立田たったがわ部屋へや

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立田たったがわ部屋へや(たつたがわべや)は、かつて日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい所属しょぞくしていた時津風ときつかぜ一門いちもん相撲すもう部屋へや[1]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

1968ねん昭和しょうわ43ねん)12月、だい35だい横綱よこづな双葉ふたばさん時津風ときつかぜ親方おやかた急逝きゅうせい。それにともない、先代せんだい時津風ときつかぜ右腕うわんとして尽力じんりょくしてきた部屋へや親方おやかた立田たったがわだい42だい横綱よこづなかがみさと)が時津風ときつかぜ部屋へや継承けいしょうした。しかし直後ちょくご部屋へや後継こうけいしゃに、引退いんたいしたばかりの13だいにしきとうもと大関おおぜき豊山とよやま)を指名しめいしていたとの遺言ゆいごん存在そんざいあきらかになった。そこでもとかがみさと年寄としより立田たったがわもどり、1971ねん昭和しょうわ46ねん)9がつしん弟子でし、10代立田たったさんもと大関おおぜき大内山おおうちやま)、10代錣山もと小結こむすび若葉わかばさん)、7だいしきしゅうもと小結こむすびうしおにしき)、9だいじゅうやまもと関脇せきわけあおさと)の4にん年寄としよりれ、独立どくりつして48さい立田たったがわ部屋へや創設そうせつした。しかし、なかなか関取せきとりそだたず、じゅうりょう高道たかみち一人ひとりしか誕生たんじょうしなかった。

1969ねん昭和しょうわ44ねん)3がつ場所ばしょかぎりで引退いんたいした時津風ときつかぜ部屋へや大関おおぜき豊山とよやま)のもと関脇せきわけあおさとは、年寄としよりじゅうやま襲名しゅうめいして立田たったがわ部屋へや部屋へや親方おやかたとして後進こうしん指導しどうたっていたが、立田たったがわかがみさと)が1988ねん昭和しょうわ63ねん)4がつ停年ていねんむかえるため、同年どうねん2がつ師匠ししょう年寄としより名跡みょうせき交換こうかんして、部屋へや継承けいしょうした。継承けいしょう千代田ちよだ飯田橋いいだばし部屋へやかまえ、その葛飾かつしか新小岩しんこいわ移転いてんした。先代せんだいからの弟子でしであったぶくさとげん若者わかものあたま)や、直弟子じきでし敷島しきしま十文字じゅうもんじゆたかさくら関取せきとり昇進しょうしんした。しかし、2000ねん平成へいせい12ねん)11月場所ばしょちゅう停年ていねんむかえるため、同年どうねん9がつ場所ばしょ最後さいご部屋へやめ、所属しょぞく力士りきし陸奥むつ部屋へや移籍いせきした[1]

最終さいしゅう所在地しょざいち[編集へんしゅう]

師匠ししょう[編集へんしゅう]

  • 13だいたて田川たがわ喜代治きよじ(たつたがわ きよじ、横綱よこづなかがみさと青森あおもり
  • 14だい立田たったがわさかり(たつたがわ さかり、関脇せきわけあおさと青森あおもり

力士りきし[編集へんしゅう]

幕内まくうち[編集へんしゅう]

前頭まえがしら

じゅうりょう[編集へんしゅう]

幕下まくした以下いか[編集へんしゅう]

  • 琉鵬かつらすけした31・沖縄おきなわ)14だい弟子でし陸奥むつ部屋へや移籍いせき後前うしろまえ16
  • 白馬しろうまあつし37・モンゴル)14だい弟子でし陸奥むつ部屋へや移籍いせき小結こむすび

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p36-39