タイヘイトリオ

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タイヘイトリオは、日本にっぽん浪曲ろうきょく漫才まんざいトリオ。浪漫ろうまんショウひろられた。

メンバー[編集へんしゅう]

タイヘイ洋児ようじ(タイヘイ ようじ、1923ねん2がつ27にち[1] - 生死せいし不明ふめい本名ほんみょう西村にしむら洋治ようじ[1]鳥取とっとりけん出身しゅっしん[1]
ギター担当たんとう。12さい芸人げいにんこころざしたが家族かぞくらの反対はんたいされる、1938ねん、14さい旧制きゅうせい中学ちゅうがくかよいながら文芸ぶんげい漫才まんざい作家さっか郡山こおりやま桜葉おうば書生しょせい下働したばたらきをする。旧制きゅうせい中学ちゅうがく卒業そつぎょうあきあひる艦隊かんたい木下きのしたはなごえあきれたぼういずのもとで修業しゅうぎょう、このころは「すずめ」や「南洋なんよう」を名乗なのっていた、1941ねんの18さい神戸こうべ初舞台はつぶたい、その一座いちざ全国ぜんこく転々てんてんとし1942ねん兵役へいえき合格ごうかく戦後せんごもどさまわりをつづ1950ねんかえりばん[1]
姉妹しまいのボケ・ツッコミにたじたじとなり、舞台ぶたいではほとんしゃべらせてもらえぬ役回やくまわり。文芸ぶんげい志望しぼうだけあって台本だいほんがけていたが、1975ねんキャバレーなどの事業じぎょう失敗しっぱいして失踪しっそう著書ちょしょ自主じしゅ出版しゅっぱんした『漫才まんざいタイヘイ戦記せんき』がある。
あかつきしんならギブソンつか愛用あいようしていた1ほんは、梅乃うめのハッパゆずけている。
タイヘイばら(タイヘイ げんじ、1945ねん9月11にち - 2002ねん9月14にち本名ほんみょう寺下てらした道治みちはる三重みえけん久居ひさい出身しゅっしん[1]
うたギター担当たんとう素人しろうと参加さんかのラジオのど自慢じまん大会たいかい出演しゅつえんがきっかけで川上かわかみのぼる門下もんかになる。1963ねん結成けっせいの『川上かわかみのぼると大阪おおさかヤローズ』に寺下てらしたジョージの参加さんか、その洋児ようじ失踪しっそうけて1975ねんにタイヘイトリオに加入かにゅうおおきなからだ特徴とくちょう
1985ねん脱退だったい司会しかいや、のど自慢じまん審査しんさいんなどのかたわら、『浪花なにわラブコール』(川上かわかみのぼる作詞さくし作曲さっきょく)で歌手かしゅデビューもしている。2002ねん9がつ14にち心筋梗塞しんきんこうそくのため、死去しきょ。57さいぼつ
タイヘイ夢路ゆめじ(タイヘイ ゆめじ、1930ねん4がつ2にち - 2018ねん7がつ31にち[2]

本名ほんみょう辻本つじもと西村にしむら節子せつこ奈良ならけん[2]天理てんり[1]出身しゅっしん生前せいぜんはアンクル所属しょぞく

洋児ようじつまのち失踪しっそう離婚りこん)で、舞台ぶたいじょうはリーダー。一時いちじ満州まんしゅう軍事ぐんじ浪曲ろうきょく満州まんしゅう出丸でまる名乗なのってれていた浪曲ろうきょくけん興行こうぎょう京山きょうやまあいあさむすめで、少女しょうじょ浪曲ろうきょくとして4さいから朝日あさひ博子ひろこ名前なまえ舞台ぶたいつ。
強烈きょうれつ毒舌どくぜつりに『いただきます』(フジテレビけい)にセミレギュラー出演しゅつえんしたさいには、かみかねあかめたり(それはカツラであり「アデランス」といながら、着脱ちゃくだつするパフォーマンスもせた)、目立めだちまくるアクセサリや原色げんしょくふくこなすなど、関西かんさいのド派手はでなおばはんのキャラでタレント、女優じょゆう活動かつどうもし、知名度ちめいど全国ぜんこくてき
おな辻本つじもとせい辻本つじもと茂雄しげおとは、人並ひとなはずれたしゃくれあご共通きょうつうすることから、ギャグで夢路ゆめじ実子じっしせつや、おもねわれ寿朗としろうとのあいだかくせつ出回でまわった。
浪花なにわ春秋しゅんじゅう』などのレコードがある。著書ちょしょ1976ねん自主じしゅ出版しゅっぱんした『夢路ゆめじのしゃくれた人生じんせい』がある。
一時いちじさくらみやみホテル経営けいえいしていたことがある。
おも出演しゅつえんドラマ『よーいドン』(NHK連続れんぞくテレビ小説しょうせつ1982ねん - 1983ねん)、『しん・なにわの源蔵げんぞう事件じけんちょう』(NHK水曜すいよう時代じだいげき1983ねん - 1984ねん)、『ふう』(NHK連続れんぞくテレビ小説しょうせつ1986ねん - 1987ねん)『料理りょうり少年しょうねんKタロー』(関西かんさいテレビ1991ねん)『結婚けっこんはいかが?』(NHK、1996ねん)『アーバンポリス24』(朝日放送あさひほうそう2000ねん9月16にち)『ビタミンF』(NHKBS22002ねん)『かるたクイーン』(NHK、2003ねん)『てるてる家族かぞく』(NHK連続れんぞくテレビ小説しょうせつ、2003ねん - 2004ねんとう
関西かんさい演芸えんげい協会きょうかい所属しょぞくし、「関西かんさい演芸えんげい協会きょうかいまつり」に2016ねんまで出演しゅつえんしていた[2]ほか、『おしゃべり歌謡かよう』とだいして舞台ぶたいにもった。
2018ねん7がつ31にち肝硬変かんこうへんのため、大阪おおさか市内しない病院びょういん死去しきょ[2]。88さいぼつ
タイヘイいと(タイヘイ いとじ、1927ねん11月29にち - 2018ねん8がつ31にち[1]本名ほんみょう土田つちた西村にしむら久子ひさこ奈良ならけん久井くい出身しゅっしん
夢路ゆめじ実姉じっし夢路ゆめじおなじくちち門下もんかで、藤原ふじわら良子りょうこ名乗なのっておさなころから曲師きょくしなどをしていた。いもうと絶妙ぜつみょういを展開てんかいした。おっと音楽おんがくはたけ人手ひとでであった。のちにおっと助言じょげんでソデにまわりクラリネットを伴奏ばんそうした。おっと自身じしん伴奏ばんそうのクラリネットを担当たんとうしていた時期じきもある。テーマきょくおっとさくわれている。童顔どうがんであったためよくいもうと夢路ゆめじ年齢ねんれい間違まちがえられた。

概説がいせつ[編集へんしゅう]

1950ねんころ夢路ゆめじ浪曲ろうきょくとして九州きゅうしゅうでドサまわりしているとき洋児ようじい、1951ねん洋児ようじ夢路ゆめじ夫婦ふうふ浪曲ろうきょく漫才まんざいコンビとして出発しゅっぱつもなくいとくわわりトリオになった。グループめいは'「タイヘイレコード」にちなむ。

西川にしかわヒノデショウあかつきしん・ミスハワイ人生じんせいさいわいあきらなまめぐみ幸子こうじきょう唄子うたこおおとり啓助けいすけらとならぶ、せんにち劇場げきじょうようするせん土地とち興行こうぎょうだい看板かんばん一時いちじ吉本興業よしもとこうぎょう花月かげつ劇場げきじょうにもがっていたが、せんにち劇場げきじょう閉鎖へいさ道頓堀どうとんぼりかくにも出演しゅつえん

「♪ またもましたロマンショウ、いつもニコニコほがらかに~!夢路ゆめじさん「OhYeah!(お~やぁ~)」いとくん「あ~いよ!」洋児ようじさん(はらさん)時間じかんるまでおたのしみ!タイヘイ・ト・リ・オのおわらいでぇ~」(「浪漫ろうまんショウ」は「浪曲ろうきょく漫才まんざいショー」の)のテーマソングではじまる、あかるくにぎやかな芸風げいふう人気にんきはくす。ツッコミのいとう、しゃくれあごでボケやく夢路ゆめじは、自分じぶん出演しゅつえんしている演芸えんげい番組ばんぐみ録画ろくが中継ちゅうけい芸人げいにん仲間なかま楽屋がくやていて、「わがながらおもろいかおやな」と感心かんしんしたという。のちおおくの音楽おんがくショウが誕生たんじょうするけにもなる。

おおくの弟子でしたちからしたわれ、人気にんき絶頂ぜっちょうだったにもかかわらず、1975ねん事業じぎょう失敗しっぱいした洋児ようじ失踪しっそう同年どうねんはら急遽きゅうきょむかれ、新生しんせいタイヘイトリオで再出発さいしゅっぱつした。このころ小野沢おのざわオフィス所属しょぞくであった。しばらくしていと一線いっせんから退しりぞき、夢路ゆめじはらのコンビで活躍かつやくしていたが、はら脱退だったい夢路ゆめじ家元いえもととしてタイヘイ一門いちもんひきいるかたわら、ピンげいでも意気軒昂いきけんこう

みやこはるみは、贔屓ひいきだったははれられて幼少ようしょうからタイヘイトリオの舞台ぶたいしたしみ、『アンコ椿つばきこいはな』の歌唱かしょうさいしては、ははから夢路ゆめじのくどい節回ふしまわし・コブシまわしを参考さんこうにするよう指導しどうされた結果けっか、これをだいヒットさせた。

放送ほうそう作家さっか萩原はぎはら芳樹よしきは、このタイヘイトリオのテーマソングのうたを、あいだ寛平かんぺいの『アメママン』に改作かいさくした。

弟子でし[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]