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出川でがわのべあきら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
出川でがわ のべあきら
1956ねん
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 兵庫ひょうごけん神戸こうべ
生年月日せいねんがっぴ 1901ねん8がつ31にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1989-10-16) 1989ねん10月16にち(88さいぼつ
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション 外野がいやしゅ
プロ 1934ねん
はつ出場しゅつじょう 1935ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとくれき
  • 名古屋なごやきんしゃちぐん (1936)
野球やきゅう殿堂でんどう日本にっぽん
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 1970ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 競技きょうぎしゃ表彰ひょうしょう

出川でがわ のべあきら(にでがわ のぶあき、1901ねん8がつ31にち - 1989ねん10月16にち)は、日本にっぽんプロ野球やきゅう選手せんしゅ外野がいやしゅ)・審判しんぱんいん野球やきゅう解説かいせつしゃ実業じつぎょう京阪電気鉄道けいはんでんきてつどうOB。兵庫ひょうごけん出身しゅっしん。「おれがルールブックだ」の名言めいげんられる。

来歴らいれき人物じんぶつ

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明治大学めいじだいがくでは東京とうきょうろく大学だいがくリーグ前身ぜんしん大学だいがくリーグもふくめて62試合しあい出場しゅつじょうし、230打数だすう51安打あんだ打率だりつ.222。この当時とうじ、リーグせんでも学生がくせい同士どうし審判しんぱんをしており、技術ぎじゅつ未熟みじゅくであった。これに不満ふまんいた出川でがわ審判しんぱん制度せいど確立かくりつ必要ひつようであるとかんがえ、野球やきゅうルールの習得しゅうとくつとめた。天知あまち俊一しゅんいち回想かいそうによると、出川でがわ天知あまち後輩こうはいたいして毎朝まいあさルールの難問なんもんを10もんばかりのこし「きょうの練習れんしゅうまでにいておけ」と宿題しゅくだいにしていたという[1]。また、当時とうじ出川でがわ節制せっせい勉学べんがくつとめる「模範もはん選手せんしゅ」であったが、ヘビふところれていて、ヘビぎらいの選手せんしゅほおにヘビをけてえつるという「悪癖あくへき」があったという[1]

1925ねん明大めいだい卒業そつぎょうすると京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう入社にゅうしゃし、大阪おおさかのクラブチーム「ぜん大阪おおさか」や、京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう野球やきゅうでプレーする。1929ねん京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう退社たいしゃし、和歌山わかやま海草かいそう中学ちゅうがくげん和歌山わかやま県立けんりつ向陽こうよう高等こうとう学校がっこう)の監督かんとくとなり、そのとしなつ甲子園こうしえん大会たいかいはつ出場しゅつじょう決勝けっしょうまで進出しんしゅつするも、じゅん優勝ゆうしょうとなる。そのとし海草かいそう中学ちゅうがく監督かんとく退任たいにんし、後任こうにんには大学だいがく同期どうき谷澤たにさわ梅雄うめお推薦すいせんした[2]

1934ねん日米にちべい野球やきゅう全日本ぜんにほん選抜せんばつメンバーに選出せんしゅつ[3]日米にちべい野球やきゅう終了しゅうりょう創立そうりつあいだもないだい日本にっぽん東京とうきょう野球やきゅう倶楽部くらぶ翌年よくねんより東京とうきょう巨人軍きょじんぐん)に参加さんかし、初代しょだい背番号せばんごう1[4]背負せおった。1935ねんのアメリカ遠征えんせいでは巨人きょじん副将ふくしょう助監督じょかんとく)としてチームをまとめている。もっともきょじん選手せんしゅとしての経歴けいれきあしかけ2ねんのみで、1936ねんにはふたた創立そうりつしてあいだもない名古屋なごやきんしゃちぐん選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとくとして移籍いせきしている(同時どうじきょじんからきむしゃち移籍いせきした江口えぐち行男いくおともに、日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょうはつとなる移籍いせきとされている[5])。

しかしどう時期じき日本にっぽん職業しょくぎょう野球やきゅう連盟れんめい日本にっぽん野球やきゅう連盟れんめい - 同名どうめいのアマチュア野球やきゅう組織そしきとは関係かんけいい)が結成けっせいされると7がつ選手せんしゅ引退いんたいし、審判しんぱん転身てんしんした。1950ねん2リーグ分立ぶんりつともなパシフィック・リーグ審判しんぱんとなり1960ねん横沢よこざわ三郎さぶろうのちだい2だい審判しんぱん部長ぶちょう就任しゅうにん1963ねんどう部長ぶちょう引退いんたいし、プロ野球やきゅうかいった(なお、このとしフジテレビプロ野球やきゅう中継ちゅうけい解説かいせつしゃとして出演しゅつえんしたことがあった)。1970ねん競技きょうぎしゃ表彰ひょうしょうとして野球やきゅう殿堂でんどうはいり。審判しんぱん退任たいにん複数ふくすう審判しんぱん実名じつめい巨人きょじんびいきをしているものがいると発言はつげん物議ぶつぎをかもしたことがある。水原みずはらしげる項目こうもくにあるとおり出川でがわ自身じしんは1958ねん日本にっぽんシリーズで結果けっかてき巨人きょじん優勝ゆうしょうながれをめる判定はんていおこなっている。1989ねん10がつ16にち肺炎はいえんのために死去しきょした。88さいぼつ

むすめ宝塚歌劇団たからづかかげきだん出身しゅっしんもと女優じょゆう高千穂たかちほひづるがいる。高千穂たかちほは「月光げっこう仮面かめん」で一世いっせい風靡ふうびした俳優はいゆう大瀬おおせ康一やすいちと1964ねん結婚けっこんしたが、出川でがわたっての懇願こんがんでまもなく芸能げいのう活動かつどうからとおのき夫婦ふうふともに完全かんぜん引退いんたい。このときよりすで起業きぎょうしていた出川でがわ事業じぎょう二人ふたり手伝てつだい、出川でがわ没後ぼつご二人ふたり主力しゅりょくとなり社業しゃぎょうまもっていた。

エピソード

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おれがルールブックだ」

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早慶そうけいせん復活ふっかつ明大めいだい審判しんぱんだん
みぎから岡田おかだ源三郎げんざぶろう湯浅ゆあさ禎夫さだお出川でがわのべあきら

出川でがわ有名ゆうめい語録ごろくとして「おれがルールブックだ」がある。「わたしがルールブックだ」としているものもある。

1959ねん7がつ19にち毎日まいにち大映だいえいオリオンズたい西鉄にしてつライオンズだい15回戦かいせん、8かいうら大毎だいまい攻撃こうげきで、二塁にるい中根なかねこれ塁審るいしんクロスプレーたいして「セーフ」のジャッジをくだした。これにたいして西鉄にしてつ三原みはらおさむ監督かんとく抗議こうぎしたが、中根なかね塁審るいしんはこれをこばみ、「走者そうしゃあし送球そうきゅう同時どうじだったのでセーフだ」とくわえた。三原みはら監督かんとくは「どこにそんなルールがあるのか」とがり、「同時どうじはアウトではないのか」といたところ、中根なかね塁審るいしんは「同時どうじはセーフとルールにもいてある」とこたえた。三原みはら監督かんとくはそのはなれ、審判しんぱんひかしつかおし、出川でがわたいし、同様どうよう抗議こうぎおこなった。出川でがわ中根なかね塁審るいしん同様どうよう説明せつめいおこなったが三原みはら監督かんとく納得なっとくせず、「ルールブックをせてくれ」とった。これにたいして出川でがわが「おれがルールブックだ」とげ、抗議こうぎ退しりぞけた。

じつはこのかぎって、出川でがわはいつもっているルールブックを自宅じたくわすれていた。そのに「ルールブックをせてくれ」と三原みはらられたための、くるしまぎれの発言はつげんだった[6]

しかし、出川でがわ一緒いっしょ審判しんぱんひかしつにいた道仏どうぶつくん証言しょうげんでは、ルールブックをにしていた道仏どうぶつ三原みはらが「そのルールブックをひらいて、てくれ」とったので、出川でがわおこって「オレがいうんだから間違まちがいない。はやけ!」と怒鳴どなり、この「オレがいうんだから間違まちがいない」という言葉ことばが、いつのまにかマスコミに喧伝けんでんされて、「おれがルールブックだ」という言葉ことばになったのが真相しんそうはなしている[7]。この審判しんぱんひかしつにいたのは、出川でがわ道仏どうぶつ小島こじま慶男よしおさんにんだけで、小島こじまも「あれはそのままに、そっとしておこうよ」と道仏どうぶつはなしていたという[7]。「ちいさいまどしの三原みはら出川でがわのやりとりは、終始しゅうし小島こじまわたしいていた。試合しあい談話だんわひれがついて、新聞しんぶん記者きしゃだれかはらないが、あの名文めいぶんをひねったとおもう」と道仏どうぶつはなしている[7]。ただ、出川でがわ本人ほんにんによれば「おれがルールブックだ」とったという[7]

なお、公認こうにん野球やきゅう規則きそくではアウトになる場合ばあい定義ていぎとして「走者そうしゃるいれるまえ野手やしゅるいれる」とあるので、論理ろんりてきには同時どうじ場合ばあいはセーフになる[8]。したがって、出川でがわ中根なかね判断はんだんあやまりはなかったことになるが、当時とうじ野球やきゅう関係かんけいしゃ一部いちぶに「同時どうじはアウト」というあやまった知識ちしき流布るふしており、三原みはらもそれをしんじていたゆえのエピソードともいえる。

気持きもちがはいってないからボールだ」

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1956ねん南海なんかいホークス試合しあいで、皆川みなかわ睦雄むつおが3-0からカウントをとるためにどなかかるんだ直球ちょっきゅうをボールと判定はんていした[9]。ボールはあきらかにストライクゾーン通過つうかしており、当然とうぜん捕手ほしゅ野村のむら克也かつやおよび皆川みなかわもう抗議こうぎしたが、出川でがわは「気持きもちがはいってないからボールだ」と一喝いっかつした。野村のむらはこの滅茶苦茶めちゃくちゃ理由りゆう憤慨ふんがいし、書籍しょせきでもこのけん度々たびたびれて不快ふかいかんあらわにしている。ぎゃく皆川みなかわはこれに感銘かんめいけ、以後いごいちきゅうたりともかないようこころがけるようになった[9]。なお稲尾いなお和久かずひさおなじようにどなかのストライクをボールと判定はんていされたエピソードがある。当然とうぜんながら稲尾いなお抗議こうぎしたところ、出川でがわは「新人しんじんきみおしえといてやる。プロの投手とうしゅにとってどなかはボールなんだ」とこたえたとされる[10]。ただし、これらのけんあきらかな越権えっけん行為こういであり、当時とうじ時代じだい背景はいけいなかゆるされただけのはなしである[9]

写真しゃしん間違まちがっている」

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1リーグせい時代じだい中日ちゅうにち球場きゅうじょうおこなわれたゲームで球審きゅうしんつとめた出川でがわは、ホームでのクロスプレーでアウトの宣告せんこくくだしたが、攻撃こうげきがわから「ノータッチだ」との抗議こうぎがなされた。しかし出川でがわがんとしてこれをはねつけた。翌日よくじつ新聞しんぶんに、クロスプレーの写真しゃしん掲載けいさいされ、キャッチャーがランナーにタッチしていないことが明確めいかくにされ、鈴木すずき龍二りゅうじセントラル・リーグ会長かいちょうがこれをおもて、出川でがわしたところ、鈴木すずき出川いでかわ頓智とんちはじ[11]出川でがわ新聞しんぶん写真しゃしん一瞥いちべつし、「会長かいちょう、これは写真しゃしん間違まちがっているんです」と冗談じょうだんった[11]

日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょうはつの「退場たいじょう!」

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戦前せんぜんのプロ野球やきゅう退場たいじょう宣告せんこくけたのはわずか4にんしかいないが、そのだい1ごう苅田かりた久徳ひさのり東京とうきょうセネタース)である。苅田かりた二塁手にるいしゅとして有名ゆうめいであったが、1936ねん11月20にちたい大阪おおさかタイガースせんでクロスプレーのジャッジに激高げっこうし、塁審るいしん出川でがわばした。出川でがわまようことなく「着席ちゃくせき!」のコール(当時とうじは「退場たいじょう」ではなく「着席ちゃくせき」とコールしていた)。プロ野球やきゅうはそのとしはるはじまったばかりであり、観客かんきゃくのみならず選手せんしゅたちも一瞬いっしゅん呆気あっけられたとう(ただし、このシーンには「むねばされた出川でがわ苅田かりたたいして「無礼ぶれいしゃ!」と怒鳴どなったのにたいして苅田かりた自主じしゅてきにグラウンドをのちにした」とのせつもあるが、公的こうてき記録きろくにおける退場たいじょうだい1ごう苅田かりたであることにはわりはない)。苅田かりた後年こうねんパ・リーグ審判しんぱんいんとなり、出川でがわ同僚どうりょうとなった。

日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょうはつのボールカウント間違まちが

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[12]1リーグ時代じだい1936ねん10月24にち大阪おおさかタイガースたいだい東京とうきょうぐんたたかえ宝塚たからづか球場きゅうじょう)において、5かい二死にし満塁まんるい場面ばめんで、だい東京とうきょう打者だしゃ漆原うるしばらすすむ大阪おおさか投手とうしゅ藤村ふじむら富美男ふみおで、2ストライク2ボールとしたのち藤村ふじむら投球とうきゅう[13]出川でがわはボールと判定はんてい、これを漆原うるしばらがカウントを間違まちがえて四球しきゅうとして一塁いちるいあるし、審判しんぱんりょうぐん選手せんしゅなどもづかないまま、走者そうしゃもそれぞれあるし、三塁さんるいランナ-水谷みずたに則一のりかず本塁ほんるい生還せいかんする、がここでボールカウントの間違まちがいに気付きづき、漆原うるしばら打席だせきもどしたものの、インプレーちゅうだったため走者そうしゃもどこと出来できず3走者そうしゃすすむるいみとめられることとなり、水谷みずたに得点とくてんみとめられ、漆原うるしばら打席だせきはやりなおしとなり三振さんしんたおれている。

問題もんだいとなったのは、3にん走者そうしゃすすむるいをどう記録きろくするかで、公式こうしき記録きろくいんはやむなく「三重みえとうによる3盗塁とうるい」とし、出川でがわ日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょうはつのボールカウントを間違まちがえた審判しんぱんとなり、またこのときさんじゅうぬすめ日本にっぽんプロ野球やきゅうはつさんじゅうぬすめとなっており[14]、この試合しあいでは、大阪おおさかが13盗塁とうるいで1試合しあいでの盗塁とうるいのチーム日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろくだい東京とうきょうの5盗塁とうるいわせての18盗塁とうるいは1試合しあい盗塁とうるい合計ごうけい日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろくとなった。スコアは7たい4で大阪おおさか勝利しょうりしている。

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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  • 一軍いちぐん公式こうしきせん出場しゅつじょうなし

表彰ひょうしょう

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背番号せばんごう

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  • 17(1934ねん日米にちべい野球やきゅう
  • 1(1935ねん
  • 21(1936ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 新潮しんちょう文庫ぶんこ審判しんぱんた!」(織田おだあつし太郎たろうちょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 山本やまもととおるしゅんしま清一せいいち 戦火せんかった伝説でんせつ左腕さわん』P69。この内容ないようは『明治大学めいじだいがく野球やきゅう』(1974ねん)からの引用いんようおもわれる。天知あまちはこのおかげでルールブックをほぼおぼえてしまい、「よき先輩せんぱいって感謝かんしゃしている」としるしている。
  2. ^ しま清一せいいち 戦火せんかった伝説でんせつ左腕さわん』P71。
  3. ^ 野球やきゅう回廊かいろう(1934ねん日米にちべい野球やきゅう登録とうろく選手せんしゅ
  4. ^ 現在げんざい読売よみうりジャイアンツの永久えいきゅう欠番けつばんとなっており、認定にんていは1989ねん3がつ16にち認定にんてい対象たいしょうしゃおう貞治さだはるである。
  5. ^ 巨人軍きょじんぐん年表ねんぴょう. 読売よみうり巨人きょじんぐん公式こうしきサイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/ 2022ねん12月25にち閲覧えつらん 
  6. ^ 近藤こんどうゆいこれ『プロ野球やきゅうめい語録ごろくつ、つ、まもる、そしててっする』講談社こうだんしゃ+αあるふぁ文庫ぶんこ、1996ねん10がつ20日はつか、P240-241
  7. ^ a b c d 田宮たみや謙次郎けんじろう道仏どうぶつくん『プロ野球やきゅう 審判しんぱんだけがっている―誤審ごしんだい乱闘らんとう、トラブルの真相しんそうソニー・マガジンズ、1992ねん、P56-60
  8. ^ 野球やきゅう規則きそく7.08「つぎ場合ばあい走者そうしゃはアウトになる」(e)に、「打者だしゃ走者そうしゃとなったために、すすむるい義務ぎむしょうじた走者そうしゃつぎるいれるまえに、野手のてがその走者そうしゃまたはそのるいれた場合ばあい。」とある。つまり、同時どうじだった場合ばあいは「走者そうしゃつぎるいれるまえ」という要件ようけんたさず、セーフという解釈かいしゃくとなる。
  9. ^ a b c 「どなかでも気持きもちがはいってないからボール」「判定はんてい不服ふふく投手とうしゅと20びょうにらい」日米にちべい名物めいぶつ審判しんぱん仰天ぎょうてんエピソードしゅう<SLUGGER>”. THE DIGEST. 株式会社かぶしきがいしゃ 日本スポにっぽんすぽツ企画出版社つきかくしゅっぱんしゃ (2022ねん5がつ1にち). 2022ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ 出川でがわからすると「プロの投手とうしゅはどんな状況じょうきょうでもどなかげてはいけない」という教育きょういくのつもりだったとのこと。
  11. ^ a b 竹中たけなか半平はんぺん「4だい連載れんさい ひつくままにくままに ふたつの審判しんぱん問題もんだいから 広島ひろしま事件じけんについて」『ベースボールマガジン』1964ねん8がつごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、88–90ぺーじ 
  12. ^ このふしにおける出典しゅってんは、講談社こうだんしゃかん 宇佐美うさみ徹也てつやちょ日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん」617、717ページとする
  13. ^ なんきゅうかは不明ふめいで、ファウルボールかプレーの中断ちゅうだんがあったものとされる
  14. ^ 公式こうしき記録きろくにおける史上しじょう2番目ばんめさんじゅうぬすめは、1936ねん11月29日大にちだい東京とうきょうたい名古屋なごやぐんだい東京とうきょうが4かい記録きろくしている

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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