(Translated by https://www.hiragana.jp/)
槙原寛己 - Wikipedia コンテンツにスキップ

槙原まきはらひろしおのれ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
槙原まきはら ひろしおのれ
MBSラジオ『亀山かめやまつとむのスポーツマンデー!』公開こうかい録音ろくおんにて
(2018ねん12月22にち阪神はんしん競馬けいばじょう
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 愛知あいちけん半田はんだ
生年月日せいねんがっぴ (1963-08-11) 1963ねん8がつ11にち(61さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
187 cm
94 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1981ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1983ねん4がつ16にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 2001ねん9がつ30にち引退いんたい試合しあい
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
槙原まきはら ひろしおのれ
YouTube
チャンネル
活動かつどう期間きかん 2021ねん2がつ25にち -
ジャンル 野球やきゅう
登録とうろくしゃすう やく20.8まんにん
そう再生さいせい回数かいすう 88,736,957かい
チャンネル登録とうろくしゃすうそう再生さいせい回数かいすう
2024ねん1がつ2にち時点じてん
テンプレートを表示ひょうじ

槙原まきはら ひろしおのれ(まきはら ひろみ、1963ねん8がつ11にち - )は、愛知あいちけん半田はんだ出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)、野球やきゅう解説かいせつしゃ野球やきゅう評論ひょうろんタレントYouTuber

斎藤さいとう雅樹まさき桑田くわた真澄ますみとともに1990年代ねんだい読売よみうりジャイアンツささえた先発せんぱつ3ほんばしら一人ひとり愛称あいしょうは「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」など。所属しょぞく事務所じむしょノースプロダクションオールラウンド

1994ねん5月18にち史上しじょう15にん平成へいせい唯一ゆいいつ完全かんぜん試合しあい福岡ふくおかドームで達成たっせいしている。

2018ねん10がつより、オフィスコンサルティング株式会社かぶしきがいしゃ代表だいひょう取締役とりしまりやくをしている[1]

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

プロりまで

[編集へんしゅう]

大府おおふ高校こうこう在学ざいがくから同期どうき工藤くどうこうやすし愛工大名電あいこうだいめいでん高校こうこう西武せいぶ6指名しめい)・浜田はまだ一夫かずお愛知高等学校あいちこうとうがっこう中日ちゅうにち2指名しめい)とともに愛知あいち三羽烏さんばがらすばれ[2]つよし速球そっきゅう投手とうしゅとして有名ゆうめいだった。1981ねんだい53かい選抜せんばつ高等こうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかい出場しゅつじょう当時とうじ甲子園こうしえん最速さいそく記録きろくとなる147km/hを記録きろくする。

1981ねん11月25にちドラフト会議かいぎにて読売よみうりジャイアンツから1指名しめいけ、入団にゅうだん

現役げんえき時代じだい

[編集へんしゅう]

現役げんえき前半ぜんはん

[編集へんしゅう]

入団にゅうだん1ねんぐんでのからだづくりに専念せんねんしたため登板とうばん機会きかいかった。それでも150km/hをえる速球そっきゅう投手とうしゅとして球団きゅうだんから期待きたいされており、あき阪神はんしんとのオープンせん好投こうとうして自信じしんをつけた[3]

2ねん1983ねんはるのグアムキャンプで一軍いちぐんメンバーに選抜せんばつされる。ここで監督かんとく藤田ふじたもとつかさからおおきくがるカーブをおそわり、速球そっきゅうかせるようになった[4]どうシーズンに若手わかて成長せいちょうかぶとして活躍かつやくはじめた同期生どうきせい吉村よしむらただしあきら、1さい年上としうえ駒田こまだいさおひろらとともに背番号せばんごうにちなんで50ばんトリオばれた[3]

開幕かいまく一軍いちぐんりをたし、4がつ16にちたい阪神はんしん2回戦かいせん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)に一軍いちぐんはつ登板とうばんはつ先発せんぱつすると、延長えんちょう10かいを5安打あんだ9だつ三振さんしん、1-0で完封かんぷうという鮮烈せんれつなプロデビューをかざった[5]。4月24にちたいヤクルトせん先発せんぱつし、プロり2試合しあい連続れんぞく完投かんとう勝利しょうりした。先発せんぱつローテーションりをたし、12しょう9はい1セーブの成績せいせきげてチームのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん記者きしゃ投票とうひょうで213ひょうは「該当がいとうしゃなし」と「無効むこう」が1ひょうずつ)という圧倒的あっとうてきひょうあつめ、新人しんじんおう選出せんしゅつされた[6]

同年どうねん西武せいぶライオンズとの日本にっぽんシリーズでもだい3せんだい6せん先発せんぱつ登板とうばんした。後楽園こうらくえん球場きゅうじょうでのだい3せんは、2-1とリードした6かいひょうテリー・ウィットフィールドに3てん本塁打ほんるいだたれ、5かい1/3を4失点しってん西武せいぶ球場きゅうじょうでのだい6せんでは、初回しょかいに1てん先制せんせいしたが中盤ちゅうばん逆転ぎゃくてんゆるして6かい2失点しってん。いずれもけはつかなった。

よく1984ねん、ボールだまながら155km/hと当時とうじ日本にっぽん最速さいそくスピードを記録きろく。この翌年よくねん西武せいぶライオンズ入団にゅうだんした郭泰源かくたいげんが156km/hを更新こうしんされるが、このとき記録きろくした155km/hはおわりそく表示ひょうじであったため「日本人にっぽんじん最初さいしょに160km/hを記録きろくするのは槙原まきはらでは」とわれていた[7]同年どうねん日米にちべい野球やきゅうでは、槙原まきはらボルチモア・オリオールズ主砲しゅほうエディ・マレーちょう特大とくだい場外じょうがい本塁打ほんるいだたれ、のちに「自分じぶん完璧かんぺきげて、それでもたれた」と述懐じゅっかいしている。

1985ねん4がつ17にちたい阪神はんしんタイガース2回戦かいせん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)で佐野さのもとくにとバッテリーをみ、7かいうらクリーンナップであるランディ・バースかけぬの雅之まさゆき岡田おかだ彰布あきのぶに3しゃ連続れんぞくでバックスクリーンへの本塁打ほんるいだバックスクリーン3連発れんぱつ)をびた[8]。それから2かげつの6がつ28にちどうカード13回戦かいせん先発せんぱつし、チームは球団きゅうだん記録きろくとなる1試合しあい8本塁打ほんるいだ記録きろく自身じしん球団きゅうだん通算つうさん5000ごう本塁打ほんるいだとなる現役げんえき生活せいかつ唯一ゆいいつ本塁打ほんるいだ[9]大量たいりょう14てん援護えんごてんもあり1失点しってん完投かんとう勝利しょうりした。ところが、降雨こううノーゲームとなった7がつ14にちたい阪神はんしん16回戦かいせんの1かいひょうにバースの打球だきゅう右足みぎあしのスネにたり、かえった打球だきゅうりにいくときにころんで、ひだり股関節こかんせつ骨折こっせつ重傷じゅうしょう[10][11]、そののシーズンをぼうった。

1986ねん開幕かいまく直後ちょくごぐん調整ちょうせい登板とうばんかさねて5試合しあいけい33かいげ36だつ三振さんしん、6失点しってん記録きろく[12]、また2にち金沢かなざわでの西武せいぶせん完封かんぷうするなど「怪我けが後遺症こういしょうがなくなった」と判断はんだんされたため、5月4にち、10かげつぶりに一軍いちぐん登録とうろくされた[12]。5月11にちたい広島ひろしま6回戦かいせん先発せんぱつして前年ぜんねん7がつ14にち以来いらい300にちぶりに復帰ふっき登板とうばんしたが、3かい2/3、6失点しってん降板こうばんした[13]後半こうはんせんは、8がつに4しょう1はい、3完封かんぷう防御ぼうぎょりつ0.63で月間げっかんMVPを受賞じゅしょうするなど[14]投手とうしゅじんはしらとしてチームをささえ、広島東洋ひろしまとうようカープとの優勝ゆうしょうあらそいの原動力げんどうりょくとなっていた。しかし、10月7にちたいヤクルト26回戦かいせんではマーク・ブロハード逆転ぎゃくてん本塁打ほんるいだたれ、広島ひろしま首位しゅい浮上ふじょう巨人きょじんは2転落てんらくする痛恨つうこん敗戦はいせんとなり[15][16]、12にち広島ひろしまがリーグ優勝ゆうしょうめ、巨人きょじん広島ひろしま僅差きんさの2わった。現役げんえき引退いんたいに、「一番いちばんくやしかった」試合しあいとして阪神はんしんせんでの3連続れんぞく被弾ひだんではなく、この試合しあいげた。

1987ねん背番号せばんごう入団にゅうだんからけていた「54」から「17」に変更へんこう。10しょう6はい新人しんじんおう獲得かくとくした1983ねん以来いらい4ねんぶりに2けた勝利しょうり[17]、チームの4ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん西武せいぶとの日本にっぽんシリーズではだい4せんでシリーズはつ勝利しょうり安打あんだ3、11だつ三振さんしん完封かんぷう達成たっせいした[18]。チームは2しょう4はい西武せいぶやぶれたものの、自身じしん優秀ゆうしゅう選手せんしゅしょう受賞じゅしょうした。

1988ねんは、はじめて投球とうきゅうかい200イニングを記録きろくした(208かい1/3)。また当時とうじはリーグ連盟れんめい表彰ひょうしょう対象たいしょうではなかったが、リーグ最多さいたの187だつ三振さんしん記録きろくした。

1989ねんは、開幕かいまくから先発せんぱつとともに登板とうばん合間あいまにはリリーフもねるなど、オールスターゲームまえまでに12しょう3はい4セーブ、防御ぼうぎょりつ1.75という活躍かつやくせた。しかし、後半こうはんせん開始かいしとなった7がつ29にちたい広島ひろしま15回戦かいせんで、2かいうら一死いっし植田うえだ幸弘ゆきひろへ3きゅうげたのちみぎひざをひねったため降板こうばん[19]。31にち東京とうきょう慈恵じえ医大いだい病院びょういんでの精密せいみつ検査けんさみぎひざ内側うちがわ半月はんつきばん損傷そんしょう判明はんめいし、治療ちりょうのためのこりのシーズンをぼうった[20]。チームは2ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょうたし、槙原まきはらもリハビリをえて近鉄きんてつバファローズとの日本にっぽんシリーズ出場しゅつじょうゆう資格しかく選手せんしゅりした[21]。10月24にちだい3せんに3番手ばんて登板とうばんし、やく3かげつぶりに実戦じっせん登板とうばんたした[22]

1990ねん前年ぜんねん怪我けがいており、4がつには2しょうげたがそのまれる試合しあいつづいた。5月まつ不調ふちょうによるさい調整ちょうせいあし打球だきゅうけた治療ちりょう理由りゆうぐんちした。なつ復帰ふっきしてからは復調ふくちょうしたが、このとし公式こうしきせん最終さいしゅうせんの10がつ10日とおかたい広島ひろしま26回戦かいせん先発せんぱつするも敗戦はいせん投手とうしゅとなって9しょうわり[23]、4ねんぶりに規定きてい投球とうきゅうかいにも到達とうたつできなかった。西武せいぶとの日本にっぽんシリーズでは、終盤しゅうばん好調こうちょうさをわれだい1せん先発せんぱつ起用きようされたが、その初回しょかい西武せいぶオレステス・デストラーデに、カウント0-3からの4きゅうが「ボール気味ぎみげたつもりが、どなか」となって1ごう3てん本塁打ほんるいだたれた[24]西武せいぶ無傷むきずの4連勝れんしょう日本一にっぽんいちとなり、このデストラーデの本塁打ほんるいだは「シリーズのながれをめた本塁打ほんるいだ」とひょうされた[25]

1991ねん自身じしんはつ開幕かいまく投手とうしゅ指名しめいされたが、7かい途中とちゅう2失点しってん勝敗しょうはいかなかった。7月19にちたい中日ちゅうにち14回戦かいせん先発せんぱつし、7かいひょうまで8-0と大量たいりょう援護えんごてんもらっていたが、徐々じょじょ援護えんごし8かい途中とちゅう降板こうばん[26]。しかし、救援きゅうえんした木田きだゆう失点しってんかさ中村なかむら武志たけし代打だいだ満塁まんるい本塁打ほんるいだたれて同点どうてん、そして延長えんちょう10かいにまたも中村なかむらにサヨナラ本塁打ほんるいだたれて、球団きゅうだん史上しじょうはつの8てんからの逆転ぎゃくてんけをきっした[26]

このとしのオールスターゲーム(2試合しあいせい)では、だい1せん先発せんぱつした。だい1せん東京とうきょうドーム開催かいさい日本にほんハムの本拠地ほんきょちだったためセ・リーグはビジターあつかい)であり、いつものくせで「だい2せん広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょうではビジターのユニフォーム」と勘違かんちがいし、槙原まきはらはホームようのユニフォームをクリーニングにしてしまっていた。ただし、だい2せんでの登板とうばん予定よていかったのでユニフォームとおなじデザインのTてぃーシャツでベンチにいてことなきをるはずだった。しかし、よりによって試合しあい延長えんちょうせん突入とつにゅうし、チームの選手せんしゅ無理むりることのできなかったぜん監督かんとく藤田ふじたもとつかさは、Tてぃーシャツのまま槙原まきはら登板とうばんさせることとなった。これを最後さいごにNPBのオールスターは延長えんちょうせんなし・9かいりとなっている。

なお、これにかんして槙原まきはらは、ベンチでの藤田ふじたもとつかさ野村のむら克也かつやとのやりとりとして、野村のむら球宴きゅうえんけの巨人きょじんせんそなえて西村にしむら龍次りゅうじげさせなかったかのようにはなしているが[27][28]前年ぜんねん野村のむらひきいるヤクルトは5だったため、このとしのオールスターで野村のむらはベンチりしていない。

1992ねんは、ねん連続れんぞく開幕かいまく投手とうしゅとなり完投かんとう勝利しょうりげるとう開幕かいまくから順調じゅんちょうぼしばし、前半ぜんはんせんだけで10しょうげ、3ねんぶりの2けた勝利しょうり記録きろくした。しかし、後半こうはんせんは2しょう8はい調子ちょうしとしてしまい自己じこ最多さいたタイの12しょうげる一方いっぽうけが13で2ねん連続れんぞくしてしまった[29]

現役げんえき後半こうはん

[編集へんしゅう]

1993ねんには斎藤さいとう桑田くわた調子ちょうしとすなか孤軍こぐん奮闘ふんとうして自己じこ最高さいこうの13しょう防御ぼうぎょりつ2.28の好成績こうせいせきでチーム最多さいたしょうFA権利けんり取得しゅとくした。シーズンオフになり槙原まきはらはいくつかの球団きゅうだんからさそいをけたが、球団きゅうだんフロントが慰留いりゅうなどの態度たいど一切いっさいしめさないことに不信ふしんかん[15]FA宣言せんげんをする。その当時とうじ監督かんとくつとめていた長嶋ながしま茂雄しげお槙原まきはら自宅じたく訪問ほうもん説得せっとくけてきょじん残留ざんりゅうめた。このさい長嶋ながしま槙原まきはら背番号せばんごう同数どうすうの17ほんのバラの花束はなたばってきた逸話いつわのこされているが、実際じっさいは20ほんだったという[30]

1994ねん5がつ18にち福岡ふくおかドームおこなわれたたい広島ひろしません平成へいせい唯一ゆいいつ完全かんぜん試合しあい達成たっせい[ちゅう 1]

平成へいせい唯一ゆいいつおよび20世紀せいき最後さいご達成たっせいしゃになった。現役げんえき引退いんたいには「ミスター・パーフェクト」として紹介しょうかいされることもおおい。完全かんぜん試合しあい達成たっせい引退いんたい会見かいけんさい記者きしゃからの質問しつもんで「一番いちばんおものこっている試合しあいはどれですか?」とかれたさい、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」とこたえたほどで、本人ほんにんにとってプロ野球やきゅう人生じんせいなか最高さいこうおもとなっている。大久保おおくぼひろしもとと「おしゃれカンケイ」に出演しゅつえんしたさい前々まえまえ門限もんげんやぶりで外出がいしゅつ禁止きんし1かげつをいいわたされたため、好投こうとうしてこれをこうと奮起ふんきした結果けっかである」とはなしている[31]

同年どうねん西武せいぶライオンズとの日本にっぽんシリーズではだい2せん優勝ゆうしょう決定けっていだい6せん完投かんとう勝利しょうり、2しょう0はい防御ぼうぎょりつ0.50と、いままでの勝負しょうぶよわいイメージを払拭ふっしょくする活躍かつやくでシリーズMVP獲得かくとくした。

1995ねんオフにレーシック手術しゅじゅつけたが、最初さいしょ手術しゅじゅつ左目ひだりめいたみがものじゅうえるようになってしまい、よくシーズン直前ちょくぜんあたらしいコンタクトレンズを用意よういし、シーズン終了しゅうりょうさい手術しゅじゅつをすることとなった[32]

1996ねん、6月19にちナゴヤ球場きゅうじょうでの中日ちゅうにちせんおと重鎮じゅうちん山崎やまざき武司たけし大豊たいほう泰昭やすあきに3連続れんぞく本塁打ほんるいだをまたもたれた。7月にむねいたみをうったえて入院にゅういんはい気胸ききょう診断しんだんされた。前日ぜんじつ球団きゅうだんトレーナーがおこなった鍼治療ちりょう電気でんきはりふかちすぎたのが原因げんいんで、槙原まきはらは鍼が原因げんいんとの自覚じかくちながら、トレーナーをかばうため表沙汰おもてざたにはしなかった。しかし、球団きゅうだんがわ槙原まきはら名誉めいよのために事実じじつ公表こうひょう治療ちりょうおこなったトレーナーを減俸げんぽうにするなどの処分しょぶんおこない、槙原まきはらには公傷こうしょうみとめた。槙原まきはらは「きたことは仕方しかたがないので、はやくリハビリをして復帰ふっき準備じゅんびをしたい」むねをコメントした。

1997ねん、チームが開幕かいまくから低迷ていめいするなか、チーム最多さいたタイの12しょうげるも自己じこワーストの本塁打ほんるいだ記録きろくした。

1998ねん開幕かいまくから出遅でおくれ4がつなかばにシーズンはつ登板とうばんはつ登板とうばんから不調ふちょう投球とうきゅう目立めだったものの、5月のあたまにシーズンはつ勝利しょうりとなる通算つうさん150しょう記録きろくした。5月16にちたいヤクルトせん延長えんちょうせんでリリーフ投手とうしゅ使つかってしまい、ベンチりしていた槇原まきはら登板とうばんさせて失点しってんおさえ6ねんぶりのセーブを記録きろく。この登板とうばんさかい調子ちょうしもど試合しあいではシーズンはつ完封かんぷうさらに3連勝れんしょう記録きろく通算つうさんでは4連勝れんしょう)。しかしそのころチームはストッパー不在ふざいくるしんでおり、ストレートフォークスライダーのキレをわれて、6がつまつからストッパー転向てんこう

リリーフでの成績せいせきは2しょう2はい18セーブ防御ぼうぎょりつ2.93(先発せんぱつでの成績せいせきは4しょう2はい防御ぼうぎょりつ4.71)を記録きろくし、27試合しあい登板とうばん失点しってんおさえたのは23試合しあいありセーブ機会きかいでの失敗しっぱいによる敗戦はいせんいちだけだった。7月15にち横浜よこはませんでは、3てんリードの8かい登板とうばん。1てんうしな走者そうしゃ一塁いちるい佐伯さえき貴弘たかひろみぎりチェンジかとおもわれたがボーク宣告せんこくされなおしになってしまう。直後ちょくご同点どうてん2てん本塁打ほんるいだたれ、続投ぞくとうした9かいにサヨナラけをきっする[33]

全国ぜんこく中継ちゅうけいおおいチームの宿命しゅくめいからかすこしの失敗しっぱいだけで一部いちぶマスコミとうでは「ダメ魔神まじん」(さらにいぬがおだったことから「いぬ魔神まじん」とも)とかれた。これは当時とうじ横浜よこはまベイスターズのリリーフエースだった佐々木ささき主浩おもひろ異名いみょうである「ハマのだい魔神まじん」をもじったものである。契約けいやく更改こうかいでは翌年よくねんもリリーフでの登板とうばん濃厚のうこうで「200しょうあきらめます」と記者きしゃ会見かいけん発表はっぴょうした。

1999ねん6月12にちたい阪神はんしんせん甲子園こうしえん)では、12かいうら同点どうてん一死いっしいち三塁さんるい場面ばめん打者だしゃ新庄しんじょう剛志たけし敬遠けいえんしようとしたが、新庄しんじょう敬遠けいえんだまたれサヨナラけした。なお、槙原まきはらにとってはこれが現役げんえき最後さいご敬遠けいえんであった[34]はじめてのぜん試合しあいリリーフ登板とうばんだったが、シーズン終盤しゅうばん不振ふしんによりストッパーの桑田そうでんわった。

2000ねん開幕かいまくからつづきストッパーとしてシーズンをむかえた。敗戦はいせん投手とうしゅにはならないものの投球とうきゅう内容ないようわるく、7がつ15にちたいヤクルト13回戦かいせんの9かい登板とうばんするも一死いっしれないまま降板こうばんさらあし負傷ふしょう、チームは逆転ぎゃくてんけをした。そのシーズン終盤しゅうばん一軍いちぐん復帰ふっき福岡ふくおかダイエーホークスとの日本にっぽんシリーズだい1せん同点どうてんの9かい登板とうばんするも、メルビン・ニエベス決勝けっしょう本塁打ほんるいだたれ敗戦はいせん投手とうしゅとなった。故障こしょう日本にっぽんシリーズにわせ無理むりからだつくったことで、それまでいち怪我けがかったかた負傷ふしょう直球ちょっきゅうが130km/hだいむ。

2001ねんかた怪我けがからの再起さいき目指めざしたが一向いっこう回復かいふくせず、このシーズンの一軍いちぐんでの登板とうばん引退いんたい試合しあいの1試合しあい登板とうばんまり、現役げんえき引退いんたい引退いんたい試合しあいは9月30にち横浜よこはません[35]、この試合しあいでは槙原まきはらから同年どうねん引退いんたいまっていた斎藤さいとう雅樹まさきにリレーされ、2人ふたりたまけたのは同年どうねん引退いんたいまっていた村田むらた真一しんいちだった。

現役げんえき引退いんたい

[編集へんしゅう]

引退いんたい野球やきゅう評論ひょうろんとして活動かつどうし、2023ねん現在げんざいTBSテレビスポーツニッポン評論ひょうろんつとめている。2017ねんまでは、TBSラジオ野球やきゅう解説かいせつしゃでもあった。2007ねんオフは巨人きょじん臨時りんじコーチとしてキャンプに参加さんかした。

2019ねん4がつ30にち平成へいせい最後さいご平成へいせい最後さいご試合しあいとなった巨人きょじん中日ちゅうにち3回戦かいせん東京とうきょうドーム)まえに、槙原まきはらひろしおのれ斎藤さいとう雅樹まさき桑田くわた真澄ますみの“平成へいせいの3ほんばしら”がマウンドにち、「10.8決戦けっせん」のリレー形式けいしきでの始球しきゅうしきおこなった。捕手ほしゅ村田むらた真一しんいちつとめた。

2021ねん2がつ25にちYouTubeチャンネル「ミスターパーフェクトチャンネル」を開設かいせつ

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

[編集へんしゅう]

速球そっきゅう投手とうしゅとして

[編集へんしゅう]

若手わかて時代じだいから、そのストレートのはやさが頻繁ひんぱん話題わだいがったが、入団にゅうだん当時とうじ江川えがわたくならんできょじん先発せんぱつ投手とうしゅじんはしらだった西本にしもときよしは「歴代れきだいたピッチャーのなか文句もんくしにマキが一番いちばんたまはやい。デビュー当時とうじ江川えがわさんよりうえだとおもった」と槙原まきはらのストレートをひょうしている。槙原まきはら一軍いちぐん昇格しょうかくした1983ねん春季しゅんきキャンプでは、ホテルで同室どうしつとなったさいに「おれきみよりはやいボールをげるピッチャーはこれまでたことがない。おれきみのストレートがあれば年間ねんかん30しょうだって出来できる」と槙原まきはらはげましたという。また、2001ねん9がつ30にち現役げんえき引退いんたいセレモニーでもはらたつとく当時とうじはヘッドコーチ・2002年度ねんどより巨人軍きょじんぐん監督かんとく内定ないてい)から「槙原まきはらくん一軍いちぐんのマウンドではじめてげたとき 150kmのストレート わすれません」と賛辞さんじおくられていた。

一方いっぽう小松こまつ辰雄たつお自身じしん打席だせきった経験けいけんまえて「槙原まきはらはスピードガンははやいんだけど江川えがわさんにくらべればたいしたことないな」とひょうしている[36]

たましゅ

[編集へんしゅう]

前述ぜんじゅつのようにプロ1ねんから速球そっきゅう投手とうしゅとしてらしていたが、プロ5ねんの1986ねん後半こうはんからたましゅスライダーをメインにし、1992ねんごろからは走者そうしゃがいなくてもセットポジションからげる投球とうきゅうスタイルに変更へんこう。150km/hをえるストレートはあまりられなくなる反面はんめんあずか四球しきゅうりつ大幅おおはば改善かいぜんされ、フォークボール、まれにスローカーブもまじえながら、引退いんたいまで三振さんしんれる本格ほんかくとして活躍かつやくした。スライダーは元々もともと入団にゅうだん当初とうしょからげていたがうまくがらず、けると一番いちばん危険きけんたまであるため試合しあいでは使つかえなかった。1986ねん、スライダーのにぎりはないかと模索もさくしていたところ、スコアラーの小松こまつ俊広としひろ篠塚しのづか利夫としおとキャッチボールをしていたさい「シノのスライダーはいいんだよなあ」とっていたのをき、すぐに篠塚しのづかかたおそわった[37]普通ふつうよりせばめて、スピードのるスライダーとなった。7月の阪神はんしんせんためしにげたところこう感触かんしょくたため、スライダーに自信じしんつようになった[37]

先発せんぱつ投手とうしゅとして

[編集へんしゅう]

きょじんでは斎藤さいとう雅樹まさき桑田くわた真澄ますみとともに「三本みもとはしら」とばれるほどの投手とうしゅだった。しかし、斎藤さいとう桑田くわた2人ふたり年間ねんかん200イニング以上いじょうをコンスタントにげて年間ねんかんつうじて活躍かつやくするのにたいして、槙原まきはらにんくらべて年間ねんかん200イニングをえたのは1988ねんの1のみであった。シーズンの勝利しょうりすうも1993ねんの13しょう最高さいこうであり、防御ぼうぎょりつ2てんだい序盤じょばんや1てんだい記録きろくしたとしもランキングでは2わること2不運ふうんかさなった。1988ねん年間ねんかん最多さいただつ三振さんしん記録きろくしたがセ・リーグの最多さいただつ三振さんしんのタイトルは1991ねんからの制定せいていで、主要しゅよう投手とうしゅタイトルを獲得かくとくできずつね先発せんぱつ3番手ばんてられていた。

1986ねん優勝ゆうしょうあらそいの終盤しゅうばん、10月7にちたいヤクルトスワローズせんマーク・ブロハード逆転ぎゃくてん決勝けっしょう2てん本塁打ほんるいだたれたり、1990ねん日本にっぽんシリーズだい1せん1かいひょうオレステス・デストラーデ先制せんせい3てん本塁打ほんるいだたれるなど、「ここ一番いちばんよわい」とひょうされていた。

打撃だげき守備しゅび

[編集へんしゅう]

打撃だげき守備しゅび非常ひじょう苦手にがてである。おくりバントも苦手にがてであり、そのため走者そうしゃいて打席だせきってもチャンスをひろげられず、結果けっかとして味方みかた援護えんごてんひくかった。そのことから、もとチームメイトの後藤ごとう孝志たかしから「槙原まきはらさんはバントがうまかったら200しょうしていた」とわれている[38]。1985ねん6がつ28にちたい阪神はんしんせん甲子園こうしえん)で唯一ゆいいつ本塁打ほんるいだはなっているが、これは球団きゅうだん5000ごうとなるメモリアル本塁打ほんるいだとなった。

弱視じゃくし

[編集へんしゅう]

弱視じゃくし視力しりょく非常ひじょうわるかった。コンタクトをつけても視力しりょくは0.5ほどで矯正きょうせいむずかしく、捕手ほしゅのサインがよくえなかった。きゅう登板とうばんコンタクトレンズをつける時間じかんがなく、だれがグラウンドにっているかも判別はんべつできない状態じょうたい投球とうきゅうしたこともある。引退いんたいじつはプロ生活せいかつ20ねん捕手ほしゅのサインがいちえなかった」と告白こくはくしている[39]

記録きろく相性あいしょう

[編集へんしゅう]

バース・かけぬの岡田おかだの3連続れんぞく被弾ひだん新庄しんじょう敬遠けいえんだまサヨナラ安打あんだ敗戦はいせん投手とうしゅ入来いりきゆうさく)はかたぐさひとつになっているが、実際じっさい阪神はんしんせんにはめっぽうつよく、前述ぜんじゅつのバックスクリーン3連発れんぱつつぎ試合しあいから4ねんにかけて8連勝れんしょう、1つけて3ねんにかけて7連勝れんしょう、そのも8連勝れんしょう、1つけて5連勝れんしょうしてるようにたい阪神はんしんせん38しょう10はい10完封かんぷう好成績こうせいせきのこしている。阪神はんしん以外いがいの4球団きゅうだんとの通算つうさん対戦たいせん成績せいせきは121しょう118はいと、勝率しょうりつ.506でしかないが、たい阪神はんしんせんでの勝率しょうりつどう時期じきおなじチームでエースとして活躍かつやくし、おなじく阪神はんしんせん得意とくいにしてた斎藤さいとう雅樹まさきをも上回うわまわる、勝率しょうりつ.792を記録きろく斎藤さいとうは.727)。プロはつ登板とうばんでのはつ勝利しょうりはつ完封かんぷう阪神はんしんせんであるうえに、はつ安打あんだはつ本塁打ほんるいだ阪神はんしんせんである。

現役げんえき時代じだいもっと苦手にがてとしていた打者だしゃとして、ヤクルトの古田ふるたあつし名前なまえげている。本人ほんにんいわく「ボールだまつわ、(対策たいさくって)うらをかいたつもりがたれるわでかおるのもいやだった」とのこと。古田ふるた引退いんたいに「槙原まきはらさんは変化球へんかきゅうげるさい独特どくとくくせがあり、とくにフォークボールをげるさいはグローブのなかでグッとにぎなおくせがあった」と当時とうじ事情じじょうかしている。広澤ひろさわ克実かつみ同様どうよう証言しょうげんをしており、「くせ見抜みぬいてもかならてるわけではないが対戦たいせんするがわとしてはらく当時とうじヤクルトの選手せんしゅはみんなっており、のチームでも有名ゆうめいだといた」と解説かいせつした。ぎゃく中日ちゅうにち時代じだい落合おちあい博満ひろみつは、槙原まきはらかおるのもいやなぐらい苦手にがてにしており、セーフティーバントをこころみたこともあったという[40]

広島東洋ひろしまとうようカープの大野おおのゆたかは、先発せんぱつ投手とうしゅとして活躍かつやくしていたころについて「槙原まきはらくんとのいはいつもえた。『1てんでもられたらわりだ』とおもってげていた」とかたっている[41]

その

[編集へんしゅう]

阪神はんしんタイガースの応援おうえん六甲ろっこうおろし」をひどくきらっていた時期じきがある。槙原まきはら引退いんたいプロ野球やきゅうちんプレー・こうプレー大賞たいしょう』に出演しゅつえんしたさい事情じじょうくわしくかたっており、飲食いんしょくてんなどで「六甲ろっこうおろし」のカラオケがながれると、まって1985ねん阪神はんしんせんにおけるバックスクリーン3連発れんぱつさいにうなだれる自分じぶん姿すがた画面がめんだいうつしにされ、「いつまでわらしゃにしたらむんだ」と憤慨ふんがいしていたという。しかしある時期じきさかいに「あれだけのクリーンナップにこう勝負しょうぶした投手とうしゅおれだけだ」とほこりにおもうようになり、引退いんたい講演こうえんせきなどで「バックスクリーン3連発れんぱつたれた槙原まきはらです」とわらいをるネタにする余裕よゆう出来できたとべている。

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]
  • 元木もとき大介だいすけ自著じちょにおいて冗談じょうだんじりに「義兄弟ぎきょうだいさかずきかわしたなか」とかたり「面倒めんどうのいいじんだった」と槙原まきはらひょうしている。とく新人しんじんや、球団きゅうだんから移籍いせきした選手せんしゅをよく食事しょくじや、みにさそったとかれてある[42]
  • 花火はなび大好だいすき。愛犬あいけん花火はなびせる目的もくてきライター直接ちょくせつ着火ちゃっかしようとしていたら花火はなびきゅう引火いんかし、いきおいよくった火花ひばな槙原まきはら右手みぎて親指おやゆび接触せっしょくし、おおきなみずぶくれができた。その翌日よくじつ(1988ねん7がつ20日はつかたい阪神はんしんせん)は先発せんぱつ登板とうばんだったため、チームない報道陣ほうどうじんには「マメ出来できた」とってごまかし登板とうばんした。8かいみずぶくれがやぶれたが、事実じじつらない解説かいせつしゃが「ながらも頑張がんばっている」といい、槙原まきはら本当ほんとうのこともえず、えながらつづけた[43][44]
  • 金遣かねづかいはあらく、現役げんえき時代じだいすくなくとも20おくかせいだが、引退いんたいにテレビ出演しゅつえんしたときには、そのおおくを使つかたしたことを告白こくはくしている。また、かぶ取引とりひきにもかねおおついやしており、夫人ふじん不満ふまんをもっていることをべている[45]本人ほんにんも「江川えがわたくカーブおそわろうとしたら、かぶ取引とりひきおそわった」と出演しゅつえん番組ばんぐみ度々たびたびネタにしている。
  • 2004ねん5がつには、愛知あいちけん碧南へきなんうち発生はっせいした強盗ごうとう傷害しょうがい事件じけん実兄じっけい現行げんこうはん逮捕たいほされたため、出演しゅつえんした番組ばんぐみないにて謝罪しゃざいするかたちいたった。
  • 上述じょうじゅつ完全かんぜん試合しあい達成たっせいから28ねん経過けいかした2022ねん4がつ佐々木ささきあきらのぞみ槙原まきはら以来いらい完全かんぜん試合しあい達成たっせいしたことにともない、槙原まきはら存在そんざいふたた注目ちゅうもくされることになった[46][47]
  • 崎陽軒きようけんをこよなくあいする人物じんぶつとしてられている。空港くうこう新幹線しんかんせんでの食事しょくじ崎陽軒きようけん(の弁当べんとう)とめている。
  • ナゴヤ球場きゅうじょう登板とうばんしたさい、その試合しあい観戦かんせんしていた後藤ごとう孝志たかし槙原まきはらおな愛知あいちけん出身しゅっしんだい中日ちゅうにちファン)に「名古屋なごや裏切うらぎもの」と大声おおごえでヤジをばされた。その後藤ごとう巨人きょじん入団にゅうだんし、「よくもナゴヤ球場きゅうじょうで、裏切うらぎもの!とヤジをばしやがって」と槙原まきはらかえされている。

詳細しょうさい情報じょうほう

[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

[編集へんしゅう]
とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1983 巨人きょじん 31 25 9 3 0 12 9 1 -- .571 764 184.0 165 19 66 2 6 124 1 1 83 75 3.67 1.26
1984 27 24 5 2 0 8 9 0 -- .471 646 145.2 143 20 72 3 4 114 6 0 83 76 4.70 1.48
1985 14 13 5 1 0 4 7 0 -- .364 406 92.1 94 10 46 2 1 57 3 1 43 41 4.00 1.52
1986 22 15 6 3 2 9 6 0 -- .600 453 114.0 88 8 29 4 1 125 1 0 32 29 2.29 1.03
1987 21 21 5 2 1 10 6 0 -- .625 582 140.1 132 12 38 4 1 132 4 0 56 53 3.40 1.21
1988 27 27 11 4 1 10 13 0 -- .435 843 208.2 170 11 43 8 7 187 6 0 63 50 2.16 1.02
1989 21 17 14 4 0 12 4 4 -- .750 592 150.2 113 6 33 4 2 141 4 1 34 30 1.79 0.97
1990 17 15 6 0 1 9 5 0 -- .643 440 102.1 107 7 32 0 3 87 2 0 48 45 3.96 1.36
1991 25 25 11 2 0 9 12 0 -- .429 781 186.0 176 20 59 0 10 152 7 3 76 70 3.39 1.26
1992 29 26 12 2 0 12 13 1 -- .480 858 196.0 192 21 80 4 5 159 4 0 88 78 3.58 1.39
1993 28 24 5 3 0 13 5 0 -- .722 715 173.2 149 17 53 1 4 175 12 0 54 44 2.28 1.16
1994 29 26 7 4 1 12 8 0 -- .600 762 185.0 169 12 49 6 7 153 5 2 62 58 2.82 1.18
1995 26 25 8 2 1 11 8 0 -- .579 768 190.2 167 22 44 9 3 145 4 0 67 61 2.88 1.11
1996 18 18 4 1 0 6 6 0 -- .500 519 122.1 113 18 53 3 1 92 7 0 57 56 4.12 1.36
1997 25 24 4 1 1 12 9 0 -- .571 614 150.2 140 23 36 3 2 115 2 2 62 58 3.46 1.17
1998 36 9 1 1 1 6 4 18 -- .600 332 81.1 67 12 23 0 2 77 0 3 39 36 3.98 1.11
1999 45 0 0 0 0 4 3 23 -- .571 178 41.1 40 4 11 3 1 55 4 1 14 13 2.83 1.23
2000 21 0 0 0 0 0 1 9 -- .000 81 19.2 15 1 6 1 1 20 3 0 9 9 4.12 1.09
2001 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00 0.00
通算つうさん:19ねん 463 334 113 35 9 159 128 56 -- .554 10335 2485.0 2240 243 773 57 61 2111 75 14 970 882 3.19 1.21
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

通算つうさん打撃だげき成績せいせき

[編集へんしゅう]

812打数だすう 87安打あんだ(.107) 1本塁打ほんるいだ 42打点だてん[48]

タイトル

[編集へんしゅう]
  • 最多さいただつ三振さんしん:1かい1988ねん)※当時とうじ連盟れんめい表彰ひょうしょうはなく、セントラル・リーグでは1991ねんより表彰ひょうしょう。ただし、日本にっぽん野球やきゅう機構きこうオフィシャルサイトでは「最多さいただつ三振さんしん獲得かくとくしゃとして名前なまえ記載きさいされている[49]

表彰ひょうしょう

[編集へんしゅう]

記録きろく

[編集へんしゅう]
はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
その記録きろく

背番号せばんごう

[編集へんしゅう]
  • 54(1982ねん - 1986ねん
  • 17(1987ねん - 2001ねん

関連かんれん情報じょうほう

[編集へんしゅう]

出演しゅつえん番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]

著書ちょしょ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本にっぽんプロ野球やきゅうでは、人工芝じんこうしば球場きゅうじょうはつ、ドームがた球場きゅうじょうはつ完全かんぜん試合しあいであり、完全かんぜん試合しあいがテレビで全国ぜんこくなま中継ちゅうけいされたのもはじめてのことだった。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 会社かいしゃ概要がいよう」『オフィスコンサルティング株式会社かぶしきがいしゃ。2024ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ 『'85プロ野球やきゅう 12球団きゅうだんぜん選手せんしゅ百科ひゃっか名鑑めいかんだい9かんだい3ごう通算つうさんだい88ごう、1985ねん3がつごう)、日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ、1985ねん3がつ31にち、37ぺーじ
  3. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん1983ねん4がつ8にち夕刊ゆうかん3めんれの開幕かいまく"1ぐんキップ" おどた50ばんトリオ」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1983ねん4がつp321
  4. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1983ねん4がつ17にち17めん「SBO かけぬの脱帽だつぼう "だい4の投手とうしゅ"へ期待きたいじゅうふん読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1983ねん4がつp663
  5. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1983ねん4がつ17にち17めん槙原まきはらねつなげ完封かんぷうデビュー 10かいを5安打あんだ9だつ三振さんしん読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1983ねん4がつp663
  6. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1983ねん11がつ10日とおか17めん「MVPははら(セ・リーグ)と東尾ひがしお(パ・リーグ) 新人しんじんおう槙原まきはら巨人きょじん)とむらにちハム)」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1983ねん11月p363
  7. ^ 永久えいきゅう保存ほぞんばん日本にっぽんプロ野球やきゅうめい投手とうしゅ100にん槙原まきはらひろしおのれ項目こうもく(1989ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  8. ^ もと阪神はんしん・バースぼくらのおかげできみ有名ゆうめいに」バックスクリーン3連発れんぱつびせた槙原まきはらをいじる」『デイリースポーツ online』株式会社かぶしきがいしゃデイリースポーツ、2023ねん3がつ30にち。2023ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  9. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1985ねん6がつ29にち17めん巨人きょじん槙原まきはら球団きゅうだん通算つうさん5000本塁打ほんるいだ読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1985ねん6がつp1163
  10. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1985ねん7がつ15にち19めん巨人きょじん槙原まきはらひだり股関節こかんせつ負傷ふしょう読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1985ねん7がつp625
  11. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1985ねん7がつ18にち17めん槙原まきはら股関節こかんせつ骨折こっせつ入院にゅういん読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1985ねん7がつp763
  12. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん1986ねん5がつ4にち17めん槙原まきはら10かげつぶりに一軍いちぐん昇格しょうかく読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1983ねん5がつp125
  13. ^ 日刊にっかんスポーツ1986ねん5がつ11にち2めん槙原まきはら4かいKO 300にちぶり先発せんぱつかざれず」
  14. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1986ねん9がつ7にち16めん「セ、槙原まきはらとクロマティ 月間げっかんMVP パは石毛いしげが3度目どめ読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1986ねん9がつp268
  15. ^ a b 『パーフェクトとKOのあいだ - ここ一番いちばん投球とうきゅう心理しんり』(光文社こうぶんしゃ
  16. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1986ねん10がつ7にち17めん巨人きょじん痛恨つうこんの1はい首位しゅいすべる」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1986ねん10がつ8にちp317
  17. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1987ねん10がつ17にち17めん「YGリポート 一味いちみちがった槙原まきはら 偵察ていさつたいも『オヤ?』」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1987ねん10がつp815
  18. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1987ねん10がつ30にち17めん槙原まきはらかいとう!西武せいぶめる だつ11三振さんしん、3安打あんだ完封かんぷう読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1987ねん10がつp1393
  19. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1989ねん7がつ30にち19めん巨人きょじん槙原まきはらひろしおのれ投手とうしゅ)がみぎひざつう退場たいじょう読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1989ねん7がつp1477
  20. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1989ねん8がつ1にち19めん槙原まきはら今季こんき絶望ぜつぼう 半月はんつきばん損傷そんしょうちか手術しゅじゅつ読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1989ねん8がつp19
  21. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1989ねん10がつ20日はつか19めん日本にっぽんシリーズ出場しゅつじょうゆう資格しかく選手せんしゅ読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1989ねん10がつp995
  22. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1989ねん10がつ25にち19めん「『先発せんぱつしたい』槙原まきはら読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1989ねん10がつp1263
  23. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1990ねん10がつ11にち19めん槙原まきはら10しょうとどかず 巨人きょじん公式こうしきせん終了しゅうりょう 広島ひろしま2確保かくほ読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1990ねん10がつp547
  24. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1990ねん10がつ19にち19めん「SBO 槙原まきはら中尾なかお 不用意ふよういぼうダマ」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1990ねん10がつp1091
  25. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1990ねん10がつ25にち19めんながれはいちきゅうまった」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1990ねん10がつp1309
  26. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん1991ねん7がつ20日はつか21めん「SOB りょうチームの今季こんき象徴しょうちょう 槙原まきばら8かいついにしずむ」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1991ねん7がつp989
  27. ^ 槙原まきはらひろしおのれ オールスターのずかしいおもTてぃーシャツで登板とうばん…」ノムさんと藤田ふじたもとつかさ監督かんとくのやりとりも暴露ばくろ」『スポーツニッポン』2024ねん7がつ21にち。2024ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  28. ^ https://www.youtube.com/watch?v=vfWdV6IOrpY
  29. ^ ベースボール・レコード・ブック1993
  30. ^ スポニチFLASH photo & blog スポニチBlog 槙原まきはらひろしおのれのベースボール見聞けんぶんろく上原うえはら今年ことしはそのをチームにささげてよ!
  31. ^ ジャイアンツ広場ひろば 動画どうが YOMIURI ONLINE(読売新聞よみうりしんぶん
  32. ^ 週刊しゅうかんプレイボーイ』2009/06/15ごう集英社しゅうえいしゃ
  33. ^ 著書ちょしょ パーフェクトとKOのあいだ
  34. ^ 新庄しんじょうのサヨナラ敬遠けいえんは「絶対ぜったいにベースをんでいた」と槙原まきはら NEWSポストセブン 2015ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  35. ^ 槙原まきはらひろしおのれ Gの“50ばんトリオ”から“先発せんぱつさんほんばしら”へ/プロ野球やきゅう1980年代ねんだいめい選手せんしゅ | 野球やきゅうコラム」『週刊しゅうかんベースボールONLINE』2019ねん3がつ27にち。2021ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  36. ^ だい 小松こまつ辰雄たつおさんが絶対ぜったいてないとおもったピッチャーデーブ大久保おおくぼチャンネル 2021/04/12 (2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん)
  37. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール1986ねん9がつ15にちごう「Gとうワクワク対談たいだん 槙原まきはらひろしおのれVS堀内ほりうち恒夫つねお 150キロはてた。それよりチームの勝利しょうり!」p16-p20
  38. ^ “Gたましい注入ちゅうにゅう!?もと巨人きょじん選手せんしゅ 東海大とうかいだい臨時りんじコーチに
  39. ^ もときょじん槙原まきはら告白こくはく “プロ生活せいかつ20年間ねんかんずっと・・・・・・”[リンク]
  40. ^ 落合おちあい博満ひろみつ自伝じでん勝負しょうぶ方程式ほうていしき』(小学館しょうがくかん 1994ねん6がつ ISBN 4093871213
  41. ^ 大野おおのゆたか自伝じでん全力ぜんりょく投球とうきゅうえらんだみちいはなし』(2001ねん宝島社たからじましゃISBN 4796621237
  42. ^ 『クセしゃ元木もとき大介だいすけ自伝じでん』(双葉社ふたばしゃ、2006ねん3がつISBN 4575298794
  43. ^ 2008ねん12月15にち放送ほうそうの『Jスポ』で山本やまもとあきらとの対談たいだん「すべらないはなし」。
  44. ^ 槙原まきはらひろしおのれ墓場はかばまでっていくつもりだった」衝撃しょうげき告白こくはく 血染ちぞねつとううらきていた「前夜ぜんやだい事件じけん」『スポーツニッポン』2023ねん7がつ29にち。2023ねん7がつ31にち閲覧えつらん
  45. ^ もと巨人軍きょじんぐん夫婦ふうふ 引退いんたい人生じんせいSP
  46. ^ 槙原まきはらひろしおのれ完全かんぜん試合しあい佐々木ささきあきらまれだいあっぱれ「まだまだやる可能かのうせい十分じゅうぶん…だからこわい」」『日刊にっかんスポーツ』2022ねん4がつ17にち。2022ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  47. ^ 佐々木ささきあきらまれ完全かんぜん試合しあいに28ねんまえ達成たっせい槙原まきはらひろしおのれさんは脱帽だつぼうだいアッパレ…今回こんかいまいったと。拍手はくしゅおくることしかない」」『中日ちゅうにちスポーツ』2022ねん4がつ17にち。2022ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  48. ^ 槙原まきはら ひろしおのれ読売よみうりジャイアンツ) | 個人こじん年度ねんどべつ成績せいせき」『NPB.jp 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう。2024ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  49. ^ 年度ねんどべつ成績せいせき 1988ねん セントラル・リーグ」『NPB.jp 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう。2024ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  50. ^ 5000ごう槙原まきはらひろしおのれ巨人きょじん記念きねん本塁打ほんるいだ一覧いちらん」『日刊にっかんスポーツ』2017ねん9がつ26にち。2023ねん9がつ17にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]