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牧野まきのしげる (野球やきゅう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
牧野まきの しげる
1955ねん撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 香川かがわけん高松たかまつ
生年月日せいねんがっぴ 1928ねん7がつ26にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1984-12-02) 1984ねん12月2にち(56さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
167 cm
60 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 遊撃手ゆうげきしゅ
プロ 1951ねん
はつ出場しゅつじょう 1952ねん3がつ20日はつか
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1959ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき
野球やきゅう殿堂でんどう日本にっぽん
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 1991ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 競技きょうぎしゃ表彰ひょうしょう

牧野まきの しげる(まきの しげる、1928ねん7がつ26にち - 1984ねん12月2にち[1])は、香川かがわけん高松たかまつ出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ遊撃手ゆうげきしゅ)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

高松たかまつ舶来はくらい洋服ようふくてん三河屋みかわや」をいとなちちゆたか八郎はちろうはは民子たみこあいだまれた[2]ちち慶大けいだい卒業そつぎょう三越みつこし入社にゅうしゃし、独立どくりつして舶来はくらい洋服ようふくてん開店かいてん[3]っからの野球やきゅうきであり、高松たかまつ商業しょうぎょう学校がっこうOBで野球やきゅう後援こうえん会長かいちょうつとめていた[2]会長かいちょうけると5まんえん寄付きふし、その5まんえん野球やきゅう借金しゃっきん返済へんさいした[3]牧野ぼくやまれた当時とうじ高松たかまつしょう高校こうこう野球やきゅう名門めいもんとしてすで全国ぜんこくにそのられており、まれたばかりの牧野ぼくや当時とうじ高松たかまつしょう三塁手さんるいしゅで、のち巨人きょじん入団にゅうだんした水原みずはらしげるがあやしたともわれる[2]自身じしん高松たかまつしょう進学しんがくしたが、高松たかまつ空襲くうしゅう実家じっか全焼ぜんしょうしたため愛知あいちけん疎開そかい愛知あいち商業しょうぎょう編入へんにゅうし、戦後せんごはつ全国ぜんこく大会たいかいとなった1946ねんだい28かい全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう優勝ゆうしょう野球やきゅう大会たいかい出場しゅつじょう卒業そつぎょう1947ねん明治大学めいじだいがく進学しんがくし、東京とうきょうろく大学だいがくリーグ通算つうさん73試合しあい出場しゅつじょう、242打数だすう50安打あんだ打率だりつ.207、15打点だてん、0本塁打ほんるいだ記録きろく

明大めいだい先輩せんぱいである天知あまち俊一しゅんいち監督かんとくさそいで[2]大学だいがく卒業そつぎょう1951ねん中日ちゅうにちドラゴンズ入団にゅうだん。168cmの小柄こがら身体しんたいながら[2]華麗かれい守備しゅびせる遊撃手ゆうげきしゅとして活躍かつやくし、1954ねんのリーグはつ優勝ゆうしょうはつ日本一にっぽんいちおおきく貢献こうけん終身しゅうしん打率だりつ.217という目立めだったはたらきもいまま[2]1959ねんかぎりで現役げんえき引退いんたい

引退いんたい1960ねん中日ちゅうにちのコーチとなるが、開幕かいまくせん直前ちょくぜん練習れんしゅうちゅう対戦たいせん相手あいてである大洋たいようベンチの「いよっ、牧野まきののりへい!」という野次やじはなおおきさから、俳優はいゆう三木みきのりへいにかけられていてにしていた)にはらおびやかすつもりではなしたノックバットがダグアウトにいた先発せんぱつ予定よてい秋山あきやまのぼるがく直撃ちょくげきし、病院びょういんおくりにするというだい惨事さんじこしている。また、大洋たいようはエースをいたこともあり、開幕かいまく6連敗れんぱいしその7せん対戦たいせんしたが、試合しあいまえ脅迫きょうはくじょうとどいている。明大めいだい先輩せんぱいである杉下すぎしたしげる監督かんとく辞任じにんしたことをけて同年どうねん退団たいだん

退団たいだん1961ねんからデイリースポーツ評論ひょうろんとなり、杉下すぎしたは「評論ひょうろんになったのだからキャンプを取材しゅざいしなきゃダメだよ」と旅費りょひをプレゼントしている[3]舌鋒ぜっぽうするどきょじん長所ちょうしょ短所たんしょ批評ひひょうするかれいた新聞しんぶん記事きじ当時とうじ巨人きょじん監督かんとく川上かわかみ哲治てつじが、その内容ないよう感銘かんめいけ、コーチとしてむかえることを決意けつい同年どうねんシーズン途中とちゅう7がつ25にち巨人きょじん一軍いちぐんコーチとして入団にゅうだんしたが、当時とうじ球団きゅうだん出身しゅっしんしゃ以外いがいものをコーチとして招聘しょうへいしたのはきょじんでは勿論もちろん球団きゅうだんにおいてもれいかった。川上かわかみドジャース実践じっせんされ、成功せいこうおさめた組織そしき野球やきゅう戦術せんじゅつ「ドジャース戦法せんぽう」(スモールベースボールいしずえ)をチームにざすことをかんがえていた。牧野ぼくや執筆しっぴつした記事きじんだ川上かわかみはその野球やきゅう理論りろんれ、ドジャース戦法せんぽう導入どうにゅうのキーマンとかんがえ、コーチとして入団にゅうだんさせた[4]。それまで「特別とくべつ練習れんしゅう」とんでいた練習れんしゅうをよりつよ意味いみにしようというおもいから「特別とくべつ訓練くんれん」、りゃくして「特訓とっくん」という言葉ことばした。これがマスコミによって喧伝けんでんされ、現在げんざいではだれもがたりまえ使つか言葉ことばとして定着ていちゃくした。このとしきょじんのキャンプはドジャースがスプリングトレーニング当時とうじ実施じっししていたフロリダしゅうベロビーチおこなわれた。

牧野まきのはチームの帰国きこくもアメリカにのこり、ドジャース戦法せんぽうをはじめとした組織そしき野球やきゅう戦法せんぽう研究けんきゅうつとめた。ボロボロになるまで『ドジャースの戦法せんぽう』をふけ[5][6]、その内容ないようをすっかりまる暗記あんきしてしまった[7]1963ねんはるにはベロビーチでその著者ちょしゃであるアル・キャンパニスから直接ちょくせつ指導しどうけ、「守備しゅび練習れんしゅうこそが勝利しょうりへの直通ちょくつうだ」と結論けつろんけた[7]。そしてその成果せいか1965ねんから1973ねんまでの9連覇れんぱというかたちあらわれる。V9になった1973ねんには作戦さくせんコーチとして活躍かつやくし、川上かわかみみずから「牧野まきのがいなかったら、V9は達成たっせい出来できなかっただろう」とかたったことがある[8]ほど、川上かわかみ巨人きょじんめい参謀さんぼうとして川上かわかみ絶対ぜったいてき信頼しんらいた。川上かわかみのちに『ってるつもり?!』で牧野ぼくやげられたさいにも「もし牧野ぼくやがいなかったら、巨人きょじんの『V9』は達成たっせいできていなかっただろう」とはなしていた。

三塁さんるいコーチスボックスにコーチがって選手せんしゅにサインをおく姿すがた現在げんざいではめずらしくないが、それを最初さいしょ実践じっせんしたのは牧野ぼくやである。それまではチームの監督かんとくってサインを直接ちょくせつ選手せんしゅおくっており、監督かんとくがコーチに作戦さくせん指示しじし、それをコーチがブロックサインで選手せんしゅおく方式ほうしきは、V9時代じだい巨人きょじんがパイオニアである。あわこう憲治けんじ新人しんじん時代じだい、ベンチの川上かわかみのサインをコーチャーズボックスの牧野ぼくや伝達でんたつする役目やくめになっていたとう。そのにも、柴田しばたいさおのスイッチヒッターへの転向てんこうや、宮田みやたただしてん成功せいこうによるストッパー、セットアッパーの登場とうじょう、ケガや病気びょうきによる選手せんしゅぐん調整ちょうせいなど、現在げんざいのプロ野球やきゅう常識じょうしきとなった手法しゅほうはV9のきょじん最初さいしょおこなわれたものがおおい。柴田しばた野手やしゅ転向てんこうしたさい、ドジャースの1ばん打者だしゃモーリー・ウィルスのようなあしはや選手せんしゅさがしていた牧野まきの柴田しばたにその白羽しらはてた[2]柴田しばたはその期待きたいこたえ、あか手袋てぶくろをトレードマークにV9の1ばん打者だしゃ盗塁とうるいおう成長せいちょうしていく[2]

1968ねんには明大めいだい後輩こうはいである高田たかだしげる入団にゅうだんし、高田たかだはあっというにレギュラーポジションをつか[2]牧野ぼくやはルーキー高田たかだ順調じゅんちょうすぎるスタートにひからせ、6がつ広島ひろしません左翼さよくしゅ高田たかだ遊撃手ゆうげきしゅ黒江くろえとおるおさむがイージーフライをゆずいエラーしたさい川上かわかみ牧野まきの即座そくざ高田たかだぐんきをめいじ、牧野まきの高田たかだぐんきを見届みとどけるとひそかにぐんコーチに連絡れんらくった[2]一軍いちぐん活躍かつやくした選手せんしゅぐんくとすう日間にちかんはなぜか風邪かぜをひいて練習れんしゅうやすむものであり、牧野まきの高田たかだ様子ようすいたところ、コーチのこたえ意外いがいなものであった[2]高田たかだ率先そっせんして練習れんしゅうはげんでいるといい、1週間しゅうかん一軍いちぐんひか選手せんしゅ故障こしょうによって高田たかだ一軍いちぐんもどされる[2]のち高田たかだは「あのときははっきりってショックだった。でもあとかんがえるとあのみじかい2ぐん生活せいかつ色々いろいろなところでプラスになった。あの挫折ざせつがなければ天狗てんぐになっていたかもしれない。」とかえっており、そのとし、V4をかざった日本にっぽんシリーズでMVPにえらばれたのは打率だりつ.385の好成績こうせいせきのこした高田たかだであった[2]

また、現在げんざい日本にっぽんのプロ野球やきゅうにおいて監督かんとく、コーチの背番号せばんごうが70ばんだい以上いじょうおおくなっているが、牧野まきののコーチ就任しゅうにん当時とうじ監督かんとく、コーチで現役げんえき時代じだい背番号せばんごう、あるいは比較的ひかくてきわか番号ばんごう着用ちゃくようするケースはめずらしくなかったが、昭和しょうわ30年代ねんだい後半こうはんから、支配しはい選手せんしゅ登録とうろく増加ぞうかなどもあり、徐々じょじょに60ばんだいから70ばんだいなどおおきい背番号せばんごう背負せおうケースがえるようになっているが牧野ぼくや背番号せばんごう「72」を最初さいしょ着用ちゃくようした人物じんぶつとされる。牧野ぼくや退任たいにんに「72」の背番号せばんごうは2年間ねんかん牧野ぼくやしのんでかばんになっていたが、退団たいだんした柴田しばたわり、1986ねんにチームに復帰ふっきした土井どい正三しょうさんが「72」を着用ちゃくよう1989ねんにはヘッドコーチとして入閣にゅうかくした近藤こんどう昭仁あきひとも「72」を着用ちゃくようともに、三塁さんるいコーチを担当たんとうしていた。

1974ねん川上かわかみ勇退ゆうたいけ、「一度いちどだい一線いっせん退しりぞいて、あらためて野球やきゅう勉強べんきょうをしてみたい」と自身じしん同年どうねん11月20にち退団たいだん。そのTBS○曜ナイター&エキサイトナイター解説かいせつしゃサンケイスポーツ評論ひょうろん1975ねん - 1980ねん)として活躍かつやくし、理論りろんてき解説かいせつは、精神せいしんろん中心ちゅうしん解説かいせつしゃおおかったなか異彩いさいはなちファンの人気にんきあつめた。ムー一族いちぞく生放送なまほうそうかいにはミニコーナー「ムー情報じょうほう」に出演しゅつえんし、中継ちゅうけい終了しゅうりょうつづ巨人きょじんせん進捗しんちょく解説かいせつしたこともあった。1971ねんオフに古巣ふるす中日ちゅうにちから監督かんとく就任しゅうにん打診だしんけるがことわ[9]、1975ねんオフに日本にほんハムからも監督かんとく就任しゅうにん打診だしんけるが、「もうすこ勉強べんきょうしたい。」という理由りゆう拒否きょひした[10]

長嶋ながしま茂雄しげおきょじん監督かんとく解任かいにんされ、おう貞治さだはる現役げんえき引退いんたいした1980ねん10月21にち藤田ふじたもとつかさ監督かんとく就任しゅうにん決定けってい藤田ふじたわれ、11月11にちにヘッドコーチに就任しゅうにん契約けいやくきんは2ねん契約けいやくで5,000まんえんわれ、当時とうじのコーチとしては破格はかく条件じょうけんであった[4]1981ねんには藤田ふじた監督かんとくおう助監督じょかんとく牧野まきのヘッドコーチのトロイカ体制たいせい見事みごとたり、8ねんぶりに日本一にっぽんいち奪取だっしゅ同年どうねんオールスター期間きかんちゅうには診察しんさつけ、膀胱ぼうこうがんであることが判明はんめい[2]。それでも「いま入院にゅういんすればチームに迷惑めいわくがかかる」とかんがえた牧野まきの手術しゅじゅつはおろか、入院にゅういんすらしなかった[2]。シーズン終了しゅうりょう牧野まきのはようやく手術しゅじゅつける[2]当初とうしょ契約けいやくどお1982ねんかぎりで退任たいにん予定よていであったが、同年どうねん巨人きょじん中日ちゅうにちとのデッドヒートのすえ優勝ゆうしょうのがしたことから、藤田ふじたたってのねがいで[4]契約けいやくを1ねん延長えんちょう。しかし、病魔びょうま牧野ぼくやからだむしばんでおり、オフは体調たいちょうくず入退院にゅうたいいんかえ状態じょうたいだったという。藤田ふじたは、後年こうねん牧野ぼくや特集とくしゅうした番組ばんぐみのインタビューで、「自分じぶん牧野まきのさんをころしたようなものだ、いちたりとも、牧野まきのさんをわすれたことがなかった」と後悔こうかいするように、当時とうじかえっている。また、ヘッドコーチ復帰ふっき1983ねんもしばらくは三塁さんるいコーチスボックスにっていたが、最後さいご日本にっぽんシリーズでは柴田しばたつとめていた。おう監督かんとく就任しゅうにんしたオフの11月9にち同年どうねんのリーグ優勝ゆうしょう土産みやげ巨人きょじん退団たいだん

退団たいだん1984ねん5月にはふたた手術しゅじゅつけるが、手遅ておくれであった[2]牧野ぼくや病床びょうしょうて、すでに意識いしきもなく、夫人ふじんかたりかけても反応はんのうのない状態じょうたいになったときに、見舞みまいにきた川上かわかみ病室びょうしつはいって「牧野まきの!」とこえをかけたところ、牧野まきのは「ハイ」とこたえたという。12月2にち中央ちゅうおう築地つきじ国立こくりつがんセンター死去しきょ[11]。56さいぼつ牧野ぼくや病床びょうしょうくなる直前ちょくぜんまできょじんのことをかんがえていたらしく、「スエッ! 1ばん松本まつもと…(末次すえつぐ利光としみつ打撃だげきコーチ、1ばん打者だしゃ松本まつもと匡史ただしだ)」とはなしていたらしい[2]

牧野まきのから5ねん1989ねん日本にっぽんシリーズだい5せんで、それまでシリーズ安打あんだであったはらたつとく満塁まんるい本塁打ほんるいだって、よろこびのあまり三塁さんるいコーチの近藤こんどうったときに、興奮こうふんした日本にほんテレビ吉田よしだはま一郎いちろうアナウンサーは、「いま三塁さんるいベースをまわって、牧野まきのヘッド[12]」と実況じっきょうした。

1991ねんには野球やきゅう殿堂でんどうりをたした。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 江川えがわたくによれば、ミーティングで「〜の状況じょうきょうのとき、おまえならどうする?」と投手とうしゅじん質問しつもんし、江川えがわのみが「わたし三振さんしんりにきます」と発言はつげんしたためその叱責しっせき。その、コーチしつ江川えがわばれ「おまえはあれでいのだ」とわれたという[よう出典しゅってん]
  • 玉木たまき正之まさゆきによると「けなしで、ブワーッと無茶苦茶むちゃくちゃやる野球やきゅうをやれれば、そりゃ、おもろいだろうなあ……」とらしたことがあったという[13]同書どうしょには、生前せいぜん牧野ぼくやが「おれは選手せんしゅをひとりもそだてたことのない唯一ゆいいつのコーチだ」と自負じふしていたという記述きじゅつもある[14]
  • 堀内ほりうち恒夫つねおを「野手やしゅ転向てんこうして打撃だげきませていたら、(打者だしゃとして名球会めいきゅうかいはいった)柴田しばたいさお以上いじょう大成たいせいしていた」と太鼓判たいこばんをおしたことがある[15]
  • 藤田ふじたもとつかさとは「ねえ、マキさん」「なんだい?ガンちゃん」とい、「まるで一卵性双生児いちらんせいそうせいじ」と周囲しゅういからやかされるほどなかく、行動こうどう一緒いっしょおおかった[11]牧野ぼくや死後しご竹代たけよ夫人ふじんが「牧野まきのしげる日記にっき」を出版しゅっぱんしたが、その序文じょぶんで、藤田ふじたは「牧野まきのさんとわたしは、昭和しょうわ36ねん以来いらい途中とちゅう6年間ねんかんのブランクをのぞけば、ずっときょじん優勝ゆうしょうのために、とも寝食しんしょくわすれて努力どりょくしあった刎頚ふんけい間柄あいだがらだっただけに、牧野まきのさんの訃報ふほうせっしたときのショックとむなしさがいかにおおきかったか、3ねんとうとしているいまでも、わすれることができない」といている[11]
  • 生前せいぜん川上かわかみ藤田ふじたと3にんで、埼玉さいたまけん飯能はんのうにある名刹めいさつ天覧山てんらんざんのうじんてらはかおうとしたことがあった[11]別荘べっそうおなじで、静岡しずおかけん伊豆山いずさんに、あるいていける距離きょりつくった[11]牧野ぼくや別荘べっそうはホームベースを意識いしきして、建物たてものを5角形かくがたにした[11]
  • キャンプ宮崎みやざき大変たいへん人気にんきのあるとりみせは、どこにでもあるくしすタイプではなく、にわとりあし1ほん包丁ほうちょうれ、団扇うちわのようにひろげると、備長ずみげるものであった[11]巨人きょじん選手せんしゅにもファンがおおかったが、牧野ぼくや藤田ふじたはただべるだけではなく、「こんなにうまいものは、東京とうきょうでも絶対ぜったいうける!」と、サイドビジネスを決意けつい[11]店主てんしゅ直談判じかだんぱんしてコツを伝授でんじゅしてもらい、「場所ばしょ六本木ろっぽんぎにしよう」という青写真あおじゃしんまでつくった。色々いろいろ事情じじょう実現じつげんできなかったが、二人ふたりことあるごとに「したかったなぁ。残念ざんねん!」とくやしがっていた[11]
  • どちらがいいだしたか不明ふめいだが、「船遊ふなあそびもいいなぁ」ということになり、牧野まきのちいさいクルーザーれ、二人ふたり一番いちばん簡単かんたん免許めんきょった[11]当時とうじ森繁もりしげ久彌ひさやつクルーザーが豪華ごうか有名ゆうめいであったが、あるテレビ番組ばんぐみ出演しゅつえんした森繁もりしげが、ふねのオーナーとしてのプライドについてかたったことがある[11]森繁もりしげは「ゲストをまねいたとき、それぞれのゲストのこのみを事前じぜん調しらべておくのです。おれはどこそこさんの、なんねんぶつあかワインき…とか、わたしはしろこのみ…だとか。そのときあわてず、はい、どうぞってね」とかたり、これをいた二人ふたり対抗たいこう意識いしきのぞかせ、「おれたちだって、けないぞ! “ぼくはあかいきつねがいい”といえば、“はい、どうぞ”、“わたしはみどりのたぬき”とくれば、“はい、どうぞ”ってな具合ぐあいだよ」となった[11]

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1952 名古屋なごや
中日ちゅうにち
117 444 394 63 96 10 1 2 114 21 27 12 15 -- 35 -- 0 34 6 .244 .305 .289 .594
1953 118 441 395 46 95 18 3 4 131 35 21 6 14 -- 32 -- 0 33 8 .241 .297 .332 .629
1954 112 365 315 26 62 11 1 2 81 30 17 6 20 2 27 -- 1 21 11 .197 .261 .257 .518
1955 107 331 292 23 59 9 4 0 76 12 15 3 9 0 30 0 0 32 13 .202 .276 .260 .536
1956 82 177 152 12 29 1 3 0 36 8 1 3 7 0 17 0 1 18 3 .191 .276 .237 .513
1957 127 438 391 29 85 6 1 1 96 25 13 8 11 1 35 1 0 49 7 .217 .281 .246 .527
1958 74 116 95 12 19 3 0 0 22 3 4 2 3 0 18 0 0 14 2 .200 .327 .232 .559
1959 19 15 12 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 2 0 0 1 0 .000 .143 .000 .143
通算つうさん:8ねん 756 2327 2046 211 445 58 13 9 556 134 98 40 80 3 196 1 2 202 50 .217 .286 .272 .558
  • 名古屋なごや名古屋なごやドラゴンズ)は、1954ねん中日ちゅうにち中日ちゅうにちドラゴンズ)に球団きゅうだんめい変更へんこう

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 33 (1952ねん、1959ねん
  • 1 (1953ねん - 1958ねん
  • 64 (1960ねん
  • 50 (1961ねん7がつ25にち - 同年どうねん終了しゅうりょう
  • 72 (1962ねん - 1974ねん、1981ねん - 1983ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 牧野まきのしげる』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 日本にほんテレビってるつもり?!2000ねん3月19にち放送ほうそうジャイアンツV9伝説でんせつめい参謀さんぼう牧野まきのしげる
  3. ^ a b c V9時代じだいえんした力持ちからもち 牧野まきのしげるの「必敗ほう」ルーツ
  4. ^ a b c めくりプロ野球やきゅうがつ 【1がつ22にち】1991ねんたいら3) めい参謀さんぼう牧野まきのしげる野球やきゅう殿堂でんどうり コーチとしてはつ”. スポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ. 2008ねん1がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん6がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ 伊東いとう(2003ねん p.352
  6. ^ 福島ふくしま良一りょういち (2014ねん5がつ11にち). “差別さべつ発言はつげん追放ついほうされたドぐんふく会長かいちょう”. Zakzak.co.jp. 2015ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 羽佐間はざま(2013ねん p.74
  8. ^ 週刊しゅうかんベースボール 2021ねん2がつ15にち・2がつ22にちごう 連載れんさい張本ちょうほんくんかつ!!』(39ぺーじ
  9. ^ 中日ちゅうにち水原みずはらしげるぜん監督かんとく後任こうにん日系にっけいせいのウォーリー与那嶺よなみねに/しゅう回顧かいこ1971ねんへん | 野球やきゅうコラム - 週刊しゅうかんベースボールONLINE
  10. ^ 1975ねん10がつ21にち 読売新聞よみうりしんぶん 朝刊ちょうかん 15ぺーじ
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 【アンコールV9巨人きょじん藤田ふじた牧野まきの チームでまれた“双生児そうせいじ
  12. ^ 近藤こんどうはその当時とうじ巨人きょじんヘッドコーチであり、しかも当時とうじ監督かんとく度目どめ任期にんきつとめていた藤田ふじたもとつかさ、さらに近藤こんどう背番号せばんごう「72」と、牧野まきのがヘッドコーチをつとめていた当時とうじ状況じょうきょうこうむるところがおおかったがゆえ混同こんどうとみられる。
  13. ^ 玉木たまき正之まさゆき『プロ野球やきゅうだい事典じてん(新潮しんちょう文庫ぶんこ)』新潮社しんちょうしゃ1990ねん3月1にちISBN 4101070121、P515。
  14. ^ 玉木たまき、P247。
  15. ^ 工藤くどう健策けんさく『プロ野球やきゅうをここまでダメにした9にんくさおもえしゃ2005ねん5月1にちISBN 4794214111、13ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 伊東いとう一雄かずお『メジャーリーグこそ人生じんせい―パンチョ伊東いとうぜん仕事しごと産経新聞さんけいしんぶん出版しゅっぱん、2003ねんISBN 978-4594041175 
  • 羽佐間はざま正雄まさお巨人軍きょじんぐんV9をげたおとこワック・マガジンズ、2013ねんISBN 978-4898314036 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]