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鹿取義隆 - Wikipedia コンテンツにスキップ

鹿取かとり義隆よしたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
鹿取かとり 義隆よしたか
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 高知こうちけん香美かがみ
生年月日せいねんがっぴ (1957-03-10) 1957ねん3がつ10日とおか(67さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
174 cm
78 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1978ねん ドラフトがい
はつ出場しゅつじょう 1979ねん4がつ7にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1997ねん10がつ5にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき

鹿取かとり 義隆よしたか(かとり よしたか、1957ねん3がつ10日とおか - )は、高知こうちけん香美かがみ出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅみぎとうみぎ)・野球やきゅう指導しどうしゃ現役げんえき時代じだい読売よみうりジャイアンツ西武せいぶライオンズ中継なかつぎ・おさとして活躍かつやくした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

アマチュア時代じだい[編集へんしゅう]

高知商こうちしょうでは1973ねん、2ねんなつ背番号せばんごう10のひか投手とうしゅとして甲子園こうしえん出場しゅつじょう[1]。2回戦かいせん初戦しょせん)で山倉やまくら和博かずひろようする東邦とうほうだか逆転ぎゃくてんち、3回戦かいせん盛岡もりおか三高さんこう延長えんちょう14かいサヨナラちでくだしベスト8に進出しんしゅつ準々じゅんじゅん決勝けっしょうではこの大会たいかい優勝ゆうしょうしたきむ光興みつおきいたるがわ光男みつおらをようする広島商ひろしましょうにあたり、エース浜田はまだ良彦よしひこ近大きんだい)のあしがつって、急遽きゅうきょ救援きゅうえん登板とうばんしたが、いたるがわにホームランをたれチームも2たい7でやぶれた[1][2][3]当時とうじはプロにけるとはおもっていなかったが、広島商ひろしましょう野球やきゅうのレベルのたかさをはだかんじられたことは財産ざいさんになった[3]

1974ねん、3ねんなつ高知こうちけん大会たいかいの3回戦かいせんで、杉村すぎむらしげるよんばん打者だしゃとして同年どうねんみなみ四国しこく大会たいかいせいした高知こうちだかに0たい2でやぶれ、甲子園こうしえん出場しゅつじょうはならなかった。

高校こうこう先輩せんぱいすうめい在籍ざいせきしていたこともあり、野球やきゅうのセレクションをけて明治大学めいじだいがく進学しんがくした[1]同期どうきには高橋たかはしさんせんたけ豊田とよだまことたすくがいた。1ねんはるから打撃だげき投手とうしゅつとめ、東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅうリーグでは1976ねん春季しゅんきリーグからベンチりしている。監督かんとく島岡しまおか吉郎よしろうした毎日まいにち500きゅうむほどのもう練習れんしゅうかさね、高橋たかはしとともに投手とうしゅじんささえた。

1977ねん春季しゅんきリーグの早稲田大学わせだだいがくとの3回戦かいせんでは、6かいから高橋たかはし救援きゅうえんし、道方みちかた康友やすとも日本鋼管にほんこうかん)と延長えんちょう15かいまでってチームはサヨナラちをおさめた。この試合しあい直後ちょくご島岡しまおか監督かんとくからきながら投球とうきゅう賞賛しょうさんされ、はじめて島岡しまおか一族いちぞく一員いちいんになれたこと実感じっかんしたという[4]同年どうねん日米にちべい大学だいがく野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょうはじめてえらばれ、だい5せん先発せんぱつしている。

1学年がくねんじょう江川えがわたくようする法政大学ほうせいだいがくなどにはばまれリーグ優勝ゆうしょうとおかったが、1978ねん春季しゅんきリーグでは4回戦かいせんまでもつれた法政ほうせいとの勝負しょうぶせいしてついに優勝ゆうしょう鹿取かとり自身じしんも、右手みぎて中指なかゆびのマメをつぶしたとわれるほどのねつとうせた[4]同年どうねん大学だいがく日本にっぽん選手権せんしゅけんは、決勝けっしょう堀田ほった一彦かずひこ中尾なかお孝義たかよしのバッテリーをようする専修大学せんしゅうだいがく完封かんぷうして優勝ゆうしょうしている。前年ぜんねんつづいて日米にちべい大学だいがく野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされ、4試合しあい登板とうばんしたものの先発せんぱつしただい5せんでは敗戦はいせん投手とうしゅとなった。リーグ通算つうさん58試合しあい登板とうばんして21しょう14はい防御ぼうぎょりつ1.89、219だつ三振さんしん成績せいせきのこした。

卒業そつぎょう社会しゃかいじん野球やきゅう日本鋼管にほんこうかんすす予定よていで、江川えがわ事件じけんにより巨人きょじんがボイコットした同年どうねん11月22にち同年どうねんのドラフト会議かいぎでは欠席けっせきした巨人きょじん以外いがい球団きゅうだんからも指名しめいけなかった[5]。しかしドラフト会議かいぎ直後ちょくご巨人きょじんのスカウトの沢田さわだ幸夫ゆきおから旧知きゅうち島岡しまおか監督かんとく獲得かくとく打診だしんがあり、プロりに反対はんたいしていた祖父そふからも高知こうちでの家族かぞく会議かいぎ承諾しょうだくて、ドラフトがい入団にゅうだんまった[5]。なお、ドラフト会議かいぎ欠席けっせきした関係かんけいじょう、このとしかぎ巨人きょじん新入しんにゅうだん選手せんしゅ全員ぜんいんがドラフト外入とのにゅうだんとなっている。

中日ちゅうにちに1指名しめい入団にゅうだんした高橋たかはし同等どうとう契約けいやく条件じょうけん巨人きょじん鹿取かとり提示ていじしたという[5]

現役げんえき時代じだい[編集へんしゅう]

読売よみうりジャイアンツ[編集へんしゅう]

入団にゅうだん当時とうじきょじんには、おなサイドスロー投手とうしゅとして小林こばやししげる田村たむらいさおの2めいがいた。

1979ねん合同ごうどう自主じしゅトレでは小林こばやし速球そっきゅうてプロでの活躍かつやくをあきらめかけた[5] が、江川えがわたくとのトレード1がつ31にち小林こばやしきょ阪神はんしん移籍いせきし、さらに浅野あさの啓司けいじ足首あしくび捻挫ねんざしたため2がつのキャンプで4にちぐんから昇格しょうかくすると、そのままシーズンをつうじて一軍いちぐん定着ていちゃくしている。また大学だいがく時代じだいからのいというえんもあって、オープンせんからおくれて合流ごうりゅうした江川えがわ心得こころえなどを伝達でんたつする担当たんとう任命にんめいされ、江川えがわがかりばれるようになった[6]宿舎しゅくしゃ同室どうしつになったり、キャッチボールの相手あいてつとめることもおおかったという[6]

同年どうねん開幕かいまくせんとなる4がつ7にちたい中日ちゅうにちせんでいきなり登板とうばんし、高木たかぎ守道もちちゅうじきった。その6月9にちたい中日ちゅうにちせんはつ勝利しょうりげるなど、38試合しあい登板とうばんして3しょうげた。あきには伊東いとうスタジアム実施じっしされた秋季しゅうきキャンプ「地獄じごく伊東いとうキャンプ」に参加さんかして、ギリギリのところまで自分じぶんめるほどのもう練習れんしゅうみ、わったときには非常ひじょう解放かいほうかんがあったという[6]

1980ねんは51試合しあい登板とうばんして防御ぼうぎょりつも1てんだい翌年よくねんへの手応てごたえをかんじたが、一方いっぽうでオフに監督かんとく長嶋ながしま茂雄しげお辞任じにんおう貞治さだはる引退いんたいがあり、幼少ようしょうからファンだったONがいなくなることにおおきな衝撃しょうげきけた[6]

1981ねんはじめてフロリダしゅうベロビーチでのキャンプに参加さんかし、サンディー・コーファックスロイ・キャンパネラ講話こうわいたほか筋力きんりょくトレーニングや身体しんたいケアにたいする意識いしきたかさに感銘かんめいけたという[7]同年どうねん前半ぜんはんせん好成績こうせいせきげてオールスターゲームにも選出せんしゅつされたが、オールスターの練習れんしゅうちゅう右手みぎて小指こゆび骨折こっせつして後半こうはんせん一軍いちぐん登録とうろく抹消まっしょうされていた[7]。このため日本一にっぽんいち奪回だっかいした同年どうねん日本にっぽんシリーズでもベンチりはしていない。

1982ねんから1983ねんにかけてはおも中継なかつぎやおさえをつとめ、一方いっぽうローテーション谷間たにま先発せんぱつまかされた[7]。1982ねんには仙台せんだいでのたい広島ひろしませんでプロはつ先発せんぱつ経験けいけんし、10かい3ぶんの1を失点しってんおさえて同点どうてんのまま降板こうばんした。しかしつぎ先発せんぱつとなった6にち後楽園こうらくえんでのたい阪神はんしんせんは1かいでKOされ、江川えがわ西本にしもときよしていおか中心ちゅうしんとする先発せんぱつじん充実じゅうじつしていたこともあって先発せんぱつには定着ていちゃくしなかった[8]。なお、1983ねん8がつ21にち横浜よこはまでのたい大洋たいようせんでは、164きゅうげて2てんおさえプロ唯一ゆいいつ完投かんとう勝利しょうりげている[7]同年どうねん日本にっぽんシリーズでは4試合しあい登板とうばんして4かい1/3をげ、自責じせきてん0の成績せいせきのこした。

なお、藤田ふじたもとつかさ監督かんとくだったこのころにはアンダースローへの転向てんこうめいじられたこともあった[9]投球とうきゅうフォームがどうしてもわずに転向てんこう断念だんねんしたが、自身じしん投球とうきゅうつめなお機会きかいになったという[9]

1984ねんはリリーフとして自分じぶん立場たちば確立かくりつ[10]、48試合しあい登板とうばんして自己じこ最多さいたの10SPげた。その試合しあいなど重要じゅうよう場面ばめんでの起用きようえた。

1986ねんサンチェ加入かにゅうするとすみ三男みつお翌年よくねんまで3にん競争きょうそうしながらおたがいを信頼しんらいし、強力きょうりょくなリリーフじん形成けいせいしている[9]

1987ねん梅雨つゆから夏場なつばにかけて調子ちょうし[11]、シーズン序盤じょばんのサンチェにわるおさえのふだとしてリーグ最多さいたの63試合しあい登板とうばんして防御ぼうぎょりつ1.90を記録きろくした。同年どうねん巨人きょじんファンから「鹿取かとり大明神だいみょうじん」とうたわれる[11] ほどの活躍かつやくせた一方いっぽう登板とうばん機会きかいおおさは賛否さんぴ両論りょうろんび、おう采配さいはいおう(ワン)パターンとまでひょうされた[12]。このため鹿取かとり登板とうばんげる「ピッチャー鹿取かとり!」は流行りゅうこうになり[8]酷使こくしされるというニュアンスの「鹿取かとり(かと)られる」という造語ぞうごまれている[13]一方いっぽう鹿取かとり自身じしん登板とうばん過多かた抵抗ていこうはなく、起用きようこたえるためいつ選手せんしゅ生命せいめいわってもいいとおもっていたという[14]シーズンMVP僅差きんさ捕手ほしゅ山倉やまくら和博かずひろ受賞じゅしょうしたが、自身じしんはヤナセMVPしょうえらばれてメルセデス・ベンツった[10]同年どうねん日本にっぽんシリーズでは3試合しあい登板とうばんし、けい6かい自責じせきてん1におさえた。だい6せんでは水野みずのつよしひとしのちけて4イニングのロングリリーフをつとめている。

1988ねんはサンチェの退団たいだん前年ぜんねん中継なかつぎだった岡本おかもとひかり廣田ひろた浩章ひろあき不振ふしんもあって負担ふたんおおきくした[15]。このような状況じょうきょう4がつ29にちたい広島ひろしませんで4かい1/3のロングリリーフをつとめたのをさかいに、鹿取かとり自身じしん調子ちょうし下降かこう[11]同年どうねんは8しょう17セーブをげたものの、防御ぼうぎょりつは3.20と前年ぜんねんより低下ていかした。巨人きょじん監督かんとくとしておう最後さいご試合しあいになった10月4にちたい大洋たいようせんで、点差てんさひらいた場面ばめんにもかかわらず最後さいごの1イニングをまかされ、ウィニングボールをおう記念きねんにもらったこと最高さいこう感動かんどうしたという[12]同年どうねんオフは主力しゅりょくがほとんどいないパームスプリングスでの秋季しゅうきキャンプにも参加さんかし、しんたましゅチェンジアップ習得しゅうとくはげんだ[13]

1989ねん長年ながねん疲労ひろうや、藤田ふじた監督かんとくによる先発せんぱつ完投かんとうのチーム方針ほうしんした登板とうばん間隔かんかくひらきがちになる調整ちょうせいむずかしさ[13] から調子ちょうしとした。球威きゅうい低下ていか[16] や、投球とうきゅう重心じゅうしんたかくなる傾向けいこう[13]られ、先発せんぱつ槙原まきはらひろしおのれがリリーフに起用きようされることもあった[12]同年どうねんは2しょう3セーブにわり、シーズン終盤しゅうばんには来季らいき構想こうそうがいれるような起用きようをされてスポーツ去就きょしゅう沙汰ざたされている[12]同年どうねん日本にっぽんシリーズではだい2せんで2/3かいげただけだった。11月6にちには多摩川たまがわグラウンドでの練習れんしゅうさい藤田ふじた監督かんとくから「放出ほうしゅつするつもりはないが来季らいき起用きようほうえないので、トレードを希望きぼうするなら球団きゅうだんからのオファーにおうじる」とつたえられた[12]。その、パームスプリングスでのキャンプでも残留ざんりゅう要請ようせいされず決断けつだんせまられ[16]移籍いせき志願しがん当初とうしょ福岡ふくおかダイエーホークスからこえがかかっており、さら一時いちじはダイエーのほかオリックスロッテ西武せいぶ日本にほんハム大洋たいようヤクルトの7球団きゅうだん争奪そうだつともつたえられたことがあったが[17]鹿取かとり自宅じたくをすでにてていたこともあり、藤田ふじた監督かんとく西武せいぶライオンズもり祇晶ぎしょう監督かんとく相談そうだんしたことで、最終さいしゅうてきには西岡にしおかりょうようとの交換こうかんトレードというかたち西武せいぶ入団にゅうだんした[18]

西武せいぶライオンズ[編集へんしゅう]

1990ねんマウイとうでの自主じしゅトレにも参加さんかし、どう学年がくねん日米にちべい大学だいがく野球やきゅう代表だいひょうでも一緒いっしょだった石毛いしげ宏典ひろのりらとのゴルフなどをつうじてチームにんだ[19]。キャンプでは序盤じょばんから秋山あきやま幸二こうじ清原きよはら和博かずひろ相手あいてとしたフリー打撃だげき登板とうばん[20]秋山あきやまは「キレがくててない」[20]清原きよはらは「はやかったなぁ」[20]わしめた。また、このキャンプでは秋山あきやま平野ひらのけん羽生田はにゅうだ忠克ただかつらの外野がいや守備しゅびのレベルのたかさに衝撃しょうげきけている[21]。また、監督かんとくもり祇晶ぎしょうからはストッパーとしての起用きよう明言めいげんされていたが、前年ぜんねん不振ふしんから通用つうようするかという不安ふあんやプレッシャーもあったという[22]

同年どうねんはつ登板とうばんとなった4がつ14にち平和へいわだいでのたいダイエーせんではもり監督かんとく内野ないやじん激励げきれいけ、2安打あんだびながらセーブをげて祝福しゅくふくされてチームの一員いちいんという実感じっかん一気いっきにわいたという[19]。その好投こうとうつづけ、5月30にち西武せいぶ球場きゅうじょうでのたいダイエーせんでNPBしん記録きろく当時とうじ)となる10試合しあい連続れんぞくセーブを達成たっせいした。セットアッパー潮崎しおざき哲也てつや活躍かつやくもあり、シーズンでは27セーブポイントをげてはつタイトルとなる最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅ受賞じゅしょうし、起用きようほう守備しゅびなど周囲しゅういささえられたことふか感謝かんしゃしている[19]巨人きょじん対戦たいせんした同年どうねん日本にっぽんシリーズではだい2せんで9かいの1イニングを失点しってんおさえ、チームは4連勝れんしょうして日本一にっぽんいちとなり、西武せいぶつよさをあらためて実感じっかんしたという[19]

1991ねんはセーブすうこそ前年ぜんねんよりったものの、ときにロングリリーフもこなすなどの活躍かつやくぶりをせた。投球とうきゅう回数かいすうは4ねんぶりに70かいえ、防御ぼうぎょりつもキャリアハイにならぶ1.78だった。シーズンでは自身じしんはつ胴上どうあ投手とうしゅになり、同年どうねん日本にっぽんシリーズでは2試合しあい登板とうばんして2かい失点しってんおさえた。

1992ねんは8がつ通算つうさん100セーブを達成たっせいするなど、潮崎しおざきとのダブルストッパーでフル回転かいてん活躍かつやくせた。同点どうてんやリードされている場面ばめんでの登板とうばん味方みかた決勝けっしょうてんげた試合しあいおおく、自身じしん唯一ゆいいつけた勝利しょうりすべ救援きゅうえんによりげているが、35さいおよびプロ14ねんでのはつの2けた勝利しょうり当時とうじのNPB記録きろく[23][24]。また、優勝ゆうしょう決定けっていしてからは、1試合しあいだけであるが先発せんぱつつとめている。ヤクルトとの日本にっぽんシリーズだい1せん延長えんちょう10かいからマウンドにがり、又従兄弟またいとこ後述こうじゅつ)でこの試合しあい完投かんとうした岡林おかばやし洋一よういちった。この試合しあいは10かい岡林おかばやし四球しきゅうあたえるなどリズムにれず[25]、12かい杉浦すぎうらとおるにサヨナラ本塁打ほんるいだたれて敗戦はいせん投手とうしゅとなった。だい4せんでは渡辺わたなべ智男ともおのちけてふたた岡林おかばやしい、5かい2/3を3安打あんだ失点しってんおさえる好投こうとう勝利しょうり投手とうしゅとなり存在そんざいかんせつけたが、だい6せんでは逆転ぎゃくてん直後ちょくごの6かいから登板とうばんし、3かいげて6安打あんだ3失点しってんとリードをまもりきれなかったなど、シリーズでは全般ぜんぱんてきにもうひとつであった。だが、これまでの活躍かつやくぶりがみとめられ、同年どうねんオフの契約けいやく更改こうかいでは、年俸ねんぽうはじめて1おくえん推定すいてい)に到達とうたつ[26]、「ぼく自分じぶんちからよりバックにたすけられている人間にんげんですから。げられるだけでしあわせなんです」と西武せいぶナインにたいする感謝かんしゃくちにした[20]

1993ねん杉山すぎやま賢人けんじん入団にゅうだんすると、潮崎しおざきと3にん試合しあい終盤しゅうばんまかされるようになった。巨人きょじん時代じだいのサンチェやかくとの経験けいけんまえてたすこと重要じゅうようさを2人ふたりつたえ、もり監督かんとくが「サンフレッチェ」[ちゅう 1]命名めいめいした安定あんていかんたか救援きゅうえんトリオを形成けいせいしている[22]とく同年どうねんは3にん全員ぜんいんが40試合しあい以上いじょう登板とうばんして防御ぼうぎょりつ2てんだい以下いか成績せいせきのこし、てき味方みかた双方そうほうちパターンのイメージをつよえつけた[9]このとし日本にっぽんシリーズだい4せんからだい6せんまでサンフレッチェがそろって登板とうばんし、だい5せんでは鹿取かとり勝利しょうり投手とうしゅとなっている。シリーズ通算つうさんでは4試合しあいで6かい2/3をげ、自責じせきてん3の成績せいせきだった。

1994ねん前半ぜんはん緊急きんきゅう登板とうばんおおかったせいか夏場なつば調子ちょうしとし、後半こうはんはストッパーの新谷しんたにひろし石井いしいたけひろしわたかたちになったが、終盤しゅうばん勝負しょうぶどころのロングリリーフで復活ふっかつし、結果けっかてきに5連覇れんぱ貢献こうけんした。このとし日本にっぽんシリーズではだい5せんヘンリー・コトーに2ランをびるなど、2試合しあい登板とうばんして2かいを3失点しってん内容ないようでチームもきょじんやぶれた。

1995ねんは、あたらしく監督かんとくになった東尾ひがしおおさむ方針ほうしんもあり、ストッパーの潮崎しおざきゆずり、自身じしん中継なかつやくてっした。このとしは、なに試合しあい先発せんぱつつとめており、完投かんとう勝利しょうり目前もくぜんまでげたこともあるなど、相変あいかわらずのタフネスぶりをせた。

1996ねん5月6にちたいロッテせん救援きゅうえん勝利しょうりげて通算つうさん80しょう130Sとなり、当時とうじ日本にっぽん記録きろくだった江夏えなつゆたかの210SPにならび、5月16にちたい日本にほんハムせん通算つうさん81しょうげてしん記録きろく樹立じゅりつした。

1997ねん開幕かいまくぐんむかえ、ヒザの悪化あっかなどもあって本来ほんらい球威きゅういもどらなかった[9]同年どうねん西武せいぶ球場きゅうじょう最終さいしゅうせんとなる10月5にちたいダイエーせん登板とうばん引退いんたい登板とうばんとなり、おなじく引退いんたいする郭泰源かくたいげんつづ番手ばんてとしてマウンドにがった[28]。この試合しあいではばん村松むらまつ有人ゆうじん三塁打さんるいだたれてそのまま降板こうばんしている。最終さいしゅうてき西武せいぶでは、巨人きょじん時代じだいの45しょう29はい58セーブを上回うわまわる46しょう17はい73セーブの記録きろくのこした。現役げんえき通算つうさんでは19年間ねんかんで755試合しあい登板とうばんし、べ5,282にん打者だしゃ対戦たいせんして91しょう46はい131セーブ、防御ぼうぎょりつ2.76の成績せいせきだった[29]

現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

引退いんたい1998ねん巨人きょじんぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにん岡島おかじま秀樹ひできたいし、投球とうきゅうちゅう打者だしゃ捕手ほしゅからあたまうごきを修正しゅうせいせず、かたなどのこまかい部分ぶぶん調整ちょうせい指導しどうすることでひくめへの制球せいきゅうりょく付加ふかした[30]同年どうねん日米にちべい野球やきゅうから一軍いちぐんベンチにはい[30]長嶋ながしま監督かんとくしたはたらくようになった。よく1999ねん水野みずのつよしひとしとともに一軍いちぐん投手とうしゅコーチとなったが、戦力せんりょく見極みきわめがうまくできずに葛藤かっとうしている[30]

2000ねん前年ぜんねん優勝ゆうしょうした中日ちゅうにちとの最初さいしょの3連戦れんせん工藤くどうこうやすしダレル・メイ高橋たかはししょうなり左腕さわん3にん先発せんぱつさせて3連勝れんしょうするなど、投手とうしゅ起用きよう順調じゅんちょうだった[31]。またインセンティブ契約けいやくなどの理由りゆうちゅう4にちでの登板とうばん主張しゅちょうするメイには、データをもとちゅう5にちほう成績せいせきいことを丁寧ていねい説明せつめいするなど、意思いし疎通そつうにもくばっている[31]同年どうねん日本にっぽんシリーズではだい5せんでの高橋たかはししょうなり先発せんぱつをシリーズまえのミニキャンプからつよ進言しんげんし、さらにシリーズで好調こうちょうだったことからシーズンちゅうんでいた村田むらた善則よしのりではなく村田むらた真一しんいち捕手ほしゅ起用きようすること主張しゅちょうした[31]長嶋ながしま監督かんとくはこれをみとめ、高橋たかはししょうなり完封かんぷう好投こうとうでこれにこたえている[31]

チームは日本一にっぽんいちになったものの同年どうねんオフに巨人きょじん退団たいだんした。投手とうしゅ起用きようめぐっていちぐん統括とうかつ投手とうしゅ総合そうごうコーチの宮田みやたただしてんとぶつかっていた[32]

2001ねんには現役げんえき引退いんたいからの念願ねんがんどお1Aベロビーチ・ドジャースにコーチ留学りゅうがくした[30]。これに先立さきだって2がつにはアリゾナしゅうのキャンプで三星みつぼしライオンズ臨時りんじ投手とうしゅコーチをつとめた。サイドスローのはやしあきらいさむ指導しどうする予定よていだったが、契約けいやく問題もんだいはやし帰国きこくしておりほか投手とうしゅ指導しどうおこなっている[16]。シーズン終了しゅうりょう翌年よくねんから2Aに昇格しょうかくするはなしていたが、同年どうねんオフに巨人きょじん監督かんとく就任しゅうにんした親交しんこうのあるはらたつとく要請ようせい帰国きこくしてヘッドコーチに就任しゅうにんした[33]

2002ねん斎藤さいとう雅樹まさき槙原まきはらひろしおのれ引退いんたい、さらにメイが退団たいだんして先発せんぱつ投手とうしゅ不足ふそく心配しんぱいされていたが、桑田くわた真澄ますみ本人ほんにん希望きぼうどお先発せんぱつ起用きようするなど、上原うえはらひろし中心ちゅうしんにローテーションを方針ほうしんした[34]先発せんぱつちゅう6にち登板とうばんさせるわりに7かい以上いじょうこと義務付ぎむづけ、他方たほう中継なかつぎにもローテーションをつくって特定とくてい選手せんしゅ負担ふたんがかからないようにし、ブルペンでの投球とうきゅうすうらすなどスタミナ温存おんぞん配慮はいりょっている[33]。これらの方針ほうしんこうそうして1年間ねんかん安定あんていした投手とうしゅりょく供給きょうきゅう成功せいこうし、前年ぜんねんはリーグワーストの4.45だったチーム防御ぼうぎょりつはリーグトップの3.04におおきく改善かいぜん同年どうねんしんストライクゾーンの影響えいきょう得点とくてんりょうリーグ減少げんしょうし、防御ぼうぎょりつりょうしたとしでもあった[35]

2003ねん当時とうじ球団きゅうだんワーストのチーム防御ぼうぎょりつ4.43(チーム防御ぼうぎょりつリーグ5)と低迷ていめい、シーズン中盤ちゅうばんから斎藤さいとう雅樹まさきとブルペン担当たんとうコーチを交替こうたいし、投手とうしゅじん崩壊ほうかい責任せきにんって9がつ5にち辞任じにん表明ひょうめい[36]同年どうねんオフヘッドコーチを辞任じにんした。

2005ねんには新設しんせつされた茨城いばらきゴールデンゴールズのヘッドコーチに就任しゅうにんし、同年どうねんかぎりで退任たいにんした。また、マスターズリーグでは札幌さっぽろアンビシャス所属しょぞくしている。

2006ねんには、監督かんとくおう貞治さだはるから直接ちょくせつ要請ようせいけてだい1かいWBC日本にっぽん代表だいひょう投手とうしゅコーチをつとめた[14]大会たいかいまえから対策たいさくしていた公式こうしきだまでの対応たいおう予想よそう以上いじょう苦労くろうしながら、たますう制限せいげんをいかに克服こくふくして継投けいとうするかをかんがえ、優勝ゆうしょう貢献こうけんしている[37]

2011ねんは、スポーツ報知ほうち野球やきゅう評論ひょうろんRFラジオ日本にっぽんBS-TBSのMLB中継ちゅうけい野球やきゅう解説かいせつしゃつとめた。

2014ねんさむらいジャパンのアンダー世代せだいである15U(中学生ちゅうがくせい以下いか代表だいひょう監督かんとくにも就任しゅうにんした[38]。さらに、野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょうのテクニカルディレクターに就任しゅうにんした[39]

2015ねん7がつ16にちに、だい1かいWBSCプレミア12日本にっぽん代表だいひょう投手とうしゅコーチをつとめること発表はっぴょうされた[40]。プレミア12は3わった。

2017ねん4がつ1にちづけ巨人きょじんのGM特別とくべつ補佐ほさ就任しゅうにん[41]同年どうねん6がつ13にち巨人きょじんのGMけん編成へんせい本部ほんぶちょう昇格しょうかくした[42][43]同年どうねんは4わり、2018ねん前年ぜんねん中日ちゅうにち本塁打ほんるいだおうかがやいたアレックス・ゲレーロ[44]西武せいぶから野上のかみあきらすり[45]獲得かくとくしたがりょう選手せんしゅともるわなかった[46]。10月11にちづけ退任たいにん[47]

2022ねんからはテレビ朝日てれびあさひのゲスト野球やきゅう解説かいせつしゃとして活動かつどうする。

選手せんしゅとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

みぎサイドスローから140km/hだいのキレのいストレートと多彩たさい変化球へんかきゅうけ、キレのスライダーシンカーくわえ、1989ねんころからはチェンジアップたまくわえていた[13]。サイドスローのためひだり打者だしゃにするとられることおおかったが、膝下ひざもとちるスライダーなどがあってひだり打者だしゃほうおさえやすかったという[48]

現役げんえき時代じだいはブルペンで3きゅうげればかたつくれるというタフさでられ[49]、プロ2ねん1980ねんにはベンチでった長嶋ながしま茂雄しげお監督かんとく直接ちょくせつマウンドにおくられたことも2かいあったという[50]鹿取かとり自身じしんかならずしもかた仕上しあがりははやくなかったが、チャンスをつかんだり信頼しんらいこたえるために努力どりょくした、とべている[50]。リリーフで連投れんとうつかれがたまったとき球威きゅういとして制球せいきゅう意識いしきしながらげ、変化球へんかきゅうがりが悪化あっかするのを逆手さかてにとって打者だしゃのイメージとのギャップを利用りようするなどの工夫くふうをしていた[51]

キャンプでは1にちに150きゅうちかくをもあった[21]一方いっぽうで、シーズンちゅう試合しあいのない絶対ぜったいげないなどメリハリをつけていた。これはかたやヒジは消耗しょうもうひんなのでげるときかなら全力ぜんりょくで、りをおぼえたらめるという方針ほうしんもとづいていた[21]西武せいぶでは投手とうしゅコーチの八木沢やぎさわそうろくがノースローなどについて裁量さいりょうみとめており、調整ちょうせいがしやすかったという[21]

登板とうばん間隔かんかくひらくと不安ふあんになって調整ちょうせい登板とうばん志願しがんすることもあったが、そのような場合ばあい集中しゅうちゅうたかめにくかった[51]年間ねんかん40試合しあい程度ていど間隔かんかく理想りそうだったという[13]。またリリーフ各自かくじ自分じぶん出番でばん把握はあくし、ベンチの起用きよう一致いっちしている場合ばあい集中しゅうちゅうりょくたかめやすく、その経験けいけんかしてコーチ時代じだいはブルペンの状態じょうたいくばっていた[22]。なお、巨人きょじん西武せいぶではローテーションの谷間たにまなどでけい16かい先発せんぱつ経験けいけんした[51]巨人きょじん時代じだい結果けっかのこそうと必死ひっしだったが、西武せいぶときは5かいまでげること目標もくひょうながいイニングを消化しょうかして中継なかつぎの負担ふたんらそうとし、結果けっかてき好投こうとうつながったという[51]

リリーフにたいするかんがかた[編集へんしゅう]

現役げんえき時代じだい、リリーフの心構こころがまえとしては

  • おさえようとするより、相手あいて投手とうしゅよりすこしでもながくマウンドにいようとかんがえる
  • 勝負しょうぶいそがず、3きゅうはボールが使つかえるとかんがえてじっくりめる

ことげている[25]

また、おさ投手とうしゅ必要ひつよう条件じょうけんとしては、速球そっきゅう武器ぶきになり、だまとなる変化球へんかきゅうができれば2種類しゅるいあること[52]連投れんとういて短時間たんじかん集中しゅうちゅうりょくたかめられること[22]げている。チームのクローザーでは、津田つだひさし山本やまもと和行かずゆき江夏えなつゆたかのような味方みかた安心あんしんかんあたえる投手とうしゅ感心かんしんしたという[53]。なお津田つだ常時じょうじ150km/hたい前半ぜんはん速球そっきゅうげており、自身じしんなかもっとたまはや投手とうしゅだったとべている[54]

日本にほんハムせん東京とうきょうドーム)での3完封かんぷう未遂みすい[編集へんしゅう]

リリーフでの起用きようおおかったため、完封かんぷう記録きろくしたことがなく、完投かんとうも1あるだけである。しかし、1994ねん(37さい)から1995ねん(38さい)にかけて、いずれも東京とうきょうドームの日本にほんハムせんで、完封かんぷうちか投球とうきゅうをしたことがある。

  • 1994ねん6月8にち日本にほんハムたたかえ東京とうきょうドーム)では、先発せんぱつ村田むらた勝喜かつよしが1かい無死むし1、2るい場面ばめん腰痛ようつううったえ4きゅう降板こうばん[55]。このときマッサージをけていた鹿取かとり番手ばんてとして緊急きんきゅう登板とうばん最初さいしょ打者だしゃとなった田中たなか幸雄ゆきお安打あんだゆるし、つづマット・ウインタース併殺へいさつあいだに1てんれられたが、2かい以降いこう安打あんだゆるさず(3かい以降いこう一人ひとり走者そうしゃゆるさず[55])、勝利しょうり投手とうしゅとなった(9かいを97きゅう、1安打あんだ2四死球ししきゅう失点しってん)。公認こうにん野球やきゅう規則きそくでは、1かい守備しゅびに、無死むし失点しってん状態じょうたい先発せんぱつ投手とうしゅ降板こうばんし、交代こうたいした投手とうしゅがそのまま試合しあい終了しゅうりょうまで失点しってんおさえた場合ばあいには、交代こうたいした投手とうしゅ完封かんぷう記録きろくされる(完投かんとう記録きろくされない)が、この試合しあいではチームが失点しってんしているため完封かんぷう記録きろくされなかった[56]
  • 1995ねん7がつ16にち日本にほんハムせん東京とうきょうドーム)では、先発せんぱつ白鳥しらとり浩徳ひろのりが1かいうらに2てんられてなお1満塁まんるい場面ばめん登板とうばん後続こうぞくおさえて、9かいうらまで3安打あんだ失点しってんおさえた(8かい3ぶんの2を3安打あんだ3四死球ししきゅう失点しってん)。チームも勝利しょうりし、翌日よくじつ新聞しんぶんには「救援きゅうえん鹿取かとり、8かい3ぶんの2を”完封かんぷう”」との見出みだしが掲載けいさいされた[57]
  • 1995ねん8がつ25にち日本にほんハムせん東京とうきょうドーム)では、このとし2度目どめ先発せんぱつ登板とうばん。8かいまで失点しってんおさえ、9かいうらも2走者そうしゃにまでしたが、それまでプロ通算つうさん3本塁打ほんるいだ渡辺わたなべ浩司こうじ本塁打ほんるいだたれ、17ねんのプロはつ完封かんぷうのがし、さらにげと安打あんだ二死にし1、2るいとなって交代こうたいとなり12ねんぶりの完投かんとうのが結果けっかとなった(8かい3ぶんの2を8安打あんだ2四球しきゅう1失点しってん[58]

打者だしゃとの対戦たいせん[編集へんしゅう]

現役げんえき時代じだい対戦たいせんしてもっと印象いんしょうのこった打者だしゃとしては、山本やまもと浩二こうじげている。山本やまもと非常ひじょうみがするどく、わざと空振からぶりをしてたましゅ選択せんたくあやまらせてくるようなきもあり、一方いっぽう普段ふだんのイメージとちがうキレのわる変化球へんかきゅうそんじることもしばしばあったという[29]。このほかセ・リーグではころもりゅう祥雄よしお連続れんぞく出場しゅつじょう記録きろくがあるため内角ないかくめづらく、かけぬの雅之まさゆき長嶋ながしま清幸きよゆき苦手にがてだったという[59]。また、たまければおさえられるいたるがわ光男みつおのようなタイプを得意とくいとし、ぎゃくケン・モッカフェリックス・ミヤーンにはたまでもしばしばヒットにされた[59]1988ねんはシーズン4本塁打ほんるいだ田尾たお安志やすしに2サヨナラ本塁打ほんるいだびている。

パ・リーグ指名しめい打者だしゃせいのためいきける場面ばめんがなく、またいてまえ打線だせん象徴しょうちょうされるようなおもりのいバッティングがおお失投しっとう長打ちょうだつながりやすかったという[60]とくラルフ・ブライアントのスイングのはやさは衝撃しょうげきけるほどで、外角がいかくひくめの投球とうきゅう強烈きょうれつなピッチャーライナーになるほどだった[60]。また、自分じぶん世界せかいひたっていてちがめない山本やまもと和範かずのりや、場面ばめんたれることおおかった藤本ふじもと博史ひろふみ印象いんしょうのこったという[60]。なお、1994ねんはNPB記録きろくのシーズン210安打あんだ達成たっせいしたイチローを7打席だせきノーヒットにおさえた。このとしは、外角がいかくのスライダーでストライクをり、インハイの速球そっきゅうからだこして外角がいかくれで勝負しょうぶするスタイルが成功せいこうしたとかたっている[60]

エピソード[編集へんしゅう]

岡林おかばやし洋一よういちとは母親ははおや同士どうし従姉妹いとこで、又従兄弟またいとこ同士どうし関係かんけいたる。このため、岡林おかばやしのプロりの決断けつだんやリリーフとしての心構こころがまえなどについて相談そうだんったり、自主じしゅトレを一緒いっしょったりしていた[25]

リーグ最多さいた登板とうばん記録きろくした1987ねんころに、六本木ろっぽんぎった東尾ひがしおおさむに「われるままにげるだけでなく、自分じぶん大事だいじにしろ」とわれたが、「(東尾ひがしおのような)先発せんぱつわりはいないが、中継なかつぎはいくらでもいるからだまってげないといけない」とこたえたという[33]。のちに東尾ひがしおとは西武せいぶ監督かんとく選手せんしゅというかたち邂逅かいこうすることになり、東尾ひがしおのもとで当時とうじ日本にっぽんしん記録きろくとなる通算つうさん211SPを達成たっせいすることになる。
このように謙虚けんきょ姿勢しせいせ、西武せいぶ入団にゅうだんのあるとし契約けいやく更改こうかい球団きゅうだんから年俸ねんぽう1おくえん提示ていじけたが、「1おくえん主役しゅやく金額きんがく」と固辞こじしてその手前てまえ金額きんがくにしたこともあった[33]

テレビ出演しゅつえんなど[編集へんしゅう]

1983ねん11月25にちわらっていいとも!テレフォンショッキング渡辺わたなべとおるから紹介しょうかいけて現役げんえきプロ野球やきゅう選手せんしゅとしてはじめて登場とうじょうした。また、現役げんえき晩年ばんねん1997ねんにはおなじく現役げんえきプロ野球やきゅう選手せんしゅはつ個人こじんホームページを制作せいさくしている(現在げんざい閉鎖へいさ)。萩本はぎもと欽一きんいちとは現役げんえき時代じだいより親交しんこうがあり、オフには仮装かそう大賞たいしょうなど萩本はぎもと番組ばんぐみのゲストにばれるのがつねだった。このえんから引退いんたいには茨城いばらきゴールデンゴールズのヘッドコーチに就任しゅうにんしている。

また、萩本はぎもと番組ばんぐみ出演しゅつえんしたさいには「おれは欽ちゃんにさそわれたから(番組ばんぐみに)たのだから、そういうやつにギャラをすな」と出演しゅつえんりょうりを拒否きょひしてきょくからにがかおをされた。事情じじょういた萩本はぎもと鹿取かとりなだめてらせようとしたところ「仕事しごとにも気分きぶんけるものとそうでないものがある。おれ気分きぶんで(番組ばんぐみ出演しゅつえんを)けたのだから、ギャラをさないでほしい!」とぎゃく説教せっきょうされたという。

2006ねん公開こうかいされた映画えいが出口でぐちのないうみ』の制作せいさくにあたっては、自身じしんおな明治大学めいじだいがく投手とうしゅというやくえんじた市川いちかわ海老蔵えびぞうサイドスロー指導しどうをしている。また引退いんたいも120-125km/hの速球そっきゅうげ、2007ねん3月17にち放送ほうそうブロードキャスターではジャイロボールげてみせた。

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1979 巨人きょじん 38 0 0 0 0 3 2 2 -- .600 244 59.0 45 5 25 2 5 29 0 1 24 22 3.36 1.19
1980 51 0 0 0 0 4 3 3 -- .571 336 86.0 59 7 30 8 5 63 1 0 18 17 1.78 1.03
1981 22 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 148 37.2 25 3 11 2 3 22 0 0 12 10 2.37 0.96
1982 21 5 0 0 0 3 2 0 -- .600 243 57.2 57 10 12 0 5 36 0 0 30 29 4.50 1.20
1983 38 5 1 0 0 5 2 1 -- .714 396 94.0 101 14 25 2 1 64 1 0 41 38 3.64 1.34
1984 48 1 0 0 0 4 3 6 -- .571 345 88.0 69 11 25 4 1 58 1 0 27 24 2.45 1.07
1985 60 0 0 0 0 4 5 4 -- .444 350 84.1 74 11 30 4 3 75 0 1 33 33 3.52 1.23
1986 59 0 0 0 0 4 3 4 -- .571 398 101.0 82 8 18 3 3 68 0 0 29 26 2.32 0.99
1987 63 0 0 0 0 7 4 18 -- .636 366 94.2 66 8 16 4 4 70 0 0 23 20 1.90 0.87
1988 45 0 0 0 0 8 4 17 -- .667 271 64.2 63 10 12 6 2 40 1 0 25 23 3.20 1.16
1989 21 0 0 0 0 2 1 3 -- .667 142 34.1 29 4 10 1 2 25 2 0 12 12 3.15 1.14
1990 西武せいぶ 37 0 0 0 0 3 1 24 -- .750 179 45.0 41 3 11 2 1 26 0 0 15 15 3.00 1.16
1991 34 0 0 0 0 7 1 8 -- .875 287 70.2 60 3 22 10 0 37 0 0 15 14 1.78 1.16
1992 38 1 0 0 0 10 1 16 -- .909 302 76.2 56 4 20 7 3 41 2 0 21 21 2.47 0.99
1993 42 1 0 0 0 5 4 16 -- .556 274 68.0 57 2 17 4 4 47 0 0 21 17 2.25 1.09
1994 40 0 0 0 0 7 3 5 -- .700 305 76.2 66 4 18 1 8 53 0 0 29 29 3.40 1.10
1995 43 3 0 0 0 6 3 2 -- .667 344 85.2 74 8 19 3 4 43 1 0 24 23 2.42 1.09
1996 47 0 0 0 0 7 3 2 -- .700 317 75.0 69 3 28 6 4 48 1 0 22 20 2.40 1.29
1997 8 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 35 7.1 11 1 5 0 0 1 0 0 8 8 9.82 2.18
通算つうさん:19ねん 755 16 1 0 0 91 46 131 -- .664 5282 1306.1 1104 119 354 69 58 846 10 2 429 401 2.76 1.12
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

記録きろく[編集へんしゅう]

はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
  • 500試合しあい登板とうばん:1990ねん10がつ2にちたいオリックス・ブレーブス26回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、8かいひょうに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい失点しってん勝利しょうり投手とうしゅ  ※史上しじょう64にん
  • 100セーブ:1992ねん8がつ2にち たいオリックス・ブルーウェーブ18回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、7かいひょう1に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい2/3を失点しってん ※史上しじょう5にん
  • 1000投球とうきゅう回数かいすう:1993ねん5がつ6にちたい近鉄きんてつバファローズ6回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう) ※史上しじょう248にん、581試合しあいでの達成たっせいさいおそ記録きろく
  • 600試合しあい登板とうばん:1993ねん8がつ11にちたい千葉ちばロッテマリーンズ16回戦かいせん千葉ちばマリンスタジアム)、9かいうら1に3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2/3かい失点しってんでセーブ投手とうしゅ ※史上しじょう29にん
  • 700試合しあい登板とうばん:1995ねん9がつ21にちたいオリックス・ブルーウェーブ25回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、先発せんぱつ登板とうばんで8かい1/3を2失点しってん ※史上しじょう12にん
その記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 29 (1979ねん - 1989ねん
  • 26 (1990ねん - 1997ねん
  • 75 (1998ねん - 2000ねん
  • 84 (2002ねん - 2003ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本語にほんご直訳ちょくやくすると「さんほん」を意味いみし、このとし発足ほっそくしたJリーグサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまになぞらえて命名めいめいされた[27]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ5にちごう、P.44
  2. ^ 巨人きょじん鹿取かとりGMも甲子園こうしえん視察しさつ おもは「いたるがわさんにくそボールを…」
  3. ^ a b 鹿取かとり義隆よしたか (2006ねん8がつ8にち). “NextPlay なつ高校こうこう野球やきゅう”. 読売新聞よみうりしんぶん: p. 15 
  4. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ5にちごう、P.45
  5. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ12にちごう、P.44
  6. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ12にちごう、P.45
  7. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ19にちごう、P.44
  8. ^ a b 野球やきゅう小僧こぞう、2010ねん2がつごう、P.128
  9. ^ a b c d e 週刊しゅうかんベースボール、2000ねん12月25にちごう、P.29
  10. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ19にちごう、P.45
  11. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、1988ねん6がつ6にちごう、P.120
  12. ^ a b c d e 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん12月25にちごう、P.117
  13. ^ a b c d e f 週刊しゅうかんベースボール、1989ねん12月25にちごう、P.115
  14. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール別冊べっさつ、2008ねん11月15にちごう、P.57
  15. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1988ねん6がつ6にちごう、P.119
  16. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん3がつ12にちごう、P.44
  17. ^ スポーツニッポン 1989ねん11月4にち 4めん
  18. ^ だい 巨人きょじんから西武せいぶトレードの真相しんそう藤田ふじたもとつかさ監督かんとくとはなにがあった!?【鹿取かとり義隆よしたか】 - YouTube
  19. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん3がつ12にちごう、P.45
  20. ^ a b c d 別冊べっさつ宝島たからじま1652ごう宝島社たからじましゃ、P.46-47
  21. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん3がつ26にちごう、P.112
  22. ^ a b c d 野球やきゅう小僧こぞう、2010ねん2がつごう、P.131
  23. ^ 最年長さいねんちょうは2014ねん中日ちゅうにち山井やまい大介だいすけが36さい更新こうしん
  24. ^ 中日ちゅうにち山井やまいあきらさん刺激しげき遅咲おそざき10しょう 36さいはつけた勝利しょうり最年長さいねんちょう スポーツニッポン2014ねん9がつ7にち配信はいしん
  25. ^ a b c だい1せん あまりにも劇的げきてきなヤクルトの1しょう」『Sports Graphic Number』、1992ねん11月20にちごう、P.32
  26. ^ 『Number』、1993ねん1がつ20にちごう、P.105
  27. ^ 別冊べっさつ宝島たからじま1652ごう宝島社たからじましゃ、P.57
  28. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1997ねん12月15にちごう、P.140
  29. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ26にちごう、P.48
  30. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん1がつ29にちごう、P.42
  31. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん1がつ29にちごう、P.43
  32. ^ 赤坂あかさか英一ひでかずしる、プロ野球やきゅうだい人生じんせいかがやきは一瞬いっしゅん栄光えいこう時間じかんまたたっていった、2015ねん、P18-19,講談社こうだんしゃ
  33. ^ a b c d 『Number』、2002ねん10がつ10にちごう、P.132
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  36. ^ 週刊しゅうかんプロ野球やきゅうセ・パ誕生たんじょう60ねん だい40ごう 2003ねん平成へいせい15ねん)、ベースボールマガジンしゃ、2010ねん、P17
  37. ^ 週刊しゅうかんベースボール、2009ねん1がつ19にちごう、P.26
  38. ^ さむらいジャパンインタビューVol.5鹿取かとり義隆よしたか15U代表だいひょう監督かんとくインタビュー
  39. ^ さむらいジャパンに「テクニカルディレクター」を新設しんせつ鹿取かとり義隆よしたか就任しゅうにん
  40. ^ トップチーム、WBSC世界せかい野球やきゅうプレミア12へけて、コーチじん発表はっぴょう 野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょう さむらいジャパンオフィシャルサイト (2015ねん7がつ16にち) 2015ねん8がつ4にち閲覧えつらん
  41. ^ 鹿取かとり義隆よしたかがGM特別とくべつ補佐ほさ就任しゅうにん きょじん公式こうしきサイト2017ねん4がつ3にち閲覧えつらん
  42. ^ 鹿取かとり巨人きょじんしんGMに就任しゅうにん真摯しんしめて」つつみ退任たいにん. スポーツニッポン. (2017ねん6がつ13にち). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/06/13/kiji/20170613s00001173154000c.html 2017ねん6がつ13にち閲覧えつらん 
  43. ^ 巨人きょじんつつみGMが低迷ていめい引責いんせき退任たいにん後任こうにん鹿取かとり義隆よしたか. 日刊にっかんスポーツ. (2017ねん6がつ13にち). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/1839500_m.html 2017ねん6がつ13にち閲覧えつらん 
  44. ^ “【巨人きょじん鹿取かとりGM、来日らいにちしたゲレーロに本塁打ほんるいだ量産りょうさん期待きたい 本人ほんにん東京とうきょうDにこう印象いんしょう. スポーツ報知ほうち. (2017ねん1がつ28にち). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/1839500_m.html 2018ねん1がつ28にち閲覧えつらん 
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  46. ^ 巨人きょじん鹿取かとりGMを解任かいにんへ 編成へんせい部門ぶもんトップも引責いんせき さくオフ補強ほきょうるわず 2018ねん10がつ4にち スポーツニッポン
  47. ^ GMの退任たいにんについて きょじん公式こうしきサイト2018ねん10がつ11にち閲覧えつらん
  48. ^ 週刊しゅうかんベースボール、1990ねん3がつ26にちごう、P.113
  49. ^ おおいなる挑戦ちょうせん記録きろく」にいどんだおとこたち」『Number』、1991ねん1がつ20にちごう、P.30
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  54. ^ 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん3がつ5にちごう、P.44
  55. ^ a b 1995ねん6がつ9にち毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん20めん
  56. ^ そのとき、マッサージだいに…鹿取かとり義隆よしたか完投かんとう勝利しょうり スポーツニッポン 2012ねん6がつ8にち
  57. ^ 1995ねん7がつ17にち読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん17めん
  58. ^ 1995ねん8がつ26にち読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん17めん
  59. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん2がつ26にちごう、P.49
  60. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール、2001ねん3がつ19にちごう、P.49

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]