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下柳 しもやなぎ 剛 つよし
基本 きほん 情報 じょうほう 国籍 こくせき
日本 にっぽん 出身 しゅっしん 地 ち
長崎 ながさき 県 けん 長崎 ながさき 市 し 生年月日 せいねんがっぴ
(1968-05-16 ) 1968年 ねん 5月16日 にち (55歳 さい ) 身長 しんちょう 体重 たいじゅう
184 cm 95 kg 選手 せんしゅ 情報 じょうほう 投球 とうきゅう ・打席 だせき
左 ひだり 投 とう 左 ひだり 打 だ ポジション
投手 とうしゅ プロ入 い り
1990年 ねん ドラフト4位 い 初 はつ 出場 しゅつじょう
1991年 ねん 8月 がつ 9日 にち 最終 さいしゅう 出場 しゅつじょう
2012年 ねん 4月 がつ 25日 にち 経歴 けいれき (括弧 かっこ 内 ない はプロチーム在籍 ざいせき 年度 ねんど )
下柳 しもやなぎ 剛 つよし YouTube チャンネル
活動 かつどう 期間 きかん
2022年 ねん 2月 がつ 7日 にち - ジャンル
野球 やきゅう 登録 とうろく 者 しゃ 数 すう
5.78万 まん 人 にん 総 そう 再生 さいせい 回数 かいすう
11,512,865回 かい チャンネル登録 とうろく 者 しゃ 数 すう ・総 そう 再生 さいせい 回数 かいすう は000000002023-06-30-0000 2023年 ねん 6月 がつ 30日 にち 時点 じてん 。 テンプレートを表示 ひょうじ
下柳 しもやなぎ 剛 つよし (しもやなぎ つよし、1968年 ねん 5月16日 にち - )は、長崎 ながさき 県 けん 長崎 ながさき 市 し 出身 しゅっしん の元 もと プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ (投手 とうしゅ 、左 ひだり 投 とう 左 ひだり 打 だ )、野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ 、タレント 。マネジメントはハイタイド [1] 。
愛称 あいしょう は「シモ 」「シモさん 」「シモヤン 」。
瓊浦高等 こうとう 学校 がっこう では、エースとして1985年 ねん 秋季 しゅうき 九州 きゅうしゅう 大会 たいかい 県 けん 予選 よせん 決勝 けっしょう に進 すす むが、海星 かいせい 高 だか に敗退 はいたい 。翌 よく 1986年 ねん 夏 なつ の甲子園 こうしえん 県 けん 予選 よせん でも、準々 じゅんじゅん 決勝 けっしょう で島原 しまばら 中央 ちゅうおう 高 だか に敗 やぶ れ甲子園 こうしえん には出場 しゅつじょう できなかった。瓊浦高校 こうこう には下柳 しもやなぎ が作 つく った「下柳 しもやなぎ マウンド 」が存在 そんざい する。
高校 こうこう 野球 やきゅう の指導 しどう 者 しゃ を目指 めざ して八幡 はちまん 大学 だいがく (現 げん :九州国際大学 きゅうしゅうこくさいだいがく )に進学 しんがく するも、いじめを受 う け、1年 ねん で中退 ちゅうたい 。しばらくは仕事 しごと をせずバイクを乗 の り回 まわ す生活 せいかつ を続 つづ けていたが、恩師 おんし の紹介 しょうかい で社会 しゃかい 人 じん 野球 やきゅう の新日鐵 しんにってつ 君津 きみつ に入社 にゅうしゃ し[注 ちゅう 1] [2] 、1988年 ねん にはチーム初 はつ となる第 だい 59回 かい 都市 とし 対抗 たいこう 野球 やきゅう 大会 たいかい 出場 しゅつじょう に貢献 こうけん 。走 はし り込 こ み、ウエートトレーニングなど肉体 にくたい 改造 かいぞう に取 と り組 く み、試合 しあい で完投 かんとう した後 のち も平然 へいぜん と200球 きゅう 近 ちか くの投 な げ込 こ みを行 おこ なうなど、当時 とうじ からタフネスぶりを見 み せていた[2] 。1990年 ねん の第 だい 61回 かい 都市 とし 対抗 たいこう 野球 やきゅう 大会 たいかい は予選 よせん で36回 かい を投 な げぬき3完投 かんとう 。本 ほん 大会 たいかい に進 すす み1回戦 かいせん で先発 せんぱつ するものの、日産自動車 にっさんじどうしゃ に打 う ち込 こ まれ大敗 たいはい 、都市 とし 対抗 たいこう 初 はつ 勝利 しょうり の夢 ゆめ を砕 くだ かれた。本人 ほんにん はプロ引退 いんたい 後 ご に「カシクラさん」なる名 な 遊撃手 ゆうげきしゅ がチームにいたと自身 じしん の公式 こうしき YouTubeチャンネルで語 かた っている。新日鐵 しんにってつ 君津 きみつ のキャプテンを務 つと めていた「カシクラさん」こと柏倉 かしわぐら 武志 たけし は非常 ひじょう に強肩 きょうけん でプロ入 い りも嘱望 しょくぼう されていたが、チームから他 た に何人 なんにん かプロ入 い りしたため、指名 しめい 枠 わく の都合 つごう でプロ入 い りの機会 きかい を失 うしな ったという[3] 。
1990年 ねん のドラフト会議 かいぎ で福岡 ふくおか ダイエーホークス から4位 い 指名 しめい を受 う け入 いれ 団 だん 。
1年 ねん 目 め の1991年 ねん は1試合 しあい に登板 とうばん したが1回 かい を投 な げ切 き れず、2/3回 かい で4失点 しってん で降板 こうばん した。
1992年 ねん は自身 じしん の意向 いこう で一軍 いちぐん 登板 とうばん せず、ファームでの試合 しあい 出場 しゅつじょう に専念 せんねん した。
1993年 ねん はリリーフとして50試合 しあい 登板 とうばん した。一方 いっぽう で下記 かき の起用 きよう 法 ほう もあり、先発 せんぱつ でも10試合 しあい に登板 とうばん し、その翌日 よくじつ や前日 ぜんじつ にリリーフ登板 とうばん などもあった。全体 ぜんたい では防御 ぼうぎょ 率 りつ 4.13と安定 あんてい 感 かん を欠 か き4勝 しょう 8敗 はい 5セーブ(先発 せんぱつ では2勝 しょう 6敗 はい )を記録 きろく した。
入団 にゅうだん 当初 とうしょ は制球 せいきゅう 力 りょく に難 なん のある速球 そっきゅう 派 は 投手 とうしゅ だったが権藤 ごんどう 博 ひろし (1991年 ねん - 1993年 ねん の一軍 いちぐん 投手 とうしゅ コーチ)や根本 ねもと 陸夫 むつお (1993年 ねん ・1994年 ねん の一軍 いちぐん 監督 かんとく )は、下柳 しもやなぎ の豊富 ほうふ なスタミナを活 い かした「毎日 まいにち 打撃 だげき 投手 とうしゅ 、毎日 まいにち 中継 なかつ ぎ登板 とうばん 」という過酷 かこく な投 な げ込 こ みで克服 こくふく させた。権藤 ごんどう から入団 にゅうだん 2年 ねん 目 め に言 い われた「Don't be afraid to throw strike(ストライクを投 な げることを怖 こわ がるな)」というアドバイスは、その後 ご の投手 とうしゅ 生活 せいかつ の励 はげ みになったという。権藤 ごんどう は「このタイプは実戦 じっせん 経験 けいけん を積 つ ませることが大成 たいせい への近道 ちかみち だ。私 わたし は再三 さいさん に渡 わた り、1軍 ぐん 起用 きよう を進言 しんげん した。しかし日々 ひび の目先 めさき 勝利 しょうり を優先 ゆうせん する田淵 たぶち 監督 かんとく には受 う け入 い れてもらえなかった。93年 ねん に監督 かんとく に就任 しゅうにん した根本 ねもと 陸夫 むつお 監督 かんとく に同 おな じお願 ねが いしたらわかったと全 すべ て任 まか せてくれて過去 かこ 2年間 ねんかん で1試合 しあい しか登板 とうばん のなかった下柳 しもやなぎ を50試合 しあい に使 つか った」と述 の べている(登板 とうばん 過多 かた で選手 せんしゅ 生命 せいめい が僅 わず か数 すう 年 ねん で終 お わり過 か 登板 とうばん に対 たい しては慎重 しんちょう な権藤 ごんどう として異例 いれい の起用 きよう や練習 れんしゅう 法 ほう であった)[4] 。
権藤 ごんどう は1993年 ねん シーズンのオープン戦 せん で「ベースの幅 はば に投 な げれば、どんだけ高 たか かろうが低 ひく かろうが使 つか うてやる」「取 と り敢 あ えずストライク投 な げろ」と、制球 せいきゅう 力 りょく 、特 とく に左右 さゆう に制球 せいきゅう する重要 じゅうよう 性 せい を叩 たた き込 こ まれた。当時 とうじ の下柳 しもやなぎ は室内 しつない にブルペンの無 な い球場 きゅうじょう だと降板 こうばん 後 ご に投 な げ込 こめ みせずに済 す んだのでそれが嬉 うれ しかったと引退 いんたい 後 ご に振 ふ り返 かえ っている[5] 。
1994年 ねん にはリーグトップの62試合 しあい に登板 とうばん しリリーフながらチームトップタイの11勝 しょう を挙 あ げオールスターにも初 はつ 選出 せんしゅつ された。連日 れんじつ のように登板 とうばん する鉄腕 てつわん からアイアン・ホーク のニックネームがつき[6] 、当時 とうじ の応援 おうえん 歌 か の歌詞 かし にも取 と り入 い れられた。
1995年 ねん 4月 がつ 20日 にち 未明 みめい 、福岡 ふくおか 市内 しない で自身 じしん の車 くるま をスピード違反 いはん で走行 そうこう させた末 すえ に民家 みんか の塀 へい に激突 げきとつ する交通 こうつう 事故 じこ を起 お こし、上顎 じょうがく 骨 こつ 骨折 こっせつ などの怪我 けが を負 お った[7] 。この負傷 ふしょう が原因 げんいん でシーズンを棒 ぼう に振 ふ ったばかりか、球団 きゅうだん からは当時 とうじ の推定 すいてい 年俸 ねんぽう の1割 わり に相当 そうとう する610万 まん 円 えん を罰金 ばっきん として科 か された。最終 さいしゅう 的 てき に前年 ぜんねん の半分 はんぶん 以下 いか となる24試合 しあい の登板 とうばん に終 お わり、2勝 しょう しか挙 あ げられなかった。同年 どうねん オフ11月 がつ 16日 にち に武田 たけだ 一浩 かずひろ ・松田 まつだ 慎 まき 司 つかさ との交換 こうかん トレード で、安田 やすだ 秀之 ひでゆき と共 とも に日本 にっぽん ハムファイターズ に移籍 いせき 。
1996年 ねん は前半 ぜんはん 戦 せん は前年 ぜんねん の事故 じこ の影響 えいきょう でまだ顔 かお にプレートが入 はい った状態 じょうたい だったこともあり二 に 軍 ぐん 調整 ちょうせい だったが後半 こうはん 戦 せん に一軍 いちぐん に昇格 しょうかく 。中継 なかつ ぎとして23試合 しあい に登板 とうばん し、防御 ぼうぎょ 率 りつ 3点 てん 台 だい 後半 こうはん を記録 きろく し、プロ入 い りしてから初 はじ めて防御 ぼうぎょ 率 りつ が4点 てん 台 だい を下回 したまわ った。
1997年 ねん は216打席 だせき 連続 れんぞく 無 な 三振 さんしん を続 つづ けていたイチロー を三振 さんしん に討 う ち取 と って「イチローキラー」と話題 わだい になり、1試合 しあい に先発 せんぱつ した以外 いがい は全 すべ てリリーフ登板 とうばん で、65試合 しあい に登板 とうばん して9勝 しょう を挙 あ げ規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい に達 たっ した。
1998年 ねん は自己 じこ 最多 さいた の66試合 しあい に登板 とうばん した。防御 ぼうぎょ 率 りつ 3.07と安定 あんてい 感 かん を増 ま した。
1999年 ねん も62試合 しあい に登板 とうばん し、3年 ねん 連続 れんぞく 60試合 しあい 登板 とうばん を記録 きろく した。同年 どうねん は防御 ぼうぎょ 率 りつ 3.61とやや安定 あんてい 感 かん を欠 か いた。
2000年 ねん 以降 いこう はチーム事情 じじょう や本人 ほんにん の希望 きぼう から先発 せんぱつ 投手 とうしゅ に転向 てんこう し、同年 どうねん 8月 がつ 26日 にち のダイエー戦 せん でプロ10年 ねん 目 め にして初 はつ 完封 かんぷう 勝利 しょうり を挙 あ げた[8] 。最終 さいしゅう 的 てき に登板 とうばん した36試合 しあい 中 ちゅう 11試合 しあい に先発 せんぱつ した。8勝 しょう 4敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 4.52の成績 せいせき を残 のこ した。オフの契約 けいやく 更改 こうかい では日本人 にっぽんじん 選手 せんしゅ として初 はじ めて代理人 だいりにん 交渉 こうしょう を行 おこな った[9] 。
2001年 ねん は規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい 未満 みまん で防御 ぼうぎょ 率 りつ も5.06ながら9勝 しょう 8敗 はい の成績 せいせき を残 のこ した。
2002年 ねん は不調 ふちょう で17試合 しあい で2勝 しょう 7敗 はい ・防御 ぼうぎょ 率 りつ 5.75の成績 せいせき で終 お わった。シーズンオフの11月22日 にち に山田 やまだ 勝彦 かつひこ ・伊達 だて 昌司 しょうじ との複数 ふくすう トレードで中村 なかむら 豊 ゆたか と共 とも に阪神 はんしん タイガース に移籍 いせき した[注 ちゅう 2] 。8月 がつ を終 お わった時点 じてん で1勝 しょう 7敗 はい で6連敗 れんぱい の中 なか 、一軍 いちぐん 投手 とうしゅ コーチの浅野 あさの 啓司 けいじ から「もう戦力 せんりょく 外 がい かトレード要員 よういん は確定 かくてい だから2試合 しあい あげるから(先発 せんぱつ 登板 とうばん させる)次 つぎ の球団 きゅうだん での生 い き方 かた を模索 もさく しろ」と言 い われ、阪神 はんしん 時代 じだい の変化球 へんかきゅう でかわすスタイルを試 ため し結果 けっか を出 だ した[5] [注 ちゅう 3] 。
移籍 いせき 1年 ねん 目 め の2003年 ねん は星野 ほしの 仙 せん 一 いち 監督 かんとく の下 した 、優 すぐ れた制球 せいきゅう 力 りょく で相手 あいて 打者 だしゃ を「のらりくらり」とかわす技巧 ぎこう 派 は の投球 とうきゅう で前年 ぜんねん から復調 ふくちょう し26試合 しあい に投 な げ規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい 不足 ふそく ながらも10勝 しょう を挙 あ げ(先発 せんぱつ 登板 とうばん 勝利 しょうり のみでの二 に 桁 けた 勝利 しょうり は初 はつ )、リーグ優勝 ゆうしょう に貢献 こうけん した。古巣 ふるす のダイエー との日本 にっぽん シリーズ では第 だい 5戦 せん に登板 とうばん 。相手 あいて の先発 せんぱつ はシーズン20勝 しょう 投手 とうしゅ の斉藤 さいとう 和巳 かずみ だったが6回 かい 2失点 しってん の好投 こうとう で日本 にっぽん シリーズ初 はつ 登板 とうばん 初 はつ 先発 せんぱつ で勝利 しょうり 投手 とうしゅ となった。エース斉藤 さいとう に投 な げ勝 か っての勝利 しょうり だったがチームは第 だい 6戦 せん ・第 だい 7戦 せん と連敗 れんぱい し日本一 にっぽんいち を逃 のが した。オフ、FA 宣言 せんげん 。阪神 はんしん が残留 ざんりゅう 要請 ようせい を行 おこな ったほか、横浜 よこはま ベイスターズ も獲得 かくとく に名乗 なの りを上 あ げたが阪神 はんしん 若手 わかて 投手 とうしゅ 陣 じん を中心 ちゅうしん に「残留 ざんりゅう コール」を受 う けたこともあって阪神 はんしん に残留 ざんりゅう 。
2004年 ねん は22試合 しあい に登板 とうばん するも安定 あんてい 感 かん を欠 か き7勝 しょう 5敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 5.12の成績 せいせき で終 お わり、投球 とうきゅう 回数 かいすう も前年 ぜんねん を下回 したまわ った。
2005年 ねん 8月 がつ 25日 にち の広島東洋 ひろしまとうよう カープ戦 せん で通算 つうさん 1000奪 だつ 三振 さんしん を達成 たっせい した。同年 どうねん は自己 じこ 最多 さいた 、黒田 くろだ 博樹 ひろき と並 なら んでリーグトップの15勝 しょう を挙 あ げ、リーグ優勝 ゆうしょう に貢献 こうけん 。また、初 はつ タイトルとなる最多 さいた 勝利 しょうり を獲得 かくとく 。37歳 さい での獲得 かくとく は若林 わかばやし 忠志 ただし の36歳 さい を更新 こうしん するプロ野球 やきゅう 史上 しじょう 最年長 さいねんちょう 記録 きろく であり、規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい 未満 みまん での獲得 かくとく は1988年 ねん の伊東 いとう 昭光 あきみつ 以来 いらい 史上 しじょう 2人 にん 目 め だった。しかし、ロッテ との日本 にっぽん シリーズ では第 だい 3戦 せん に先発 せんぱつ し、5回 かい 3失点 しってん の投球 とうきゅう を見 み せるが打線 だせん に援護 えんご がなく敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となった。また、チームもストレートの4連敗 れんぱい で日本一 にっぽんいち を逃 のが した。
2006年 ねん 4月 がつ 5日 にち の広島 ひろしま 戦 せん で通算 つうさん 500試合 しあい 登板 とうばん を達成 たっせい 。前年 ぜんねん に引 ひ き続 つづ いて安定 あんてい した成績 せいせき を残 のこ し、先発 せんぱつ 転向 てんこう 後 ご 及 およ び阪神 はんしん 移籍 いせき 後 ご 初 はつ で、9年 ねん ぶりに規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい にも到達 とうたつ した[注 ちゅう 4] 。9月24日 にち には後 のち にチームメイトとなる日本 にほん ハム時代 じだい の後輩 こうはい である金村 かなむら 曉 あきら がトレイ・ヒルマン 監督 かんとく の采配 さいはい を批判 ひはん して出場 しゅつじょう 停止 ていし となった夜 よる 、同 おな じく日本 にほん ハムから阪神 はんしん に移籍 いせき した片岡 かたおか 篤史 あつし と共 とも に金村 かなむら へ電話 でんわ をかけ、「俺 おれ はお前 まえ にそんなことを教 おし えたか! 目 め を覚 さ まさせてやる! 今 いま から来 こ い!」と怒鳴 どな り、都内 とない の飲食 いんしょく 店 てん に呼 よ び出 だ した。金村 かなむら は殴 なぐ られるものと覚悟 かくご していたが二 に 人 にん は「こういう経験 けいけん がないと大 おお きくなれない。良 よ い勉強 べんきょう と思 おも って前 まえ 向 む いてやれ。成長 せいちょう するステップと思 おも って頑張 がんば れ」と励 はげ ました。詳細 しょうさい は舌禍 ぜっか 事件 じけん を参照 さんしょう 。11月23日 にち には長崎 ながさき 県 けん の「ブランド大使 たいし 」に任命 にんめい された。
2007年 ねん は先発 せんぱつ ローテーション候補 こうほ の福原 ふくはら 忍 しのぶ や安藤 あんどう 優 ゆう 也 らが出遅 でおく れたこともあって、1リーグ制 せい 時代 じだい を含 ふく めても球団 きゅうだん 史上 しじょう 2位 い 、2リーグ制 せい になってからは球団 きゅうだん 史上 しじょう 最年長 さいねんちょう となる38歳 さい 10か月 げつ での開幕 かいまく 投手 とうしゅ となり、6回 かい 2失点 しってん で敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となったものの黒田 くろだ からチーム初 はつ 安打 あんだ を放 はな つなど投打 とうだ に渡 わた り執念 しゅうねん を見 み せた。7月6日 にち に通算 つうさん 100勝 しょう 目 め を達成 たっせい した。最終 さいしゅう 的 てき には規定 きてい 投球 とうきゅう 回数 かいすう に到達 とうたつ せず防御 ぼうぎょ 率 りつ も4点 てん 台 だい ながら、先発 せんぱつ 投手 とうしゅ 陣 じん が崩壊 ほうかい したチームの中 なか で唯 ただ 一 いち シーズン通 とお して先発 せんぱつ ローテーション を守 まも り、チーム最多 さいた の10勝 しょう を挙 あ げた。中日 ちゅうにち ドラゴンズ とのクライマックスシリーズ第 だい 一 いち ステージでは初戦 しょせん の先発 せんぱつ を任 まか されたものの敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となり、翌日 よくじつ もチームは敗 やぶ れ敗退 はいたい 。オフの11月7日 にち に契約 けいやく 交渉 こうしょう を行 おこな ったが決裂 けつれつ し、翌日 よくじつ 2度目 どめ のFA権 けん 行使 こうし をする意向 いこう を表明 ひょうめい 、11月13日 にち 付 づけ で公示 こうじ された。メジャー 数 かず 球団 きゅうだん からもオファーがあったが、結局 けっきょく 2008年 ねん 1月 がつ 22日 にち に正式 せいしき に阪神 はんしん と契約 けいやく 合意 ごうい に達 たっ し、前回 ぜんかい のFA宣言 せんげん 時 じ と同 おな じく阪神 はんしん に残留 ざんりゅう した。
2008年 ねん 8月 がつ 21日 にち の広島 ひろしま 戦 せん においてプロ野球 やきゅう 史上 しじょう 5人 にん 目 め 、41歳 さい で15勝 しょう を挙 あ げた若林 わかばやし 以来 いらい 球団 きゅうだん 史上 しじょう 59年 ねん ぶりとなる40代 だい での2桁 けた 勝利 しょうり を記録 きろく するなど同年 どうねん もシーズンを通 とお して先発 せんぱつ ローテーションを守 まも り、2年 ねん ぶりに規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい に達 たっ した(イニング数 すう は自己 じこ 最高 さいこう )。その中 なか でリーグ5位 い 、チームトップで自己 じこ 最高 さいこう 成績 せいせき となる防御 ぼうぎょ 率 りつ 2.99を記録 きろく し、11勝 しょう を挙 あ げた。
2009年 ねん 6月 がつ から8月 がつ にかけての自身 じしん 6連敗 れんぱい に見 み られるようにシーズン中盤 ちゅうばん から調子 ちょうし を落 お とし、8勝 しょう 8敗 はい と5年 ねん 連続 れんぞく 2桁 けた 勝利 しょうり と規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい を逃 のが した。7月 がつ 20日 はつか には怪我 けが から復帰 ふっき した矢野 やの 輝弘 てるひろ と日本 にっぽん プロ野球 やきゅう 史上 しじょう 初 はつ の40代 だい バッテリーを組 く んだ[11] 。
2010年 ねん は怪我 けが の再発 さいはつ に悩 なや む矢野 やの に代 か わりダイエー時代 じだい の同僚 どうりょう であった新 しん 加入 かにゅう の城島 じょうしま 健司 けんじ とバッテリーを組 く む。シーズン6度目 どめ の先発 せんぱつ となった5月13日 にち (日本 にほん ハム戦 せん )では当季 とうき 最短 さいたん 1回 かい 2/3を4失点 しってん で敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となり、翌日 よくじつ には1軍 ぐん 登録 とうろく を抹消 まっしょう される。同月 どうげつ 26日 にち に再 さい 登録 とうろく されて即 そく 先発 せんぱつ (西武 せいぶ 戦 せん )となってからは、試合 しあい 間隔 かんかく の緩 ゆる やかな交流 こうりゅう 戦 せん の日程 にってい にも助 たす けられて再 さい 登録 とうろく 後 ご 7度 ど の先発 せんぱつ 全 すべ てで5イニング以上 いじょう を投 な げぬいていた(この7戦 せん で3勝 しょう 2敗 はい )。しかし、その7度目 どめ (シーズンとしては13度目 どめ )となった7月 がつ 16日 にち (ヤクルト戦 せん )で6回 かい 3失点 しってん の敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となり、翌日 よくじつ に2度目 どめ の抹消 まっしょう となる。同月 どうげつ 31日 にち に再々 さいさい 登録 とうろく され、翌日 よくじつ 8月 がつ 1日 にち (対 たい 中日 ちゅうにち 戦 せん )に先発 せんぱつ 登板 とうばん した。この8月 がつ は、7日 にち (中日 ちゅうにち 戦 せん 、敗戦 はいせん 投手 とうしゅ )・15日 にち (対 たい ヤクルト戦 せん 、勝敗 しょうはい つかず。翌 よく 16日 にち には3度目 どめ の抹消 まっしょう )・26日 にち (対 たい 広島 ひろしま 戦 せん 、再 さい 登録 とうろく ・即 そく 先発 せんぱつ ながら敗戦 はいせん 投手 とうしゅ )の先発 せんぱつ いずれも4イニング程度 ていど で降板 こうばん 。勝利 しょうり を挙 あ げた1日 にち のみ5イニングを超 こ えたとはいえ、4戦 せん とも4失点 しってん 以上 いじょう を許 ゆる す不安定 ふあんてい さを見 み せていた。9月1日 にち (横浜 よこはま 戦 せん )には6回 かい 1失点 しってん の好投 こうとう と、復調 ふくちょう の兆 きざ しを見 み せたかに思 おも われた。翌日 よくじつ には終盤 しゅうばん 戦 せん に向 む けた万全 ばんぜん の調整 ちょうせい を期待 きたい されてか4度目 どめ の抹消 まっしょう となり同月 どうげつ 15日 にち (横浜 よこはま 戦 せん )に再 さい 登録 とうろく され、即 そく 先発 せんぱつ 。しかし、1回 かい 2/3を7失点 しってん で敗戦 はいせん 投手 とうしゅ という期待 きたい 外 はず れの結果 けっか に終 お わり、その翌日 よくじつ に5度目 どめ の1軍 ぐん 登録 とうろく 抹消 まっしょう となり、そのままシーズンを終 お え、規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい には2年 ねん 連続 れんぞく で到達 とうたつ できず19試合 しあい で7勝 しょう 8敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 4.32の成績 せいせき に終 お わった。
2011年 ねん は開幕 かいまく から先発 せんぱつ ローテーションの一角 いっかく を担 にな うようになったが6試合 しあい に登板 とうばん し0勝 しょう 2敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 3.54という不本意 ふほんい な成績 せいせき で6月 がつ 7日 にち に登録 とうろく 抹消 まっしょう された。その後 ご はファームで調整 ちょうせい を続 つづ け、9月2日 にち に再 さい 登録 とうろく されたが登板 とうばん 予定 よてい の試合 しあい が雨天 うてん 中止 ちゅうし になったためそのまま抹消 まっしょう された。その後 ご も一軍 いちぐん に昇格 しょうかく することは無 な く、後 のち に翌年 よくねん の戦力 せんりょく 構想 こうそう から外 はず れていることがわかった。そのため9月 がつ 23日 にち のウエスタン・リーグのオリックス 戦 たたかえ (鳴尾 なるお 浜 はま )が最後 さいご の登板 とうばん となった。この試合 しあい には、2軍 ぐん では異例 いれい の1300人 にん の観衆 かんしゅう が集 あつ まった[12] 。チームの若返 わかがえ りの方針 ほうしん により10月 がつ 9日 にち に戦力 せんりょく 外 がい 通告 つうこく を受 う けた[13] 。12月2日 にち に自由 じゆう 契約 けいやく 公示 こうじ された。
2012年 ねん は東北 とうほく 楽天 らくてん ゴールデンイーグルス の春季 しゅんき キャンプに参加 さんか し、同 どう 球団 きゅうだん の入団 にゅうだん テストを受 う けた[14] 。2月4日 にち に仙台 せんだい 放送 ほうそう のローカル番組 ばんぐみ 『スポルたん!LIVE 』において、阪神 はんしん 時代 じだい の2003年 ねん にも監督 かんとく を務 つと めた楽天 らくてん 監督 かんとく の星野 ほしの 仙 せん 一 いち が正式 せいしき 発表 はっぴょう 前 まえ に下柳 しもやなぎ の入団 にゅうだん と先発 せんぱつ 起用 きよう を暴露 ばくろ 。2月5日 にち に入団 にゅうだん が正式 せいしき に決 き まったことで、10年 ねん ぶりにパ・リーグに復帰 ふっき した。オープン戦 せん での好投 こうとう を買 か われて開幕 かいまく ローテーション入 い りを果 は たした。前年 ぜんねん 戦力 せんりょく 外 がい の投手 とうしゅ であったにもかかわらず、4月 がつ 1日 にち のロッテとの開幕 かいまく 第 だい 3戦 せん で先発 せんぱつ を任 まか された。しかし、4回 かい 2/3を投 な げて3失点 しってん で敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となり、楽天 らくてん 球団 きゅうだん 初 はつ の本拠地 ほんきょち でのシーズン開幕 かいまく カードで3連敗 れんぱい を喫 きっ してしまった[15] 。4月8日 にち のオリックス・バファローズ 戦 せん では6回 かい 2失点 しってん の好投 こうとう を見 み せたが打線 だせん が得点 とくてん できず敗戦 はいせん 投手 とうしゅ となった[16] 。4月15日 にち の日本 にほん ハム戦 せん では毎回 まいかい 安打 あんだ を浴 あ びるなど4回 かい 1/3を3失点 しってん で降板 こうばん した[17] 。4試合 しあい 目 め の先発 せんぱつ となった4月 がつ 25日 にち のオリックス戦 せん では2回 かい 2失点 しってん で移籍 いせき 後 ご 最短 さいたん の降板 こうばん となった。チームが逆転 ぎゃくてん 勝 が ちしたため敗戦 はいせん 投手 とうしゅ は免 まぬか れたが4月 がつ 26日 にち に出場 しゅつじょう 選手 せんしゅ 登録 とうろく を抹消 まっしょう された。今回 こんかい の抹消 まっしょう に関 かん してはダイエー時代 じだい の指揮 しき 官 かん で阪神 はんしん 時代 じだい のヘッドコーチでもあり、楽天 らくてん でも三 さん 度 ど 一緒 いっしょ になった田淵 たぶち 幸一 こういち ヘッドコーチは「もう1度 ど 、下 した で作 つく り直 なお してほしい。俺 おれ がダイエーで監督 かんとく をしていた時 とき にドラフトで入 はい ってきた選手 せんしゅ 。(来月 らいげつ で)44歳 さい 。後 ご がないんだから、もうひと花 はな 、咲 さ かせてほしい」とコメントした[18] 。結局 けっきょく 好投 こうとう した試合 しあい は4月 がつ 8日 にち のオリックス戦 せん のみでそれ以外 いがい の3試合 しあい は5回 かい 持 も たずに降板 こうばん する不本意 ふほんい な結果 けっか となった。二 に 軍 ぐん 降格 こうかく 以降 いこう は一 いち 度 ど も一軍 いちぐん に復帰 ふっき できないままシーズンを終了 しゅうりょう した。4試合 しあい で0勝 しょう 2敗 はい 、防御 ぼうぎょ 率 りつ 5.29に終 お わり、10月2日 にち に戦力 せんりょく 外 がい 通告 つうこく を受 う けた[19] 。
なお、楽天 らくてん では「91 」という背番号 せばんごう を付 つ けていた。当時 とうじ は、この背番号 せばんごう を選 えら んだ理由 りゆう として、おいちょかぶ の一番 いちばん 強 つよ い目 め 「クッピン」に引 ひ っ掛 か けたことが挙 あ げられていた[20] 。しかし、下柳 しもやなぎ は後 のち に、阪神 はんしん 時代 じだい の2003年 ねん に一軍 いちぐん ヘッドコーチを務 つと めた星野 ほしの の盟友 めいゆう ・島野 しまの 育夫 いくお (2007年 ねん 死去 しきょ )が生前 せいぜん 最後 さいご に付 つ けていた背番号 せばんごう 「91」にちなんだことを告白 こくはく している[21] 。
楽天 らくてん 退団 たいだん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
2013年 ねん 2月 がつ 28日 にち に、「やれるだけやってケジメを付 つ ける」という決意 けつい の下 した に、ロサンゼルス・ドジャース のトライアウト に参加 さんか 、最終 さいしゅう テストにまで残 のこ ったが、合格 ごうかく には至 いた らず[22] [注 ちゅう 5] 、3月 がつ 20日 はつか に現役 げんえき 引退 いんたい を表明 ひょうめい した[23] 。その表明 ひょうめい では「現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご も野球 やきゅう に携 たずさ わることがしたい」との抱負 ほうふ を述 の べていた[23] [24] 。
現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
現役 げんえき 引退 いんたい の表明 ひょうめい から5日 にち 後 ご の3月 がつ 24日 にち からは、朝日放送 あさひほうそう の野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ へ転身 てんしん [注 ちゅう 6] 。阪神 はんしん よりパシフィック・リーグ球団 きゅうだん への在籍 ざいせき 期間 きかん が長 なが かったことから、阪神 はんしん 戦 せん 中継 ちゅうけい にとどまらず、オリックス・バファローズ の公式 こうしき 戦 せん やセ・パ交流 こうりゅう 戦 せん 中継 ちゅうけい でも解説 かいせつ を担当 たんとう する。また、朝日放送 あさひほうそう 以外 いがい の放送 ほうそう 局 きょく が制作 せいさく する番組 ばんぐみ にも、ゲストとして随時 ずいじ 出演 しゅつえん 。その一方 いっぽう で、出演 しゅつえん 番組 ばんぐみ やインタビューでは、週 しゅう 5〜6日 にち のペースで現役 げんえき 時代 じだい と同様 どうよう のトレーニングを続 つづ けていることをたびたび明 あ かしている[25] 。10月9日 にち には、自身 じしん 初 はつ の著書 ちょしょ にして、阪神 はんしん の現役 げんえき 時代 じだい に捕手 ほしゅ として下柳 しもやなぎ と「同級生 どうきゅうせい バッテリー」を組 く んだ矢野 やの 燿大 (当時 とうじ は朝日放送 あさひほうそう 野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ )との共著 きょうちょ 「気 き を込 こ める 虎 とら の成功 せいこう プロセス」がベ べ ースボ すぼ ール・マガジン社 るまがじんしゃ から発売 はつばい された。
なお、公式 こうしき ブログで現役 げんえき 引退 いんたい を表明 ひょうめい した際 さい には、現役 げんえき 復帰 ふっき の可能 かのう 性 せい があることを示唆 しさ [23] 。その後 ご のインタビューでも、「いったんユニフォームを脱 ぬ ぐ」と表現 ひょうげん することがあった[26] 。しかし、瓊浦高校 こうこう 野球 やきゅう 部 ぶ 時代 じだい の同級生 どうきゅうせい からの計 はか らいによって、2013年 ねん 12月1日 にち に同 どう 部 ぶ のグラウンドで「引退 いんたい 試合 しあい 」を挙行 きょこう した[27] 。
2014年 ねん には、野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ としての活動 かつどう を続 つづ けながら、1月 がつ 6日 にち から「スポニチアネックス」(『スポーツニッポン 』公式 こうしき サイト)で毎週 まいしゅう 月曜日 げつようび に「下柳 しもやなぎ 剛 つよし のシモネタ発見 はっけん 」というコラムを執筆 しっぴつ している[28] 。4月より『東京 とうきょう スポーツ 』月曜 げつよう 〜木曜 もくよう 紙面 しめん にて野球 やきゅう 人生 じんせい を振 ふ り返 かえ る連載 れんさい 「下柳 しもやなぎ 剛 つよし シモノハナシ」を連載 れんさい 中 ちゅう 。また、故郷 こきょう の長崎 ながさき 県内 けんない でも、ローカルタレントとしての活動 かつどう を始 はじ めている。
2015年 ねん には、プロ野球 やきゅう 経験 けいけん 者 しゃ による学生 がくせい 野球 やきゅう の指導 しどう に必要 ひつよう な学生 がくせい 野球 やきゅう 資格 しかく の回復 かいふく に向 む けて、プロ野球 やきゅう シーズン後 ご に研修 けんしゅう 会 かい を受講 じゅこう [29] 。2016年 ねん 2月 がつ 2日 にち 付 づけ で日本 にっぽん 学生 がくせい 野球 やきゅう 協会 きょうかい から資格 しかく 回復 かいふく の適性 てきせい 認定 にんてい を受 う けたことを機 き に、高校 こうこう 野球 やきゅう や大学 だいがく 野球 やきゅう を指導 しどう できるようになった[30] 。
その一方 いっぽう で、阪神 はんしん 時代 じだい のチームメイトだった金本 かなもと が一軍 いちぐん 監督 かんとく 、矢野 やの が一軍 いちぐん 作戦 さくせん 兼 けん バッテリーコーチとして同 どう 球団 きゅうだん に復帰 ふっき した2015年 ねん 末 まつ には、投手 とうしゅ コーチの候補 こうほ に挙 あ げられていた[31] 。上記 じょうき の事情 じじょう などから常勤 じょうきん でのコーチ就任 しゅうにん はひとまず見送 みおく られたが、2016年 ねん の春季 しゅんき キャンプでは、一軍 いちぐん 投手 とうしゅ 陣 じん 主体 しゅたい の「沖縄 おきなわ 組 ぐみ 」で臨時 りんじ 投手 とうしゅ コーチを務 つと めている[32] 。
2017年 ねん には、野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ ・タレントとしての活動 かつどう を続 つづ けながら、テレビ東京 てれびとうきょう 制作 せいさく の連続 れんぞく ドラマシリーズ『孤独 こどく のグルメ Season6 』第 だい 1話 わ (4月 がつ 8日 にち 放送 ほうそう )で俳優 はいゆう デビューを果 は たした。下柳 しもやなぎ の主 おも な活動 かつどう 拠点 きょてん である大阪 おおさか で第 だい 1話 わ のロケを実施 じっし したことや、下柳 しもやなぎ 自身 じしん がかねてから同 どう シリーズや松重 まつしげ 豊 ゆたか (主演 しゅえん ・井 い 之 の 頭 あたま 五郎 ごろう 役 やく )のファンであることによる[33] 。
選手 せんしゅ としての特徴 とくちょう [ 編集 へんしゅう ]
プロ入 い り当初 とうしょ は150キロを超 こ えるボールを投 な げられたが、制球 せいきゅう 力 りょく は不十分 ふじゅうぶん であり結果 けっか が出 で なかった[34] 。阪神 はんしん 時代 じだい は「のらりくらり投 とう 法 ほう 」とも称 しょう された緩急 かんきゅう をつけた投球 とうきゅう を行 おこな っていた[34] 。BS-i(現 げん :BS-TBS )『超 ちょう ・人 にん 』において、[35] 2006年度 ねんど の全 ぜん 投球 とうきゅう のうちストレートが8%[35] と解析 かいせき された軟投 なんとう 派 は にモデルチェンジしている。阪神 はんしん 時代 じだい 当時 とうじ 、球速 きゅうそく は度外視 どがいし して変化球 へんかきゅう をどれだけ打者 だしゃ 寄 よ りの位置 いち で曲 ま げるかに注力 ちゅうりょく していた[5] 。下柳 しもやなぎ は現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご に「球速 きゅうそく はまやかし」と主張 しゅちょう しており、球 たま が遅 おそ くとも活躍 かつやく している投手 とうしゅ がいる一方 いっぽう で球速 きゅうそく ばかり追 お い求 もと めて他 た のスキルを磨 みが くことを疎 おろ かにする投手 とうしゅ もいるとその理由 りゆう を説明 せつめい している[36] 。
ある時 とき グラブの隙間 すきま から見 み えたスライダーの握 にぎ りで球 たま 種 しゅ を特定 とくてい されたため、この反省 はんせい を活 い かして球 たま 種 しゅ に関 かか わらずシュートかフォークの握 にぎ りを行 おこな い、腕 うで の振 ふ り方 かた やボールの切 き り方 かた で変化 へんか させるよう投球 とうきゅう を改造 かいぞう した[5] 。
2022年 ねん 3月 がつ 25日 にち 公開 こうかい 分 ぶん の『フルタの方程式 ほうていしき 』で古田 ふるた 敦 あつし 也 は、軟投 なんとう 派 は に生 う まれ変 か わるまでの熱心 ねっしん な研究 けんきゅう を番組 ばんぐみ 内 ない で明 あ かした下柳 しもやなぎ を「こんな研究 けんきゅう 熱心 ねっしん な人 ひと に見 み えないよね」「ダイエー時代 じだい や日 にち ハム時代 じだい はもっと粗 あら い(人 ひと だった)」と評 ひょう している[5] 。
若手 わかて 時代 じだい の投 な げ込 こ みで力 ちから 加減 かげん を覚 おぼ えたためか、現役 げんえき 時代 じだい に目立 めだ った故障 こしょう はなかった[5] 。
対戦 たいせん 打者 だしゃ だった石井 いしい 琢朗 たくろう は、駆 か け引 ひ き上手 じょうず だった投手 とうしゅ に下柳 しもやなぎ の名前 なまえ を挙 あ げ、打 う つ気 き のない打者 だしゃ に平気 へいき でど真 ま ん中 なか を投 な げたり、打 う ち気 き の打者 だしゃ にはシュートを掛 か けてつまらせたり、相手 あいて の顔色 かおいろ を読 よ んで投 な げるタイプだったと語 かた っている[37] 。
鈴木 すずき 健 けん は2022年 ねん 1月 がつ 25日 にち 公開 こうかい 分 ぶん の『フルタの方程式 ほうていしき 』で最高 さいこう のシュート使 づか いとして下柳 しもやなぎ の名 な を出 だ しており、その理由 りゆう としてストライクかボールかというところでシュートを制球 せいきゅう して投 な げられることを挙 あ げている。真中 まなか 満 みつる は、死球 しきゅう を恐 おそ れずに内角 ないかく に投 な げる精神 せいしん 面 めん の強 つよ さも評価 ひょうか している[38] 。またこのシュートを試合 しあい で初 はじ めて投 な げたのが前述 ぜんじゅつ のイチローの連続 れんぞく 無 む 三振 さんしん を止 と めた打席 だせき である[5] 。
現役 げんえき 時代 じだい はウエイトトレーニングや格闘技 かくとうぎ などで肉体 にくたい や技術 ぎじゅつ を養 やしな っていたが、ウエイトトレーニング嫌 ぎら いの張本 ちょうほん 勲 くん からはその練習 れんしゅう 方法 ほうほう をよく批判 ひはん されていた。股関節 こかんせつ の動 うご きはキックボクシングのトレーニングで養 やしな い、投手 とうしゅ としての動 うご きはボクシングの練習 れんしゅう で培 つちか った[36] 。
この選手 せんしゅ の人物 じんぶつ 像 ぞう に関 かん する文献 ぶんけん や情報 じょうほう 源 げん が必要 ひつよう です。 出典 しゅってん を明記 めいき する ためにご協力 きょうりょく をお願 ねが いします。(2011年 ねん 11月 )
プロサッカー選手 せんしゅ (DF )で、2018 FIFAワールドカップ 終了 しゅうりょう 後 ご からサッカー日本 にっぽん 代表 だいひょう のキャプテンを務 つと める吉田 よしだ 麻也 まや (下柳 しもやなぎ と同 おな じ長崎 ながさき 県 けん 出身 しゅっしん )は、親戚 しんせき (下柳 しもやなぎ の義兄 ぎけい のいとこ)[39] 。
好物 こうぶつ は芋 いも 焼酎 しょうちゅう のお湯 ゆ 割 わ りで、特 とく に香 かお りの強 つよ いものが好 この みだという[注 ちゅう 7] 。
生家 せいか はカトリック を信仰 しんこう しており、中学 ちゅうがく 時代 じだい まで日曜 にちよう 学校 がっこう へ通 とお っていた。小学校 しょうがっこう 6年 ねん の卒業 そつぎょう 間近 まぢか の下柳 しもやなぎ 少年 しょうねん は、1981年 ねん 2月 がつ 23日 にち にローマ教皇 きょうこう としては初 はじ めて来日 らいにち したヨハネ・パウロ2世 せい が地元 じもと の教会 きょうかい まで来 き たときに頭 あたま を撫 な でてもらった。本人 ほんにん 曰 いわ く、「おそらくローマ教皇 きょうこう に頭 あたま を撫 な でてもらったプロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ はメジャーにもいない」とのこと
[40] 。
シャイな性格 せいかく でヒーローインタビューを受 う けるのを拒否 きょひ することが多 おお く、自分 じぶん が呼 よ ばれそうなのを察知 さっち すると、「今日 きょう は何 なに もない、お疲 つか れっ!」とだけ記者 きしゃ にコメント [要 よう 出典 しゅってん ] したり、金本 かなもと に「ファンの皆 みな さんによろしくお伝 つた え下 くだ さい」と伝言 でんごん を残 のこ し、早々 そうそう とロッカールームに引 ひ き揚 あ げてしまうことが多 おお い。それを阻止 そし するため、矢野 やの 燿大 がベンチ裏 うら で待 ま ち伏 ぶ せして、無理矢理 むりやり お立 た ち台 だい に連 つ れて行 い ったこともある[注 ちゅう 8] 。本人 ほんにん 曰 いわ く「人見知 ひとみし り する性格 せいかく 」で「古 ふる い友人 ゆうじん でも半年 はんとし 位 い 会 あ ってないと、会 あ ったときに何 なに を話 はな していいかわからなくなってしまう」ため、どうしても寡黙 かもく になってしまうのだという[41] 。
飄々 ひょうひょう とした淡白 たんぱく な性格 せいかく で、新人 しんじん 時代 じだい の選手 せんしゅ 名鑑 めいかん には「思 おも い出 で 」の項目 こうもく に「あまり嬉 うれ しい思 おも い出 で も悔 くや しい思 おも い出 で もない」と書 か いている。
風呂 ふろ には数日 すうじつ 入 はい らなくても平気 へいき で、ダイエー時代 じだい の同僚 どうりょう だった潔癖 けっぺき 症 しょう の内山 うちやま 智之 としゆき とは仲 なか が悪 わる かった。これは前述 ぜんじゅつ のように「投手 とうしゅ の肩 かた は消耗 しょうもう 品 ひん 」が口癖 くちぐせ であった権藤 ごんどう コーチから例外 れいがい 的 てき に「あいつはいくら放 はな っても壊 こわ れないから」ということで毎日 まいにち のようにロングリリーフ をさせられ、家 いえ に帰 かえ ったら疲 つか れ果 は てて何 なに もする気 き がなくなったことが由来 ゆらい である。髭 ひげ もめったに剃 そ らないが、これは髭 ひげ を剃 そ るとカミソリ負 ま けを起 お こすからである[42] 。吉井 よしい 理 り 人 じん はその風貌 ふうぼう を「変 か わった奴 やつ っちゃな」とテレビ解説 かいせつ の席 せき で評 ひょう している。
上述 じょうじゅつ のように下柳 しもやなぎ が先発 せんぱつ する試合 しあい は大抵 たいてい リリーフ投手 とうしゅ も登板 とうばん するため、藤川 ふじかわ 球児 きゅうじ からは「仕事 しごと をくれるから」という理由 りゆう で「社長 しゃちょう 」と呼 よ ばれている[43] 。
阪神 はんしん への移籍 いせき 後 ご からは、オフシーズン中 ちゅう にたびたびテレビ番組 ばんぐみ へ出演 しゅつえん 。ひょうきんな一 いち 面 めん もあり、飲 の み会 かい では伊良部 いらぶ 秀輝 ひでき や広澤 ひろさわ 克実 かつみ とトリオ漫談 まんだん をすることもあったという。カラオケ も得意 とくい としており、金村 かなむら 義明 よしあき 曰 いわ く「Mr.Children を歌 うた わせたら絶品 ぜっぴん 」。本人 ほんにん も「(カラオケでは)マイクを離 はな さないタイプ」と語 かた っている[41] 。
長 なが らく独身 どくしん であったが、2010年 ねん 6月 がつ 4日 にち に一般人 いっぱんじん の女性 じょせい と結婚 けっこん したことを同 どう 14日 にち に自身 じしん の公式 こうしき サイト上 じょう で発表 はっぴょう した[44] 。島田 しまだ 紳助 しんすけ によると、島崎 しまざき 和歌子 わかこ とお見合 みあ い をしたことがあったが破談 はだん となったらしい。
日本 にほん ハム時代 じだい からダンカン や松村 まつむら 邦洋 くにひろ らがいる中野 なかの 猛虎 もうこ 会 かい の会員 かいいん だった。また、高山 たかやま 善 よし 廣 ひろ (プロレスラー )、桜庭 さくらば 和志 かずし (総合 そうごう 格闘 かくとう 家 か )、根本 ねもと 要 かなめ (スターダスト・レビュー )、渡辺 わたなべ 美里 みさと (歌手 かしゅ )などとの親交 しんこう が深 ふか い。
2003年 ねん ・2005年 ねん の優勝 ゆうしょう 時 じ のビール掛 か けでは、オープンフィンガーグローブ を装着 そうちゃく 。藤本 ふじもと 敦士 あつし などの後輩 こうはい 選手 せんしゅ に、腕 うで ひしぎ十 じゅう 字 じ 固 かた めを仕掛 しか けていた。2006年 ねん 12月31日 にち に催 もよお された「Fields K-1 Premium2006 Dynamite!! 」ではオレンジ色 しょく の胴衣 どうい を纏 まつわ ってタイガーマスクを被 こうむ り、桜庭 さくらば と共 とも に登場 とうじょう 。2人 ふたり とも右 みぎ 脚 あし から踏 ふ み出 だ すというパフォーマンスを披露 ひろう した後 のち に、試合 しあい で桜庭 さくらば のセコンド に付 つ いた。翌 よく 2007年 ねん の大晦日 おおみそか も前年 ぜんねん 同様 どうよう にタイガーマスクを被 こうむ って桜庭 さくらば と共 とも に登場 とうじょう し、セコンドに付 つ いた。
阪神 はんしん 時代 じだい には、「死 し に番 ばん 」として日本人 にっぽんじん 選手 せんしゅ に敬遠 けいえん されがちな「42」を背番号 せばんごう に選 えら んでいた。ダンカンによれば、ダイエー・日本 にほん ハム時代 じだい の背番号 せばんごう でもある「24」という数字 すうじ に対 たい して、強 つよ いこだわりがあるという[注 ちゅう 9] 。阪神 はんしん での背番号 せばんごう に「42」を選 えら んだのは、生 は え抜 ぬ きの看板 かんばん 選手 せんしゅ であった桧山 ひやま 進 すすむ 次郎 じろう が「24」を付 つ けていた関係 かんけい で、数字 すうじ を逆 ぎゃく にしたからとされる[42] 。ダイエー時代 じだい には、背番号 せばんごう の「24」にちなんで、当時 とうじ JR九州 きゅうしゅう が発売 はつばい していた「二 に 十 じゅう 四 よん 茶 ちゃ 」のCMにも出演 しゅつえん していた。
阪神 はんしん 時代 じだい の一軍 いちぐん 投手 とうしゅ コーチだった久保 くぼ 康生 やすお は「あの投球 とうきゅう 術 じゅつ を見 み て、感 かん じて学 まな んでほしい」と、下柳 しもやなぎ を「教材 きょうざい 」として指定 してい していた。榎田 えのきだ 大樹 だいき や福原 ふくはら 忍 しのぶ は「下柳 しもやなぎ さんがいたから」などと感謝 かんしゃ の意 い を示 しめ している程 ほど で、「教材 きょうざい 」が抜 ぬ けた阪神 はんしん の穴 あな は大 おお きかったとも言 い われた[45] 。
阪神 はんしん 時代 じだい 同僚 どうりょう だったライアン・ボーグルソン は「フォームや変化球 へんかきゅう の握 にぎ り、配 はい 球 だま 。『シモ』とは色々 いろいろ なことを話 はな した。本当 ほんとう に感謝 かんしゃ している。彼 かれ に相手 あいて をねじ伏 ふ せる豪速球 ごうそっきゅう はなかった。でも決 けっ して逃 に げない。調子 ちょうし が悪 わる くてもこれが俺 おれ の球 たま だ。打 う ってみろってベース上 じょう に投 な げ込 こ む」打者 だしゃ に立 た ち向 む かう姿勢 しせい を学 まな んだと述 の べている[46] 。
阪神 はんしん 時代 じだい のチームメイトで同 どう 年齢 ねんれい の金本 かなもと ・矢野 やの とは、現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご も、朝日放送 あさひほうそう の野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ として阪神 はんしん 戦 せん 中継 ちゅうけい ・番組 ばんぐみ ・イベントでたびたび共演 きょうえん 。2015年 ねん 6月28日 にち の阪神 はんしん 対 たい 横浜 よこはま 戦 せん では、阪神 はんしん の球団 きゅうだん 創設 そうせつ 80周年 しゅうねん 記念 きねん 企画 きかく として、下柳 しもやなぎ - 矢野 やの のバッテリーによるユニフォーム姿 すがた での「ファーストピッチ」が甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう で実現 じつげん した[47] 。臨時 りんじ 投手 とうしゅ コーチを務 つと めた2016年 ねん の阪神 はんしん 一軍 いちぐん 春季 しゅんき キャンプでは、紅白 こうはく 戦 せん (2月 がつ 11日 にち )の前 まえ に、ファンサービスを兼 か ねて一軍 いちぐん 監督 かんとく の金本 かなもと と対決 たいけつ 。下柳 しもやなぎ は、「3打席 だせき 限定 げんてい 」「自身 じしん が金本 かなもと を無 む 安打 あんだ に抑 おさ えれば投手 とうしゅ 陣 じん の試合 しあい 後 ご 練習 れんしゅう 免除 めんじょ 」「金本 かなもと が1本 ほん でも安打 あんだ を放 はな てば野手 やしゅ 陣 じん の試合 しあい 後 ご 練習 れんしゅう 免除 めんじょ 」という条件 じょうけん で、一軍 いちぐん コーチの矢野 やの と再 ふたた びバッテリーを組 く んだ(結果 けっか は金本 かなもと の3打数 だすう 1安打 あんだ )[48] 。下柳 しもやなぎ 自身 じしん は、2月 がつ 14日 にち 放送 ほうそう の『サンデースポーツ 』(NHK総合 そうごう )へ金本 かなもと と共 とも に出演 しゅつえん した際 さい に、「あの勝負 しょうぶ で左肩 ひだりかた を痛 いた めたため、痛 いた み止 ど めの注射 ちゅうしゃ を3本 ほん も打 う った」という後日 ごじつ 談 だん を明 あ かしている[49] 。
日本 にほん ハム時代 じだい 、イチローの連続 れんぞく 打席 だせき 無 む 三振 さんしん 記録 きろく を止 と めた球 たま については当時 とうじ の取材 しゅざい に対 たい し「ストレートだけど、指 ゆび に引 ひ っかかった」と主張 しゅちょう していたが、2019年 ねん の『戦 たたか え!スポーツ内 ない 閣 かく 』(MBSラジオ )や2021年 ねん の『球 たま 辞 じ 苑 えん 』(NHK BS1 )[50] の取材 しゅざい に対 たい しては「本当 ほんとう はその年 とし に投 な げ始 はじ めたシュートだった。それ以後 いご の対戦 たいせん も考 かんが えて嘘 うそ をついた」と述 の べている。
一時期 いちじき チームメイトであった奈良原 ならはら 浩 ひろし とは生年月日 せいねんがっぴ が同一 どういつ 。当然 とうぜん 星座 せいざ 占 うらな いでも奈良原 ならはら と下柳 しもやなぎ は同 おな じ結果 けっか が出 で るため、運勢 うんせい が良 よ い日 ひ はその話題 わだい で盛 も り上 あ がっていた。ただ誕生 たんじょう 日 び が同 おな じと言 い う縁 えん だけではなく、下柳 しもやなぎ 自体 じたい 引退 いんたい 後 ご も奈良原 ならはら を「伝説 でんせつ のショート」と位置付 いちづ けている[3] 。
かつてMLBのコロラド・ロッキーズからオファーがあった事 こと を自身 じしん のYouTubeチャンネルで語 かた っている。
工夫 くふう を凝 こ らした自主 じしゅ トレーニング[ 編集 へんしゅう ]
「自分 じぶん で考 かんが えて練習 れんしゅう したい」という意向 いこう が強 つよ かったことから、ダイエーでの若手 わかて 時代 じだい には、兄 あに が所属 しょぞく していた自衛隊 じえいたい の那覇 なは 基地 きち でトレーニングを実施 じっし [21] 。日本 にほん ハム以降 いこう の現役 げんえき 時代 じだい には、シーズン終了 しゅうりょう 直後 ちょくご の秋季 しゅうき キャンプへ参加 さんか せず、他 た のベテラン選手 せんしゅ に先 さき んじて離島 りとう での自主 じしゅ トレーニングに励 はげ んできた。ちなみに、離島 りとう へ向 む かう前 まえ には、親友 しんゆう の桜 さくら 庭 にわ などと共 とも に髙田道場 どうじょう で総合 そうごう 格闘技 かくとうぎ 式 しき のトレーニングへ参加 さんか 。日本 にほん ハム時代 じだい には、岡部 おかべ 哲也 てつや の指導 しどう でノルディックスキー 式 しき のトレーニングに臨 のぞ んだこと[51] や、春季 しゅんき キャンプ中 ちゅう に練習 れんしゅう 前 まえ の準備 じゅんび 運動 うんどう (アップ)へ参加 さんか していた桜庭 さくらば と共 とも に50mを50回 かい 走 はし ったこともある[52] 。
阪神 はんしん への移籍 いせき を機 き に、日本 にほん ハム時代 じだい から面識 めんしき のあった福島大学 ふくしまだいがく の白石 しらいし 豊 ゆたか 教授 きょうじゅ (スポーツ・メンタル・トレーニング専攻 せんこう )からメンタル・コントロールの方法 ほうほう を伝授 でんじゅ 。2003年 ねん の2桁 けた 勝利 しょうり や、2005年 ねん の史上 しじょう 最年長 さいねんちょう 最多 さいた 勝 しょう 記録 きろく などにつなげた。2004年 ねん からは、鈴木 すずき 久嗣 ひさつぐ による指導 しどう の下 した に、11月から春季 しゅんき キャンプ直前 ちょくぜん までの3ヶ月 かげつ 間 あいだ にわたって沖縄 おきなわ 本島 ほんとう や石垣島 いしがきじま で陸上 りくじょう 競技 きょうぎ (ハードル ややり投 とう など)やサイクリング のトレーニングに挑戦 ちょうせん 。2007年 ねん 以降 いこう は、奄美 あまみ 大島 おおしま に腰 こし を据 す えながら、自主 じしゅ トレーニングに取 と り組 く んでいた。その一方 いっぽう で、加圧 かあつ トレーニング の指導 しどう 資格 しかく を所持 しょじ 。金本 かなもと が右肩 みぎかた を痛 いた めた2010年 ねん には、金本 かなもと に加圧 かあつ トレーニングを指導 しどう している。ちなみに、下柳 しもやなぎ は自主 じしゅ トレーニングが縁 えん で、奄美 あまみ 大島 おおしま 観光 かんこう 物産 ぶっさん 協会 きょうかい から奄美 あまみ 観光 かんこう 大使 たいし に任命 にんめい 。しかし、現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご の2017年 ねん 3月 がつ に『朝 あさ だ!生 なま です旅 たび サラダ 』(朝日放送 あさひほうそう テレビ制作 せいさく )のロケで同島 どうとう を訪 おとず れるまでは、島内 とうない を観光 かんこう した経験 けいけん がなかったという[53] 。
阪神 はんしん 時代 じだい から下柳 しもやなぎ のグラブに刺繍 ししゅう されていた「前後 ぜんご 際 ぎわ 断 だん 」という4文字 もじ は、下柳 しもやなぎ が白石 しろいし の勧 すす めで読 よ んでいた「不動 ふどう 智 さとし 神妙 しんみょう 録 ろく 」(沢庵 たくあん 宗彭 そうほう )から引用 いんよう した「座右 ざゆう の銘 めい 」である。下柳 しもやなぎ は、同書 どうしょ の現代 げんだい 語 ご 訳 やく を通 つう じて、「もう終 お わった過去 かこ (前 まえ )も未来 みらい (後 ご )も気 き に病 や んだり不安 ふあん に思 おも ったりしたら、その時点 じてん から集中 しゅうちゅう できなくなってしまう。そうなれば、良 よ いパフォーマンスを発揮 はっき することはできない。結局 けっきょく 、ピッチングも1球 きゅう 1球 きゅう の積 つ み重 かさ ねである」と解釈 かいしゃく 。グラブに「前後 ぜんご 際 ぎわ 断 だん 」の刺繍 ししゅう を入 い れるようメーカーに依頼 いらい したうえで、ピンチの場面 ばめん でその刺繍 ししゅう を見 み ることによって、心 しん を落 お ち着 つ かせていた。
田中 たなか 秀 しげる 太 ふとし をめぐる珍 ちん プレー[ 編集 へんしゅう ]
阪神 はんしん 投手 とうしゅ 時代 じだい の2007年 ねん 10月1日 にち に先発 せんぱつ で登板 とうばん した対 たい 横浜 よこはま 戦 せん (横浜 よこはま )の5回 かい 裏 うら には、遊 ゆう 撃 げき を守 まも っていた秀 しゅう 太 ふとし (田中 たなか 秀 しげる 太 ふとし )の度重 たびかさ なるミスから、グラブを地面 じめん に叩 たた き付 つ ける事態 じたい に至 いた った。このシーンは、「伝説 でんせつ の珍 ちん プレー」「秀 しゅう 太 ふとし 事件 じけん 」として、現在 げんざい でもメディアやインターネットでたびたび取 と り上 あ げられている[54] [55] [56] 。
この試合 しあい は阪神 はんしん のクライマックスシリーズ(CS) 進出 しんしゅつ がかかっていて、先発 せんぱつ を任 まか された下柳 しもやなぎ にも、3年 ねん 連続 れんぞく の2桁 けた 勝利 しょうり がかかっていた。その一方 いっぽう で、当時 とうじ 「不動 ふどう の正 せい 遊撃手 ゆうげきしゅ 」だった鳥谷 とりたに 敬 たかし が戦線 せんせん を離脱 りだつ していたため、遊撃手 ゆうげきしゅ には二 に 軍 ぐん から昇格 しょうかく したばかりの秀 しゅう 太 ふとし をスタメンへ4年 ねん 振 ふ りに起用 きよう した。
阪神 はんしん は、5点 てん のリードで迎 むか えた5回 かい 裏 うら 1死 し 1塁 るい の局面 きょくめん で、9番 ばん 打者 だしゃ の呉 ご 本 もと 成徳 しげのり (5回 かい 表 ひょう の2死 し から救援 きゅうえん で登板 とうばん していた横山 よこやま 道哉 みちや の代打 だいだ )が内野 ないや に放 はな ったゴロを二塁手 にるいしゅ の関本 せきもと 健太郎 けんたろう が処理 しょり 。この処理 しょり に伴 ともな うベースカバーで二塁 にるい に入 はい った秀 しゅう 太 ふとし は、通常 つうじょう のプレーであれば「アウト」と判定 はんてい されるタイミングで関本 せきもと からの送球 そうきゅう を捕 と っていた。しかし、秀 しゅう 太 ふとし の足 あし が捕 と 球 たま の前 まえ に二塁 にるい からわずかに離 はな れていたため、二塁 にるい の塁審 るいしん は一塁 いちるい 走者 そうしゃ による二塁 にるい への到達 とうたつ を「セーフ」と判定 はんてい 。さらに秀 しゅう 太 ふとし は、次 じ 打者 だしゃ (1番 ばん )・仁志 にし 敏久 としひさ のゴロを弾 ひ いたことによって、一軍 いちぐん 公式 こうしき 戦 せん では5年 ねん 振 ふ りの失策 しっさく を記録 きろく した。仁志 にし への投球 とうきゅう でダブルプレー(併殺 へいさつ ) を狙 ねら っていた下柳 しもやなぎ は、この失策 しっさく が1死 し 満塁 まんるい のピンチを招 まね いたことに激怒 げきど 。マウンド上 じょう でしゃがみ込 こ むと、自分 じぶん のグラブをマウンド付近 ふきん の地面 じめん へ叩 たた き付 つ けた。
秀 しゅう 太 ふとし は次 じ 打者 だしゃ (2番 ばん )・相川 あいかわ 亮二 りょうじ が放 はな った平凡 へいぼん なゴロを丁寧 ていねい に捕 と 球 たま したものの、このプレーが併殺 へいさつ 崩 くず れを招 まね いたため、横浜 よこはま に1点 てん が入 はい った。もっとも、下柳 しもやなぎ が5回 かい 裏 うら までに許 ゆる した失点 しってん はこの1点 てん のみで、公式 こうしき 記録 きろく 上 じょう は本人 ほんにん に自責 じせき 点 てん が付 つ かなかった。なお、試合 しあい 自体 じたい は阪神 はんしん が9対 たい 7のスコアで勝利 しょうり 。チームがこの勝利 しょうり でCSへの進出 しんしゅつ を決 き めたほか、下柳 しもやなぎ は自責 じせき 点 てん 0のまま6回 かい 表 ひょう の途中 とちゅう まで投 な げた末 すえ に、39歳 さい にして3年 ねん 連続 れんぞく の2桁 けた 勝利 しょうり (10勝 しょう )を達成 たっせい した。
下柳 しもやなぎ による回想 かいそう [ 編集 へんしゅう ]
下柳 しもやなぎ は上記 じょうき の行為 こうい について、現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご に「(ベースカバーで記録 きろく に出 で ないミスを犯 おか した)秀 しゅう 太 ふとし に捕 と りやすいゴロを打 う たせたのに、失策 しっさく でピンチを広 ひろ げられたことから、『俺 おれ の親心 おやごころ を無駄 むだ にしやがって』という気持 きも ちが真 ま っ先 さき に浮 う かんだ。また、試合 しあい 前 まえ からチームの雰囲気 ふんいき がどこか緩 ゆる んでいたように感 かん じられたことに、1試合 しあい ともおろそかにできないプロ(野球 やきゅう 選手 せんしゅ )として苛立 いらだ ちを感 かん じていた。でも、感情 かんじょう を爆発 ばくはつ させることが気持 きも ちを鎮 しず めるうえで有効 ゆうこう であることを(前述 ぜんじゅつ のメンタルトレーニングを通 つう じて)知 し っていたから、内心 ないしん は意外 いがい と冷静 れいせい だった。そこで、怒 いか りを次 つぎ のプレー(相川 あいかわ との対戦 たいせん )に引 ひ きずらないため、意図 いと 的 てき にグラブを叩 たた き付 つ けた」と述懐 じゅっかい している[54] 。もっとも、この試合 しあい でベンチに入 はい りながらスタメンから外 はず れていた赤星 あかほし 憲 けん 広 ひろ (当時 とうじ のチームメイト)が5回 かい 裏 うら の終了 しゅうりょう 後 ご にベンチの裏 うら で下柳 しもやなぎ に声 こえ をかけた時 とき には、「(自分 じぶん のグラブをグラウンドへとっさに叩 たた き付 つ けたことを)後悔 こうかい している」と話 はな している[57] 。
現役 げんえき 時代 じだい の下柳 しもやなぎ は、試合 しあい を終 お えるたびに自分 じぶん のグラブを必 かなら ず綺麗 きれい に磨 みが くほど、野球 やきゅう 道具 どうぐ を大切 たいせつ に扱 あつか っていた。その一方 いっぽう で、味方 みかた 野手 やしゅ の失策 しっさく や相手 あいて 打者 だしゃ の安打 あんだ に対 たい する怒 いか りから、他 た の試合 しあい でもグラブを地面 じめん へ叩 たた き付 つ けていた。この行為 こうい をめぐってファンから賛否 さんぴ 両論 りょうろん が湧 わ き起 お こったり、球界 きゅうかい OBからの叱責 しっせき を受 う けたりしたこともあったため、「お子様 こさま は真似 まね しないように。道具 どうぐ は大事 だいじ にしましょう」 と語 かた っている[26] 。
秀 しゅう 太 ふとし は阪神 はんしん 一筋 ひとすじ の現役 げんえき 生活 せいかつ を2009年 ねん 限 かぎ りで終 お えると、出身 しゅっしん 地 ち である九州 きゅうしゅう 地区 ちく のアマスカウトとして、九州 きゅうしゅう に縁 えん のある有望 ゆうぼう 選手 せんしゅ の入団 にゅうだん に尽力 じんりょく (当該 とうがい 項 こう で詳述 しょうじゅつ )。その一人 ひとり であった竹安 たけやす 大知 たいち (2015年 ねん NPBドラフト会議 かいぎ での3位 い 指名 しめい を受 う けて入団 にゅうだん した右 みぎ 投手 とうしゅ )は、入団 にゅうだん 契約 けいやく を結 むす んだ後 のち に参加 さんか した「新人 しんじん 選手 せんしゅ 入団 にゅうだん 発表 はっぴょう 会 かい 」で、同席 どうせき した秀 しゅう 太 ふとし の前 まえ で「担当 たんとう スカウトの田中 たなか 秀 しげる 太 ふとし さんから言 い われた『グラブは投 な げるものじゃない、大切 たいせつ にしろ』 という教 おし えを守 まも ります!」と発言 はつげん 。居並 いなら ぶ記者 きしゃ の笑 わら いを誘 さそ った[58] 。
2016年 ねん 阪神 はんしん 一軍 いちぐん 春季 しゅんき キャンプにおける金本 かなもと との対決 たいけつ (前述 ぜんじゅつ )直前 ちょくぜん の練習 れんしゅう には、現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご も九州 きゅうしゅう 担当 たんとう のスカウトとして阪神 はんしん に籍 せき を置 お いていた秀 しゅう 太 ふとし がユニフォーム姿 すがた で登場 とうじょう 。遊 ゆう 撃 げき の守備 しゅび に就 つ いた秀 しゅう 太 ふとし がノックの打球 だきゅう を弾 ひ いたことをきっかけに、下柳 しもやなぎ がグラブを地面 じめん へ叩 たた き付 つ けることで、場内 じょうない の観衆 かんしゅう を沸 わ かせた[59] 。
なお、秀 しゅう 太 ふとし は2021年 ねん シーズンから、本名 ほんみょう の「田中 たなか 秀 しげる 太 ふとし 」名義 めいぎ で二 に 軍 ぐん の内野 ないや 守備 しゅび 走塁 そうるい コーチとして現場 げんば に復帰 ふっき 。2020年 ねん 11月13日 にち に開 ひら かれた就任 しゅうにん 記者 きしゃ 会見 かいけん では、一軍 いちぐん のチーム失策 しっさく 数 すう が同年 どうねん まで2年 ねん 続 つづ けてNPBの全 ぜん 12球団 きゅうだん で最 もっと も多 おお かったことを背景 はいけい に、会見 かいけん へ同席 どうせき していた谷本 たにもと 修 おさむ (当時 とうじ の球団 きゅうだん 副 ふく 社長 しゃちょう 兼 けん 本部 ほんぶ 長 ちょう )が「(一軍 いちぐん の)控 ひか えの内野 ないや 手 しゅ は、ピッチャーにグラブを投 な げ付 つ けられる くらいの危機 きき 的 てき なレベルにある」との表現 ひょうげん で上記 じょうき のシーンを引 ひ き合 あ いに出 だ していた
[60] 。もっとも、一軍 いちぐん は秀 しゅう 太 ふとし のコーチ就任 しゅうにん 後 ご も、2023年 ねん まで6年 ねん 続 つづ けてレギュラーシーズン全体 ぜんたい で12球団 きゅうだん 最多 さいた の失策 しっさく を記録 きろく している。
スポーツ界 かい 随一 ずいいち の愛犬 あいけん 家 か [ 編集 へんしゅう ]
「スポーツ界 かい 随一 ずいいち の愛犬 あいけん 家 か 」として有名 ゆうめい 。阪神 はんしん での現役 げんえき 時代 じだい から、出演 しゅつえん 番組 ばんぐみ (フジテレビ 『ジャンクSPORTS 』など)やインタビューでは、折 おり に触 ふ れて愛犬 あいけん の話題 わだい を出 だ している。
東京 とうきょう に住 す んでいた日本 にほん ハム時代 じだい から、「ラガー」(黒 くろ のラブラドール・レトリーバー )と「ルビー」という名前 なまえ の犬 いぬ を飼育 しいく 。「ラガー」という名前 なまえ の由来 ゆらい は、夏 なつ の暑 あつ い日 ひ に出会 であ った際 さい に、たまたまキリンラガービール が飲 の みたかったことにあるという。やがて下柳 しもやなぎ は、自主 じしゅ トレーニング地 ち ・キャンプ地 ち ・馴染 なじ みの飲 の み屋 や へ同行 どうこう させたり、グラブに顔 かお の刺繍 ししゅう を入 い れたりするほど「ラガー」を溺愛 できあい 。2003年 ねん に阪神 はんしん への移籍 いせき が決 き まった直後 ちょくご には、飼育 しいく の環境 かんきょう が整 ととの わなかったことから、2005年 ねん に関西 かんさい で新居 しんきょ を建築 けんちく するまで都内 とない 在住 ざいじゅう の知人 ちじん に「ラガー」を預 あづ けていた。2014年 ねん 2月 がつ 22日 にち に朝日放送 あさひほうそう で放送 ほうそう された特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 『ペットの感謝 かんしゃ 状 じょう 』では、ゲストで出演 しゅつえん した下柳 しもやなぎ の証言 しょうげん や再現 さいげん VTRを交 まじ えながら、以上 いじょう のエピソードを紹介 しょうかい している。
独身 どくしん だった2007年 ねん には、「ラガー」「ルビー」以外 いがい にも、「ラガー」の子 こ どもを9匹 ひき 飼育 しいく 。「ラガー」と同 おな じく、ビールの銘柄 めいがら にちなんで、「バド 」「ミラー 」「コロナ 」「ギネス 」「ヒナノ 」「レオ 」「オリオン 」「チンタオ 」「ホープ 」という名前 なまえ を付 つ けている[61] 。同年 どうねん 末 まつ のFA宣言 せんげん に端 はし を発 はっ した阪神 はんしん および横浜 よこはま との交渉 こうしょう では、両 りょう 球団 きゅうだん が競 きそ い合 あ いながら「ラガー」の待遇 たいぐう (遠征 えんせい の際 さい の世話 せわ など)に関 かん する条件 じょうけん ばかり提示 ていじ したため、下柳 しもやなぎ 曰 いわ く「契約 けいやく 交渉 こうしょう というよりラガー君 くん 争奪 そうだつ 戦 せん だった」とされる(『ジャンクSPORTS』に出演 しゅつえん した際 さい の発言 はつげん より)。その結果 けっか 、阪神 はんしん との再 さい 契約 けいやく では、「ラガー」の待遇 たいぐう に関 かん する条項 じょうこう が契約 けいやく に盛 も り込 こ まれた。
ちなみに下柳 しもやなぎ は、以上 いじょう の交渉 こうしょう を代理人 だいりにん に任 まか せる一方 いっぽう で、自主 じしゅ トレーニング先 さき を石垣島 いしがきじま から奄美 あまみ 大島 おおしま に変更 へんこう した。下柳 しもやなぎ は現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご に、「2006年 ねん のオフシーズンに『ラガー』を連 つ れて石垣島 いしがきじま へ向 む かったところ、乗 の っていた飛行機 ひこうき の貨物 かもつ 室 しつ から『ラガー』の鳴 な き声 ごえ が自分 じぶん の座席 ざせき にまで聞 き こえてきたので、同島 どうとう へ到着 とうちゃく する前 まえ に『来年 らいねん (2007年 ねん )は(自主 じしゅ トレーニングの)場所 ばしょ を選 えら び直 なお さなければならない』と思 おも った。温暖 おんだん で本格 ほんかく 的 てき な陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 場 じょう や野球 やきゅう 場 じょう がある奄美 あまみ 大島 おおしま なら、船 ふね で12時 じ 間 あいだ ほど移動 いどう すれば到着 とうちゃく するので、『ラガー』を同行 どうこう させても怖 こわ がらない」と述懐 じゅっかい している[62] 。
結婚 けっこん 後 ご の2012年 ねん に東北 とうほく 楽天 らくてん で現役 げんえき を引退 いんたい してからも、関西 かんさい の自宅 じたく で引 ひ き続 つづ き「ラガー」を飼育 しいく 。しかし、以前 いぜん に比 くら べて食欲 しょくよく が落 お ちるなど、下柳 しもやなぎ の現役 げんえき 引退 いんたい は「ラガー」の体調 たいちょう にも影響 えいきょう を及 およ ぼした。結局 けっきょく 、『ラガー』は2013年 ねん 7月 がつ 14日 にち に、自宅 じたく のソファーでひっそりと永眠 えいみん 。「ラガー」の最期 さいご を看取 みと れなかったことを気 き に病 や んだ下柳 しもやなぎ は、『ペットの感謝 かんしゃ 状 じょう 』のスタジオ収録 しゅうろく 中 ちゅう に、「芸能 げいのう 界 かい 屈指 くっし の愛犬 あいけん 家 か 」として知 し られる杉本 すぎもと 彩 あや ・関根 せきね 勤 つとむ ・渡辺 わたなべ 正行 まさゆき の前 まえ で自筆 じひつ による「ラガーへの感謝 かんしゃ 状 じょう 」を涙 なみだ ながらに朗読 ろうどく した[63] 。
2014年 ねん 10月 がつ 、朝日放送 あさひほうそう 『ペットの王国 おうこく ワンだランド 』に出演 しゅつえん 、『バド』、新 あら たに飼 か い始 はじ めたスタンダードプードルの雌 めす 『ムー』との生活 せいかつ を紹介 しょうかい した。
その一方 いっぽう で、阪神 はんしん での現役 げんえき 時代 じだい から、聴導犬 ちょうどうけん 育成 いくせい への支援 しえん を目的 もくてき にチャリティ活動 かつどう を展開 てんかい 。自身 じしん およびプロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ の有志 ゆうし が提供 ていきょう した野球 やきゅう 道具 どうぐ やT てぃー シャツのオークション を公式 こうしき サイトで主催 しゅさい した後 のち に、収益 しゅうえき 金 きん を聴導犬 ちょうどうけん 育成 いくせい 協会 きょうかい (地元 じもと ・長崎 ながさき 県 けん で活動 かつどう するNPO法人 ほうじん )へ寄付 きふ した。日本 にっぽん 聴導犬 ちょうどうけん 協会 きょうかい では、公式 こうしき サイトの「応援 おうえん サイトとリンク集 しゅう 」に下柳 しもやなぎ の公式 こうしき サイトへのリンクを貼 は っている[64] ほか、チャリティT てぃー シャツの販売 はんばい に協力 きょうりょく したことで下柳 しもやなぎ に感謝 かんしゃ 状 じょう を贈 おく ったこともある。ちなみに下柳 しもやなぎ は、公式 こうしき サイトでオークションを主催 しゅさい するに当 あ たって、「人間 にんげん に捨 す てられた犬 いぬ 達 たち が、人間 にんげん のために、厳 きび しい訓練 くんれん に耐 た え、純粋 じゅんすい に働 はたら いています。捨 す てた人間 にんげん は許 ゆる せませんが、同 おな じ人間 にんげん として、罪滅 つみほろ ぼしじゃありませんが、少 すこ しでも犬 いぬ のためになればと思 おも います」というメッセージを寄 よ せている[65] 。
詳細 しょうさい 情報 じょうほう [ 編集 へんしゅう ]
年度 ねんど 別 べつ 投手 とうしゅ 成績 せいせき [ 編集 へんしゅう ]
年 とし 度 ど
球 たま 団 だん
登 とう 板 いた
先 さき 発 はつ
完 かん 投 とう
完 かん 封 ふう
無 む 四 よん 球 たま
勝 かち 利 り
敗 はい 戦 せん
セ 丨 ブ
ホ 丨 ル ド
勝 かち 率 りつ
打 だ 者 もの
投 とう 球 たま 回 かい
被 ひ 安 やす 打 だ
被 ひ 本 ほん 塁 るい 打 だ
与 あずか 四 よん 球 たま
敬 けい 遠 とお
与 あずか 死 し 球 たま
奪 だつ 三 さん 振 ふ
暴投 とう
ボ 丨 ク
失 しつ 点 てん
自 じ 責 せめ 点 てん
防 ぼう 御 お 率 りつ
W H I P
1991
ダイエー
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0
0
0
0
0
0
--
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0.2
1
0
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0
0
0
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0
4
4
54.00
7.50
1993
50
10
1
0
0
4
8
5
--
.333
423
98.0
92
10
55
3
1
69
5
1
49
45
4.13
1.50
1994
62
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0
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5
4
--
.688
473
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5
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0
2
89
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1995
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--
.400
202
46.2
47
2
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0
2
26
4
1
24
21
4.05
1.39
1996
日本 にほん ハム
23
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0
0
0
1
2
2
--
.333
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32
3
20
3
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39
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0
19
18
3.77
1.21
1997
65
1
0
0
0
9
4
0
--
.692
630
147.0
140
13
62
10
6
136
7
0
61
57
3.49
1.37
1998
66
1
0
0
0
2
3
5
--
.400
400
93.2
74
8
47
4
3
71
3
0
37
32
3.07
1.29
1999
62
2
0
0
0
1
4
6
--
.200
332
77.1
62
9
47
2
2
79
4
0
31
31
3.61
1.41
2000
36
11
3
1
0
8
4
0
--
.667
403
93.2
79
11
49
1
2
82
4
0
50
47
4.52
1.37
2001
21
21
3
1
0
9
8
0
--
.529
529
121.0
114
24
50
1
9
89
1
0
73
68
5.06
1.36
2002
17
9
0
0
0
2
7
0
--
.222
228
51.2
49
10
25
0
4
44
2
0
34
33
5.75
1.43
2003
阪神 はんしん
26
24
3
1
0
10
5
0
--
.667
573
137.2
138
20
25
0
7
135
3
1
63
57
3.73
1.18
2004
22
21
0
0
0
7
5
0
--
.583
513
116.0
143
13
28
0
10
76
1
0
68
66
5.12
1.47
2005
24
24
1
0
0
15
3
0
0
.833
531
132.1
125
11
25
1
6
90
0
0
44
44
2.99
1.13
2006
25
25
1
0
0
12
11
0
0
.522
642
150.1
154
11
55
1
9
86
3
0
61
53
3.17
1.39
2007
25
25
0
0
0
10
8
0
0
.556
582
129.1
145
11
52
4
3
74
5
0
68
59
4.11
1.52
2008
27
27
1
0
1
11
6
0
0
.647
668
162.1
154
9
41
1
9
89
2
0
60
54
2.99
1.20
2009
22
22
1
1
0
8
8
0
0
.500
524
119.1
127
10
42
1
8
64
2
0
57
48
3.62
1.42
2010
19
19
0
0
0
7
8
0
0
.467
441
100.0
110
13
33
3
6
58
3
1
54
48
4.32
1.43
2011
6
6
0
0
0
0
2
0
0
.000
122
28.0
29
1
12
0
1
18
1
0
13
11
3.54
1.46
2012
楽天 らくてん
4
4
0
0
0
0
2
0
0
.000
80
17.0
27
0
1
0
3
4
0
0
10
10
5.29
1.65
通算 つうさん :21年 ねん
627
258
15
4
1
129
106
22
0
.549
8484
1970.2
1953
194
744
35
93
1418
57
4
934
859
3.92
1.37
初 はつ 記録 きろく
節目 ふしめ の記録 きろく
1000投球 とうきゅう 回数 かいすう :2003年 ねん 9月 がつ 4日 にち 、対 たい 広島東洋 ひろしまとうよう カープ 22回戦 かいせん (広島 ひろしま 市民 しみん 球場 きゅうじょう )、5回 かい 裏 うら に野村 のむら 謙二郎 けんじろう から空振 からぶ り三振 さんしん で2死目 しにめ を奪 うば い達成 たっせい ※史上 しじょう 294人 にん 目 め
1000奪 だつ 三振 さんしん :2005年 ねん 8月 がつ 25日 にち 、対 たい 広島東洋 ひろしまとうよう カープ16回戦 かいせん (広島 ひろしま 市民 しみん 球場 きゅうじょう )、2回 かい 裏 うら にマイク・ロマノ から ※史上 しじょう 116人 にん 目 め
500試合 しあい 登板 とうばん :2006年 ねん 4月 がつ 4日 にち 、対 たい 広島東洋 ひろしまとうよう カープ1回戦 かいせん (広島 ひろしま 市民 しみん 球場 きゅうじょう )、先発 せんぱつ 登板 とうばん で6回 かい 無 む 失点 しってん ・勝利 しょうり 投手 とうしゅ ※史上 しじょう 116人 にん 目 め
100勝 しょう :2007年 ねん 7月 がつ 6日 にち 、対 たい 中日 ちゅうにち ドラゴンズ 7回戦 かいせん (ナゴヤドーム )、先発 せんぱつ 登板 とうばん で6回 かい 3安打 あんだ 無 む 失点 しってん ※史上 しじょう 122人 にん 目 め
1500投球 とうきゅう 回数 かいすう :2007年 ねん 8月 がつ 1日 にち 、対 たい 東京 とうきょう ヤクルトスワローズ 13回戦 かいせん (阪神 はんしん 甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう )、2回 かい 表 ひょう にセス・グライシンガー を投手 とうしゅ ゴロに打 う ち取 と り達成 たっせい ※史上 しじょう 158人 にん 目 め
600試合 しあい 登板 とうばん :2010年 ねん 4月 がつ 4日 にち 、対 たい 中日 ちゅうにち ドラゴンズ3回戦 かいせん (ナゴヤドーム)、先発 せんぱつ 登板 とうばん で7回 かい 1失点 しってん ※史上 しじょう 35人 にん 目 め
その他 た の記録 きろく
オールスターゲーム 出場 しゅつじょう :5回 かい (1994年 ねん 、1997年 ねん 、2001年 ねん 、2005年 ねん 、2008年 ねん )
規定 きてい 投球 とうきゅう 回数 かいすう 未 み 到達 とうたつ での最多 さいた 勝 しょう ※史上 しじょう 2人 にん 目 め
24 (1991年 ねん - 1995年 ねん 、1997年 ねん - 2002年 ねん )
11 (1996年 ねん )
42 (2003年 ねん - 2011年 ねん )
91 (2012年 ねん )
解説 かいせつ 者 しゃ として定期 ていき 的 てき に出演 しゅつえん する番組 ばんぐみ
スーパーベースボール - 「虎 とら バン主義 しゅぎ 」のタイトルで放送 ほうそう する朝日放送 あさひほうそう テレビ制作 せいさく の阪神 はんしん 戦 せん 中継 ちゅうけい を担当 たんとう
ABCフレッシュアップベースボール (朝日放送 あさひほうそう ラジオ )
解説 かいせつ 者 しゃ として出演 しゅつえん した9月15日 にち のヤクルト対 たい 阪神 はんしん 戦 せん (神宮 じんぐう )中継 ちゅうけい では、ウラディミール・バレンティン (ヤクルト外野 がいや 手 しゅ )がシーズン56号 ごう 本塁打 ほんるいだ (1回 かい 裏 うら ・NPB のシーズン新 しん 記録 きろく )と57号 ごう 本塁打 ほんるいだ (3回 かい 裏 うら ・2打席 だせき 連続 れんぞく ・アジアにおけるプロ野球 やきゅう のシーズン新 しん 記録 きろく )を放 はな った瞬間 しゅんかん に立 た ち会 あ った。
2023年 ねん には、阪神 はんしん が(自身 じしん が在籍 ざいせき していた2005年 ねん 以来 いらい )18年 ねん 振 ふ りのセ・リーグ優勝 ゆうしょう を自力 じりき で決 き めた9月14日 にち の対 たい 巨人 きょじん 戦 せん 、クライマックスシリーズ の突破 とっぱ を決 き めた広島 ひろしま とのファイナルステージ第 だい 3戦 せん (10月 がつ 20日 はつか 、いずれも甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう でのナイトゲーム)、1985年 ねん 以来 いらい 38年 ねん 振 ふ りに日本 にっぽん シリーズを制覇 せいは したオリックスとの第 だい 7戦 せん (11月5日 にち 、京 きょう セラドーム大阪 おおさか でのナイトゲーム)にラジオ中継 ちゅうけい の解説 かいせつ 者 しゃ として立 た ち会 あ っている。
サンテレビボックス席 せき (サンテレビ )
朝日放送 あさひほうそう からの出向 しゅっこう 扱 あつか いで、同局 どうきょく との共同 きょうどう 制作 せいさく による『日曜 にちよう ナイター』を中心 ちゅうしん に、ゲスト解説 かいせつ 者 しゃ として阪神 はんしん 戦 せん 中継 ちゅうけい へ出演 しゅつえん 。
虎 とら バン (朝日放送 あさひほうそう テレビ) - 2013年 ねん から矢野 やの ・金本 かなもと と交互 こうご にコメンテーターとして出演 しゅつえん
武田 たけだ 和歌子 わかこ のぴたっと。金曜日 きんようび (朝日放送 あさひほうそう ラジオ) - 2013年度 ねんど のナイターオフ限定 げんてい で放送 ほうそう された第 だい 2部 ぶ にのみレギュラー出演 しゅつえん 。下柳 しもやなぎ にとっては、プロ野球 やきゅう 中継 ちゅうけい 以外 いがい でのラジオ初 はつ レギュラー番組 ばんぐみ であった。
ラジオで虎 とら バン! (朝日放送 あさひほうそう ラジオ) - コメンテーターとして不定期 ふていき で出演 しゅつえん
ローカルタレントとして定期 ていき 的 てき に出演 しゅつえん する番組 ばんぐみ
上記 じょうき のほか、『サンデースポーツ 』(NHK総合 そうごう )や『朝生 あそう ワイド す・またん! 』(読売 よみうり テレビ )などへ不定期 ふていき で出演 しゅつえん 、在 ざい 阪 ばん 局 きょく 制作 せいさく のバラエティ番組 ばんぐみ (関西 かんさい テレビ 『たかティン胸 むね いっぱい 』など)にも登場 とうじょう することもある。朝日放送 あさひほうそう テレビ制作 せいさく の『探偵 たんてい !ナイトスクープ 』には、松村 まつむら 邦洋 くにひろ が「探偵 たんてい 」として最後 さいご に担当 たんとう した依頼 いらい VTR(2013年 ねん 9月27日 にち 放送 ほうそう 分 ぶん )へ金本 かなもと と共 とも に登場 とうじょう 。同年 どうねん 11月 がつ 8日 にち 放送 ほうそう 分 ぶん (いずれもABCでの放送 ほうそう 日 び )では、矢野 やの ・金本 かなもと との「同級生 どうきゅうせい トリオ」では最 もっと も遅 おそ く、「顧問 こもん 」として公開 こうかい 収録 しゅうろく に初 はじ めて出演 しゅつえん した。
「気 き を込 こ める 虎 とら の成功 せいこう プロセス」(矢野 やの 燿大との共著 きょうちょ 、ベ べ ースボ すぼ ール・マガジン社 るまがじんしゃ 、2013年 ねん 10月 がつ 9日 にち 初版 しょはん 発売 はつばい )ISBN 978-4583106212
「ボディ・ブレイン――どん底 ぞこ から這 は い上 あ がるための法則 ほうそく (ルール)」(水 みず 王 おう 舎 しゃ 、2014年 ねん 7月 がつ 2日 にち 初版 しょはん 発売 はつばい )ISBN 978-4864700085
^ 勤務 きんむ 先 さき は協力 きょうりょく 会社 かいしゃ の太平工業 たいへいこうぎょう だった(かずさ市民 しみん 応援 おうえん 団 だん 会報 かいほう の記事 きじ より)。
^ 同 どう 時期 じき に発表 はっぴょう された坪井 つぼい 智 さとし 哉 と野口 のぐち 寿 ことぶき 浩 ひろし のトレードとは別件 べっけん と長 なが らく語 かた られていたが、下柳 しもやなぎ は、2020年 ねん に片岡 かたおか 篤史 あつし のYouTubeチャンネルにて、本来 ほんらい このトレードは野口 のぐち と坪井 つぼい も含 ふく めた3対 たい 3で発表 はっぴょう される予定 よてい だったが、下柳 しもやなぎ 本人 ほんにん が年俸 ねんぽう のダウン金額 きんがく 等 とう の不満 ふまん から球団 きゅうだん と揉 も めたことにより発表 はっぴょう のタイムラグが出 で たと語 かた った[10] 。
^ 9月15日 にち 対 たい オリックス26回戦 かいせん 6回 かい 5安打 あんだ 2失点 しってん で勝 か ち負 ま け無 な し、9月22日 にち 対 たい ダイエー27回戦 かいせん 6回 かい 2安打 あんだ 無 む 失点 しってん で勝利 しょうり 投手 とうしゅ となった。
^ 最初 さいしょ に規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい をクリアした1997年 ねん の時 とき は先発 せんぱつ 1試合 しあい のみで残 のこ りは全 すべ てリリーフ登板 とうばん で、今回 こんかい 初 はじ めて先発 せんぱつ 登板 とうばん だけで規定 きてい 投球 とうきゅう 回 かい をクリアした
^ 現役 げんえき 引退 いんたい 直後 ちょくご の同月 どうげつ 23日 にち には、朝日放送 あさひほうそう (朝日放送 あさひほうそう テレビ )の『虎 とら バンスペシャル 』で、トライアウトへの密着 みっちゃく 取材 しゅざい の模様 もよう を放送 ほうそう した。
^ 同日 どうじつ の『ABCフレッシュアップベースボール』オリックス・バファローズ 対 たい 阪神 はんしん タイガースのオープン戦 せん 中継 ちゅうけい (関西 かんさい ローカル放送 ほうそう )において、阪神 はんしん 時代 じだい にバッテリーを組 く んだ矢野 やの とのダブル解説 かいせつ で、解説 かいせつ 者 しゃ としての活動 かつどう を本格 ほんかく 的 てき に開始 かいし 。
^ 週刊 しゅうかん ベースボール誌 し の記事 きじ より。
^ 楽天 らくてん から戦力 せんりょく 外 がい 通告 つうこく を受 う けた直後 ちょくご (2012年 ねん 10月 がつ )には、金本 かなもと の引退 いんたい 記念 きねん 特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 『withタイガース ラストスイング〜さらば金本 かなもと 知 とも 憲 けん 』(引退 いんたい 試合 しあい 翌日 よくじつ の同月 どうげつ 10日 にち に毎日放送 まいにちほうそう で放送 ほうそう )で人生 じんせい 初 はつ のナレーションに挑 いど んでいる。
^ 日本 にほん ハムに移籍 いせき した1996年 ねん は、広島東洋 ひろしまとうよう カープ から加入 かにゅう した秋 あき 村 むら 謙 けん 宏 ひろし 投手 とうしゅ (現 げん :NPB審判 しんぱん 員 いん )が24番 ばん を着 つ けたため、岡本 おかもと 透 とおる 投手 とうしゅ の引退 いんたい で空 あ いていた11番 ばん を着 つ けた。翌 よく 1997年 ねん 、秋 あき 村 むら が00番 ばん に変更 へんこう する形 かたち で24番 ばん を譲 ゆず り受 う けた。
業績 ぎょうせき 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1930年代 ねんだい 1940年代 ねんだい 1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい