ねんシーズンは3しょう6はいわる。

2001ねん先発せんぱつ一角いっかくとして5月はやくも6しょうをあげる。シーズン通算つうさんではチームトップの投球とうきゅうかいげ、12ねんぶりにけた勝利しょうりとなるチーム1の11しょうげた。なおこのとし小倉おぐらひさしも2けた勝利しょうりげたが、チームでは2002ねんシーズンから2004ねんシーズンオフに近鉄きんてつ合併がっぺいするまでに2けた勝利しょうりげた投手とうしゅがいなかったことから小倉おぐらともにブルーウェーブ時代じだい最後さいごの2けた勝利しょうり投手とうしゅとなった。2001ねんシーズンオフにFA大阪おおさか近鉄きんてつバファローズ移籍いせき。ダイエーを自由じゆう契約けいやくになり広島ひろしま移籍いせきした以降いこう福岡ふくおかきょかまえていることをこう材料ざいりょうにオリックスからFA宣言せんげんには当時とうじのダイエーもこえをかけ、交渉こうしょうおこなったが不首尾ふしゅびわった。

人的じんてき補償ほしょうとして近鉄きんてつユウキがオリックスへ移籍いせき

近鉄きんてつ時代じだい

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移籍いせき1ねんの2002ねん4がつ1にち開幕かいまく3せん西武せいぶライオンズたたかえ大阪おおさかドーム)に移籍いせきはつ先発せんぱつしたがKOされるなど、故障こしょうにもくるしみ、わずか2試合しあいにしか登板とうばんできず勝利しょうりわる。

2003ねんシーズンは6しょう6はい成績せいせきのこすも、2004ねんシーズンは2しょうしかげられず、10月6にち戦力せんりょくがい通告つうこくけた[8]。その近鉄きんてつ古巣ふるすのオリックスと合併がっぺいし、オリックスと新規しんき参入さんにゅう球団きゅうだん東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルスにそれぞれ近鉄きんてつとオリックスの選手せんしゅける分配ぶんぱいドラフトおこなわれたが加藤かとう戦力せんりょくがいのため分配ぶんぱいドラフトの対象たいしょうはいらなかった。そして獲得かくとくオファーする球団きゅうだんもなく現役げんえき引退いんたい。これまでの現役げんえき生活せいかつすうかいのAクラス経験けいけんはあったもののいち優勝ゆうしょう経験けいけんできなかった。

なお、加藤かとう近鉄きんてつ球団きゅうだん唯一ゆいいつのFA獲得かくとく選手せんしゅであった。

引退いんたい

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2005ねんより福岡ふくおか拠点きょてん解説かいせつしゃとしての活動かつどうおこない、ホークスのOBとして野球やきゅう教室きょうしつ参加さんかすることもあった。RKB毎日放送まいにちほうそう解説かいせつしゃ日刊にっかんスポーツ評論ひょうろんつとめるかたわら、プロ野球やきゅうマスターズリーグ福岡ふくおかドンタクズ」に参加さんか同年どうねんには故郷こきょう鳥取とっとり社会しゃかいじん野球やきゅうチーム・鳥取とっとりキタロウズ創設そうせつかかわり、監督かんとくつとめ、選手せんしゅ登録とうろくもされていたとされる。

2011ねんからはソフトバンクぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにんし、あさひ千賀せんがひろしだいいわ嵜翔飯田いいだゆうよしみわたる新也しんや一軍いちぐんおく[9]

2014ねん一軍いちぐん投手とうしゅコーチとなり秋季しゅうきキャンプまでつと[10]同年どうねん12がつ26にち編成へんせい育成いくせい育成いくせい担当たんとう就任しゅうにんすることが発表はっぴょうされた[11]

2016ねんかぎりで退任たいにん

2017ねんからRKB毎日まいにち放送ほうそうおもRKBラジオ本数ほんすう契約けいやく)・TOKYO MX(2021ねん~)・FOX SPORTSスポーツライブ+解説かいせつしゃ復帰ふっきするかたわら、東京とうきょうスポーツ評論ひょうろんにも復帰ふっき山内やまうち孝徳たかのりわって九州きゅうしゅう三菱自動車みつびしじどうしゃ硬式こうしき野球やきゅうげんKMGホールディングス硬式こうしき野球やきゅう投手とうしゅコーチにも就任しゅうにんし、だい88かい都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかいではなが低迷ていめいつづいていたチームを5ねんぶりにほん大会たいかい出場しゅつじょうみちびいた[12]2022ねんシーズンよりどうチームの監督かんとく就任しゅうにんした[13]社内しゃない野球やきゅうのコーチができるOBもいなかったことからホークス時代じだいから気心きごころれていた上谷うえたにひろし宮地みやじ克彦かつひここえをかけ、ともにチームの強化きょうかちからそそぎ、2023ねんだい48かい社会しゃかいじん野球やきゅう日本にっぽん選手権せんしゅけん大会たいかいではチームを5ねんぶりにほん大会たいかい出場しゅつじょうみちびいた[14]

人物じんぶつ

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いわゆる昭和しょうわ40ねんまれの選手せんしゅ構成こうせいされた「40ねんかい一員いちいんで、どうかい会員かいいん古田ふるたあつし山本やまもとあきら佐々木ささきまこと八木やぎひろし水野みずのつよしひとし吉井よしいじん池山いけやまたかしひろし香田こうだ勲男いさお紀藤きとう真琴まこと村上むらかみ隆行たかゆき長嶋ながしま一茂かずしげら(『ボクたち同級生どうきゅうせい!プロ野球やきゅう昭和しょうわ40ねんかいVS48ねんかい』〈関西かんさいテレビ放送ほうそう〉)。

加藤かとう世代せだいでは色白いろじろ細面ほそおもて西崎にしざきにちハム)や阿波あわ近鉄きんてつ)が「トレンディ」「イケメン」とさわがれ、いわゆるソースがお加藤かとうがそう文脈ぶんみゃく話題わだいになることはなかったが「プロ野球やきゅうニュース」で南海なんかい時代じだい加藤かとう取材しゅざいした平松ひらまつ政次まさじは「俳優はいゆうにしたいような美男びなんだ」とかたった。

プロ投手とうしゅコーチは河村かわむら英文ひでふみで、加藤かとうはプロとしての心構こころがまえを河村かわむらおそわったとかたっている[15]公私こうしともに親交しんこうがある恩師おんしであり、移籍いせき相談そうだん河村かわむらにしていた。オリックスへの移籍いせきめたのは、オリックス投手とうしゅコーチ就任しゅうにん内定ないていしていた河村かわむら移籍いせき交渉こうしょう同席どうせきしたことも理由りゆうひとつとなった[16]

長男ちょうなんだいたか大学だいがく卒業そつぎょう九州きゅうしゅう三菱自動車みつびしじどうしゃ投手とうしゅとして入部にゅうぶ、マネージャーに転身てんしん加藤かとう監督かんとく就任しゅうにんして以降いこう父子ふしでチーム改革かいかくんでいる[17]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1984 南海なんかい
ダイエー
33 3 0 0 0 5 4 4 -- .556 314 75.0 62 7 37 4 1 46 0 0 25 23 2.76 1.32
1985 34 21 9 1 0 9 11 1 -- .450 818 189.1 180 32 87 5 9 79 2 1 100 86 4.09 1.41
1986 22 15 6 0 0 3 10 2 -- .231 469 107.2 105 20 46 4 4 52 3 0 61 56 4.68 1.40
1987 14 12 2 1 1 4 5 0 -- .444 332 78.0 87 0 22 0 2 31 1 0 33 28 3.23 1.40
1988 27 22 2 0 1 8 10 3 -- .444 607 138.2 164 20 42 2 4 53 3 0 77 70 4.54 1.49
1989 26 25 8 2 0 12 8 1 -- .600 758 176.2 193 19 62 6 7 68 3 0 81 72 3.67 1.44
1991 14 14 1 0 0 2 7 0 -- .222 348 77.2 97 12 24 2 2 24 1 0 54 52 6.03 1.56
1994 17 16 1 0 0 3 5 0 -- .375 346 80.1 88 6 25 1 4 32 1 0 44 43 4.82 1.41
1996 広島ひろしま 25 25 2 1 0 9 7 0 -- .563 644 152.1 159 12 35 1 3 55 1 2 71 64 3.78 1.27
1997 17 9 0 0 0 1 5 0 -- .167 231 49.1 72 13 14 1 4 18 3 1 42 41 7.48 1.74
1998 22 22 3 1 0 8 6 0 -- .571 608 141.2 157 15 27 1 5 62 5 2 64 47 2.99 1.30
1999 オリックス 19 17 4 3 3 6 5 1 -- .545 402 98.2 99 8 20 0 3 44 1 2 40 38 3.47 1.21
2000 24 14 4 0 0 3 6 0 -- .333 402 94.0 103 15 23 0 2 42 1 3 57 52 4.98 1.34
2001 27 26 2 0 0 11 7 0 -- .611 703 168.1 175 27 45 1 3 92 1 1 78 69 3.69 1.31
2002 近鉄きんてつ 2 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 40 7.1 14 2 3 0 1 4 1 0 8 8 9.82 2.32
2003 16 16 0 0 0 6 6 0 -- .500 355 82.0 98 10 21 1 5 23 1 0 46 39 4.28 1.45
2004 11 10 0 0 0 2 3 0 -- .400 216 47.1 63 13 12 0 3 18 2 0 39 37 7.04 1.58
通算つうさん:17ねん 350 269 44 9 5 92 106 12 -- .465 7593 1764.1 1916 231 545 29 62 743 30 12 920 825 4.21 1.39
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう
  • 南海なんかい南海なんかいホークス)は、1989ねんにダイエー(福岡ふくおかダイエーホークス)に球団きゅうだんめい変更へんこう

表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
  • はつ登板とうばん:1984ねん4がつ30にちたい西武せいぶライオンズ6回戦かいせん大阪おおさかスタヂアム)、6かいひょう1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん、2かい2/3を1失点しってん
  • はつだつ三振さんしん同上どうじょう、6かいひょう秋山あきやま幸二こうじから
  • はつ勝利しょうり:1984ねん5がつ5にちたいロッテオリオンズ7回戦かいせん大阪おおさかスタヂアム)、9かいひょうに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい失点しってん
  • はつ先発せんぱつ:1984ねん5がつ11にちたい阪急はんきゅうブレーブス7回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、7かい1/3を3失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅ
  • はつセーブ:1984ねん7がつ31にちたい西武せいぶライオンズ19回戦かいせん大阪おおさかスタヂアム)、8かいひょうに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい1失点しってん自責じせきてん0)
  • はつ先発せんぱつ勝利しょうりはつ完投かんとう勝利しょうり:1985ねん4がつ7にちたい阪急はんきゅうブレーブス2回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、9かい4失点しってん
  • はつ完封かんぷう勝利しょうり:1985ねん6がつ17にちたい近鉄きんてつバファローズ14回戦かいせん大阪おおさかスタヂアム)
節目ふしめ記録きろく
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 17 (1984ねん - 1995ねん
  • 12 (1996ねん - 1998ねん
  • 1 (1999ねん - 2001ねん
  • 14 (2002ねん - 2004ねん
  • 72 (2011ねん - 2014ねん
  • 44 (2017ねん - )

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】患部かんぶをぐるぐるきにテーピングしてのぞんだ移籍いせきはつ登板とうばん | ひがしスポのプロ野球やきゅうかんするニュースを掲載けいさい
  2. ^ 加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】はつ出場しゅつじょう球宴きゅうえん 400しょう投手とうしゅ金田かねださんから金言きんげんいただいて
  3. ^ [1]
  4. ^ 加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】998にちぶり白星しろぼしにもなみだはなし! ゴールではなくスタートだ
  5. ^ a b c 加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】広島ひろしま三村みつむら監督かんとく感謝かんしゃ「こんなにやさしいプロ野球やきゅう指揮しきかんぼくりません」加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】広島ひろしま三村みつむら監督かんとく感謝かんしゃ「こんなにやさしいプロ野球やきゅう指揮しきかんぼくりません」
  6. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1998ねん12がつ10日とおか大阪おおさか朝刊ちょうかん33めん
  7. ^ ざいばん球団きゅうだん所属しょぞく加藤かとう伸一しんいち指名しめい裏側うらがわ/パ伝説でんせつ
  8. ^ 近鉄きんてつ赤堀あかほり加藤かとうら8選手せんしゅ戦力せんりょくがい通告つうこく」『読売新聞よみうりしんぶん』(縮刷しゅくさつ関東かんとうばん) 2004ねん平成へいせい16ねん)10がつ7にちづけ朝刊ちょうかん、22めん(スポーツめん)。
  9. ^ 加藤かとう伸一しんいち コーチ #72 うながすのはマウンドでの自立じりつ 週刊しゅうかんベースボール、2014ねん12月26にち
  10. ^ コーチの退団たいだんについて 福岡ふくおかソフトバンクホークス公式こうしきサイト 2014ねん11月8にち配信はいしん
  11. ^ ソフトB 石渡いしわたしげるふく本部ほんぶちょう補佐ほさ就任しゅうにん スポーツニッポン、2014ねん12月26にち
  12. ^ ドーム出場しゅつじょうちからもとダイエー・加藤かとう伸一しんいちさん毎日新聞まいにちしんぶん 2017ねん7がつ4にちづけ 2017ねん7がつ6にち閲覧えつらん
  13. ^ 加藤かとう伸一しんいちがKMGホールディングス監督かんとく就任しゅうにん結果けっかにこだわりたい」”. 東京とうきょうスポーツ. (2021ねん11月29にち). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/128009 2022ねん1がつ4にち閲覧えつらん 
  14. ^ “ダイエーなどで活躍かつやくしたKMGホールディングス加藤かとう伸一しんいち監督かんとく 就任しゅうにん2ねん全国ぜんこく切符きっぷ胴上どうあげは未経験みけいけんだったんです…」【社会しゃかいじん野球やきゅう日本にっぽん選手権せんしゅけん九州きゅうしゅう予選よせん】”. 西にしスポ. (2023ねん9がつ24にち). https://nishispo.nishinippon.co.jp/article/795693 2023ねん9がつ26にち閲覧えつらん 
  15. ^ 加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】西鉄にしてつ黄金おうごんささえた英文ひでふみさんにおそわった“イズム”
  16. ^ 加藤かとう伸一しんいち連載れんさいコラム】98ねんオフ オリックスとのはつ交渉こうしょうおどろくべき人物じんぶつ同席どうせき!!
  17. ^ チーム変革期へんかくきささえるKMGマネジャー 監督かんとくちちいど日本にっぽん選手権せんしゅけん毎日新聞まいにちしんぶん 2023ねん11月9にち

関連かんれん情報じょうほう

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出演しゅつえん番組ばんぐみ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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