(Translated by https://www.hiragana.jp/)
米田哲也 - Wikipedia コンテンツにスキップ

米田よねだ哲也てつや

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
米田よねだ 哲也てつや
1956ねん撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 鳥取とっとりけん西伯さいはくぐん大篠津おおしのづむらげん米子よなご
生年月日せいねんがっぴ (1938-03-03) 1938ねん3月3にち(86さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
180 cm
87 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1956ねん
はつ出場しゅつじょう 1956ねん4がつ3にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1977ねん10月7にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき
  • 近鉄きんてつバファローズ (1977)
  • 阪神はんしんタイガース (1985 - 1986)
  • オリックス・ブルーウェーブ (1992 - 1993)
  • 近鉄きんてつバファローズ (1995)
野球やきゅう殿堂でんどう日本にっぽん
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 2000ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 競技きょうぎしゃ表彰ひょうしょう

米田よねだ 哲也てつや(よねだ てつや、1938ねん3月3にち - )は、鳥取とっとりけん西伯さいはくぐん大篠津おおしのづむらげん米子よなご出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん血液けつえきがたはABがた

プロ野球やきゅう歴代れきだい2達成たっせい当時とうじ歴代れきだい1)の949試合しあい登板とうばんし、歴代れきだい2通算つうさん350しょう記録きろくした。通算つうさん先発せんぱつ626登板とうばん通算つうさん1940失点しってん通算つうさん1659自責じせきてん通算つうさん120あずか敬遠けいえん通算つうさん4561安打あんだ日本にっぽん記録きろく保持ほじしゃ[1]

その驚異きょういてきスタミナから「ガソリンタンク」「人間にんげん機関きかんしゃ」「タフマン」などとばれる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

プロまえ[編集へんしゅう]

祖父そふ長次郎ちょうじろう海産物かいさんぶつ仲買なかがいごういとなみ、『伯耆ほうきこく実業じつぎょう人名じんめいろく』(明治めいじ37ねん (1904ねん))にせられていた大篠津おおしのづ代表だいひょうてき商人しょうにんであった[2]ちちまさあきら薪炭しんたん雑貨ざっかしょう[3]米田よねだ美保みほ中学校ちゅうがっこう[ちゅう 1]では陸上りくじょう走高跳はしりたかとび選手せんしゅであったが、卒業そつぎょう1953ねんさかい高校こうこう進学しんがくした。

元々もともと捕手ほしゅであったが、高校こうこう入学にゅうがく真木まき一夫かずお部長ぶちょうの「おまえかおでは投手とうしゅこわがる、ぎゃく投手とうしゅになって相手あいてこわがらせるんだ」という言葉ことばがきっかけで投手とうしゅ転向てんこう。1ねん同年どうねんあきから本格ほんかく投手とうしゅとして注目ちゅうもくあつめ、高校こうこう時代じだいからカーブシュートスライダー習得しゅうとくする。社会しゃかいじん野球やきゅう米子よなご鉄道てつどう管理かんりきょくともよく練習れんしゅう試合しあいをしたが、「そんなにたれた記憶きおくはない」という[4]米子よなご土地とちがら、プロ野球やきゅうはラジオで程度ていどであったが、湊山みなとやま球場きゅうじょうおこなわれた大阪おおさか×国鉄こくてつせんたことがあり、そのとき印象いんしょうとして「阪神はんしん渡辺わたなべ省三しょうぞうさんはコントロールはいいけどたまおそいし、国鉄こくてつカネさん(金田かねだ正一しょういちっきゅうはやいけどコントロールはわるかった。これならプロでもけるんじゃないかとおもった」とかたっている[4]同年どうねんつぎ米子よなごひがしだか左腕さわんエースよしはら武敏たけとしがおり、1ねんあきからいくとなく激闘げきとうえんじた。

1953ねん秋季しゅうき中国ちゅうごく大会たいかいけん予選よせん決勝けっしょうでは1-2で惜敗せきはいし、2ねん1954ねんにはなつ甲子園こうしえんけん予選よせん決勝けっしょう延長えんちょう10かいいのすえ敗退はいたいするが、両校りょうこうともひがし中国ちゅうごく大会たいかいすすむ。さかいだかは1回戦かいせん倉敷くらしきこう敗退はいたいし、ばら米子よなごひがしだか優勝ゆうしょうして甲子園こうしえん出場しゅつじょう明暗めいあんけた。同年どうねん秋季しゅうき中国ちゅうごく大会たいかいにもすすむが、準決勝じゅんけっしょう防府ほうふだか惜敗せきはい。3ねん1955ねんなつけん予選よせん準決勝じゅんけっしょう米子よなごみなみだかやぶ甲子園こうしえん出場しゅつじょうはならなかったが、ばら投球とうきゅう評判ひょうばんころばらったスカウトが対戦たいせん相手あいて米田よねだ投球とうきゅうおどろき、中央ちゅうおうでもられた存在そんざいになる。県内けんないでは倉吉くらよしのうたねやすし同期どうき

現役げんえき時代じだい[編集へんしゅう]

最初さいしょ大学だいがく進学しんがくかんがえ、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく日吉ひよしグラウンドでも練習れんしゅうしていた。しかし卒業そつぎょう1956ねん、チームメイトであった外野がいやしゅ浜田はまだこうとも阪急はんきゅうブレーブス入団にゅうだんさきさそってくれた丸尾まるお千年ちとしスカウトに恩義おんぎかんじてめたが、その地元じもと後援こうえんしゃ説得せっとくにより、大阪おおさかタイガース(阪神はんしんタイガース)ともきゅう接近せっきんした。大阪おおさかのユニフォームを練習れんしゅうにも参加さんかしている(背番号せばんごうは41)。阪急はんきゅうとのじゅう契約けいやく発覚はっかくしたが、もと最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ井上いのうえのぼるコミッショナー裁定さいていにより阪急はんきゅうへの入団にゅうだんとなった[5]。これにより、同郷どうきょう国頭くにがみひかりひとしから背番号せばんごう18をいだ。裁定さいていは「りょう契約けいやくとも不備ふびなく成立せいりつしていることから、さき契約けいやくした阪急はんきゅう優先ゆうせん」という中立ちゅうりつ裁定さいてい形式けいしきをとっていたが、実際じっさいには、米田よねだ本人ほんにん希望きぼう事前じぜんき、米田よねだ阪急はんきゅう選択せんたくした。米田よねだ金銭きんせんめん条件じょうけん大阪おおさかのほうがよかったが、「背番号せばんごう18をもらえる」という魅力みりょく阪急はんきゅうめたとのち述懐じゅっかいしている[4]

大阪おおさかタイガースのユニフォームを練習れんしゅう参加さんか(1956ねん1がつ10日とおか[ちゅう 2]

投球とうきゅうだけでなく打撃だげきにも自信じしんがあり、打撃だげき練習れんしゅうではチームの長距離ちょうきょりほうであった中田なかた昌宏まさひろよりも打球だきゅうばしていた。最初さいしょ打者だしゃ転向てんこうすすめられたが、「打者だしゃとしてダメだったらそこまでだが、投手とうしゅとしてダメでもそこから打者だしゃとしてやっていくことはできる」と投手とうしゅとしてやっていくことを決意けつい[4]投手とうしゅとして通算つうさん33本塁打ほんるいだ金田かねだ正一しょういち歴代れきだい2。また投手とうしゅとして唯一ゆいいつ満塁まんるい本塁打ほんるいだとサヨナラ本塁打ほんるいだ両方りょうほう記録きろくしている。プロり4打席だせき満塁まんるい本塁打ほんるいだはなっており[ちゅう 3]、これは1983ねん駒田こまだいさおひろ巨人きょじん)がはつ打席だせき満塁まんるい本塁打ほんるいだはなつまで最短さいたん記録きろくであった。

1ねん同年どうねんから9しょう、2ねん1957ねんには21しょうげ、規定きてい投球とうきゅうかいにもたっしてリーグ3防御ぼうぎょりつ1.86を記録きろく。そのみぎのエースとして活躍かつやくし、左腕さわんエースの梶本かじもと隆夫たかおともヨネカジコンビした。

1961ねんオフにはおう貞治さだはる巨人きょじん)とのトレードばなしがったことがあり、このとき阪急はんきゅうサイドが拒否きょひしてトレードは不成立ふせいりつわった。同様どうように10ねん1965ねんオフにもきょじんへのトレードが内定ないていしていたが、寸前すんぜん不成立ふせいりつになっている。

1962ねんにはリーグ最多さいたの231だつ三振さんしん当時とうじ連盟れんめい表彰ひょうしょうなし)、1966ねんに25しょう最多さいたしょう受賞じゅしょうはこの1かいのみ)を記録きろく同年どうねんには通算つうさん200しょう達成たっせい。20しょう以上いじょうを8かい歴代れきだい最長さいちょうの19ねん連続れんぞく2けた勝利しょうり記録きろくし、その登板とうばんすうおおさと黙々もくもく姿すがたから「ガソリンタンク」「人間にんげん機関きかんしゃ」などと形容けいようされた。なお、「ガソリンタンク」の本当ほんとう由来ゆらいはそのスタミナではなく、うわばみのようにいくらでもさけむことから、さけをガソリンにたとえてばれたものである。

1967ねんには18しょうげて球団きゅうだん史上しじょうはつのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん同年どうねん巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズは4試合しあい登板とうばんし、だい1せん先発せんぱつまかされ金田かねだ正一しょういちうが、6かい4失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅとなる。だい5せんだい6せんでも先発せんぱつするが早々そうそう打込うちこまれ降板こうばんした。1968ねんには自己じこ最高さいこうの29しょうげてMVPかがやき、同年どうねん巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズでは、だい1せんで8かいからリリーフにち、因縁いんねん金田かねだって日本にっぽんシリーズはつ勝利しょうりかざる。だい3せんでは先発せんぱつ堀内ほりうち恒夫つねおうが、5かい5失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅ最終さいしゅうだい6せんにも先発せんぱつ堀内ほりうち再度さいど対決たいけつ、6かいを3失点しってんおさえるが後続こうぞくたれ日本一にっぽんいちはならなかった。1969ねんのリーグ3連覇れんぱにも貢献こうけんするが、シーズン終盤しゅうばんには故障こしょうもあって精彩せいさいき、巨人きょじんとの3かい日本にっぽんシリーズでも、最終さいしゅうだい6せんでのリリーフ登板とうばんのみにわる。

1971ねんには史上しじょう5にん通算つうさん300しょう達成たっせいし、巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズでは、だい2せん山田やまだをリリーフして白星しろぼしげる。最終さいしゅうだい5せん先発せんぱつするが3かいに2失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅとなった。1972ねんは10しょう7はいわる。巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズでは最終さいしゅうだい5せん先発せんぱつするが2かい降板こうばん勝敗しょうはいはつかなかった。

1973ねんは15しょう3はい防御ぼうぎょりつ2.47を記録きろくし、はつ最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつかがやく。山口やまぐち高志たかし入団にゅうだんした1975ねん登板とうばん機会きかい激減げきげんし、志願しがんしてシーズン途中とちゅう阪神はんしんタイガースに移籍いせき。このときにはかつてのライバルであった小山こやま正明まさあき一軍いちぐん投手とうしゅコーチをつとめており、登板とうばん間隔かんかく使つかった起用きよう調整ちょうせいがやりやすかったとのことである[6]小山こやまわって投手とうしゅコーチとなった皆川みなかわ睦男むつおとは相性あいしょうわるく、阪神はんしん1976ねんかぎりで自由じゆう契約けいやくになると、1977ねんには阪急はんきゅう時代じだい監督かんとくであった西本にしもと幸雄ゆきおひきいる近鉄きんてつバファローズにコーチ兼任けんにんとして移籍いせき史上しじょう2にん通算つうさん350しょう達成たっせいし、同年どうねんかぎりで現役げんえき引退いんたい通算つうさん1000登板とうばんねらいたいともかんがえていたというが、股関節こかんせつかたくなり重心じゅうしんたかくなったことと痛風つうふう発症はっしょうしたことから、あきらめたという。

通算つうさん949試合しあい登板とうばん歴代れきだい2現役げんえき最終さいしゅうねんの1977ねん記録きろく更新こうしん、40年間ねんかんにわたり最多さいた登板とうばん記録きろく保持ほじしていたが、2017ねん岩瀬いわせ仁紀ひとのりかれた[7]通算つうさん350しょう金田かねだ正一しょういちの400しょう歴代れきだい2で、右腕うわんでは歴代れきだい1、350しょうのうち、阪神はんしんでは在籍ざいせき2ねんじゃくで10しょうわっているが阪急はんきゅう近鉄きんてつ時代じだいかせいだ340しょうはパ・リーグ1通算つうさん敗戦はいせんすうでも左腕さわんでは金田かねだが、右腕うわんでは米田よねだがそれぞれ歴代れきだい1だが、ほかにもだつ三振さんしん投球とうきゅう回数かいすう安打あんだあずか四死球ししきゅうはこの二人ふたり左右さゆう投手とうしゅのそれぞれ歴代れきだい1あずか四死球ししきゅうかんしては米田よねだのほうがおおい)である。米田よねだは、「たくさんっている投手とうしゅって、ぼくもそうだけど、カネさん、小山こやま正明まさあきさん、鈴木すずき啓示けいじよわいチームにながくいた選手せんしゅおおい。つよいチームにちたいという反骨はんこつしん必要ひつようなんでしょうね」とかたっている。現役げんえき22ねんひじかた故障こしょうはほとんどなかったことをほこりにしている[8]

フォークボール武器ぶきにしており、「ヨネボール」として有名ゆうめいである。プロ10ねんごろからはじめ、習得しゅうとくするのに5ねんかかったという。おぼえたてのころはブルペンでげていると、ゆびからけて観客かんきゃくあたまたってしまったほどだった。村田むらたちょうはフォークを練習れんしゅうはじめたころ、ベンチにすわって試合しあいちゅう指先ゆびさき鍛練たんれんしている米田よねだをじっと観察かんさつし、ついにそのたまにぎりをぬすったという。

引退いんたい[編集へんしゅう]

引退いんたい西宮にしのみやでスナック「セナ350」を経営けいえいするかたわら、毎日放送まいにちほうそう1978ねん - 1981ねん)→関西かんさいテレビ放送ほうそうフジテレビジョン1982ねん - 1984ねん解説かいせつしゃ日刊にっかんスポーツ評論ひょうろん1979ねん - 1984ねん)をつとめた。

1985ねんにはしん監督かんとく就任しゅうにんした吉田よしだ義男よしおまえ監督かんとく要請ようせい固辞こじした西本にしもと幸雄ゆきおからの推薦すいせんで、阪神はんしん一軍いちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにん[9]開幕かいまくまえ安芸あきキャンプでは吉田よしだが「休日きゅうじつまえ外泊がいはく原則げんそくみとめない(門限もんげん午前ごぜん0)」「宿舎しゅくしゃでの飲酒いんしゅ食事しょくじちゅうのみで、部屋へやでの飲酒いんしゅ厳禁げんきん」「休日きゅうじつゴルフ禁止きんし」と3つのキャンプ規則きそく発表はっぴょうしたさい米田よねだ一人ひとりだけ反対はんたいとなえた[10]土井どいあつしヘッドけんバッテリーコーチは報道陣ほうどうじんに「休日きゅうじつからだやすませ、明日あしたへのちから補充ほじゅうさせるためについやすべきである」とつたえたが、それは表向おもてむきの理由りゆうで、実際じっさいはこの規則きそくめるコーチ会議かいぎで「コーチは個人こじんてき選手せんしゅ食事しょくじさそわないほうがよい」という意見いけんされた[10]。「選手せんしゅねたむから」というのが理由りゆうであったが、米田よねだはこの会議かいぎせきで「外泊がいはくしてもええやないですか。それにぼく選手せんしゅれて食事しょくじきますよ。おさけんでも、それで翌日よくじつ練習れんしゅうに〝よし、やるぞ〟ってこればいい。きびしくするのはそれができなかったときでじゅうふん。そのときこそ、きびしくプロの心構こころがまえをたたきんでやればええんとちゃいますか」と意見いけんした[10]結局けっきょく米田よねだ意見いけんとおらなかったが、選手せんしゅあいだからすこしもいかりやいきどおりのこえこえてこなかった。首脳しゅのうじんなか一人ひとりでも異論いろんとなえたコーチがいたことで、選手せんしゅたち不満ふまん爆発ばくはつせずにおさまった[10]在任ざいにんちゅう中田なかた良弘よしひろに「おまえかなら復活ふっかつさせる」とって復活ふっかつさせ[11]中西なかにしきよしおこりおもりのさと制球せいきゅうりょく評価ひょうかしてストッパーに推薦すいせん[12][13]、21ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう球団きゅうだん史上しじょうはつ日本一にっぽんいち貢献こうけん1986ねん開幕かいまく直後ちょくご新山にいやま隆史たかしコーチと交代こうたいでブルペン担当たんとうとなり[14]米田よねだ気持きもちが吉田よしだからはなれ、シーズンには退団たいだん[15]

阪神はんしん退団たいだん関西かんさいテレビ・フジテレビ・ラジオ大阪おおさか解説かいせつしゃ日刊にっかんスポーツ評論ひょうろん1987ねん - 1992ねん途中とちゅう)をつとめ、1992ねん途中とちゅうから1993ねんまでは古巣ふるす阪急はんきゅう後身こうしんであるオリックス一軍いちぐん投手とうしゅコーチをつとめた。土井どい正三しょうさん監督かんとくおさえで使つかうつもりであったが、自分じぶんでも力投りきとうがたで、おさえのタイプではないとおもっていた野田のだ浩司こうじに「おまえ無理むり絶対ぜったい、おまえ先発せんぱつだ。おれ先発せんぱつかしたる」とって先発せんぱつ5番手ばんてれた[16]

オリックス退団たいだん日刊にっかんスポーツ評論ひょうろん1994ねん)に1ねんだけ復帰ふっきし、1995ねんにはおなじ300しょう投手とうしゅ鈴木すずき啓示けいじ監督かんとく要請ようせい近鉄きんてつ一軍いちぐん投手とうしゅコーチを1ねんだけつとめた。近鉄きんてつ退団たいだん日刊にっかんスポーツ評論ひょうろん1996ねん - 1997ねん)をつとめたほか、山根やまね俊英としひでらととも鳥取とっとり県内けんない少年しょうねん野球やきゅう教室きょうしつひらいたこともある。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 体調たいちょう管理かんりやスタミナ確保かくほにも関心かんしんせ、登板とうばんしたよる水分すいぶん補給ほきゅうのみでなにべずに就寝しゅうしんし、翌日よくじつ軽食けいしょくから次第しだい食事しょくじやして、登板とうばん前日ぜんじつには当時とうじ1まい3000えんもするステーキなどボリューム満点まんてんのものをくちにし、いたニンニクをガリガリとかじった[17]時間じかんをかけてゆっくりべる「米田よねだディナー」は、金田かねだのキャンプ時代じだいなべとも有名ゆうめい。この米田よねだディナーのカギをにぎっていたのが、もと松竹しょうちく映画えいが女優じょゆうであった夫人ふじんで、きゅうなリリーフの場合ばあいのぞき、先発せんぱつ予定よていわせて食材しょくざい用意ようい[17]。ローテーションがわったり、登板とうばんめなくなると、監督かんとく西本にしもと直接ちょくせつ電話でんわしておっとがマウンドにのぼきだすとまでわれていた[17]
  • 小学生しょうがくせいてい学年がくねんから弓ヶ浜ゆみがはま往復おうふく10キロをはしんだことによって強靭きょうじん足腰あしこしにつけたとかたっている。「コントロールはうででなくこしでつけるもの」が持論じろん[18]、「ウェートトレーニングなにらないけど、松坂まつさか大輔だいすけみたいにプロレスラーみたいなからだになったらこしまわらなくなるでしょ」と最近さいきんのトレーニング方針ほうしん苦言くげんていしている[4]。この経験けいけんからコーチ時代じだいにランニング中心ちゅうしん練習れんしゅうメニューを導入どうにゅうしたが、選手せんしゅ評判ひょうばんはあまりよくなかったという。
  • 現役げんえき時代じだい一番いちばん苦手にがてにしていた打者だしゃかれて米田よねだは「榎本えのもと喜八きはち大毎だいまいオリオンズ)さんでしたよ。こちらがんでからうち外野がいやあいだにコツンとててとす(ヒットをよくたれた)」とかたっている[19]
  • ライバルとして、梶本かじもと小山こやまげている[20]。もっとも、梶本かじもとについては「なかかったし、よくみにもれてってもらったし、ライバルとかんじはあまりしなかった」ともかたっているが[4]小山こやまについては「小山こやまさんがガクっとおとろえていくのをて、自分じぶんまで闘争とうそうしんがなくなってしまった。小山こやまさんがもうすこ頑張がんばってくれていたら自分じぶんも400しょうくらいったかもれない」とかたっている。なお、やはりどう世代せだいだい投手とうしゅ対戦たいせんおおかった稲尾いなお和久かずひさについて、稲尾いなお阪急はんきゅうせん通算つうさん60しょう17はい勝率しょうりつ.779)という驚異きょういてき勝率しょうりつのこしており、「かれ相手あいてだととにかくてないのでライバルというより悪魔あくまのような存在そんざいだったよ」とかたっている[20]。ダブルヘッダーで2しょうされて「ごちそうさん」とかえってったこともあるという[ちゅう 4]
  • 阪神はんしん在籍ざいせきちゅうに、いまだ10代だったかけぬの雅之まさゆきのちつまとなる女性じょせい紹介しょうかいしている。
  • そのかけぬのおな新潟にいがたけんまれのプロ野球やきゅう選手せんしゅだった松田まつだ和久かずひさ高校こうこう後輩こうはいである。

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

米田よねだ[編集へんしゅう]

鳥取とっとりけん米子よなご大篠津おおしのづまち
明治めいじ37ねん1904ねん)2がつせいぼつ芳太郎よしたろう三男さんなんあいろうだかしょうそつ叔父おじ米田よねだ長次郎ちょうじろう養子ようしもと村会そんかい議員ぎいん趣味しゅみスポーツ将棋しょうぎ宗教しゅうきょう曹洞宗そうとうしゅう[3]
  • ちちまさあきら養父ようふ米田よねだ長次郎ちょうじろう海産物かいさんぶつ仲買なかがいごう)は『伯耆ほうきこく実業じつぎょう人名じんめいろく』(明治めいじ37ねん(1904ねん))にせられていた大篠津おおしのづ代表だいひょうてき商人しょうにんだった[2]

りゃく系図けいず[編集へんしゅう]

 
 
 
 
米田よねだ長次郎ちょうじろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
米田よねだ雅明まさあき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
米田よねだ哲也てつや
 
 
 
 
 
 
 
 

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1956 阪急はんきゅう 51 18 6 4 0 9 15 -- -- .375 832 204.0 156 3 68 4 3 167 1 1 70 54 2.38 1.10
1957 50 29 17 4 1 21 16 -- -- .568 1179 299.2 212 10 84 8 7 268 1 2 82 62 1.86 0.99
1958 45 36 25 11 3 23 13 -- -- .639 1200 305.2 238 11 68 5 1 268 4 0 82 72 2.12 1.00
1959 52 34 20 5 1 18 24 -- -- .429 1329 331.1 277 15 90 12 8 247 2 0 95 78 2.11 1.11
1960 51 33 20 4 1 22 16 -- -- .579 1237 306.2 271 12 71 2 8 213 2 0 112 93 2.73 1.12
1961 56 35 12 1 3 16 22 -- -- .421 1151 275.2 282 27 70 7 8 188 1 0 127 109 3.55 1.28
1962 52 30 10 1 2 20 17 -- -- .541 1092 261.2 239 14 80 9 8 231 2 0 113 94 3.23 1.22
1963 53 28 8 1 0 14 23 -- -- .378 1107 262.1 259 27 91 2 5 177 0 0 135 117 4.00 1.33
1964 60 40 14 4 2 21 16 -- -- .568 1290 319.2 268 25 81 4 9 180 0 0 110 90 2.53 1.09
1965 50 37 13 5 1 20 17 -- -- .541 1151 276.0 280 22 68 6 6 139 1 1 112 92 3.00 1.26
1966 55 36 18 2 2 25 17 -- -- .595 1265 310.0 289 23 81 8 9 184 1 2 120 110 3.19 1.19
1967 46 36 14 4 2 18 15 -- -- .545 1141 280.2 249 17 80 9 12 189 4 4 100 86 2.75 1.17
1968 63 43 22 6 1 29 13 -- -- .690 1412 348.2 302 27 105 15 5 237 0 1 116 108 2.79 1.17
1969 46 31 17 3 2 14 16 -- -- .467 1016 253.1 211 20 68 9 4 135 0 0 95 83 2.95 1.10
1970 41 31 12 2 1 16 13 -- -- .552 992 236.2 226 34 75 3 9 127 2 0 100 94 3.57 1.27
1971 31 28 12 2 0 14 4 -- -- .778 762 181.0 165 19 62 5 8 79 2 1 82 75 3.73 1.25
1972 29 21 5 0 0 10 7 -- -- .588 664 155.2 139 15 56 3 11 81 2 2 66 56 3.23 1.25
1973 32 23 11 3 0 15 3 -- -- .833 727 175.1 149 14 52 3 9 103 5 4 62 48 2.47 1.15
1974 31 24 2 0 0 11 8 1 -- .579 573 130.2 144 15 46 3 8 68 2 5 76 62 4.26 1.45
1975 8 7 2 1 0 2 3 0 -- .400 161 39.2 28 5 19 0 0 13 0 0 16 14 3.15 1.18
阪神はんしん 22 16 2 1 0 8 3 1 -- .727 435 106.2 101 4 37 3 4 55 0 0 30 27 2.27 1.29
'75けい 30 23 4 2 0 10 6 1 -- .625 596 146.1 129 9 56 3 4 68 0 0 46 41 2.53 1.26
1976 13 5 0 0 0 2 2 0 -- .500 126 30.0 27 2 13 0 0 17 0 0 15 15 4.50 1.33
1977 近鉄きんてつ 12 5 0 0 0 2 2 0 -- .500 181 39.0 49 9 15 0 1 22 1 0 24 20 4.62 1.64
通算つうさん:22ねん 949 626 262 64 22 350 285 2 -- .551 21023 5130.0 4561 370 1480 120 143 3388 33 23 1940 1659 2.91 1.18
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこうあか太字ふとじはNPBにおける歴代れきだい最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

記録きろく[編集へんしゅう]

はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
  • 1000投球とうきゅうかい:1959ねん7がつ25にちたい南海なんかいホークス18回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう) ※史上しじょう81にん
  • 1000だつ三振さんしん:1960ねん6がつ1にちたい近鉄きんてつバファロー11回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、9かいひょう伊香いか輝男てるおから ※史上しじょう19にん
  • 1500投球とうきゅうかい:1961ねん5がつ17にちたい西鉄にしてつライオンズ6回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう) ※史上しじょう41にん
  • 100しょう:1961ねん8がつ10日とおかたい西鉄にしてつライオンズ18回戦かいせん平和へいわだい球場きゅうじょう)、先発せんぱつ登板とうばんで6かい1失点しってん史上しじょう33にん
  • 1500だつ三振さんしん:1962ねん 8がつ19にち たい東映とうえいフライヤーズ16回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、6かいひょう安藤あんどう順三じゅんぞうから ※史上しじょう11にん
  • 2000投球とうきゅうかい:1963ねん4がつ18にちたい東映とうえいフライヤーズ3回戦かいせん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう) ※史上しじょう25にん
  • 150しょう:1964ねん5がつ26にちたい西鉄にしてつライオンズ12回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、7かいひょうに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、3かい失点しってん史上しじょう18にん
  • 2500投球とうきゅうかい:1964ねん8がつ13にちたい近鉄きんてつバファローズ25回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう) ※史上しじょう16にん
  • 2000だつ三振さんしん:1965ねん7がつ16にちたい近鉄きんてつバファローズ15回戦かいせん西京極にしきょうごく球場きゅうじょう)、7かいひょううらこくみつるから ※史上しじょう5にん
  • 500試合しあい登板とうばん:1965ねん8がつ8にちたい東京とうきょうオリオンズ15回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、9かい完封かんぷう勝利しょうり史上しじょう17にん
  • 3000投球とうきゅうかい:1966ねん7がつ28にちたい西鉄にしてつライオンズ18回戦かいせん平和へいわだい球場きゅうじょう) ※史上しじょう11にん
  • 200しょう:1966ねん8がつ14にちたい近鉄きんてつバファローズ21回戦かいせん日生にっせい球場きゅうじょう)、9かい1失点しってん完投かんとう勝利しょうり史上しじょう11にん
  • 600試合しあい登板とうばん:1967ねん7がつ22にちたい南海なんかいホークス18回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、9かい1失点しってん完投かんとう勝利しょうり史上しじょう8にん
  • 2500だつ三振さんしん:1968ねん 5がつ15にちたい西鉄にしてつライオンズ6回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、9かいひょう広野ひろのいさおから ※史上しじょう4にん
  • 3500投球とうきゅうかい:1968ねん5がつ18にちたい近鉄きんてつバファローズ7回戦かいせん日生にっせい球場きゅうじょう) ※史上しじょう7にん
  • 250しょう:1968ねん9がつ21にちたい西鉄にしてつライオンズ25回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、8かいひょう1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい2/3を失点しってん史上しじょう6にん
  • 700試合しあい登板とうばん:1969ねん6がつ1にちたいロッテオリオンズ7回戦かいせん東京とうきょうスタジアム)、6かいうら1に3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、3かい2/3を失点しってん
  • 4000投球とうきゅうかい:1969ねん8がつ13にちたい南海なんかいホークス17回戦かいせん大阪おおさか球場きゅうじょう) ※史上しじょう5にん
  • 3000だつ三振さんしん:1971ねん8がつ8にちたい東映とうえいフライヤーズ20回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、8かいひょう末永すえなが吉幸よしゆきから ※史上しじょう3にん
  • 800試合しあい登板とうばん:1971ねん9がつ24にちたい近鉄きんてつバファローズ26回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、7かいひょうに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、4かい失点しってん勝利しょうり投手とうしゅ史上しじょう4にん
  • 300しょう:1971ねん10がつ2にちたい西鉄にしてつライオンズ23回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、9かい1失点しってん完投かんとう勝利しょうり史上しじょう5にん
  • 4500投球とうきゅうかい:1972ねん6がつ11にちたいロッテオリオンズ11回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう) ※史上しじょう3にん
  • 5000投球とうきゅうかい:1975ねん8がつ20日はつかたい広島東洋ひろしまとうようカープ20回戦かいせん広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょう) ※史上しじょう2にん
  • 350しょう:1977ねん10がつ7にちたい阪急はんきゅうブレーブス前期ぜんき13回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう)、4かいうらに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん、2かい1失点しってん史上しじょう2にん
プロ野球やきゅう記録きろく
  • 通算つうさん626試合しあい先発せんぱつ登板とうばん
  • 通算つうさん4561安打あんだ
  • 通算つうさん120故意こい四球しきゅう
  • 通算つうさん1940失点しってん
  • 通算つうさん1659自責じせきてん
  • 19ねん連続れんぞくけた勝利しょうり(1957ねん - 1975ねん
パ・リーグ記録きろく
  • 通算つうさん914試合しあい登板とうばん
  • 通算つうさん605試合しあい先発せんぱつ登板とうばん
  • 通算つうさん340しょう
  • 通算つうさん280はい
  • 通算つうさん4993.1投球とうきゅうかい
  • 通算つうさん4433安打あんだ
  • 通算つうさん1430あずか四球しきゅう
  • 通算つうさん3316だつ三振さんしん
  • 通算つうさん23ボーク
  • 通算つうさん1895失点しってん
  • 通算つうさん1617自責じせきてん
  • シーズン11完封かんぷう勝利しょうり(1958ねん
  • シーズン20しょう以上いじょう:8かい(1957ねん、1958ねん、1960ねん、1962ねん、1964ねん - 1966ねん、1968ねん
その記録きろく
  • リーグ最多さいた登板とうばんなしで通算つうさん949登板とうばん歴代れきだい最多さいた
  • リーグ最多さいたあずか死球しきゅうなしで通算つうさん143あずか死球しきゅう歴代れきだい最多さいた
  • プロはつ安打あんだ満塁まんるい本塁打ほんるいだ史上しじょうはつ
  • 3試合しあい連続れんぞく完封かんぷう勝利しょうり:2かい (1964ねん6がつ5にち - 13にち、1965ねん5がつ1にち - 9にち
  • どういちねんに2球団きゅうだん勝利しょうり:1975ねん史上しじょう5にん
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:14かい (1956ねん、1958ねん - 1960ねん、1962ねん - 1964ねん、1966ねん - 1971ねん、1973ねん

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 18 (1956ねん - 1975ねん途中とちゅう
  • 38 (1975ねん途中とちゅう - 同年どうねん終了しゅうりょう
  • 21 (1976ねん
  • 11 (1977ねん
  • 83 (1985ねん - 1986ねん
  • 88 (1992ねん - 1993ねん
  • 77 (1995ねん

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 後輩こうはいすみ盈男みつおがいる。
  2. ^ 撮影さつえい当時とうじじゅう契約けいやく問題もんだいまれていた米田よねだは、この写真しゃしん撮影さつえい翌日よくじつの1がつ11にちからコミッショナー裁定さいていくだる2がつ3にちまでトレーニング参加さんか禁止きんしされ、最終さいしゅうてき阪急はんきゅう入団にゅうだん米田よねだふたたびタイガースのユニフォームをるのは、球団きゅうだんめいが「阪神はんしんタイガース」となっていた1975ねんのシーズンなかばのこととなる(『ベースボールマガジン』2002ねん秋季しゅうきごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2002ねん、p.93)。
  3. ^ 18さい1ヶ月かげつでの満塁まんるい本塁打ほんるいだ最年少さいねんしょう記録きろく
  4. ^ 1961ねん10がつ1にち 平和へいわだい球場きゅうじょう 阪急はんきゅうvs西鉄にしてつ 26回戦かいせん・27回戦かいせん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう |歴代れきだい最高さいこう記録きろく
  2. ^ a b 米子よなご商業しょうぎょう』477ぺーじ
  3. ^ a b しん日本人にっぽんじんぶつ大観たいかん』(鳥取とっとりけんばん)1958ねん ヨ…291ぺーじ
  4. ^ a b c d e f 阪急はんきゅうブレーブス 黄金おうごん歴史れきし~よみがえる勇者ゆうしゃ記憶きおくスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  5. ^ 勇者ゆうしゃ物語ものがたり~「とらばん疾風しっぷうろく番外ばんがいへん田所たどころ龍一りゅういち】(45)阪急はんきゅう軍配ぐんばい 米田よねだ希望きぼう 裁定さいていまえいていた産経新聞さんけいしんぶん 2020ねん8がつ11にち
  6. ^ いま投手とうしゅも350しょうできるはずや、おな人間にんげんやからと米田よねだ哲也てつやった|プロ野球やきゅう集英社しゅうえいしゃのスポーツ総合そうごう雑誌ざっし スポルティーバ 公式こうしきサイト web Sportiva
  7. ^ 岩瀬いわせ最多さいた登板とうばん 米田よねださん「時代じだいながれ」 40ねんまえだい記録きろく - 毎日新聞まいにちしんぶん、2017ねん8がつ6にち
  8. ^ なぜ、米田よねだ哲也てつやは22年間ねんかんげて故障こしょうゼロだったのか?/プロ野球やきゅう仰天ぎょうてん伝説でんせつ181
  9. ^ “「ける覚悟かくごもとめた米田よねだ哲也てつやコーチ/吉田よしだ義男よしおへん17”. 日刊にっかんスポーツ. (2022ねん5がつ4にち). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202205040000056.html 2023ねん4がつ16にち閲覧えつらん 
  10. ^ a b c d 勇者ゆうしゃ物語ものがたり~「とらばん疾風しっぷうろく番外ばんがいへん田所たどころ龍一りゅういち】(50)正義せいぎ味方みかた 規則きそく反対はんたい ヨネさん格好かっこうええやん
  11. ^ 1985 阪神はんしん日本一にっぽんいち
  12. ^ 東京とうきょう人間にんげんけたくない」とまよわず阪神はんしんえらんだ村山むらやまみのるさん めい投手とうしゅ 江夏えなつえら伝説でんせつの21にん
  13. ^ 吉田よしだ義男よしおちょ阪神はんしんタイガース』新潮しんちょう新書しんしょ、2003ねんISBN 9784106100314、158ぺーじ
  14. ^ 【タイガースふうろく 猛虎もうこすい滸伝】米田よねだコーチ対談たいだん並木なみきコーチも吉田よしだ監督かんとく衝突しょうとつ
  15. ^ 阪神はんしんタイガース』170ぺーじ
  16. ^ わすれられない延長えんちょう12かい完投かんとうけ!野茂のも英雄ひでおは171きゅうで12だつ三振さんしんぼくは198きゅう13だつ三振さんしん野田のだ浩司こうじ連載れんさい#11】”. 東京とうきょうスポーツ (2021ねん8がつ11にち). 2023ねん5がつ5にち閲覧えつらん
  17. ^ a b c 【8がつ14にち】1966ねん(あきら41) “ガソリンタンク”米田よねだ哲也てつや 独自どくじ食事しょくじほうで200しょう達成たっせい
  18. ^ 金田かねだ米田よねだ 合計ごうけい750しょうめい投手とうしゅ阪神はんしん藤浪ふじなみにアドバイス
  19. ^ "小山こやま正明まさあき近藤こんどう和彦かずひこ米田よねだ哲也てつや榎本えのもと喜八きはち金田かねだ正一しょういち苦手にがては" (HTML). Newsポストセブン. 小学しょうがくかん. 7 January 2015. 2020ねん11月17にち閲覧えつらん
  20. ^ a b 文春ぶんしゅんビジュアル文庫ぶんこごうだま列伝れつでん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]