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伊達だて正男まさお

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伊達だて 正男まさお
1956ねん
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 大阪おおさか
生年月日せいねんがっぴ (1911-02-25) 1911ねん2がつ25にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1992-08-30) 1992ねん8がつ30にち(81さいぼつ
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ捕手ほしゅ一塁いちるいしゅ
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
野球やきゅう殿堂でんどう日本にっぽん
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 1988ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 特別とくべつ表彰ひょうしょう

伊達だて 正男まさお(だて まさお、1911ねん2がつ25にち - 1992ねん8がつ30にち)は、東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅう社会しゃかいじん野球やきゅう活躍かつやくした野球やきゅう選手せんしゅである。みぎとうみぎ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

旧制きゅうせい市岡いちおか中学ちゅうがくげん大阪おおさか府立ふりつ市岡いちおか高等こうとう学校がっこう)2ねんから野球やきゅうはじめ、全国ぜんこく大会たいかいに4出場しゅつじょう。ポジションは捕手ほしゅで、ときにマウンドにものぼった。神戸こうべ高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん神戸大学こうべだいがく)をける予定よていだったが市岡いちおかちゅうだい先輩せんぱいだった佐伯さえき達夫たつおからすすめられてだい早稲田わせだ高等こうとう学院がくいん進学しんがくした(のち早稲田大学わせだだいがく商学部しょうがくぶすすむ)。

入学にゅうがく早々そうそう1928ねん東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅう春季しゅんきリーグせんで32打数だすう15安打あんだ打率だりつ.469の高率こうりつ首位しゅい打者だしゃ獲得かくとくした。1年生ねんせいはる首位しゅい打者だしゃ伊達だてはじめてで、その1992ねんはる早大そうだい大森おおもりあつしまであらわれなかった。以後いご強打きょうだ捕手ほしゅ一塁いちるいしゅとしてチームの中軸ちゅうじくになった。

1931ねんはる、エース小川おがわ正太郎しょうたろう胸部きょうぶ疾患しっかんのためあかりせん最後さいご戦列せんれつはなれ、早大そうだい投手とうしゅじんくるまになったことをけて投手とうしゅ転向てんこう。そのシーズンの早慶そうけいせんで3にち連続れんぞく完投かんとうして2しょう1はい慶大けいだいに3シーズンぶりに勝利しょうりした。この連投れんとう伊達だてさん連投れんとうとして絶賛ぜっさんされ(後述こうじゅつ)、時事新報じじしんぽうしゃもうけるリーグせん殊勲賞しゅくんしょうえらばれた。
この活躍かつやくがもとで同年どうねん11がつ読売新聞社よみうりしんぶんしゃ招聘しょうへいしたべいだいリーグ選抜せんばつチームにたいする全日本ぜんにほんチームにえらばれ、11月8にちだいリーグ選抜せんばつたい早大そうだい試合しあいでは6かいまで1失点しってんおさえる好投こうとうせた。

5年間ねんかん通算つうさん成績せいせき投手とうしゅとして11しょう7はい打者だしゃとして82試合しあい出場しゅつじょう、284打数だすう87安打あんだ打率だりつ.306、0本塁打ほんるいだ、45打点だてん

1933ねん卒業そつぎょう日本生命にほんせいめい就職しゅうしょくし、社会しゃかいじん野球やきゅうぜん大阪おおさかチームにくわわり、1934ねんだい8かい全日本ぜんにほん都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかいでエース・ばん打者だしゃとしてはつ優勝ゆうしょう貢献こうけんした。同年どうねん来日らいにちしたベーブ・ルース中心ちゅうしんとするだいリーグ選抜せんばつチームにたいする全日本ぜんにほんチームにもえらばれここでもあわや勝利しょうり好投こうとうえんじた。この全日本ぜんにほんチームがだい日本にっぽん東京とうきょう野球やきゅう倶楽部くらぶ原型げんけいとなり、当然とうぜんのようにチームそう監督かんとく早大そうだい入学にゅうがく監督かんとくだった市岡いちおか忠男ただおがプロりを熱心ねっしんすすめたがこれをことわった。

戦後せんごぜん大阪おおさか監督かんとくけん投手とうしゅとして都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかい出場しゅつじょうした。1955ねんからは阪急はんきゅうブレーブスのコーチとして5年間ねんかん指導しどうし、梶本かじもと隆夫たかお米田よねだ哲也てつやの「ヨネ・カジ」りょうエースの成長せいちょう貢献こうけんした。このほか選抜せんばつ大会たいかい選考せんこう委員いいん甲子園こうしえん大会たいかい審判しんぱん野球やきゅう殿堂でんどう特別とくべつ表彰ひょうしょう委員いいんなども歴任れきにんした。

1988ねん特別とくべつ表彰ひょうしょう野球やきゅう殿堂でんどうりした。

戦前せんぜん阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょうそばには「野球やきゅうとう」とばれるとうがあった。なつ甲子園こうしえん大会たいかい20かい記念きねんしててられたものだったが、とう下部かぶにバッティングのかまえをした立像りつぞうえられていた。このモデルが伊達だてであった。

べいだいリーグ選抜せんばつせんでの好投こうとう[編集へんしゅう]

さん連投れんとう」の伏線ふくせん[編集へんしゅう]

伊達だてはもともと中学ちゅうがく時代じだいから捕手ほしゅであった。しかし中学ちゅうがく時代じだいにマウンドにのぼった経験けいけんがあり、高松たかまつ商業しょうぎょう水原みずはらしげる和歌山わかやま中学ちゅうがく小川おがわ正太郎しょうたろうらとったこともあった。とおとうは120mと強肩きょうけんほこり、速球そっきゅうくわえて変化球へんかきゅうげられたという。本人ほんにんが「1試合しあい四球しきゅう1個いっこか2くらい」とかたるほど制球せいきゅうりょくたしかだった。
早大そうだいすすんだ1930ねんあきのリーグせん早慶そうけいせんはるから3連敗れんぱいちゅう、1回戦かいせん小川おがわらを使つかったもののやぶきゅうした早大そうだいもり茂雄しげお監督かんとく代行だいこう相談そうだんけた伊達だてが、みずか進言しんげんして2回戦かいせんのマウンドにった。

結果けっかは5かい3失点しってん途中とちゅう降板こうばん伊達だて敗戦はいせん投手とうしゅに)、くわえて8かい三塁さんるい走者そうしゃだった伊達だて外野がいやフライでタッチアップしたときのはなれるいはやいとしてアウトの判定はんていけてしまった。伊達だては『週刊しゅうかん朝日あさひ』に抗議こうぎぶん寄稿きこうし、後年こうねんまでこの判定はんてい間違まちがっていると主張しゅちょうしたが、それほどに伊達だて屈辱くつじょくあじわい、心中しんちゅうの雪辱せつじょくした。

伊達だてさん連投れんとう[編集へんしゅう]

早大そうだい野球やきゅう時代じだい伊達だて正男まさお(1928ねん

1931ねん先述せんじゅつのように小川おがわ病気びょうきのため戦線せんせん離脱りだつ早慶そうけいせんまえ早大そうだい投手とうしゅじんくるまになっていた。前年ぜんねん春秋しゅんじゅうつうじて慶大けいだいに1しょうもできず、伊達だてにかかる期待きたいおおきくなっていた。伊達だて前年ぜんねんあき汚名おめいそそ絶好ぜっこう機会きかいかんがえていた。
6月13にちの1回戦かいせん、1かいに21、3るいから名手めいしゅ三原みはらおさむ味方みかた野手やしゅ衝突しょうとつしてまさかの落球らっきゅうをおかし2てんうしなった。その伊達だて慶大けいだい打線だせんを1安打あんだおさえたものの打線だせん水原みずはらまえ沈黙ちんもく、1-2でやぶれた。

つづく2回戦かいせん、2-2と同点どうてんにされた直後ちょくごの7かい三原みはら一世一代いっせいちだいのホームスチールを敢行かんこうしてす。いきおいづいた早大そうだいはその加点かてんし、伊達だて慶大けいだい反撃はんげきを9かいの1てんおさえて連日れんじつ完投かんとうで1しょう1はいのタイとした。早大そうだい6-3慶大けいだい

6月15にちおこなわれた3回戦かいせん月曜日げつようびにもかかわらず神宮球場じんぐうきゅうじょうちょう満員まんいんとなった。先発せんぱつ投手とうしゅ慶大けいだい水原みずはら早大そうだい伊達だて。0-0でむかえた4かい早大そうだい打線だせん爆発ばくはつし4てんげた。伊達だて慶大けいだい反撃はんげきめ、5-4で勝利しょうりした。

エースの連投れんとう完投かんとうたりまえだった当時とうじろく大学だいがくにおいても、3にち連続れんぞく完投かんとうしてしたれいはなかった(明大めいだい湯浅ゆあさ禎夫さだおが3連投れんとうしたことがあるが1しょう2はいだった)。くわえて早慶そうけいせん中等ちゅうとう野球やきゅう有名ゆうめい選手せんしゅおおつど伝統でんとう試合しあいとしていま以上いじょう注目ちゅうもくあつめていた。そこでの快挙かいきょとして伊達だてさん連投れんとう絶賛ぜっさんされることとなった。

なお、このとし慶大けいだいの「わか」に対抗たいこうして早大そうだい応援おうえん紺碧こんぺきそら」を発表はっぴょう攻撃こうげき守備しゅびながれるこの応援おうえん伊達だておおいにはげまされたという。

あわやだい金星きんぼし好投こうとう[編集へんしゅう]

1931ねんあき来日らいにちしただいリーグ選抜せんばつチームは錚々たる面々めんめんあつめていた。のち殿堂でんどうりした選手せんしゅだけでレフティ・グローブルー・ゲーリッグら7にんそろっており、後年こうねん日本にっぽん野球やきゅう発展はってん貢献こうけんしたフランク・オドールもメンバーのなかにいた。なかでもグローブのつよし速球そっきゅうアナウンサーが「グローブ投手とうしゅげました。あっえません、ストライク!」と実況じっきょうするほどのはやさで「スモーク・ボール」の異名いみょうっていた。だいリーグ選抜せんばつ全日本ぜんにほんとの試合しあいほかろく大学だいがく各校かくこうとも対戦たいせんんだ。

11月8にち対戦たいせんだいリーグ選抜せんばつたい早大そうだい)でグローブは先発せんぱつせず、早大そうだい伊達だて先発せんぱつてた。伊達だては6かいまで6安打あんだたれながら1失点しってん力投りきとうせた。すると早大そうだい打線だせん相手あいて先発せんぱつつかれにじょうじて6かい同点どうてん、7かいに4てんうばした。めかけた観衆かんしゅう快挙かいきょなるかと興奮こうふんのるつぼとした。しかしここからだいリーグ選抜せんばつ意地いじせた。2四球しきゅうに2安打あんだからめて1てんうば伊達だてをマウンドからきずりろすとわった投手とうしゅにももうびせて7てんうば逆転ぎゃくてんした。8かいからは登板とうばん予定よていのなかったグローブが登板とうばん打者だしゃ6にんを21きゅうすべ三振さんしんってかくちがいをせつけた。しかしやぶれたものの本場ほんばのプロを本気ほんきにさせた伊達だて力投りきとう評価ひょうかされ、遠征えんせい同行どうこうした米人べいじん記者きしゃからも「投手とうしゅがしっかりしている。伊達だて選手せんしゅ大変たいへんにいい」と絶賛ぜっさんけた。

この試合しあいから数日すうじつ伊達だてはゲーリッグから「ヤンキースないか」とさそわれたという。

3ねんルースを中心ちゅうしんとするだいリーグ選抜せんばつ来日らいにちしたときも伊達だては1-5、5-6とやぶれはしたものの好投こうとうした。このときの全日本ぜんにほんかたぐさになっているのは沢村さわむら栄治えいじによる静岡しずおか草薙くさなぎ球場きゅうじょうでの好投こうとうだが、開幕かいまくまえはむしろ伊達だてほう期待きたいされていた。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

ほか参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 早慶そうけいせん90ねん(1993ねん松尾まつお俊治しゅんじちょスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃISBN 4-583-03086-X
  • 早稲田大学わせだだいがく野球やきゅうひゃくねん(2002ねん早稲田大学わせだだいがく野球やきゅういねもん倶楽部くらぶへん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]