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木佐貫 きさぬき 洋 ひろし
基本 きほん 情報 じょうほう 国籍 こくせき
日本 にっぽん 出身 しゅっしん 地 ち
鹿児島 かごしま 県 けん 川内 せんだい 市 し (現 げん :薩摩 さつま 川内 せんだい 市 し ) 生年月日 せいねんがっぴ
(1980-05-17 ) 1980年 ねん 5月17日 にち (44歳 さい ) 身長 しんちょう 体重 たいじゅう
188 cm 84 kg 選手 せんしゅ 情報 じょうほう 投球 とうきゅう ・打席 だせき
右 みぎ 投 とう 右 みぎ 打 だ ポジション
投手 とうしゅ プロ入 い り
2002年 ねん 自由 じゆう 獲得 かくとく 枠 わく [1] 初 はつ 出場 しゅつじょう
2003年 ねん 3月 がつ 30日 にち 最終 さいしゅう 出場 しゅつじょう
2015年 ねん 9月 がつ 30日 にち (引退 いんたい 試合 しあい ) 経歴 けいれき (括弧 かっこ 内 ない はプロチーム在籍 ざいせき 年度 ねんど )
選手 せんしゅ 歴 れき
派遣 はけん 歴 れき
コーチ歴 れき
読売 よみうり ジャイアンツ (2019 - 2020) 国際 こくさい 大会 たいかい 代表 だいひょう チーム
日本 にっぽん 五輪 ごりん
2003年 ねん (アジア予選 よせん )
木佐貫 きさぬき 洋 ひろし (きさぬき ひろし、1980年 ねん 5月17日 にち [1] - )は、鹿児島 かごしま 県 けん 川内 せんだい 市 し (現 げん :薩摩 さつま 川内 せんだい 市 し )出身 しゅっしん の元 もと プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ (投手 とうしゅ )。右 みぎ 投 とう 右 みぎ 打 だ 。
川内 せんだい 市 し 川内 せんだい 南中 なんちゅう 学校 がっこう では軟式 なんしき 野球 やきゅう 部 ぶ に所属 しょぞく 。川内 かわうち 高校 こうこう では3年 ねん 時 じ の1998年 ねん 、鹿児島 かごしま 県 けん 高等 こうとう 学校 がっこう 春季 しゅんき 野球 やきゅう 大会 たいかい にて杉内 すぎうち 俊哉 としや を擁 よう する鹿児島 かごしま 実業 じつぎょう を破 やぶ り優勝 ゆうしょう 。夏 なつ の全国 ぜんこく 高等 こうとう 学校 がっこう 野球 やきゅう 選手権 せんしゅけん 鹿児島 かごしま 大会 たいかい 決勝 けっしょう では鹿児島 かごしま 実業 じつぎょう に1-3で惜敗 せきはい 。甲子園 こうしえん 出場 しゅつじょう を逃 のが した[2] 。卒業 そつぎょう 後 ご は亜細亜大学 あじあだいがく に進学 しんがく 。2年 ねん 時 じ にはリーグ戦 せん 未 み 勝利 しょうり ながら大学 だいがく 選手権 せんしゅけん 準決勝 じゅんけっしょう でドラフト有力 ゆうりょく 候補 こうほ だった山村 さんそん 路 ろ 直 ただし (九州共立大 きゅうしゅうきょうりつだい )と延長 えんちょう 10回 かい を投 な げ合 あ って完封 かんぷう 勝利 しょうり 。決勝 けっしょう でも先発 せんぱつ し3回 かい 1失点 しってん で交代 こうたい するも優勝 ゆうしょう に貢献 こうけん した[3] 。東都 とうと 大学 だいがく リーグ通算 つうさん 31試合 しあい 登板 とうばん 、12勝 しょう 8敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 1.80、225奪 だつ 三振 さんしん 。4年生 ねんせい 時 じ は大学 だいがく 選手権 せんしゅけん で全 ぜん 試合 しあい に登板 とうばん し、準決勝 じゅんけっしょう では九州共立大 きゅうしゅうきょうりつだい ・新垣 あらかき 渚 なぎさ と投 な げ合 あ って完封 かんぷう 勝利 しょうり 、決勝 けっしょう では和田 わだ 毅 あつし (早大 そうだい )との投手 とうしゅ 戦 せん を制 せい して優勝 ゆうしょう [4] 。明治 めいじ 神宮 じんぐう 大会 たいかい では右腕 うわん の痛 いた みもあって決勝 けっしょう のみ救援 きゅうえん 登板 とうばん して胴上 どうあ げ投手 とうしゅ [5] 。2季 き 連続 れんぞく で最高 さいこう 殊勲 しゅくん 選手 せんしゅ 、最優秀 さいゆうしゅう 投手 とうしゅ 、ベストナインの三 さん 冠 かん 受賞 じゅしょう 。第 だい 1回 かい 世界 せかい 大学 だいがく 野球 やきゅう 選手権 せんしゅけん 日本 にっぽん 代表 だいひょう にも選出 せんしゅつ された[1] 。
2002年度 ねんど ドラフト会議 かいぎ にて読売 よみうり ジャイアンツ から自由 じゆう 獲得 かくとく 枠 わく 指名 しめい を受 う けて入団 にゅうだん [1] 。
2003年 ねん (1年 ねん 目 め )は大学 だいがく から同期 どうき で広島東洋 ひろしまとうよう カープ の永川 えいかわ 勝浩 かつひろ とシーズン最後 さいご まで新人 しんじん 王 おう 争 あらそ いを演 えん じ、最終 さいしゅう 的 てき にリーグ最多 さいた タイの2完封 かんぷう (共 とも に中日 ちゅうにち 戦 せん )を含 ふく むシーズン10勝 しょう を挙 あ げ、新人 しんじん 王 おう に選 えら ばれる。
2004年 ねん は成績 せいせき が伸 の びず、シーズン途中 とちゅう から一時 いちじ 抑 おさ え へ転向 てんこう する。
2005年 ねん は14試合 しあい の登板 とうばん にとどまり未 み 勝利 しょうり (0勝 しょう 1敗 はい 5セーブ )、7月 がつ に右肩 みぎかた 甲 かぶと 骨 こつ 下 か の手術 しゅじゅつ を受 う けた。
2006年 ねん 1月 がつ に二 に 岡 おか 智宏 ともひろ とともに奄美 あまみ 大島 おおしま での小久保 こくぼ 裕紀 ゆうき ・斉藤 さいとう 和巳 かずみ の自主 じしゅ トレに同行 どうこう 。6月19日 にち のオリックス・バファローズ 戦 せん で約 やく 1年 ねん ぶりに一軍 いちぐん 登録 とうろく 、即 そく 先発 せんぱつ するも、3失点 しってん で敗戦 はいせん 投手 とうしゅ になる。合計 ごうけい 3度 ど 先発 せんぱつ のチャンスを与 あた えられるが、いずれも序盤 じょばん にKOされ0勝 しょう 3敗 はい でシーズンを終 お え、2年 ねん 連続 れんぞく 未 み 勝利 しょうり という結果 けっか に終 お わった。
2007年 ねん は主力 しゅりょく 投手 とうしゅ であった上原 うえはら 浩 ひろし 治 ち ・ジェレミー・パウエル が故障 こしょう で出遅 でおく れたため開幕 かいまく 一軍 いちぐん 入 い りを果 は たし、自己 じこ 最高 さいこう となる12勝 しょう (9敗 はい )・防御 ぼうぎょ 率 りつ 3.09を記録 きろく した。内海 うつみ 哲也 てつや ・高橋 たかはし 尚 しょう 成 なり とともに一 いち 年 ねん を通 とお してローテーションを守 まも った。
2008年 ねん は、開幕 かいまく から低迷 ていめい するチームの中 なか で好投 こうとう し、4月で3勝 しょう (1敗 はい )をあげ、敗戦 はいせん による「8イニング完投 かんとう 」ながら2004年 ねん 以来 いらい となる完投 かんとう も記録 きろく した。しかし5月 がつ から調子 ちょうし を崩 くず し、7日 にち の阪神 はんしん タイガース戦 せん では3回 かい 途中 とちゅう 金本 かなもと 知 とも 憲 けん への頭部 とうぶ 死球 しきゅう で危険 きけん 球 だま 退場 たいじょう となる。以後 いご 、短 みじか いイニングで降板 こうばん する試合 しあい が続 つづ き8月 がつ に一軍 いちぐん 登録 とうろく を抹消 まっしょう 。チームは日本 にっぽん シリーズ に出場 しゅつじょう したが、木佐貫 きさぬき 自身 じしん は登板 とうばん 機会 きかい を回避 かいひ し、そのままシーズンを終 お えた。前半 ぜんはん 戦 せん の貢献 こうけん を主張 しゅちょう したが認 みと められず年俸 ねんぽう 減 げん で更改 こうかい した。年末 ねんまつ 会田 あいだ 有志 ゆうじ などの成長 せいちょう 株 かぶ がドミニカウィンターリーグ に派遣 はけん されることを受 う け、本人 ほんにん の希望 きぼう でドミニカへ渡 わた った。
2009年 ねん は、開幕 かいまく 先発 せんぱつ ローテーション枠 わく 争 あらそ いに敗 やぶ れ、二 に 軍 ぐん スタート。8月のローテーションの谷間 たにま でようやくシーズン初 はつ 登板 とうばん ・初 はつ 先発 せんぱつ のチャンスを得 え たが、3回 かい 途中 とちゅう 3失点 しってん でKOされ、二 に 軍 ぐん へ降格 こうかく 。その後 ご 、一軍 いちぐん 登板 とうばん 機会 きかい が得 え られぬまま、シーズンを終 お えた。二 に 軍 ぐん では先発 せんぱつ の軸 じく として活躍 かつやく し、リーグ最多 さいた 勝 しょう (9勝 しょう )、最多 さいた 奪 だつ 三振 さんしん (94個 こ )の二 に 冠 かん となったが、防御 ぼうぎょ 率 りつ は4.05と奮 ふる わなかった。12月4日 にち 、高木 たかぎ 康成 やすなり との交換 こうかん トレード でオリックス・バファローズ へ移籍 いせき [6] 。
2010年 ねん は、オープン戦 せん で好投 こうとう し、開幕 かいまく ローテーション入 い りを果 は たす。3月28日 にち の福岡 ふくおか ソフトバンクホークス戦 せん で、8回 かい 途中 とちゅう 1失点 しってん で、2008年 ねん 7月 がつ 27日 にち 以来 いらい となる609日 にち ぶりの勝利 しょうり 投手 とうしゅ となり、移籍 いせき 後 ご 初 はつ 勝利 しょうり を挙 あ げた。5月22日 にち の阪神 はんしん 戦 せん から5連勝 れんしょう を記録 きろく 。6月は29日 にち の東北 とうほく 楽天 らくてん ゴールデンイーグルス戦 せん で、新人 しんじん 時代 じだい の2003年 ねん 以来 いらい となる7年 ねん ぶりの完封 かんぷう 勝利 しょうり 記録 きろく するなど4勝 しょう 0敗 はい の活躍 かつやく で6月 がつ の月間 げっかん MVP を獲得 かくとく する。7月31日 にち の勝利 しょうり で9勝 しょう 目 め を挙 あ げたが、8月 がつ 6日 にち の千葉 ちば ロッテマリーンズ戦 せん で9回 かい 2死 し まで無 む 失点 しってん ながら、そこから3失点 しってん を喫 きっ して敗戦 はいせん 投手 とうしゅ になると、この試合 しあい から5試合 しあい は、自身 じしん が登板 とうばん している間 あいだ の味方 みかた 打線 だせん の援護 えんご が5試合 しあい で僅 わず か計 けい 2点 てん しかなく、なかなか白星 しろぼし がつかなかった。9月8日 にち のロッテ戦 せん で2失点 しってん 完投 かんとう 勝利 しょうり をあげ、3年 ねん ぶりの二 に 桁 けた 勝利 しょうり を達成 たっせい 。最終 さいしゅう 的 てき に防御 ぼうぎょ 率 りつ 3点 てん 台 だい も記録 きろく したが、好 こう 不調 ふちょう の波 なみ が激 はげ しく12敗 はい を記録 きろく し与 あずか 四球 しきゅう 数 すう はリーグ2位 い 、暴投 ぼうとう と与 あずか 死球 しきゅう 数 すう はリーグ最多 さいた と制球 せいきゅう を乱 みだ す試合 しあい も多 おお く、また援護 えんご 率 りつ はパリーグでワースト2位 い の3.71となかなか打線 だせん の援護 えんご に恵 めぐ まれなかった。一方 いっぽう で被 ひ 本塁打 ほんるいだ は9本 ほん と少 すく なかった。また、ロッテ戦 せん では4勝 しょう 4敗 はい 、交流 こうりゅう 戦 せん では3勝 しょう 1敗 はい とまずまずの成績 せいせき を残 のこ した一方 いっぽう で、西武 せいぶ 戦 せん では5戦 せん 4敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 7.01と非常 ひじょう に相性 あいしょう が悪 わる かった。
2011年 ねん は、東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい の影響 えいきょう で延期 えんき されて実施 じっし の4月 がつ 12日 にち に大阪 おおさか ドーム での開幕 かいまく 戦 せん で自身 じしん 初 はつ の開幕 かいまく 投手 とうしゅ を務 つと め、02年 ねん 全日本 ぜんにほん 大学 だいがく 野球 やきゅう 選手権 せんしゅけん 大会 たいかい 決勝 けっしょう や2003年 ねん のオールスターゲーム 第 だい 1戦 せん 同様 どうよう に早稲田大学 わせだだいがく 野球 やきゅう 部 ぶ 出身 しゅっしん のホークスの大黒柱 だいこくばしら 和田 わだ 毅 あつし と投 な げ合 あ い9回 かい 0/3を自責 じせき 点 てん 1。だが、12球団 きゅうだん の開幕 かいまく 投手 とうしゅ で唯一 ゆいいつ 勝利 しょうり がなく5月4日 にち に登録 とうろく 抹消 まっしょう となった。その後 ご 、5月14日 にち に一軍 いちぐん 登録 とうろく され、その日 ひ の北海道 ほっかいどう 日本 にっぽん ハムファイターズ戦 たたかえ (函館 はこだて 市 し 千代台 ちよがだい 公園 こうえん 野球 やきゅう 場 じょう )に先発 せんぱつ したが、2回 かい 1死 し から本塁打 ほんるいだ と連打 れんだ で8失点 しってん で降板 こうばん 。セ・パ交流 こうりゅう 戦 せん の阪急 はんきゅう ブレーブスユニフォーム復刻 ふっこく 試合 しあい の5月 がつ 20日 はつか の対 たい 広島東洋 ひろしまとうよう カープ戦 せん で7回 かい 1失点 しってん で相手 あいて の7番 ばん 指名 しめい 打者 だしゃ 今村 いまむら 猛 たけし の犠牲 ぎせい バント も無難 ぶなん に処理 しょり しシーズン初 はつ 白星 しろぼし を挙 あ げたが、その後 ご は先発 せんぱつ で結果 けっか を残 のこ せず、7月 がつ 11日 にち の対 たい 埼玉 さいたま 西武 せいぶ ライオンズ戦 せん で4回 かい 9安打 あんだ 6失点 しってん で二 に 軍 ぐん へ降格 こうかく 。二 に 軍 ぐん 降格 こうかく を通告 つうこく され、帰 かえり 阪 ばん する道中 どうちゅう の新横浜 しんよこはま 駅 えき で偶然 ぐうぜん にも巨人 きょじん 時代 じだい のコーチである鹿取 かとり 義隆 よしたか と遭遇 そうぐう し、「ツーシームやチェンジアップを覚 おぼ えたら?」と助言 じょげん を受 う け、ツーシームを習得 しゅうとく する[7] 。その後 ご 昇格 しょうかく し、閉幕 へいまく 間際 まぎわ の10月 がつ 15日 にち の対 たい 日本 にほん ハム戦 せん で、6回 かい 無 む 失点 しってん の好投 こうとう で漸 ようや く2勝 しょう 目 め をあげた。シーズンを通 とお しては、2勝 しょう 7敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 4.60と不本意 ふほんい な成績 せいせき に終 お わった。
2012年 ねん はシーズン初 はつ 登板 とうばん となった4月 がつ 8日 にち の対 たい 楽天 らくてん 戦 せん で4安打 あんだ 完封 かんぷう 勝利 しょうり をあげると、4月 がつ 15日 にち は一昨年 いっさくねん かなり苦手 にがて にしていた西武 せいぶ 相手 あいて に7回 かい 途中 とちゅう 1失点 しってん の好投 こうとう で、連勝 れんしょう スタートとなった。ところが、4月 がつ 22日 にち の対 たい 日本 にほん ハム戦 せん で9回 かい 1失点 しってん の完投 かんとう 負 ま けを喫 きっ したのを皮切 かわき りに打線 だせん の援護 えんご に恵 めぐ まれず白星 しろぼし から遠 とお ざかる。6月6日 にち の対 たい ヤクルト戦 せん で一塁 いちるい ベースカバーに入 はい った際 さい に、左 ひだり 太 ふと もも裏 うら 肉離 にくばな れを発症 はっしょう して翌日 よくじつ 一軍 いちぐん 登録 とうろく を抹消 まっしょう 。リハビリに努 つと めていたある日 ひ 、娘 むすめ に「パパはどうして、昼間 ひるま から家 いえ にいるの?」と尋 たず ねられて戸惑 とまど い、その時 とき に同僚 どうりょう の寺原 てらはら 隼人 はやと が「僕 ぼく らは好 す きな野球 やきゅう をやっていればそれでいいかもしれないけれど、娘 むすめ たちには肩身 かたみ の狭 せま い思 おも いをさせられない」と発言 はつげん したのを思 おも い出 だ して発奮 はっぷん し[8] 、7月 がつ 13日 にち に再 さい 登録 とうろく されると、3試合 しあい の救援 きゅうえん 登板 とうばん を経 へ て、オールスター明 あ けに2試合 しあい 連続 れんぞく 完投 かんとう 勝利 しょうり をあげる。その後 ご も先発 せんぱつ 投手 とうしゅ としてシーズン終了 しゅうりょう までローテーションを守 まも り抜 ぬ き、防御 ぼうぎょ 率 りつ 2.60、QS 率 りつ 66.7%と先発 せんぱつ 投手 とうしゅ としての責務 せきむ を果 は たしたものの、力投 りきとう しても味方 みかた 打線 だせん の援護 えんご に乏 とぼ しい試合 しあい が多 おお く、5勝 しょう 9敗 はい に終 お わった。契約 けいやく 更改 こうかい では、2.60だった防御 ぼうぎょ 率 りつ が評価 ひょうか され1200万 まん 円 えん 増 ぞう の6200万 まん 円 えん で更改 こうかい した。
2013年 ねん 1月 がつ 25日 にち 、糸井 いとい 嘉男 よしお ・八木 やぎ 智 さとし 哉 との交換 こうかん トレードで赤田 あかだ 将 すすむ 吾 われ ・大引 おおびき 啓 あきら 次 じ と共 とも に北海道 ほっかいどう 日本 にっぽん ハムファイターズ へ移籍 いせき [9] 。同年 どうねん 5月 がつ 20日 はつか の巨人 きょじん 戦 せん では7回 かい を1失点 しってん で勝利 しょうり 投手 とうしゅ となり、史上 しじょう 12人 にん 目 め の全 ぜん 球団 きゅうだん (近鉄 きんてつ を除 のぞ く12球団 きゅうだん )からの勝利 しょうり を達成 たっせい した[10] 。なお、この試合 しあい では高校 こうこう 時代 じだい に投 な げ合 あ った巨人 きょじん 先発 せんぱつ の杉 すぎ 内 ない に投 な げ勝 か ち、1998年 ねん 夏 なつ の全国 ぜんこく 高等 こうとう 学校 がっこう 野球 やきゅう 選手権 せんしゅけん 鹿児島 かごしま 大会 たいかい の決勝 けっしょう で投 な げ負 ま けて以来 いらい 、約 やく 15年 ねん ぶりの投 な げ合 あ いを制 せい している[11] [12] 。同年 どうねん シーズン終了 しゅうりょう まで先発 せんぱつ ローテーションの一角 いっかく を担 にな い、2桁 けた 勝利 しょうり には届 とど かなかったものの、最終 さいしゅう 的 てき にはブライアン・ウルフ と並 なら んでチームトップタイとなる9勝 しょう をマークした。
2014年 ねん は、春季 しゅんき キャンプ中 ちゅう にインフルエンザ へ感染 かんせん 。一軍 いちぐん 公式 こうしき 戦 せん には、若手 わかて 投手 とうしゅ の台頭 たいとう で5試合 しあい しか登板 とうばん できず、1勝 しょう 3敗 はい でシーズンを終 お えた。
2015年 ねん は、シーズン終盤 しゅうばん まで一軍 いちぐん での登板 とうばん 機会 きかい がなく、イースタン・リーグ 公式 こうしき 戦 せん でも16試合 しあい の登板 とうばん で0勝 しょう 6敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 7.67という成績 せいせき に終 お わった[13] 。9月18日 にち に、翌年 よくねん の戦力 せんりょく 構想 こうそう から外 はず れていることが判明 はんめい 。他 た 球団 きゅうだん での現役 げんえき 続行 ぞっこう の可能 かのう 性 せい などを熟慮 じゅくりょ した[14] 結果 けっか 、同月 どうげつ 29日 にち にこの年 とし 限 かぎ りで現役 げんえき を引退 いんたい することを表明 ひょうめい した[15] 。翌 よく 30日 にち には、この年 とし 初 はじ めての出場 しゅつじょう 選手 せんしゅ 登録 とうろく [16] を経 へ て、対 たい 千葉 ちば ロッテ戦 たたかえ (札幌 さっぽろ ドーム )の5回 かい 表 ひょう に1イニング限定 げんてい で登板 とうばん 。2奪 だつ 三振 さんしん を含 ふく む三 さん 者 しゃ 凡退 ぼんたい という内容 ないよう で、現役 げんえき 生活 せいかつ を締 し めくくった。11月27日 にち 付 づけ で、日本 にっぽん 野球 やきゅう 機構 きこう (NPB)から任意 にんい 引退 いんたい 選手 せんしゅ として公示 こうじ [17] 。
現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
2016年 ねん にはスカウト として巨人 きょじん に復帰 ふっき し[18] 、2019年 ねん からはファーム投手 とうしゅ コーチに就任 しゅうにん した[19] 。2021年 ねん からは再 ふたた びスカウトに就任 しゅうにん した[20] 。スカウトを担当 たんとう した主 おも な選手 せんしゅ に直江 なおえ 大輔 だいすけ 、船 ふね 迫 さこ 大雅 たいが 、森田 もりた 駿 しゅん 哉 などがいる。
直球 ちょっきゅう は2003年 ねん に自己 じこ 最速 さいそく 152km/hを計測 けいそく [21] 。
フォークボール を決 き め球 だま とする。
この選手 せんしゅ の人物 じんぶつ 像 ぞう に関 かん する文献 ぶんけん や情報 じょうほう 源 げん が必要 ひつよう です。 出典 しゅってん を明記 めいき する ためにご協力 きょうりょく をお願 ねが いします。(2011年 ねん 12月 )
地元 じもと 薩摩 さつま 川内 せんだい 市内 しない には「木佐貫 きさぬき ロード」(距離 きょり 約 やく 1.7km)なるものが存在 そんざい する。そこは木佐貫 きさぬき 本人 ほんにん が中学 ちゅうがく ・高校 こうこう 時代 じだい にトレーニングをした場所 ばしょ であり、同 どう 選手 せんしゅ の活躍 かつやく と更 さら なる人材 じんざい 輩出 はいしゅつ を願 ねが って、地元 じもと 市民 しみん 団体 だんたい によって名 な づけられた。
登板 とうばん 時 じ のBGMは入団 にゅうだん してからずっとヴァン・ヘイレン の『JUMP』を使用 しよう している。打席 だせき に入 はい るときはHOTEI & Char の『Stereo Castar』。
当時 とうじ 低迷 ていめい していた巨人 きょじん 投手 とうしゅ 陣 じん の再建 さいけん を期待 きたい され招聘 しょうへい された尾花 おばな 高夫 たかお 投手 とうしゅ コーチが実際 じっさい に巨人 きょじん の若手 わかて 投手 とうしゅ の投球 とうきゅう を目 め にした際 さい 、「ソフトバンク を超 こ える投手 とうしゅ 陣 じん を作 つく れる」とコメントしたが、特 とく に木佐貫 きさぬき は「潜在 せんざい 能力 のうりょく は斉藤 さいとう 和巳 かずみ クラス」と、そのポテンシャルが絶賛 ぜっさん された。
2007年 ねん から背番号 せばんごう は21 から41 へ変更 へんこう 。原 げん 監督 かんとく からは「巨人 きょじん のトム・シーバー になってほしい」という期待 きたい のあらわれと、復活 ふっかつ して欲 ほ しいという意味 いみ がこめられているものとみられる(巨人 きょじん の41番 ばん は、かつての斎藤 さいとう 雅樹 まさき が着 つ けていた番号 ばんごう でもある)。
几帳面 きちょうめん な性格 せいかく で日記 にっき を書 か く際 さい には、文字 もじ を一定 いってい の間隔 かんかく を空 あ けて書 か くことがテレビ番組 ばんぐみ で紹介 しょうかい されたことがある。日記 にっき を書 か くことになったきっかけは、リハビリ中 ちゅう に当時 とうじ 巨人 きょじん のチームリーダーの1人 ひとり だった小久保 こくぼ 裕紀 ゆうき に「苦 くる しいときの記録 きろく を残 のこ しておけ」とすすめられたという。
いつでも謙虚 けんきょ で、前向 まえむ きな姿勢 しせい がファンから慕 した われている。コーチからの助言 じょげん を聞 き くときはもちろん、取材 しゅざい などでも直立 ちょくりつ 不動 ふどう と、生真面目 きまじめ な選手 せんしゅ である。練習 れんしゅう にも極 きわ めて熱心 ねっしん である。本人 ほんにん 曰 いわ く、大雑把 おおざっぱ な性格 せいかく だったが、亜細亜大 あじあだい に入 はい ってから変 か わったと話 はな している。
苦手 にがて なバッターは「赤星 あかほし さんや井端 いばた さんのようなしつこいバッター」だが、質問 しつもん に答 こた えてから「ウチの大学 だいがく の教 おし えを実行 じっこう しているひと(亜細亜大学 あじあだいがく の先輩 せんぱい )」と気 き が付 つ いた。
2008年 ねん 5月 がつ 7日 にち の阪神 はんしん タイガース戦 せん で金本 かなもと 知 とも 憲 けん の頭部 とうぶ 死球 しきゅう を与 あた えた翌 よく 8日 にち 、試合 しあい 前 まえ の練習 れんしゅう 中 ちゅう に本人 ほんにん のもとへ駆 か け寄 よ って頭 あたま を下 さ げて謝罪 しゃざい した。「また思 おも い切 き り投 な げてこいよ。気 き にするなよ、大丈夫 だいじょうぶ だから、と言 い われました」と、笑顔 えがお で対応 たいおう した金本 かなもと の気遣 きづか いに感謝 かんしゃ していた。
歴史 れきし 学 がく に優 すぐ れており、ズームイン!!サタデー 内 うち のコーナー『プロ野球 やきゅう 熱 ねつ ケツ情報 じょうほう 』では、出題 しゅつだい されたテーマにまつわる歴史 れきし 上 じょう の人物 じんぶつ について語 かた ることが多 おお い。
趣味 しゅみ は地図 ちず を持 も ちながらの街 まち 歩 ある き。外出 がいしゅつ 先 さき のオープンテラスからラジオに電話 でんわ 出演 しゅつえん したことがある[22] 。シーズン中 ちゅう に遠征 えんせい する際 さい には、趣味 しゅみ と実用 じつよう を兼 か ねて、必 かなら ず遠征 えんせい 先 さき の地図 ちず を自前 じまえ で持参 じさん するという。[23]
高木 たかぎ 康成 やすなり との交換 こうかん トレードが成立 せいりつ した際 さい に、かねてから親交 しんこう の深 ふか かった岡田 おかだ 彰布 あきのぶ と原 はら 辰 たつ 徳 とく の間柄 あいだがら で成立 せいりつ した友情 ゆうじょう トレードであり、岡田 おかだ を信頼 しんらい した上 うえ でのトレードであったと言 い われた。また、清 きよし 武 たけ 英利 ひでとし は幹部 かんぶ 候補 こうほ 生 せい として修業 しゅうぎょう に出 だ す気持 きも ちと語 かた っており、将来 しょうらい 的 てき には巨人 きょじん に復帰 ふっき することも示唆 しさ していた[24] 。
同 おな じシーズンオフにオリックスへ移籍 いせき 、後 のち に木佐貫 きさぬき と同時 どうじ に日本 にほん ハムへ移籍 いせき した赤田 あかだ 将 すすむ 吾 われ とは同郷 どうきょう (鹿児島 かごしま 県 けん 出身 しゅっしん )同 どう 学年 がくねん で、中学校 ちゅうがっこう 時代 じだい に対戦 たいせん している(結果 けっか は、当時 とうじ 投手 とうしゅ だった赤田 あかだ の1安打 あんだ 完封 かんぷう 勝 か ち)。
オリックスと日本 にほん ハムでの現役 げんえき 時代 じだい には、『亀山 かめやま つとむのかめ友 とも Sports Man Day 』(オリックスの地元 じもと 局 きょく ・毎日放送 まいにちほうそう が当時 とうじ ラジオで放送 ほうそう していたスポーツ情報 じょうほう 番組 ばんぐみ )にゲストで随時 ずいじ 出演 しゅつえん 。番組 ばんぐみ グッズとしてリスナーなどに提供 ていきょう していた鍵 かぎ 庄 しょう (兵庫 ひょうご 県 けん 明石 あかし 市 し )製 せい の海苔 のり 製品 せいひん シリーズには、木佐貫 きさぬき の似顔絵 にがおえ を、オリックス時代 じだい から代々 だいだい の番組 ばんぐみ オリジナルラベルに添 そ えていた。第 だい 2代 だい グッズの明石 あかし 海苔 のり まではオリックス時代 じだい のラベルを貼 は り付 づ けていたが、日本 にほん ハム移籍 いせき 後 ご の2013年 ねん 5月 がつ にNPB全 ぜん 12球団 きゅうだん から一軍 いちぐん 公式 こうしき 戦 せん で勝利 しょうり を挙 あ げたことを記念 きねん して、翌 よく 6月 がつ の提供 ていきょう 分 ぶん からラベルを日本 にほん ハムバージョンに新調 しんちょう 。2014年 ねん 5月 がつ のグッズリニューアルでは、オリックス時代 じだい にプライベートで実 じつ 食 しょく したことがある同社 どうしゃ 製 せい の「明石 あかし 海苔 のり ふりかけ」を新 しん グッズ候補 こうほ に推薦 すいせん したところ、実際 じっさい にグッズへ採用 さいよう された。
巨人 きょじん 時代 じだい から、移動 いどう 中 ちゅう などサインができない状況 じょうきょう でファンに配 くば る目的 もくてき で、自身 じしん のベースボールカード に直筆 じきひつ サインを入 い れたものを持 も ち歩 ある いている。サイン入 い れは遠征 えんせい 時 じ などの空 あ き時間 じかん を利用 りよう して行 い っており、1枚 まい 1枚 まい に通 とお し番号 ばんごう を入 い れた上 うえ に100円 えん ショップで購入 こうにゅう した小袋 こぶくろ に入 い れるという几帳面 きちょうめん さ。球団 きゅうだん 支給 しきゅう 分 ぶん では足 た りず自腹 じばら でカードを追加 ついか 購入 こうにゅう してまで配布 はいふ を続 つづ けており、2012年 ねん には年間 ねんかん で約 やく 4000枚 まい を配 くば ったという[25] 。
プロ野球 やきゅう 界 かい 随一 ずいいち の鉄道 てつどう ファン[26] 。本人 ほんにん 曰 いわ く、鉄道 てつどう ファンの分野 ぶんや としては、乗 の り鉄 てつ であり、球場 きゅうじょう への移動 いどう に電車 でんしゃ を利用 りよう することもある[27] 。なお、鉄道 てつどう 路線 ろせん 図 ず を眺 なが めるのも好 す きとのこと[27] 。また、阪急電鉄 はんきゅうでんてつ の車両 しゃりょう の座席 ざせき の高級 こうきゅう 感 かん や手 て ざわりを気 き に入 い っているとも言 い う[28] 。
2011年 ねん 3月 がつ に全線 ぜんせん 開通 かいつう した九州 きゅうしゅう 新幹線 しんかんせん の宣伝 せんでん 活動 かつどう にも意欲 いよく を燃 も やしていた[29] [30] 。因 ちな みに、2004年 ねん の部分 ぶぶん 開通 かいつう 時 じ には出身 しゅっしん 地 ち ・川内 せんだい 駅 えき で一 いち 日 にち 駅長 えきちょう を務 つと めた。
日本 にほん ハム時代 じだい には、2013年 ねん に北海道テレビ放送 ほっかいどうてれびほうそう 「FFFFF 」にて札幌 さっぽろ 市電 しでん を貸 か し切 き ってのインタビュー収録 しゅうろく を行 おこな い[31] [32] 、また同年 どうねん の年末 ねんまつ スペシャルでは翌年 よくねん 廃 はい 線 せん 予定 よてい だったJR北海道 ほっかいどう 江差線 えさしせん でのロケ企画 きかく を行 おこな っており引退 いんたい 会見 かいけん でも江差線 えさしせん ロケを現役 げんえき 時代 じだい の思 おも い出 で の一 ひと つとして挙 あ げた[33] 。
詳細 しょうさい 情報 じょうほう [ 編集 へんしゅう ]
年度 ねんど 別 べつ 投手 とうしゅ 成績 せいせき [ 編集 へんしゅう ]
年 とし 度 ど
球 たま 団 だん
登 とう 板 いた
先 さき 発 はつ
完 かん 投 とう
完 かん 封 ふう
無 む 四 よん 球 たま
勝 かち 利 り
敗 はい 戦 せん
セ 丨 ブ
ホ 丨 ル ド
勝 かち 率 りつ
打 だ 者 もの
投 とう 球 たま 回 かい
被 ひ 安 やす 打 だ
被 ひ 本 ほん 塁 るい 打 だ
与 あずか 四 よん 球 たま
敬 けい 遠 とお
与 あずか 死 し 球 たま
奪 だつ 三 さん 振 ふ
暴投 とう
ボ 丨 ク
失 しつ 点 てん
自 じ 責 せめ 点 てん
防 ぼう 御 お 率 りつ
W H I P
2003
巨人 きょじん
25
25
7
2
3
10
7
0
--
.588
736
175.0
168
18
44
3
7
180
6
1
74
65
3.34
1.21
2004
31
21
2
0
0
7
8
5
--
.467
643
139.2
168
20
50
3
11
154
1
0
92
78
5.03
1.56
2005
14
0
0
0
0
0
1
5
0
.000
56
13.2
13
1
3
0
0
17
0
0
6
6
3.95
1.17
2006
3
3
0
0
0
0
3
0
0
.000
54
10.1
24
3
2
0
0
7
0
0
11
11
9.58
2.52
2007
26
25
0
0
0
12
9
0
0
.571
613
148.2
144
17
35
3
0
131
1
0
60
51
3.09
1.20
2008
14
14
1
0
0
6
5
0
0
.545
318
74.0
87
15
19
0
1
53
3
0
36
34
4.14
1.43
2009
1
1
0
0
0
0
0
0
0
----
12
2.2
4
2
0
0
0
2
0
0
3
3
10.13
1.50
2010
オリックス
28
28
4
1
0
10
12
0
0
.455
767
174.1
174
9
71
0
13
140
11
1
85
77
3.98
1.41
2011
19
12
0
0
0
2
7
0
0
.222
322
72.1
86
5
22
1
2
60
4
0
42
37
4.60
1.49
2012
24
21
5
1
1
5
9
0
0
.357
628
152.1
138
8
42
1
3
96
5
0
47
44
2.60
1.18
2013
日本 にほん ハム
24
24
2
1
1
9
8
0
0
.529
620
145.0
141
10
50
1
5
95
8
0
64
59
3.66
1.32
2014
5
5
0
0
0
1
3
0
0
.250
115
26.0
29
1
7
0
0
21
1
0
12
9
3.12
1.38
2015
1
0
0
0
0
0
0
0
0
.000
3
1.0
0
0
0
0
0
2
0
0
0
0
0.00
0.00
通算 つうさん :13年 ねん
215
179
21
5
5
62
72
10
0
.463
4887
1135.0
1176
109
345
12
42
958
40
2
532
474
3.76
1.34
この選手 せんしゅ の記録 きろく に関 かん する文献 ぶんけん や情報 じょうほう 源 げん が必要 ひつよう です。 出典 しゅってん を明記 めいき する ためにご協力 きょうりょく をお願 ねが いします。(2013年 ねん 6月 がつ )
投手 とうしゅ 記録 きろく
初 はつ 登板 とうばん ・初 はつ 先発 せんぱつ :2003年 ねん 3月 がつ 30日 にち 、対 たい 中日 ちゅうにち ドラゴンズ 3回戦 かいせん (東京 とうきょう ドーム )、2回 かい 5失点 しってん で敗戦 はいせん 投手 とうしゅ
初 はつ 奪 だつ 三振 さんしん :同上 どうじょう 、1回 かい 表 ひょう に福留 ふくとめ 孝介 こうすけ から空振 からぶ り三振 さんしん
初 はつ 勝利 しょうり ・初 はつ 先発 せんぱつ 勝利 しょうり :2003年 ねん 4月 がつ 25日 にち 、対 たい 横浜 よこはま ベイスターズ 3回戦 かいせん (横浜 よこはま スタジアム )、7回 かい 3失点 しってん
初 はつ 完投 かんとう 勝利 しょうり :2003年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、対 たい 中日 ちゅうにち ドラゴンズ8回戦 かいせん (東京 とうきょう ドーム)、9回 かい 2失点 しってん
初 はつ 完封 かんぷう 勝利 しょうり :2003年 ねん 7月 がつ 29日 にち 、対 たい 中日 ちゅうにち ドラゴンズ18回戦 かいせん (東京 とうきょう ドーム)
初 はつ セーブ:2004年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、対 たい 広島東洋 ひろしまとうよう カープ 18回戦 かいせん (広島 ひろしま 市民 しみん 球場 きゅうじょう )、7回 かい 裏 うら に4番手 ばんて で救援 きゅうえん 登板 とうばん ・完了 かんりょう 、3回 かい 2失点 しってん
1000投球 とうきゅう 回数 かいすう :2013年 ねん 5月 がつ 8日 にち 、対 たい 東北 とうほく 楽天 らくてん ゴールデンイーグルス 7回戦 かいせん (札幌 さっぽろ ドーム )、5回 かい 表 ひょう 2死目 しにめ にケイシー・マギー を左飛 さひ で打 う ち取 と り達成 たっせい ※史上 しじょう 332人 にん 目 め
打撃 だげき 記録 きろく
初 はつ 安打 あんだ :2003年 ねん 4月 がつ 25日 にち 、対 たい 横浜 よこはま ベイスターズ3回戦 かいせん (横浜 よこはま スタジアム)、3回 かい 表 ひょう にクリス・ホルト から右前 みぎまえ 安打 あんだ
初 はつ 打点 だてん :2004年 ねん 7月 がつ 8日 にち 、対 たい 横浜 よこはま ベイスターズ16回戦 かいせん (東京 とうきょう ドーム)、3回 かい 裏 うら に吉川 よしかわ 輝昭 てるあき から右 みぎ 越 えつ 適時 てきじ 二塁打 にるいだ
その他 た の記録 きろく
オールスターゲーム 出場 しゅつじょう :3回 かい (2003年 ねん 、2010年 ねん 、2013年 ねん )
全 ぜん 球団 きゅうだん 勝利 しょうり :2013年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、対 たい 読売 よみうり ジャイアンツ2回戦 かいせん (札幌 さっぽろ ドーム)、7回 かい 1失点 しってん ※史上 しじょう 12人 にん 目 め
マダックス :2回 かい (2012年 ねん 、2013年 ねん )
21 (2003年 ねん - 2006年 ねん )
41 (2007年 ねん - 2009年 ねん )
12 (2010年 ねん - 2012年 ねん )
29 (2013年 ねん - 2015年 ねん )
78 (2019年 ねん - 2020年 ねん )
業績 ぎょうせき 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
記述 きじゅつ のない年 とし は該当 がいとう 者 しゃ なし
1930年代 ねんだい 1940年代 ねんだい 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
野球 やきゅう 日本 にっぽん 代表 だいひょう 監督 かんとく コーチ 投手 とうしゅ 捕手 ほしゅ 内野 ないや 手 しゅ 外野 がいや 手 しゅ
監督 かんとく コーチ 投手 とうしゅ 捕手 ほしゅ 内野 ないや 手 しゅ 外野 がいや 手 しゅ
監督 かんとく コーチ 投手 とうしゅ 捕手 ほしゅ 内野 ないや 手 しゅ 外野 がいや 手 しゅ