内藤ないとう大助だいすけ

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内藤ないとう 大助だいすけ
2009ねん11月、亀田かめだきょうあつしせんのリングにて
基本きほん情報じょうほう
本名ほんみょう 内藤ないとう 大助だいすけ
通称つうしょう きたごうけん
最短さいたんおとこ
国民こくみん期待きたい
リアルはじめのいち
階級かいきゅう フライきゅう
身長しんちょう 163㎝
リーチ 173㎝
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
誕生たんじょう (1974-08-30) 1974ねん8がつ30にち(49さい
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう虻田あぶたぐん豊浦とようらまち
スタイル みぎ変則へんそくファイター
プロボクシング戦績せんせき
そう試合しあいすう 42
36
KO 23
3
3
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内藤ないとう大助だいすけ
YouTube
チャンネル
活動かつどう期間きかん 2020ねん6がつ13にち -
登録とうろくしゃすう やく5110にん
そう再生さいせい回数かいすう やく659864かい
チャンネル登録とうろくしゃすうそう再生さいせい回数かいすう
2021ねん9がつ11にち時点じてん
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内藤ないとう 大助だいすけ(ないとう だいすけ、1974ねん8がつ30にち - )は、日本にっぽんもとプロボクサー

もとWBC世界せかいフライきゅう王者おうじゃだい49だい日本にっぽんフライきゅう王者おうじゃだい35だいOPBF東洋とうよう太平洋たいへいようフライきゅう王者おうじゃ宮田みやたジム所属しょぞくしていた。

引退いんたいタレントやボクシング解説かいせつしゃとして活動かつどうしている。

北海道ほっかいどう虻田あぶたぐん豊浦とようらまち出身しゅっしん。マネジメントさきトラロックエンターテインメント血液けつえきがたOがた既婚きこん。2なんちち

来歴らいれき[編集へんしゅう]

プロデビューまで[編集へんしゅう]

母親ははおやは、大助おおすけごもっているときおっと離婚りこんしており、アルバイト大助だいすけと4さいじょう長男ちょうなんやしない、のちちいさな民宿みんしゅくはじめた[1]一家いっか生活せいかつらくではなかったものの、学校がっこうではマラソン大会たいかい運動会うんどうかい徒競走ときょうそうかならず1になるなど運動うんどう神経しんけい抜群ばつぐんで、クラスでは人気にんきしゃだった。

中学ちゅうがくでは卓球たっきゅう所属しょぞく、2ねんになるといじめ標的ひょうてきにされた。生活せいかつくるしかったため、あにのおがりの制服せいふくやスキーウェアなどをていけば「ボンビー(貧乏びんぼう)」というあだ馬鹿ばかにされた。給食きゅうしょくのおかずや貴重きちょうひんげられたり、教師きょうしつからない人目ひとめにつかない場所ばしょ暴行ぼうこうけた。内藤ないとう胃潰瘍いかいようわずらうまでにめられるも、教師きょうしからはいじめには気付きづいてもらえず、つよ母親ははおやへの相談そうだんあきらめ、1人ひとりでいじめにえる中学ちゅうがく生活せいかつおくった[2][3]

進学しんがくさき北海道ほっかいどう豊浦とようら高等こうとう学校がっこうにいじめ加害かがいしゃらが進学しんがくしなかったことから、ようやくいじめから解放かいほうされ、あたらしい仲間なかまとの出会であいをつうじて本来ほんらいあかるさをもどす。ハンドボール所属しょぞくし、3ねんには同校どうこうはつぜんみち大会たいかい出場しゅつじょう貢献こうけんした。

卒業そつぎょうには洞爺湖とうやこそばにあるホテル調理ちょうりとして就職しゅうしょく内定ないていしていたが、春休はるやすみの研修けんしゅう上司じょうし口論こうろんになり内定ないていされ、就職しゅうしょく失敗しっぱいした[4]

以降いこう定職ていしょくかずだらだらと日々ひびごしていたが、母親ははおや叱咤しったされ上京じょうきょうした。はははあらかじめ、生別せいべつした実父じっぷ経営けいえいする工務こうむてんに「大助おおすけはたらかせてやってほしい」とはなしをつけていた[5]上京じょうきょうから1ねん書店しょてんにしたボクシング雑誌ざっし刺激しげきけ、下宿げしゅくさきちかくにあった宮田みやたジムに入門にゅうもん内藤ないとうはボクシングをはじめた動機どうきについて「地元じもと帰省きせいしたらいじめっうんじゃないかってこわかった。でも、ジムにかよえばケンカにつよくなれる。つよくなれなくても『ジムにっている』とえば、いじめっをびびらせられるっておもった」とかえっている。しかし、格闘技かくとうぎきではなかったははから「あんな野蛮やばんなスポーツはダメだ」としかられ、勘当かんどうをいいわたされた[2][4]

プロデビュー日本にっぽん王座おうざ獲得かくとく[編集へんしゅう]

1996ねん10月11にちにプロデビューせん。1RKOちでかざると、1998ねん12月19にち全日本ぜんにほんフライきゅう新人しんじんおう決定けっていせんぶく山登やまのぼり大阪帝拳おおさかていけん)に1RKOちし、9しょう1けの戦績せんせき新人しんじんおう獲得かくとくした。

2001ねん7がつ16にち坂田さかた健史たけしきょうさかえ)の日本にっぽんフライきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんするも、けで王座おうざ獲得かくとくはならなかった大串おおぐし事件じけん参照さんしょう

2002ねん4がつ19にちタイポンサックレック・シンワンチャー(タイ)のWBC世界せかいフライきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんし、世界せかいフライきゅうタイトルマッチ史上しじょう最短さいたん記録きろくとなる1R34びょうKOけをきっした当該とうがいぶし参照さんしょう。しかし、復帰ふっきせんでKOち。その菊井きくいとおるたいら花形はながた)をくだすなど、順調じゅんちょうすすんだ。

2004ねん6月6にち日本にっぽんフライきゅう王者おうじゃ中野なかのひろし畑中はたなか)に挑戦ちょうせん中野なかのから2ダウンうばうなど一方いっぽうてきつづけ、6Rに偶然ぐうぜんバッティングによる負傷ふしょう判定はんていちをおさめ、日本にっぽん王座おうざ獲得かくとくした。10月11にちには小嶋こじま武幸たけゆき横浜よこはまさくら)を相手あいてはつ防衛ぼうえいせんおこない、日本にっぽんタイトルマッチ史上しじょう最短さいたんとなる1R24びょうでKOちをおさめた。

2005ねん10がつ10日とおか、WBC世界せかいフライきゅう王者おうじゃ・ポンサクレックにさい挑戦ちょうせんするも、7R負傷ふしょう判定はんていやぶれた当該とうがいぶし参照さんしょう

2006ねん6月27にちOPBF東洋とうよう太平洋たいへいようフライきゅう王者おうじゃ小松こまつ則幸のりゆきエディタウンゼント)と、史上しじょうはつ日本にっぽん東洋とうよう太平洋たいへいよう統一とういつタイトルマッチをおこない、小松こまつを6RTKOやぶり、日本にっぽん東洋とうよう太平洋たいへいよう王座おうざの2かんとなった。12月10にちには東洋とうよう太平洋たいへいよう王座おうざ単独たんどく防衛ぼうえいせんおこない、判定はんていはつ防衛ぼうえいしている。

2007ねん自身じしん負傷ふしょうと、日本にっぽん東洋とうよう王座おうざ防衛ぼうえいせん兼用けんよう困難こんなんになったことなどを理由りゆうに、りょう王座おうざ返上へんじょうした。

世界せかい王座おうざ獲得かくとく[編集へんしゅう]

2007ねん1がつから白井しらい具志堅ぐしけんスポーツジム野木のぎたけトレーナー師事しじし、戦術せんじゅつスタミナ強化きょうかつとめた[6]

ポンサクレックとの3度目どめ世界せかいタイトルせん決定けっていしたが、スポンサーあつめが難航なんこうし、資金しきん用意よういできず開催かいさいあやぶまれた。内藤ないとう会見かいけんで「ファイトマネーはゼロでいい。リングにげてください」と懇願こんがん[7]ディスカウントストア大手おおてドン・キホーテがスポンサーにいた[8]東京とうきょう独立どくりつUHFきょくであるTOKYO MXでのなま中継ちゅうけい決定けっていしたことから、無事ぶじ開催かいさいされた[9]

7がつ18にち、WBC世界せかいフライきゅう王座おうざ3度目どめ挑戦ちょうせんで、ポンサクレックに12R判定はんていち。32さい10かげつにして悲願ひがん世界せかいチャンピオンとなった[10]#だい3せん参照さんしょう

2007ねん10がつ11にち亀田かめださん兄弟きょうだい次男じなん亀田大かめだおおあつし当時とうじきょうさかえ)と対戦たいせんし、亀田大かめだおおあつしから度重たびかさなる反則はんそく行為こういけたが3-0の判定はんてい勝利しょうりした当該とうがいぶし参照さんしょう[11]内藤ないとうはこの勝利しょうり亀田かめだはじめてプロでの黒星くろぼしけただけでなく、これをきっかけに国民こくみんてき人気にんきしゃとなって以降いこう試合しあいすべTBSテレビ中継ちゅうけいした。

2008ねん3月8にち両国りょうこく国技こくぎかんで、ぜん王者おうじゃであるポンサクレックと2度目どめ防衛ぼうえいせん、ポンサクレックとの4度目どめ対戦たいせんおこなった。試合しあいは12R判定はんていでジャッジは内藤ないとう勝利しょうり1、ポンサクレック勝利しょうり1、ドロー1でけとなったため、規定きていにより2度目どめのタイトル防衛ぼうえいとなった当該とうがいぶし参照さんしょう

2008ねん7がつ30にち国立こくりつ代々木よよぎ競技きょうぎじょうだいいち体育館たいいくかんで、当時とうじ日本にっぽん王者おうじゃ清水しみず智信とものぶ金子かねこ)と3度目どめ防衛ぼうえいせん。9Rまで清水しみずアウトボクシング苦戦くせんしポイントリードをゆるしたが、10Rにカウンター起点きてんにしたラッシュでダウンをうばう。のぼった清水しみずさらたたけて2度目どめのダウンをうばい、逆転ぎゃくてんKOちで世界せかい王座おうざ3度目どめのタイトル防衛ぼうえいとなった。この興行こうぎょうではダブルタイトルマッチとして、WBA同級どうきゅう王者おうじゃ坂田さかた健史たけし防衛ぼうえいせんおこなわれた。

2008ねん12月23にち両国りょうこく国技こくぎかんで、もと東洋とうよう太平洋たいへいようライトフライきゅう王者おうじゃ山口やまぐちしんわれ渡嘉敷とかしき)と対戦たいせんした。11Rに山口やまぐちからダウンをうばうと、がってきたところに連打れんだたたみ、レフェリーストップで1ふん11びょうTKOち。世界せかい王座おうざ4度目どめ防衛ぼうえいたした。山口やまぐち戦前せんぜんには普段ふだん生活せいかつ見直みなおし「午前ごぜん0まえにはかならる」、「8時間じかん以上いじょう睡眠すいみん」、「ネットやメールは必要ひつよう最小限さいしょうげんひかえる」を実行じっこう。「やすみの練習れんしゅうするのは、サボるのと一緒いっしょ」とオーバーワークにも注意ちゅういした[12]

2009ねん5月26にち、WBC世界せかいフライきゅう10くま朝忠ちょうちゅう中国ちゅうごく)を相手あいてに5度目どめ防衛ぼうえいせん当初とうしょ中国ちゅうごく上海しゃんはいでの対戦たいせん予定よていであったが、現地げんちのイベント代行だいこう業者ぎょうしゃ不手際ふてぎわによって現地げんちでの開催かいさい断念だんねんし、急遽きゅうきょ東京とうきょうディファ有明ありあけで、前座ぜんざ試合しあいしのワンマッチ興行こうぎょう、チケットは当日とうじつけんのみという異例いれいかたち開催かいさいされた。試合しあい終始しゅうし苦戦くせんいられ、5Rに偶然ぐうぜんのバッティングでみぎまぶたをカット、6Rにはダウン[注釈ちゅうしゃく 1]、11Rには口内こうないをカットして出血しゅっけつし、くま猛攻もうこう防戦ぼうせん一方いっぽうとなった場面ばめんもあったが、3-0の判定はんていちで5度目どめ王座おうざ防衛ぼうえい成功せいこうした。

世界せかい王座おうざ陥落かんらく現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

2008ねん11月に開催かいさいされたWBC総会そうかいで、1パノムルンレック・クラティンデーンジム以外いがいに、同年どうねん5がつおこなわれた挑戦ちょうせんしゃ決定けっていせん勝利しょうりした2フリオ・セサール・ミランダにも指名しめい挑戦ちょうせんけんみとめるとされていたが、ミランダの指名しめい挑戦ちょうせんけんは2009ねん4がつぜん王者おうじゃであるポンサクレックと暫定ざんてい王座おうざ決定けっていせん対戦たいせんすることがまった時点じてん失効しっこうし、この決定けっていせんではポンサクレックが暫定ざんてい王座おうざ獲得かくとくした。

2009ねん11月、亀田かめだきょうあつしせんのリングにかう内藤ないとう宮田みやた博行ひろゆき

WBCよりポンサクレックとの王座おうざ統一とういつせんおこなうことが義務付ぎむづけられていたが、前述ぜんじゅつくません負傷ふしょう影響えいきょう延期えんきみとめられたことから、ポンサクレックは8がつ28にち母国ぼこく升田ますだ貴久たかひさ三迫みさこ)を相手あいてはつ防衛ぼうえいせんおこない、6かいTKOちで防衛ぼうえい成功せいこうした。内藤ないとう統一とういつせんまえ防衛ぼうえいせんを1試合しあいおこなうことをみとめられ、11月29にちねてより因縁いんねんふかかったもとWBA世界せかいライトフライきゅう王者おうじゃ亀田かめだきょうあつし対戦たいせんし、試合しあいは2Rにきょうあつしひだりストレートが内藤ないとうはなとらえ、このパンチ以降いこうはなからの断続だんぞくてき出血しゅっけついられ、アウトボクシングをするきょうあつし内藤ないとうつづける展開てんかいとなったが、きょうあつしとらえきれず0-3の判定はんていやぶれて王座おうざから陥落かんらくした[13]

家族かぞくからは引退いんたいすすめるこえもあり、進退しんたい注目ちゅうもくあつまっていたが、亀田かめだきょうあつしせんからちょうど2かげつ2010ねん1がつ29にち宮田みやたジムで記者きしゃ会見かいけんおこない、「打倒だとう亀田かめだ」をかか現役げんえき続行ぞっこう表明ひょうめいした[14]

2010ねん3がつ亀田かめだきょうあつしとの王座おうざ統一とういつせんのために東京とうきょうおとずれたポンサクレック・ウォンジョンカムと内藤ないとう

5月9にち後楽園こうらくえんホールで「再起さいきせん」として、リエンペット・ソー・ウィラポン(タイ)とノンタイトル10回戦かいせんおこない、5RKOちした。以降いこう1ねん以上いじょう試合しあいおこなわず、世界せかい王者おうじゃであるため、JBCの規定きていでライセンスが失効しっこうする37さいぎてもさい交付こうふ申請しんせい可能かのうだったが、手続てつづきをおこなっていないことがあきらかとなりライセンスをうしなった状態じょうたいであった[15]

2011ねん11月12にち放送ほうそうの『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)にて現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいし、後日ごじつ正式せいしき引退いんたい会見かいけんひらいた。

12月31にち大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかんおこなわれた井岡いおかはじめしょうのタイトルマッチの前座ぜんざ引退いんたいセレモニーがおこなわれ、2012ねん1がつ12にちには、かつての勤務きんむさきでありスポンサーの長谷工はせこうコーポレーション主催しゅさいによる引退いんたいパーティーがひらかれ、エキシビションを披露ひろうした[16]

引退いんたい[編集へんしゅう]

2012ねん6がつより『ダイヤモンドグローブ』(フジテレビNEXT)の解説かいせつしゃ就任しゅうにんすることが発表はっぴょうされた[17]。6月20にちには、TBSが中継ちゅうけいした井岡いおかはじめしょう八重樫やえがしひがしWBC・WBAミニマムきゅう王座統おうざとういちせん解説かいせつしゃとして出演しゅつえんし、以降いこうもTBSのボクシング中継ちゅうけい解説かいせつつとめている。フジテレビにもゲスト出演しゅつえんするほか、現役げんえき時代じだいにもテレビ東京てれびとうきょう中継ちゅうけいにゲスト解説かいせつとして出演しゅつえんしたことがある。

また、フジテレビけいひるドラ『モメるもんにはぶくきたる』で、本格ほんかくてき俳優はいゆうデビューした[18]

2013ねん7がつには、北海道ほっかいどう札幌さっぽろ白石しらいし内藤ないとうがプロデュースするラーメンてんめんべんべ」が開業かいぎょうしている。

2016ねん10がつ23にち長野ながのけん諏訪すわおこなわれた「だい28かい諏訪湖すわこマラソン[19]」から長谷工はせこうコーポレーションの出場しゅつじょうメンバーととも出場しゅつじょうしている[20]

2019ねん2がつ北海道ほっかいどう民放みんぽう5きょくNHK札幌放送局さっぽろほうそうきょくによる共同きょうどうキャンペーン『One Hokkaido Project』のキャンペーンソングに参加さんか[21]

2019ねん10がつ11にち東京とうきょう都内とないでバイクを運転うんてんちゅうにトラックと接触せっしょく転倒てんとうして肋骨あばらぼね重傷じゅうしょうった[22]

戦績せんせき[編集へんしゅう]

プロボクシング 戦績せんせき
42 試合しあい (T)KO 判定はんてい その 無効むこう試合しあい
36 かち 23 13 0 3 0
3 はい 1 2 0
せん 日付ひづけ 勝敗しょうはい 時間じかん 内容ないよう 対戦たいせん相手あいて 国籍こくせき 備考びこう
1 1996ねん10がつ11にち 1R 0:55 KO 西野にしの龍三りゅうぞう (レパードだまぐま 日本の旗 日本にっぽん プロデビューせん
2 1997ねん4がつ30にち 2R 0:39 KO 押金励 (角海老宝石かどえびほうせき 日本の旗 日本にっぽん 1997ねん東日本ひがしにっぽんジュニアフライきゅう新人しんじんおうトーナメント予選よせん
3 1997ねん6がつ17にち 1R 0:42 KO せき裕介ゆうすけ高崎たかさき 日本の旗 日本にっぽん
4 1997ねん8がつ1にち 4R 判定はんてい1-0 榎本えのもと信行のぶゆき三迫みさこ 日本の旗 日本にっぽん
5 1998ねん4がつ23にち 1R 1:45 KO 安斉あんざい治明じめい (Fあか 日本の旗 日本にっぽん 1998ねん東日本ひがしにっぽんフライきゅう新人しんじんおうトーナメント予選よせん
6 1998ねん6がつ30にち 1R 1:24 TKO 佐藤さとうたかしMI花形はながた 日本の旗 日本にっぽん
7 1998ねん8がつ7にち 1R 2:20 KO 伊藤いとう克憲かつのり角海老宝石かどえびほうせき 日本の旗 日本にっぽん
8 1998ねん9がつ28にち 4R 判定はんてい2-0 久保田くぼた隆治りゅうじおき 日本の旗 日本にっぽん
9 1998ねん11月8にち 6R 判定はんてい3-0 佐藤さとうひろしあきら (Fあか 日本の旗 日本にっぽん 1998ねん東日本ひがしにっぽんフライきゅう新人しんじんおうトーナメント決勝けっしょうせん
10 1998ねん12月9にち 1R 1:00 KO ぶく山登やまのぼり大阪帝拳おおさかていけん 日本の旗 日本にっぽん 1998ねん全日本ぜんにほんフライきゅう新人しんじんおう決定けっていせん
11 1999ねん4がつ5にち 2R 1:36 TKO ジュン・オルハリーサ フィリピンの旗 フィリピン
12 1999ねん6がつ14にち 7R 0:25 TKO ジョビー・マンチャ フィリピンの旗 フィリピン
13 1999ねん9がつ13にち 1R 1:28 KO 明星みょうじょう 大韓民国の旗 韓国かんこく
14 1999ねん12月15にち 8R 判定はんてい3-0 田中たなかじゅんワタナベ 日本の旗 日本にっぽん
15 2000ねん7がつ6にち 6R 判定はんてい3-0 伊波いは秀吉ひでよし具志川ぐしかわ 日本の旗 日本にっぽん
16 2000ねん9がつ19にち 3R 2:12 KO ヨドペット・チュワタナ タイ王国の旗 タイ
17 2000ねん10がつ28にち 3R 1:11 TKO サックモンコン・シンマナサック タイ王国の旗 タイ
18 2000ねん12月5にち 10R 判定はんてい 池田いけだ政光まさみつ渡嘉敷とかしき 日本の旗 日本にっぽん
19 2001ねん2がつ13にち 5R 2:37 TKO 殿台とのだいカローラ (殿台とのだい赤城あかぎ フィリピンの旗 フィリピン
20 2001ねん7がつ16にち 10R 判定はんてい1-0 坂田さかた健史たけしきょうさかえ 日本の旗 日本にっぽん 日本にっぽんフライきゅうタイトルマッチ
21 2001ねん10がつ18にち 5R 2:16 TKO ウィン・ネイションマン タイ王国の旗 タイ
22 2002ねん4がつ19にち 1R 0:34 KO ポンサクレック・ウォンジョンカム タイ王国の旗 タイ WBC世界せかいフライきゅうタイトルマッチ
世界せかいフライきゅうタイトルマッチ史上しじょう最短さいたんKO記録きろく
23 2002ねん9がつ19にち 7R 1:53 TKO タオチャイ・ソーソーゴージム タイ王国の旗 タイ
24 2002ねん12月11にち 10R 判定はんてい3-0 菊井きくいとおるたいら花形はながた 日本の旗 日本にっぽん
25 2003ねん2がつ26にち 2R 0:34 TKO マノップ・シットゴーソン タイ王国の旗 タイ
26 2003ねん9がつ2にち 5R 1:15 TKO ソントーン・チタラダ タイ王国の旗 タイ
27 2004ねん2がつ25にち 2R 2:46 TKO 瓜生うりゅうたかしだい輪島わじまS) 日本の旗 日本にっぽん
28 2004ねん6がつ6にち 6R 2:33 負傷ふしょう判定はんてい3-0 中野なかのひろし畑中はたなか 日本の旗 日本にっぽん 日本にっぽんフライきゅうタイトルマッチ
29 2004ねん10がつ11にち 1R 0:24 TKO 小嶋こじま武幸たけゆき横浜よこはまさくら 日本の旗 日本にっぽん 日本にっぽん王座おうざ防衛ぼうえい1/日本にっぽんタイトルマッチ史上しじょう最短さいたんKO記録きろく
30 2005ねん4がつ11にち 10R 判定はんてい3-0 榎本えのもと信行のぶゆき三迫みさこ 日本の旗 日本にっぽん 日本にっぽん王座おうざ防衛ぼうえい2
31 2005ねん10がつ10日とおか 7R 2:38 負傷ふしょう判定はんてい0-3 ポンサクレック・ウォンジョンカム タイ王国の旗 タイ WBC世界せかいフライきゅうタイトルマッチ
32 2006ねん2がつ13にち 10R 判定はんてい2-1 中広なかひろ大悟たいご広島ひろしま三栄さんえい 日本の旗 日本にっぽん 日本にっぽん王座おうざ防衛ぼうえい3
33 2006ねん6がつ27にち 6R 1:38 TKO 小松こまつ則幸のりゆきエディタウンゼント 日本の旗 日本にっぽん 日本にっぽん・OPBF東洋とうよう太平洋たいへいようフライきゅう王座統おうざとういちせん
日本にっぽん王座おうざ防衛ぼうえい4
34 2006ねん12がつ10日とおか 12R 判定はんてい3-0 吉山よしやま博司ひろし (ヨシヤマ) 日本の旗 日本にっぽん OPBF防衛ぼうえい1
35 2007ねん7がつ18にち 12R 判定はんてい3-0 ポンサクレック・ウォンジョンカム タイ王国の旗 タイ WBC世界せかいフライきゅうタイトルマッチ
36 2007ねん10がつ11にち 12R 判定はんてい3-0 亀田大かめだおおあつしきょうさかえ 日本の旗 日本にっぽん WBC防衛ぼうえい1
37 2008ねん3がつ8にち 12R 判定はんてい1-1 ポンサクレック・ウォンジョンカム タイ王国の旗 タイ WBC防衛ぼうえい2
38 2008ねん7がつ30にち 10R 0:57 KO 清水しみず智信とものぶ金子かねこ 日本の旗 日本にっぽん WBC防衛ぼうえい3
39 2008ねん12月23にち 11R 1:11 TKO 山口やまぐちしんわれ渡嘉敷とかしき 日本の旗 日本にっぽん WBC防衛ぼうえい4
40 2009ねん5がつ26にち 12R 判定はんてい3-0 くま朝忠ちょうちゅう(ユウ・チョウチュウ) 中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく WBC防衛ぼうえい5
41 2009ねん11月29にち 12R 判定はんてい0-3 亀田かめだきょうあつし亀田かめだ 日本の旗 日本にっぽん WBC王座おうざ陥落かんらく
42 2010ねん5がつ9にち 5R 2:12 KO リエンペット・ソー・ウィラポン タイ王国の旗 タイ
テンプレート

獲得かくとくタイトル・記録きろく[編集へんしゅう]

  • 東日本ひがしにっぽんフライきゅう新人しんじんおう
  • 全日本ぜんにほんフライきゅう新人しんじんおう
  • 日本にっぽんフライきゅう王座おうざ防衛ぼうえい4=返上へんじょう
  • OPBF東洋とうよう太平洋たいへいようフライきゅう王座おうざ防衛ぼうえい1=返上へんじょう日本にっぽん東洋とうよう現役げんえき2かん達成たっせい
  • WBC世界せかいフライきゅう王座おうざ防衛ぼうえい5)
受賞じゅしょうれき
各種かくしゅ記録きろく
  • 世界せかいフライきゅうタイトルマッチ史上しじょう最短さいたんKO記録きろく(2002ねん4がつ19にち、vs ポンサクレック・シンワンチャー、1R 0:34style="background: #ffdddd; vertical-align: middle; text-align: center; " class="table-no2" |★)
  • 日本にっぽんタイトルマッチ史上しじょう最短さいたんKO記録きろく(2004ねん10がつ11にち、vs 小嶋こじま武幸たけゆき、1R 0:24style="background:#dfd; vertical-align:middle; text-align:center; " class="table-yes2" |☆)[注釈ちゅうしゃく 3]
  • 2008ねん TBSテレビ年間ねんかん視聴しちょうりつトップ3[24](かっこない番組ばんぐみ平均へいきん世帯せたい視聴しちょうりつ
    • 3月8にち、ボクシングWBC世界せかいフライきゅうタイトルマッチ・内藤ないとう大助だいすけ×ポンサクレック(26.3)
    • 12月23にち、ボクシングWBC世界せかいフライきゅうタイトルマッチ・内藤ないとう大助だいすけ×山口やまぐちしんわれ(25.6)
    • 7がつ30にち、ボクシング世界せかいフライきゅうダブルタイトルマッチ・内藤ないとう大助だいすけ×清水しみず智信とものぶ & 坂田さかた健史たけし×久高くだか寛之ひろゆき(24.7)

プロボクサーとして[編集へんしゅう]

入場にゅうじょうきょくは、C-C-Bが1985ねんにリリースした『Romanticがまらない[25]

リーチは173cmで、フライきゅうではなが部類ぶるいはいる。ハードパンチャーでもあり、生涯しょうがいKOりつは7わりちかくにたっした。ボクシングスタイルは変則へんそくてきしょうされ、つね上体じょうたいおおきくうごかしながらパンチをし、反動はんどうかして追撃ついげき回避かいひ、あるいはその両方りょうほう素早すばやおこなう。また、コンビネーションのリズムの変化へんか豊富ほうふなフェイントなども、対戦たいせん相手あいて困惑こんわくさせる要因よういんとなっている。

パーリングやウィービング、あるいはスリッピングなどのパンチからげずにかわしそく反撃はんげきつなげる技術ぎじゅつひいでており、試合しあいでは相手あいてのパンチに即座そくざ反応はんのうしてパーリングしつつ、ほぼ同時どうじ反撃はんげきのパンチをれるシーンをせ、2008ねん12月23にち山口やまぐちしんわれせんでは11R1ふん11びょうでTKOちをおさめるまでに839はつ記録きろく(日刊にっかんスポーツ調しらべ)するなど、手数てかずおおさにも定評ていひょうがあった[12]

好敵手こうてきしゅ・ポンサクレック[編集へんしゅう]

タイがほこめいボクサー、ポンサクレック・ウォンジョンカムとは、4わた対戦たいせんした。

だい1せん[編集へんしゅう]

2002ねん4がつ19にち無敗むはい世界せかいはつ挑戦ちょうせんてきタイで、ポンサックレックのつWBC世界せかいフライきゅう王座おうざいどんだ(ポンサクレックは5度目どめ防衛ぼうえいせん)。

てきゆえに判定はんてい決着けっちゃくではけると判断はんだんした内藤ないとうは、初回しょかいから積極せっきょくてき仕掛しかけるが、開始かいし20びょう付近ふきん内藤ないとうみぎアッパーした矢先やさき、ポンサクレックがひだりフックかぶせた。結果けっか強烈きょうれつカウンターとなり内藤ないとうはリングじょうだいになりながら失神しっしんし、世界せかいフライきゅうタイトルマッチ史上しじょう最短さいたんとなる34びょうでのKOけとなった。

だい2せん[編集へんしゅう]

2005ねん10がつ10日とおか、ポンサクレックにさい挑戦ちょうせんした。ポンサクレックは防衛ぼうえいかさね、この試合しあいが12度目どめ防衛ぼうえいせんだった。

1Rは内藤ないとうがポンサクレックにたいして積極せっきょくてき攻撃こうげき仕掛しかけたが、2Rの偶然ぐうぜんバッティング内藤ないとう出血しゅっけつし、ポンサクレックの攻勢こうせいから、7Rに試合しあいがストップ。負傷ふしょう判定はんてい内藤ないとう世界せかいさい挑戦ちょうせん失敗しっぱいした。

だい3せん[編集へんしゅう]

2007ねん7がつ18にちさんたびポンサクレックに挑戦ちょうせんした。ポンサクレックの王座おうざ防衛ぼうえい回数かいすうは、ミゲル・カントメキシコ)の「14」を上回うわまわる、フライきゅう史上しじょう最多さいたの「17」にまでびていた。

だい1せんだい2せん反省はんせいまえ、内藤ないとう序盤じょばんから距離きょりをとり、ながいリーチと変則へんそくてきアウトボクシングみぎストレートとひだりフックで有効ゆうこうかさねていった。ポンサクレックも要所ようしょでコンビネーションブローをめ、試合しあい判定はんていもつんだ結果けっか、3・3・2の3-0判定はんてい内藤ないとう勝利しょうりとなり、32さい10かげつにして悲願ひがん世界せかいチャンピオンとなった。

判定はんてい結果けっかいた内藤ないとうは、自分じぶんみぎほおをつねったりかおたたくなどして「ゆめではない」ことをたしかめる素振そぶりをせていた。2007年度ねんど年間ねんかん最高さいこう試合しあい選出せんしゅつされた。

だい4せん[編集へんしゅう]

亀田大かめだおおあつしとのはつ防衛ぼうえいせんせいした内藤ないとうは、WBCの規定きていにより、2008ねん3月8にちぜん王者おうじゃポンサクレックと2度目どめ防衛ぼうえいせんおこなった。

序盤じょばんから中盤ちゅうばんけてはなか々パンチがたらない展開てんかいだったが、中盤ちゅうばん以降いこうにおたがいのパンチがたりし、おたが最終さいしゅうラウンドまであしまらないタフでアグレッシブな試合しあいとなった。

判定はんていは1-1のさんしゃさんようけとなり、内藤ないとうが2度目どめ防衛ぼうえい成功せいこうした。

亀田かめだとの因縁いんねん[編集へんしゅう]

長男ちょうなんきょうあつしへの対戦たいせん要求ようきゅう[編集へんしゅう]

こと発端ほったんは2005ねん1がつ、そのビッグマウス派手はでパフォーマンス当時とうじのボクシングかい話題わだいをさらっていた亀田かめだきょうあつしが、週刊しゅうかんのインタビューのなか内藤ないとうを「よわい」とひょうし、これをけた内藤ないとうきょうあつし対戦たいせんけたことにはじまる。しかし亀田かめだ陣営じんえいは「だれやそれ? 興味きょうみいわ」「6回戦かいせんレベル」などと歯牙しがにもけない態度たいどつらぬいていた[26][27]内藤ないとうけじと、自身じしん容姿ようしている波田なみたようちネタである「ギターさむらい」にふんし、「結局けっきょくげられて…残念ざんねん! 亀田かめだくん、たまには日本人にっぽんじんとやろうよ…り!!」というキャッチコピーをせたポスターを作製さくせいするなどして、亀田かめだ陣営じんえい挑発ちょうはつした[注釈ちゅうしゃく 4]

内藤ないとうはポンサクレックへの3度目どめ挑戦ちょうせんまえに「世界せかい王者おうじゃになれたら亀田かめだ挑戦ちょうせんしゃ指名しめいする」と宣言せんげんした。試合しあい内藤ないとうは、「これで立場たちばぎゃくになった。チャンピオンになったのだから、どっしりとかまえますよ。あっちが(たたかいたいと)ってくるまでつ」とコメント。これをきょうあつしも「いつでもやってやる」と挑戦ちょうせんしゃ名乗なのりをげたが、はつ防衛ぼうえいせん相手あいてきょうあつしではなく次男じなんだいあつし当時とうじWBCフライきゅう14)に決定けっていした[28]

次男じなんだいあつしとのはつ防衛ぼうえいせん[編集へんしゅう]

マッチ契約けいやくまえから当該とうがい興行こうぎょうは、亀田かめだ兄弟きょうだい所属しょぞくする協栄きょうえいジムのプロモートが決定けっていしており、きょうさかえがわだいあつしに、世界せかい王座おうざ獲得かくとく日本人にっぽんじん最年少さいねんしょう記録きろくけさせたいと目論もくろんでいたことから、内藤ないとう陣営じんえいきびしい交渉こうしょう期限きげんもうけていた。そのため宮田みやたジムの宮田みやた博行ひろゆき会長かいちょうは、ポンサクレック陣営じんえいつオプションの交渉こうしょうを1にちめるために奔走ほんそうした[29]

両者りょうしゃ舌戦ぜっせんひろげ、亀田かめだ陣営じんえい内藤ないとうゴキブリばわりして挑発ちょうはつしたが、内藤ないとうは「まえ自分じぶんゴキブリばわりしたけど、ゴキブリはしぶといよ。地球ちきゅう滅亡めつぼうしてものこるんだからね。ゴキブリが1ばんつよいことを証明しょうめいしますよ」「亀田かめだ兄弟きょうだいなん日本人にっぽんじんたたかわないのかと、みんながおもっている。ここでぼくたたかわないと亀田かめだ人気にんきがるんじゃないの?」などと反撃はんげきし、だいあつしも「(取材しゅざい記者きしゃから対策たいさくかれ)ゴキブリに分析ぶんせきもクソもあるか。ゴキブリホイホイや」[30]「あいつむかしいじめられとったんやろ? おれがリングでいじめたるよ。おれはいじめっや!」などと舌戦ぜっせんひろげた。

試合しあいは、序盤じょばんからガードをかためて突進とっしんする単調たんちょう試合しあいはこびだっただいあつしたいし、内藤ないとうがガードのうえから有効ゆうこうびせるなど老獪ろうかい技術ぎじゅつ最終さいしゅうラウンドまで圧倒あっとうし、判定はんてい3-0で圧勝あっしょうはつ防衛ぼうえいとなった。だいあつし序盤じょばんからサミングローブローし、試合しあいちゅうオープンスコアリングシステムだいあつし不利ふりつたえられると、12Rではグローブのうえからサミングをし、さら内藤ないとうかかえてばすなど様々さまざま反則はんそく行為こういおこなった。

これらをあにきょうあつしちち史郎しろう指示しじしていた事実じじつのちあきらかになり、日本にっぽんちゅうからの批判ひはんさらされた。内藤ないとう勝利しょうりしゃインタビューで「おもった以上いじょうにやりにくかった。ただ、ポンサクレックより全然ぜんぜんよわかったです」、「亀田かめだはつ黒星くろぼしをつけて、国民こくみん期待きたいすこしはこたえられたとおもいます」とコメント。試合しあい会見かいけんでは「(がったりょう周辺しゅうへんして)これは全部ぜんぶサミングです。試合しあいちゅうはずっとばかりねらってきた」といかりをあらわにし、「ボクシングは喧嘩けんかではなくスポーツ。あっちが反省はんせいしないのなら、もう亀田かめだ兄弟きょうだいとはやらない」と宣言せんげんした。

しかし、10月17にち亀田かめだ父子ふし会見かいけん謝罪しゃざいしたのをけ、「ああいう態度たいど亀田かめだ父子ふしるのははじめて。ぼくはもうわったことだからとっている。いがみってわりになったので『おつかれさま』とたたいたい」とべ、和解わかい前向まえむきな姿勢しせいせた。だいあつし会見かいけん翌日よくじつ内藤ないとうたく訪問ほうもん直接ちょくせつ謝罪しゃざいし、史郎しろう電話でんわにて謝罪しゃざいをしたとのことで、内藤ないとうは「気持きもちはつたわりました。この問題もんだいはこれで本当ほんとうわりです」とコメントした[31]

きょうあつしとの対戦たいせん王座おうざ陥落かんらく[編集へんしゅう]

2008ねん7がつ30にちおこなわれた3度目どめ防衛ぼうえいせんでの内藤ないとう勝利しょうりしゃインタビューちゅうに、突如とつじょ亀田かめだきょうあつしがリングにがり「つぎ試合しあいをしよう」などとマイクパフォーマンスをした。きょうあつし行動こうどうたい観客かんきゃくせきからは歓声かんせいじりの野次やじび、試合しあい中継ちゅうけいしたTBSに視聴しちょうしゃからの抗議こうぎせられたが、TBSがわは「ハプニングで、設定せっていではない」としている[32]

2009ねん11月29にちきょうあつしとWBCフライきゅう王座おうざ6度目どめ防衛ぼうえいせんおこなった。序盤じょばんきょうあつしのカウンターではな骨折こっせつし、そのアウトボクシングにてっしたきょうあつし作戦さくせんこうそうし、0-3の判定はんていやぶ王座おうざ防衛ぼうえい失敗しっぱいした。

敗戦はいせん引退いんたいにおわせる発言はつげんもしていた内藤ないとうだったが、王座おうざ陥落かんらくから2かげつの2010ねん1がつ29にち宮田みやたジムで記者きしゃ会見かいけんおこない、きょうあつしとの再戦さいせん目指めざ現役げんえき続行ぞっこう表明ひょうめいしたものの、とうきょうあつしは3かいきゅう制覇せいは目指めざしていたこともあり、再戦さいせんには消極しょうきょくてきであった[33]

興行こうぎょうけん内藤ないとうがわ保持ほじしており、きょうあつしはつ防衛ぼうえいせんとなる指名しめい試合しあいせいした場合ばあいには再戦さいせん可能かのうだったものの[14]きょうあつしがポンサクレックにやぶはつ防衛ぼうえい失敗しっぱいし、きょうあつし階級かいきゅうバンタムきゅうげたことで対戦たいせん可能かのうせいがほぼくなったことが、引退いんたいめる要因よういんの1つとなった[34]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

母親ははおや教育きょういく方針ほうしんきびしく、「母親ははおやからいちめられたことがない」とはなしており、とうははも「めてそだてるのは趣味しゅみじゃない」とインタビューでこたえている[5][35]内藤ないとう中学ちゅうがく時代じだい、いじめられていることをはは相談そうだん出来できなかったが、ははは「いじめられていたことをっていればだまっていなかった。ボクサーになった大助だいすけ祝勝しゅくしょうかいはなすのをくまで、まったくらなかった。づいてやれなかった自分じぶん不甲斐ふがいなさにはらつ」と自責じせきねんがあるとしている[3]。また、日本にっぽん王者おうじゃになったさいうれしさのあまり母親ははおや連絡れんらくをしたが、かれ気分きぶんいさめる目的もくてきがあったのか、母親ははおやから「よろこぶのは世界せかいせいしてからにしろ。日本にっぽん王者おうじゃになったぐらいでいいになるな」とわれ、ぎゃくおこられたという。

内藤ないとう収入しゅうにゅう不安定ふあんていだったにもかかわらず、夫人ふじんとの結婚けっこんゆるしてくれた義理ぎり両親りょうしん敬愛けいあいしており、テレビ朝日てれびあさひ系列けいれつ人気にんき番組ばんぐみだい改造かいぞう!!劇的げきてきビフォーアフター』をつうじて店舗てんぽけん自宅じたくリフォームをプレゼントしている[36]。これが契機けいきとなり、「有名人ゆうめいじん実家じっかリフォーム相談そうだんスペシャル」がシリーズされた。

2007ねんまつ、トレーニングの一環いっかんとして大相撲おおずもう宮城野みやぎの部屋へやおとずれ、どう部屋へや所属しょぞくだい69だい横綱よこづなはくほう稽古けいこおこなった。翌年よくねん2がつにははくほう宮田みやたジムをおとずれ、内藤ないとうとサンドバッグはたきやミットちなどを練習れんしゅうし、親交しんこうふかめている[37][38]。これがえんで、『関口せきぐちひろし東京とうきょうフレンドパークII』(TBS)ではくほう共演きょうえんしている。

出演しゅつえん作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビ[編集へんしゅう]

単発たんぱつ出演しゅつえん番組ばんぐみのぞく。

ラジオ[編集へんしゅう]

  • 内藤ないとう大助だいすけラジオパンチドランカー(TBSラジオ
    • Kakiiinうち(2007ねん12月5にち - 2008ねん3がつ28にち同年どうねん10がつ1にち - 2009ねん3がつ18にち毎週まいしゅう水曜日すいようび) - 10月1にち放送ほうそうぶんより『グリグリ』から移動いどう
    • グリグリ 〜goody goody〜うち(2008ねん4がつ21にち - 2008ねん9がつ1にち毎週まいしゅう月曜日げつようび

CM[編集へんしゅう]

CD[編集へんしゅう]

MV[編集へんしゅう]

  • わたしたちのみち - One Hokkaido Project[41]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

WEB[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ダウンをきっしたのはたいポンサクレックせん初戦しょせんKO以来いらい生涯しょうがいで2度目どめ
  2. ^ 日本人にっぽんじんボクサーとしては辰吉たつよし丈一郎じょういちろう以来いらい快挙かいきょ
  3. ^ ぜん階級かいきゅうつうじての最短さいたん記録きろく
  4. ^ 2005ねん4がつ11にち開催かいさい日本にっぽんフライきゅうタイトルマッチのたい榎本えのもと信行のぶゆきせんのポスター。
  5. ^ レスキューフォース応援おうえん団長だんちょうつとめた。
  6. ^ iTunes Storeなどでのオーディオブック朗読ろうどくばんダウンロード販売はんばいもあり。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ a b “いじめときみ - 《いじめられているきみへ》内藤ないとう大助だいすけさん”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2012ねん7がつ13にち). http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201207130504.html 2013ねん8がつ19にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b “プロボクサー・内藤ないとう大助だいすけのおかあ 道子みちこさん:2「いじめを見返みかえしたいという意地いじ」”. 朝日新聞あさひしんぶん (asahi.com). (2010ねん12月14にち). http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY201012130137.html 2013ねん8がつ19にち閲覧えつらん 
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  8. ^ ドンキホーテ 応援おうえん' ファンのみなさまへ” (PDF). ドン・キホーテ. 2011ねん3がつ9にち閲覧えつらん
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ぜん王者おうじゃ
中野なかのひろし
だい49だい日本にっぽんフライきゅう王者おうじゃ

2004ねん6がつ6にち - 2007ねん4がつ25にち返上へんじょう

空位くうい
タイトル獲得かくとくしゃ
吉田よしだけん
ぜん王者おうじゃ
小松こまつ則幸のりゆき
だい35だいOPBF東洋とうよう太平洋たいへいようフライきゅう王者おうじゃ

2006ねん6がつ27にち - 2007ねん1がつ20日はつか返上へんじょう

空位くうい
タイトル獲得かくとくしゃ
ジョジョ・バルドン
ぜん王者おうじゃ
ポンサクレック・ウォンジョンカム
WBC世界せかいフライきゅう王者おうじゃ

2007ねん7がつ18にち - 2009ねん11月29にち

王者おうじゃ
亀田かめだきょうあつし