工藤くどう昭四郎しょうしろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

工藤くどう 昭四郎しょうしろう(くどう しょうしろう、1894ねん7がつ30にち - 1977ねん10月13にち)は、日本にっぽん官僚かんりょう実業じつぎょう日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう大阪おおさか支店してんちょう大蔵省おおくらしょう物価ぶっか部長ぶちょう復興ふっこう金融きんゆう金庫きんこ理事りじちょう東京都民銀行とうきょうとみんぎんこう頭取とうどり経済同友会けいざいどうゆうかい代表だいひょう幹事かんじなどをつとめた。したがえさん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1894ねん 徳島とくしまけん 徳島とくしままれる。旧制きゅうせい徳島とくしま中学校ちゅうがっこう だいろく高等こうとう学校がっこう1921ねん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく 法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう卒業そつぎょう日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう入行にゅうこう参事さんじ調査ちょうさ部長ぶちょう融資ゆうしだいよん部長ぶちょう昇進しょうしんし、終戦しゅうせん大阪おおさか支店してんちょうであった。

1945ねん 大蔵省おおくらしょう物価ぶっか部長ぶちょうてんじ、翌年よくねん2がつ16にちから相次あいついで実施じっしされた預金よきん封鎖ふうさ財産ざいさんぜい徴収ちょうしゅう国家こっか補償ほしょう全面ぜんめんり、べい強制きょうせい供出きょうしゅつ隠退蔵いんたいぞう物資ぶっし強制きょうせいげ、失業しつぎょう対策たいさくなど一連いちれん非常ひじょう措置そち実施じっしおもとなっておこない、成果せいかげた。つづいて、物価ぶっかちょう次長じちょうけん経済けいざい安定あんてい本部ほんぶだい部長ぶちょうをつとめたのち退任たいにんし、1947ねん 復興ふっこう金融きんゆう金庫きんこふく理事りじちょうとなり、1950ねん理事りじちょう就任しゅうにんした。ついで、東京都民銀行とうきょうとみんぎんこう頭取とうどり経済同友会けいざいどうゆうかい代表だいひょう幹事かんじ東北電力とうほくでんりょく株式会社かぶしきがいしゃ取締役とりしまりやく日本にっぽん経営けいえいしゃ団体だんたい連盟れんめい常任じょうにん理事りじ公正こうせい取引とりひき協会きょうかい会長かいちょう東京商工会議所とうきょうしょうこうかいぎしょ監事かんじ通商産業省つうしょうさんぎょうしょう百貨店ひゃっかてん審議しんぎかい会長かいちょう石炭せきたん鉱業こうぎょう合理ごうり事業じぎょうだん理事りじちょうなどの各種かくしゅ役員やくいん委員いいん歴任れきにんした。

1965ねん11月3にちくんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう受章じゅしょうした。1974ねん10がつ8にち勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう1977ねん10月13にち逝去せいきょ[1]じょしたがえさん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]