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大山おおやま部屋へや

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

大山おおやま部屋へや(おおやまべや)は、かつて日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい存在そんざいした高砂たかさご一門いちもん相撲すもう部屋へや

沿革えんかく[編集へんしゅう]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ場所ばしょかぎりで引退いんたいした高砂たかさご部屋へや大関おおぜき2だいあさうしお太郎たろう所属しょぞくもと関脇せきわけこうのぼるが、年寄としより大山おおやま襲名しゅうめいして1940ねん昭和しょうわ15ねん)に高砂たかさご部屋へやから分家ぶんけ独立どくりつして大山おおやま部屋へや創設そうせつした。1945ねん昭和しょうわ20ねん)の東京とうきょうだい空襲くうしゅうでは、部屋へやつま長女ちょうじょしん弟子でしをいっぺんにくしてしまった。その、10代大山おおやま1955ねん昭和しょうわ30ねん)に直弟子じきでしまつのぼる大関おおぜき昇進しょうしんさせ、ついに1961ねん昭和しょうわ36ねん)12月に念願ねんがん土俵どひょうきの部屋へや完成かんせいさせたが、部屋へやびらきから2週間しゅうかん1962ねん昭和しょうわ37ねん)1がつ心臓麻痺しんぞうまひのため53さい急死きゅうしした。

1961ねん昭和しょうわ36ねん)11月場所ばしょかぎりで引退いんたいした10代大山おおやま直弟子じきでしまつのぼるは、年寄としより振分ふりわけ襲名しゅうめいして大山おおやま部屋へや部屋へや親方おやかたとして後進こうしん指導しどうにあたっていたが、先代せんだい急逝きゅうせいしたため1962ねん昭和しょうわ37ねん)1がつに11だい大山おおやま名跡みょうせき変更へんこうして大山おおやま部屋へや継承けいしょうした。家庭かていてき雰囲気ふんいきちいさな部屋へやで、土俵どひょうしの状態じょうたいつづけた[矛盾むじゅん]。また、力士りきしかずすくなかったこともあり本家ほんけ高砂たかさご部屋へやや、おなじく力士りきしすくなかったくまたに部屋へや稽古けいこをしていた[1]が、そんななか直弟子じきでしだい幕内まくうちまで昇進しょうしんした。1979ねん昭和しょうわ54ねん)には、江戸川えどがわ東小岩ひがしこいわ土俵どひょうきの新築しんちく部屋へや施設しせつてられ、移転いてんした[1]

1986ねん昭和しょうわ61ねん)4がつ、11だい大山おおやま急死きゅうししたため、部屋へや年寄としよりの13だいやまひびきもと幕内まくうちだい)が、12だい大山おおやま名跡みょうせき変更へんこうして大山おおやま部屋へや継承けいしょうした。しかし部屋へや経営けいえい困難こんなんなため、わずか1ヶ月かげつ同年どうねん5がつ場所ばしょかぎりで部屋へやじ、師匠ししょう力士りきし床山とこやま世話人せわにん全員ぜんいん高砂たかさご部屋へや横綱よこづな3だいあさうしお太郎たろう)に移籍いせきした。12だい大山おおやまはその東関ひがしせき部屋へや八角はっかく部屋へやさい移籍いせきしている。

師匠ししょう[編集へんしゅう]

  • 10代:大山おおやまわたる(おおやま わたる、関脇せきわけこうのぼる長野ながの
  • 11だい大山おおやまあきらろう(おおやま しげお、大関おおぜきまつのぼる千葉ちば
  • 12だい大山おおやますすむ(おおやま すすむ、ぜん2・だい愛知あいち

力士りきし[編集へんしゅう]

横綱よこづな大関おおぜき[編集へんしゅう]

大関おおぜき

幕内まくうち[編集へんしゅう]

前頭まえがしら
  • だいすすむぜん2・愛知あいち)11だい弟子でし

じゅうりょう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b “「ひろ土俵どひょう」に悲哀ひあいかんも… 苦闘くとうつづ大相撲おおずもうしょう部屋へやれん”. 朝日新聞あさひしんぶん. (1986ねん5がつ9にち)