(Translated by https://www.hiragana.jp/)
新布石 - Wikipedia コンテンツにスキップ

しん布石ふせき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

しん布石ふせき(しんふせき)は、1933ねん昭和しょうわ8ねん)に呉清源ごせいげん木谷きたにみのる発表はっぴょうした、中央ちゅうおう速度そくど重視じゅうしするあたらしい囲碁いご布石ふせきのスタイル。それまでの小目こもく中心ちゅうしんとしたひく布石ふせきたいし、ほしさんすみ一手いってませてあたり中央ちゅうおうへの展開てんかい速度そくど重視じゅうしし、中央ちゅうおう雄大ゆうだい模様もよう構築こうちくすることを主眼しゅがんとする。その斬新ざんしんなスタイルと、これを駆使くしした木谷きたに活躍かつやくにより社会しゃかい現象げんしょうともえるブームをこした。

経過けいか

[編集へんしゅう]

1933ねんなつ木谷きたに長野ながのけん地獄谷じごくだに温泉おんせん木谷きたにつま実家じっか経営けいえいする旅館りょかん後楽こうらくかん」において意見いけん交換こうかんおこな[1]中央ちゅうおう重視じゅうしする木谷きたに研究けんきゅう同調どうちょうしてしん布石ふせき概念がいねんつくされた。とき木谷きたに24さい19さいであった。しん布石ふせき構想こうそうには中央ちゅうおう重視じゅうし華麗かれい棋風きふうられたななせい安井やすいせん影響えいきょうおおきいといわれる。

本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや名人めいじんひだり)と呉清源ごせいげんだんみぎ)の対局たいきょく

同年どうねんあきだい手合てあいにおいてにんはこの斬新ざんしんなスタイルを駆使くしし、が1とう木谷きたにが2とうという好成績こうせいせきおさめて話題わだいあつめた。10月には本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや名人めいじんたいさん々・ほし天元てんげん大胆だいたん布石ふせき勝負しょうぶいどみ、満天下まんてんか注目ちゅうもくあつめた(秀哉ひでやしろばん2もくかち)。

よく1934ねんには安永やすながはじめをライターとし、平凡社へいぼんしゃから「囲碁いご革命かくめいしん布石ふせきほう」を出版しゅっぱん書店しょてんまわりを行列ぎょうれつかこみ、10まんげるという当時とうじとしては破格はかくだいベストセラーとなった。このとし春期しゅんき大手おおてあいでは久保くぼまつ勝喜かつよしだい関西かんさい棋士きし一斉いっせいだいいちちゃく天元てんげんつなど、専門せんもん棋士きしあいだにも波及はきゅうはじめた。これにたい権威けんいしゃであった本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや否定ひていてき見解けんかいしめし、一門いちもん弟子でしたちは旧来きゅうらい布石ふせきまもってしん布石ふせきたたかいをいどんだ。

こののち田中たなか不二男ふじおらが7のなな、5のじゅうよん連打れんだといった「ウルトラしん布石ふせき」をこころみるなど暴走ぼうそうともえる展開てんかいせたが、1936ねんころには木谷きたに重視じゅうしするスタイルに変化へんかし、ブームとしてのしん布石ふせきわりをげた。

しん布石ふせきれい

[編集へんしゅう]
  •  呉清源ごせいげん先番せんばん) たい 木谷きたにみのる

しん布石ふせき誕生たんじょういちきょくわれる。局面きょくめんまででけになっていたところで木谷きたに地獄谷じごくだにでの意見いけん交換こうかんがあり、再開さいかいくろ31へと模様もようした。地獄谷じごくだにでのしん布石ふせき構想こうそうがなければ、31でなく「a」にむつもりであったという。くろ31にたいしてしろ32にけたところで、くろ33と中央ちゅうおう意識いしきしたたかカカリはなった。このさかいしん布石ふせき具体ぐたいする。

  •  本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや名人めいじん たい 呉清源ごせいげん先番せんばん

21まで。くろさん々・ほし天元てんげん連打れんだ左下ひだりした四角よつかどぼし大胆だいたん布陣ふじんた。秀哉ひでや名人めいじんは160妙手みょうしゅで5り、逆転ぎゃくてん勝利しょうり権威けんい死守ししゅした(本因坊ほんいんぼう秀哉ひでやこう参照さんしょう[2]

  • 呉清源ごせいげん たい 小杉こすぎちょう先番せんばん

古来こらいからの盤面ばんめん遊技ゆうぎかたちていたため、「じゅうろくむさしいちきょく」とばれた。小杉こすぎはこのきょくについて「をもってたったにぎません」とべている。

田中たなか不二男ふじおの「ウルトラしん布石ふせき」。匹敵ひってきするとわれた才能さいのうおもだったが、25さい夭折ようせつした。のち本因坊ほんいんぼう連覇れんぱしていた時代じだい高川たかがわは、「もし田中たなかきていたら、ぼくなんかまだあたまさえられていますよ」とひょうしている。

しん布石ふせき評価ひょうか

[編集へんしゅう]

しん布石ふせき創始そうししゃとなった二人ふたりだが、どちらかといえば木谷きたに中央ちゅうおう勢力せいりょく重視じゅうし速度そくど重視じゅうしというちがいはあった。三連星さんれんせい、5の天元てんげんといった斬新ざんしんなスタイルをし、当初とうしょ手法しゅほう成熟せいじゅくから失敗しっぱいもあったものの、あたらしいこころみは囲碁いごかいおおきな新風しんぷうおくんだといえる。しん布石ふせきすたれたのちもそのかんがかた自体じたいはその布石ふせきかんがかたまれ、バランスのれた現代げんだい布石ふせきへと昇華しょうかしていった[3]たけみや正樹まさきによる宇宙うちゅう流布るふせきなどは、現代げんだいばんしん布石ふせきともいえる。

しん布石ふせき自体じたいかならずしも従来じゅうらい布石ふせきくつがえし、凌駕りょうがするものであったとはいえない。この時代じだい本因坊ほんいんぼう門下もんか棋士きしかたった「あの布石ふせきけたというよりも、木谷きたにさん・さんがつよいのですよ」という発言はつげんが、しん布石ふせき評価ひょうかとしてもっと妥当だとうだともいえる。しかしその囲碁いごめる位置いちきわめておもく、囲碁いごのスピードが変化へんかするターニングポイントとなった[3]

記念きねん

[編集へんしゅう]

2003ねんしん布石ふせき誕生たんじょう70周年しゅうねんしゅくして信州しんしゅう地獄谷じごくだにに「しん布石ふせき発祥はっしょう」の石碑せきひてられ、呉清源ごせいげん大竹おおたけ英雄ひでお木谷きたに弟子でし)、木谷きたに遺児いじたちが参列さんれつして10月12にち除幕じょまくしきおこなわれた[1]

長女ちょうじょ美春みはる木谷きたに結婚けっこんした後楽こうらくかんでは「囲碁いご旅館りょかん」と銘打めいうち、囲碁いご教室きょうしつひらいている[1]。またしん布石ふせき検討けんとう使つかわれた部屋へやを「しん布石ふせきあいだ」としてのこしており、宿泊しゅくはくそなけの碁盤ごばん対局たいきょく可能かのうである[1]。2017ねんには囲碁いご教室きょうしつ使つか会所かいしょしん布石ふせき木谷きたに道場どうじょうギャラリー」をオープンした[1]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e 囲碁いご しん布石ふせき発祥はっしょう”. 地獄谷じごくだに温泉おんせん後楽こうらくかん. 2023ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ 呉清源ごせいげん (2009ねん7がつ28にち). “呉清源ごせいげん生涯しょうがいいちきょく(4)名人めいじん相手あいてに「さん々、ほし天元てんげん」(寄稿きこう連載れんさい)その”. 読売新聞よみうりしんぶん. 2014ねん12月21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん12月21にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 日本にっぽん囲碁いご連盟れんめい | 囲碁いご用語ようごしん布石ふせき”. www.ntkr.co.jp. 2023ねん6がつ2にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]