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結城ゆうき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸えどいとあやつり人形にんぎょう結城ゆうき
創立そうりつしゃ 結城ゆうき孫三郎まごさぶろう初代しょだい
団体だんたい種類しゅるい 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん
設立せつりつ 2009ねん12月9にち
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう小金井こがねい貫井北ぬくいきたまち3-18-2
北緯ほくい3542ふん35.6びょう 東経とうけい13929ふん45.2びょう / 北緯ほくい35.709889 東経とうけい139.495889 / 35.709889; 139.495889座標ざひょう: 北緯ほくい3542ふん35.6びょう 東経とうけい13929ふん45.2びょう / 北緯ほくい35.709889 東経とうけい139.495889 / 35.709889; 139.495889
法人ほうじん番号ばんごう 2012405002254 ウィキデータを編集
起源きげん 結城ゆうき
有限ゆうげん会社かいしゃ結城ゆうき
主要しゅよう人物じんぶつ 代表だいひょう理事りじ 田中たなかかつあきら
結城ゆうき孫三郎まごさぶろう(12だい
活動かつどう地域ちいき 日本の旗 日本にっぽん
主眼しゅがん 文化ぶんかおよ芸術げいじゅつ振興しんこう児童じどうまた青少年せいしょうねん健全けんぜん育成いくせい
活動かつどう内容ないよう 江戸えどいとあやつり人形にんぎょう公演こうえん体験たいけんワークショップなどの普及ふきゅう事業じぎょう
ウェブサイト youkiza.jp ウィキデータを編集
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結城ゆうき(ゆうきざ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきころ結城ゆうき孫三郎まごさぶろう初代しょだい江戸えど葺屋まち現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばし人形にんぎょうまち付近ふきん)に創設そうせつした劇場げきじょう説経せっきょう浄瑠璃じょうるり演目えんもくだった[1]がこれが衰退すいたいすると義太夫ぎだゆうぶし人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりえんじるなどした[2]。その移転いてんかえ幕末ばくまつまでつづいた[3]明治めいじになり、結城ゆうき孫三郎まごさぶろう(9だいが、これまでの演目えんもくくわえ、いとあやつり新派しんぱげきえんずる劇団げきだんとして組織そしき[1]結城ゆうき孫三郎まごさぶろう(10代)東京とうきょう武蔵野むさしの吉祥寺きちじょうじ再興さいこうした[3]。2009ねん公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんとなり公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん江戸えどいとあやつり人形にんぎょう結城ゆうきとして存続そんぞくしている[4]

沿革えんかく

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草創そうそう

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結城ゆうき創設そうせつには諸説しょせつがあり、江戸えど時代じだい中期ちゅうき国学こくがくしゃであった津村つむら淙庵安永やすなが5ねん(1776ねんごろから寛政かんせい7ねん(1795ねん)までの20年間ねんかん[5]わたつらねた『たんうみ』につぎ記載きさい[6]がある。

江戸えどじょうるりのはつは、結城ゆうき孫三郎まごさぶろうといふ説経せっきょうぶしを、ふきまちにやぐらをあげて、興行こうぎょうせしがはじめ也。 — 津村つむら淙庵、たんうみ

結城ゆうき孫三郎まごさぶろう元禄げんろく2ねん(1689ねんかん正本しょうほん越前えちぜんこく永平寺えいへいじ開山かいさん』にることができるもののこれ以前いぜんにはなく、江戸えど浄瑠璃じょうるり正本しょうほんでいえば正保しょうほう5ねん(1648ねんかん佐渡さどなな太夫たゆうしんとくまる[7]ほうふる[8]かりに『たんうみ』の結城ゆうき孫三郎まごさぶろうと『越前えちぜんこく永平寺えいへいじ開山かいさん』の結城ゆうき孫三郎まごさぶろうどう一人物いちじんぶつとした場合ばあい寛文ひろふみ2ねん5がつ(1662ねんかん江戸えど名所めいしょ』のちゅうにある看板かんばんに『せつきやう 天満てんま八太はったおっと おくり』の文字もじえる[9]ことから、天満てんま八太はったおっとの『おくり上演じょうえんほうふるいこととなり整合せいごうしない。『たんうみ』の結城ゆうき孫三郎まごさぶろうとはだいちがうこともありえる[10]

加藤かとう曳尾あん(1763ねん没年ぼつねんしょう)は『わがころも』のなかで、天満てんま八太はったおっと天和てんわ説経せっきょう佐渡さどなな太夫たゆう宝永ほうえい説経せっきょう武蔵むさしけん太夫たゆう結城ゆうき孫三郎まごさぶろう元禄げんろく説経せっきょう浄瑠璃じょうるり[11]としてしるしている。代々だいだい神田かんだ雉子まち町名ちょうめいぬしであった斎藤さいとうがつは、祖父そふ斎藤さいとうちょうあき寛政かんせい年中ねんじゅう(1789ねん-1801ねん)より調査ちょうさ草稿そうこうとしてまとめたものをちち斎藤さいとう幸孝ゆきたか郊外こうがい調査ちょうさくわ校正こうせい刊行かんこうした[12]江戸えど名所めいしょ図会ずえ』では『江戸えど鹿子かのこ』を引用いんようしており天満てんま八太はったおっと江戸えどまごよんろう江戸えどはん太夫たゆう説経せっきょう[13]とあるものの結城ゆうき孫三郎まごさぶろう結城ゆうきについての記載きさいはない[注釈ちゅうしゃく 1]が、斎藤さいとうがつ岑が天保てんぽう10ねん(1839ねん)にだつ稿こうひろ4ねん(1847ねん)に刊行かんこう[17]した『こえきょく類纂るいさん』では『たんうみ』を引用いんよう結城ゆうき孫三郎まごさぶろう筆頭ひっとう天満てんま八太はったおっと石見いわみじょう藤原ふじわら重信しげのぶ[注釈ちゅうしゃく 2]佐渡さどなな太夫たゆうゆたかこう吾妻あづま新五郎しんごろう江戸えどまごよんろうらとともに列挙れっきょしているものの結城ゆうき孫三郎まごさぶろう系図けいずしょう[19]しるしている。きねかんろう(3代目だいめしるした『大薩摩おおざつまきね系譜けいふ[注釈ちゅうしゃく 3]翻刻ほんこく収録しゅうろくした『音曲おんぎょく叢書そうしょ』にも結城ゆうき孫三郎まごさぶろう説経せっきょう浄瑠璃じょうるり元祖がんそとして系図けいずひだり天満てんま八太はったおっと石見いわみじょう藤原ふじわら重信しげのぶ[注釈ちゅうしゃく 4]系図けいず佐渡さどなな太夫たゆうゆたかこう吾妻あづま新五郎しんごろうらとともに記述きじゅつ[21]しているが詳細しょうさい年代ねんだい記載きさいはない。これとはべつに、喜多村きたむらしんぶしうれしゆう笑覧しょうらん(1822ねんだつ稿こう[22]、1830年刊ねんかん)には『ひろおこなわれしはじゅう太夫たゆう[注釈ちゅうしゃく 5]よりはじまり、結城ゆうきみさお狂言きょうげん座元ざもととの称号しょうごうにあれば[23]』との記述きじゅつえる。

関根せきねただまことしるした明治めいじ33ねん(1900ねんかんの『戯場ぎじょう年表ねんぴょう』をもとにして、伊原いはら敏郎としおついした昭和しょうわ31ねん(1956ねんかんの『歌舞伎かぶき年表ねんぴょう』は結城ゆうき孫三郎まごさぶろうが葺屋まちみさお人形にんぎょう免許めんきょされたのを寛文ひろふみ5ねん7がつとした。そのなかつぎ由緒ゆいしょしょ[24]がある。

由緒ゆいしょしょ」に、寛文ひろふみころみさお御免ごめんり、其後中絶ちゅうぜつせしを、正徳しょうとく年中ねんじゅう結城ゆうき孫三郎まごさぶろうさる名題なだいぬしむすめを、あるかみ商売しょうばいせし甚兵衛じんべえさるしゃ再興さいこういたこう甚兵衛じんべえつま孫三郎まごさぶろうまごよし — 伊原いはら敏郎としお歌舞伎かぶき年表ねんぴょう

秋山あきやまきよしかおる)は寛文ひろふみ5ねん7がつ[25]しる[注釈ちゅうしゃく 6]黒木くろき勘蔵かんぞうもまた戯場ぎじょう年表ねんぴょう引用いんようして寛文ひろふみ5ねん7がつとしたが劇場げきじょうさかいまち・葺屋まち木挽こびきまち5丁目ちょうめ限定げんていされることになった布告ふこくあかりれき大火たいかがきっかけであり、これに前後ぜんごして劇場げきじょう建設けんせつ移転いてんがあったことを指摘してきしている[26]

これにたいして、水谷みずたに弓彦ゆみひこは『たんうみ』の記述きじゅつではとらえきれないとして、江戸えど時代じだい前期ぜんき説経節せっきょうぶし太夫たゆうであった天満てんま八太はったおっと記載きさいされている史料しりょう役者やくしゃさんわび[注釈ちゅうしゃく 7]江戸えどそう鹿子かのこ[14]江戸えど図鑑ずかん綱目こうもく[15]江戸えど[29]役者やくしゃつくし[30])をげ、さだかではないとしながら、これら史料しりょう天満てんま八太はったおっとおなじくそれぞれに記載きさいされている江戸えど孫三郎まごさぶろう江戸えどまごよんろう結城ゆうきまごよんろう[注釈ちゅうしゃく 8]ことなる人物じんぶつではなく、いずれも結城ゆうき孫三郎まごさぶろう別名べつめいではないかと考察こうさつ[注釈ちゅうしゃく 9]し、結城ゆうき孫三郎まごさぶろう初代しょだい)であるかは不明ふめいとしながらこれら史料しりょうにある江戸えど孫三郎まごさぶろうおよび江戸えどまごよんろうのべたから以降いこうひとではないか[32]とした[注釈ちゅうしゃく 10]

明治めいじ時代じだい人形遣にんぎょうつかいであったきりちくもんじゅうろう初代しょだい随筆ずいひつきりちくもんじゅうろう手記しゅき』にはつぎ一節いっせつ[35]がある。

寛永かんえいじゅうねんひゃくろくじゅうねん江戸えどさるわかまち結城ゆうき孫三郎まごさぶろう もとハふきやまち御免ごめんあやつり、矢倉やぐらまくニあかる、 — きりちくもんじゅうろうきりちくもんじゅうろう手記しゅき

公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん江戸えどいとあやつり人形にんぎょう結城ゆうきではこのせつっており[36][37]結城ゆうき孫三郎まごさぶろう(10代目だいめ自伝じでんいとあやつり』ちゅうべつしょうで『結城ゆうき孫三郎まごさぶろう人形にんぎょう歴史れきし』をしるした綿谷わたやゆきもこのせつげている[38]公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん江戸えどいとあやつり人形にんぎょう結城ゆうき取材しゅざいした出版しゅっぱんぶつにも同様どうよう記載きさい[39]があり、これら以外いがいにもこのせつ文献ぶんけんがある[40]

国史こくしだい辞典じてんでは結城ゆうき創設そうせつを、結城ゆうき項目こうもく元禄げんろくはじめか[1]とし、結城ゆうき孫三郎まごさぶろう項目こうもくでは寛文ひろふみ5ねん7がつつたえられている[2]としている[注釈ちゅうしゃく 11]貞享ていきょう元禄げんろくごろとするものもある[41]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき後期こうき

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正徳しょうとく元年がんねん(1711ねんかん[42]の『ほうくらびく』正本まさもと[43]がある[注釈ちゅうしゃく 12]おな法蔵ほうぞう比丘びく結城ゆうき孫三郎まごさぶろうとして正本まさもと宝永ほうえい年間ねんかん)のものもある[18]ようだが同一どういつのものとかんがえられている[44]結城ゆうきまごよんろう正本しょうほん元禄げんろくとしせい月刊げっかん[注釈ちゅうしゃく 13][31]もある。

吉原よしはら雑話ざつわ』によれば、正徳しょうとくからとおるにかけて説経せっきょう浄瑠璃じょうるりかたった結城ゆうき一角いっかくという三味線しゃみせん名手めいしゅがいたという。この結城ゆうき一角いっかくは『江戸えどみさおほん連名れんめい』(宝永ほうえい5ねん)にある結城ゆうきいちがくどう一人物いちじんぶつとみられている[46]とおるまつごろにも説経節せっきょうぶし流行りゅうこうしており吉原よしわら座敷ざしきにもおこなって説経せっきょうかたったとする太夫たゆうなか結城ゆうき孫三郎まごさぶろうえる[47]とおる年間ねんかんには説経せっきょうえてしまったとする喜多村きたむら筠庭の記載きさいとは相違そういがある[48]が、三田村鳶魚みたむらえんぎょ黒木くろき勘蔵かんぞうげんいてべているとおおとろえはしたもののいま挽回ばんかい仰望ぎょうぼうする状況じょうきょうで、宝永ほうえい5ねん(1708ねん)3がつ27にちかち扇子せんすにてうた浄瑠璃じょうるりもと説経せっきょう也の頭書とうしょ必要ひつようだったことからも結城ゆうき武蔵むさし説経節せっきょうぶしをやめてもなくであったことがうかがれ、説経節せっきょうぶしからうた浄瑠璃じょうるりへの転換てんかんおこなわれていたことがかる[49]

当時とうじ諸国しょこく浄瑠璃じょうるりてい芝居しばい名代なだいとして江戸えど結城ゆうき記載きさいがある。 あら御霊みたま新田にった神徳しんとく安永やすなが8ねん2がつ伽羅きゃら先代せんだいはぎ初演しょえん天明てんめい5ねん8がつ)。 天保てんぽう6ねんさかいまちから葺屋まち移動いどうした 祇園ぎおんもり太夫たゆうこと藤永ふじなが福寿ふくじゅ太夫たゆう結城ゆうきた(天保てんぽう7ねん年始ねんしめ)。 さるわかまちはつ芝居しばい天保てんぽう14ねん8がつ)。 女郎花おみなえしえん助太刀すけだち文化ぶんか4ねん7がつ)。 たかられきころ結城ゆうきじゅう太夫たゆうまるたかよしみなが5ねんさるわかまち2丁目ちょうめ結城ゆうきみさお芝居しばいおこなった。さるわかまち移転いてんしてからのち繁盛はんじょうしておらずきゅうしていた。 安政あんせい6ねん6がつから飯倉いいくら瑠璃光寺るりこうじ境内けいだい結城ゆうきからはじまるひゃくにち興業こうぎょうおこなう。 慶応けいおう2ねんさるわかまちから米沢よねざわまち移転いてんみさお芝居しばいおこなった。茶屋ちゃやすうけんできるとう繁盛はんじょうしたがあきごろからきゅう

平成へいせい以降いこう

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古典こてんから新作しんさく翻訳ほんやくぶつまで幅広はばひろ演目えんもくをこなす。これまでにヨーロッパ、アメリカ、東欧とうおう、ロシア、東南とうなんアジアなどで海外かいがい公演こうえんおこないる。

最近さいきん[いつ?]海外かいがい作品さくひんとしては、パリのコリーヌ国立こくりつ劇場げきじょうブレストのクァルツ国立こくりつ演劇えんげきセンターおよび世田谷せたがやパブリックシアターで上演じょうえんされた「屏風びょうぶ」がある。この作品さくひんは、原作げんさくジャン・ジュネ演出えんしゅつ:フレデリック・フィスバックをはじめとするにちふつキャスト・スタッフと結城ゆうきにより制作せいさくされた“結城ゆうきコラボレーション”である。

なお、吉祥寺きちじょうじにある喫茶店きっさてん“くぐつそう”は、結城ゆうき経営けいえいしている。ここは1979ねんにオープンしている。[50]

歴史れきし

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1990ねん 11代目だいめ結城ゆうき孫三郎まごさぶろう孫三郎まごさぶろう返上へんじょうして退座たいざさん代目だいめ結城ゆうき一糸いっしらと江戸えどいとあやつり人形にんぎょう設立せつりつ

結城ゆうきしょうする大夫たいふとう

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結城ゆうきおよび結城ゆうき孫三郎まごさぶろうとの関連かんれんせい不明ふめいだが、ここまで名前なまえがらなかった結城ゆうきせい名乗なの太夫たゆうとうつぎとおり。

  • うれしゆう笑覧しょうらん』によれば、筑波つくば山下やました辺鄙へんぴ場所ばしょ常陸ひたち祭文さいぶんえんじた結城ゆうきしげる太夫たゆう名乗なの太夫たゆうがいた。天明てんめいころ江戸えどほんしば3丁目ちょうめ清水しみずおさむ兵衛ひょうえ出版しゅっぱんもとから正本しょうほん江戸えどではらず地方ちほうっていたようで、のち結城ゆうき名乗なのることにざわりがあったのか天満てんましげる太夫たゆうあらためた。結城ゆうき名乗なのっているにもかかわらず説経せっきょう浄瑠璃じょうるりかたらず、日本にっぽん一流いちりゅう祭文さいぶん自称じしょうし、もっぱ歌祭文うたざいもんやチョボクレおよび義太夫ぎだゆうぶしなどがわされたものをえんじておりくにこたえなかった[23]とある。うえしゅう祭文さいぶん浪花節なにわぶしとの関連かんれんせい記述きじゅつしている[23]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ おなじく斎藤さいとうがつ岑の著作ちょさくである『武江たけえ年表ねんぴょう』でも江戸えど鹿子かのこ[14]江戸えど図鑑ずかん綱目こうもく[15]引用いんようしており、『さかいまち浄瑠璃じょうるり土佐とさじょう、葺屋まち和泉いずみ大夫たいふ、甚右衛門えもんまち江戸えどはん太夫たゆう説経せっきょうさかいまち天満てんまはち太夫たゆうれい厳島いつくしま吾妻あづましんよんろうさかいまち江戸えどまごよんろう』とある[16]
  2. ^ 元禄げんろくごろ重版じゅうはん『ぼんてんこく』の発見はっけん水谷みずたに弓彦ゆみひこ著作ちょさくにより天満てんま八太はったおっとどう一人物いちじんぶつであるとされている[18]
  3. ^ または『大薩摩おおざつまきね系図けいず』。
  4. ^ 元禄げんろくごろ重版じゅうはん『ぼんてんこく』の発見はっけん水谷みずたに弓彦ゆみひこ著作ちょさくにより天満てんま八太はったおっとどう一人物いちじんぶつであるとされている[20]
  5. ^ かりに、このじゅう太夫たゆう天満てんましげる太夫たゆうすとするなら江戸えどそう鹿子かのこ[14]江戸えど図鑑ずかん綱目こうもく[15]にそのることができる。
  6. ^ 劇場げきじょう年表ねんぴょうしるしているがゆみ久文ひさふみ劇場げきじょう年表ねんぴょう』ではなく、黒木くろき勘蔵かんぞう同様どうよう関根せきねただまこと戯場ぎじょう年表ねんぴょう』が出典しゅってんであるとかんがえられる。
  7. ^ 水谷みずたに弓彦ゆみひこは『貞享ていきょうねんの『役者やくしゃさんわび』には、さかいまち天満てんまはち太夫たゆうにならび「出来山できやまげいづくし」をいちけんとなりに、江戸えどまごよんろう結城ゆうき説経せっきょう芝居しばいがあり[27]』と記述きじゅつしており、この記述きじゅつ一致いっちする喜田きた川守かわもりさだが『貞享ていきょうねん印行いんこう野郎やろうさん[28]』として引用いんようしている。秋山あきやまきよしかおる)もまた『貞享ていきょう二年印行野郎三座記所載[25]』として引用いんようしている。ただし、水谷みずたに弓彦ゆみひこ記述きじゅつ江戸えどまごよんろう結城ゆうき説経せっきょう芝居しばい』にある括弧かっこの『(結城ゆうき)』の文字もじふたつには記載きさいされていない。
  8. ^ 水谷みずたに弓彦ゆみひこ結城ゆうきまごよんろうとされる法蔵ほうぞう比丘びく正本しょうほん存在そんざいしるしている[31]
  9. ^ 結城ゆうき孫三郎まごさぶろう結城ゆうきまごよんろう結城ゆうきいち[31]とする記載きさいもある。
  10. ^ 歌舞伎かぶき年表ねんぴょうによれば寛文ひろふみ11ねん江戸えど孫三郎まごさぶろうさかいまち興行こうぎょうした記述きじゅつがある[33]江戸えどまごよんろうには人形にんぎょうさんにんあつかった[30]が『役者やくしゃづくし』にあって、これについては三田村鳶魚みたむらえんぎょ著述ちょじゅつ[34]くわしい。
  11. ^ いずれの項目こうもく参考さんこう文献ぶんけん若月わかつき保治やすじ浄瑠璃じょうるりしん研究けんきゅう』をげている。
  12. ^ 題簽だいせんひだりに『あみだの本地ほんじ結城ゆうきまごろう』とあり結城ゆうき孫三郎まごさぶろうにゅう正本しょうほんかんがえられていた[44]が、正徳しょうとく3年版ねんばんのものにより確定かくていした[45]
  13. ^ 原文げんぶんまま。判読はんどくしづらかったものとおもわれる。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 諏訪すわ春雄はるお 1993, p. 262.
  2. ^ a b 山本やまもと二郎じろう 1993, pp. 266–267.
  3. ^ a b 諏訪すわ春雄はるお 1994, p. 930.
  4. ^ 特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじんCANPANセンター.
  5. ^ 中野なかのさんさと 1988, p. 327.
  6. ^ 津村つむら淙庵 1795, p. 218.
  7. ^ 稀書きしょ複製ふくせいかい 1934, p. 11.
  8. ^ 若月わかつき保治やすじ 1943, p. 663.
  9. ^ 浅井あさい了意りょうい 1662, p. 21.
  10. ^ 若月わかつき保治やすじ 1961 pp. 473-474
  11. ^ 加藤かとう曳尾あん 1907, p. 77.
  12. ^ 村井むらい益男ますお1980 pp. 344-345
  13. ^ 松濤しょうとうのき斎藤さいとうちょうあき 1834, p. 10.
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  16. ^ 斎藤さいとうがつ岑 1849, p. 25.
  17. ^ 斎藤さいとうがつ岑 1847, p. 11.
  18. ^ a b 水谷みずたに弓彦ゆみひこ 1916, p. 54.
  19. ^ 斎藤さいとうがつ岑 1961 pp. 179-182
  20. ^ 水谷みずたに弓彦ゆみひこ 1916.
  21. ^ 演芸えんげい珍書ちんしょ刊行かんこうかい 1914, p. 160.
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  50. ^ 日刊にっかんゲンダイ.


参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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外部がいぶリンク

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