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かく源治げんじ

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かく 源治げんじ佳久よしひさ 源治げんじ
Genji Kaku
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく 台湾たいわんしょう台東たいとうけん台東たいとう
生年月日せいねんがっぴ (1956-10-05) 1956ねん10月5にち(67さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
178 cm
78 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1981ねん
はつ出場しゅつじょう NPB / 1981ねん8がつ30にち
CPBL / 1997ねん4がつ13にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう NPB / 1996ねん8がつ29にち
CPBL / 1999ねん10がつ11にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 2019ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 競技きょうぎ部門ぶもん
かく 源治げんじ
各種かくしゅ表記ひょうき
台湾たいわん かく 源治げんじ
和名わみょう表記ひょうき かく げんじ
発音はつおん転記てんき クォ・ユェンツ
英語えいごめい Kuo Yuen-chih
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かく 源治げんじ(クォ・ユェンツ、かく げんじ、1956ねん10月5にち - )は、台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく)の台東たいとうけん台東たいとう出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)。みぎとうみぎ台湾たいわん原住民げんじゅうみんアミぞくで、1989ねん9月に日本にっぽん帰化きか現在げんざい本名ほんみょう佳久よしひさ源治げんじおなじ)[1]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

アマチュア時代じだい[編集へんしゅう]

アミぞくちち・クムン(かくぶんこころざし)とはは・ブタル(はやしあいいもうと)の7にん兄弟きょうだいの3おとことしてまれる[2]勇敢ゆうかんになってほしいというねがいからアミいのしし意味いみするブァフィー名付なづけられた[3][4]農業のうぎょういとな生家せいかまずしく、たけまれたやく6つぼ小屋こや親子おやこ9にんらしていた[3]弟妹ていまい子守こもりはたけ仕事しごと手伝てつだいのかたわら、くさいてつくったボールで野球やきゅうはじめた[3]1969ねん豊年ほうねん小学校しょうがっこう6年生ねんせいとき台東たいとうけん大会たいかい優勝ゆうしょうし、リトルリーグ台湾たいわん代表だいひょうチーム・金龍きんりゅうたいのメンバーにえらばれた[3]かくは3ばん打者だしゃまかされ、中堅ちゅうけんしゅけん2番手ばんて投手とうしゅとして活躍かつやくし、東京とうきょう極東きょくとう大会たいかいせいしてのぞんだアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルベニアしゅうウィリアムズポートおこなわれたリトルリーグ・ワールドシリーズでも優勝ゆうしょうした[3]

帰路きろ日本にっぽんって後楽園こうらくえん球場きゅうじょうでNPBの試合しあい観戦かんせんし、試合しあいまえ約束やくそくどおりにおう貞治さだはる本塁打ほんるいだって感銘かんめいけたという[5]金龍きんりゅうたいのチームメートはそうよしよわいもうにより全員ぜんいん私立しりつはなきょう中学校ちゅうがっこう学費がくひ免除めんじょ入学にゅうがくし、台北たいぺい市内しないりょうはいった[6]試験しけん落第らくだいしたら退学たいがくということもあって勉強べんきょう熱心ねっしんおこない、系列けいれつはなきょう高校こうこうすすんでいる[7]同校どうこうではエースとして後輩こうはいそうはじめりゅうあきみのりとともに投手とうしゅじん形成けいせいし、チームは無敵むてきとまでひょうされている[3]学費がくひ問題もんだいなどから大学だいがく進学しんがくあきらめていたが、報道ほうどうつうじてそれをったそうよしよわいたすけをけ、そう理事りじちょうつとめる輔仁大学だいがく入学にゅうがくした[7]

大学だいがくでは幼児ようじ体力たいりょくづくりなどを研究けんきゅうし、卒業そつぎょう兵役へいえきにより台湾たいわん陸軍りくぐん中華民国ちゅうかみんこく陸軍りくぐん)に入隊にゅうたいした[7]兵役へいえきちゅう特殊とくしゅ部隊ぶたいにも配属はいぞくされ、軍用ぐんようからの夜間やかん降下こうか訓練くんれんおこなっている[8]兵役へいえきちゅう1981ねん1がつ社会しゃかいじん野球やきゅう選手せんしゅ主体しゅたいにした日本にっぽん代表だいひょうとの対戦たいせん完封かんぷう勝利しょうりおさ[9]日本にっぽんからオファーがとどくようになる。最初さいしょにオファーをしたのはロッテオリオンズで、そうはじめとともに入団にゅうだんすることがまりかけたが[2]かくいわく「一番いちばん熱心ねっしんさそってくれたから、そこがいいかな」[2]おもったという中日ちゅうにちドラゴンズと3がつかり契約けいやくむす入団にゅうだんまった[10]契約けいやくきん年俸ねんぽうはそれぞれ1,250まんえん最低さいてい保証ほしょうがくの240まんえん(いずれも推定すいてい)で、3,000まんえん以上いじょう契約けいやくきん提示ていじしてきたNPBの球団きゅうだんもあったが、最初さいしょたか評価ひょうかしてきた中日ちゅうにち信頼しんらいして入団にゅうだんめた[4]

日本にっぽんプロ野球やきゅう時代じだい[編集へんしゅう]

兵役へいえき終了しゅうりょうの7がつ来日らいにち[9][1]はつ登板とうばんとなった8がつ30にちたい大洋たいようせんでは151km/h速球そっきゅうげるなど、途中とちゅうでふくらはぎが痙攣けいれんしながらも先発せんぱつ勝利しょうりげている[11]同年どうねんはこの1しょうのみにわったものの、投球とうきゅうには自信じしんてたという[12]一方いっぽう言葉ことばつうじないためストレスがたまり、とく台湾たいわんよりはるかに複雑ふくざつなサインプレーの説明せつめいをききとれずそのたびに罰金ばっきんられ[2]、マウンドでも打者だしゃ集中しゅうちゅうできずノイローゼになりかけた[13]日本にっぽん食事しょくじくちわず(中華ちゅうか料理りょうり日本人にっぽんじんこのみの味付あじつけになっていて食欲しょくよく刺激しげきしなかった)、当初とうしょなま野菜やさいもの焼肉やきにくぐらいしかべられなかった。かくによると、ときには合宿がっしゅくしょ厨房ちゅうぼうけてみずか炒飯ちゃーはんつくったりもしたという[14]。そのすう年間ねんかんかけて、日本にっぽんしょくすべ克服こくふくした。

1982ねん開幕かいまくから先発せんぱつローテーションはいり6がつまでに5しょうげるなど津田つだ恒美つねみ新人しんじんおうあらそ活躍かつやく[15]はつオールスターゲームにも出場しゅつじょうした。同年どうねんみやこ裕次郎ゆうじろう先発せんぱつはしらとして[16]9しょうげ、チームのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんした。9月15にちたい巨人きょじんせんでは、初回しょかいランナー1,2るい場面ばめん篠塚しのづか和典かずのり犠打ぎだあく送球そうきゅう左翼さよくしゅ大島おおしま康徳やすのりつたなもりもあり、打者だしゃ篠塚しのづか生還せいかんするというちんプレーにつながった(記録きろく犠打ぎだと3失策しっさく)。

日本にっぽんシリーズではリリーフとしてだい1せんはつ登板とうばんたしたが、大田おおた卓司たくしにソロ本塁打ほんるいだたれている[17]同年どうねん初夏しょか夫人ふじんい、精神せいしんてきささえられたという[18]

1984ねんからはひだり打者だしゃ対策たいさくシンカーげるようになり[19]同年どうねんはシーズン終盤しゅうばんまで遠藤えんどう一彦かずひこ鈴木すずき孝政たかまさ最多さいた勝利しょうりのタイトルをあらそ[20]、13しょうげている。

1985ねん先発せんぱつおさえとしてリーグ最多さいたの230かい1/3をげたてん評価ひょうかされ、1,000まんえんぞう年俸ねんぽう4,000まんえん推定すいてい)で契約けいやく更改こうかいしている[21]1986ねん開幕かいまく投手とうしゅまかされ、4ねん連続れんぞくの2ケタ勝利しょうりとなる11しょうげた。契約けいやく更改こうかいでは300まんえんぞう年俸ねんぽう4,300まんえん推定すいてい)となった[22]

1987ねんおさ投手とうしゅ牛島うしじま和彦かずひこ落合おちあい博満ひろみつとの世紀せいきのトレードで前年ぜんねんオフにロッテへ移籍いせきしたというチーム事情じじょうがあり、しん監督かんとく星野ほしのせんいちかくをストッパーに指名しめいした。評論ひょうろんからは精神せいしんめんでの不安ふあん指摘してきされたが、先発せんぱつ投手とうしゅ完投かんとうしたり大差たいさでリードしているケースをのぞいてちゲームのめくくりをかならまかせる星野ほしの信頼しんらいこたえ、最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅ獲得かくとくする活躍かつやくせた[23]。また、防御ぼうぎょりつ1.56、打率だりつ.190と投球とうきゅう内容ないよう安定あんていしていた[24]。オフには1,800まんえんぞう年俸ねんぽう6,000まんえん推定すいてい)で契約けいやく更改こうかいしている[25]。なお、同年どうねん獲得かくとくしたファイアマンしょう賞金しょうきん100まんえん中継なかつぎの宮下みやした昌己まさみにプレゼントした[26]

1988ねん1がつ16にち結婚式けっこんしきげた[25]。しかし、同年どうねんのシーズン開幕かいまくは4がつ11にちたいヤクルトせんテリー・ハーパー決勝けっしょう本塁打ほんるいだたれるなど、微妙びみょうなコントロールのズレにくるしんで5がつまでに4はいきっする[27]。しかしみなどをかさねて不振ふしんだっ[27]、6がつには1しょう8セーブ、防御ぼうぎょりつ0.00の活躍かつやくはつ月間げっかんMVP獲得かくとくしている[28]一方いっぽう、7がつ21にちおとうと交通こうつう事故じこにあい、オールスターゲームだい2、3せん出場しゅつじょう辞退じたいして見舞みまったがどう28にちくなっている[23]後半こうはんせん開幕かいまくせんとなった翌日よくじつ完投かんとうペースの小松こまつ辰雄たつおえてあえて登板とうばんさせた星野ほしのから「みなもとおさむそらてみろ、おとうとているぞ」とこえをかけられて奮起ふんきし、なみだながしながら後続こうぞくをパーフェクトにおさえ、翌日よくじつ以降いこうもリリーフエースとしてチームをささえた[23]。リーグ優勝ゆうしょうのかかった10月7にちたいヤクルトせんでは最後さいごはた真司しんじから三振さんしんうばい、胴上どうあ投手とうしゅとなった[29]同年どうねんは7しょう37セーブの44セーブポイントげ、石本いしもと貴昭たかあき山本やまもと和行かずゆき従来じゅうらいのシーズン記録きろく・40SPを更新こうしんした[30]

西武せいぶライオンズとの日本にっぽんシリーズではだい2せん同点どうてんの7かいひょうから登板とうばんし、走者そうしゃさずに3イニングをおさえて勝利しょうり投手とうしゅとなった[31]だい5せんでは直前ちょくぜん登板とうばんした小松こまつ不調ふちょう予定よていはやめて7かいから登板とうばんしたが、9かい石毛いしげ宏典ひろのり同点どうてんソロ本塁打ほんるいだたれ、延長えんちょう11かい決勝けっしょうてんうばわれて敗戦はいせん投手とうしゅとなっている[32]。このシリーズでは優秀ゆうしゅう選手せんしゅえらばれた[32]。オフには240ひょうちゅう227ひょうの1ひょうあつめてセ・リーグMVP選出せんしゅつされた[33]契約けいやく更改こうかいでは年俸ねんぽう9,300まんえん+タイトルりょう1,000まんえん推定すいてい)となっている[34]

1989ねんはキャンプちゅう上半身じょうはんしん下半身かはんしんのバランスがくず[35]、シーズンにはいるとひだりふとももをいためて、4がつ28にちたい巨人きょじんせんではマウンドで投球とうきゅう練習れんしゅうをした直後ちょくご打者だしゃげず降板こうばんするというめずらしい事態じたいになっている。6月に復帰ふっき、7がつ7にちから8がつ11にちにかけ、当時とうじのセ・リーグ記録きろくとなる12試合しあい連続れんぞくセーブポイント達成たっせいした[36]前年ぜんねん12がつ法務局ほうむきょく申請しんせいしていた日本にっぽんへの帰化きかが9がつ5にちみとめられ[37]、「かく」と発音はつおんおなじ「佳久よしひさ」に改姓かいせいした(登録とうろくめいかく源治げんじのまま)。契約けいやく更改こうかいでははつのダウンとなる300まんえんげん年俸ねんぽう9,000まんえん推定すいてい)となっている[38]

1990ねんひだりはらはすすじ挫傷ざしょうのため4がつ11にち一軍いちぐん登録とうろく抹消まっしょうされた[39]。さらにぐん調整ちょうせいちゅうひだりふとももをいため、一軍いちぐん復帰ふっきは6がつ8にちになっている[40]与田よだつよしがストッパーとして活躍かつやくしたこともあり、復帰ふっき先発せんぱつさい転向てんこうする。

1991ねん開幕かいまくから本格ほんかくてき先発せんぱつ転向てんこう予定よていだったが前年ぜんねんストッパーだった与田よだ離脱りだつした関係かんけいで5がつまでリリーフをつとめていたが、新人しんじん森田もりた幸一こういちがストッパーになり先発せんぱつ復帰ふっき。6月に2完封かんぷうふくむ5しょう0はい防御ぼうぎょりつ1.58の成績せいせきで2度目どめ月間げっかんMVPを受賞じゅしょうした[41]。その先発せんぱつつづけ、13しょうげ、2,400まんえんぞう年俸ねんぽう1おくえん推定すいてい)で契約けいやく更改こうかいしている[42]

1992ねんは6ねんぶりに開幕かいまく投手とうしゅつとめたが、開幕かいまくせん脹脛ふくらはぎ痙攣けいれんこして4かい途中とちゅう降板こうばんした[43]。そのみぎ前腕ぜんわんを2いため、7がつはじめにはひだりふとももつうなど3登録とうろく抹消まっしょうがあり、はつ勝利しょうりげたのは7がつ29にちとなった[44]同年どうねんは4しょうわり、1,500まんえんげん年俸ねんぽう8,500まんえん推定すいてい)で契約けいやく更改こうかいしている[45]

1993ねん前年ぜんねん不振ふしんわり進退しんたいをかけいどんだこのシーズン、はつ登板とうばんとなる開幕かいまく4せんたい読売よみうりジャイアンツ1回戦かいせんでは見事みごと完封かんぷう勝利しょうりげ、4がつ27にちたい阪神はんしんせんでは8かいまで安打あんだで、9かい無死むし久慈くじあきらよしみ安打あんだたれてノーヒットノーランのがすも、7連続れんぞくふくむ13だつ三振さんしんで1安打あんだ完封かんぷう勝利しょうりげた[46]。このままいきおいにるかとおもわれたが、5がつ以降いこうこう不調ふちょうなみはげしいのと勝運しょううん見放みはなされ5がつ以降いこうは1しょう6はいけが大幅おおはば先行せんこう。シーズン後半こうはんからおさ不在ふざいのチーム事情じじょうもありふたたおさえに転向てんこうし17セーブを優勝ゆうしょうあらそいに貢献こうけんした。オフの更改こうかいでは3,000まんえんぞう年俸ねんぽう1おく2,000まんえん推定すいてい)となっている[47]

1994ねんは5月から先発せんぱつローテーションにくわわり、5月21にちたい阪神はんしんせんでスッポけた投球とうきゅうロブ・ディアーがわ頭部とうぶたり、同年どうねん制定せいていされた危険きけんだまのルール適用てきようだい1ごうとなり退場たいじょうしている[48]。9月21にちたい阪神はんしんせんでNPB史上しじょう5にんとなる100しょう100セーブを達成たっせいした。10.8決戦けっせんでは救援きゅうえんでの起用きよう予想よそうされていた[49]が、登板とうばんはなかった[ちゅう 1]最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつのタイトルも獲得かくとく契約けいやく交渉こうしょう越年えつねんとなったが、阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい衝撃しょうげきけて1995ねん1がつ17にち球団きゅうだん提示ていじしていた年俸ねんぽう1おく3,000まんえん推定すいてい)でサインし、被災ひさいしゃに500まんえん寄付きふしている[51]

1995ねん先発せんぱつでもリリーフでも不振ふしん成績せいせきわり、5,200まんえんげん年俸ねんぽう7,800まんえん推定すいてい出来高できだかき)で契約けいやく更改こうかいした[52]

1996ねん監督かんとくふたた星野ほしのせんいち復帰ふっきしたが、チーム最年長さいねんちょうくるわには一軍いちぐん居場所いばしょはつ一軍いちぐん勝利しょうりわる。状態じょうたいのピッチングをできるうちに台湾たいわんでプレーして台湾たいわん球界きゅうかい貢献こうけんしたいとかんがえ、同年どうねんをもって中日ちゅうにち退団たいだんした[3]現役げんえき16年間ねんかん活躍かつやくをたたえ、セ・リーグから会長かいちょう特別とくべつしょうおくられている[53]。11月22にち中華ちゅうか職業しょくぎょうぼうだま聯盟れんめい統一とういつライオンズ入団にゅうだん契約けいやくむす[54]年俸ねんぽう日本にっぽん時代じだいの3ぶんの1以下いかとなっている[3]1997ねん3月18にちナゴヤドームこけらおとでもあるオープンせんオリックス・ブルーウェーブせん)が引退いんたい試合しあいえらばれ、先発せんぱつしてイチローみぎった[55]

台湾たいわんプロ野球やきゅう時代じだい[編集へんしゅう]

1997ねん八百長やおちょう事件じけん時報じほうイーグルス解散かいさんし、リーグの現状げんじょうしんいためたという[3]同年どうねんは5しょうわっている。

1998ねん和信かずのぶホエールズ移籍いせきすると、先発せんぱつ11試合しあい連続れんぞく勝利しょうり中華ちゅうか職業しょくぎょうぼうだま聯盟れんめい記録きろく達成たっせいするなどシーズン14しょうげた。またひか捕手ほしゅだったおう光浩みつひろ中国語ちゅうごくごばん才能さいのう評価ひょうかし、おうは5ばんまかされシーズンで打率だりつ.300の成績せいせきのこしている[3]。また、かつて中日ちゅうにち監督かんとくだった山内やまうち一弘かずひろ和信かずのぶ打撃だげきコーチをつとめていた。同年どうねんオフにいち引退いんたい会見かいけんひらいたが、チームの要請ようせいけ、おうこう建三けんぞう中国語ちゅうごくごばん成長せいちょう見守みまもるために翌年よくねん現役げんえき続行ぞっこうすることになった[3]

1999ねんは42さいでチーム最年長さいねんちょうだったが、地元じもとからは「制球せいきゅうりょくナンバーワンのろうしょう」とたか評価ひょうかけていた[56]。5月には一時いちじ戦列せんれつはなれた[56]最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつのタイトルをあらそとう活躍かつやく[57]し、9しょうげた。また、9月におこなわれたシドニーオリンピックアジア最終さいしゅう予選よせん台湾たいわん代表だいひょうとして参加さんかし、決勝けっしょうリーグのたい韓国かんこくせんでは先発せんぱつして5かいを2失点しってんおさえたが、延長えんちょうせんすえやぶれた[58]。シーズン終了しゅうりょう監督かんとくとしてチームにのこることを要請ようせいされたが、家族かぞく一緒いっしょらすためにことわり、日本にっぽんもどった[59]。なお、921だい地震じしんきたさいには4にちの9がつ25にちにナゴヤドームの公式こうしきせん大豊たいほう泰昭やすあきとともに被害ひがいしゃへの支援しえんびかけている[60]

現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

少年しょうねん野球やきゅう指導しどう野球やきゅう解説かいせつしゃつとめながら将来しょうらいことかんが[59]2001ねん11月18にち名古屋なごやちゅうでレストラン「かく源治げんじ だいみなみ担仔めん」を開店かいてんした[1]

2001ねんからはマスターズリーグ名古屋なごやエイティデイザーズに参加さんかしている[61]。また、中日ちゅうにち在籍ざいせきしていたチェン相談そうだん相手あいてなどもつとめた[62]

2011ねんからは台湾たいわん優秀ゆうしゅう中学ちゅうがく高校生こうこうせいへの指導しどうをボランティアでおこなっている[1][63]

2013ねん3月15にちをもってたいみなみ担仔めん閉店へいてんし、同年どうねん4がつより中華ちゅうか職業しょくぎょうぼうだまだい聯盟れんめい初代しょだい首席しゅせき顧問こもん就任しゅうにん[64][65]したが、よく2014ねん8がつ29にち辞任じにんしている[66]

2018ねん東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルス春季しゅんきキャンプにおいて研修けんしゅうコーチをつとめる[67]

2019ねん台湾たいわん野球やきゅう殿堂でんどうである台湾たいわんぼうだま名人めいじんどう中国語ちゅうごくごばん選出せんしゅつされた[68]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

最速さいそく151km/h速球そっきゅうスライダーシンカーフォークボールなど多彩たさい変化球へんかきゅう[69]げた。闘志とうし前面ぜんめん気迫きはくあふれる投球とうきゅうスタイルがあじで、マウンドでせたガッツポーズは「かくダンス」としょうされた[3][70][71]

おさえをつとめていたときは、自責じせきてんだけでなく失点しってんすくないという特長とくちょうがあった[72]かく筋肉きんにくやわらかく回復かいふくりょくすぐれ、ストッパーとして理想りそうてき肉体にくたいだったといわれている[26]。ストッパー時代じだいは7かいからの複数ふくすうイニングをげることもしばしばで、44SPげた1988ねん投球とうきゅう回数かいすう救援きゅうえんだけで111かいにもたっし、これは1998ねんにこの記録きろく更新こうしんしたとき佐々木ささき主浩おもひろの56かいのほぼ2ばいにあたる[3]

アスリートのなかでも傑出けっしゅつしたスタミナがあり、アマチュア時代じだい完投かんとうした翌日よくじつでも野手やしゅとして試合しあい出場しゅつじょうしていた[69]打撃だげき守備しゅび能力のうりょくたかく、中日ちゅうにち監督かんとくだった山内やまうち一弘かずひろ近藤こんどう貞雄さだお内野ないやしゅとしての起用きよう真剣しんけんかんがえたという[69]。また、1988ねん5月13にちたい巨人きょじんせん槙原まきはらひろしおのれからサヨナラ2ラン本塁打ほんるいだはなっている[73]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

大学だいがく時代じだい自分じぶん知識ちしき不足ふそくかんじ、遠征えんせい新幹線しんかんせんでは文学ぶんがくしょ歴史れきし国際こくさい情勢じょうせいなどにかんするほんをいつもんでいた[70]通訳つうやくのない状態じょうたいで、片時かたとき参考さんこうしょはなさず懸命けんめい勉強べんきょうして2ねん日本語にほんごをマスターし、日本にっぽん小説しょうせつ新聞しんぶんんでいたという[3][13][70]。1988ねん台湾たいわん遠征えんせいさいにはオフのイベント参加さんかきら落合おちあい博満ひろみつも「かくのためなら」と遠征えんせい参加さんか快諾かいだくするなど、チームメートからふか信頼しんらいされていた[74]

まずしい環境かんきょうなかそだち、中日ちゅうにち契約けいやく来日らいにち名古屋なごや空港くうこうおとずれたさいも、所持しょじきんすうせんえん荷物にもつ風呂敷ふろしきつつみひとつであった[75]契約けいやくきんの1250まんえん半額はんがく両親りょうしんゆずり、台北たいぺい家族かぞくためのマンションを購入こうにゅうするとしばたあいだくなったという。のち西武せいぶライオンズに入団にゅうだんした郭泰源かくたいげん契約けいやくきん推定すいてい1おくえん(8000まんえんであったともつたえられている[76])であることきつけ、自分じぶん評価ひょうかひくさに愕然がくぜんとしたものの[ちゅう 2]、「自分じぶん台湾たいわんアマ球界きゅうかいからの先駆せんくしゃである」「頑張がんばれば給料きゅうりょうげてもらえる」と[75]真摯しんし態度たいど練習れんしゅうつづけ、ついには1おくえんプレイヤーへとのぼめた。

日本にっぽんへの帰化きかについては台湾たいわんへの愛着あいちゃくなどから非常ひじょうなやみ、台湾たいわんでは反対はんたいする意見いけんおおかったという[74]。しかし、日本にっぽんらしていく子供こどもしあわせをだいいちかんが[13]、さらに自分じぶん外国がいこくじんわくはずれることがチームの強化きょうかにつながるため、星野ほしのせんいち日本一にっぽんいちにしたいとのおもいから帰化きか決意けついした[74]相談そうだんしたちちそうよしよわい友人ゆうじんらは決断けつだんあたたかく尊重そんちょうしてくれたという[77]

1988ねんシーズンオフの11月15にち中華民国ちゅうかみんこくぼうだま協会きょうかい招待しょうたい中日ちゅうにち台湾たいわん遠征えんせいおこなったさいかく半生はんせいえがいた映画えいがかく源治げんじ物語ものがたり』が同地どうち公開こうかいされている[78]。2日間にちかんで2試合しあい台湾たいわん代表だいひょうおこない、かくだい1試合しあい中日ちゅうにちがわだい2試合しあいでは台湾たいわんがわ出場しゅつじょうした[78]記者きしゃ会見かいけんには地元じもとのマスコミ100にん以上いじょうあつまり、外交がいこうによる歓迎かんげいパーティーもひらかれるなどたか関心かんしんたれた[78]

中日ちゅうにち退団たいだんの1997ねん母国ぼこくリーグの統一とういつライオンズに入団にゅうだんしたさい、「意識いしきすることはない。台湾たいわんんでくれたおかあさんであり、日本にっぽんそだててくれたおとうさん。どちらも必要ひつようだし、どちらかをえらこと出来できない。もしあなたは何人なんにん?とかれたら『野球やきゅうじん』とこたえます」と、当時とうじのインタビューにこたえている[79]

背番号せばんごう33は台湾たいわん代表だいひょう永久えいきゅう欠番けつばん(ただし、のち許銘傑きょめいけつよしみひとし代表だいひょうでこの番号ばんごう使用しようしている)。

家族かぞく[編集へんしゅう]

夫人ふじんもとフライトアテンダントで、1984ねんにはミス日本にっぽんえらばれている[80]

2なん2じょがおり、長男ちょうなん次男じなん双子ふたご長男ちょうなん佳久よしひさ耀もと野球やきゅう選手せんしゅで2013ねん統一とういつセブンイレブン・ライオンズ練習れんしゅうせいとして入団にゅうだんしたが正式せいしき契約けいやくにはいたらず、2015ねん社会しゃかいじん野球やきゅう矢場やばとん入部にゅうぶ[81]現在げんざい退団たいだんしている。次男じなん佳久よしひさはじめ明治大学めいじだいがくラグビー出身しゅっしん[82]大学だいがく時代じだいには日本にっぽん選抜せんばつえらばれた。そのトヨタ自動車とよたじどうしゃヴェルブリッツ所属しょぞくしたが、2015ねん退団たいだん[83]。そのアクロスエンタテインメント所属しょぞくし、俳優はいゆうとして活動かつどうしている[84]。2019ねん9がつ6にち放送ほうそうの『ばくほう! THE フライデー』(TBS)においては、次男じなんそうとテレビはつ共演きょうえんたした[82]

台湾たいわん移籍いせきむすめ誘拐ゆうかい未遂みすいにあい、はくあきらつばめ誘拐ゆうかい殺人さつじん事件じけん直後ちょくごだったことから家族かぞく日本にっぽんかえして単身たんしん赴任ふにんつづけた[3]

1988ねん交通こうつう事故じこくなったおとうととは将来しょうらい台湾たいわん料理りょうりみせひら約束やくそくをしており、おとうと料理人りょうりにんとして修行しゅぎょうはじめていた[70]引退いんたいおとうととの約束やくそくどお名古屋なごや台湾たいわん料理りょうりてんいとなんでいたが、上述じょうじゅつとお2013ねん閉店へいてんした。

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

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ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1981 中日ちゅうにち 6 5 0 0 0 1 2 0 -- .333 96 21.1 23 2 15 0 1 17 1 0 17 15 6.43 1.78
1982 34 26 6 1 0 9 7 0 -- .563 743 176.0 160 17 69 8 7 132 4 1 81 68 3.48 1.30
1983 32 29 8 3 1 10 10 0 -- .500 900 213.1 214 25 64 1 4 159 4 0 100 89 3.75 1.30
1984 34 32 11 2 2 13 11 0 -- .542 912 216.0 202 27 76 1 2 177 2 0 90 78 3.25 1.29
1985 34 29 15 1 2 11 11 3 -- .500 954 230.1 224 38 57 3 5 157 1 1 102 89 3.48 1.22
1986 30 27 9 2 0 11 10 0 -- .524 738 177.1 164 27 53 5 2 127 2 1 76 72 3.65 1.22
1987 59 0 0 0 0 4 3 26 -- .571 376 98.0 64 5 27 8 1 70 2 0 19 17 1.56 0.93
1988 61 0 0 0 0 7 6 37 -- .538 428 111.0 73 9 31 3 3 94 5 0 27 24 1.95 0.94
1989 42 1 1 0 0 5 3 25 -- .625 287 74.0 57 5 18 2 1 69 2 0 19 19 2.31 1.01
1990 22 7 0 0 0 2 6 0 -- .250 296 67.1 74 11 30 1 3 57 3 1 42 39 5.21 1.54
1991 33 18 9 4 1 13 9 2 -- .591 663 163.0 131 11 48 2 6 95 0 0 52 49 2.71 1.10
1992 18 14 2 0 0 4 3 0 -- .571 379 90.0 93 6 25 1 1 54 3 0 37 30 3.00 1.31
1993 39 13 4 2 0 3 9 17 -- .250 453 107.2 107 11 34 4 4 78 0 0 44 41 3.43 1.31
1994 21 19 7 2 0 8 7 2 -- .533 551 139.1 125 9 32 4 4 85 2 0 43 38 2.45 1.13
1995 26 10 0 0 0 5 8 4 -- .385 348 80.2 85 16 24 5 5 40 3 0 44 36 4.02 1.35
1996 5 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 29 5.2 6 0 5 1 0 4 1 1 2 2 3.18 1.94
1997 統一とういつ 13 12 1 0 0 5 3 0 -- .625 265 64.1 65 7 13 0 3 61 3 0 32 25 3.50 1.21
1998 和信かずのぶ 24 20 3 0 0 14 3 0 -- .824 584 140.2 133 4 37 1 8 87 1 0 51 39 2.50 1.21
1999 15 15 0 0 0 9 5 0 -- .643 357 88.1 73 6 14 0 5 56 3 0 30 23 2.34 0.98
NPB:16ねん 496 230 72 17 6 106 106 116 -- .500 8153 1971.0 1802 219 608 49 49 1415 35 5 795 706 3.22 1.22
CPBL:3ねん 52 47 4 0 0 28 11 0 -- .718 1206 293.1 271 17 64 1 16 204 7 0 113 87 2.67 1.14
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

NPB

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

NPB
CPBL

記録きろく[編集へんしゅう]

NPBはつ記録きろく
NPB節目ふしめ記録きろく
  • 1000だつ三振さんしん:1989ねん10がつ13にちたい横浜よこはま大洋たいようホエールズ25回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、7かいひょう遠藤えんどう一彦かずひこから ※史上しじょう81にん
  • 100セーブ:1993ねん8がつ11にちたい阪神はんしんタイガース15回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、8かいひょう1に6番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい2/3失点しってん史上しじょう7にん
  • 100しょう:1994ねん9がつ21にちたい阪神はんしんタイガース25回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、9かい完封かんぷう勝利しょうり史上しじょう112にん
NPBその記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 30 (1981ねん - 1985ねん
  • 33 (1986ねん - 1999ねん

関連かんれん情報じょうほう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 10.8決戦けっせんかく起用きようひかえた理由りゆうとして、かく性格せいかくてきなことなどから、高木たかぎは「いきおいにせてすと、非常ひじょうにいいピッチングをするんですが、けている場面ばめんすと、というところもありましたから。タイトルがかかっているのに、試合しあい気分きぶんらないところでマウンドにげるのは、ちょっと可哀想かわいそうだなという気持きもちがわたしなかにあったんです」とべている[50]
  2. ^ もっと前述ぜんじゅつどおり3000まんえん以上いじょう契約けいやくきん(1980ねん当時とうじ一部いちぶ目玉めだま選手せんしゅのぞいたドラフト上位じょうい指名しめい選手せんしゅ契約けいやくきん匹敵ひってき)を提示ていじした球団きゅうだんって中日ちゅうにちえらんだのはかく源治げんじ自身じしん判断はんだんであった。また郭泰源かくたいげんだい27かいIBAFワールドカップロサンゼルスオリンピック出場しゅつじょう日本にっぽんのみならずメジャーリーグの球団きゅうだん獲得かくとく検討けんとうしたこと契約けいやくきん高騰こうとう要因よういんとなった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 木村きむら元彦もとひこ現代げんだい肖像しょうぞう かく源治げんじ もと中日ちゅうにちドラゴンズ投手とうしゅ うみえた『やま』のかい速球そっきゅう。」『AERA』、1999ねん5がつ10にちごう、P.62-66
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  11. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1981ねん8がつ31にちづけ朝刊ちょうかん、P.18
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  15. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1982ねん6がつ28にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  16. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1982ねん8がつ30にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  17. ^ 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう 1982年度ねんど日本にっぽんシリーズ 試合しあい結果けっかだい1せん
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  39. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1990ねん4がつ13にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  40. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1990ねん6がつ9にちづけ朝刊ちょうかん、P.18
  41. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1991ねん7がつ6にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  42. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1991ねん12月28にちづけ朝刊ちょうかん、P15
  43. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1992ねん4がつ5にちづけ朝刊ちょうかん、P.18
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  45. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』、1993ねん12月9にちづけ朝刊ちょうかん、P.20
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  48. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1994ねん5がつ22にちづけ朝刊ちょうかん、P.21
  49. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1994ねん10がつ7にちづけ夕刊ゆうかん、P.3
  50. ^ 鷲田わしだやすし『10・8―巨人きょじんvs.中日ちゅうにち史上しじょう最高さいこう決戦けっせん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2013ねんISBN 978-4163756400、P.139
  51. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1995ねん1がつ18にちづけ朝刊ちょうかん、P.25
  52. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1996ねん1がつ21にちづけ朝刊ちょうかん、P.26
  53. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』、1996ねん10がつ18にちづけ朝刊ちょうかん、P.27
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  72. ^ 週刊しゅうかんベースボール』、1988ねん8がつ22にちごう、P.43
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]