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鈴木すずき康二こうじろう

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鈴木すずき 康二こうじろう鈴木すずき かん二郎じろう
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 茨城いばらきけん北茨城きたいばらき
生年月日せいねんがっぴ (1949-04-18) 1949ねん4がつ18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2019-11-19) 2019ねん11月19にち(70さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
189 cm
80 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1972ねん ドラフト5
はつ出場しゅつじょう 1975ねん7がつ29にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1986ねん9がつ5にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

鈴木すずき 康二こうじろう(すずき やすじろう、本名ほんみょう鈴木すずき かん二郎じろうおなじ)、1949ねん4がつ18にち[1] - 2019ねん11月19にち[2])は、茨城いばらきけん北茨城きたいばらき出身しゅっしん[1]プロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)。

経歴けいれき

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プロりまで

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小学しょうがく4ねんとき野球やきゅうはじめ、中学ちゅうがく卒業そつぎょう1なみして磯原いそはらだか進学しんがくする[3]。3年生ねんせいときにエースになるが、なつけん大会たいかい3回戦かいせん敗退はいたい甲子園こうしえんには出場しゅつじょうできなかった[3]社会しゃかいじん野球やきゅう日本にっぽん鉱業こうぎょう日立ひたちすす[1]1971ねん都市とし対抗たいこう野球やきゅう日立製作所ひたちせいさくしょ補強ほきょう選手せんしゅとして出場しゅつじょう。リリーフとして活躍かつやく準々じゅんじゅん決勝けっしょうすすむが、しん日本にっぽん製鐵せいてつ広畑ひろはた山中やまなかただしちく住友金属すみともきんぞくから補強ほきょう)、三沢みさわあつし継投けいとう完封かんぷうきっする[4]。このときのチームメイトに小野寺おのでら重之しげゆきのちにプロで同僚どうりょうとなる渡辺わたなべ孝博たかひろらがいた。

現役げんえき時代じだい

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ヤクルト時代じだい

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1972ねんプロ野球やきゅうドラフト会議かいぎヤクルトアトムズから5指名しめいいれだん[3]1975ねんはつ登板とうばん[1]1976ねんにはおも中継なかつぎとして起用きようされ43試合しあい登板とうばんはつ勝利しょうりはつセーブを記録きろくする。

1977ねんには開幕かいまく直後ちょくごから先発せんぱつローテーション定着ていちゃく[1]はじめて規定きてい投球とうきゅうかい(リーグ5防御ぼうぎょりつ3.67)にたっし14しょう9はい活躍かつやく松岡まつおかひろし安田やすだたけしともさんほんばしら形成けいせいする。勝負しょうぶける投手とうしゅおおなか、9月3にち読売よみうりジャイアンツたたかえ後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)にて、勝負しょうぶけずに3かい2打席だせきおう貞治さだはるにフルカウントからだまのシンカーをとう[1]世界せかいしん記録きろくとなる756ごう本塁打ほんるいだたれて有名ゆうめいになる[1][5]おう世界せかいしん記録きろくとなる756ごうたれた投手とうしゅには「サイパンとうペア旅行りょこうけん」をプレゼントされることになっていたが、プロとしての意地いじからりを拒否きょひした[1]。『がんばれ!!タブチくん!!』では当時とうじのその様子ようすおおげさにえがかれ、試合しあいかならず「おうに756ごうたれた鈴木すずき」とばれていた。1983ねん移籍いせきした近鉄きんてつはるのキャンプ皮肉ひにくにもあろうことかサイパンだった(当時とうじはたやまハッチの4コマ漫画まんがでも現地げんち人間にんげん歓迎かんげいされるという描写びょうしゃでネタにされており、のち単行本たんこうぼん「がんばれエガワくん」にも収録しゅうろくされた)。通算つうさん81しょう52セーブという堂々どうどうたる数字すうじ球史きゅうしきざんでいるにもかかわらず、この話題わだいながかれにつきまとい、2017ねんなつ週刊文春しゅうかんぶんしゅんけたインタビューもやはりこのけん見出みだしとなった。

1978ねんも13しょう3はい記録きろく最高さいこう勝率しょうりつ投手とうしゅとなる[1]。チームをはつセ・リーグ優勝ゆうしょう日本一にっぽんいちみちび活躍かつやくせた。同年どうねん5がつにはセ・リーグ投手とうしゅ部門ぶもん月間げっかんMVPはつ受賞じゅしょうした。同年どうねん阪急はんきゅうブレーブスとの日本にっぽんシリーズでは2試合しあい先発せんぱつだい3せんでは5かいまで3失点しってんながら打線だせん援護えんごなく敗戦はいせん投手とうしゅだい6せんは3かいひょう集中しゅうちゅうたれ6失点しってん降板こうばん、2はいきっした。

近鉄きんてつ時代じだい

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1983ねん井本いもとたかしとの交換こうかんトレードで柳原やなぎはら隆弘たかひろとともに近鉄きんてつバファローズ移籍いせきし、おもリリーフとして登板とうばんする。石本いしもと貴昭たかあきとのダブルストッパーとして活躍かつやく1984ねん1985ねんには最多さいたセーブ最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅではない)を記録きろくした[1](35さい開幕かいまくむかえたシーズンのセーブおう獲得かくとく2010ねんブライアン・シコースキーならパ・リーグ最年長さいねんちょう記録きろくタイ、日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょうでもみぎ投手とうしゅとして最年長さいねんちょう記録きろくタイ)。1984ねんのオールスターゲーム出場しゅつじょうしたさいには、20世紀せいき最後さいごのオールスターゲーム3連投れんとう経験けいけんしている。

1986ねんには出番でばんり、同年どうねんかぎりで現役げんえき引退いんたい同僚どうりょうだった金村かなむら義明よしあきによると、ある試合しあい乱闘らんとうで、投球とうきゅう練習れんしゅうちゅうのブルペンから直行ちょっこうし、相手あいて選手せんしゅなぐりかかったさい空振からぶりをしてしまいみぎひじってしまったのが原因げんいんだったとかたっている[6]

引退いんたい

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プロ引退いんたい社会しゃかいじん軟式なんしき野球やきゅう現役げんえきつづけ、茨城いばらきけん代表だいひょうとして1995ねん国民こくみん体育たいいく大会たいかいふくしま国体こくたい)でも登板とうばんした。引退いんたい故郷こきょう北茨城きたいばらきでアパレル会社かいしゃ廃棄はいきぶつ処理しょり会社かいしゃでの勤務きんむて2010ねん定年ていねん退職たいしょくし、以降いこう故郷こきょう北茨城きたいばらき余生よせいおくっていた[1]が、そののう梗塞こうそくわずらい、福島ふくしま市内しない病院びょういん療養りょうようしていた。

2019ねん11月19にち肺炎はいえんのため死去しきょ。70さいぼつ遺族いぞく意向いこうにより、訃報ふほうやく3ねんの2023ねん2がつ13にち公表こうひょうされた[2]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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シンカーけいちるたま多用たよう[1]投球とうきゅうスタイルはスリークォーターであった[1]外国がいこくじん選手せんしゅからは「メジャーリーグ通用つうようしそうな日本人にっぽんじん」とわれた。

打撃だげきのいい投手とうしゅとしてられ、1976ねんには打率だりつ.350(20打数だすう7安打あんだ)1本塁打ほんるいだ、1981ねんには打率だりつ.305(59打数だすう18安打あんだ)1本塁打ほんるいだ記録きろくした。通算つうさんで5本塁打ほんるいだはなっている。

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1975 ヤクルト 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 23 4.0 10 2 2 0 0 0 0 0 7 7 15.75 3.00
1976 43 1 0 0 0 2 5 1 -- .286 397 94.2 93 9 34 1 1 52 0 0 43 38 3.61 1.34
1977 37 28 7 2 0 14 9 0 -- .609 754 184.0 171 21 41 1 14 72 0 0 84 75 3.67 1.15
1978 37 32 7 2 1 13 3 1 -- .813 792 186.0 203 34 51 4 10 70 2 0 95 85 4.11 1.37
1979 37 30 4 1 0 8 11 0 -- .421 772 185.2 198 20 45 7 8 68 1 0 95 88 4.27 1.31
1980 37 23 5 2 1 11 6 5 -- .647 780 183.2 194 17 46 3 14 75 0 0 70 61 2.99 1.31
1981 33 25 7 1 1 9 8 0 -- .529 782 182.0 190 18 46 4 8 78 6 0 88 77 3.81 1.30
1982 31 11 0 0 0 7 4 1 -- .636 448 103.1 116 14 34 3 4 36 1 2 54 46 4.01 1.45
1983 近鉄きんてつ 42 1 0 0 0 5 1 14 -- .833 279 71.0 56 6 14 1 3 30 3 0 19 18 2.28 0.99
1984 46 0 0 0 0 5 4 18 -- .556 339 78.1 73 3 27 7 4 26 4 0 34 27 3.10 1.28
1985 47 0 0 0 0 5 2 12 -- .714 232 57.0 48 4 17 3 1 28 1 0 26 19 3.00 1.14
1986 21 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 157 35.0 43 3 9 3 3 13 2 0 21 17 4.37 1.49
通算つうさん:12ねん 414 151 30 8 3 81 54 52 -- .600 5755 1364.2 1395 151 366 37 70 548 20 2 636 558 3.68 1.29
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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投手とうしゅ記録きろく
打撃だげき記録きろく
  • はつ安打あんだ:1976ねん4がつ28にちたい阪神はんしんタイガース5回戦かいせん明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅうじょう)、7かいうら古沢ふるさわ憲司けんじから
  • はつ本塁打ほんるいだはつ打点だてん:1976ねん5がつ4にちたい大洋たいようホエールズ3回戦かいせん川崎球場かわさききゅうじょう)、9かいひょう渡辺わたなべしげるたけからソロ
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 45(1973ねん - 1976ねん
  • 21(1977ねん - 1982ねん
  • 12(1983ねん - 1986ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 756ごうたれたおとこおうさんに感謝かんしゃいま海辺うみべしずかにらす”. zakzak (2012ねん2がつ15にち). 2012ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ a b もとヤクルト・鈴木すずき康二こうじあきらさん、2019ねん死去しきょ 70さい 球団きゅうだんはつVに貢献こうけんおう貞治さだはる通算つうさん756ごう本塁打ほんるいだ被弾ひだん「おれはげなかった」”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ). (2023ねん2がつ13にち). https://www.sanspo.com/article/20230213-IOV65M7SJVLB7MAIR3CB34LDPQ/?outputType=theme_swallows 2023ねん2がつ13にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b c プロ野球やきゅう人名じんめい事典じてん 2003(2003ねん日外にちがいアソシエーツ)、297ページ
  4. ^ 都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかい60ねん日本にっぽん野球やきゅう連盟れんめい 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1990ねん
  5. ^ 鈴木すずき康二こうじあきらさんをいたむ】無口むくち医者いしゃぎらい…つばめV1戦士せんし訃報ふほうくやし - サンスポ
  6. ^ パの乱闘らんとうちん伝説でんせつ 鈴木すずき康二こうじろうはパンチ空振からぶりでヒジびて引退いんたい

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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