田波たなみ靖男やすお

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田波たなみ 靖男やすおたなみ やすお1933ねん12月12にち - 2000ねん3月21にち)は、日本にっぽん脚本きゃくほん作家さっかプロデューサー東京とうきょう出身しゅっしんペンネームに「梅野うめのかおる」[1]大井おおいみなみ」[2]がある。名前なまえ表記ひょうきは「やすし」のみぎの「つき」が「えん」になっているきゅう使つかわれている。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1946ねん東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく国民こくみん学校がっこうげん筑波大学つくばだいがく附属ふぞく小学校しょうがっこう)、1952ねん東京教育大学とうきょうきょういくだいがく附属ふぞく中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこうげん筑波大学つくばだいがく附属ふぞく中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)を卒業そつぎょう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく文学部ぶんがくぶ卒業そつぎょう大学だいがく時代じだい創設そうせつされたばかりの慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく推理すいり小説しょうせつ同好どうこうかい参加さんか

大学だいがく1957ねん卒業そつぎょうし、東宝とうほう助監督じょかんとく試験しけん合格ごうかくして入社にゅうしゃするも11にん同期どうき入社にゅうしゃ助監督じょかんとく志望しぼうしゃからただ1にん文芸ぶんげいへとまわされる。1ねんまえ入社にゅうしゃした石原いしはら慎太郎しんたろう芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょうして3にちめていたためそのきをめるためだったという。文芸ぶんげいでは、プロデューサーの企画きかく助手じょしゅとしてかくプロデューサーにく。藤本ふじもと真澄ますみき『大学だいがくのおあねちゃん』を担当たんとうし、「社長しゃちょうシリーズ」などを担当たんとうしていた脚本きゃくほん笠原かさはら良三りょうぞう師事しじ。だが、あくまで文芸ぶんげい部員ぶいんとしての手伝てつだいのつもりであった。しかし、笠原かさはら口述こうじゅつ筆記ひっき構成こうせい手伝てつだいから次第しだいにシナリオのさききを担当たんとうするようになる。

はつ脚本きゃくほん作品さくひんは、1961ねんの『慕情ぼじょうひと』(丸山まるやま誠治せいじ監督かんとく)で依頼いらいしていた脚本きゃくほん2にん脚本きゃくほん完成かんせいできず、文芸ぶんげいによる後始末あとしまつとして田波たなみ執筆しっぴつすることになったものであった。同年どうねんにスタートした加山かやま雄三ゆうぞう主演しゅえんわか大将たいしょうシリーズぜん作品さくひんたずさわり、だい5さくの『うみわか大将たいしょう』から笠原かさはら良三りょうぞうとの合作がっさくから単独たんどく執筆しっぴつになる。

1962ねんには植木うえきひとし主演しゅえんの『ニッポン無責任むせきにん時代じだい』にオリジナル・シナリオを提供ていきょうして以降いこうクレージーキャッツ主演しゅえん作品さくひん脚本きゃくほん多数たすう担当たんとう。この脚本きゃくほんは、もともとは「社長しゃちょうシリーズ」を担当たんとうしていて、何事なにごと会社かいしゃ忠実ちゅうじつ社員しゃいんぞう不満ふまんかんじており、そのアンチテーゼとして『無責任むせきにん社員しゃいん』というタイトルでプロットをまとめていたものだった。急遽きゅうきょ、クレージーキャッツで映画えいが制作せいさくすることになったプロデューサーの安達あだち英三郎えいざぶろうから相談そうだんけたさい提案ていあんし、植木うえきとう念頭ねんとうにシナリオしたものだった。このはん体制たいせいもうのような主人公しゅじんこう活躍かつやくする作品さくひん上司じょうし常識じょうしき藤本ふじもと真澄ますみみとめるはずがないことを見越みこしていた安達あだちは、作品さくひん完成かんせいしても藤本ふじもとには試写ししゃせないように社内しゃない試写ししゃのスケジュールをんだという。あんじょう公開こうかいされた映画えいがだいヒットしているといてから劇場げきじょう藤本ふじもとは、自社じしゃ作品さくひんのヒットはよろこびながらも安達あだち不愉快ふゆかいだと怒鳴どなりつけた。しかし、るのがさとだいプロデューサーの藤本ふじもとはさっそく渡辺わたなべプロと提携ていけいして植木うえきとう主演しゅえんの「日本一にっぽんいちおとこ」シリーズを製作せいさくすることにする。しかしながら無責任むせきにんシリーズ2ほんにあったどくされたものとなった(初期しょき2ほんのみは松木まつきひろしとのともさく名義めいぎとなっていることから、ったどく過激かげきさは松木まつき作風さくふうとする批評ひひょうもあったが、実際じっさい松木まつき名前なまえのみで田波たなみ一人ひとり執筆しっぴつしたと後年こうねん著書ちょしょしるしている)。田波たなみはそんな藤本とうほん面従腹背めんじゅうふくはいするかたち後期こうきのクレージー映画えいがなどではプロデューサーも兼任けんにんし、クレージー映画えいが挿入歌そうにゅうか作詞さくしがけた。ほかにも『わかぶし』や、ザ・タイガース主演しゅえんシリーズなど、東宝とうほう娯楽ごらく映画えいがのエースとして活躍かつやくした。

なお、1965ねん8がつ公開こうかいされた『うみわか大将たいしょう』のだいヒットを見届みとどけた藤本ふじもと真澄ますみからシナリオライターとして独立どくりつするようにと東宝とうほうへの辞表じひょうかされ[3]翌月よくげつ9がつより脚本きゃくほんとして東宝とうほう専属せんぞく契約けいやくむすぶことになった。プロデューサー志望しぼうだった田波たなみ会社かいしゃのこってプロデューサーをしたいと抗弁こうべんするも「プロデューサーなんて、会社かいしゃにしてもらうものじゃない。自分じぶんでなるものだ」といいふくめられてのことだった。

1968ねんごろには[4]小川おがわすぐるつぼとうこうともジャックプロダクション設立せつりつし、そのたのきんトリオ松田まつだ聖子せいこ映画えいが作品さくひんなど多数たすうのアイドル映画えいが手腕しゅわん発揮はっきしたほか、『青春せいしゅんとはなんだ』『太陽たいようにほえろ!』、また“少年しょうねんドラマシリーズ”の『未来みらいからの挑戦ちょうせん』など、すうおおくの人気にんきテレビドラマの脚本きゃくほん執筆しっぴつ青春せいしゅんものやコメディタッチの軽妙けいみょう娯楽ごらく作品さくひん数多かずおおした。2000ねん3がつ21にち肝硬変かんこうへんのため死去しきょ。66さいぼつ

作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

特記とっきなしは脚本きゃくほんのみ

テレビドラマ[編集へんしゅう]

テレビアニメ[編集へんしゅう]

人形にんぎょうげき[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 田波たなみ靖男やすお映画えいがゆめかたれたとき』広美ひろみ出版しゅっぱん事業じぎょう、1997ねん、p215
  2. ^ アニメージュ編集へんしゅうへん『ロマンアルバム ヤダモン』徳間書店とくましょてん、1993ねん、p63
  3. ^ わたしはそのつき辞表じひょうし、よくきゅうがつから脚本きゃくほんとして専属せんぞく契約けいやくむすぶことになった。会社かいしゃもうけさせて出世しゅっせするのはともかく、退職たいしょくねがいかされたのはわたしくらいのものではないだろうか。」(田波たなみ靖男やすお映画えいがゆめかたれたとき』広美ひろみ出版しゅっぱん事業じぎょう、1997ねん)p106
  4. ^ 「『クレージーメキシコだい作戦さくせん』がわったころだったとおもう」(『クレージーの無責任むせきにん清水港しみずこう』DVD音声おんせい特典とくてんつぼとうこう監督かんとくによるオーディオコメンタリーより)。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]