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川崎かわさき憲次けんじろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎かわさき 憲次けんじろう
2012ねん10がつ15にち
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 大分おおいたけん佐伯さいき
生年月日せいねんがっぴ (1971-01-08) 1971ねん1がつ8にち(53さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
182 cm
87 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1988ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1989ねん5がつ9にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 2004ねん10がつ3にち引退いんたい試合しあい
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

川崎かわさき 憲次けんじろう(かわさき けんじろう、1971ねん1がつ8にち - )は、大分おおいたけん佐伯さいき[1]出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)、野球やきゅう解説かいせつしゃ野球やきゅう指導しどうしゃつまほり恵子けいこ長女ちょうじょはモデルの川崎かわさききん

1988年度ねんどのドラフト会議かいぎセントラル・リーグ(セ・リーグ)のヤクルトスワローズから1指名しめいけて入団にゅうだんし、1989ねん - 2000ねんはヤクルトで[2]2001ねん - 2004ねんおなじセ・リーグの中日ちゅうにちドラゴンズでプレーした。ヤクルト時代じだい主力しゅりょく投手とうしゅとして活躍かつやく[2]通算つうさん12年間ねんかん実働じつどう11年間ねんかん)で234試合しあい登板とうばんして88かちげたが[3]、うちたい読売よみうりジャイアンツ巨人きょじんせんげた勝利しょうりすうが29にのぼっていたことから「巨人きょじんキラー」とばれた[2]1998ねんにはシーズン17しょうげてセ・リーグの最多さいたしょう投手とうしゅになり、沢村さわむら栄治えいじしょう獲得かくとくしている。2000ねんオフにフリーエージェント (FA) 中日ちゅうにち移籍いせきしてからも活躍かつやく期待きたいされたが[2]中日ちゅうにち時代じだい怪我けがなやまされて1しょうもできず、2004ねんかぎりで現役げんえき引退いんたいした。

経歴けいれき

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プロまえ

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佐伯さえき市立しりつ鶴岡つるおか小学校しょうがっこう佐伯さえき市立しりつ佐伯さえき城南じょうなん中学校ちゅうがっこう出身しゅっしん[2]大分おおいた県立けんりつ津久見つくみ高等こうとう学校がっこう3ねん1988ねん甲子園こうしえん大会たいかいだい60かい選抜せんばつ高等こうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかいおよだい70かい全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいはるなつ連続れんぞく出場しゅつじょうした。とくだい70かい大会たいかいではこん大会たいかいNO.1右腕うわん称号しょうごうげ3回戦かいせんこん大会たいかいNO.1左腕さわん篠田しのだあつしようする大垣商おおがきしょうつも準々じゅんじゅん決勝けっしょう優勝ゆうしょうする広島ひろしま商業しょうぎょう対戦たいせんし、0ー5でやぶれるものの、はるなつ連続れんぞくでベスト8に進出しんしゅつする[4]

1988年度ねんどのドラフト会議かいぎ読売よみうりジャイアンツ巨人きょじん)とヤクルトスワローズが1指名しめい競合きょうごうし、抽選ちゅうせん結果けっかヤクルトが交渉こうしょうけん獲得かくとくのち契約けいやくきん6000まんえん年俸ねんぽう480まんえん金額きんがく推定すいてい)で合意ごうい[5][6]

ヤクルト時代じだい

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1989ねん(1ねん)は13試合しあい先発せんぱつし、巨人きょじんせんでのはつ完封かんぷう勝利しょうりふくむ4しょうげた。

1990ねんには先発せんぱつローテーション定着ていちゃくして26試合しあい先発せんぱつ登板とうばんし、投球とうきゅうかい202.1、12しょう13はい防御ぼうぎょりつ4.05、だつ三振さんしん154の成績せいせきのこした。また同年どうねんは15完投かんとう、4完封かんぷう記録きろくした。9月8にちたい巨人きょじんせん東京とうきょうドーム)では、吉村よしむらただしあきら巨人きょじん優勝ゆうしょうめるサヨナラ本塁打ほんるいだびた[ちゅう 1]

1991ねんは25試合しあい先発せんぱつ登板とうばんして191.2投球とうきゅうかい記録きろく、14しょう9はい防御ぼうぎょりつ2.91、だつ三振さんしん148の成績せいせきのこし、チームにとって11ねんぶりとなるAクラスりに貢献こうけんした。同年どうねんげた14しょう西村にしむら龍次りゅうじ(15しょう)にぐチーム2で、前年ぜんねんから2ねん連続れんぞくとなる15完投かんとう(3完封かんぷう)を記録きろくした。

1992ねんチームは14ねんぶりのセ・リーグ優勝ゆうしょうたしたものの、自身じしん故障こしょうでシーズン一軍いちぐん登板とうばんわる。

1993ねん先発せんぱつローテーションに復帰ふっきして10しょう9はい防御ぼうぎょりつ3.48、だつ三振さんしん108の成績せいせきカムバックしょう受賞じゅしょう西武せいぶライオンズとの日本にっぽんシリーズでは2しょうげシリーズMVPに選出せんしゅつされた[7]

1994ねん自身じしんはつ開幕かいまく投手とうしゅ抜擢ばってきされ見事みごと勝利しょうり投手とうしゅになったが、年間ねんかんとおしては不振ふしん投球とうきゅう目立めだち、8がつあたま怪我けがぐんイースタン・リーグ)に降格こうかくするとそのまま一軍いちぐん復帰ふっきすることができないままシーズンをえてしまった。

1995ねん可愛かわいかずみとの交際こうさい発覚はっかくする[8]

その故障こしょうによって成績せいせき下降かこうしたが、1997ねんシュートおぼえて復活ふっかつ以降いこう周囲しゅういから「シュート馬鹿ばか」「シュートしかストライクがはいらない」とひょうされるほどのシュートとく投手とうしゅとしてせた[9]。シーズンオフの11月にキャンペーンガール女優じょゆうほり恵子けいこ結婚けっこん

1998ねんは28試合しあい先発せんぱつ登板とうばんして投球とうきゅうかい204.1、17しょう10はい防御ぼうぎょりつ3.04、94だつ三振さんしん成績せいせきげ、セ・リーグの最多さいたしょう投手とうしゅ獲得かくとくした。また9完投かんとう、3完封かんぷう、2四球しきゅうはいずれもリーグ最多さいただった。同年どうねんオフには沢村さわむらしょう贈呈ぞうていされたが、シーズンだつ三振さんしんが100未満みまん投手とうしゅ沢村さわむらしょう選出せんしゅつされた事例じれいはNPB史上しじょう唯一ゆいいつである。

1999ねんは24試合しあい先発せんぱつ登板とうばんして7しょう11はい防御ぼうぎょりつ3.85、だつ三振さんしん79という成績せいせきだった。

ヤクルト最終さいしゅうねん2000ねん一軍いちぐんで20試合しあい登板とうばんして8しょう10はい防御ぼうぎょりつ3.55の成績せいせきで、たい巨人きょじんせんでは5しょう2はい防御ぼうぎょりつ1.84(投球とうきゅう回数かいすう63かい2/3)だった[10]どうシーズン終了しゅうりょうフリーエージェント(FA)けん行使こうし宣言せんげんした当初とうしょ川崎かわさき本人ほんにんかんがえていた選択肢せんたくしは「ヤクルト残留ざんりゅう」「かねてからあこがれていたMLB挑戦ちょうせん」の2だったが、川崎かわさき宣言せんげんのヤクルト球団きゅうだん対応たいおう不満ふまんいだき、次第しだいにその心情しんじょう移籍いせきかたむいてった[11]一方いっぽう星野ほしのせんいち監督かんとくつとめていた中日ちゅうにちドラゴンズはFA宣言せんげん同時どうじ獲得かくとく名乗なのりを[11][2]、MLBのボストン・レッドソックス川崎かわさき獲得かくとく意向いこうしめした[ちゅう 2][12]

最終さいしゅうてきには星野ほしの中日ちゅうにち球団きゅうだん幹部かんぶ熱心ねっしんびかけによりFA宣言せんげんからやく1週間しゅうかんには「国内こくない移籍いせきするなら中日ちゅうにちにしよう」という意思いしつよくなり、やく1かげつにMLB移籍いせき断念だんねんした段階だんかい中日ちゅうにち移籍いせきする意思いし最終さいしゅうてきかた[11]、12月17にち移籍いせき表明ひょうめい[13]契約けいやく内容ないよう年俸ねんぽう2おくえんの4ねん契約けいやく(3年間ねんかん総額そうがく6おくえん+4ねん本人ほんにん選択せんたくけんあり)だった[ちゅう 3][15]どうシーズンの中日ちゅうにちはリーグ2ではあったが巨人きょじんせんで9しょう18はいおおきくしており[ちゅう 4][2][16]同年どうねんまでにたい巨人きょじんせんで(当時とうじ現役げんえき選手せんしゅとしては最多さいたの)通算つうさん29しょうげていた川崎かわさきの「巨人きょじんキラー」っぷりをっての補強ほきょう[10]背番号せばんごう杉下すぎしたしげる権藤ごんどうひろし星野ほしの小松こまつ辰雄たつおせんどうれつらエースきゅう投手とうしゅたちが背負せおってきたエースナンバーである20いだ[ちゅう 5][16]

川崎かわさき中日ちゅうにち移籍いせき表明ひょうめい直後ちょくご(2000ねん12月20にち)に日本にっぽんプロ野球やきゅう選手せんしゅかい(JPBPA)をつうじて「ヤクルトがMLB・中日ちゅうにちから提示ていじされた条件じょうけん比較ひかく検討けんとうして最終さいしゅうてき提示ていじした条件じょうけん[ちゅう 6]かり最初さいしょからていればFA宣言せんげんせず残留ざんりゅうしていたかもしれない。ヤクルトとの交渉こうしょうたっては最終さいしゅうてき球団きゅうだん社長しゃちょうから謝罪しゃざい言葉ことばけており、現時点げんじてんではすでにわだかまりはない」とのコメントを掲載けいさいしている[11]

中日ちゅうにち時代じだい

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中日ちゅうにちでは星野ほしのせんいち監督かんとく以下いか首脳しゅのうじんやファンからおおきな期待きたいけられ[16]本人ほんにんも「星野ほしの監督かんとくのぞむように『ジャイアンツ・キラー』として(中日ちゅうにち本拠地ほんきょちナゴヤドームのマウンドにちたい」と抱負ほうふべていた[11]2001ねん公式こうしきファンブックでも「Vの使者ししゃ」「川崎かわさき巨人きょじんせんであと6しょうすれば星野ほしの監督かんとく巨人きょじんせん通算つうさん勝利しょうりすう(35しょう)にならぶが、それが今年ことし達成たっせいされれば中日ちゅうにちの(1999ねん以来いらい)2ねんぶりの優勝ゆうしょうもよりちかくなる」と紹介しょうかいされていたが[2]同年どうねん3がつ14にちのオープンせん大阪おおさか近鉄きんてつバファローズせんみぎ上腕じょうわんさんとうすじ違和感いわかんうったえて途中とちゅう降板こうばんし、同月どうげつ23にちには長期ちょうき離脱りだつ発覚はっかくする[17]同年どうねんぐんウエスタン・リーグ)でわずか1試合しあい(2イニング)をげただけでわり[ちゅう 7][19]中日ちゅうにち川崎かわさき離脱りだつくわえて先発せんぱつ投手とうしゅとして計算けいさんしていた武田たけだ一浩かずひろ川上かわかみけんしんしん外国がいこくじんティム・アンローオジー・ティモンズ)の不調ふちょうなどから5低迷ていめいし、星野ほしのはシーズン閉幕へいまくたず9がつ25にち辞任じにん表明ひょうめいした[20]

監督かんとく山田やまだ久志ひさし交代こうたいした2002ねんぐんで3試合しあい登板とうばんしたのみ(0しょう2はい防御ぼうぎょりつ9.00)で[21]2003ねんぐんウ・リーグで13試合しあい登板とうばんし4しょう4はい防御ぼうぎょりつ5.58)の成績せいせきげたが[ちゅう 8]同年どうねんまで3ねん連続れんぞく一軍いちぐん登板とうばんなしにわった[23]

原因げんいん不明ふめい右肩みぎかた故障こしょうなやまされつつも治療ちりょうのため全国ぜんこくある整体せいたい・鍼・みみツボなどの治療ちりょうこころみたほか、右肩みぎかたのおはらいもけたが症状しょうじょう改善かいぜんせず[24]、2003ねんにはオールスターゲーム球宴きゅうえん)のファン投票とうひょうで「川崎かわさきさい」とばれるインターネットじょういやがらせ騒動そうどうまれた[25]。これをけ、川崎かわさき同年どうねん6がつ23にち選手せんしゅかい公式こうしきホームページに「多少たしょうのケガをおしてプレーしている選手せんしゅもうわけない気持きもちでいっぱい。いま状況じょうきょう出場しゅつじょうすることはできない。1ひょう1ひょう自分じぶんへの叱咤しった激励げきれいだとおもって、1にちでもはや一軍いちぐんげられるように頑張がんばる」と声明せいめいぶん掲載けいさい[26]球宴きゅうえんへの出場しゅつじょう辞退じたいした[27]。2003ねん12月16にちには事前じぜん契約けいやく条項じょうこうにより年俸ねんぽう25%げん(5000まんえんげん)となる年俸ねんぽう1おく5000まんえん契約けいやく更改こうかいしたが[14]、そのさいには「年俸ねんぽうゼロえんでいいからなにとか恩返おんがえしがしたい」とつぶやいていた[28]

2004ねん1がつ3にち、このとしから中日ちゅうにち監督かんとく就任しゅうにんした落合おちあい博満ひろみつ川崎かわさき電話でんわし、4がつ2にち開幕かいまく投手とうしゅげる[ちゅう 9][30][28]川崎かわさきは「すべてをけるつもりで」この突然とつぜん打診だしんけ、いための座薬ざやくやく併用へいようして1,274にちぶりの一軍いちぐんマウンドにのぞんだが[31]開幕かいまくせん初回しょかいこそ0てんおさえたものの、そのまれて1かい1/3を5失点しってん降板こうばんした[30]が、チームは逆転ぎゃくてん勝利しょうりしたため敗戦はいせん投手とうしゅまぬかれた[32]。4月30にちたい横浜よこはまベイスターズせんふたた先発せんぱつするも、1もとれずに5失点しってん降板こうばん敗戦はいせん[33]結局けっきょく、その1はい中日ちゅうにち移籍いせき最初さいしょ最後さいご成績せいせきとなった。2011ねん監督かんとく退任たいにんした落合おちあい退任たいにん会見かいけん監督かんとく時代じだいいちばん印象いんしょうのこった試合しあいについて3年間ねんかん登板とうばんのなかった川崎かわさき開幕かいまく投手とうしゅ指名しめいしたいちせんげた[34]同年どうねんのウ・リーグにおける成績せいせきは、11登板とうばん投球とうきゅうかいは48かい1/3イニング、防御ぼうぎょりつ3.54、4しょう2はい勝率しょうりつ.667、186打数だすう、43安打あんだ本塁打ほんるいだ5)、21失点しってん自責じせきてん19)、あずか四球しきゅう10、22だつ三振さんしんだった[35]最後さいごげた勝利しょうり(4しょう)は、6かいげて22打数だすう3安打あんだ失点しってんおさえた8がつ27にちたい阪神はんしんタイガース後期こうき7回戦かいせん阪神はんしん鳴尾浜なるおはま球場きゅうじょう)だった[36]

チームの優勝ゆうしょうまった翌日よくじつの10がつ2にち落合おちあいから戦力せんりょくがい通告つうこくけて現役げんえき引退いんたい決意けつい[31]。「引退いんたいするなら、明日あしたげろ」との落合おちあいはからいで、よく10がつ3にちたいヤクルトせん引退いんたい試合しあいとしておこなわれた[37]先発せんぱつ投手とうしゅとして登板とうばんした川崎かわさきは、古巣ふるすヤクルトの主力しゅりょく古田ふるたあつし宮本みやもと慎也しんや岩村いわむら明憲あきのり)からさんしゃ三振さんしんうばい、花道かどうかざった[31]試合しあい中日ちゅうにち・ヤクルトりょうナインから胴上どうあげされた[24]

引退いんたい

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2019ねん7がつ11にち

テレビ東京てれびとうきょう(2009ねんまで)、ニッポン放送にっぽんほうそう(2011ねんまで)、J SPORTSフジテレビONE2010ねんにゲスト解説かいせつとして出演しゅつえん)の野球やきゅう解説かいせつしゃとなった。

2005ねんオフに東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルス監督かんとく就任しゅうにんした野村のむら克也かつやから投手とうしゅコーチ就任しゅうにん打診だしんされたが、川崎かわさき解説かいせつしゃとしてすこ外側そとがわから野球やきゅうたいなという気持きもちがあってことわったという[38]。また、テレビ愛知てれびあいちのゲスト解説かいせつしゃとして、テレビ愛知てれびあいち ドラゴンズせん中継ちゅうけい もっと!LIVE2011解説かいせつつとめることもある。

2013ねんからは千葉ちばロッテマリーンズ一軍いちぐんブルペンコーチに就任しゅうにんする[39]就任しゅうにんにあたって登録とうろくめい異体いたいの「かわ憲次けんじろう」としている。9月4にちから体調たいちょう不良ふりょう休養きゅうようした齊藤さいとう明雄あきおわりにベンチ担当たんとうとなり、斉藤さいとう復帰ふっきもベンチを担当たんとうした。

2014ねん10月5にち球団きゅうだんから来季らいき契約けいやくむすばないことが発表はっぴょうされた[40]

2015ねんからはJ SPORTS解説かいせつしゃ

2015ねん以降いこう地元じもと佐伯さいきケーブルテレビ番組ばんぐみ出演しゅつえんして地元じもとをPR活動かつどうしていた。それらの近況きんきょうふくめ、2018ねん2がつ3にちのテレビ東京とうきょうけい追跡ついせきLIVE! Sports ウォッチャー』の密着みっちゃく取材しゅざい特集とくしゅう紹介しょうかいされた[41]

2018ねん3月7にち四国しこくアイランドリーグplus香川かがわオリーブガイナーズ投手とうしゅコーチに就任しゅうにんすることが発表はっぴょうされた[42]。「おも公式こうしきせんわせてチームに合流ごうりゅうし、指導しどうする」とほうじられた[43]。12月12にち今季こんき契約けいやく期間きかん満了まんりょうをもって退団たいだんすることが発表はっぴょうされた[44]

2021ねん3月27にち地元じもと佐伯さいき佐伯さえき中央ちゅうおう病院びょういんスタジアムでおこなわれた九州きゅうしゅうアジアリーグはつ公式こうしきせんで、始球しきゅうしき登板とうばんした[45]

その

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詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1989 ヤクルト 23 13 4 1 0 4 4 1 -- .500 399 98.1 81 12 30 1 0 86 4 0 45 43 3.94 1.13
1990 29 26 15 4 2 12 13 0 -- .480 850 202.1 194 26 73 1 1 154 7 0 97 91 4.05 1.32
1991 28 25 15 3 1 14 9 1 -- .609 772 191.2 159 22 65 2 6 148 4 0 69 62 2.91 1.17
1993 27 20 5 1 0 10 9 0 -- .526 582 139.2 120 13 61 1 0 108 4 0 55 54 3.48 1.30
1994 20 18 4 0 0 6 9 0 -- .400 514 114.2 117 10 52 1 5 67 10 0 69 61 4.79 1.47
1995 7 5 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 124 29.2 28 3 8 1 2 19 0 0 9 6 1.82 1.21
1996 5 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 41 9.1 12 2 2 0 1 2 0 0 4 4 3.86 1.50
1997 22 19 4 1 1 7 5 0 -- .583 496 116.0 118 20 46 2 3 48 8 0 61 54 4.19 1.41
1998 29 28 9 3 2 17 10 0 -- .630 845 204.1 195 22 55 4 3 94 4 0 79 69 3.04 1.22
1999 24 24 6 2 0 7 11 0 -- .389 705 166.0 188 17 41 4 7 79 6 0 71 71 3.85 1.38
2000 20 20 2 0 0 8 10 0 -- .444 576 137.0 136 11 39 3 5 66 2 0 58 54 3.55 1.28
2004 中日ちゅうにち 3 3 0 0 0 0 1 0 -- .000 18 2.1 8 0 3 0 1 3 0 0 9 9 34.71 4.71
通算つうさん:12ねん 237 202 64 15 6 88 81 2 -- .521 5922 1411.1 1356 158 475 20 34 874 49 0 626 578 3.69 1.30
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
  • 1000投球とうきゅうかい:1998ねん7がつ14にちたい阪神はんしんタイガース13回戦かいせん明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅうじょう)、1かいひょう2死目しにめ桧山ひやますすむ次郎じろう一塁いちるいゴロ併殺へいさつ達成たっせい ※史上しじょう277にん
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 17 (1989ねん - 2000ねん
  • 20 (2001ねん - 2004ねん
  • 84 (2013ねん - 2014ねん
  • 81 (2018ねん

登録とうろくめい

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  • 川崎かわさき 憲次けんじろう (かわさき けんじろう、1989ねん - 2004ねん、2018ねん
  • かわ憲次けんじろう (かわさき けんじろう、2013ねん - 2014ねん

関連かんれん情報じょうほう

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著書ちょしょ

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たんちょ

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監修かんしゅう

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関連かんれん書籍しょせき

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  • 『プロ野球やきゅう 戦力せんりょくがい通告つうこくけたおとこたちのなみだ』(美山みやま和也かずや加藤かとうけい田口たぐち元義もとよし共著きょうちょ宝島たからじまSUGOI文庫ぶんこ、2012ねん5がつISBN 9784796697262

出演しゅつえん番組ばんぐみ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 川崎かわさきは、1989ねん吉村よしむらだい怪我けがから復帰ふっきしたはつ打席だせきにも投球とうきゅうし、内野ないやゴロにっている。
  2. ^ レッドソックス以外いがいにもクリーブランド・インディアンスフィラデルフィア・フィリーズシカゴ・カブスコロラド・ロッキーズ獲得かくとく名乗なのりをげていたが、とくにレッドソックスは最終さいしゅうてき提示ていじ条件じょうけんで2ねん契約けいやく最低さいてい保障ほしょうきん5おくえん熱心ねっしん勧誘かんゆうしており、川崎かわさき本人ほんにんも「『アメリカくならここ(レッドソックス)にしよう』とおもった。家族かぞくもMLB挑戦ちょうせん全面ぜんめんてきにサポートする準備じゅんびをしてくれていたが、自分じぶんふく家族かぞく全員ぜんいんしあわせをかんがえて『日本にっぽん残留ざんりゅうほうがベターだ』とかんが断念だんねんした」とべている[11]
  3. ^ 入団にゅうだん当初とうしょは3ねん契約けいやく発表はっぴょうされていたが、実質じっしつてきには4ねん契約けいやくについて川崎かわさきにオプション契約けいやく選択せんたくけんがある契約けいやくだった[14]。なお出来高できだか権利けんりは2003ねんオフの契約けいやく更改こうかい本人ほんにん放棄ほうきしている[14]
  4. ^ 1997ねん - 1999ねん中日ちゅうにち巨人きょじんせんで3ねん連続れんぞくしを記録きろくしていたが、2000ねん本拠地ほんきょちナゴヤドームで2しょう12はい大幅おおはばした[2]
  5. ^ 1999ねんオフにそれまで背番号せばんごう20を着用ちゃくようしていたせん引退いんたいしており、2000ねんシーズンは1年間ねんかん番号ばんごうとなっていた。
  6. ^ その条件じょうけん若松わかまつつとむ監督かんとくやコーチ・選手せんしゅ全員ぜんいん球団きゅうだんに「川崎かわさき残留ざんりゅう」をつよ要望ようぼうした結果けっかされたものだった[11]。なお一部いちぶでは「川崎かわさきがわが3ねん12おくえん契約けいやく要求ようきゅうした」と報道ほうどうされたが、本人ほんにんは「そこまで無謀むぼう条件じょうけんのぞんでいなかった」と否定ひていしている[11]
  7. ^ 2001ねん5がつ12にちナゴヤ球場きゅうじょうひらかれたたいサーパス神戸こうべオリックス・ブルーウェーブぐん)6回戦かいせんにて先発せんぱつ登板とうばんしたが、2かいげ7打数だすう2安打あんだで2番手ばんて投手とうしゅ中里なかさと篤史あつし交代こうたい降板こうばんした[18]
  8. ^ 同年どうねん6がつ25にち開催かいさいされたウ・リーグのたい近鉄きんてつ前期ぜんき8回戦かいせん藤井寺ふじいでら球場きゅうじょう)で、シーズンはつ先発せんぱつ登板とうばんし、5かい1失点しってん打者だしゃ18にんに66きゅうげ、安打あんだ2)で移籍いせきはつ勝利しょうりげている[22]
  9. ^ のち落合おちあいは「投手とうしゅコーチにはなしをせずに(川崎かわさきを)開幕かいまく投手とうしゅめたのは、あのいちきりだ」とかたっている。落合おちあい川崎かわさき開幕かいまく起用きよう理由りゆうについて「補強ほきょうなしのぜん選手せんしゅよこ一線いっせんのチームに刺激しげきあたえることと、先発せんぱつ投手とうしゅについての情報じょうほう漏洩ろうえいがないかをたしかめること」とのちかたっている[29]
  10. ^ 関東かんとう地方ちほう試合しあい中心ちゅうしんとして不定期ふていき出演しゅつえんだが、としに1だけ、ナゴヤドーム主催しゅさい試合しあいおこなわれる「ゆかたデー」開催かいさい担当たんとうすることおおい(川崎かわさき自身じしん浴衣ゆかた姿すがた解説かいせつつとめたことがある)。
  11. ^ 基本きほんてきにセ・パわずうらおく中継ちゅうけいでの出演しゅつえん中心ちゅうしんで、本番ほんばん担当たんとうするのはとしすう試合しあい非常ひじょうすくなかった。2011ねんのシーズンはうらおくり・予備よびのみで本番ほんばんカードの出演しゅつえんはなかった。中日ちゅうにちOBであることから、東海とうかいラジオ ガッツナイターうらおく制作せいさく解説かいせつしゃとして出演しゅつえんすることがおおく、テレビ愛知てれびあいちのゲスト解説かいせつしゃでもあることから、テレビ愛知てれびあいち関東かんとう試合しあいなどを中継ちゅうけいした翌日よくじつなどに出演しゅつえんすることもある。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 手塚てづかせん へん完全かんぜん保存ほぞんばん プロ野球やきゅうセ・パりょうリーグ12球団きゅうだんぜん選手せんしゅカラー百科ひゃっか名鑑めいかん2001』 だい25かんだい2ごう通算つうさん258ごう)、日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ〈『ホームラン』2001ねん3がつごう増刊ぞうかん〉、2001ねん3がつ31にち、47ぺーじ 
  • スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ編集へんしゅう へん『ベースボール・レコード・ブック 2002』(だい1はんだい1さつ発行はっこうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ発行はっこうじん池田いけだ哲雄てつお)〈日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろく年鑑ねんかん〉、2001ねん12月25にち、16-17,37,40-41,743ぺーじISBN 978-4583036779 
  • ぶん寺西てらにし雅広まさひろちょ)、三輪みわ侑弘(へん)「古巣ふるす相手あいてラストマウンド 川崎かわさき万感ばんかん」『月刊げっかんドラゴンズ通巻つうかんだい259ごう2004ねん11がつごう中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ、2004ねん11月1にち、12-15ぺーじ 
  • 佐々木ささきだんきち「実録じつろく川崎かわさき憲次けんじろう物語ものがたり~ドラゴンズ風雲ふううんへん~」『中日ちゅうにちりょく-なぜ中日ちゅうにちつよいのか!?』45ごう桃園書房とうえんしょぼう〈TOEN MOOK〉、2006ねん10がつ15にち、80-84ぺーじISBN 978-4807842698 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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