渡辺わたなべ智男ともお

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渡辺わたなべ 智男ともお
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 高知こうちけん高岡たかおかぐん佐川さがわまち
生年月日せいねんがっぴ (1967-06-23) 1967ねん6月23にち(56さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
178 cm
80 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうひだり
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1988ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1989ねん6がつ2にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1997ねん8がつ30にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
オリンピック
男子だんし 野球やきゅう
ぎん 1988 野球やきゅう

渡辺わたなべ 智男ともお(わたなべ とみお、1967ねん6月23にち - )は、高知こうちけん高岡たかおかぐん佐川さがわまち出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)。

センバツ甲子園こうしえん準決勝じゅんけっしょうにて清原きよはら和博かずひろ桑田くわた真澄ますみKKコンビひきいるPL学園がくえん得意とくい速球そっきゅう勝利しょうり清原きよはら桑田くわたの5かい甲子園こうしえん出場しゅつじょうにおいて唯一ゆいいつ決勝けっしょう進出しんしゅつ阻止そしたした[1]

愛称あいしょうは、「ナベトミ」。ソウルオリンピック野球やきゅうぎんメダリスト。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

プロまえ[編集へんしゅう]

高知こうちけん高岡たかおかぐんイチゴなどを栽培さいばいする農家のうか長男ちょうなんとしてまれる[2][3]中学校ちゅうがっこう時代じだいにヒジを剥離はくり骨折こっせつし、投手とうしゅにならないという条件じょうけん伊野いの商業しょうぎょう高校こうこう進学しんがくした[4]。しかし、2ねんはるになってから投手とうしゅとして練習れんしゅうするようになり、あきにはエースナンバーをもらった[4]県内けんないどう学年がくねん投手とうしゅには高知商こうちしょう中山なかやま裕章ひろあき明徳義塾めいとくぎじゅくだか山本やまもとまことがおり、球速きゅうそく中山なかやま制球せいきゅうりょく変化球へんかきゅう山本やまもとほううえだとかんじたため、たまちのさや速球そっきゅうのキレにみがきをかけたという[4]

2ねんあき四国しこく大会たいかいじゅん優勝ゆうしょうし、3ねんはるだい57かい選抜せんばつ高等こうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかい出場しゅつじょうこう選出せんしゅつされ、これが同校どうこうはつ全国ぜんこく大会たいかいとなった。渡辺わたなべ自身じしんふくめチームは1回戦かいせん突破とっぱ目標もくひょうとしていたが[4]抽選ちゅうせん結果けっか初戦しょせん相手あいてはチーム打率だりつが4わり東海大とうかいだい浦安うらやすとなった。しかし1かいひょう渡辺わたなべ本塁打ほんるいだ先制せんせいしてながれをつかみ、5たい1で勝利しょうり。これによってチームの緊張きんちょうけ、いてプレーできたという[4]準決勝じゅんけっしょうでは清原きよはら和博かずひろ桑田くわた真澄ますみらをようするPL学園がくえん対戦たいせん伊野いのしょうはつ出場しゅつじょうだったこともあり、下馬評げばひょうでは圧倒的あっとうてき有利ゆうりだったPLがわ投手とうしゅ対策たいさくとくてておらず[4]渡辺わたなべ清原きよはらを3三振さんしんふうめるなどわずか1失点しってん好投こうとう勝利しょうりした。決勝けっしょうたい帝京ていきょうせんではみずか本塁打ほんるいだはな[5]小林こばやし昭則あきのりとのいを13だつ三振さんしん完封かんぷうせいして優勝ゆうしょうした。

3ねんなつ高知こうち大会たいかい決勝けっしょう高知商こうちしょうやぶれ、卒業そつぎょう社会しゃかいじん野球やきゅうNTT四国しこくすすんだ。在籍ざいせきした3年間ねんかんで、チームは毎年まいとし都市とし対抗たいこう出場しゅつじょうし、1988ねん大会たいかいでは初戦しょせん勝利しょうり投手とうしゅとなっている。また同年どうねんソウル五輪ごりん日本にっぽん代表だいひょうにもえらばれたが、直前ちょくぜんの7がつにエースとして[6]参加さんかしたIBAFワールドカップみぎひじを故障こしょうした[7]。この怪我けがなどを理由りゆうドラフト会議かいぎまえにプロ拒否きょひした。これにたい西武せいぶがドラフト1強行きょうこう指名しめいしたため、NTT四国しこく西田にしだゆう監督かんとく激怒げきどしたという[8]。もっとも、ドラフト指名しめいやく1ヶ月かげつまえ10月29にち日大にちだい板橋いたばし病院びょういん渡辺わたなべみぎヒジ遊離ゆうり軟骨なんこつ除去じょきょ手術しゅじゅつ担当たんとうしたのが西武せいぶのチームドクターだったため、この指名しめいかんしては密約みつやくせつもささやかれていた[8][9]球団きゅうだんがわおな手術しゅじゅつ経験けいけんしたぐん投手とうしゅコーチのもり繁和しげかず直接ちょくせつ指導しどう専属せんぞくトレーナーの付与ふよなどを約束やくそく[8]最終さいしゅうてきにはおなじくプロ拒否きょひしていた2指名しめい石井いしいたけひろしとともに入団にゅうだんめている。なお契約けいやくきん年俸ねんぽうはそれぞれ石井いしい同額どうがくの7,000まんえん、840まんえん(いずれも推定すいてい)となった[8]。なお、背番号せばんごう同年どうねん引退いんたいした東尾ひがしおおさむの21をいでいる。

西武せいぶ時代じだい[編集へんしゅう]

プロ1ねん1989ねんのキャンプはみぎヒジ周辺しゅうへん筋肉きんにく強化きょうかなどのリハビリではじまり、くすのきじょうとおるスカウトが専属せんぞくコーチをつとめた[7]。3がつ中旬ちゅうじゅんには捕手ほしゅすわらせた状態じょうたいいちにち50きゅう以上いじょうげられるまでに回復かいふく[7]4がつ24にちにはイースタン・リーグたい巨人きょじんせんはつ登板とうばんしている。さらに5月3にちロッテせんでははつ先発せんぱつで5かいを1安打あんだおさえ、5月26にち一軍いちぐん昇格しょうかくするとはつ登板とうばんとなる6月2にちたいダイエーせん先発せんぱつまかされた[10]。この試合しあいはわずか1かい1/3で7てんうばわれ敗戦はいせん投手とうしゅとなったが、つぎ6月9にちたい日本にほんハムせんではやぶれはしたものの自責じせきてん1の内容ないようで155きゅうげて完投かんとうしている[10]つづ6月17にちたいダイエーせんはつ勝利しょうり完投かんとうかざると先発せんぱつ定着ていちゃくし、同年どうねんは19試合しあい登板とうばんながら規定きてい投球とうきゅうかいにも到達とうたつして10しょうげている。なお、新人しんじんおう選考せんこうではしくも酒井さかいつとむやぶれたが、契約けいやく更改こうかいでは酒井さかい同額どうがく年俸ねんぽう2,000まんえんとなった[11]

2ねん1990ねん開幕かいまくから先発せんぱつローテーションはいり、工藤くどうこうやすし登板とうばん交換こうかんして前年ぜんねん優勝ゆうしょうあらそいをした近鉄きんてつオリックスとの試合しあい先発せんぱつする[12]など、もり祇晶ぎしょう監督かんとくからあつ信頼しんらいけていた。これにこたえて5月11にちたいダイエーせんまで開幕かいまく5連勝れんしょう前年ぜんねんから通算つうさん9連勝れんしょう)を記録きろくし、オールスターゲームはつ出場しゅつじょうたしている。シーズン通算つうさんではキャリアハイの13しょうげ、先発せんぱつした同年どうねん日本にっぽんシリーズだい3せんはる甲子園こうしえん以来いらい桑田くわた真澄ますみとのいとなり、史上しじょう8にんはつ登板とうばんはつ完封かんぷう勝利しょうりした。なおどうシリーズでは西武せいぶ選手せんしゅがこぞって活躍かつやくし、渡辺わたなべ完封かんぷう記録きろくしながら優秀ゆうしゅう選手せんしゅしょうえらばれないというめずらしいケースとなっている(同年どうねん日本にっぽんシリーズだい1せんおなじく完封かんぷう勝利しょうり達成たっせいした渡辺わたなべひさ優秀ゆうしゅう選手せんしゅしょうえらばれている)。また、のち渡辺わたなべ自身じしんはこの完封かんぷう勝利しょうり現役げんえき時代じだい一番いちばんおもだとかたっている[13]

1991ねん5月22にちまでにすべ完投かんとうで5しょうげるなど順調じゅんちょうなスタートをったが、7がつ16にちたい近鉄きんてつせん右手みぎて中指なかゆびマメつぶれ、登録とうろく抹消まっしょうされるとともに同年どうねんのオールスターゲーム出場しゅつじょう辞退じたいすることになった[14]最終さいしゅうてきには新人しんじんから3ねん連続れんぞくとなるけた勝利しょうりげ、さらにはつのタイトルとなる最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ獲得かくとくした。同年どうねん日本にっぽんシリーズではだい4せん先発せんぱつしたが、2かい0/3をげて5安打あんだ2四球しきゅう、2失点しってん内容ないよう敗戦はいせん投手とうしゅとなっている。オフには1,920まんえんぞう年俸ねんぽう6,120まんえん契約けいやく更改こうかいした[15]

1992ねん前半ぜんはんせんで7しょうげて最多さいた勝利しょうり期待きたいされたが、シーズン後半こうはんからストライクがまったはいらない状態じょうたいおちいってしまった[16]。さらにみぎひじつう発覚はっかく[13]し、後半こうはんせん勝利しょうりわった。同年どうねん日本にっぽんシリーズでもだい4せん先発せんぱつしたが、2安打あんだ3四球しきゅう内容ないよう前年ぜんねんおなじく3かい途中とちゅうでの降板こうばんとなっている。同年どうねんはつのダウンとなる年俸ねんぽう5,400まんえん推定すいてい)で契約けいやく更改こうかいした[16]

コントロールの悪化あっか腰痛ようつうをかばってフォームがくずれたこと原因げんいんかんがえ、1993ねんはキャンプから修正しゅうせいかえしたが状態じょうたい改善かいぜんせず、イースタン・リーグでも四球しきゅうでランナーをためてたれ、プロはつ一軍いちぐんでの登板とうばんしでシーズンをえた[16]投球とうきゅうノイローゼのような状態じょうたいだったともわれる[17]。オフに佐々木ささきまこと村田むらた勝喜かつよし橋本はしもと武広たけひろ3選手せんしゅとの大型おおがた交換こうかんトレードで秋山あきやま幸二こうじ内山うちやま智之としゆきりょう選手せんしゅとともにダイエーに移籍いせきした。このトレードにともない、年俸ねんぽうは200まんえんぞうの5,600まんえんとなっている[18]

ダイエー時代じだい[編集へんしゅう]

1994ねん移籍いせき1ねん5月5にちたいロッテせんで1ねん11ヶ月かげつりの勝利しょうり四球しきゅう完封かんぷうかざ[19]復活ふっかつきざしをせたものの、投球とうきゅうのムラがはげしくけが先行せんこう8がつ3にちたい近鉄きんてつせんみぎ足首あしくびいためて以降いこうはチームの好調こうちょうもあり登板とうばんがなかった[20]同年どうねん契約けいやく更改こうかいでは現状げんじょう維持いじとなっている[21]

1995ねんみぎ足首あしくび状態じょうたいからキャンプでの調整ちょうせいおくれ、はつ登板とうばんとなった4がつ14にちたい近鉄きんてつせんで7かい途中とちゅうまで3安打あんだ失点しってんおさえる[20]も、その成績せいせき低迷ていめい一軍いちぐん登板とうばんではプロはつの0しょうわる。

1996ねん、キャンプちゅうこしいためて2ぐんでの調整ちょうせいつづき、7がつには再起さいきをかけてみずかサイドスローへの転向てんこうめた[22]。しかしシーズンはつ登板とうばんとなった8がつ13にちたい日本にほんハムせん先発せんぱつすると8安打あんだ5失点しってんで3かい途中とちゅうでの降板こうばんとなり、つづ8がつ17にちたいオリックスせん中継なかつぎで1かい2/3をげ2失点しってん投球とうきゅう内容ないよう改善かいぜんせず、同年どうねん一軍いちぐん登板とうばんはこの2試合しあいだけとなった[22]翌年よくねんには一軍いちぐんではプロはつ先発せんぱつ登板とうばんしにわる。

西武せいぶ復帰ふっき[編集へんしゅう]

1997ねんオフに金銭きんせんトレードで西武せいぶ復帰ふっきしたが一軍いちぐん登板とうばんのないまま、1998ねんかぎりで現役げんえき引退いんたい西武せいぶのスカウトに転身てんしんした[23]

引退いんたい[編集へんしゅう]

2009ねん8がつ22にちロッテせんにはライオンズ・クラシック一環いっかんとして復刻ふっこくユニフォームを打席だせき清原きよはら和博かずひろむかえて投手とうしゅつと始球しきゅうしきおこなった。また、2011ねん5月31にちセ・パ交流こうりゅうせんでの巨人きょじんせんでは試合しあいまえに「OBいち打席だせき対決たいけつ」として打席だせき篠塚しのづか和典かずのりむかえて始球しきゅうしきおこなった。

選手せんしゅとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

身長しんちょう178cmとプロの投手とうしゅとして大柄おおがらではなかった[24]が、高校こうこう時代じだいからキレの速球そっきゅうあじとし、社会しゃかいじん時代じだい常時じょうじ140km/hだい後半こうはん速球そっきゅうスライダーおおくの三振さんしんうばっていた[6]。プロさら球威きゅういし、150km/hをえる速球そっきゅう落差らくさおおきいカーブするどいスライダーで1ねんから活躍かつやくしている[13]。プロでは走者そうしゃがいないとき下位かい打線だせん相手あいてとする場面ばめんちからをセーブし、メリハリをつけながら130プラスマイナス10きゅうたますう完投かんとうすることこころがけていた[25]

新人しんじん時代じだい渡辺わたなべ久信ひさのぶ村田むらたちょう目標もくひょう選手せんしゅげ、本格ほんかくとしてなが活躍かつやくすること目指めざしていた[2]高校こうこう時代じだいからつづ腰痛ようつうには気功きこう療法りょうほうおこなっていた[2]が、1992ねんきた投球とうきゅうイップスの影響えいきょうにより身体しんたいのバランスをうしない、以降いこうみぎひじつう右肩みぎかたつう足首あしくび故障こしょうなど度重たびかさなる故障こしょうにより、プロでの活躍かつやく期間きかんみじかかった。

また、高校こうこう時代じだい眼鏡めがねけて投球とうきゅうしていたが、社会しゃかいじん時代じだいからコンタクトレンズけて投球とうきゅうするようになり、眼鏡めがねけずに投球とうきゅうするようになった(日常にちじょう生活せいかつでは眼鏡めがね着用ちゃくよう)。しかし、プロにたびたび乱視らんしこり、制球せいきゅうさだまらなくなって自滅じめつするケースもあった。

評価ひょうかなど[編集へんしゅう]

1990ねんのオールスターゲーム対戦たいせんした阪神はんしん岡田おかだ彰布あきのぶは、同年どうねんそれぞれ新人しんじんおう獲得かくとくした与田よだつよし野茂のも英雄ひでおよりも、渡辺わたなべほう速球そっきゅうちからうえだったとひょうしている[26][27]。また、清原きよはら和博かずひろ甲子園こうしえんでの対戦たいせんのちかえり、「ちからおさえられたのはあのときだけ」とかたっている[28]。また2019ねん片岡かたおか篤史あつしのYouTubeチャンネルに登場とうじょうしたさいには「(清原きよはらにしてはめずらしい見逃みのが三振さんしんは)まったなかった」「(高校こうこう時代じだいの)球筋たますじ藤川ふじかわ球児きゅうじてる」「ここ(バッター近辺きんぺんし)からがすごかんじ」などと解説かいせつしている。

中日ちゅうにちのチーフスコアラーだった江崎えざき照雄てるおは、「たまれのきには天才てんさいてきなものがある」と渡辺わたなべ投球とうきゅうじゅつ評価ひょうかしている[26]。しかし、下位かい打線だせんたいしてちから投球とうきゅう江川えがわたくのようだとわれ、もり祇晶ぎしょう監督かんとく苦言くげんていされることもしばしばあった[26]

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1989 西武せいぶ 19 17 7 1 1 10 7 0 -- .588 568 138.0 129 12 41 3 2 101 2 0 55 54 3.52 1.23
1990 24 22 12 0 1 13 7 1 -- .650 724 176.0 156 21 52 3 4 130 4 0 74 66 3.38 1.18
1991 22 20 11 3 2 11 6 1 -- .647 638 157.0 117 11 60 5 6 119 3 0 46 41 2.35 1.13
1992 20 15 1 0 0 7 5 0 -- .583 397 85.0 81 8 61 2 8 58 5 0 54 46 4.87 1.67
1994 ダイエー 16 16 3 2 3 4 9 0 -- .308 393 93.2 84 6 40 0 5 47 5 0 49 44 4.23 1.32
1995 14 12 1 0 0 0 5 0 -- .000 316 69.1 75 8 29 1 5 42 2 1 44 40 5.19 1.50
1996 2 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 27 4.1 12 1 3 0 0 4 0 0 7 7 14.54 3.46
1997 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 17 2.1 6 0 5 0 0 1 3 0 3 3 11.57 4.71
通算つうさん:8ねん 123 103 35 6 7 45 40 2 -- .529 3080 725.2 660 67 291 14 30 502 24 1 332 301 3.73 1.31
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

記録きろく[編集へんしゅう]

はつ記録きろく
  • はつ登板とうばんはつ先発せんぱつ登板とうばん:1989ねん6がつ2にちたい福岡ふくおかダイエーホークス8回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、1かい1/3を7失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅ
  • はつ完投かんとう:1989ねん6がつ9にちたい日本にっぽんハムファイターズ8回戦かいせん東京とうきょうドーム)、8かい2失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅ
  • はつ勝利しょうりはつ先発せんぱつ勝利しょうりはつ完投かんとう勝利しょうり:1989ねん6がつ17にちたい福岡ふくおかダイエーホークス11回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、9かい2失点しってん
  • はつ完封かんぷう勝利しょうり:1989ねん9がつ27にちたい近鉄きんてつバファローズ22回戦かいせん藤井寺ふじいでら球場きゅうじょう
  • はつセーブ:1990ねん10がつ11にちたい近鉄きんてつバファローズ26回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、6かいひょうに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、4かい失点しってん
その記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 21(1989ねん - 1993ねん
  • 18(1994ねん - 1997ねん
  • 39(1998ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 週刊しゅうかんベースボール”. 2024ねん3がつ31にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん9がつ18にちごう、P.117
  3. ^ 矢崎やさき良一りょういち不惑ふわく : 桑田くわた清原きよはらたたかったおとこたち』ぴあ、14ページ、2008ねんISBN 978-4-8356-1692-6
  4. ^ a b c d e f 週刊しゅうかんベースボール、2003ねん8がつ25にちごう、P.24
  5. ^ asahi.com 選抜せんばつ決勝けっしょう記録きろく
  6. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん5がつ22にちごう、P.25
  7. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん4がつ10にちごう、P.51
  8. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん1がつ16にちごう、P.26
  9. ^ プロ野球やきゅうくろいドラフト”封印ふういんされた真相しんそう根本ねもと陸夫むつお使つかったドラフトのうらわざとは?」
  10. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん9がつ18にちごう、P.116
  11. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、1989ねん12月16にちづけ朝刊ちょうかん、P.18
  12. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん5がつ21にちごう、P.129
  13. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、1998ねん12月7にちごう、P.61
  14. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、1991ねん7がつ18にちづけ朝刊ちょうかん、P.21
  15. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、1991ねん12月10にちづけ朝刊ちょうかん、P.21
  16. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、1993ねん12月20にちごう、P.116
  17. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1993ねん12月20にちごう、P.117
  18. ^ 予選よせんリーグ1993ねん12月22にちづけ夕刊ゆうかん、P.3
  19. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、1994ねん5がつ6にちづけ夕刊ゆうかん、P.18
  20. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん、1995ねん4がつ15にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  21. ^ 朝日新聞あさひしんぶん、1994ねん12月11にちづけ朝刊ちょうかん、P.27
  22. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、1996ねん9がつ2にちごう、グラビア
  23. ^ 週刊しゅうかんベースボール2014ねん3がつ24にちごう P18
  24. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん2がつ5にちごう、P.115
  25. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん6がつ11にちごう、P.36
  26. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん9がつ17にちごう、P.18
  27. ^ 真弓まゆみ岡田おかだ苦手にがてだったピッチャー】だれ変化球へんかきゅうが1ばんすごかった!?あの投手とうしゅの〇〇がてなかった!往年おうねんめい投手とうしゅたちとの対決たいけつおもかたう! - YouTube
  28. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん9がつ17にちごう、P.17
  29. ^ ベースボール・レコード・ブック1992、1991ねん12月発売はつばい、P.788

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]