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武田たけだひさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
武田たけだ ひさ
北海道ほっかいどう日本にっぽんハムファイターズ 投手とうしゅコーチ #73
日本にほんハムコーチ時代じだい
(2023ねん11月2にち エスコンフィールドHOKKAIDO
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 徳島とくしまけん徳島とくしま
生年月日せいねんがっぴ (1978-10-14) 1978ねん10月14にち(45さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
170 cm
73 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうひだり
ポジション 投手とうしゅ
プロ 2002ねん ドラフト4じゅん
はつ出場しゅつじょう 2003ねん4がつ27にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 2017ねん5月5にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

武田たけだ ひさ(たけだ ひさし、1978ねん10月14にち - )は、徳島とくしまけん徳島とくしま出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)。みぎとうひだり

経歴けいれき

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プロまえ

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なま光学こうがくえん中学校ちゅうがっこう2ねんまではおも内野ないやしゅつとめ、投手とうしゅとして活躍かつやくはじめたのは3年生ねんせいになってからだった。軟球なんきゅうでスライダーやカーブをげられ、四国しこく大会たいかいでの優勝ゆうしょう貢献こうけんするなど活躍かつやくしたが、投手とうしゅにはこだわりをもっておらずさそいをけていた強豪きょうごうだか進学しんがく野手やしゅ転向てんこうかんがえていた。しかし、本人ほんにん留守るすちゅうなま光学こうがくえん高等こうとう学校がっこう野球やきゅう部長ぶちょう監督かんとくいえおとずれ、父親ちちおや説得せっとくして同校どうこうへの進学しんがくまった。その周囲しゅうい説得せっとくされ、投手とうしゅ継続けいぞくした[1]なま光学こうがくえんでは1995ねんなつ徳島とくしま大会たいかいじゅん優勝ゆうしょう同年どうねんあき四国しこく大会たいかいすすむが、1回戦かいせん岩村いわむら明憲あきのりのいた宇和島東うわじまひがしだか敗退はいたいはる選抜せんばつ出場しゅつじょういっするかたちとなった。よく1996ねんなつ徳島とくしま大会たいかい準々じゅんじゅん決勝けっしょう鴨島かもじましょう惜敗せきはいし、甲子園こうしえん大会たいかいには出場しゅつじょうできなかった。

卒業そつぎょう駒澤大学こまざわだいがく進学しんがく東都とうと大学だいがく野球やきゅうリーグでは1年生ねんせい1997ねん春季しゅんきリーグから登板とうばんし、同年どうねん秋季しゅうきリーグでは優勝ゆうしょう経験けいけん防御ぼうぎょりつ1となり最高さいこう殊勲しゅくん選手せんしゅえらばれた。同年どうねんだい28かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかいでは準決勝じゅんけっしょうすすむが、近大きんだい延長えんちょう16かい敗退はいたい。しかしそのはチームが低迷ていめいし、リーグ優勝ゆうしょうにはとどかなかった。リーグ通算つうさん63試合しあい登板とうばんし、当時とうじ駒澤大学こまざわだいがく投手とうしゅ通算つうさん勝利しょうりすうとしては、新井あらい富夫とみお日本通運にほんつううん先輩せんぱいにもあたる)の30しょう橋本はしもと時男ときおの26しょうぎ、河原かわはら純一じゅんいちの23しょうならぶ3タイの23しょう(18はい)。防御ぼうぎょりつ2.27、232だつ三振さんしん駒大こまだいでは3学年がくねん先輩せんぱい高橋たかはししょうなり、2学年がくねん先輩せんぱい新井あらい貴浩たかひろ、1学年がくねん後輩こうはい稲田いなだ直人なおと前田まえだ大輔だいすけ川岸かわぎしつよし、2学年がくねん後輩こうはい梵英こころ、3学年がくねん後輩こうはい古谷ふるや拓哉たくやがいた。

卒業そつぎょう日本通運にほんつううん入社にゅうしゃ配送はいそう業務ぎょうむ担当たんとうしていた。2001ねん都市とし対抗たいこう出場しゅつじょうし、2しょうげる。準々じゅんじゅん決勝けっしょうではJT相手あいて史上しじょう6にん毎回まいかいだつ三振さんしん達成たっせいした。しかし三菱自動車みつびしじどうしゃ岡崎おかざきとの準決勝じゅんけっしょうでは、延長えんちょう10かい投手とうしゅじん福川ふくかわしょうらにまれ敗退はいたい。この大会たいかいでは若獅子賞わかじししょう受賞じゅしょうした。

2002ねん都市とし対抗たいこうでも活躍かつやくし、ドラフト会議かいぎでは、日本にっぽんハムファイターズから4じゅん指名しめいけ、推定すいてい年俸ねんぽう1500まんえんという条件じょうけん入団にゅうだんした。背番号せばんごう当初とうしょ43内定ないていしていたが、のち入団にゅうだんするエンジェル・エチェバリア着用ちゃくよう希望きぼうしたことから、54変更へんこうされた[ちゅう 1]

日本にほんハム時代じだい

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日本にほんハム時代じだい (2013ねん)

2003ねん一軍いちぐん公式こうしきせん中継なかつぎで13試合しあい登板とうばん。6月2にちたい大阪おおさか近鉄きんてつバファローズたたかえ東京とうきょうドーム)ではつ勝利しょうりげた。

2004ねんから背番号せばんごう21変更へんこうのち退団たいだんするまで着用ちゃくようしたが、一軍いちぐん公式こうしきせんでは7試合しあい登板とうばんにとどまった。

2005ねんはシーズン後半こうはん一軍いちぐん公式こうしきせんで、閉幕へいまくまでに15登板とうばん試合しあい(22イニング)連続れんぞく失点しってん記録きろく。「勝利しょうり方程式ほうていしき」に定着ていちゃくした。

2006ねんマイケル中村なかむら岡島おかじま秀樹ひできなどとともにリリーフで重用じゅうようされた結果けっか一軍いちぐん公式こうしきせん球団きゅうだん史上しじょう最多さいたの75試合しあい登板とうばんパシフィック・リーグ(パ・リーグ)しん記録きろくの40ホールド・45ホールドポイントで最優秀さいゆうしゅう中継なかつ投手とうしゅのタイトルを獲得かくとくするなど、チームのパ・リーグ優勝ゆうしょう日本にっぽんシリーズ制覇せいはおおきく貢献こうけんした。また、このとしから4ねん連続れんぞくオールスターゲーム出場しゅつじょうしている。

2007ねん一軍いちぐん公式こうしきせん64試合しあい登板とうばんで28ホールドポイント(いずれもリーグ2)をマーク。シーズン終了しゅうりょうのの契約けいやく更改こうかいで、1おくえんプレイヤーの仲間入なかまいりをたした。

2008ねん前半ぜんはんせんこそ安定あんていしていたものの、8がつ以降いこう疲労ひろう蓄積ちくせき不調ふちょうおちいった。シーズン通算つうさん敗戦はいせんすう自己じこ最多さいたの7はいで、パ・リーグのペナントレースをせいした埼玉さいたま西武せいぶライオンズ相手あいてに4はいきっしたほか、終盤しゅうばんにはセットアッパーけんやま義紀よしのりわたした。このとし以降いこう契約けいやく更改こうかいでは、野球やきゅうへの造詣ぞうけいふかく、『行列ぎょうれつのできる法律ほうりつ相談そうだんしょ』などの番組ばんぐみ出演しゅつえんられる北村きたむら晴男はるお弁護士べんごし)を代理人だいりにんてている[2]

2009ねんはマイケルの退団たいだんクローザー転向てんこう。レギュラーシーズンでは、一軍いちぐん公式こうしきせんで3しょう無敗むはい、34セーブ、4ホールドという好成績こうせいせきでチームをリーグ優勝ゆうしょうみちびくとともに、最多さいたセーブ投手とうしゅのタイトルを獲得かくとくした。パ・リーグで最優秀さいゆうしゅう中継なかつぎと最多さいたセーブのタイトルを獲得かくとくした投手とうしゅは、武田たけだはじめてである。チームのクライマックスシリーズ(CS)突破とっぱのぞんだ読売よみうりジャイアンツとの日本にっぽんシリーズでは、だい2せんでシリーズはつセーブを記録きろく東京とうきょうドームでもよおされただい5せんでも、1てんリードの9かいうら登板とうばんした。しかし先頭せんとう打者だしゃ亀井かめい義行よしゆき初球しょきゅうにソロ本塁打ほんるいだび、つづたにけいは1きゅう凡退ぼんたいさせるも、打者だしゃ阿部あべまことこれすけへの2きゅうでサヨナラソロ本塁打ほんるいだ被弾ひだん。わずか4きゅうげただけで、このとし公式こうしきせん唯一ゆいいつ黒星くろぼしきっした[ちゅう 2]が、シリーズ推定すいてい年俸ねんぽう1おく9,000まんえんという条件じょうけん契約けいやく更改こうかいした。

2010ねん一軍いちぐん公式こうしきせんへのシーズンはつ登板とうばん本塁打ほんるいだびたことを皮切かわきりに、3試合しあい連続れんぞく救援きゅうえん失敗しっぱいのち中継なかつぎへふたたまわったこともあって、シーズンはつセーブは6がつ18にちたいオリックス・バファローズせんにまでされた。シーズン全体ぜんたいでは、一軍いちぐん公式こうしきせんで5ねん連続れんぞくの50試合しあい登板とうばん達成たっせいしたものの、防御ぼうぎょりつやセーブすう前年ぜんねんおおきく下回したまわった。

2011ねんはレギュラーシーズンでクローザーへかえいたすえに、一軍いちぐん公式こうしきせんで6ねん連続れんぞく50試合しあい登板とうばん。パ・リーグではじめてどういちシーズンに公式こうしきせん通算つうさん100ホールドと100セーブを達成たっせいしたほか、防御ぼうぎょりつ1.03、WHIPは0.78、37セーブというキャリアハイの成績せいせきで、最多さいたセーブ投手とうしゅのタイトルを2ねんりに獲得かくとくした。さらに、登板とうばん試合しあいで1ほん本塁打ほんるいだゆるさなかったほどの安定あんていした投球とうきゅうせた。しかし、西武せいぶとのCSファーストステージだい1せんでは1てんリードの9かいにマウンドにがったが、21.2るいのピンチを背負せおうと浅村あさむらさかえ同点どうてん適時てきじたれ救援きゅうえん失敗しっぱい先発せんぱつダルビッシュゆうちをしただけでなく、チームも延長えんちょう11かいされてやぶれた[3]。シーズン終了しゅうりょうに、推定すいてい年俸ねんぽう2おく3,000まんえんという自己じこ最高さいこう条件じょうけん契約けいやく更改こうかいした。

2012ねん一軍いちぐん公式こうしきせん開幕かいまく直後ちょくごから不調ふちょうで、5月にはひざ故障こしょう戦線せんせん離脱りだつした。それでも復帰ふっき好調こうちょうで、9月には月間げっかん11セーブのパ・リーグしん記録きろく達成たっせいするとともに、月間げっかんMVPはじめて受賞じゅしょうした。レギュラーシーズンの通算つうさんセーブすうは32で、前年ぜんねんつづいて最多さいたセーブ投手とうしゅのタイトルを獲得かくとくしたほか、チームをリーグ優勝ゆうしょうみちびいた。シーズンの終了しゅうりょうに、チームの現役げんえき選手せんしゅでは最高さいこうがく年俸ねんぽう2おく4,000まんえん推定すいてい)という条件じょうけん契約けいやく更改こうかい

2013ねんは7がつ10日とおかたい東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルスせん一軍いちぐん公式こうしきせん通算つうさん150セーブ、8がつ22にちどうカード(いずれもクリネックススタジアム宮城みやぎ)で通算つうさん500試合しあい登板とうばん達成たっせい。しかし、4がつはらじきすじ炎症えんしょう、6がつにもみぎひじりで戦線せんせん離脱りだつしたため、一軍いちぐん公式こうしきせんへの登板とうばんすうが8ねんりに50試合しあいった。WHIPは1.75、打率だりつは3わり以上いじょうたっしたものの、救援きゅうえん失敗しっぱいすくなく、リーグ2の31セーブを記録きろく。3ねん連続れんぞく4度目どめの30セーブを達成たっせいした。シーズンの終了しゅうりょうには、現状げんじょう維持いじ条件じょうけん契約けいやく更改こうかいしたものの、前年ぜんねんつづいてチームの現役げんえき選手せんしゅ最高さいこうがく年俸ねんぽう確定かくていさせた。

2014ねん3月28にちにオリックスとのレギュラーシーズン開幕かいまくせん札幌さっぽろドーム)9かいひょう登板とうばんしたが、1てんのリードをまもれずに同点どうてんかれたすえ降板こうばん(チームは延長えんちょう12かいうらにサヨナラ勝利しょうり)。その登板とうばん試合しあいでも救援きゅうえん失敗しっぱい相次あいついだことにくわえて、インフルエンザ感染かんせんしたことから、4がつ8にち出場しゅつじょう選手せんしゅ登録とうろく抹消まっしょうされた。同月どうげつ29にちふたた登録とうろくされたが、2試合しあい登板とうばんしただけで、自身じしん志願しがんによって5がつ2にち登録とうろくふたた抹消まっしょう。7月1にち一軍いちぐん復帰ふっきしたものの、わずか9にち登録とうろく抹消まっしょうされると、そのままシーズンをえた。一軍いちぐん公式こうしきせんへの登板とうばんは9試合しあいどまりで、WHIPは2.74、打率だりつは.371、防御ぼうぎょりつは8.22と軒並のきな低調ていちょうだった。自身じしん抹消まっしょう期間きかんちゅう増井ますい浩俊ひろとしマイケル・クロッタがクローザーで活躍かつやくしたこともあって、シーズン終了しゅうりょう契約けいやく交渉こうしょうでは、NPB規定きていする年俸ねんぽう減額げんがく制限せいげん(1おくえん以上いじょう場合ばあいには40%)をえる減俸げんぽうりつよく2015ねん契約けいやく適用てきようすることを球団きゅうだんから打診だしん結局けっきょく、この打診だしんれたうえで、推定すいてい年俸ねんぽう8,000まんえんという条件じょうけん契約けいやく更改こうかいした。減額げんがくはばは1おく6,000まんえん減俸げんぽうりつは78%で、いずれも球団きゅうだん史上しじょう最大さいだいとされている[4]

2015ねんは3がつひだりひざ、8がつにもみぎひざ手術しゅじゅつけたため、プロはじめて一軍いちぐん公式こうしきせん登板とうばんできなかった。シーズン終了しゅうりょう契約けいやく交渉こうしょうでは、前年ぜんねんつづいて減額げんがく制限せいげんえる減俸げんぽう打診だしんされたすえに、推定すいてい年俸ねんぽう1,800まんえんという条件じょうけん契約けいやく更改こうかい自己じこ最高さいこうがく年俸ねんぽう(2おく4,000まんえん)を、わずか2ねんで2おく2,200まんえんらされる羽目はめになった[5]

2016ねん前年ぜんねんけた手術しゅじゅつ箇所かしょリハビリて、7がつ22にちから一軍いちぐん昇格しょうかく[6]同月どうげつ27にちたい西武せいぶせん西武せいぶプリンス)9かいうらに、一軍いちぐん公式こうしきせんでは2ねんりの登板とうばんたした。この試合しあいでは4連打れんだで2失点しってんきっしたすえ降板こうばんしたが、監督かんとく栗山くりやま英樹ひできは、「(げた)ボールはわるくなかった。(武田たけだひさ姿すがた感動かんどうしてていた」という表現ひょうげん復帰ふっきよろこんだ[7]。しかし、シーズン通算つうさん登板とうばんすうは5試合しあいで、一軍いちぐん公式こうしきせんとしては自己じこ最少さいしょうだった。

2017ねん開幕かいまくこそ一軍いちぐんむかえたが一軍いちぐん公式こうしきせん登板とうばんが7試合しあいとどまった。シーズン終盤しゅうばんの9がつには球団きゅうだんから引退いんたい勧告かんこくけたが、球団きゅうだんでの現役げんえき続行ぞっこう希望きぼうした[8]ため、10月5にち退団たいだん発表はっぴょうされた[9]

日本にほんハム退団たいだん

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2018ねんからは古巣ふるす日本通運にほんつううん硬式こうしき野球やきゅう選手せんしゅけんコーチとして復帰ふっき[10]現役げんえき生活せいかつつづけながら生田目なまためつばさなどを指導しどうした。生田目なまため古巣ふるす日本にほんハムへ入団にゅうだんした2019ねん[11]オフに現役げんえき引退いんたい。コーチしょくからも退しりぞいたうえで、日本通運にほんつううんふたた退社たいしゃした[12]

現役げんえき引退いんたい

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2020ねんからは日本にっぽん製鉄せいてつ東海とうかいREX投手とうしゅコーチをつとめた[13]

2023ねん10月30にち2024ねんより投手とうしゅコーチとして日本にほんハムに復帰ふっきすると発表はっぴょうされた[14]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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ひざ地面じめんくほどしずひく重心じゅうしんからげるフォーム[15]から平均へいきん球速きゅうそくやく140km/h[16]最速さいそく147km/hのストレートスライダーシュートフォークボールカーブげる。独特どくとくひくいリリースポイントからはなたれるストレートは打者だしゃからがるようにえるという[15]

人物じんぶつ

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詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
2003 日本にほんハム 13 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 66 17.2 10 0 4 0 1 15 0 0 6 6 3.06 0.79
2004 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 39 7.1 7 0 11 1 0 3 0 0 6 5 6.14 2.45
2005 23 0 0 0 0 2 0 2 5 1.000 124 34.1 23 1 4 1 1 21 0 0 3 3 0.79 0.79
2006 75 0 0 0 0 5 3 3 40 .625 321 81.2 71 1 8 2 4 61 0 0 20 19 2.09 0.97
2007 64 0 0 0 0 7 6 2 28 .538 302 74.1 68 2 16 2 6 53 1 0 20 20 2.42 1.13
2008 62 0 0 0 0 4 7 6 21 .364 269 61.1 68 9 19 1 1 40 0 0 31 30 4.40 1.42
2009 55 0 0 0 0 3 0 34 4 1.000 243 60.0 54 1 14 0 0 38 0 0 10 8 1.20 1.13
2010 58 0 0 0 0 1 5 19 4 .167 241 56.1 63 5 16 3 5 37 2 0 28 24 3.83 1.40
2011 53 0 0 0 0 2 2 37 1 .500 191 52.1 32 0 9 4 1 28 0 0 6 6 1.03 0.78
2012 56 0 0 0 0 4 4 32 3 .500 230 54.1 56 2 19 3 0 34 2 0 14 14 2.32 1.38
2013 47 0 0 0 0 2 2 31 1 .500 227 47.1 64 3 16 3 3 28 3 0 13 12 2.28 1.69
2014 9 0 0 0 0 0 1 1 0 .000 48 7.2 16 0 5 0 0 7 1 0 10 7 8.22 2.74
2016 5 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 27 4.1 11 0 1 0 2 0 0 0 7 7 14.54 2.77
2017 7 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 36 7.1 11 1 3 0 0 3 0 0 4 3 3.68 1.91
通算つうさん:15ねん 534 0 0 0 0 31 30 167 107 .508 2364 566.1 554 25 145 20 24 368 9 0 178 164 2.61 1.23
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最多さいた

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
  • はつ登板とうばん:2003ねん4がつ27にちたい大阪おおさか近鉄きんてつバファローズ5回戦かいせん東京とうきょうドーム)、7かいひょう無死むしに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん、1かい失点しってん
  • はつだつ三振さんしん同上どうじょう、7かいひょう無死むし川口かわぐち憲史けんじから
  • はつ勝利しょうり:2003ねん6がつ2にちたい大阪おおさか近鉄きんてつバファローズ9回戦かいせん東京とうきょうドーム)、4かいひょうに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん、3かい失点しってん
  • はつホールド:2005ねん8がつ19にちたいオリックス・バファローズ12回戦かいせんスカイマークスタジアム)、7かいうら1に3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん、1かい2/3を失点しってん
  • はつセーブ:2005ねん9がつ22にちたいオリックス・バファローズ17回戦かいせん(スカイマークスタジアム)、9かいうらに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい失点しってん
節目ふしめ記録きろく
  • 100セーブ:2011ねん9がつ29にちたい福岡ふくおかソフトバンクホークス23回戦かいせん福岡ふくおかYahoo! JAPANドーム)、9かいうらに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい失点しってん史上しじょう24にん
  • 150セーブ:2013ねん7がつ10日とおかたい東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルス10回戦かいせん日本製紙にほんせいしクリネックススタジアム宮城みやぎ)、9かいうらに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい失点しってん史上しじょう11にん
  • 500試合しあい登板とうばん:2013ねん8がつ22にちたい東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルス17回戦かいせん日本製紙にほんせいしクリネックススタジアム宮城みやぎ)、9かいうらに4番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、1かい1失点しってん史上しじょう89にん
その記録きろく
  • 12かい延長えんちょう継投けいとうノーヒットノーラン:2006ねん4がつ15にちたい福岡ふくおかソフトバンクホークス4回戦かいせん福岡ふくおかYahoo! JAPANドーム)、八木やぎさとし(1 - 10かいうら)・武田たけだ(11かいうら)・マイケル中村なかむら(12かいうら)で達成たっせい史上しじょうはつ(継投けいとうによるどう記録きろくは65ねんぶり)
  • 3投手とうしゅ継投けいとうによるノーヒットノーラン:同上どうじょう史上しじょうはつ
  • 延長えんちょうせん継投けいとうによるノーヒットノーラン:同上どうじょう史上しじょうはつ
  • 7ねん連続れんぞく50試合しあい登板とうばん:2006ねん - 2012ねん史上しじょう6にん
  • 月間げっかん11セーブ:2012ねん9がつ ※パ・リーグタイ記録たいきろく
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:6かい(2006ねん - 2009ねん、2011ねん、2012ねん

背番号せばんごう

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  • 43(2003ねん入団にゅうだん発表はっぴょうのみ)
  • 54(2003ねん
  • 21(2004ねん - 2017ねん
  • 73(2024ねん - )

登場とうじょうきょく

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  • 『Juke box』 ベント・ファブリック(2006ねん - 2012ねん、2015ねん - 2017ねん
  • Shineいえにゅうレオ(2013ねん - 2014ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 同時どうじ50内定ないていしていた小谷野こやの栄一えいいち5353内定ないていしていた紺田こんだ敏正としまさ52変更へんこうされた。
  2. ^ 公式こうしきせんではないが、オールスターゲームだい1せんでも、東京とうきょうヤクルトスワローズ青木あおきせんおや逆転ぎゃくてん2ラン本塁打ほんるいだびるなど3失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅになっている。
  3. ^ a b 最優秀さいゆうしゅう中継なかつ投手とうしゅ最多さいたセーブ投手とうしゅりょうタイトルを獲得かくとくしたのは、パシフィック・リーグはつセントラル・リーグでは藤川ふじかわ球児きゅうじ最優秀さいゆうしゅう中継なかつ投手とうしゅを2005ねんと2006ねん最多さいたセーブ投手とうしゅを2007ねん獲得かくとくしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 雑誌ざっし週刊しゅうかんベースボール」(ベースボールマガジンしゃかん)2008ねん7がつ21にちごう35-39ページ「白球はっきゅう入魂じっこん くるしみのてにつかんだ自分じぶん居場所いばしょ 武田たけだひさ
  2. ^ 日本にほんハム・武田たけだひさ代理人だいりにん北村きたむら弁護士べんごしデビュー (2/2ページ) - 野球やきゅう - SANSPO.COM
  3. ^ セーブおう武田たけだひさ救援きゅうえん失敗しっぱい調子ちょうしわるくなかったけど」Sponichi Annex .2011ねん10がつ29にち閲覧えつらん
  4. ^ 日本にほんハム武田たけだひさ球団きゅうだんワーストの減給げんきゅうりつ78%”. 日刊にっかんスポーツ (2015ねん12月3にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  5. ^ 日本にほんハム武田たけだひさまただい減俸げんぽう 1800まんえんでサインへ”. 日刊にっかんスポーツ. (2015ねん11月21にち). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1568889.html 2015ねん11月21にち閲覧えつらん 
  6. ^ 武田たけだひさ2ねんぶり1ぐん昇格しょうかく リリーフじんてこれ、精神せいしんてき支柱しちゅう. どうしんウェブ. (2016ねん7がつ22にち). http://dd.hokkaido-np.co.jp/sports/baseball/fighters/1-0295511.html 
  7. ^ 日本にほんハム武田たけだひさ2ねんぶり1ぐん登板とうばん!栗山くりやま監督かんとく感動かんどう”. 日刊にっかんスポーツ= (2016ねん7がつ27にち). 2018ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  8. ^ 日本にほんハム武田たけだひさ退団たいだんへ 球団きゅうだん現役げんえき続行ぞっこうまれけん”. 日刊にっかんスポーツ (2017ねん9がつ12にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  9. ^ 日本にほんハム、武田たけだひさ退団たいだん発表はっぴょう「とても感謝かんしゃ”. 日刊にっかんスポーツ (2017ねん10がつ5にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  10. ^ 日本にほんハム武田たけだひさ現役げんえき続行ぞっこう古巣ふるす日本通運にほんつううんでコーチけん”. 日刊にっかんスポーツ (2017ねん11月26にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  11. ^ 日本にほんハム3生田目なまため武田たけだひさコーチの制球せいきゅう指導しどう感謝かんしゃ”. 日刊にっかんスポーツ (2018ねん10がつ25にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  12. ^ もと日本にほんハム武田たけだひさ現役げんえき引退いんたい 日本通運にほんつううん年内ねんない退社たいしゃ”. 日刊にっかんスポーツ (2019ねん12月21にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  13. ^ もと日本にほんハム・武田たけだひさ 日本にっぽん製鉄せいてつ東海とうかいREXの投手とうしゅコーチ就任しゅうにん”. スポーツニッポン (2020ねん1がつ9にち). 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  14. ^ 日本にほんハム、来季らいき1ぐんコーチじん発表はっぴょう 投手とうしゅコーチは武田たけだひさ加入かにゅうで3にん体制たいせい強化きょうか”. Full-Count (2023ねん10がつ30にち). 2023ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  15. ^ a b 週刊しゅうかんプロ野球やきゅうデータファイル』2011ねん26ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ雑誌ざっし27742-10/12、9-10ぺーじ
  16. ^ 『2012プロ野球やきゅうオール写真しゃしん選手せんしゅ名鑑めいかん日本スポにっぽんすぽツ企画出版社つきかくしゅっぱんしゃ、2012ねん、25ぺーじぺーじISBN 978-4-905411-04-8 
  17. ^ 中畑なかはた監督かんとく 術後じゅつごはつ外出がいしゅつ 武田たけだひさ実家じっかでラーメンに舌鼓したつづみ. スポーツニッポン (スポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ). (2014ねん1がつ13にち). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/01/13/kiji/K20140113007377120.html 2020ねん7がつ22にち閲覧えつらん 

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外部がいぶリンク

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