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小林こばやしひろし

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小林こばやし ひろし
基本きほん情報じょうほう
通称つうしょう 雑草ざっそうおとこ
階級かいきゅう スーパーフェザーきゅう
身長しんちょう 168cm
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
誕生たんじょう (1944-08-23) 1944ねん8がつ23にち(79さい
出身しゅっしん 群馬ぐんまけん伊勢崎いせざき
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績せんせき
そう試合しあいすう 75
61
KO 10
10
4
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小林こばやし ひろし(こばやし ひろし、1944ねん8がつ23にち - )は、日本にっぽんもとプロボクサー群馬ぐんまけん伊勢崎いせざき出身しゅっしんもとWBAWBC世界せかいスーパーフェザーきゅう王者おうじゃみぎのボクサータイプ。「雑草ざっそうおとこ」の異名いみょうつ。すで閉鎖へいさされた中村なかむらボクシングジムに所属しょぞくしていた。

人物じんぶつ

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日本にっぽんボクシング黄金おうごん時代じだいいろどった一人ひとりで、初代しょだい王者おうじゃ白井しらい義男よしおから6にん世界せかいチャンピオンとなった。白井しらい義男よしおファイティング原田はらだの4防衛ぼうえい記録きろくえる6防衛ぼうえい記録きろく当時とうじ日本にっぽん選手せんしゅ最多さいた防衛ぼうえい記録きろく。1979ねん1がつ7にち具志堅ぐしけんようだかえられた)をつ。

アップライトスタイルの典型てんけいてき頭脳ずのうボクサーで、たせないで戦法せんぽうてっし、高度こうどなテクニックを駆使くししたボクシングで人気にんきはくした。

日本にっぽんフェザーきゅうランカー時代じだいに、世界せかいライトきゅう王者おうじゃカルロス・オルチス左右さゆうストレートに魅了みりょうされ、みずからのストレートのありかた修練しゅうれんのち中南米ちゅうなんべい遠征えんせいに、ジョー・メデルそだてのおや、ルペ・サンチェスのアドバイスによってクロスカウンターわざ会得えとくしていく。

この強烈きょうれつみぎクロスカウンターと完全かんぜんなディフェンスによって、対戦たいせん相手あいて自分じぶんのペースをつかめないまま敗北はいぼくするケースがおおい。

日本にっぽんボクシング年間ねんかん表彰ひょうしょう選手せんしゅ最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょういで価値かちのある技能ぎのうしょう1965ねんから3ねん連続れんぞく受賞じゅしょう1969ねん1970ねん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう受賞じゅしょうし、いち時代じだいきずいた(技能ぎのうしょう3ねん連続れんぞく日本にっぽん記録きろくでもある)。

引退いんたいは、日本にほんテレビで16年間ねんかんにおよびボクシング解説かいせつつとめ、1989ねん12がつまで帝拳ていけんジムのトレーナーもしていた。

2000ねん9月8にち日本にほんテレビ「勝利しょうり開拓かいたくしゃたち・あしたのジョーのモデルとばれたおとこ放送ほうそう

1991ねんより東京とうきょう武蔵境むさしさかいえきちかくに小林こばやしボクシングジムをオープンし、2014ねんれの閉鎖へいさ[1]まで指導しどうにあたっていた。

おも戦績せんせき

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1962ねん、プロデビュー。

1963ねん1がつ28にち全日本ぜんにほんライトきゅう新人しんじんおう獲得かくとく。5月13にち、17試合しあいはつの10回戦かいせんいどみ、のちの日本にっぽんチャンピオン益子ましこ勇治ゆうじ東京とうきょう拳闘けんとうかい)に2RKO勝利しょうり。 8月19にち高山たかやま一夫かずお返上へんじょうした日本にっぽんフェザーきゅう王座おうざ決定けっていせん菊地きくち万蔵まんぞう判定はんていけ。

1964ねん4がつ26にち、ノンタイトルせん東洋とうようフェザーきゅうチャンピオンせき光徳みつのり判定はんていちし、世界せかいランキングりをたす。9月28にち益子ましこ勇治ゆうじ判定はんていくだし、日本にっぽんフェザーきゅう王座おうざ獲得かくとく

1965ねん1がつ18にち益子ましこ勇治ゆうじ判定はんていちしはつ防衛ぼうえい。5月9にち塩山しおやま重夫しげお判定はんていちし2度目どめ防衛ぼうえい。8月30にち郡司ぐんじあつし判定はんていちし3度目どめ防衛ぼうえい

1966ねん1がつ27にち、ノンタイトルせん青木あおき勝利かつとし判定はんていち。2月28にち塩山しおやま重夫しげお判定はんていちし4度目どめ防衛ぼうえい。10月10にち千葉ちば信夫しのぶ判定はんていちし5度目どめ防衛ぼうえい。11月10にち野畑のばた澄男すみお判定はんていちし6度目どめ防衛ぼうえい

1967ねん5月8にち三橋みつはし高夫たかお判定はんていちし7度目どめ防衛ぼうえい

12月14にち、「精密せいみつ機械きかい沼田ぬまた義明よしあきつWBA・WBC世界せかいスーパーフェザーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんし、12かいKOちで王座おうざ獲得かくとくはつ日本人にっぽんじん同士どうしによる世界せかいせん赤穂あこう浪士ろうしりのともかさなりおおきな話題わだいとなった。

1968ねん3月25にち日本にっぽん王座おうざ返上へんじょう。3月30にちレネ・バリエントス(フィリピン)と15Rけではつ防衛ぼうえい。10月15にちハイメ・パラダレス(エクアドル)に判定はんていちし2度目どめ防衛ぼうえい。パラダレスとは1966ねん5がつ14にちのエクアドルでのノンタイトルせんけて以来いらい再戦さいせん

1969ねん1がつ18にち、WBAとの分裂ぶんれつにより、WBCが世界せかいスーパーフェザーきゅう剥奪はくだつ。4月6にちアントニオ・アマヤ(パナマ)に判定はんていちし3度目どめ防衛ぼうえい。11月9にちカルロス・カネテ(アルゼンチン)に判定はんていちし4度目どめ防衛ぼうえい

1970ねん2がつ15にち、ノンタイトルせん日本にっぽんスーパーフェザーきゅう王者おうじゃ東海林しょうじひろしけ。8月23にち、アントニオ・アマヤに判定はんていちし5度目どめ防衛ぼうえい成功せいこう白井しらい義男よしおとファイティング原田はらだ世界せかいタイトル防衛ぼうえい記録きろく更新こうしんする。

12月3にち、WBA世界せかいフェザーきゅう王者おうじゃ西城さいじょう正三しょうさんとのノンタイトルせんでのゆめ対決たいけつ実現じつげん。スピードと回転かいてんりょくおとるものの、テクニックと試合しあいはこびによりリードをゆるさず10かい判定はんてい(2-1)で勝利しょうり

1971ねん3月4にちリカルド・アルレドンド(メキシコ)に判定はんていちし6度目どめ防衛ぼうえい。7月29にちアルフレド・マルカノ(ベネズエラ)に10RKOでやぶ王座おうざ陥落かんらく。この試合しあいリングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤー選出せんしゅつされた。

10月16にち、1かいきゅうげてのライトきゅうで、のちに「いしこぶし」とばれライトきゅう最強さいきょうわれるわかロベルト・デュラン対戦たいせんてきパナマでのノンタイトルせんだった。しかし、7かい豪快ごうかいたおされKOけ。この試合しあい最後さいご自分じぶん限界げんかいさと引退いんたい表明ひょうめいした。

最終さいしゅう戦績せんせきは75せん61しょう(10KO)10はい4ふん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ラウンドアップ TAIKOH小林こばやしジムが休業きゅうぎょう Boxing News(ボクシングニュース)2015ねん1がつ28にち

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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ぜん王者おうじゃ
益子ましこ勇治ゆうじ
だい13だい日本にっぽんフェザーきゅう王者おうじゃ

1964ねん9がつ28にち - 1968ねん3がつ25にち返上へんじょう

空位くうい
タイトル獲得かくとくしゃ
千葉ちば信夫しのぶ
ぜん王者おうじゃ
沼田ぬまた義明よしあき
WBC世界せかいスーパーフェザーきゅう王者おうじゃ

1967ねん12月14にち - 1969ねん1がつ18にち剥奪はくだつ

空位くうい
タイトル獲得かくとくしゃ
レネ・バリエントス
ぜん王者おうじゃ
沼田ぬまた義明よしあき
WBA世界せかいスーパーフェザーきゅう王者おうじゃ

1967ねん12月14にち - 1971ねん7がつ29にち

王者おうじゃ
アルフレド・マルカノ