渡辺わたなべプロダクション

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株式会社かぶしきがいしゃ渡辺わたなべプロダクション
Watanabe Productions Co.Ltd
渋谷インフォスアネックス
渋谷しぶやインフォスアネックス
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
略称りゃくしょう ナベプロ
渡辺わたなべプロ
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
150-0091
東京とうきょう渋谷しぶや桜丘さくらがおかまち12-10
渋谷しぶやインフォスアネックス7F
北緯ほくい3539ふん15.6びょう 東経とうけい13942ふん05.1びょう / 北緯ほくい35.654333 東経とうけい139.701417 / 35.654333; 139.701417座標ざひょう: 北緯ほくい3539ふん15.6びょう 東経とうけい13942ふん05.1びょう / 北緯ほくい35.654333 東経とうけい139.701417 / 35.654333; 139.701417
設立せつりつ 1959ねん4がつ3にち
業種ぎょうしゅ サービスぎょう
法人ほうじん番号ばんごう 8011001039861 ウィキデータを編集
事業じぎょう内容ないよう 番組ばんぐみ制作せいさく会社かいしゃ芸能げいのう事務所じむしょ
代表だいひょうしゃ 代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょう 吉田よしだ美樹みき
代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう 渡邊わたなべ万由美まゆみ
主要しゅよう子会社こがいしゃ ワタナベエンターテインメント
トップコート
ザ・ワークス
サウンド・シティ
渡辺わたなべ音楽おんがく出版しゅっぱん ほか
関係かんけいする人物じんぶつ 渡辺わたなべすすむ創業そうぎょうしゃ
渡邊わたなべ美佐みさ名誉めいよ会長かいちょう
井澤いざわけんぜん社長しゃちょう
ハナはじめとクレージーキャッツ
野々山ののやま定夫さだお
植木うえきひとし
外部がいぶリンク www.watanabe-group.com
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株式会社かぶしきがいしゃ渡辺わたなべプロダクション(わたなべプロダクション、えい: Watanabe Productions Co., Ltd.)は、芸能げいのう事務所じむしょなど10しゃ1財団ざいだん自社じしゃふくむ)を統括とうかつする持株もちかぶ会社かいしゃである。しばしばナベプロばれる。

創業そうぎょうしゃ渡辺わたなべすすむすすむつま渡邊わたなべ美佐みさ名誉めいよ会長かいちょうけんグループ代表だいひょう代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょうすすむ美佐みさ夫妻ふさい長女ちょうじょである渡辺わたなべミキワタナベエンターテインメント社長しゃちょう)、代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょうどう次女じじょ渡邊わたなべ万由美まゆみトップコート社長しゃちょう)がつとめる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

元々もともとは1950年代ねんだい当時とうじ、いまだ差別さべつ偏見へんけんられることもあった芸能人げいのうじん待遇たいぐう改善かいぜん地位ちい向上こうじょう目的もくてきとして、ジャズミュージシャンであった渡辺わたなべすすむつま渡辺わたなべ美佐みさ松下まつした治夫はるお河合かわいさとし一郎いちろうらととも芸能げいのう事務所じむしょ位置付いちづけの改革かいかくはかったのがはじまりである。

それまでのマネージメントは、タレントにたいして仕事しごとさきつけ、その出演しゅつえんりょう一部いちぶるというかたちにとどまり、「一人ひとりのマネージャーがデビューから引退いんたいまでタレントと一蓮托生いちれんたくしょう運命うんめいあゆむ」とわれるような個人こじん商店しょうてん徒弟とてい制度せいどてき体質たいしつであった。そのようなありかたえ、一人ひとりのタレントにたいすうにんのマネージャーをけ、なんねんかで担当たんとう交代こうたいさせることで、芸能げいのう事務所じむしょ仕事しごと組織そしきし、あらゆる分野ぶんや精通せいつうした人脈じんみゃく知識ちしきたくわえた人材じんざい育成いくせい目指めざした。また『シャボンだまホリデー』や『ザ・ヒットパレード』、クレージー映画えいがシリーズなどを自社じしゃ制作せいさく所属しょぞくタレントを出演しゅつえんさせて、番組ばんぐみ制作せいさく興行こうぎょう収入しゅうにゅう仕組しくみを導入どうにゅうしたほか、傘下さんか音楽おんがく出版しゅっぱん会社かいしゃ渡辺わたなべ音楽おんがく出版しゅっぱん)を設立せつりつレコード原盤げんばんけん保有ほゆうするなど、現代げんだいにおける日本にっぽん芸能げいのうビジネスのスタイルをつくった。

タレントのありかたについても、従来じゅうらい俳優はいゆう歌手かしゅコメディアンなどが分業ぶんぎょうし、それぞれの領域りょういきおかさなかった芸能げいのうかいたいし、『新春しんしゅんかくしげい大会たいかい』などでは歌手かしゅ俳優はいゆう寸劇すんげき余興よきょうおこなわせ、今日きょうマルチタレント時代じだい先駆さきがけとなった。最初さいしょにはミッキー・カーチスハナはじめとクレージーキャッツ浜村はまむらあつしザ・ピーナッツらが所属しょぞくし、そのスパーク3にんむすめ中尾なかおミエ伊東いとうゆかりえんまり)、ザ・ドリフターズ沢田さわだ研二けんじ布施ふせあきらもり進一しんいち小柳こやなぎルミ子るみこ天地あまち真理まりキャンディーズひとしだいスターを多数たすうかかえ、番組ばんぐみ多数たすう制作せいさくした。いまも国内こくない有数ゆうすう規模きぼほこ芸能げいのう事務所じむしょだが、1960年代ねんだいなかばから1970年代ねんだい初頭しょとうにかけては「ナベプロなくしてはうた番組ばんぐみやバラエティ番組ばんぐみつくれない」とわれるほどの独占どくせん状態じょうたいていしていた。筒井つつい康隆やすたか当時とうじ短編たんぺん小説しょうせつ『あらえっさっさ』でその権勢けんせいぶりを狂騒きょうそう芸能げいのうかいとともに風刺ふうししているが、どう時期じきNHK創価学会そうかがっかい俎上そじょうせた作品さくひんよりは若干じゃっかん好意こういてきで、ふく社長しゃちょうであるつま前面ぜんめんてて目立めだたないようにしているが実権じっけん掌握しょうあくしている社長しゃちょう、という描写びょうしゃになっている。

1979ねんザ・ドリフターズがマネージャーの井澤いざわけんとともにイザワオフィス設立せつりつ独立どくりつ資本しほん関係かんけい存在そんざいしないがたがいに関連かんれん会社かいしゃとして公式こうしきサイトなどにも記載きさいしている。そのにも一部いちぶタレントは、渡辺わたなべプロダクションおよびその系列けいれつ事務所じむしょが51%出資しゅっしすることを条件じょうけんに、傘下さんか事務所じむしょとしてグループない独立どくりつみとめている。2000ねんには機構きこう改革かいかくおこない、のこっていた芸能げいのうマネジメント部門ぶもんワタナベエンターテインメント分社ぶんしゃし、渡辺わたなべプロダクション自身じしん持株もちかぶ会社かいしゃ移行いこうした。そのため現在げんざい子会社こがいしゃのワタナベエンターテインメントが「ナベプロ」とばれることもおおくなっている。

グループは現在げんざいでも株式かぶしき公開こうかいしていないが、過去かこには株式かぶしき公開こうかいはなし幾度いくどとなくちかけられていた。しかしながら渡辺わたなべすすむの「芸能げいのう市場いちば長期ちょうきてきなスパンが必要ひつようであり、株価かぶかにし、株主かぶぬしつね配当はいとうをしなければという状況じょうきょうでは成立せいりつしにくい」との判断はんだんのもとで、株式かぶしき公開こうかいおこなっていない。

所属しょぞくタレント[編集へんしゅう]

グループ会社かいしゃ[編集へんしゅう]

  • 渡辺わたなべ音楽おんがく出版しゅっぱん株式会社かぶしきがいしゃ
  • 株式会社かぶしきがいしゃザ・ワークス
  • 株式会社かぶしきがいしゃサウンド・シティ
  • 株式会社かぶしきがいしゃ渡辺わたなべエンタープライズ
  • 株式会社かぶしきがいしゃメイツ
  • 株式会社かぶしきがいしゃワタナベエンターテインメント
  • 株式会社かぶしきがいしゃマニア・マニア
  • 株式会社かぶしきがいしゃトップコート
  • 一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん渡辺わたなべ音楽おんがく文化ぶんかフォーラム
  • 株式会社かぶしきがいしゃワタナベアマダクション
  • 株式会社かぶしきがいしゃイザワオフィス

過去かこ[編集へんしゅう]

批判ひはん[編集へんしゅう]

若手わかてタレントがれるとあいだもないほどはたらかせ、負担ふたんいたにもかかわらず、給料きゅうりょう年功序列ねんこうじょれつがた月給げっきゅうせいであったため、人気にんき若手わかて歌手かしゅよりもときにしか出番でばんのないベテランタレントの給料きゅうりょうほうはるかにたかかった(1975ねんころ高額こうがく納税のうぜいしゃ番付ばんづけで、当時とうじ人気にんきだった沢田さわだ研二けんじもり進一しんいちよりもピークがぎていたクレージーキャッツのメンバーたち上位じょういにランクし、世間せけん話題わだいのぼった)。この理由りゆう初期しょき投資とうしのプロモーション費用ひよう回収かいしゅうや、しのれないタレントへも月給げっきゅうまわさなければならないという事情じじょうもあったが、以上いじょう理由りゆう独立どくりつをもくろんだり実行じっこううつすスターもおおく、徹底てっていしてその妨害ぼうがい工作こうさくはかった。さんにんむすめ一人ひとりである伊東いとうゆかりが独立どくりつすると各局かくきょくに「ゆかりをすなら渡辺わたなべプロのタレントは出演しゅつえんさせない」と圧力あつりょくをかけてしたり、独立どくりつ阻止そしするなどの行為こういおよんだ。このような妨害ぼうがい行為こういつづけたためもり進一しんいち小柳こやなぎルミ子るみこ独立どくりつしたタレント歌手かしゅは、一時期いちじき民放みんぽう全局ぜんきょく出演しゅつえんできなくなった。ただし、退社たいしゃしたタレントすべてに圧力あつりょくをかけたわけではなく、浜村はまむらあつしらのように、円満えんまんてき事務所じむしょ退社たいしゃしたタレントについては退社たいしゃ好意こういてきせっしたり協力きょうりょくてきだったこともあった。

やがて日本にほんテレビ公開こうかいオーディション番組ばんぐみとしてられる「スター誕生たんじょう!」が成功せいこうすると、ホリプロひとし台頭たいとう1970年代ねんだい後半こうはんには渡辺わたなべプロに勢力せいりょくとなった)し、1980ねん漫才まんざいブーム吉本興業よしもとこうぎょう男性だんせいアイドルおおジャニーズ事務所じむしょテレビドラマ映画えいがなどにおおくの俳優はいゆうおくんでいるけんおとちからをつけたこと、さらにナベプロでキャンディーズらのマネージャーであった大里おおさと洋吉ようきち路線ろせん対立たいりつにより、アミューズ設立せつりつサザンオールスターズ成功せいこうしたことあいまって[1]相対そうたいてき影響えいきょうりょく低下ていかした[2]

軍司ぐんじさだそくによる批判ひはん[編集へんしゅう]

ノンフィクション作家さっか軍司ぐんじさだのり著書ちょしょ『ナベプロ帝国ていこく興亡こうぼう』(1992ねん)において、渡辺わたなべプロダクションの勢力せいりょく拡大かくだいにあたって、佐藤さとう栄作えいさく中曾根なかそね康弘やすひろ五島ごしまのぼるなど政財界せいざいかい大物おおものした傘下さんか人気にんきタレントを総動員そうどういんし、佐藤さとう栄作えいさく別荘べっそうまえでハナはじめに「今日きょうもおさけめるのは、おとうさん(佐藤さとう栄作えいさく)のおかげです。おとうさんのおかげです、おとうさんありがとう!」と音頭おんどをとらせてクレージーキャッツや中尾なかおミエに唱和しょうわさせ、佐藤さとうらの機嫌きげんをとったこともあるとしている[3]渡辺わたなべ美佐みさ個人こじん女性じょせいとしての魅力みりょく利用りようして大物おおものることもあったとしている[4]

芸能げいのう興行こうぎょうには暴力団ぼうりょくだんとのいが必要ひつようで、山口組やまぐちぐみ2代目だいめ組長くみちょう山口やまぐちのぼる兄弟きょうだいさかずきわした大物おおもの興行こうぎょう永田ながた貞雄さだおようしてにらみをかせ、ビジネスの暗部あんぶ肩代かたがわりさせていたとしている[5]

マスコミ関係かんけいしゃにはさけ麻雀まーじゃんつうじた接待せったいおこない、渡辺わたなべプロダクションに有利ゆうり記事きじものにはとくダネを提供ていきょうしたり、レコードのジャケットの解説かいせつ執筆しっぴつなどの仕事しごとあたえたりして普通ふつうよりたか報酬ほうしゅう支払しはらったとしている[6]テレビ局てれびきょくでも、渡辺わたなべプロダクションに好意こういてきなスタッフにはテレビ番組ばんぐみ構成こうせいなどの仕事しごとあたえたほか顧問こもんりょう企画きかくりょうなどさまざまな名目めいもく利益りえき供与きょうよしたとしている[6]一方いっぽう渡辺わたなべプロダクションに批判ひはんてきなスタッフには圧力あつりょくをかけて業界ぎょうかいるように仕向しむけていたとしている[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 歴史れきしの if をかんがえる ― もしもこのひと渡辺わたなべプロをめていなかったら!”. reminder.top. 2020ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  2. ^ 松下まつした治夫はるお芸能げいのう王国おうこく渡辺わたなべプロの真実しんじつ。—渡辺わたなべすすむとの軌跡きせき—』
  3. ^ 軍司ぐんじさだそく『ナベプロ帝国ていこく興亡こうぼう』p.170
  4. ^ 軍司ぐんじさだそく『ナベプロ帝国ていこく興亡こうぼう』p.171
  5. ^ 軍司ぐんじさだそく『ナベプロ帝国ていこく興亡こうぼう』p.186
  6. ^ a b c 軍司ぐんじさだそく『ナベプロ帝国ていこく興亡こうぼう』p.196-197

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]