『美 うつく しく青 あお きドナウ』
ドイツ語 ご : An der schönen, blauen Donau
ピアノ初版 しょはん 譜 ふ の表紙 ひょうし (C.A.シュピーナ社 しゃ 出版 しゅっぱん )
ジャンル
ウィンナ・ワルツ 作曲 さっきょく 者 しゃ
ヨハン・シュトラウス2世 せい 作品 さくひん 番号 ばんごう
op.314 初演 しょえん
1867年 ねん 2月 がつ 15日 にち (合唱 がっしょう 版 ばん ) 1867年 ねん 3月 がつ 10日 とおか (管弦楽 かんげんがく 版 ばん )
『美 うつく しく青 あお きドナウ 』(うつくしくあおきドナウ、ドイツ語 ご : An der schönen, blauen Donau )作品 さくひん 314 は、ヨハン・シュトラウス2世 せい が1867年 ねん に作曲 さっきょく した合唱 がっしょう 用 よう のウィンナ・ワルツ 。
『ウィーンの森 もり の物語 ものがたり 』と『皇帝 こうてい 円舞曲 えんぶきょく 』とともにシュトラウス2世 せい の「三 さん 大 だい ワルツ」に数 かぞ えられ[1] 、その中 なか でも最 もっと も人気 にんき が高 たか い[注釈 ちゅうしゃく 1] 。作曲 さっきょく 者 しゃ およびウィンナ・ワルツの代名詞 だいめいし ともいわれる作品 さくひん である。オーストリア においては、正式 せいしき なものではないが帝政 ていせい 時代 じだい から現在 げんざい に至 いた るまで「第 だい 二 に の国歌 こっか 」と呼 よ ばれている[2] 。
『美 うつく しき 青 あお きドナウ』とも表記 ひょうき され、また「青 あお 」ではなく「碧 あお 」という漢字 かんじ を用 もち いることがある。当 とう 記事 きじ では『ヨハン・シュトラウス2世 せい 作品 さくひん 目録 もくろく 』(日本 にっぽん ヨハン・シュトラウス協会 きょうかい 、2006年 ねん )記載 きさい の『美 うつく しく青 あお きドナウ』に従 したが う。オーストリアでは単 たん に『ドナウ・ワルツ』(Donauwalzer[3] 、Donau-Walzer[4] [注釈 ちゅうしゃく 2] )と呼 よ ばれることも多 おお い[7] 。
ちなみに、『美 うつく しく青 あお きドナウ』という邦題 ほうだい は、原題 げんだい 「An der schönen, blauen Donau」のうちの「An(英語 えいご のby に相当 そうとう )」を無視 むし したもので、正確 せいかく に訳 やく すと『美 うつく しく青 あお きドナウのほとりに[8] [9] 』といった題 だい になる。原題 げんだい と異 こと なる邦題 ほうだい が定着 ていちゃく しているのは日本 にっぽん だけではなく、たとえば英語 えいご 圏 けん では『The Blue Danube(青 あお きドナウ)』となっている。
作曲 さっきょく の経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
1865年 ねん 初頭 しょとう 、シュトラウス2世 せい は、ウィーン男声 だんせい 合唱 がっしょう 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) から協会 きょうかい のために特別 とくべつ に合唱 がっしょう 曲 きょく を作 つく ってくれと依頼 いらい された。この時 とき シュトラウス2世 せい は断 ことわ ったが、次 つぎ のように約束 やくそく した。
「
今 いま はできないことの埋 う め合 あ わせを、まだ生 い きていればの話 はなし ですが、来年 らいねん にはしたいと、ここでお約束 やくそく します。尊敬 そんけい すべき協会 きょうかい のためなら、特製 とくせい の新曲 しんきょく を提供 ていきょう することなど、おやすい御用 ごよう です[10] 。
」
約束 やくそく の1866年 ねん 、新曲 しんきょく の提供 ていきょう はされなかったが、シュトラウス2世 せい は合唱 がっしょう 用 よう のワルツのための主題 しゅだい のいくつかをスケッチし始 はじ めた[10] 。1867年 ねん 、シュトラウス2世 せい にとって初 はじ めての合唱 がっしょう 用 よう のワルツが、未 み 完成 かんせい ではあったが協会 きょうかい にようやく提供 ていきょう された。シュトラウス2世 せい はまず無 む 伴奏 ばんそう の四 よん 部 ぶ 合唱 がっしょう を渡 わた しておいたが、その後 ご 、急 いそ いで書 か いたピアノ伴奏 ばんそう 部 ぶ を次 つぎ のお詫 わ びの言葉 ことば とともにさらに送 おく った[10] 。
「
汚 きたな い走 はし り書 が きで恐 おそ れ入 い ります。二 に 、三 さん 分 ふん で書 か き終 お えないといけなかったものですから。ヨハン・シュトラウス[10] 。
」
シュトラウス2世 せい からピアノ伴奏 ばんそう 部 ぶ が協会 きょうかい に送付 そうふ されてきたとき、この曲 きょく には四 よっ つの小 しょう ワルツがワンセットになっていて、それに序奏 じょそう と短 みじか いコーダ が付 つ いていた[10] 。この四 よっ つの小 しょう ワルツとコーダに歌詞 かし を付 つ けたのは、アマチュアの詩人 しじん であるヨーゼフ・ヴァイル (ドイツ語 ご 版 ばん ) という協会 きょうかい 関係 かんけい 者 しゃ であった[11] 。歌詞 かし を付 つ ける作業 さぎょう は一筋縄 ひとすじなわ ではいかなかった。ヴァイルが四 よっ つの小 しょう ワルツにすでに歌詞 かし を乗 の せた後 のち で、シュトラウス2世 せい がさらに五 ご 番目 ばんめ の小 しょう ワルツを作 つく ったからである。シュトラウス2世 せい はヴァイルに四 よん 番目 ばんめ の歌詞 かし の付 つ け替 か えと、五 ご 番目 ばんめ の小 しょう ワルツの歌詞 かし 、コーダの歌詞 かし の改訂 かいてい を要求 ようきゅう した[10] 。
普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう の勝敗 しょうはい を決 けっ したケーニヒグレーツの戦 たたか い 。ここでオーストリア・ザクセン 連合 れんごう 軍 ぐん はプロイセン軍 ぐん に致命 ちめい 的 てき な大 だい 敗北 はいぼく を喫 きっ した(1866年 ねん 7月 がつ 3日 にち )
普段 ふだん のヴァイルは警察官 けいさつかん として働 はたら く人物 じんぶつ であり、彼 かれ の詩 し は猥雑 わいざつ で愉快 ゆかい なものとして知 し られていた[11] 。前年 ぜんねん の1866年 ねん に普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう があり、わずか7週間 しゅうかん でプロイセン王国 おうこく との戦 たたか いに敗 やぶ れたことによって、当時 とうじ オーストリア帝国 ていこく の人々 ひとびと はみな意気 いき 消沈 しょうちん していた。ヴァイルはこうした世相 せそう において、プロイセンに敗北 はいぼく したことはもう忘 わす れようと明 あか るく呼 よ びかける内容 ないよう の愉快 ゆかい な歌詞 かし を付 つ けた[12] [13] 。
(ドイツ語 ご 歌詞 かし )B : Wiener, seid froh …T : Oho, wieso? B: No-so bli-ickt nur um - T: I bitt, warum? B: Ein Schimmer des Lichts … T: Wir seh'n noch nichts! B: Ei, Fasching ist da! T: Ach so, na ja! B: Drum trotzet der Zeit … T: (kläglich): O Gott, die Zeit … B: Der Trübseligkeit. T: Ah! Das wär' g'scheit! Was nutzt das Bedauern, das Trauern, Drum froh und lustig seid!
(日本語 にほんご 訳 やく [12] [13] [14] ) ウィーンっ子 こ よ、陽気 ようき にやろうぜ! おう、どうして?見回 みまわ してみろよ! だから、どうして? ほら、ほのかな光 ひかり だ そんなもの、見 み えないぜ! ほら、謝肉祭 しゃにくさい さ! ああ、そうだった! ご時世 じせい なんて気 き にするな… こんな、時世 じせい なんざ!悲 かな しんだって、どうしようもないさ そうだな、その通 とお りよ!苦 く しんだって、悩 なや んだって、何 なん の役 やく にも立 た ちゃしない だから、楽 たの しく愉快 ゆかい にいこうぜ!
曲名 きょくめい 決定 けってい [ 編集 へんしゅう ]
カール・イシドール・ベック (ドイツ語 ご 版 ばん )
オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 時代 じだい のドナウ川 がわ (1890年 ねん から1905年 ねん の間 あいだ に撮影 さつえい )
協会 きょうかい の記録 きろく や議事 ぎじ 録 ろく 、パート譜 ふ のセットや1867年 ねん 2月 がつ 15日 にち 以前 いぜん の新聞 しんぶん には、『美 うつく しく青 あお きドナウ』という曲名 きょくめい は一切 いっさい 出 で ておらず[15] 、初演 しょえん の直前 ちょくぜん になって曲名 きょくめい が決 き められたようである[10] 。最終 さいしゅう 的 てき にハンガリー の詩人 しじん カール・イシドール・ベック (ドイツ語 ご 版 ばん ) の作品 さくひん 『An der Donau 』の一節 いっせつ を曲名 きょくめい として拝借 はいしゃく することになったが、誰 だれ がこの曲名 きょくめい に決 き めたのかは明 あき らかでない[15] 。
『An der Donau 』Und ich sah Dich reich an Schmerzen Und ich sah Dich jung und hold Wo die Treue wächst im Herzen Wie im Schacht das edle Gold, An der Donau,An der schönen, blauen Donau .
(日本語 にほんご 訳 やく [16] [17] [9] [18] )憂 うれ いに満 み ちた君 きみ が見 み える。若 わか く美 うつく しい君 きみ が見 み える。変 か わらぬ思 おも いが心 しん の中 なか で大 おお きくなっていく、高貴 こうき なる黄金 おうごん のごとく。ドナウ川 がわ のほとりで、美 うつく しく青 あお きドナウのほとりで。
ウィーン から眺 なが めるドナウ川 がわ の色 いろ は、濁 にご った茶色 ちゃいろ かせいぜい深 ふか 緑色 みどりいろ といったところであり、『美 うつく しく青 あお きドナウ』という曲名 きょくめい のイメージには程遠 ほどとお い[17] 。ドナウ川 がわ が美 うつく しい青色 あおいろ に見 み えるのはハンガリー平原 へいげん に入 はい ってからといわれ[17] 、ベックがハンガリー人 じん であることからも推測 すいそく できるが、この詩 し はそもそもハンガリー(おそらく国土 こくど の南部 なんぶ [18] )を流 なが れるドナウ川 がわ のほとりを舞台 ぶたい にした恋 こい の詩 し だと考 かんが えられている[17] [9] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。(もともとはウィーンから見 み ても綺麗 きれい な川 かわ だったが、皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい の治世 ちせい 下 か で治水 ちすい 工事 こうじ が行 おこな われた結果 けっか 、景観 けいかん がすっかり変 か わってしまったとする説 せつ もある[19] )
シュトラウス2世 せい の父 ちち ヨハン・シュトラウス1世 せい のワルツ『ドナウ川 がわ の歌 うた 』(作品 さくひん 127)の旋律 せんりつ が、このワルツに似 に て「ソ・ド・ミ・ソ・ソ」で始 はじ まることも、ドナウ川 がわ に関 かん する曲名 きょくめい に決 き まった理由 りゆう の一 ひと つだと指摘 してき される[20] 。おそらく、『ドナウ川 がわ の歌 うた 』のおかげでまずドナウの題名 だいめい とすることが決 き まり、そしてベックの詩 し の一節 いっせつ から『美 うつく しく青 あお きドナウ』に決 き まったのであろう。いずれにせよ、歌詞 かし が先行 せんこう して付 つ けられ、最後 さいご の土壇場 どたんば で歌詞 かし とはまったく無関係 むかんけい な曲名 きょくめい が付 つ けられたということは疑 うたが いようがない。なぜならば、初演 しょえん の直前 ちょくぜん まで『美 うつく しく青 あお きドナウ』という曲名 きょくめい が出 で てこないのに加 くわ えて、ヴァイルの歌詞 かし には「ドナウ」という文字 もじ が一 いち 度 ど たりとも出 で てこない[15] [17] [14] からである。
初演 しょえん 時 じ のプログラム。「宮廷 きゅうてい 舞踏 ぶとう 会 かい 音楽 おんがく 監督 かんとく ヨハン・シュトラウスによる合唱 がっしょう とオーケストラのためのワルツ。ウィーン男声 だんせい 合唱 がっしょう 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) に献呈 けんてい (新曲 しんきょく )[15] 」
初演 しょえん の直前 ちょくぜん 、曲 きょく にオーケストラ 伴奏 ばんそう を付 つ けることが決 き まり、シュトラウス2世 せい は急 きゅう ピッチで作曲 さっきょく の筆 ふで を進 すす めた[10] 。ドナウ川 がわ をイメージしたと伝 つた えられる序奏 じょそう 部分 ぶぶん も、初演 しょえん の直前 ちょくぜん に急 いそ いで書 か き足 た されたものである[17] 。
そして1867年 ねん 2月 がつ 15日 にち 、ウィーンの「ディアナザール」で初演 しょえん された。当日 とうじつ 夜 よる 、シュトラウス2世 せい とシュトラウス楽団 がくだん は宮廷 きゅうてい で演奏 えんそう していたため、合唱 がっしょう 指揮 しき 者 しゃ ルドルフ・ワインヴルム (ドイツ語 ご 版 ばん ) の指揮 しき のもと、当時 とうじ ウィーンに暫定 ざんてい 的 てき に駐留 ちゅうりゅう していたハノーファー 王 おう 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 管弦楽 かんげんがく 団 だん の演奏 えんそう で初演 しょえん された[15] [注釈 ちゅうしゃく 4] 。この日 ひ の合唱 がっしょう には、当時 とうじ 11歳 さい だったヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 せい も参加 さんか している。
初演 しょえん は不評 ふひょう に終 お わったと言 い われることが多 おお いが、実際 じっさい のところ当時 とうじ のウィーンの新聞 しんぶん の多 おお くはこの初演 しょえん の成功 せいこう を報 ほう じている。
覚 おぼ えやすいリズムを
持 も ったかわいいワルツは、
多作 たさく の
舞曲 ぶきょく 作曲 さっきょく 家 か の
作品 さくひん のなかでも
一番 いちばん 人気 にんき の
高 たか いものにじきになるに
違 ちが いない
[15] 。
— 『ディー・プレッセ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 』紙 し 、1867年 ねん 2月 がつ 17日 にち 付 づけ
ワルツはほんとにすばらしかった。(
中略 ちゅうりゃく )この
曲 きょく は
大 だい 喝采 かっさい を
受 う け、
嵐 あらし のようなアンコール
要求 ようきゅう のため、もう
一度 いちど 演奏 えんそう しなければならなかった
[15] 。
— 『フレムデンブラット (ドイツ語 ご 版 ばん ) 』紙 し 、1867年 ねん 2月 がつ 17日 にち 付 づけ
けっして不評 ふひょう というわけではなかったが、しかしアンコールがわずか1回 かい だけだったことは作曲 さっきょく 者 しゃ にとって期待 きたい 外 はず れだった。イグナーツ・シュニッツァー (ドイツ語 ご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 5] に宛 あ ててシュトラウス2世 せい はこう書 か いている。
「
ワルツは迫力 はくりょく 不十分 ふじゅうぶん だったかもしれない。しかし合唱 がっしょう 曲 きょく を作 つく ろうとして、その声楽 せいがく パートを考 かんが えるとき、ダンスのことばかり念頭 ねんとう に置 お くわけにもいかない。聴衆 ちょうしゅう が私 わたし からなにか違 ちが ったものを期待 きたい していたとしたら、このワルツはそうそう客 きゃく を満足 まんぞく させてやれないよ[22] 。
」
男声 だんせい 合唱 がっしょう 協会 きょうかい がこのワルツを歌 うた ったのは、その後 ご の23年間 ねんかん でわずか7回 かい だけであった[23] 。敗戦 はいせん を受 う けて付 つ けられた風刺 ふうし 的 てき な歌詞 かし は、時 とき が経 た ってウィーン市民 しみん が敗戦 はいせん のショックから立 た ち直 なお るにつれて時代 じだい に合 あ わなくなったのである[23] 。2月15日 にち の初演 しょえん は失敗 しっぱい ではなかったものの、大 だい 成功 せいこう を収 おさ めたとは到底 とうてい いえなかった。シュトラウス2世 せい はとりあえず合唱 がっしょう 版 ばん から長 なが いコーダを省 はぶ き、3月 がつ 10日 とおか にフォルクスガルテン (ドイツ語 ご 版 ばん ) でオーケストラのみの版 はん を初演 しょえん した[22] 。
「第 だい 二 に の国歌 こっか 」へ [ 編集 へんしゅう ]
ヨハン・シュトラウス2世 せい (1867年 ねん 、パリ において撮影 さつえい )
1867年 ねん 4月 がつ 、パリ万博 ばんぱく が開催 かいさい されると、シュトラウス2世 せい は弟 おとうと のヨーゼフ とエドゥアルト にウィーンを任 まか せて単身 たんしん パリに向 む かった。そして万博 ばんぱく 会場 かいじょう においてしばらく遠 とお ざかっていた『美 うつく しく青 あお きドナウ』を演奏 えんそう すると、今度 こんど は期待 きたい 以上 いじょう に高 たか い評価 ひょうか を受 う けた[25] 。5月28日 にち 、パリのオーストリア大使館 たいしかん でのイベントでは、臨席 りんせき したフランス皇帝 こうてい ナポレオン3世 せい からも賞賛 しょうさん を受 う けたという。ジュール・バルビエ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) によってフランス語 ふらんすご の新 あたら しい歌詞 かし が贈 おく られ、やがて人々 ひとびと はこの歌詞 かし を口 くち ずさむほどになった[25] 。このパリでの大 だい 成功 せいこう の後 のち 、8月 がつ 上旬 じょうじゅん にシュトラウス2世 せい はロンドン に渡 わた ったが、こちらでもパリと同様 どうよう に絶賛 ぜっさん された。また、こうした評判 ひょうばん がウィーンにも届 とど くとウィーンでも演奏 えんそう されるようになり、たちまち世界 せかい 各地 かくち で演奏 えんそう されるようになった。
各国 かっこく ごとに大量 たいりょう の楽譜 がくふ が印刷 いんさつ され、そのいずれもが好調 こうちょう な売 う り上 あ げを記録 きろく した[26] 。当時 とうじ シュトラウス一家 かずや の楽譜 がくふ 出版 しゅっぱん を一 いち 手 て に担 にな っていたC.A.シュピーナ社 しゃ は、一 いち 万 まん 部 ぶ 印刷 いんさつ 可能 かのう な銅板 どうばん を『美 うつく しく青 あお きドナウ』のために100枚 まい も必要 ひつよう としたという[27] 。これはラジオ誕生 たんじょう 以前 いぜん の楽譜 がくふ の売 う れ行 ゆ きとしては最高 さいこう の数字 すうじ であった[27] 。シュトラウス2世 せい は演奏 えんそう 旅行 りょこう の際 さい には必 かなら ずこの曲 きょく を披露 ひろう するようになった[26] 。1872年 ねん 6月17日 にち にシュトラウス2世 せい を招 まね いてアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ボストン で催 もよお された「世界 せかい 平和 へいわ 記念 きねん 国際 こくさい 音楽 おんがく 祭 さい (英語 えいご 版 ばん ) 」では、2万 まん 人 にん もの歌手 かしゅ 、1000人 にん のオーケストラ、さらに1000人 にん の軍楽隊 ぐんがくたい によって、10万 まん 人 にん の聴衆 ちょうしゅう の前 まえ でこのワルツも演奏 えんそう された[28] 。
日増 ひま しに高 たか まる名声 めいせい を受 う けて、初演 しょえん から7年 ねん 後 ご (1874年 ねん か)、エドゥアルト・ハンスリック はこう論評 ろんぴょう している。
「
皇帝 こうてい と王室 おうしつ を祝 いわ ったパパ・ハイドンの国歌 こっか と並 なら んで、わが国土 こくど と国民 こくみん を歌 うた ったもう一 ひと つの国歌 こっか 、シュトラウスの『美 うつく しき青 あお きドナウ(ママ)』ができたわけだ[22] 。
」
新版 しんぱん のピアノ譜表 ふひょう 紙 し 絵 え 。右側 みぎがわ にフランツ・フォン・ゲルネルト (ドイツ語 ご 版 ばん ) の名前 なまえ があるため、1890年 ねん 以後 いご の出版 しゅっぱん である
このハンスリックの論評 ろんぴょう は、歌詞 かし の内容 ないよう をまったく考慮 こうりょ していない、曲名 きょくめい とメロディーだけを評価 ひょうか したものであったが、やがて「国歌 こっか 」にふさわしい歌詞 かし が伴 ともな うようになる。1890年 ねん 、フランツ・フォン・ゲルネルト (ドイツ語 ご 版 ばん ) による現行 げんこう の歌詞 かし に改訂 かいてい されたのである[22] [29] 。ゲルネルトもやはりヴァイルと同様 どうよう にウィーン男声 だんせい 合唱 がっしょう 協会 きょうかい の会員 かいいん で、彼 かれ は作曲 さっきょく や詩作 しさく をたしなむ裁判所 さいばんしょ の判事 はんじ であった[18] 。新 あら たに付 つ けられた歌詞 かし は、かつてヴァイルが付 つ けたものとはまったく異 こと なる荘厳 そうごん な抒情詩 じょじょうし であった[30] 。
(ドイツ語 ご )Donau so blau, so schön und blau durch Tal und Au wogst ruhig du hin, dich grüßt unser Wien, dein silbernes Band knüpft Land an Land, und fröhliche Herzen schlagen an deinem schönen Strand.
(日本語 にほんご 訳 やく [30] [29] [7] ) いとも青 あお きドナウよ、 なんと美 うつく しく青 あお いことか谷 たに や野 の をつらぬき、 おだやかに流 なが れゆき、 われらがウィーンに挨拶 あいさつ を送 おく る、汝 なんじ が銀色 ぎんいろ の帯 おび は、国 くに と国 くに とを結 むす びつけ、 わが胸 むね は歓喜 かんき に高鳴 たかな りて、汝 なんじ が美 うつく しき岸辺 きしべ にたたずむ。
改訂 かいてい 新版 しんぱん が初 はじ めて歌 うた われたのは1890年 ねん 7月 がつ 2日 にち で[18] 、この後 のち 広 ひろ く「ハプスブルク帝国 ていこく 第 だい 二 に の国歌 こっか 」と呼 よ ばれるようになった[26] 。ウィーンを流 なが れるドナウ川 がわ をヨーロッパの国々 くにぐに に繋 つな がる一本 いっぽん の帯 おび に見立 みた てた、国土 こくど を謳 うた う立派 りっぱ な歌詞 かし が付 つ けられたことで、このワルツはハプスブルク帝国 ていこく およびその帝都 ていと ウィーンを象徴 しょうちょう する曲 きょく に生 う まれ変 か わったのである。合唱 がっしょう 団 だん はいずれもこの新 あたら しい歌詞 かし のほうを好 この み、ヴァイルによる歌詞 かし は歌 うた われなくなった[26] [7] 。現行 げんこう の歌詞 かし は、ウィーン少年 しょうねん 合唱 がっしょう 団 だん による歌唱 かしょう でも有名 ゆうめい である。
オーストリアでは帝政 ていせい が廃止 はいし された後 のち 、ハイドンによる皇帝 こうてい 讃歌 さんか 『神 かみ よ、皇帝 こうてい フランツを守 まも り給 たま え』から別 べつ の国歌 こっか に変更 へんこう され、さらに紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ て1946年 ねん には(かなり疑 うたが わしいが)モーツァルト の作品 さくひん とされる『山岳 さんがく の国 くに 、大河 たいが の国 くに 』に変更 へんこう された。その一方 いっぽう で『美 うつく しく青 あお きドナウ』は、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 時代 じだい と変 か わらず「第 だい 二 に の国歌 こっか 」としての立 た ち位置 いち を維持 いじ した。1945年 ねん 4月 がつ にオーストリアはナチス・ドイツ 支配 しはい から解放 かいほう されたが、独立 どくりつ 後 ご の国歌 こっか が未定 みてい だったことから、オーストリア議会 ぎかい はとりあえず正式 せいしき な国歌 こっか が決 き まるまでの代 か わりとして『美 うつく しく青 あお きドナウ』を推奨 すいしょう した。
戦後 せんご 20年 ねん ほどが経過 けいか した1964年 ねん 、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん とともにテアトロ・コロン へ客演 きゃくえん 旅行 りょこう に出 で たカール・ベーム は、最後 さいご の演奏 えんそう 会 かい で「ここで我々 われわれ は感謝 かんしゃ のためにさらにオーストリア国歌 こっか を演奏 えんそう いたします」と述 の べて、国歌 こっか と聞 き いて反射 はんしゃ 的 てき に起立 きりつ した聴衆 ちょうしゅう の前 まえ で『美 うつく しく青 あお きドナウ』を演奏 えんそう した[31] 。ベームはこの曲 きょく のことをのちに出版 しゅっぱん した回想 かいそう 録 ろく のなかでも「三拍子 さんびょうし のオーストリア国歌 こっか 」と表現 ひょうげん している。現在 げんざい のオーストリアでも、このワルツは依然 いぜん として「第 だい 二 に の国歌 こっか 」と呼 よ ばれ続 つづ けている。
シュトラウス2世 せい とブラームス (1894年 ねん 撮影 さつえい )
シュトラウス2世 せい の親友 しんゆう であったブラームス は、このワルツの讃 さん 美 び 者 しゃ だったことで知 し られる。シュトラウス2世 せい の継 つぎ 娘 むすめ アリーチェ[注釈 ちゅうしゃく 6] から彼女 かのじょ の扇子 せんす にサインを求 もと められた際 さい 、ブラームスはこの『美 うつく しく青 あお きドナウ』の冒頭 ぼうとう の数 すう 小節 しょうせつ を書 か き[32] [33] 、その下 した にこう書 か き添 そ えた。
「
残念 ざんねん ながら、ヨハネス・ブラームスの作品 さくひん にあらず[32] [33] 。
」
上 うえ のブラームスの言葉 ことば は非常 ひじょう に有名 ゆうめい なものであるが、その他 た にもこのワルツを讃 たた えるブラームスの言動 げんどう がいくつか伝 つた わっている。ブラームスはシュトラウス2世 せい 夫人 ふじん アデーレに写真 しゃしん を贈 おく った際 さい 、写真 しゃしん の裏 うら に自分 じぶん の『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 4番 ばん 』の最初 さいしょ の数 すう 小節 しょうせつ を書 か き、さらに対位法 たいいほう で『美 うつく しく青 あお きドナウ』の冒頭 ぼうとう を組 く み合 あ わせて書 か き、自分 じぶん とシュトラウス2世 せい の芸術 げいじゅつ の結 むす びつきを示 しめ したという逸話 いつわ がある[32] 。
1892年 ねん 、プラーター公園 こうえん において「ウィーン国際 こくさい 音楽 おんがく 演劇 えんげき 博覧 はくらん 会 かい 」が開催 かいさい されることとなり、ブラームスは開催 かいさい 委員 いいん 会 かい から祝祭 しゅくさい カンタータ の作曲 さっきょく を持 も ちかけられた。このとき彼 かれ は「イベント関係 かんけい には関 かか わりたくない」という理由 りゆう で、自分 じぶん ではなくブルックナー を推薦 すいせん した[34] [注釈 ちゅうしゃく 7] 。ブルックナーを推薦 すいせん した一方 いっぽう で、ブラームスはこの祝祭 しゅくさい カンタータについて大 だい 真面目 まじめ にこう提案 ていあん したという。
ブラームスの他 ほか 、ワーグナー もこのワルツが大 だい のお気 き に入 い りであった[35] 。ワーグナーもシュトラウス2世 せい のワルツを好 この んだ者 もの の一人 ひとり で、彼 かれ が最 もっと も好 す きだったのはこの『美 うつく しく青 あお きドナウ』、次 つ いで好 す きだったのは『酒 さけ 、女 おんな 、歌 うた 』(作品 さくひん 333)だったと伝 つた わる[35] 。また、『高雅 こうが で感傷 かんしょう 的 てき なワルツ 』や『ラ・ヴァルス 』などで知 し られるラヴェル も、このような言葉 ことば を残 のこ している。
「
ワルツは、あらゆる作曲 さっきょく 家 か を誘惑 ゆうわく する形式 けいしき だ。だが成功 せいこう したのはほんの一 いち 握 にぎ りの作曲 さっきょく 家 か だけだ。モーツァルトはレントラー を作曲 さっきょく したが、これはもうウィーン風 ふう のワルツ。ベートーヴェン が作曲 さっきょく したのはドイツ舞曲 ぶきょく だ。そしてもちろんシューベルト 、シューマン 、ブラームス、シャブリエ 、ドビュッシー も作曲 さっきょく した。だがほんとうに成功 せいこう したのはだれだろう。それはヨハン・シュトラウスただひとりだ。彼 かれ は奇跡 きせき 的 てき に、みなが書 か きたいと思 おも ったワルツを作曲 さっきょく し得 え たのだ。≪美 うつく しく青 あお きドナウ≫だよ[36] 。
」
後年 こうねん には「シュトラウス」といえば『美 うつく しく青 あお きドナウ』というほどにワルツ王 おう の代表 だいひょう 作 さく として定着 ていちゃく していた。シュトラウス2世 せい が死去 しきょ した1899年 ねん 6月3日 にち の午後 ごご 、ウィーンのフォルクスガルテンにおいて野外 やがい コンサートが催 もよお されていた[37] 。シュトラウス2世 せい の訃報 ふほう が届 とど くと、指揮 しき 者 しゃ エドゥアルト・クレムザー (ドイツ語 ご 版 ばん ) は、大勢 おおぜい の聴衆 ちょうしゅう にこのことを手短 てみじか に報告 ほうこく した後 のち 、静 しず かにこのワルツを演奏 えんそう し始 はじ めた[37] 。また、交響 こうきょう 詩 し 『ツァラトゥストラはかく語 かた りき 』などで知 し られる同姓 どうせい の作曲 さっきょく 家 か リヒャルト・シュトラウス は、最 さい 晩年 ばんねん にロンドン 公演 こうえん のためにイギリス を訪 おとず れた際 さい に「あなたがあの『美 うつく しく青 あお きドナウ』の作曲 さっきょく 者 しゃ ですか?」と何 なん 度 ど も尋 たず ねられたという。
楽曲 がっきょく 構成 こうせい [ 編集 へんしゅう ]
序奏 じょそう 部分 ぶぶん のピアノ譜 ふ
アンダンティーノ 、イ長調 いちょうちょう 、8分 ぶん の6拍子 ひょうし トレモロ に乗 の せて、のちに登場 とうじょう する「ド・ミ・ソ・ソ」というワルツの主 しゅ 旋律 せんりつ がゆるやかに示 しめ される[16] 。ニ長調 ちょうちょう 、4分 ぶん の3拍子 ひょうし の「テンポ・ディ・ヴァルス」に移 うつ り、「ワルツ」部分 ぶぶん が準備 じゅんび される[16] 。ドナウ川 がわ の穏 おだ やかな流 なが れを思 おも わせるこの序奏 じょそう のメロディーは特 とく に有名 ゆうめい な部分 ぶぶん であり、オーストリアの人々 ひとびと の挨拶 あいさつ (グリュースゴット[注釈 ちゅうしゃく 8] )の代 か わりにもなったほどである[38] [19] 。
序奏 じょそう の続 つづ きと第 だい 1ワルツ
第 だい 1ワルツの最初 さいしょ の数 すう 小節 しょうせつ (作曲 さっきょく 者 しゃ の自筆 じひつ ・署名 しょめい 入 い り)
ニ長調 ちょうちょう 、二 に 部 ぶ 形式 けいしき (A・A’||:B:||)
Aの中心 ちゅうしん となるのは次 つぎ の楽譜 がくふ の部分 ぶぶん である。「ド・ミ・ソ・ソ」というメロディーから始 はじ まるこの第 だい 1ワルツは、曲 きょく 全体 ぜんたい のなかでも特 とく によく知 し られる部分 ぶぶん である。
Aパート
続 つづ くBではイ長調 いちょうちょう に移 うつ り、次 つぎ の部分 ぶぶん が中心 ちゅうしん となる。
Bパート
第 だい 1ワルツの続 つづ きと第 だい 2ワルツ
ニ長調 ちょうちょう 、三 さん 部 ぶ 形式 けいしき (||:A:||B・A||)
Aは歯切 はぎ れのよい次 つぎ の楽譜 がくふ に始 はじ まる。
Aパート
Bはいきなり三 さん 度 ど の転調 てんちょう をおこなって変 へん ロ長調 ちょうちょう に移行 いこう し、流 なが れるようなメロディーが奏 かな でられる[39] 。
Bパート
第 だい 3ワルツ
ト長調 とちょうちょう 、二 に 部 ぶ 形式 けいしき (||:A:||:B:||)
Aは次 つぎ の楽譜 がくふ に始 はじ まる。
Aパート
Bは転調 てんちょう することなく、速度 そくど をヴィヴァーチェ に速 はや める[39] 。
Bパート
第 だい 4ワルツ
ヘ長調 ちょうちょう 、二 に 部 ぶ 形式 けいしき (||:A:||:B:||A)
転調 てんちょう のために4小節 しょうせつ からなる経過 けいか 句 く が挟 はさ まれ、それに続 つづ いてAの主 しゅ 旋律 せんりつ が奏 かな でられる[39] 。
経過 けいか 句 く 、Aパート
Bはフルート を用 もち いて演奏 えんそう される[39] 。次 つぎ の楽譜 がくふ が中心 ちゅうしん となっている。
Bパート
第 だい 5ワルツ
イ長調 いちょうちょう 、二 に 部 ぶ 形式 けいしき (A||:B・B’:||)
経過 けいか 部 ぶ
ヘ長調 ちょうちょう から経過 けいか 部 ぶ を通 とお って、イ長調 いちょうちょう に移行 いこう し、Aに入 はい る[39] 。
Aパート
Bは次 つぎ の楽譜 がくふ を中心 ちゅうしん とした、活発 かっぱつ な部分 ぶぶん である。
Bパート
一般 いっぱん 的 てき には、「第 だい 3ワルツ」のAの音 おと 型 がた に導 みちび かれて「第 だい 2ワルツ」のAがニ長調 ちょうちょう で示 しめ され、続 つづ いて「第 だい 4ワルツ」のAがヘ長調 ちょうちょう で奏 かな でられ、最後 さいご に「第 だい 1ワルツ」の主 しゅ 旋律 せんりつ がニ長調 ちょうちょう で現 あらわ れて、変化 へんか が激 はげ しい結 むす びの句 く に移 うつ って力強 ちからづよ く終 お わる[39] 。
合唱 がっしょう 版 ばん では、「第 だい 5ワルツ」のBからいきなり力強 ちからづよ い結 むす びに入 はい り、すぐに終 お わる[39] 。
ニューイヤーコンサート2012の『美 うつく しく青 あお きドナウ』バレエ(画像 がぞう はリハーサル時 じ のもの)
大晦日 おおみそか から新年 しんねん に代 か わるとき、公共 こうきょう 放送 ほうそう 局 きょく であるオーストリア放送 ほうそう 協会 きょうかい は、シュテファン大 だい 聖堂 せいどう の鐘 かね の音 おと に続 つづ いてこのワルツを放映 ほうえい するのが慣例 かんれい となっている[2] 。それに続 つづ いて元日 がんじつ 正午 しょうご から始 はじ まるウィーン・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん のニューイヤーコンサート では、3つのアンコール枠 わく のうちの2番目 ばんめ としてこのワルツを演奏 えんそう するのが通例 つうれい である[2] [注釈 ちゅうしゃく 9] 。つまりオーストリアでは毎年 まいとし 元日 がんじつ に少 すく なくとも2回 かい は『美 うつく しく青 あお きドナウ』が公共 こうきょう 放送 ほうそう から流 なが れてくるのを聴 き くことができる。ニューイヤーコンサートでは、序奏 じょそう 部 ぶ を少 すこ しだけ演奏 えんそう した後 のち 、聴衆 ちょうしゅう の拍手 はくしゅ によって一旦 いったん 打 う ち切 き り、指揮 しき 者 しゃ や団員 だんいん の新年 しんねん の挨拶 あいさつ が続 つづ くという習慣 しゅうかん となっている[2] 。
父 ちち シュトラウス1世 せい の『ラデツキー行進曲 こうしんきょく 』も同 どう コンサートを締 し めくくる定番 ていばん の曲 きょく であるが、こちらも国家 こっか 的 てき な行事 ぎょうじ や式典 しきてん でたびたび演奏 えんそう される曲 きょく である。これら二 ふた つの曲 きょく が同 どう コンサートにきまって取 と り上 あ げられるのは、ただ人気 にんき が高 たか いからというだけの理由 りゆう ではなく、オーストリアを象徴 しょうちょう する曲 きょく だということも大 おお きな理由 りゆう なのである。ちなみに、カラヤンとケンペはステレオ初期 しょき にウィーン・フィルを指揮 しき して録音 ろくおん した「シュトラウス・アルバム」に、この曲 きょく を含 ふく めていない。
日本 にっぽん においては、京都 きょうと 市 し 交響 こうきょう 楽団 がくだん などがニューイヤーコンサートで演奏 えんそう する事 こと も多 おお い。近年 きんねん は特 とく に京都 きょうと 市 し 少年 しょうねん 合唱 がっしょう 団 だん との共演 きょうえん で行 おこ なっている事 こと も少 すく なくない。
^ 管弦楽 かんげんがく 法 ほう については後期 こうき 作品 さくひん ほどの巧緻 こうち さはなく、日本 にっぽん でも吉田 よしだ 秀和 ひでかず や宇野 うの 功 いさお 芳 よし らがその単純 たんじゅん さを指摘 してき する一文 いちぶん を書 か いているが、この曲 きょく はそもそもが合唱 がっしょう 曲 きょく だったのである。また、録音 ろくおん を残 のこ さなかったフルトヴェングラーのほか、クレンペラー、シューリヒト、クナッパーツブッシュがこの曲 きょく を外 はず したウインナワルツ集 しゅう を録音 ろくおん しており、カラヤンも一度 いちど ウィーンフィルと同様 どうよう の試 こころ みを行 おこな っている。
^ Duden の定 さだ める正書法 せいしょほう によれば、地名 ちめい を含 ふく む合成 ごうせい 語 ご ではハイフン を入 い れないのが通則 つうそく だが、場合 ばあい によってはハイフンで繋 つな いでもよい[5] [6] 。
^ ただし、ベックはハンガリーで生 う まれウィーンで没 ぼっ している[14] 。
^ 普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう でオーストリア側 がわ についたことによってハノーファーは1866年 ねん 9月 がつ にプロイセンに併合 へいごう され、ハノーファー国王 こくおう ゲオルク5世 せい とその家族 かぞく や臣下 しんか はみなオーストリアに逃 のが れていた。
^ のちにオペレッタ『ジプシー男爵 だんしゃく 』の台本 だいほん を書 か いた人物 じんぶつ である。
^ アリスとも。のちに画家 がか フランツ・フォン・バイロス の妻 つま となる。
^ ブルックナーはこの嘱託 しょくたく を受 う けて『詩篇 しへん 第 だい 150番 ばん 』を作曲 さっきょく した[34] 。
^ 「神 かみ があなたに挨拶 あいさつ しますように」の意 い 。カトリック教会 きょうかい への信仰 しんこう が根強 ねづよ いオーストリアやバイエルン などの南 みなみ ドイツ地方 ちほう では、「こんにちは」のことを「グーテンターク」ではなくこう言 い う。
^ 始 はじ まったばかりの頃 ころ には演奏 えんそう されない年 とし もあった。具体 ぐたい 的 てき には、1939年 ねん 、1941年 ねん 、1942年 ねん 、1943年 ねん 、1944年 ねん 、1947年 ねん 、1956年 ねん の7回 かい 。1957年 ねん からは毎年 まいとし 欠 か かさず演奏 えんそう されている。(2016年 ねん 現在 げんざい )