佐野さのもとくに

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐野さの もとくに
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 神奈川かながわけん横浜よこはま磯子いそご
生年月日せいねんがっぴ (1958-03-06) 1958ねん3月6にち(66さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
179 cm
89 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 捕手ほしゅ
プロ 1977ねん ドラフト3
はつ出場しゅつじょう 1979ねん6月9にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1986ねん6月21にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

佐野さの もとくに(さの もとくに、1958ねん3月6にち - )は、神奈川かながわけん横浜よこはま磯子いそご[1]出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ捕手ほしゅ)・コーチ

父親ちちおやギリシャじん帰化きかまえ本名ほんみょうは「クリストホロス・ハザカキス[1]

1981ねんまでの登録とうろくめい佐野さのクリスト

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

インターナショナルスクールから地元じもと小学校しょうがっこう編入へんにゅう横浜よこはま立岡たちおかむら中学校ちゅうがっこうて、1975ねん横浜よこはま高校こうこう進学しんがく[1]同期どうきのエース中田なかた良弘よしひろとバッテリーをみ、2ねん1976ねんには秋季しゅうきけん大会たいかい準決勝じゅんけっしょうすすむが、東海大相模とうかいだいさがみ敗退はいたい。3ねん1977ねんにはなつけん大会たいかい準々じゅんじゅん決勝けっしょう法政ほうせいだかやぶれ、甲子園こうしえんには出場しゅつじょうできなかった。1ねんのチームメイトに遊撃手ゆうげきしゅ吉田よしだ博之ひろゆきがいた。

同年どうねんのドラフト3近鉄きんてつバファローズ入団にゅうだん[1]

1979ねんはじめて一軍いちぐん昇格しょうかくした。6月9にちロッテたたかえ日生にっせい)に3ばん左翼さよくしゅとしてはつ出場しゅつじょうはつ先発せんぱつ出場しゅつじょうたし、偵察ていさつオーダー佐々木ささき恭介きょうすけ交代こうたいしている。

1980ねんウエスタン・リーグにおいて20本塁打ほんるいだ本塁打ほんるいだおう打点だてんおうかん獲得かくとくするなど地力じりきはあったが、なしでん昌孝まさたか有田ありた修三しゅうぞうといった捕手ほしゅじん全盛期ぜんせいきであったため出場しゅつじょう機会きかいめぐまれずぐんらしがつづいた。1982ねん日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくし、横浜よこはま高校こうこう時代じだい恩師おんし渡辺わたなべはじめ監督かんとくから1文字もじり、「佐野さのもとくに」と改名かいめい[2][3]した。

1985ねん島貫しまぬき省一しょういちとの交換こうかんトレードで読売よみうりジャイアンツ移籍いせき[1]当初とうしょ山倉やまくら和博かずひろつづく2番手ばんて捕手ほしゅとして期待きたいされていたが、4がつ5にちおこなわれた大洋たいようとのオープンせん水戸みと)の5かい本塁ほんるいじょう走者そうしゃ若菜わかな嘉晴よしはるひだりあし大腿だいたいをスパイクされ7はり皮下ひかきれそう退場たいじょうし、その12にち阪神はんしんせん槙原まきはらひろしおのれとバッテリーをんださいランディ・バースかけぬの雅之まさゆき岡田おかだ彰布あきのぶのクリーンナップからバックスクリーンへの3連続れんぞく本塁打ほんるいだびた。どう14にち大洋たいようせん後楽園こうらくえん)で8かいうら斉藤さいとう明夫あきおからはつ安打あんだ21にち広島ひろしまたたかえ広島ひろしま市民しみん)で3かいひょう白武しらたけ佳久よしひさより3ランで生涯しょうがい唯一ゆいいつとなる公式こうしきせん本塁打ほんるいだ打点だてん記録きろくしている。

1986ねんには近鉄きんてつ時代じだいえることができなかった有田ありたきょじん移籍いせきしてきたため、出場しゅつじょう機会きかいさら減少げんしょう

1988ねんは1A・マイアミ・マーリンズに野球やきゅう留学りゅうがくした。おもぐんにおいて若手わかて投手とうしゅ育成いくせい専念せんねんしていた。

1989ねん最後さいご現役げんえき引退いんたい[1]

1990ねん巨人きょじんぐん監督かんとくから大洋たいよう一軍いちぐん監督かんとくとして移籍いせきした須藤すとうゆたかさそいで大洋たいようぐんバッテリーコーチに就任しゅうにん

1991ねんから1992ねんには一軍いちぐんバッテリーコーチをつとめ、当時とうじ大洋たいよう選手せんしゅであったたにしげる元信もとのぶは「佐野さのさんはすごくユーモアがあって練習れんしゅうきびしいんだけど、いろんな練習れんしゅう方法ほうほうをやってくれたり。試合しあいまえでもキャンプでもつきっきりで、宜野湾ぎのわんから宿舎しゅくしゃのある那覇なはまで15キロくらいを一緒いっしょはしってくれたりね。いろんな練習れんしゅう方法ほうほうかんがえてきてくれた。」[4]、「キャッチャーの下半身かはんしん使つかかた必要ひつよう動作どうさなど基本きほんてきことおそわった」[5]べている。

1993ねんには古巣ふるす巨人きょじんぐん育成いくせいコーチとして復帰ふっき

1994ねんまでつとめた。

1996ねん1998ねんぐんバッテリーコーチ。

1999ねんから2000ねんまでは一軍いちぐんバッテリーコーチをつとめ、2000ねんのリーグ優勝ゆうしょう日本一にっぽんいち貢献こうけん

巨人きょじんコーチ退任たいにんラジオ日本にっぽんでの番組ばんぐみ出演しゅつえんがあったが、講演こうえん中心ちゅうしん活動かつどうしており、現在げんざい横浜よこはま少年しょうねん野球やきゅう指導しどうちかられており、野球やきゅう教室きょうしつひらいている。プロ野球やきゅうマスターズリーグ札幌さっぽろアンビシャスにも在籍ざいせきした。

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1979 近鉄きんてつ 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1981 6 7 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 4 0 .000 .143 .000 .143
1984 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .500 .500
1985 巨人きょじん 6 16 13 1 3 0 0 1 6 3 0 0 1 0 2 0 0 7 0 .231 .333 .462 .795
1986 3 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算つうさん:5ねん 27 26 22 1 3 0 0 1 6 3 0 0 1 0 2 0 1 13 0 .136 .240 .273 .513

年度ねんどべつ守備しゅび成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

ためし

ごう
くわだて

かず
もと
ぬすめ
るい
ぬすめ
るい
とげ

とめ
りつ
1981 2 1 0 .000
1984 2 0 1 1.000
1985 6 8 0 .000
1986 3 2 0 .000
通算つうさん 13 11 1 .083

記録きろく[編集へんしゅう]

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 39 (1978ねん - 1984ねん
  • 37 (1985ねん - 1988ねん
  • 67 (1989ねん
  • 82 (1990ねん - 1992ねん
  • 80 (1993ねん - 1994ねん、1998ねん
  • 89 (1996ねん
  • 70 (1999ねん - 2000ねん

登録とうろくめい[編集へんしゅう]

  • 佐野さの クリスト (さの くりすと、1978ねん - 1981ねん
  • 佐野さの もとくに (さの もとくに、1982ねん - 2000ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f プロ野球やきゅう人名じんめい事典じてん 2003(2003ねん日外にちがいアソシエーツ)、259ページ
  2. ^ 勇退ゆうたいした横浜よこはま高校こうこう渡辺わたなべ監督かんとくから名前なまえゆずけたもとプロ選手せんしゅ - Newsポストセブン
  3. ^ 渡辺わたなべはじめがれ ふりくな "横浜よこはま"野球やきゅうささげた熱情ねつじょうはん世紀せいき』(報知新聞社ほうちしんぶんしゃ:1982ねん3がつ)ではドラフトまえ日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくしたとかれている。
  4. ^ オレはかめゆっくり…たにしげる2000安打あんだかたる - 日刊にっかんスポーツ
  5. ^ たにしげる元信もとのぶちょたにしげるりゅう キャッチャー思考しこう (たりまえかさねが確固かっこたる自信じしんむ)』日本文芸社にほんぶんげいしゃ2017ねんISBN 4537214953、P16

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]