南部なんぶ地方ちほう

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南部なんぶりょう盛岡もりおかはん八戸はちのへはん
黄色おうしょく盛岡もりおかはんりょう(+ななはんりょう
ピンク色ぴんくいろ八戸はちのへはんりょう

八戸はちのへ博物館はくぶつかん八戸はちのへはん誕生たんじょう」)
青森あおもり県内けんない南部なんぶ地方ちほう
  南部なんぶ地方ちほう
秋田あきた県内けんない南部なんぶ地方ちほう(= 鹿角かつの地方ちほう

南部なんぶ地方ちほう(なんぶちほう)は、江戸えど時代じだい南部なんぶ所領しょりょうだった地域ちいきたん南部なんぶともう。

明治維新めいじいしんまえまでの陸奥みちのくこく北部ほくぶめ、現在げんざい都道府県とどうふけんでは、青森あおもりけんひがし半分はんぶん岩手いわてけん北部ほくぶおよび中部ちゅうぶ秋田あきたけん北東ほくとう一角いっかくという3けんにまたがる広大こうだい地域ちいきである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

南部なんぶ戦国せんごく時代じだいには現在げんざい青森あおもりけん全域ぜんいき岩手いわてけん中部ちゅうぶ北部ほくぶとを所領しょりょうとしていたが、戦国せんごく末期まっき南部なんぶ一族いちぞく津軽つがる反乱はんらんこして現在げんざい青森あおもりけん西にし半分はんぶんをもって独立どくりつし、江戸えど時代じだいには津軽つがるはんとなった。この地域ちいき南部なんぶ地方ちほうにはふくめない。

江戸えど時代じだいには南部なんぶ所領しょりょう南部なんぶはんとなった。寛文ひろふみ5ねん1665ねん)、八戸はちのへ周辺しゅうへん南部なんぶ傍系ぼうけいおさめて八戸はちのへはんとなり、八戸はちのへはん以外いがい南部なんぶはん文化ぶんか14ねん1817ねん)に盛岡もりおかはん改称かいしょうされた。また、盛岡もりおかはん領内りょうないにはささえはんとしてななはん存在そんざいした。複数ふくすうはんかれているものの、これら南部なんぶおさめた地域ちいき全体ぜんたい南部なんぶ地方ちほうう。

範囲はんい区分くぶん[編集へんしゅう]

このふしでは、江戸えど時代じだい伝統でんとうてき範囲はんい区分くぶんについてべる。

南部なんぶ地方ちほうおおきくしょう南部なんぶ(こなんぶ)とだい南部なんぶ(おおなんぶ)にかれる。これらは南部なんぶ(こなんぶ)、しん南部なんぶともばれる。これらの境界きょうかいは、現在げんざい青森あおもり岩手いわて県境けんきょう一致いっちする。

しょう南部なんぶ南部なんぶ
青森あおもりけん三戸さんのへぐん上北かみきたぐん下北しもきたぐん中心ちゅうしん都市とし八戸はちのへ南部なんぶ地方ちほう (青森あおもりけん)参照さんしょう
だい南部なんぶ新南部しんなべ
岩手いわてけん岩手いわてぐん閉伊へいぐん二戸ふたどぐん九戸くのへぐん和賀わがぐん秋田あきたけん鹿角かづのぐん中心ちゅうしん都市とし盛岡もりおか

南部なんぶにちなんだ言葉ことば[編集へんしゅう]

ちなみに、南部なんぶ拳銃けんじゅう南部なんぶ人名じんめいであり、南部なんぶ地方ちほうとは無関係むかんけいである。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]