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もり繁和しげかず

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
もり 繁和しげかず
中日ちゅうにちドラゴンズ一軍いちぐんバッテリーチーフコーチ時代じだい
(2009ねん7がつ16にち阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょうにて)
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 千葉ちばけん長生ちょうせいぐん一宮いちのみやまち
生年月日せいねんがっぴ (1954-11-18) 1954ねん11月18にち(69さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
181 cm
81 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1978ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1979ねん4がつ9にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1988ねん9月8にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき

もり 繁和しげかず(もり しげかず、1954ねん11月18にち - )は、千葉ちばけん長生ちょうせいぐん一宮いちのみやまち出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・コーチ監督かんとく解説かいせつしゃ評論ひょうろん

マネジメント契約けいやくさき吉本興業よしもとこうぎょうグループの芸能げいのう事務所じむしょ吉本興業よしもとこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ

愛称あいしょう「モリシゲ」[1]

経歴けいれき

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プロりまで

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市原いちはら科学かがく技術ぎじゅつ工業こうぎょう高校こうこう[ちゅう 1][2]では2ねん1971ねんからエースとなり、なつけん大会たいかいベスト8。3ねん1972ねんでははる千葉ちばけん大会たいかい2にち八千代やちよだかから16だつ三振さんしん記録きろくするが、同日どうじつには成東なるとうだか鈴木すずき孝政たかまさ市川いちかわたくみせんで16だつ三振さんしんをマーク[2]同年どうねん廃校はいこう決定けっていするが、なつ千葉ちば大会たいかい佐倉さくらだか敗退はいたいどう大会たいかい審判しんぱん判定はんてい不服ふふくうったえて抗議こうぎした様子ようす駒澤大学こまざわだいがく藤田ふじたしゅんくんがくかんまり[2]駒大こまだい高校こうこう転校てんこうすで高校こうこう野球やきゅう引退いんたいしていたため大学だいがく練習れんしゅう参加さんかしていたという。

卒業そつぎょう1973ねん駒澤大学こまざわだいがく進学しんがくし、東都とうと大学だいがく野球やきゅうリーグでは在学ざいがくちゅう5優勝ゆうしょう経験けいけん。3ねん1975ねんはる秋季しゅうき連続れんぞく優勝ゆうしょうたし、同年どうねん大学だいがく選手権せんしゅけんでも、決勝けっしょうでエース斉藤さいとう明雄あきおようする大阪商業大学おおさかしょうぎょうだいがくやぶって優勝ゆうしょうあき明治めいじ神宮じんぐう大会たいかいでは決勝けっしょうせんで6かいから登板とうばんし、失点しってんおさえたがチームは明治大学めいじだいがくやぶれてじゅん優勝ゆうしょう。4ねん1976ねん春季しゅんきリーグでは、同期どうき大宮おおみや龍男たつおとバッテリーをみ、8しょうげる活躍かつやく最高さいこう殊勲しゅくん選手せんしゅ最優秀さいゆうしゅう投手とうしゅ、ベストナインを受賞じゅしょう同年どうねん大学だいがく選手権せんしゅけん1回戦かいせん近畿大学きんきだいがく工学部こうがくぶ[ちゅう 2]相手あいて完全かんぜん試合しあい達成たっせいするが、準決勝じゅんけっしょう大阪商業大学おおさかしょうぎょうだいがく敗退はいたい敗者はいしゃ復活ふっかつせんでも東海大学とうかいだいがくやぶれた。一方いっぽう同年どうねんだい5かい日米にちべい大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされた。あき明治めいじ神宮じんぐう大会たいかいでは初戦しょせん法政大学ほうせいだいがく江川えがわたく先発せんぱつうがやぶれた。リーグ通算つうさん41試合しあい登板とうばんし18しょう9はい防御ぼうぎょりつ2.11、191だつ三振さんしん駒大こまだい時代じだい合宿がっしゅくしょちかくのアパート上級生じょうきゅうせい部屋へやつとめたことにより、料理りょうりつくるのが上手うまく、中華ちゅうか料理りょうり得意とくいで、上級生じょうきゅうせいにモテていた[2]練習れんしゅうやすみのには九十九里浜くじゅうくりはま保養ほよう国民こくみん宿舎しゅくしゃいとなんでいる実家じっか仲間なかまさそい、美味おいしい魚介ぎょかいるい舌鼓したつづみった[2]大宮おおみや以外いがい駒大こまだい同期どうきには山川やまかわたけし武智たけち勇治ゆうじが、3学年がくねん先輩せんぱい栗橋くりはししげる木下きのした富雄とみおが、1学年がくねん先輩せんぱい中畑なかはたきよし二宮にのみやいたる平田ひらたかおるが、2学年がくねん後輩こうはい石毛いしげ宏典ひろのりがいる。

1976年度ねんどプロ野球やきゅうドラフト会議かいぎロッテオリオンズから1指名しめいけたが「わたしにはまだらないところがある」「西にしほう野球やきゅうます[2]」と両親りょうしん監督かんとく同伴どうはんせず一人ひとり金田かねだ正一しょういち監督かんとくしたおとずれたうえことわりをれて入団にゅうだん拒否きょひ[3]住友金属すみともきんぞく入社にゅうしゃ1977ねん都市とし対抗たいこう出場しゅつじょうするが、1回戦かいせんこうだいのべはく大学だいがく同期どうき武智たけちがいる東芝とうしば延長えんちょう14かい完投かんとうすえ敗退はいたい同年どうねん日本にっぽん選手権せんしゅけんでは中村なかむら裕二ゆうじとバッテリーをみ4連勝れんしょう決勝けっしょう電電でんでん四国しこくくだはつ優勝ゆうしょうかざり、この大会たいかいでは最高さいこう殊勲しゅくん選手せんしゅしょう受賞じゅしょう国際こくさい試合しあいでは、同年どうねんだい3かいインターコンチネンタルカップ日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされた。1978ねんにはのち中日ちゅうにち監督かんとくとコーチの関係かんけいとなる落合おちあい博満ひろみつらとともに、だい25かいアマチュア野球やきゅう世界せかい選手権せんしゅけん日本にっぽん代表だいひょうにも選出せんしゅつされたが、同年どうねん都市とし対抗たいこうでは1回戦かいせん日本にっぽん楽器がっきせん頭部とうぶ死球しきゅうけ、骨折こっせつするアクシデントに見舞みまわれた。チームは勝利しょうりしてベスト8まですすむが2回戦かいせん以降いこう登板とうばんなし。この大会たいかいでは、デュプロから左腕さわん投手とうしゅ川口かわぐち和久かずひさ補強ほきょう選手せんしゅとして住友金属すみともきんぞくくわわっており、この期間きかんちゅうもり川口かわぐち親交しんこうふかめた。

現役げんえき時代じだい

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1978年度ねんどプロ野球やきゅうドラフト会議かいぎ西武せいぶライオンズ、中日ちゅうにちドラゴンズ、ヤクルトスワローズ、日本にっぽんハムファイターズの4球団きゅうだんから1指名しめいけ、抽選ちゅうせん結果けっか西武せいぶライオンズ入団にゅうだん[ちゅう 3]担当たんとうスカウトは毒島ぶすじま章一しょういち。このさいはやはり関東かんとう球団きゅうだんまたは関西かんさいでも人気にんきのある阪神はんしんであれば入団にゅうだんする意向いこうであったというが阪神はんしん江川えがわ指名しめいしている。

1979ねんはルーキーながら開幕かいまくだい2せんから先発せんぱつとして起用きようされる。夏場なつばには疲労ひろうもあって先発せんぱつはずれるが、8がつ中旬ちゅうじゅんには復帰ふっき規定きてい投球とうきゅうかい(リーグ20防御ぼうぎょりつ4.52)にもたっするが、チームが最下位さいかいしずんだこともあり、5しょう16はいわる。

1980ねんは10しょう14はい防御ぼうぎょりつ4.70(リーグ18)、1981ねんは14しょう11はい防御ぼうぎょりつ3.78(リーグ15)と成績せいせきばし、東尾ひがしおおさむ松沼まつぬま博久ひろひさ雅之まさゆき兄弟きょうだいとともに西武せいぶ投手とうしゅじん中心ちゅうしんとなる。

広岡ひろおか達朗たつろう監督かんとく就任しゅうにんした1982ねんシーズンは開幕かいまく投手とうしゅ起用きようされるが、その4試合しあい結果けっかなかったため広岡ひろおかリリーフ転向てんこうめいじられる。シーズン途中とちゅうからリリーフとして西武せいぶ所沢ところざわ移転いてんはつ優勝ゆうしょう貢献こうけん[4]中日ちゅうにちドラゴンズとの日本にっぽんシリーズでも3試合しあい登板とうばんした。

1983ねんシーズンには5しょう5はい34セーブ(34セーブは当時とうじ日本にっぽん記録きろく)の成績せいせき最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅ受賞じゅしょう読売よみうりジャイアンツ巨人きょじん)との日本にっぽんシリーズではだい3せん中畑なかはたきよしにサヨナラヒットをたれ投手とうしゅだい4せんでセーブを記録きろくした。その怪我けがくるしみ徐々じょじょ成績せいせき低下ていか

1986ねんシーズンはかた手術しゅじゅつのため現役げんえき選手せんしゅ登録とうろくされず、秋季しゅうき若手わかてとともにヒューストン・アストロズのアリゾナ教育きょういくリーグ参加さんか部隊ぶたい、アリゾナ・アストロズに野球やきゅう留学りゅうがく

1988ねんシーズンかぎりで現役げんえき引退いんたい

引退いんたい

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引退いんたいは、指導しどうしゃみちすすむ。落合おちあい博満ひろみつ著書ちょしょによると、根本ねもと陸夫むつおにコーチとしての資質ししつ見出みいだされてはやめに引退いんたいさせられたという。

1989ねんシーズンから1991ねんシーズンまで西武せいぶライオンズぐん投手とうしゅコーチをつとめた。

1992ねんからはロッテの監督かんとく就任しゅうにんした八木沢やぎさわそうろくのちけ、一軍いちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにん

1998ねんシーズン途中とちゅう投手とうしゅじん低迷ていめい責任せきにんらされぐん配置はいち転換てんかんとなる。

1999ねんシーズン終了しゅうりょう解雇かいこ[5]

2000ねんシーズンからは大島おおしま康徳やすのり招聘しょうへい日本にっぽんハムファイターズ一軍いちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにん[6]

2001ねんシーズンまでつとめたが2ねん連続れんぞくでチーム防御ぼうぎょりつ5低迷ていめい[7][8]

2002ねんシーズンからはもり祇晶ぎしょうわれ横浜よこはまベイスターズ一軍いちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにん

2003ねんシーズンまでつとめたが、チーム防御ぼうぎょりつ4.09(リーグ5)と4.80(リーグ最下位さいかい)と低迷ていめい[9][10]

日本にほんハムと横浜よこはまりょう球団きゅうだん投手とうしゅじん不振ふしんおちい最下位さいかいしずんだ。

2004ねんシーズンからは中日ちゅうにちドラゴンズ監督かんとく就任しゅうにんした落合おちあい博満ひろみつからの要請ようせいけ、中日ちゅうにち一軍いちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにん[11]

2005ねんシーズンには中日ちゅうにち一軍いちぐん投手とうしゅチーフコーチ。

2006ねんシーズンから2009ねんシーズンまでは中日ちゅうにち一軍いちぐんバッテリーチーフコーチをつとめた。

2010ねんシーズンには一軍いちぐんヘッドコーチへ昇格しょうかく

2011ねんシーズン終了しゅうりょう落合おちあいとも退団たいだん中日ちゅうにちのコーチとして8年間ねんかんすべてAクラス、リーグ優勝ゆうしょう4かい日本一にっぽんいち1かいたした[12]

2012ねんから2013ねん文化放送ぶんかほうそうJ SPORTS野球やきゅう解説かいせつしゃ[ちゅう 4]スポーツニッポン(スポニチ)の野球やきゅう評論ひょうろん[14]つとめた。

2013ねん10がつ22にちよく2014ねんシーズンより中日ちゅうにち一軍いちぐんヘッドコーチに就任しゅうにんすることが発表はっぴょうされた[15]。11月1にちには背番号せばんごう「80」決定けっていしたことが発表はっぴょうされた[16]。なお、2014ねんシーズンから2015ねんシーズンまでは監督かんとくたにしげる元信もとのぶ選手せんしゅ兼任けんにんだったため、たにしげる選手せんしゅとして出場しゅつじょうした場合ばあいもり監督かんとく代行だいこうつとめていた。

2016ねんシーズンからたにしげる監督かんとく専任せんにんすることとなったため一軍いちぐんヘッドコーチに専念せんねんすることとなったが、チームの成績せいせき不振ふしん改善かいぜんできず優勝ゆうしょうあらそいにもくわわれなかったため、たにしげる休養きゅうよう事実じじつじょう監督かんとく解任かいにん)となった8がつ9にちからふたた監督かんとく代行だいこうとなった。

2016ねん9がつ29にち中日ちゅうにち球団きゅうだんから来季らいき一軍いちぐん監督かんとく就任しゅうにん発表はっぴょうされた[17]。62さいにして自身じしんはつ監督かんとく就任しゅうにんであり、監督かんとくはつ就任しゅうにん年齢ねんれいとしては1997ねんオフの権藤ごんどうひろし当時とうじ59さい)をえNPB史上しじょうさい高齢こうれいとなった。また中日ちゅうにちでは山田やまだ久志ひさし以来いらいとなる投手とうしゅ出身しゅっしんおよ外様とざま監督かんとくである。一軍いちぐんコーチじんは、一軍いちぐん打撃だげきコーチに土井どい正博まさひろ一軍いちぐん内野ないや守備しゅび走塁そうるいコーチに森脇もりわき浩司こうじ森脇もりわきはヘッドコーチかく)、奈良原ならはらひろし一軍いちぐんバッテリーコーチに田村たむら藤夫ふじお招聘しょうへい[18]

2017ねん8がつ7にち長女ちょうじょ乳癌にゅうがんのため35さいというわかさで他界たかい。8月13にちたい東京とうきょうヤクルトスワローズせん通夜つや参列さんれつのため、2かい終了しゅうりょうまで指揮しきったあと球場きゅうじょうはなれ、3かい以降いこう一軍いちぐん内野ないや守備しゅび走塁そうるいコーチの森脇もりわき監督かんとく代行だいこうつとめた[19]翌日よくじつ告別こくべつしきには白井しらい文吾ぶんご球団きゅうだんオーナーや落合おちあいもとGMのほか首脳しゅのうじん選手せんしゅとう球団きゅうだん関係かんけいしゃ参列さんれつ[20]、8がつ15にちたい横浜よこはまDeNAベイスターズたたかえ雨天うてん中止ちゅうし)から監督かんとく復帰ふっき2017ねんシーズン、2018ねんシーズンとも5わり、2018ねんシーズンかぎりで監督かんとく退任たいにん

退任たいにんは、若手わかて選手せんしゅ育成いくせいや、外国がいこくじん選手せんしゅ獲得かくとく手腕しゅわん評価ひょうかされ、2019ねんから、球団きゅうだんシニアディレクター(SD)に就任しゅうにんすることが発表はっぴょうされた。おも外国がいこくじん選手せんしゅ獲得かくとく調査ちょうさや、トレード、自由じゆう契約けいやく選手せんしゅ獲得かくとくなどの編成へんせいめん担当たんとうする。また、高校こうこう野球やきゅう大学だいがく野球やきゅうなどのアマチュア球界きゅうかいや、外国がいこくへの視察しさつおこなう。

2019ねん10月1にちにシニアディレクター(SD)を退任たいにんし、退団たいだんすること発表はっぴょうされた。

2020ねんからはJ SPORTS野球やきゅう解説かいせつしゃとスポーツニッポン野球やきゅう評論ひょうろんとして復帰ふっき

人物じんぶつ

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くちかた絶対ぜったい投手とうしゅ調子ちょうしなどをそとらさない。

ドラゴンズのコーチ時代じだいは、監督かんとく落合おちあい博満ひろみつからの信頼しんらいあつく、落合おちあいから投手とうしゅこと一切いっさい口出くちだしされず投手とうしゅ起用きよう全権ぜんけんまかされていた[21]

選手せんしゅたいしての指導しどうきびしく、西武せいぶ投手とうしゅコーチ時代じだい駒澤大学こまざわだいがく後輩こうはいでもある竹下たけしたじゅんがふがいないピッチングでKOされたさいには、当時とうじバッテリーコーチだった大宮おおみや龍男たつお大学だいがく時代じだいにバッテリーをんでいた)とステレオで竹下たけした怒鳴どなりつけたこともある。しかし、兄貴あにきぶんとしてしたわれ、人望じんぼうあつい。吉見よしみ一起かずきはトークショーで「もりコーチはこわかったですか?」という質問しつもんたいして「あのひとこわくないんです。すごくいいおとうさんというかんじ。テレビで姿すがた本当ほんとうもりさんはちがう。本当ほんとうにいいじん」とこたえていた。ただし、「1だけメチャクチャおこられたことがある」ともこたえている[22]

西武せいぶ横浜よこはまのコーチ時代じだいから友利ともりゆい能力のうりょくたか評価ひょうかしており、中日ちゅうにちでは落合おちあい監督かんとく獲得かくとく進言しんげんしたこともある。また、2014ねんからはヘッドコーチと投手とうしゅコーチという関係かんけいとなり、2017ねん監督かんとく投手とうしゅコーチという関係かんけいになった。

杉下すぎしたしげるとは指導しどうしゃとしての師弟してい関係かんけいであり、西武せいぶライオンズでとも一軍いちぐん投手とうしゅコーチをつとめていたときのことを杉下すぎしたは「選手せんしゅをというよりもり繁和しげかず投手とうしゅコーチをいち人前にんまえにするのが仕事しごとで、郭泰源かくたいげん渡辺わたなべ久信ひさのぶ工藤くどうこうやすし潮崎しおざき哲也てつや鹿取かとり義隆よしたからが主力しゅりょくだから、コーチなんかいらないよ。いろいろな球団きゅうだんったけど、一番いちばんらくだった」とべている[23]。なお、中日ちゅうにちドラゴンズのOBである杉下すぎした毎年まいとし中日ちゅうにち春季しゅんきキャンプをおとずれ、臨時りんじコーチをつとめている。

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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キレのある直球ちょっきゅうシュートしてフォーク勝負しょうぶめる右腕うわん[24]西武せいぶ入団にゅうだん当初とうしょ先発せんぱつであったが、1982ねん不振ふしんおちいったことでリリーフ転向てんこうすると、抜群ばつぐん安定あんていかんからおさえに定着ていちゃく[24]同年どうねんからよく83ねんにかけてねん連続れんぞくのリーグ優勝ゆうしょう日本一にっぽんいちおおきく貢献こうけんした[24]

監督かんとくとして

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就任しゅうにんから、チーム方針ほうしんとして、まも野球やきゅうかかげた。また、機動きどうりょく向上こうじょう目指めざすため、あしからめて1てんをもぎ野球やきゅうをチームに浸透しんとうさせた。また、落合おちあい博満ひろみつたにしげる元信もとのぶ監督かんとく時代じだいにほとんどおこなわなかったファンサービスをやした。 就任しゅうにん会見かいけんに、みずからはつなぎの監督かんとくであるとしょうして、チームの土台どだいつく役割やくわりになうと発言はつげんした。 京田きょうだようふとしせい遊撃手ゆうげきしゅ固定こてい小笠原おがさわら慎之介しんのすけ開幕かいまく投手とうしゅ起用きようなやんでいた高橋たかはし周平しゅうへい二塁手にるいしゅ転向てんこうなど、積極せっきょくてき若手わかて起用きようし、一定いってい成果せいかんだ。また在任ざいにんちゅう西武せいぶ後輩こうはいでもある松坂まつさか大輔だいすけ獲得かくとくした。荒木あらき雅博まさひろによれば攻撃こうげきめん森脇もりわき一任いちにんされていた[25]

渉外しょうがい担当たんとうとして

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ドラゴンズの投手とうしゅコーチに就任しゅうにんした2003ねんのオフシーズンから戦力せんりょく補強ほきょう一環いっかんで、ヘッドコーチ、監督かんとく、SDの期間きかんふくめ、まいシーズンドミニカ共和国どみにかきょうわこく渡航とこうし、現地げんちウィンターリーグ視察しさつした。もと西武せいぶ巨人きょじんドミンゴ・マルティネス現地げんちスカウトとして雇用こようし、カープアカデミー出身しゅっしん前年ぜんねんまで広島ひろしまでブルペン捕手ほしゅをしていたフランシス・ルイス通訳つうやくやとうなどして独自どくじのルートを形成けいせいした。本人ほんにんいわく「ダイヤの原石げんせきがゴロゴロいる」とし、外国がいこくじん補強ほきょう予算よさんすくない球団きゅうだん事情じじょうあいまって、もり球団きゅうだんにいたさい外国がいこくじん選手せんしゅはほとんどがドミニカ共和国どみにかきょうわこくベネズエラといった中南米ちゅうなんべい国籍こくせき選手せんしゅである。現地げんちチームと連携れんけいし、吉見よしみ一起かずき山井やまい大介だいすけ又吉またよし克樹かつきなどをウィンターリーグに派遣はけんし、飛躍ひやくにもつなげた。

2016ねんシーズンオフに監督かんとく代行だいこうから正式せいしき監督かんとくへの就任しゅうにんまると、キューバとのパイプづくりにも本格ほんかくてき着手ちゃくしゅした。オマール・リナレス巡回じゅんかいコーチを窓口まどぐちに、2017ねんライデル・マルティネスレオナルド・ウルヘエス、2018ねんアリエル・マルティネス獲得かくとくした。シーズンオフにみずからキューバのスポーツちょう訪問ほうもんし、交渉こうしょうにあたるなど、精力せいりょくてき活動かつどうした。

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1979 西武せいぶ 43 25 7 0 0 5 16 7 -- .238 893 203.1 207 27 78 9 9 130 3 0 120 102 4.51 1.40
1980 40 18 4 1 1 10 14 7 -- .417 676 156.2 160 31 53 6 2 73 0 1 97 82 4.71 1.36
1981 31 30 10 3 2 14 11 0 -- .560 834 200.1 188 26 51 1 4 83 1 0 94 84 3.77 1.07
1982 51 6 1 0 1 10 2 10 -- .833 396 101.2 81 12 23 5 0 46 0 1 37 36 3.19 1.02
1983 59 0 0 0 0 5 5 34 -- .500 322 85.0 53 6 22 1 3 46 1 0 17 14 1.48 0.88
1984 38 0 0 0 0 6 7 13 -- .462 267 64.0 66 7 15 1 2 36 0 0 24 20 2.81 1.27
1985 39 2 0 0 0 6 6 8 -- .500 324 73.1 85 14 26 3 2 22 3 1 41 35 4.30 1.51
1987 22 0 0 0 0 1 0 1 -- 1.000 119 28.2 24 0 12 4 0 10 0 0 6 5 1.57 1.26
1988 21 0 0 0 0 0 1 2 -- .000 109 26.0 25 4 7 2 1 9 0 0 13 11 3.81 1.23
NPB:9ねん 344 81 22 4 4 57 62 82 -- .479 3940 939.0 889 127 287 32 23 455 8 3 449 389 3.73 1.25
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう
  • 「-」は記録きろくなし

年度ねんどべつ監督かんとく成績せいせき

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とし

たま

だん
じゅん

くらい
ためし

ごう
かち

はい

せん


ぶん
かち

りつ



ほん
るい


りつ
ぼう

りつ
とし

よわい
2016 中日ちゅうにち 6 39 15 24 0 .385 14.0 11 .245 3.65 61さい
2017 5 143 59 79 5 .428 28.5 111 .247 4.05 62さい
2018 5 143 63 78 2 .447 18.0 97 .263 4.36 63さい
通算つうさん:3ねん 325 137 181 7 .431 Bクラス3かい

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 11 (1979ねん - 1988ねん
  • 86 (1989ねん - 1999ねん、2002ねん
  • 81 (2000ねん - 2001ねん、2003ねん
  • 80 (2004ねん - 2011ねん、2014ねん - 2018ねん

関連かんれん情報じょうほう

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著書ちょしょ

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解説かいせつしゃとしての出演しゅつえん番組ばんぐみ

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特記とっきないかぎり、プロ野球やきゅう中継ちゅうけい参考さんこう[ちゅう 4]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 市原いちはら市内しない所在しょざいする大手おおて電機でんきメーカー・富士電機ふじでんき千葉ちば工場こうじょうない設立せつりつされた認定にんてい職業しょくぎょう訓練くんれんによる職業しょくぎょう能力のうりょく開発かいはつこう前身ぜんしんとする。1961ねん開校かいこう、1973ねん閉校へいこう
  2. ^ 広島ひろしまろく大学だいがく野球やきゅうリーグ加盟かめい近畿大学きんきだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう関西かんさい学生がくせい野球やきゅうリーグ加盟かめい)とは別個べっこ組織そしきされたチーム。
  3. ^ ライオンズ(1978ねんまでの球団きゅうだんフルネームは、クラウンライターライオンズ)が福岡ふくおかから所沢ところざわ本拠地ほんきょち移転いてんしてはつ新入しんにゅうだん選手せんしゅでもある。
  4. ^ a b 『12球団きゅうだんぜん選手せんしゅカラー百科ひゃっか名鑑めいかん』シリーズでは、2012ねん・2013年版ねんばんともに文化ぶんか放送ほうそう解説かいせつしゃとして紹介しょうかい。2013ねん発行はっこうされた書籍しょせき『プロ野球やきゅう&メジャーリーグ解説かいせつしゃ名鑑めいかん』のかく放送ほうそうきょくべつ解説かいせつしゃリスト[13]では、メ〜テレ、中部日本放送ちゅうぶにっぽんほうそう東海テレビ放送とうかいてれびほうそう、J SPORTS(プロ野球やきゅう、メジャーリーグ)、テレ朝てれあさチャンネル2、文化放送ぶんかほうそう、CBCラジオのリストに記載きさいきょくめいげん資料しりょうより)。
  5. ^ 2021ねん6がつ12にち全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい準決勝じゅんけっしょう上武大じょうぶだい-慶大けいだいせん大久保おおくぼ秀昭ひであきもと近鉄きんてつENEOS監督かんとく)とともに解説かいせつつとめた。
  6. ^ 参考さんこう:2012ねん[26]、2013ねん[27]。2014ねん発行はっこうされた広尾ひろおあきら『プロ野球やきゅう解説かいせつしゃ解説かいせつする』(発行はっこうもとイーストプレス)より、J SPORTSのメジャーリーグ中継ちゅうけい解説かいせつしゃとして取材しゅざいけている。

出典しゅってん

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  5. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1999ねん11月1にちごう、P.36
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  7. ^ 年度ねんどべつ成績せいせき 2000ねん パシフィック・リーグ
  8. ^ 年度ねんどべつ成績せいせき 2001ねん パシフィック・リーグ
  9. ^ 年度ねんどべつ成績せいせき 2002ねん セントラル・リーグ
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  21. ^ スポーツコミュニケーションズ. “つじはつ彦「西武せいぶ最強さいきょうの“アマチュア野球やきゅう”」 – SPORTS COMMUNICATIONS”. 2022ねん12月19にち閲覧えつらん
  22. ^ 中日ちゅうにち吉見よしみ「あのひとこわくないんです」 - プロ野球やきゅうニュース”. nikkansports.com. 2022ねん12月19にち閲覧えつらん
  23. ^ プロ野球やきゅうレジェンドがかたるあの、あのとき、P344
  24. ^ a b c もり繁和しげかず 西武せいぶ初代しょだいドラフト1右腕うわん/プロ野球やきゅう1980年代ねんだいめい選手せんしゅ | 野球やきゅうコラム”. 週刊しゅうかんベースボールONLINE. 2021ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  25. ^ 荒木あらき雅博まさひろが「意外いがいだった」落合おちあい博満ひろみつ監督かんとく野球やきゅう「いまかんがえると、相手あいて勝手かって自滅じめつしてくれたこともあった」”. スポーツナビ. (2024ねん2がつ8にち). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2024/02/08/post_32/?page=4 2024ねん2がつ8にち閲覧えつらん 
  26. ^ 2012ねん当時とうじJ SPORTS公式こうしきサイトない配信はいしんされたMLB中継ちゅうけい実況じっきょう解説かいせつしゃ一覧いちらん - インターネット・アーカイブどう10がつ11にちづけ保存ほぞんキャッシュ
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外部がいぶリンク

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