狩野 かの 永 ひさし 徳 とく による囲碁 いご の絵 え
この項目 こうもく では、囲碁 いご の歴史 れきし (いごのれきし)について解説 かいせつ する。
棋待詔 みことのり (囲碁 いご を以って仕 つか えた官職 かんしょく )も参考 さんこう
朱 しゅ 氏 し 筆 ひつ 三星 みつぼし 碁 ご 図 ず 絹本 けんぽん 着色 ちゃくしょく 中国 ちゅうごく 元 もと 代 だい 根津 ねづ 美術館 びじゅつかん
囲碁 いご の実際 じっさい の起源 きげん は不 ふ 詳 しょう だが、中国 ちゅうごく で占星術 せんせいじゅつ の一法 いっぽう が変化 へんか ・洗練 せんれん されて今 いま の形 かたち となったのではないかと伝 つた えられている。考古学 こうこがく 的 てき な考証 こうしょう では、2002年 ねん に中国 ちゅうごく 陝西 せんせい 省 しょう の考古 こうこ 学者 がくしゃ が、前漢 ぜんかん の景 けい 帝 みかど 陽 ひ 陵 りょう で、前漢 ぜんかん 時代 じだい (206 BC - 24 AD)のものと思 おも われる陶製 とうせい 碁盤 ごばん の断片 だんぺん を発見 はっけん した。中国 ちゅうごく の考古 こうこ 学者 がくしゃ の調査 ちょうさ によれば、この碁盤 ごばん は皇帝 こうてい の陵墓 りょうぼ から出土 しゅつど したとはいえ、皇族 こうぞく が使用 しよう したものではなく、陵墓 りょうぼ の墓守 はかもり 達 たち の遊戯 ゆうぎ のために使用 しよう されていたものと推定 すいてい されている。初期 しょき の碁石 ごいし は、唐 とう 宋 そう 期 き のものが残 のこ っている。
初期 しょき の囲碁 いご のルールについては不明 ふめい だが、盤上 ばんじょう に多 おお くの石 いし を置 お いた方 ほう が勝 か ちだったと考 かんが えられている[ 1] 。また純 じゅん 碁 ご のような単純 たんじゅん なルールだったという推測 すいそく もある[ 2] 。
伝説 でんせつ では、堯 が息子 むすこ の丹 に 朱 しゅ が賢 かしこ くないのを見 み て、囲碁 いご を発明 はつめい し、教 おし えたという。晋 すすむ 代 だい の張 ちょう 華 はな は「博物 はくぶつ 志 こころざし 」で、「堯造圍 かこえ 棋,以教子 こ 丹 に 朱 しゅ 」と「舜 しゅん 以子商 しょう 均 ひとし 愚 ぐ ,故 こ 作 さく 圍 かこえ 棋以教之 のりゆき 」と記載 きさい する。“夏 なつ 人 じん 烏 がらす 曹作賭博 とばく 圍 かこえ 棋。”(『潛 せん 確 かく 類書 るいしょ 』)と、夏 なつ の時代 じだい に発明 はつめい されたとする伝説 でんせつ もあった。もちろんこれは寓話 ぐうわ であり事実 じじつ ではない。
紀元前 きげんぜん には囲碁 いご のことを「弈」(えき)と呼 よ んでおり[ 3] [ 4] 、「棋」は六 ろく 博 はく という別 べつ のゲームの駒 こま を意味 いみ していた。後 こう 漢 かん にはいると六 ろく 博 はく がすたれて、「棋」は弾 たま 棋 を意味 いみ するようになったが、弾 たま 棋もすたれると、ようやく囲碁 いご のことを「棋」というようになった。
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい 、孔子 こうし は囲碁 いご について触 ふ れ、「飽食 ほうしょく 終日 しゅうじつ ,無 む 所用 しょよう 心 しん ,難 なん 矣哉!不 ふ 有 ゆう 博 はく 弈者乎,為之 ためゆき ,猶 なお 賢 けん 乎已!」(一 いち 日 にち 中 ちゅう 何 なに もしないよりは六 ろく 博 はく や碁 ご でもやっていた方 ほう がましだ)と述 の べている(論語 ろんご ・陽 ひ 貨)。
『孟子 もうし 』や『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 』にも「弈」(囲碁 いご )に関 かん する記載 きさい がある。
先 さき 秦 しん 時代 じだい の囲碁 いご のルールは明 あき らかでない。
石 いし 製 せい 碁盤 ごばん 望都 もと 漢 かん 墓 ぼ 中国 ちゅうごく 後 こう 漢 かん
この期間 きかん 、囲碁 いご はサイコロ を使 つか ったゲームの「六 ろく 博 はく 」とともに「博 ひろし 弈」と称 しょう され[ 5] 、上層 じょうそう 階級 かいきゅう に広 ひろ まった。ただし、前漢 ぜんかん では運 うん 次第 しだい の「六 ろく 博 はく 」の方 ほう が知力 ちりょく を競 きそ う囲碁 いご よりも流行 りゅうこう していた。後 こう 漢 かん 時代 じだい に至 いた り、囲碁 いご は兵法 ひょうほう に類似 るいじ しているとして、段々 だんだん と重視 じゅうし されるようになってきた。班 はん 固 かた の『弈旨』は世界 せかい 初 はつ の囲碁 いご の専門 せんもん 書 しょ とみなされる。馬 うま 融 とおる は『圍 かこえ 棋賦』のなかで最初 さいしょ に「三 さん 尺 しゃく 之 の 局 きょく 兮,為 ため 戦 せん 鬥場」との思想 しそう を表明 ひょうめい した。曹操 そうそう や孫 まご 策 さく や王 おう 粲 つばら などの当時 とうじ の著名 ちょめい 人 じん はみな囲碁 いご をたしなんだ。関 せき 羽 はね が矢 や 傷 きず を負 お った際 さい 、碁 ご を打 う ちながら手術 しゅじゅつ を受 う けたというエピソードはよく知 し られる。
河北 かほく 省 しょう 望都 もと 県 けん の後 のち 漢 かん の墓 はか から出土 しゅつど した棋具と魏 たかし の邯鄲 かんたん 淳 あつし の『芸 げい 経 けい 』[ 6] の記載 きさい から、この時代 じだい の碁盤 ごばん は17路 ろ だったと考 かんが えられる。碁石 ごいし については、安徽 あんき 省 しょう 亳州市 し の元 もと 宝 たから 坑 あな 一 いち 号 ごう 墓 はか から後 こう 漢 かん 末 まつ の四角 しかく い碁石 ごいし が出土 しゅつど しているという[ 7] [ 8] 。山東 さんとう 省 しょう 鄒城市 し の劉 りゅう 宝 たから 墓 ぼ から出土 しゅつど した西 にし 晋 すすむ の碁石 ごいし は卵 たまご 型 がた である[ 9] 。
中国 ちゅうごく に現存 げんそん する最古 さいこ の棋譜 きふ と言 い われているものに三 さん 国 こく 時代 じだい の「孫 まご 策 さく 詔 みことのり 呂 りょ 範 はん 弈棋図 ず 」があるが[ 10] 、19路 ろ であるために後人 こうじん の仮託 かたく とされる[ 11] 。
この時期 じき に囲碁 いご は、南方 なんぽう の文人 ぶんじん や雅 みやび 士 し の間 あいだ で流行 りゅうこう した。碁盤 ごばん は19路 ろ に拡大 かくだい した[ 12] 。19路 ろ の碁盤 ごばん の現物 げんぶつ は隋 ずい の時代 じだい のものが河南 かなん 省 しょう 安陽 あんよう 市 し 張 ちょう 盛 もり 墓 ぼ から出土 しゅつど している[ 9] 。
南朝 なんちょう では棋品制度 せいど と圍 かこえ 棋州邑制度 せいど が設 もう けられ、専業 せんぎょう の棋士 きし をそれぞれ異 こと なる級 きゅう に分 わ け、一定 いってい の待遇 たいぐう を与 あた えた。梁 りょう の武 たけ 帝 みかど は自 みずか ら『圍 かこえ 棋賦』を作 つく って、囲碁 いご を唱導 しょうどう し、囲碁 いご は黄金 おうごん 時代 じだい を迎 むか えた。
武 たけ 帝 みかど はまた全国 ぜんこく 的 てき な囲碁 いご の大会 たいかい を開催 かいさい した。これは証拠 しょうこ がある最初 さいしょ の全国 ぜんこく 大会 たいかい である。参加 さんか 者 しゃ は夥 おびただ しかった。大会 たいかい 後 ご 、上品 じょうひん 級 きゅう と入 いれ 品 ひん を確定 かくてい した棋士 きし は278人 にん であった。
王 おう 積 つもる 薪 たきぎ (黒 くろ )驪山老媼 ろうおう (白 しろ )
唐 とう 代 だい に入 はい り、囲碁 いご は急速 きゅうそく に発展 はってん した。宮中 きゅうちゅう には棋待詔 みことのり という職 しょく が設 もう けられ、皇帝 こうてい と囲碁 いご をする棋士 きし を専 せん 門 もん に養成 ようせい した。王 おう 積 つもる 薪 たきぎ は開 ひらき 元 もと 年間 ねんかん の名人 めいじん であり、圍 かこえ 棋十 じゅう 訣 をまとめた。「不 ふ 得 え 貪 むさぼ 勝 かち ,入 いれ 界 かい 宜 むべ 緩 なる ,攻 おさむ 彼 かれ 顧我,棄子 すてご 争 そう 先 さき ,捨小就大,逢危須棄,慎 まき 勿軽速 そく ,動 どう 須相応 おう ,彼 かれ 強 つよ 自 じ 保 たもて ,勢 いきおい 孤 こ 取 と 和 わ 」というこの秘訣 ひけつ は囲碁 いご の古典 こてん 理論 りろん とされる。伝説 でんせつ では王 おう 積 つもる 薪 たきぎ は夢 ゆめ のなかで青 あお 龍 りゅう が棋経九 きゅう 部 ぶ を吐 は いて己 おのれ に授 さづ け、この時 とき からその芸 げい が進 すす んだという。唐 とう の天宝 てんぽう 年間 ねんかん 、安史 やすし の乱 らん を避 さ けて王 おう 積 つもる 薪 たきぎ は蜀 しょく 州 しゅう に行 い き、驪山 の老婆 ろうば の嫁 よめ 姑 しゅうと の対局 たいきょく を見 み たという伝説 でんせつ がある。宋 そう 代 だい の『忘憂 ぼうゆう 清 きよ 楽 らく 集 しゅう 』には、王 おう 積 つもる 薪 たきぎ の「一子 いっし 解 かい 二 に 征 せい 」の棋譜 きふ が載 の っている(一説 いっせつ には顧師言 げん と日本国 にっぽんこく 王子 おうじ の対局 たいきょく という)。
開 ひらけ 元 もと 25年 ねん (737年 ねん )、棋士 きし の楊季鷹 たか が特使 とくし とともに新 しん 羅 ら に使者 ししゃ として赴 おもむ いた。楊季鷹 たか に新 しん 羅 ら 棋士 きし で敵 てき うものは居 い なかった。約 やく 百 ひゃく 年 ねん 後 ご 、長安 ながやす で顧師言 げん と日本 にっぽん 王子 おうじ 高岳親王 たかおかしんのう が対局 たいきょく した。初 はじ めての正式 せいしき な日 にち 中 ちゅう 対抗 たいこう 戦 せん と言 い えよう。顧師言 ごと はこの対局 たいきょく で「神来 かみく 之 の 筆 ふで 」と後 のち に呼 よ ばれた「三 さん 十 じゅう 三 さん 招鎮神 しん 頭 あたま 」で、一挙 いっきょ に勝 か ちを決 き めた。
またこの時期 じき に囲碁 いご が日本 にっぽん に伝来 でんらい した。
宋 そう の張 ちょう 擬 なずらえ は孫子 まごこ の兵法 ひょうほう を真似 まね て『棋経十 じゅう 三 さん 篇 へん 』を書 か き、後世 こうせい の囲碁 いご 理論 りろん と実践 じっせん に深 ふか い影響 えいきょう を及 およ ぼした。北 きた 宋 そう 時期 じき の劉 りゅう 仲 なか 甫 はじめ は囲碁 いご に関 かん する著作 ちょさく が多 おお く、『忘憂 ぼうゆう 清 きよ 楽 らく 集 しゅう 』・『棋勢』・『造 みやつこ 微 ほろ 』・『精 せい 理 り 』・『棋訣』等 とう がある。北 きた 宋 そう 時期 じき の范仲淹 ・欧 おう 陽 ひ 脩 おさむ ・司馬 しば 光 ひかり ・王 おう 安 やすし 石 せき ・蘇 そ 軾 ・黄庭堅 おうていけん といった文人 ぶんじん や忠臣 ちゅうしん も高 たか い囲碁 いご の造詣 ぞうけい を持 も っていた。
元朝 がんちょう の厳 げん 師 し (字 じ は徳 とく 甫 はじめ )と晏天章 あきら は『玄 げん 玄 げん 碁 ご 経 けい 』を編集 へんしゅう し、前人 ぜんじん の大量 たいりょう の理論 りろん の著述 ちょじゅつ や囲碁 いご の死活 しかつ や定石 じょうせき を集 あつ めた。
明 あかり 末 まつ の名人 めいじん の過 か 百 ひゃく 齢 よわい が『官 かん 子 こ 譜 ふ 』を書 か き、各種 かくしゅ の手 て を収録 しゅうろく した。民間 みんかん では囲碁 いご を使 つか った賭 か け事 ごと が盛 さか んになり、朱 しゅ 元 もと 璋 あきら が「禁 きん 棋令」を出 だ すほどだった。
清朝 せいちょう の時代 じだい も、囲碁 いご の名手 めいしゅ は続々 ぞくぞく と出 で た。康 かん 熙年間 ねんかん 、黄 き 龍 りゅう 士 し が徐 じょ 星 ほし 友 とも に三 さん 子 し 譲 ゆず った対局 たいきょく の十 じゅう 番 ばん の棋譜 きふ 「血涙 けつるい 篇 へん 」は著名 ちょめい である。乾 いぬい 隆 たかし 四 よん 年 ねん (1739年 ねん )、施 ほどこせ 襄 じょう 夏 なつ と范西屏 へい は浙江 せっこう 平 たいら 湖 こ で有名 ゆうめい な「当 とう 湖 みずうみ 十 じゅう 局 きょく 」を打 う った。
公的 こうてき な地位 ちい の低下 ていか は、明 あきら 清 しん 時期 じき の民間 みんかん の棋士 きし の経済 けいざい 収入 しゅうにゅう を長 なが く不安定 ふあんてい な状態 じょうたい にした。棋士 きし の収入 しゅうにゅう は、囲碁 いご の指導 しどう や弟子 でし への伝授 でんじゅ のほか、主 おも に観客 かんきゃく (主 おも に顕官 けんかん 、富裕 ふゆう な商人 しょうにん 、上層 じょうそう 文人 ぶんじん )の「賞金 しょうきん 」や「賭 か け金 きん 」に依存 いぞん していた。これは明 あき らかに運 うん まかせであった。もし太平 たいへい の世 よ であれば、貴顕 きけん たちにも余裕 よゆう があって、民間 みんかん の囲碁 いご 活動 かつどう も盛 さか んになり、棋士 きし の生活 せいかつ も安定 あんてい する。「諸子 しょし 争 そう 雄 ゆう 競 きおい 覇 は ,累 るい 局 きょく 不 ふ 啻千盤 ばん 」、「海内 かいだい 国手 こくしゅ 幾 いく 十 じゅう 数輩 すはい ,往来 おうらい 江 こう 淮之間 あいだ 」と、王 おう 燮 は「『弈墨』・序 ついで 」で清 しん 初 はつ の棋壇の盛 もり 况ぶりを描写 びょうしゃ した。しかしいったん民生 みんせい が苦 くる しくなると、棋士 きし の生活 せいかつ も苦 くる しくなった。囲碁 いご のレベルも自然 しぜん と段々 だんだん 下 さ がり、後継 こうけい 者 しゃ も減 へ った。このような賞金 しょうきん にたよった生活 せいかつ 方式 ほうしき は、棋士 きし に独特 どくとく の勝負 しょうぶ 観 かん と社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい を形成 けいせい した。囲碁 いご は依然 いぜん として高尚 こうしょう な芸術 げいじゅつ であったが、棋士 きし は役者 やくしゃ や占 うらな い師 し のように低 ひく く見 み られた。
源氏物語 げんじものがたり 絵巻 えまき 竹 ちく 河 かわ 部分 ぶぶん
日本 にっぽん には遣唐使 けんとうし に加 くわ わった吉備真備 きびのまきび が伝 つた えたとされる。しかし大宝 たいほう 律令 りつりょう の中 なか に碁 ご に関 かん する項目 こうもく があること、隋 ずい 書 しょ 倭国 わのくに 伝 でん に「好 こう 棋博、握 にぎ 槊、樗 ぶな 蒲 がま 之 の 戯 おどけ (囲碁 いご 、握 にぎ 槊、樗 ぶな 蒲 がま (さいころ)の競技 きょうぎ を好 この む)」との記載 きさい があるから、実際 じっさい にはさらに以前 いぜん から伝 つた わっていたと思 おも われる。奈良 なら 時代 じだい には盛 さか んに打 う たれていた様 よう で、正 せい 倉 くら 院 いん に碁盤 ごばん 「木 き 画 が 紫檀 したん 棊局(もくがしたんのききょく)[ 13] 」が収 おさ められている。平安 へいあん 時代 じだい には貴族 きぞく のたしなみとして好 この まれ、「枕草子 まくらのそうし 」「源氏物語 げんじものがたり 」などこの時代 じだい の代表 だいひょう 的 てき な文学 ぶんがく 作品 さくひん にもしばしば碁 ご の描写 びょうしゃ が登場 とうじょう する。現在 げんざい 伝 つた えられている日本 にっぽん 最古 さいこ の棋譜 きふ と呼 よ ばれる物 もの は1252年 ねん に日蓮 にちれん がその弟子 でし 吉祥丸 きっしょうがん (後 ご の日 にち 朗 ろう )と打 う ったという棋譜 きふ であるが、おそらくは後世 こうせい の偽作 ぎさく である。
室町 むろまち 時代 ときよ に入 はい ると、それまで公家 くげ 、僧侶 そうりょ 階級 かいきゅう に愛好 あいこう されていた囲碁 いご は武家 ぶけ や庶民 しょみん にも広 ひろ がり、同時 どうじ に碁盤 ごばん と碁石 ごいし を使 つか った様々 さまざま な数 かず とり遊 あそ び も生 う み出 だ されて広 ひろ まった。有力 ゆうりょく 者 しゃ は「碁打 ごう ち」「上手 じょうず 」と呼 よ ばれる半 はん 専業 せんぎょう の者 もの を抱 かか えて、競 きそ わせるようになり、その中 なか には同朋 どうほう 衆 しゅ や、出自 しゅつじ 不明 ふめい の者 もの も少 すく なくなかった。戦国 せんごく 時代 じだい に入 はい ると、戦 せん のシミュレーションとして大 おお いに好 この まれ、隆盛 りゅうせい を迎 むか える。武田 たけだ 信玄 しんげん 他 た 、多 おお くの戦国 せんごく 武将 ぶしょう が碁 ご を好 この んだという記録 きろく が残 のこ っている。
この時期 じき に群 ぐん を抜 ぬ いた第一人者 だいいちにんしゃ として登場 とうじょう したのが日 にち 海 かい (後 ご の本因坊 ほんいんぼう 算 さん 砂 すな )である。この時代 じだい には、それまでは対局 たいきょく する両者 りょうしゃ が碁盤 ごばん 上 じょう にあらかじめいくつかの石 いし を置 お いて対局 たいきょく していたものを、盤上 ばんじょう にまったく石 いし の無 な い状態 じょうたい から打 う ち始 はじ める方式 ほうしき への移行 いこう もあった[ 14] 。このため布石 ふせき の概念 がいねん も算 さん 砂 すな の時代 じだい から生 う まれたといえる。
算 さん 砂 すな は織田 おだ 信長 のぶなが ・豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし ・徳川 とくがわ 家康 いえやす の囲碁 いご の師 し であり、三 さん 人 にん 共 とも に算 さん 砂 すな に五 ご 子 し 置 お いていたと言 い う[ 15] 。算 さん 砂 すな を現在 げんざい のトッププロとすれば、信長 のぶなが たちは現在 げんざい のアマチュア4、5段 だん ということになる。その腕 うで を信長 のぶなが に認 みと められた算 さん 砂 すな は名人 めいじん の称号 しょうごう を名乗 なの ることを許 ゆる され[ 16] 、更 さら に秀吉 ひでよし にも重用 じゅうよう されて扶持 ふち を貰 もら うようになり、家康 いえやす が将軍 しょうぐん となった後 のち は名人 めいじん 碁 ご 所 しょ (めいじんごどころ)として碁 ご 界 かい を統括 とうかつ することを命 めい ぜられた。(算 さん 砂 すな は将棋 しょうぎ 所 しょ も受 う けている)[ 17] 。
戦国 せんごく から江戸 えど にかけては日本 にっぽん の碁 ご のレベルが飛躍 ひやく した時代 じだい であり、来日 らいにち していた朝鮮 ちょうせん 人 ひと の李 り 礿 (礿は示 しめせ 編 へん に勺 しゃく )に三子 みつご を置 お かせて勝利 しょうり したという記録 きろく が残 のこ っている。三子 みつご という数字 すうじ は現代 げんだい でいえばトッププロとアマチュア県 けん 代表 だいひょう クラスの差 さ である。
江戸 えど 時代 じだい には算 さん 砂 すな の本因坊 ほんいんぼう 家 か と井上 いのうえ 家 か 、安井 やすい 家 か 、林家 はやしや の四 よん 家 いえ が碁 ご の家元 いえもと と呼 よ ばれるようになり、優秀 ゆうしゅう な棋士 きし を育 そだ て、互 たが いに切磋琢磨 せっさたくま しあうこととなった。四 よん 家 いえ はそれぞれ幕府 ばくふ から扶持 ふち を受 う けており、それぞれの宗家 そうけ は血筋 ちすじ ではなく、実力 じつりょく により決 き められる事 こと となった(血筋 ちすじ も影響 えいきょう したようではある)。その技術 ぎじゅつ の発揮 はっき の場 ば が年 とし に一 いち 回 かい 江戸城 えどじょう 内 うち 、将軍 しょうぐん 御前 ごぜん にて行 おこな われる御 ご 城 しろ 碁 ご である。御 ご 城 しろ 碁 ご は四 よん 家 いえ それぞれ数 すう 人 にん の代表 だいひょう によって戦 たたか われたが、負 ま けることは家 いえ の大 おお きな不名誉 ふめいよ となり、弟子 でし の集 あつ まり方 かた にも影響 えいきょう した。
また囲碁 いご 界 かい の統括 とうかつ 者 しゃ である名人 めいじん 碁 ご 所 しょ の地位 ちい は、各 かく 家元 いえもと いずれかの宗家 そうけ であり、棋力 きりょく が他 た を圧倒 あっとう し、かつ人格 じんかく 的 てき にも他 た の家元 いえもと からも認 みと められることが必要 ひつよう とされた。名人 めいじん は、他 た の棋士 きし に対 たい して段位 だんい を発行 はっこう する権限 けんげん など、数々 かずかず の特権 とっけん と大 おお きな名誉 めいよ を有 ゆう しているため、名人 めいじん の地位 ちい をめぐる各 かく 家元 いえもと による争奪 そうだつ 戦 せん が何 なん 度 ど も演 えん じられた。争 あらそ いの解決 かいけつ は対局 たいきょく で行 おこな われ、その対局 たいきょく を争 そう 碁 ご (そうご、あらそいご)と呼 よ ぶ。
史上 しじょう 初 はつ の争 そう 碁 ご は二 に 世 せい 本因坊 ほんいんぼう 算 ざん 悦 えつ と安井 やすい 家 か 二 に 世 せい の算 さん 知 ち との間 あいだ で争 あらそ われた。御 ご 城 しろ 碁 ご における手合 てあい 割 わり を不服 ふふく としたもので、9年 ねん がかりで6戦 せん して3勝 しょう 3敗 はい の打 う ち分 わ けのまま、算 さん 悦 えつ の死 し によって終 お わりを告 つ げた。
算 さん 知 ち は算 さん 悦 えつ の死後 しご 10年 ねん 目 め に名人 めいじん 碁 ご 所 しょ の座 ざ に就 つ くが、算 さん 悦 えつ の弟子 でし で三 さん 世 せい 本因坊 ほんいんぼう となっていた道悦 どうえつ がこれに異 こと を唱 とな え、再 ふたた び争 そう 碁 ご が開始 かいし された。幕府 ばくふ の意 い にあえて逆 さか らった道悦 どうえつ は、遠島 えんとう あるいは死 し をも覚悟 かくご しての争 そう 碁 ご であった。両者 りょうしゃ 20戦 せん して道悦 どうえつ の12勝 しょう 4敗 はい 4ジゴ となったところで対戦 たいせん は打 う ち切 き られ、名人 めいじん 算 さん 知 ち は引退 いんたい を表明 ひょうめい した。また道悦 どうえつ も「公儀 こうぎ の決定 けってい に背 そむ いたのは畏 おそ れ多 おお い」とし、弟子 でし 道 どう 策 さく に後 こう を譲 ゆず って隠居 いんきょ した。道 みち 策 さく の技量 ぎりょう はこのときすでに道悦 どうえつ を上回 うわまわ っていたとされ、争 そう 碁 ご 後半 こうはん で道悦 どうえつ が大 おお きく勝 か ち越 こ したのには道 みち 策 さく との共同 きょうどう 研究 けんきゅう によるところが大 おお きかったといわれる。
四 よん 世 せい 本因坊 ほんいんぼう 道 どう 策 さく は当時 とうじ の実力 じつりょく 者 しゃ たちを軒並 のきな みなぎ倒 たお し、全 すべ て向 むこう 先 さき (2段 だん 差 さ のハンディキャップ)以下 いか にまで打 う ち込 こ み、実力 じつりょく 十 じゅう 三 さん 段 だん と称揚 しょうよう された。名人 めいじん の地位 ちい にも文句 もんく なしに就位 しゅうい している。始祖 しそ 算 さん 砂 すな 、棋聖 きせい 道 みち 策 さく と言 い う二人 ふたり の不世出 ふせいしゅつ の棋士 きし により、本因坊 ほんいんぼう 家 か は名実 めいじつ 共 ども に四 よん 家 いえ の筆頭 ひっとう となった。
時 どき の最強 さいきょう 者 しゃ 本因坊 ほんいんぼう 道 どう 策 さく の下 した には天下 てんか の才能 さいのう が集 あつ まったが、厳 きび しい修行 しゅぎょう が仇 かたき となったのか次々 つぎつぎ と夭折 ようせつ した。このうち本因坊 ほんいんぼう 道 どう 的 てき は19歳 さい の時 とき すでに師 し の道 みち 策 さく と互角 ごかく であったとされ、囲碁 いご 史上 しじょう 最大 さいだい の神童 しんどう といわれる。晩年 ばんねん 、道 みち 策 さく は道 みち 的 てき に劣 おと らぬ才能 さいのう 本因坊 ほんいんぼう 道 どう 知 ち を見出 みいだ し、これを後継 こうけい 者 しゃ とした。道 みち 知 ち もまた後 のち に名人 めいじん 碁 ご 所 しょ となる。
道 みち 知 ち 以後 いご は本因坊 ほんいんぼう 家 か の家元 いえもと も三 さん 代 だい にわたって六 ろく 段 だん 止 ど まりとなり、囲碁 いご 界 かい 自体 じたい も沈滞 ちんたい の時代 じだい を迎 むか える。しかしここで現 あらわ れた九 きゅう 世 せい 本因坊 ほんいんぼう 察元 は他家 たけ を力 ちから でねじ伏 ふ せて久々 ひさびさ の名人 めいじん となり、本因坊 ほんいんぼう 家 か に中興 ちゅうこう をもたらした。また安井 やすい 家 か 七 なな 世 せい 安井 やすい 仙 せん 知 ち (大仙 だいせん 知 ち )も華麗 かれい な棋風 きふう で活躍 かつやく し、後世 こうせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
18世紀 せいき 末 まつ から19世紀 せいき 初頭 しょとう は十 じゅう 一 いち 世 せい 本因坊 ほんいんぼう 元丈 げんじょう と安井 やすい 家 か 八 はち 世 せい の知得 ちとく の角逐 かくちく 時代 じだい を迎 むか える。両者 りょうしゃ は80局 きょく 以上 いじょう に及 およ ぶ対戦 たいせん を重 かさ ねるが戦績 せんせき はほぼ互角 ごかく で、江戸 えど 期 き 最高 さいこう のライバルと謳 うた われる。後 ご の十 じゅう 一 いち 世 せい 井上 いのうえ 幻 まぼろし 庵 あん 因 いん 碩 せき ・十 じゅう 四 よん 世 せい 本因坊 ほんいんぼう 秀和 しゅうわ と合 あ わせ、名人 めいじん の力 ちから を持 も ちながら名人 めいじん になれなかった者 もの として「囲碁 いご 四 よん 哲 あきら 」と呼 よ ばれる。
十 じゅう 二 に 世 せい 本因坊 ほんいんぼう 丈 たけ 和 わ は棋力 きりょく は第 だい 一 いち 級 きゅう であったが、幻 まぼろし 庵 あん 因 いん 碩 せき と碁 ご 所 しょ の座 ざ を争 あらそ い、策略 さくりゃく を駆使 くし して名人 めいじん 位 い に就 つ いたために後世 こうせい に悪評 あくひょう を残 のこ した[ 18] 。ただしその腕力 わんりょく は史上 しじょう でも随一 ずいいち とされ、幻 まぼろし 庵 あん 因 いん 碩 せき が刺客 しかく として送 おく り込 こ んだ愛弟子 まなでし 赤星 あかほし 因 いん 徹 てっ を「三 さん 妙手 みょうしゅ 」で返 かえ り討 う ちにした松平 まつだいら 家 か の碁 ご 会 かい (1840年 ねん )は江戸 えど 囲碁 いご 史 し のハイライトとされる。
丈 たけ 和 わ 隠退 いんたい 後 ご 、幻 まぼろし 庵 あん 因 いん 碩 せき は名人 めいじん 位 い を望 のぞ むが、これに抵抗 ていこう したのが本因坊 ほんいんぼう 一門 いちもん の若 わか き天才 てんさい 児 じ 本因坊 ほんいんぼう 秀和 しゅうわ であった。秀和 しゅうわ は本場所 ほんばしょ というべき御 ご 城 しろ 碁 ご で幻 まぼろし 庵 あん を撃破 げきは し、その野望 やぼう を阻 はば んだ。秀和 しゅうわ は史上 しじょう 最強 さいきょう の棋士 きし として名 な が挙 あ がるほどの実力 じつりょく であったが、名人 めいじん 位 い を望 のぞ んだ時 とき には世 よ は幕末 ばくまつ の動乱 どうらん 期 き に突入 とつにゅう しており、江戸 えど 幕府 ばくふ はすでに囲碁 いご どころではない状況 じょうきょう に陥 おちい っていた。
本因坊 ほんいんぼう 秀和 しゅうわ の弟子 でし である本因坊 ほんいんぼう 秀 しゅう 策 さく は若 わか い頃 ころ より才能 さいのう を発揮 はっき して、御 ご 城 しろ 碁 ご に19戦 せん 19勝 しょう と言 い う大 だい 記録 きろく を作 つく ったが、コレラ により34歳 さい で夭折 ようせつ した。秀和 しゅうわ と秀 しゅう 策 さく と秀 しゅう 策 さく の弟弟子 おとうとでし である村瀬 むらせ 秀 しげる 甫 はじめ (後 ご の本因坊 ほんいんぼう 秀 しゅう 甫 はじめ )の三 さん 人 にん を合 あ わせて三 さん 秀 しゅう と呼 よ び、江戸 えど 時代 じだい の囲碁 いご の精華 せいか とされる。
江戸 えど 時代 じだい には武士 ぶし だけではなく、各地 かくち の商人 しょうにん ・豪農 ごうのう が棋士 きし を招聘 しょうへい して打 う ってもらうことがよくあり、落語 らくご の「笠 かさ 碁 ご 」や「碁打 ごうち 盗人 ぬすっと 」などで描 えが かれたように、市井 しせい でも盛 さか んに打 う たれていた。一方 いっぽう で地方 ちほう によっては双六 すごろく などとともに賭 か け事 ごと の一種 いっしゅ と見 み られて、禁止 きんし 令 れい が発 はっ されることもあった。
しかし明治維新 めいじいしん により江戸 えど 幕府 ばくふ が崩壊 ほうかい すると、パトロンを失 うしな った家元 いえもと 制度 せいど もまた崩壊 ほうかい した。本因坊 ほんいんぼう 宗家 そうけ の秀和 しゅうわ は生活 せいかつ に苦 くる しみ、一時 いちじ は倉庫 そうこ 暮 く らしとなったほどである。更 さら に西洋 せいよう 文明 ぶんめい への傾斜 けいしゃ 、伝統 でんとう 文明 ぶんめい の軽視 けいし と言 い う風潮 ふうちょう から囲碁 いご 自体 じたい も軽 かる く見 み られるようになった。
その中 なか で囲碁 いご の火 ひ を絶 た やすまいと1879年 ねん に村瀬 むらせ 秀 しげる 甫 はじめ は囲碁 いご 結社 けっしゃ 「方円 ほうえん 社 しゃ 」を設立 せつりつ (方 ほう は碁盤 ごばん 、円 えん は碁石 ごいし のことで囲碁 いご の別名 べつめい である)。新 あら たに級 きゅう 位 い 制度 せいど を採用 さいよう するなど、底辺 ていへん の開拓 かいたく を試 こころ みた。それに対抗 たいこう して秀和 しゅうわ の息子 むすこ である土屋 つちや 秀栄 しゅうえい (後 ご の本因坊 ほんいんぼう 秀栄 しゅうえい )は1892年 ねん に「囲碁 いご 奨励 しょうれい 会 かい 」を設立 せつりつ した。こうして坊 ぼう 社 しゃ 対立 たいりつ 時代 じだい が続 つづ くが、1886年 ねん に秀栄 しゅうえい は秀 しゅう 甫 はじめ に本因坊 ほんいんぼう の座 ざ を譲 ゆず って和解 わかい した。しかしその1ヶ月 かげつ 後 ご に秀 しゅう 甫 はじめ は死去 しきょ 、秀栄 しゅうえい が本因坊 ほんいんぼう に復帰 ふっき する。
こうした対局 たいきょく の熱気 ねっき を受 う けて新聞 しんぶん にも囲碁 いご 欄 らん が登場 とうじょう するようになり、一般 いっぱん の囲碁 いご 界 かい に対 たい する興味 きょうみ が高 たか まってきた。1878年 ねん 4月 がつ 1日 にち 、「郵便 ゆうびん 報知 ほうち 新聞 しんぶん 」は中川 なかがわ 亀三郎 かめさぶろう 六 ろく 段 だん と高橋 たかはし 杵 きね 三郎 さぶろう 五 ご 段 だん の碁 ご 譜 ふ を掲載 けいさい し、これが新聞 しんぶん の囲碁 いご 欄 らん の始 はじ まりとされる。
本因坊 ほんいんぼう に復帰 ふっき した秀栄 しゅうえい は、並 な み居 い る棋士 きし をなぎ倒 たお して囲碁 いご 界 かい を統一 とういつ し、1906年 ねん に名人 めいじん 位 い に就 つ く。しかし秀栄 しゅうえい の死後 しご は団体 だんたい が乱立 らんりつ し、囲碁 いご 界 かい は混乱 こんらん の極 きわ みとなる。秀栄 しゅうえい は後継 こうけい 者 しゃ を決 き めないままに死去 しきょ し、田村 たむら 保 たもつ 寿 ことぶき (後 ご の本因坊 ほんいんぼう 秀哉 ひでや )と雁金 かりがね 準一 じゅんいち が後継 こうけい の座 ざ を争 あらそ い、囲碁 いご 界 かい は混沌 こんとん とした時期 じき を送 おく った。結局 けっきょく 秀栄 しゅうえい の弟 おとうと 本因坊 ほんいんぼう 秀 しゅう 元 もと がいったん二 に 十 じゅう 世 せい 本因坊 ほんいんぼう を襲名 しゅうめい し、一 いち 年 ねん 後 ご に秀哉 ひでや に本因坊 ほんいんぼう 位 い を譲 ゆず ることでこの難局 なんきょく を収拾 しゅうしゅう した。
この状況 じょうきょう の中 なか で関東大震災 かんとうだいしんさい が起 お き、囲碁 いご 界 かい も大 だい ダメージを受 う けた。この苦境 くきょう を乗 の り切 き るためには分裂 ぶんれつ は好 この ましくないという機運 きうん が生 う まれ、帝国 ていこく ホテル創業 そうぎょう 者 しゃ として有名 ゆうめい な大倉 おおくら 喜七郎 きしちろう の呼 よ びかけにより、1923年 ねん に東西 とうざい の棋士 きし が集 あつ まって日本棋院 にほんきいん が設立 せつりつ された。
発足 ほっそく 直後 ちょくご に一部 いちぶ の棋士 きし が離脱 りだつ し棋正社 しゃ を結成 けっせい 、日本棋院 にほんきいん との間 あいだ で対抗 たいこう 戦 せん が行 おこな われた(院 いん 社 しゃ 対抗 たいこう 戦 せん )。この時 とき の本因坊 ほんいんぼう 秀哉 ひでや 名人 めいじん と雁金 かりがね 準一 じゅんいち の対局 たいきょく は新聞 しんぶん 上 じょう に記載 きさい されて大人気 おとなげ を呼 よ んだ。これによって読売新聞 よみうりしんぶん は発行 はっこう 部数 ぶすう を一挙 いっきょ に3倍 ばい に伸 の ばしたといわれる。1927年 ねん には大 だい 手合 てあい (棋士 きし の段位 だんい を決 き めるための対局 たいきょく )が始 はじ まり、これも新聞 しんぶん 上 じょう で人気 にんき を博 はく した。
本因坊 ほんいんぼう 秀哉 ひでや 名人 めいじん は死期 しき が近 ちか づいてくると本因坊 ほんいんぼう の世襲 せしゅう 制 せい を取 と りやめることを宣言 せんげん し、本因坊 ほんいんぼう の名跡 みょうせき を日本棋院 にほんきいん に譲 ゆず り渡 わた した。1936年 ねん 、日本棋院 にほんきいん は本因坊 ほんいんぼう の座 ざ を争 あらそ う棋戦 きせん を開催 かいさい することを決定 けってい した。これが本因坊 ほんいんぼう 戦 せん であり、囲碁 いご のタイトル戦 せん の始 はじ まりでもある。秀哉 ひでや 名人 めいじん は引退 いんたい するに当 あ たり木谷 きたに 実 みのる と数 すう ヶ月 かげつ に及 およ ぶ引退 いんたい 碁 ご を打 う ち(木谷 きたに 先番 せんばん 5目 もく 勝 かち )、終了 しゅうりょう 後 ご まもなく死去 しきょ した。
秀哉 ひでや 名人 めいじん に代 か わって第一人者 だいいちにんしゃ の地位 ちい を勝 か ち取 と ったのが、中国 ちゅうごく から来 き た天才 てんさい 棋士 きし ・呉清源 ごせいげん である。呉清源 ごせいげん は1933年 ねん 、木谷 きたに 実 みのる と共 とも にそれまでの布石 ふせき の概念 がいねん を覆 くつがえ す「新 しん 布石 ふせき 」を発表 はっぴょう する。1933年 ねん には秀哉 ひでや 名人 めいじん と対局 たいきょく を行 おこな い、その冒頭 ぼうとう 「星 ほし ・三 さん 々 ・天元 てんげん 」という極 きわ めて斬新 ざんしん な布石 ふせき を披露 ひろう し、世間 せけん をあっと驚 おどろ かせた。この新 しん 布石 ふせき は囲碁 いご 界 かい のみならず一般 いっぱん 社会 しゃかい をも巻 ま き込 こ んで囲碁 いご のブームを巻 ま き起 お こした。
1941年 ねん には実力 じつりょく 制 せい による本因坊 ほんいんぼう 戦 せん が開始 かいし され、関山 せきやま 利一 としかず (利 とぎ 仙 せん と号 ごう す)が第 だい 一 いち 期 き 本因坊 ほんいんぼう の座 ざ に就 つ いた。しかし太平洋戦争 たいへいようせんそう が勃発 ぼっぱつ すると棋士 きし たちは地方 ちほう に疎開 そかい せざるを得 え なくなり、各地 かくち でどさ周 まわ りをするようになった。日本棋院 にほんきいん の建物 たてもの も空襲 くうしゅう で全焼 ぜんしょう しており、棋士 きし ・岩本 いわもと 薫 かおる の自宅 じたく に一時 いちじ 事務所 じむしょ を移転 いてん した。
その中 なか でも本因坊 ほんいんぼう 戦 せん は続 つづ けられていた。1945年 ねん 8月 がつ 6日 にち の第 だい 三 さん 期 き 本因坊 ほんいんぼう 戦 せん (橋本 はしもと 宇太郎 うたろう 対 たい 岩本 いわもと 薫 かおる )の第 だい 2局 きょく は広島 ひろしま 市 し 郊外 こうがい で行 おこな われたため、対局 たいきょく 中 ちゅう に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の爆風 ばくふう を浴 あ びた。両 りょう 対局 たいきょく 者 しゃ も吹 ふ き飛 と ばされ、碁石 ごいし も飛 と び散 ち ったが、対局 たいきょく は最後 さいご まで行 おこな われた。この対局 たいきょく は「原爆 げんばく 下 か の対局 たいきょく 」として知 し られる。
戦後 せんご しばらく日本棋院 にほんきいん は都内 とない 各所 かくしょ の料亭 りょうてい などに場所 ばしょ を借 か りて対局 たいきょく を行 おこな っていたが、自前 じまえ の対局 たいきょく 所 しょ を持 も つべきだという声 こえ が強 つよ まり、1947年 ねん 港 みなと 区 く 高輪 たかなわ に棋院会館 かいかん が開設 かいせつ された。
呉清源 ごせいげん は戦前 せんぜん より、木谷 きたに 實 みのる ・藤沢 ふじさわ 朋 とも 斎 とき ・坂田 さかた 栄男 さかお ら当時 とうじ の一流 いちりゅう 棋士 きし たちを相手 あいて に十 じゅう 番 ばん 碁 ご (十 じゅう 回 かい 対局 たいきょく をして優劣 ゆうれつ を決 き める)を行 おこな い、その全 すべ てに勝利 しょうり した。1950年 ねん には名人 めいじん の別名 べつめい である九段 くだん 位 い (現在 げんざい はそういった意味 いみ は無 な い)、「昭和 しょうわ の棋聖 きせい 」と呼 よ ばれた。
1950年 ねん には不満 ふまん を持 も った関西 かんさい の棋士 きし たちが当時 とうじ の本因坊 ほんいんぼう ・橋本 はしもと 昭 あきら 宇(橋本 はしもと 宇太郎 うたろう )に率 ひき いられて日本棋院 にほんきいん を離脱 りだつ し、新 あら たに関西棋院 かんさいきいん を設立 せつりつ した。1951年 ねん 、その橋本 はしもと から日本棋院 にほんきいん の高川 たかがわ 格 かく が本因坊 ほんいんぼう を奪取 だっしゅ 、以後 いご 9連覇 れんぱ という偉業 いぎょう を成 な し遂 と げた。
1953年 ねん には王座 おうざ 戦 たたかえ 、1956年 ねん には十 じゅう 段 だん 戦 たたかえ 、1962年 ねん には名人 めいじん 戦 せん が新 あら たなタイトルとして設立 せつりつ され、新聞 しんぶん 碁 ご でもタイトル戦 せん が中心 ちゅうしん となる。またこの動 うご きに合 あ わせて、コミ ありの碁 ご が定着 ていちゃく してゆく。
呉清源 ごせいげん は1961年 ねん に交通 こうつう 事故 じこ に遭 あ い、その後 ご は精彩 せいさい を欠 か いた。それに代 か わって碁 ご 界 かい を制覇 せいは したのが坂田 さかた 栄男 さかお である。坂田 さかた は高川 たかがわ 格 かく から本因坊 ほんいんぼう 位 い を奪 うば い取 と った後 のち に七 なな 連覇 れんぱ 、また名人 めいじん 戦 せん でも1963年 ねん の第 だい 二 に 期 き では藤沢 ふじさわ 秀行 ひでゆき からタイトルを奪 うば った。この年 とし は30勝 しょう 2敗 はい という驚異 きょうい 的 てき な成績 せいせき を残 のこ し、十 じゅう 段 だん を除 のぞ く当時 とうじ のタイトルを独占 どくせん した。
この坂田 さかた 時代 じだい に待 ま ったをかけたのが台湾 たいわん から来日 らいにち して日本 にっぽん のプロとなった林 はやし 海峰 みほ である。1965年 ねん に名人 めいじん を坂田 さかた から奪 うば ったのを皮切 かわき りに、坂田 さかた の牙城 がじょう を崩 くず していった。更 さら に林 はやし に対抗 たいこう した木谷 きたに 実 みのる 門下 もんか の大竹 おおたけ 英雄 ひでお が登場 とうじょう し、竹林 たけばやし 時代 じだい を作 つく る。
またその他 た の木谷 きたに 実 みのる の門下生 もんかせい たちも一気 いっき に活躍 かつやく し出 だ し、石田 いしだ 芳夫 よしお 、加藤 かとう 正夫 まさお 、武 たけ 宮 みや 正樹 まさき の三 さん 人 にん は木谷 きたに 三羽烏 さんばがらす と呼 よ ばれた。この後 のち 1990年代 ねんだい まで、木谷 きたに の弟子 でし たちが互 たが いにタイトルを奪 うば い合 あ う一門 いちもん の黄金 おうごん 時代 じだい (木谷 きたに 一門 いちもん 黄金 おうごん 時代 じだい )が続 つづ いた。この時期 じき この中 なか に割 わ って入 はい ったのが藤沢 ふじさわ 秀行 ひでゆき で、50代 だい になってから棋聖 きせい 戦 せん で6連覇 れんぱ を記録 きろく するなど一 いち 人気 にんき を吐 は いた。
1974年 ねん 、読売新聞 よみうりしんぶん が主催 しゅさい していた名人 めいじん 戦 せん が朝日新聞 あさひしんぶん に移籍 いせき するという名人 めいじん 戦 せん 事件 じけん が勃発 ぼっぱつ 。物価 ぶっか の上昇 じょうしょう にもかかわらず長年 ながねん 据 す え置 お かれていた各 かく 棋戦 きせん の契約 けいやく 金 きん が見直 みなお されるきっかけとなった。これにより1975年 ねん に天元 てんげん 戦 せん 、1976年 ねん には棋聖 きせい 戦 せん ・碁聖 ごせい 戦 せん が設立 せつりつ され、現在 げんざい の七 なな 大 だい タイトルが出揃 でそろ うこととなった。
木谷 きたに 三羽烏 さんばがらす の後 のち に時代 じだい を築 きず いたのが、またしても木谷 きたに 門下 もんか の趙 ちょう 治勲 ちくん と小林 こばやし 光一 こういち の二 に 人 にん である。先 さき に趙 ちょう が活躍 かつやく をはじめ、1983年 ねん には棋聖 きせい ・名人 めいじん ・本因坊 ほんいんぼう の三 さん 大 だい タイトルを一 いち 年 ねん に独占 どくせん する大 だい 三 さん 冠 かん (だいさんかん)を達成 たっせい し、1987年 ねん には七 なな 大 だい タイトル全 すべ てを一 いち 回 かい 以上 いじょう 獲得 かくとく する(一 いち 年 ねん に独占 どくせん ではない)グランドスラムを達成 たっせい した。少 すこ し遅 おく れて活躍 かつやく を始 はじ めた小林 こばやし は趙 ちょう から棋聖 きせい ・名人 めいじん を奪 うば い取 と り、それぞれ八 はち 連覇 れんぱ ・七 なな 連覇 れんぱ を達成 たっせい した。小林 こばやし は本因坊 ほんいんぼう を取 と れば大 だい 三 さん 冠 かん というチャンスを幾度 いくど となくつかむが、その都度 つど 趙 ちょう に阻 はば まれる。趙 ちょう は1989年 ねん から前人未到 ぜんじんみとう の本因坊 ほんいんぼう 十 じゅう 連覇 れんぱ を成 な し遂 と げた他 ほか 、通算 つうさん 75のタイトル(歴代 れきだい 1位 い )を獲得 かくとく している。
90年代 ねんだい 後半 こうはん に入 はい ってからは、ようやく衰 おとろ えを見 み せた木谷 きたに 一門 いちもん に代 か わり、依田 よだ 紀 きの 基 はじめ と王立誠 おうりつせい の両 りょう 名 な が覇権 はけん を争 あらそ い、21世紀 せいき に入 はい ってからは張栩 ちょうう 、高尾 たかお 紳 しん 路 ろ 、山下 やました 敬吾 けいご 、羽根 はね 直樹 なおき ら平成 へいせい 四天王 してんのう がタイトル戦線 せんせん を割拠 かっきょ した。
しかし、2009年 ねん に平成 へいせい 生 う まれの天才 てんさい 棋士 きし ・井山 いやま 裕 ひろし 太 ふとし が初 はつ の大 だい タイトルとなる名人 めいじん を戴冠 たいかん すると、2012年 ねん には一挙 いっきょ に五 ご 冠 かん 王 おう となり、23歳 さい にして第一人者 だいいちにんしゃ の地位 ちい に就 つ く。2016年 ねん には囲碁 いご 史上 しじょう 初 はつ となる七 なな 冠 かん 独占 どくせん を達成 たっせい し、不動 ふどう の第一人者 だいいちにんしゃ として君臨 くんりん した。同 どう 時期 じき から村川 むらかわ 大介 だいすけ 、伊田 いだ 篤史 あつし 、一 いち 力 りょく 遼 りょう などの平成 へいせい 生 う まれの棋士 きし たちがタイトル戦線 せんせん に登場 とうじょう し、いくつかはタイトルを奪 うば ったものの、井山 いやま の優位 ゆうい は動 うご かなかった。
囲碁 いご 競技 きょうぎ 人口 じんこう は減少 げんしょう が続 つづ き、1998年 ねん から2003年 ねん まで週刊 しゅうかん 少年 しょうねん ジャンプ にて連載 れんさい された漫画 まんが 『ヒカルの碁 ご 』(後 のち にテレビアニメとしても放送 ほうそう )による囲碁 いご ブームにより一時 いちじ 的 てき に増加 ぞうか したが、ブームが終 お わると囲碁 いご 人口 じんこう は減少 げんしょう した。
トッププロを破 やぶ るまでになった囲碁 いご AI などの影響 えいきょう もあり、囲碁 いご 界 かい にも新 あら たな波 なみ が押 お し寄 よ せた。2019年 ねん には芝野 しばの 虎丸 とらまる が張栩 ちょうう との名人 めいじん 戦 せん に勝利 しょうり して井山 いやま も成 な し遂 と げられなかった史上 しじょう 初 はつ の10代名人 めいじん となり、そのまま王座 おうざ ・十 じゅう 段 だん も獲得 かくとく した。早 はや くから期待 きたい されていた一 いち 力 りょく 遼 りょう は、タイトル戦 せん で幾度 いくど も井山 いやま の前 まえ に苦杯 くはい を喫 きっ していたが、2020年 ねん に天元 てんげん 位 い 、2022年 ねん には棋聖 きせい 位 い を奪取 だっしゅ した。十 じゅう 段 だん などを獲得 かくとく している許 もと 家元 いえもと と芝野 しばの ・一 いち 力 りょく は「令 れい 和 わ 三羽烏 さんばがらす 」と呼 よ ばれ、井山 いやま を追 お う存在 そんざい として台頭 たいとう している。
また藤沢 ふじさわ 里菜 りな ・上野 うえの 愛咲 あいざき 美 よし ら、一般 いっぱん 棋戦 きせん の本戦 ほんせん 入 い りを幾度 いくど も果 は たすような、従来 じゅうらい の女流 じょりゅう 棋士 きし の枠 わく を超 こ えた活躍 かつやく を見 み せる者 もの も現 あらわ れている。
2020年代 ねんだい になると子供 こども の頃 ころ に『ヒカルの碁 ご 』を読 よ んでいた世代 せだい が親 おや となったことで、子供 こども 向 む けの習 なら い事 ごと として定着 ていちゃく しつつある[ 19] 。
日本 にっぽん の棋戦 きせん の多 おお くは新聞 しんぶん 社 しゃ がスポンサーとなっているが、新聞 しんぶん の発行 はっこう 部数 ぶすう 減少 げんしょう に伴 ともな う財政 ざいせい 悪化 あっか により規模 きぼ が縮小 しゅくしょう される例 れい も出 で ている[ 20] [ 21] 。
現在 げんざい のタイトル保有 ほゆう 者 しゃ は以下 いか の通 とお り。
中国 ちゅうごく と韓国 かんこく では長 なが らく囲碁 いご は余技 よぎ としてあまり重視 じゅうし されておらず、江戸 えど 時代 じだい には日本 にっぽん とはっきりした実力 じつりょく 差 さ があった。たとえば1620年 ねん に朝鮮 ちょうせん の第一人者 だいいちにんしゃ が来日 らいにち した際 さい には、本因坊 ほんいんぼう 算 さん 砂 すな は三子 みつご 置 お かせて勝利 しょうり を収 おさ めている。昭和 しょうわ に入 はい っても中 ちゅう 韓 かん にはプロ棋士 きし という制度 せいど がなかったため、囲碁 いご を志 こころざ す者 もの は日本 にっぽん にやってきてプロを目指 めざ すのが通例 つうれい であり、呉清源 ごせいげん ・林 はやし 海峰 みほ ・趙 ちょう 治勲 ちくん ・曺薫鉉らはその代表 だいひょう である。曺薫鉉は、日本 にっぽん で修業 しゅぎょう した後 のち 、韓国 かんこく へ帰 かえ り囲碁 いご の普及 ふきゅう に尽力 じんりょく した。
しかし1955年 ねん に韓国 かんこく 棋院 が設立 せつりつ され、韓国 かんこく 内 ない でプロを目指 めざ すものも増 ふ えてきた。中国 ちゅうごく でも1981年 ねん に中国 ちゅうごく 囲 かこえ 棋協会 きょうかい が創設 そうせつ され、棋士 きし を目指 めざ す子供 こども が急増 きゅうぞう し、国内 こくない で囲碁 いご のリーグ戦 せん が開 ひら かれるようになった。また1984年 ねん から開始 かいし された日 にち 中 ちゅう 対抗 たいこう 戦 せん ・日 にち 中 ちゅう スーパー囲碁 いご では聶衛平 ひらた が日本 にっぽん のトッププロに対 たい して11連勝 れんしょう を記録 きろく し、レベル向上 こうじょう を印象 いんしょう づける結果 けっか となった。
1988年 ねん に日 にち 中 ちゅう 韓 かん の棋士 きし たちが集 あつ まる世界 せかい 大会 たいかい 世界 せかい 囲碁 いご 選手権 せんしゅけん 富士通 ふじつう 杯 はい が創設 そうせつ され、世界 せかい 大会 たいかい が次々 つぎつぎ と創設 そうせつ されるようになった。その国際 こくさい 戦 せん を曺薫鉉 ・李 り 昌鎬 しょうこう らの韓国 かんこく 棋士 きし が勝利 しょうり するようになると人気 にんき が爆発 ばくはつ し、韓国 かんこく 内 ない のそこここで囲碁 いご 教室 きょうしつ が開 ひら かれるようになり、頭 あたま の良 よ い子供 こども たちは収入 しゅうにゅう の良 よ いプロ囲碁 いご 棋士 きし になれと親 おや から言 い われるようになった。特 とく に李 り 昌鎬 しょうこう の活躍 かつやく は目覚 めざ ましく、16歳 さい で世界 せかい 大会 たいかい 初 はつ 優勝 ゆうしょう を果 は たした後 のち 、世界 せかい の第一人者 だいいちにんしゃ と呼 よ ばれるようになった。
90年代 ねんだい から囲碁 いご の世界 せかい 戦 せん が開始 かいし され、当初 とうしょ は武 たけ 宮 みや 正樹 まさき らの活躍 かつやく があったものの、韓国 かんこく ・中国 ちゅうごく の後塵 こうじん を拝 はい する時代 じだい が続 つづ き、日本人 にっぽんじん は若手 わかて の育成 いくせい が遅 おく れ、韓国 かんこく ・中国 ちゅうごく の急速 きゅうそく な伸張 しんちょう に対抗 たいこう しきれず国内 こくない タイトルも海外 かいがい 勢 ぜい に席巻 せっけん されて現在 げんざい に至 いた る[ 22] 。AlphaGo は日本 にっぽん での対局 たいきょく を行 おこな わず、いわゆるジャパンパッシングをした。
日本人 にっぽんじん は国際 こくさい 大会 たいかい でも連敗 れんぱい を続 つづ けており、世界 せかい 戦 せん では日本人 にっぽんじん がベスト16にも名 な を連 つら ねられないことも珍 めずら しくない。この原因 げんいん の一 ひと つとして、韓国 かんこく ・中国 ちゅうごく と日本 にっぽん の賞金 しょうきん の違 ちが いが考 かんが えられる。日本 にっぽん の棋聖 きせい 戦 せん の優勝 ゆうしょう 賞金 しょうきん は4500万 まん 円 えん (2010年 ねん 現在 げんざい )の賞金 しょうきん であり、国際 こくさい 戦 せん 最高 さいこう 額 がく の富士通 ふじつう 杯 はい が2000万 まん 円 えん であることから、日本 にっぽん は国内 こくない 戦 せん を優先 ゆうせん に戦 たたか っている。韓国 かんこく ・中国 ちゅうごく の国内 こくない 戦 せん は日本 にっぽん 戦 せん に比 くら べると安 やす く、韓国 かんこく の最 さい 高額 こうがく であるKT杯 はい マスターズプロ棋戦 きせん で5000万 まん ウォン である。また韓国 かんこく 人 じん 棋士 きし は世界 せかい 戦 せん に優勝 ゆうしょう すると兵役 へいえき を免除 めんじょ されるという特典 とくてん がある。しかしこうした実利 じつり 的 てき な面 めん ばかりでなく、囲碁 いご 熱 ねつ の高 たか さ、囲碁 いご に対 たい する国民 こくみん の注目 ちゅうもく 度 ど 、それがもたらす層 そう の厚 あつ さが大 おお きな要因 よういん といえる。また日本 にっぽん の主要 しゅよう な棋戦 きせん と持 も ち時間 じかん の長 なが さが異 こと なることも要因 よういん の一 ひと つとして挙 あ げられている[ 22] (後述 こうじゅつ )。
21世紀 せいき 初頭 しょとう に至 いた り、韓国 かんこく 勢 ぜい は世界 せかい の囲碁 いご 界 かい を制 せい した。李 り 昌鎬 しょうこう と李 り 世 よ ドル (ドルの字 じ は石 いし の下 した に乙 おつ 。韓国 かんこく の国字 こくじ )の二人 ふたり が相 あい 争 あらそ いながら世界 せかい タイトル戦線 せんせん を席巻 せっけん し、それに曺薫鉉 ・劉 りゅう 昌 あきら 赫 の二人 ふたり を加 くわ えた四 よん 人 にん が世界 せかい の四 よん 強 きょう と言 い われた(全 すべ て韓国 かんこく )。それを追 お いかける朴 ぼく 永 ひさし 訓 くん ら新鋭 しんえい の層 そう も極 きわ めて厚 あつ く、その覇権 はけん は盤石 ばんじゃく と思 おも われた。しかし2005年 ねん ころから国家 こっか レベルで若手 わかて 棋士 きし の育成 いくせい に励 はげ む中国 ちゅうごく が急 きゅう ピッチでこれを追 お い上 あ げ、常 つね 昊 ひろし ・古 いにしえ 力 りょく ら若 わか い棋士 きし が世界 せかい のトップを争 あらそ うようになっている。中国 ちゅうごく では周 しゅう 睿羊 、陳 ちん 耀燁 、王 おう 檄 げき ら、韓国 かんこく では崔 ちぇ 哲 あきら 瀚 、朴 ぼく 永 ひさし 訓 くん 、姜 きょう 東 あずま 潤 じゅん ら10代から20代 だい の若手 わかて がトップ戦線 せんせん を走 はし り、周 しゅう 俊 しゅん 勲 くん ら台湾 たいわん 勢 いきおい も台頭 たいとう し始 はじ めた。
日本 にっぽん からツインフォールズ に移民 いみん した農場 のうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ (左側 ひだりがわ )と囲碁 いご を打 う つ農業 のうぎょう 安定 あんてい 局 きょく の職員 しょくいん 。1940年代 ねんだい 。
事前 じぜん 置 おけ 石 せき のない自由 じゆう 布石 ふせき は16世紀 せいき の日本 にっぽん に端 はし を発 はっ するもので、それ以前 いぜん に伝播 でんぱ した国 くに においては事前 じぜん 置 おけ 石 せき のルールが受 う け継 つ がれていた。中国 ちゅうごく ・韓国 かんこく では、20世紀 せいき になって日本 にっぽん 碁 ご 界 かい との接触 せっしょく を機 き に自由 じゆう 布石 ふせき が普及 ふきゅう し始 はじ めた。中 ちゅう 韓 かん 以外 いがい では、近代 きんだい 普及 ふきゅう 以前 いぜん に囲碁 いご が伝 つた わった地域 ちいき としてチベットがあり、1959年 ねん にシッキム王国 おうこく の皇子 おうじ が来日 らいにち した際 さい 、17路 ろ 式 しき の囲碁 いご (密 みつ 芒 すすき )用具 ようぐ を持参 じさん して日本 にっぽん のプロと打 う ったという記録 きろく がある。
欧米 おうべい にルールが正 ただ しく紹介 しょうかい されたのは、技師 ぎし として来日 らいにち し村瀬 むらせ 秀 しげる 甫 はじめ に碁 ご を学 まな んだドイツ人 じん のオスカー・コルシェルト (英語 えいご 版 ばん ) が帰国 きこく して1860年 ねん に東洋 とうよう 研究 けんきゅう の学術 がくじゅつ 誌 し に発表 はっぴょう した記事 きじ が最初 さいしょ である。コルシェルトは1880年 ねん に欧州 おうしゅう 言語 げんご (ドイツ語 ご )で初 はつ となる本格 ほんかく 的 てき な囲碁 いご の本 ほん を出版 しゅっぱん した。1908年 ねん にはこの本 ほん を元 もと にアーサー・スミスが最初 さいしょ の英語 えいご による囲碁 いご の本 ほん 「The game of go, the national game of Japan 」を出版 しゅっぱん した[ 23] 。スミスはアメリカ在住 ざいじゅう の日本人 にっぽんじん 「ナカムラモキチ」から囲碁 いご を習 なら ったとしており、囲碁 いご 用語 ようご は日本語 にほんご がそのまま使 つか われていた。これ以降 いこう も英語 えいご 圏 けん では「Ko 」「Atari 」など日本語 にほんご の用語 ようご が使 つか われるようになった。コルシェルトの記事 きじ を読 よ んだチェスプレイヤー、エドワード・ラスカー も来日 らいにち を目指 めざ したが第 だい 1次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の混乱 こんらん もあって果 は たせず、米国 べいこく にわたって1934年 ねん には英語 えいご で2番目 ばんめ となる囲碁 いご の本 ほん を執筆 しっぴつ 、翌 よく 1935年 ねん にはアメリカ囲碁 いご 協会 きょうかい が設立 せつりつ された。1937年 ねん にはドイツにも囲碁 いご 協会 きょうかい が設立 せつりつ された。また東 ひがし アジアから諸 しょ 外国 がいこく への移民 いみん も囲碁 いご の広 ひろ がりに貢献 こうけん した。
戦後 せんご になると岩本 いわもと 薫 かおる 、福田 ふくだ 正義 まさよし をはじめとする日本人 にっぽんじん の努力 どりょく もあって囲碁 いご は東 ひがし アジア以外 いがい にも普及 ふきゅう し始 はじ め、1957年 ねん にはヨーロッパ囲碁 いご 連盟 れんめい が結成 けっせい されてヨーロッパ碁 ご コングレス が毎年 まいとし 開 ひら かれるようになった。後 のち にはさらにヨーロッパ青少年 せいしょうねん 囲碁 いご 選手権 せんしゅけん やヨーロッパ・ペア碁 ご 選手権 せんしゅけん などさまざまな大会 たいかい が開催 かいさい されるようになった。1961年 ねん には日本棋院 にほんきいん で英語 えいご の囲碁 いご 雑誌 ざっし 『Monthly Go Review』が創刊 そうかん されている。1960年代 ねんだい からは欧米 おうべい の各 かく 都市 とし に囲碁 いご クラブが設立 せつりつ され、ニューヨークのクラブで使 つか われ始 はじ めたマクマホン式 しき トーナメント はチェス の大会 たいかい にも利用 りよう されるようになった。1979年 ねん には世界 せかい アマチュア囲碁 いご 選手権 せんしゅけん 戦 せん がスタート、1982年 ねん には29か国 こく が集 あつ まって国際 こくさい 囲碁 いご 連盟 れんめい が設立 せつりつ され、加盟 かめい 国 こく は2018年 ねん 時点 じてん で77か国 こく を数 かぞ えている。ヨーロッパではアマチュアの大会 たいかい や勉強 べんきょう 会 かい が各地 かくち で開 ひら かれており、東 ひがし アジアのプロ棋士 きし を招待 しょうたい した指導 しどう 碁 ご も行 おこな われている[ 24] 。
1978年 ねん には関西棋院 かんさいきいん でマンフレッド・ヴィンマー (オーストリア出身 しゅっしん )、日本棋院 にほんきいん でジェームズ・カーウィン (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 出身 しゅっしん )がプロとなったのを皮切 かわき りに、欧米 おうべい 出身 しゅっしん で日本 にっぽん や韓国 かんこく のプロ棋士 きし となる者 もの もしだいに増 ふ え、国際 こくさい 普及 ふきゅう の大 おお きな力 ちから となった。2000年 ねん には日本棋院 にほんきいん 所属 しょぞく のマイケル・レドモンド (アメリカ 出身 しゅっしん )が東 ひがし アジア以外 いがい の出身 しゅっしん 者 しゃ として初 はじ めて九 きゅう 段 だん に進 すす んだ。
インターネット の普及 ふきゅう によりネット碁 ご を通 つう じてどこにいても強 つよ い相手 あいて と戦 たたか える環境 かんきょう が整 ととの うと各国 かっこく 選手 せんしゅ の実力 じつりょく も上 あ がり、2002年 ねん には南米 なんべい アルゼンチンのアマチュア、フェルナンド・アギラール が国際 こくさい 公式 こうしき 戦 せん で日本 にっぽん のプロ九 きゅう 段 だん を連破 れんぱ した。アマチュアの世界 せかい ではさらに拡大 かくだい の傾向 けいこう を見 み せており、アメリカで20万 まん 人 にん ・ロシアで10万 まん 人 にん ・ドイツで5万 まん 人 にん の競技 きょうぎ 人口 じんこう がいると推定 すいてい される。同時 どうじ に欧米 おうべい 独自 どくじ のプロ化 か の流 なが れも進 すす んで、アメリカ囲碁 いご 協会 きょうかい [ 25] では2011年 ねん から韓国 かんこく 棋院と協力 きょうりょく する形 かたち でプロ制度 せいど が発足 ほっそく 、2014年 ねん にはヨーロッパ囲碁 いご 連盟 れんめい でも独自 どくじ にプロ制度 せいど がスタートした。
キューバ では在 ざい キューバ日本 にっぽん 大使館 たいしかん からハバナ大学 だいがく へ寄贈 きぞう された英語 えいご の本 ほん で数学 すうがく 科 か の関係 かんけい 者 しゃ が学 まな ぶ程度 ていど だったが、日本 にっぽん から赴任 ふにん した日野自動車 ひのじどうしゃ の現地 げんち 駐在 ちゅうざい 員 いん から指導 しどう を受 う けたラファエル・トレス・ミランダがキューバが囲碁 いご 連盟 れんめい 会 かい を設立 せつりつ して普及 ふきゅう を始 はじ めた[ 26] [ 27] 。その後 ご は日本 にっぽん 文化 ぶんか の人気 にんき や政府 せいふ の頭脳 ずのう スポーツ支援 しえん と合 あ わさって徐々 じょじょ に浸透 しんとう し全国 ぜんこく 大会 たいかい が開 ひら かれるようになった[ 27] 。2016年 ねん 時点 じてん で愛好 あいこう 家 か が2000人 にん 、有段者 ゆうだんしゃ は39人 にん いるという[ 27] 。
チェスや将棋 しょうぎ など、多 おお くのボードゲームでコンピュータが人類 じんるい を凌駕 りょうが する中 なか 、囲碁 いご は最後 さいご までコンピュータが人間 にんげん に勝 か てない競技 きょうぎ として残 のこ っていた。2015年 ねん の段階 だんかい では、コンピューター囲碁 いご のレベルはトッププロに三 さん 子 し 置 お くハンデを必要 ひつよう とし、この差 さ はそう簡単 かんたん に埋 うず まらないと考 かんが えられていた。
しかし2016年 ねん 、グーグル 傘下 さんか のDeepMind 社 しゃ が開発 かいはつ した人工 じんこう 知能 ちのう 「AlphaGo 」が登場 とうじょう し、世界 せかい のトップ棋士 きし の一角 いっかく とみなされていた韓国 かんこく の李 り 世 よ ドル を4勝 しょう 1敗 はい で破 やぶ って世界 せかい に衝撃 しょうげき を与 あた えた。さらに2017年 ねん には、世界 せかい ランキング1位 い の棋士 きし である中国 ちゅうごく の柯潔 もAlphaGoに3連敗 れんぱい し、完全 かんぜん にコンピュータが人類 じんるい を超 こ えたことを示 しめ した。またAlphaGoの影響 えいきょう を受 う け、DeepZenGo や絶 ぜっ 芸 げい といった深層 しんそう 学習 がくしゅう の手法 しゅほう を取 と り入 い れた人工 じんこう 知能 ちのう が次々 つぎつぎ と出現 しゅつげん し、いずれも人類 じんるい のトップ棋士 きし をしのぐ実力 じつりょく を示 しめ している。
これら人工 じんこう 知能 ちのう は、序盤 じょばん 早期 そうき 段階 だんかい での星 ほし への三 さん 々入 い りなど、それまで人類 じんるい の発想 はっそう になかった手 て を多 おお く打 う ち出 だ しており、各国 かっこく 棋士 きし の打 う ち方 かた に大 おお きな変革 へんかく をもたらした。また、着手 ちゃくしゅ の検討 けんとう に人工 じんこう 知能 ちのう の評価 ひょうか が用 もち いられるようになるなど、多 おお くの面 めん で重要 じゅうよう な変化 へんか が起 お きている。
明治 めいじ 時代 じだい までは持 も ち時間 じかん という考 かんが え方 かた がなく、対局 たいきょく 時間 じかん は無制限 むせいげん であった。ただし全 すべ ての碁 ご が極 きわ めて長 なが かったというわけではなく、1日 にち で2局 きょく 打 う ち上 あ げた記録 きろく も残 のこ るなど早打 はやう ちの棋士 きし も多 おお かったらしい。大正 たいしょう 期 き 以降 いこう 、新聞 しんぶん 碁 ご が主流 しゅりゅう になってくると掲載 けいさい 時期 じき の関係 かんけい から無 む 制限 せいげん というわけにはいかなくなり、1926年 ねん の院 いん 社 しゃ 対抗 たいこう 戦 せん 、本因坊 ほんいんぼう 秀哉 ひでや 名人 めいじん 対 たい 雁金 かりがね 準 じゅん 一 いち 七 なな 段 だん 戦 せん で初 はじ めて持 も ち時間 じかん が導入 どうにゅう された。この時 とき の持 も ち時間 じかん は両者 りょうしゃ 16時 じ 間 あいだ ずつという極 きわ めて長 なが いもので、これは秀哉 ひでや が極端 きょくたん な長考 ちょうこう 派 は であったことが影響 えいきょう しているとされる。またこの時 とき は秒読 びょうよ みというものがなく、考慮 こうりょ 中 ちゅう の雁 かり 金 きん に突然 とつぜん 時間切 じかんぎ れ負 ま けが宣告 せんこく されるという幕切 まくぎ れを迎 むか えた。秀哉 ひでや 名人 めいじん 引退 いんたい 碁 ご では両者 りょうしゃ に持 も ち時間 じかん 40時 じ 間 あいだ が与 あた えられ、初 はじ めて封 ふう じ手 て も導入 どうにゅう された。
タイトル戦 せん 初期 しょき の頃 ころ には持 も ち時間 じかん も各 かく 10~13時 じ 間 あいだ 、三日 みっか 制 せい であったが、これは徐々 じょじょ に短縮 たんしゅく されていった。現在 げんざい は一般 いっぱん 棋戦 きせん では持 も ち時間 じかん 5時 じ 間 あいだ 、棋聖 きせい ・名人 めいじん ・本因坊 ほんいんぼう の三 さん 大 だい タイトルの七 なな 番 ばん 勝負 しょうぶ のみ二 に 日 にち 制 せい 、各 かく 8時 じ 間 あいだ 持 も ちとなっている。しかし韓国 かんこく ・中国 ちゅうごく では各 かく 3時 じ 間 あいだ 持 も ちというのが一般 いっぱん 的 てき であり、国際 こくさい 棋戦 きせん もこれに合 あ わせて行 おこな われるものが多 おお く、日本人 にっぽんじん 棋士 きし が国際 こくさい 戦 せん で振 ふ るわない原因 げんいん の一 ひと つに挙 あ げられている。また囲碁 いご が国際 こくさい 化 か するにつれて頭脳 ずのう スポーツ として競技 きょうぎ 化 か されるようになり、アジア大会 たいかい では持 も ち時間 じかん が1時 じ 間 あいだ となるなど短縮 たんしゅく が進 すす んでいる[ 22] 。
持 も ち時間 じかん の長 なが い国内 こくない 棋戦 きせん に対 たい し、3時 じ 間 あいだ が主流 しゅりゅう の国際 こくさい 棋戦 きせん では布石 ふせき に持 も ち時間 じかん を使 つか うよりも研究 けんきゅう で突 つ き詰 つ める方 ほう が効率 こうりつ がよく、日本 にっぽん の棋士 きし が布石 ふせき の研究 けんきゅう で遅 おく れた部分 ぶぶん もある。このため日本 にっぽん 国内 こくない のタイトル戦 せん も国際 こくさい 戦 せん に合 あ わせるべきという声 こえ が高 たか まり、王座 おうざ 戦 せん を皮切 かわき りに多 おお くの棋戦 きせん で3時 じ 間 あいだ 制 せい が導入 どうにゅう されるようになっている。2022年 ねん 現在 げんざい では、棋聖 きせい ・名人 めいじん ・本因坊 ほんいんぼう の挑戦 ちょうせん 手合 てあい が各 かく 8時間 じかん (2日 にち 制 せい )、同 どう リーグ戦 せん 及 およ び最終 さいしゅう 予選 よせん が各 かく 5時 じ 間 あいだ 、他 た は各 かく 3時 じ 間 あいだ が主流 しゅりゅう となっている。
「早碁 はやご 」も当初 とうしょ は持 も ち時間 じかん が4時 じ 間 あいだ というものであったが、近年 きんねん テレビ放送 ほうそう に合 あ わせて1手 て 30秒 びょう 、持 も ち時間 じかん 10分 ふん というシステムが一般 いっぱん 化 か した。