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蟬しぐれ

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蟬しぐれ
著者ちょしゃ 藤沢ふじさわ周平しゅうへい
発行はっこう 1988ねん5月11にち
発行はっこうもと 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
ジャンル 長編ちょうへん小説しょうせつ
時代じだい小説しょうせつ
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
形態けいたい よんろくばんうえ製本せいほん 上製じょうせいカバーそう
ページすう 440
公式こうしきサイト books.bunshun.jp
コード ISBN 978-4-16-310260-3
ISBN 978-4-16-719225-9文庫ぶんこばん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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蟬しぐれ』(せみしぐれ)は、藤沢ふじさわ周平しゅうへいによる日本にっぽん長篇ちょうへん時代じだい小説しょうせつ藤沢ふじさわ作品さくひんなかでも代表だいひょうてき小説しょうせつのひとつである[1]。『山形やまがた新聞しんぶん夕刊ゆうかん1986ねん昭和しょうわ61ねん7がつ9にちから1987ねん昭和しょうわ62ねん4がつ11にちまで連載れんさい[2][3][ちゅう 1]文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうより1988ねん昭和しょうわ63ねん5月11にち刊行かんこうされた。

2003ねん平成へいせい15ねん)にNHK金曜きんよう時代じだいげき」にてテレビドラマ2005ねん平成へいせい17ねん)に東宝とうほうにより映画えいがされた。また、1994ねん平成へいせい6ねん)に宝塚歌劇団たからづかかげきだんにより舞台ぶたいされて以降いこう大阪おおさか松竹しょうちく明治めいじにて舞台ぶたいされている。

概要がいよう

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うみざかはん[ちゅう 2]舞台ぶたいに、政変せいへんきこまれてちちうしない、いえろくらされた少年しょうねんまきぶんよんろう成長せいちょうや、かれした武家ぶけむすめとのあわこいえがく。そして、物語ものがたり節目ふしめ節目ふしめに、せみしぐれがひびく。 藤沢ふじさわ文学ぶんがくかおたか情景じょうけいあますところなくんだ名作めいさく初出しょしゅつ冒頭ぼうとう記述きじゅつのように、1986ねん昭和しょうわ61ねん)7がつ9にち連載れんさい開始かいしした「山形やまがた新聞しんぶん夕刊ゆうかん」とされる[2][3]挿絵さしえ山本やまもと甚作えがいた[5]正確せいかく初出しょしゅつには異論いろんがあり、「秋田あきたいさお新報しんぽう朝刊ちょうかん」には「1986ねん7がつ9にち」よりも「9にちはやく、「1986ねん6がつ30にち」に連載れんさいがスタートしているという[4]全国ぜんこく12には学芸がくげい通信つうしんしゃ配信はいしんし、連載れんさいされた[4]

単行本たんこうぼんは1988ねん昭和しょうわ63ねん)5がつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうから、文庫ぶんこには同社どうしゃ文春ぶんしゅん文庫ぶんこに1991ねん平成へいせい3ねん)7がつ収録しゅうろくされた[3]ISBN 4-16-719225-X)。映画えいがされた2005ねん平成へいせい17ねん)1がつまつ現在げんざい発表はっぴょうによれば、どう時点じてん単行たんこうほん文庫本ぶんこぼんトータル発行はっこう部数ぶすうは120まんえている[3]。2002(平成へいせい14ねん光村みつむら図書としょ発行はっこう中学ちゅうがく3年生ねんせいよう国語こくご教科書きょうかしょ採用さいようされた[3]

下記かきのように、テレビドラマ映画えいが演劇えんげきおお翻案ほんあんされている。

執筆しっぴつ所感しょかん

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著者ちょしゃ藤沢ふじさわは「せみしぐれ執筆しっぴついてもまった面白おもしろくならず苦痛くつうであった、またそのおもいが読者どくしゃつたわったのか、ファンレターもいちつうなかった、しかし、それがいちさつほんとなったときごたえのある作品さくひんになったことが、新聞しんぶん小説しょうせつ不思議ふしぎである」としるしている。[6][7]

あらすじ

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15さいまきぶんよんろうは、市中しちゅう剣術けんじゅつ道場どうじょうがくじゅくかよい、親友しんゆうである小和田こわだ逸平いっぺい島崎しまざき与之助よのすけとの友好ゆうこうあたためながら、隣家りんかむすめ小柳こやなぎふくにあわ恋心こいごころいている。そんな平凡へいぼん日々ひびがおだやかにぎてゆくなかちちである助左衛門すけざえもんが、お世継よつぎをめぐる政争せいそうにまきこまれて突然とつぜん切腹せっぷくさせられる。のこされたぶんよんろういえろくを28せきから7せきらされたうえははとうとも普請ふしんぐみ屋敷やしきから葺屋まち長屋ながやうつされる。また、ふくは藩主はんしゅ正室せいしつ奉公ほうこうするために江戸えどかう。旅立たびだ直前ちょくぜん、ふくはぶんよんろういにたが、結局けっきょくうことはかなわない。

罪人ざいにんとさげすまれるなかで、ぶんよんろう鬱屈うっくつした気持きもちを剣術けんじゅつ修行しゅぎょうにぶつけ、めきめきとうで上達じょうたつする。そして、松川まつかわ道場どうじょうとの対抗たいこう試合しあい勝利しょうりした結果けっかである石栗いしぐり弥左衛門やざえもん考案こうあんしたけん村雨むらさめを、唯一ゆいいつ伝承でんしょうしゃである加治かじ織部おりべただしとおして伝授でんじゅされる。

そのころあずかこれかいぶんよんろうに、ふくは藩主はんしゅいて側室そくしつぶくとなったこと、ごもったが流産りゅうざんしたこと、それが側室そくしつおふねの陰謀いんぼうらしいことをかたる。その学問がくもんおさめるために江戸えどかったあずかこれかいは、ふくが藩主はんしゅ寵愛ちょうあいうしなったと手紙てがみらせてくる。

ぶんよんろうけん村雨むらさめ伝授でんじゅされたまえとし家老がろうさとむらばれ、いえろくを28せきもどし、ぐん奉行ぶぎょう支配しはいとなるむねげられる。20さいときには、正式せいしきごうむらいでやく(でやく)見習みならいににんじられ、岡崎おかざきせつをつまむかえる。

その里村さとむら家老がろうと、さとむらぞくする派閥はばつ領袖りょうしゅうである稲垣いながきに、けやき御殿ごてんひそむふくの息子むすこさとむら屋敷やしきれてくるようにとの密命みつめいける。ふくは藩主はんしゅ寵愛ちょうあいうしなってひまされたはずだったが、それはおふね一派いっぱたいする偽装ぎそう工作こうさくであり、ふくは藩主はんしゅ宿やどしていたのである。わなにおいをかんじたぶんよんろうは、逸平いっぺい剣術けんじゅつともである布施ふせともけやき御殿ごてんおとずれ、ふくにこと次第しだい説明せつめいして、とも稲垣いながき対立たいりつする横山よこやま家老がろう屋敷やしき脱出だっしゅつするようにねがう。そのとき稲垣いながき襲撃しゅうげきたい屋敷やしきおそってくる。襲撃しゅうげきたい退しりぞけたぶんよんろうは、ふく親子おやことも横山よこやま家老がろう屋敷やしきかうが、稲垣いながき警戒けいかいいかめしかったため、急遽きゅうきょ加治かじ織部おりべただしたよることにする。その結果けっか横山よこやま稲垣いながきさえて藩政はんせい実権じっけんにぎることになる。このとき功績こうせきにより、またちち助左衛門すけざえもん過去かこ功績こうせきみとめられ、ぶんよんろうは30せき加増かぞうされる。

それから20すうねん、ふくを寵愛ちょうあいした藩主はんしゅくなって1ねんちかくたったある助左衛門すけざえもんぐん奉行ぶぎょうとなっていたぶんよんろうは、突然とつぜんふくからしをける。そして、なつかしく言葉ことばわしたのち二人ふたりはだわせる。こののち出家しゅっけするというふくとわかれたのち後悔こうかい満足まんぞくじったおもいをいだきながら、みみろうするばかりのせみしぐれがひびなかぶんよんろううまけさせる。

登場とうじょう人物じんぶつ

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主人公しゅじんこう

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まきぶんよんろう
まき助左衛門すけざえもん一人ひとり息子むすこ。ただし実子じっしではなく、助左衛門すけざえもんつまとう実家じっかである服部はっとりからの養子ようし物語ものがたり開始かいし15さい
16さいときはん政争せいそう関与かんよしていたちち切腹せっぷくさせられ、いえろくを28せきから7せきらされて、普請ふしんぐみ屋敷やしきから葺屋まち長屋ながやうつされた。
17さいあき番頭ばんがしら藤井ふじいはじめぞう烏帽子えぼしおやとなって元服げんぷくし、重好しげよし(しげよし)と名乗なのった。
18さい正月しょうがつに、道場どうじょう席次せきじが5となる。同年どうねん3がつさとむら家老がろう屋敷やしきばれ、いえろくを28せきもどしたうえぐん奉行ぶぎょう支配しはいとなるむねげられた。この時点じてんでは葺屋まち長屋ながやからはさず、さとかた[ちゅう 3]くみ屋敷やしきうつったのはおなねんの12月だった。同年どうねんあき松川まつかわ道場どうじょうとの対抗たいこう奉納ほうのう試合しあい興津おきつしんすすむに2しょう1はい勝利しょうりし、石栗いしぐり弥左衛門やざえもん考案こうあんしたけん村雨むらさめを、唯一ゆいいつ伝承でんしょうしゃである加治かじ織部おりべただしとおして伝授でんじゅされることとなった。
20さい正月しょうがつ正式せいしきごうむらいでやく(でやく)見習みならいににんじられて、しろ郡代ぐんだい屋敷やしき出仕しゅっしするようになった。同年どうねん2がつ岡崎おかざきせつと結婚けっこん
21さいときさとむら家老がろうされ、さとむらぞくする派閥はばつ領袖りょうしゅうであるもと中老ちゅうろう稲垣いながきさとむらに、けやき御殿ごてんひそむふくの息子むすこさとむら屋敷やしきれてくるようにとの密命みつめいける。わなにおいをかんじたぶんよんろうは、逸平いっぺい布施ふせともけやき御殿ごてんおとずれ、ふくにこと次第しだい説明せつめいして、とも稲垣いながき対立たいりつする横山よこやま家老がろう屋敷やしき脱出だっしゅつするようにねがう。そのとき村上むらかみ七郎しちろうみぎ衛門えもんひきいる稲垣いながき襲撃しゅうげきたい屋敷やしきおそってきた。襲撃しゅうげきたい退しりぞけたぶんよんろうは、ふく親子おやこ一時いちじ避難ひなんさせていた金井かないむら村役人むらやくにん藤次郎とうじろうたくから、横山よこやま屋敷やしきかったが、稲垣いながき警戒けいかいいかめしかったため、急遽きゅうきょ加治かじ織部おりべただしたよることにした。その結果けっか横山よこやま稲垣いながきさえて実権じっけんにぎることになる(以下いか本稿ほんこうではこの事件じけんを「けやき御殿ごてん事件じけん」とぶこととする)。このとき功績こうせきにより、またちち助左衛門すけざえもん過去かこ功績こうせきみとめられ、30せき加増かぞうされた。
けやき御殿ごてん事件じけんから20すうねん助左衛門すけざえもんぎ、ぐん奉行ぶぎょうとなっていたぶんよんろうは、突然とつぜんふくからしをける。

ヒロイン

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小柳こやなぎふく/おぶく
まき隣家りんかである小柳こやなぎ甚兵衛じんべえむすめぶんよんろうの3さい年下とししたで、物語ものがたり開始かいし12さい
13さいとき藩主はんしゅ正室せいしつやすしひめつかえるため、江戸えどかった。その直前ちょくぜんまきたずねてきたが、ぶんよんろうとはうことができなかった。
15さいとき藩主はんしゅいて側室そくしつとなった。すぐにごもったが、このとき流産りゅうざんしてしまう。それについて与之助よのすけは、側室そくしつおふねの陰謀いんぼうだといううわさがあるとぶんよんろうかたった。また、そのおくられてきた与之助よのすけ手紙てがみには、江戸えど藩邸はんていでにわかにふくの評判ひょうばん悪化あっかし、藩主はんしゅ寵愛ちょうあいうしなったといううわさについてれてあった。
17さいときひまされて、藩主はんしゅ親族しんぞくである旗本はたもと屋代やしろあづけられた。しかし、そのひそかに国元くにもとおくられ、藩主はんしゅものである金井かないむらけやき御殿ごてんうつされた。そのとき藩主はんしゅ宿やどしており(すなわち、藩主はんしゅ寵愛ちょうあいうしなったというのは、おふね一派いっぱたいする偽装ぎそう工作こうさくだった)、そのとしなつ男児だんじ出産しゅっさんした(このはやくして[ちゅう 4]大身たいしん旗本はたもといえ養子ようしされることになる)。
けやき御殿ごてん事件じけんでは、一時いちじ避難ひなんした藤次郎とうじろうたくから加治かじ織部おりべただし屋敷やしきまで、ぶんよんろうれられて逃避行とうひこうをした。事件じけんのち側室そくしつおまんにわってしろおく支配しはいしゃとなり、ぶんよんろう直接ちょくせつうことはながらくかった。しかし、20すうねん側室そくしつとしてつかえたぜん藩主はんしゅくなり、そのいち周忌しゅうきまえにして白蓮びゃくれんいんあまになることをめた。そして、そのまえぶんよんろういたいと手紙てがみおくる。

家族かぞく

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まき助左衛門すけざえもん
ぶんよんろうちち。28せき2人ふたり扶持ふちで、普請ふしんくみつとめる。ぶんよんろう服部はっとりからの養子ようしのため、のつながりはないが、ははよりもちちしたしみをおぼえ、また尊敬そんけいしている。
ぶんよんろうが15さいときあらしあいだかわ氾濫はんらんしそうになって、外出がいしゅつちゅう助左衛門すけざえもんわりにけつけたことがある。おくれて到着とうちゃくした助左衛門すけざえもんは、金井かないむらがつぶれるのをふせぐために、堤防ていぼう切開せっかい場所ばしょ上流じょうりゅう変更へんこうするよう、指揮しきっていた相羽あいば惣六そうろく進言しんげんした。金井かないむら人々ひとびとはそのときのことを感謝かんしゃしており、のち助左衛門すけざえもん反逆はんぎゃくざいらえられたときには、堤防ていぼう切開せっかい工事こうじ一緒いっしょ参加さんかした青畑あおはたむら人々ひとびとともに、助命じょめい嘆願たんがんしょ提出ていしゅつした。
横山よこやま稲垣いながきとの政争せいそうでは横山よこやまくわわり、とくむら々をまわって村方むらかた横山よこやまつくげるはたらきをしていた。しかし、ぶんよんろうが16さいとしなつ横山よこやま稲垣いながきやぶれ、一統いっとう12めいともはんたいする反逆はんぎゃくつみ切腹せっぷくさせられる。切腹せっぷく前日ぜんじつ面会めんかいゆるされたぶんよんろうに、ちちじてはならぬ、そしてははたのむといいのこした。
まきのぼる
ぶんよんろうはは元々もともとぶんよんろう実父じっぷいもうとであり(すなわち叔母おば)、助左衛門すけざえもんとのあいだにはまれなかったため、ぶんよんろう養子ようしむかえた。万事ばんじ堅苦かたくるしいところがある。
ふくの母親ははおやのことはきらっていたが、ふく本人ほんにんたいしては感情かんじょうっていた。また、ぶんよんろう親友しんゆうたちについては、すこしがさつなところがある逸平いっぺいのことは苦手にがてにしていたが、秀才しゅうさい与之助よのすけのことはたか評価ひょうかしていた。
服部はっとり左衛門さえもん
ぶんよんろう実兄じっけいで、実家じっか当主とうしゅ。120せき右筆ゆうひつつとめる。ぶんよんろう16さいときに34さいであり、その年齢ねんれいほかきびしい物言ものいいもあいまって、ぶんよんろうにとってはあにというよりもちちのような圧迫あっぱくかんける存在そんざい。しかし、けっして冷酷れいこくではなく、末弟ばっていであるぶんよんろうのことは心底しんそこ心配しんぱいしている。
助左衛門すけざえもんらえられてからは、情報じょうほう収集しゅうしゅうをしたり、葬儀そうぎ手配てはいをしたりと、本家ほんけすじ[ちゅう 5]のようなはたらきをしてくれた。
まきいえろく復旧ふっきゅうし、ぶんよんろうぐん奉行ぶぎょう支配しはいになったときには、20さいになって正式せいしきさとかたまわりとして出仕しゅっしするまでのあいだ後見こうけんつとめた。
岡崎おかざきせつ/まきせつ
ぶんよんろうが20さいときむかえたつま。25せきあおからむしぞうつとめる岡崎おかざきひさし次女じじょ無口むくちだが父母ちちはは大切たいせつにするところをとうって、縁談えんだんがまとまった。のちに1なん1じょんだ。
ぶんよんろうどもたち
けやき御殿ごてん事件じけんじゅうすうねんぶんよんろうとせつには息子むすこむすめが1にんずついる。息子むすこは20さい小姓こしょうくみ見習みならいとして出仕しゅっししており、むすめあいだもなくよめにやる年頃としごろである。不明ふめい

親友しんゆう

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小和田こわだ逸平いっぺい
物語ものがたり開始かいし16さいで、ぶんよんろうの1さい年上としうえ。10さいときちちくして100せきいえいでいる。17さいはる小姓こしょうぐみとして出仕しゅっしした。
ぶんよんろうちち刑死けいしして、世間せけんぶんよんろうとう白眼しろめするなかでも、わらぬ友情ゆうじょうしめつづけた。
出仕しゅっしすぐによめをもらうつもりだったがなかなかつからず、2ねんたってようやく勘定かんじょうづけむすめである池内いけうち琴代ことよとの婚約こんやくととのって、翌年よくねんはる結婚けっこんした。
けやき御殿ごてん事件じけんでは、布施ふせともぶんよんろう同道どうどうぶんよんろうたちが刺客しかくめているあいだに、ふく親子おやこ侍女じじょおみちを藤次郎とうじろうたくまで護衛ごえいした。その功績こうせきによりのちに5せき加増かぞうされた。
物語ものがたり終盤しゅうばんけやき御殿ごてん事件じけんの20すうねん)には、書院しょいん目付めつけとなっており、21さい嫡男ちゃくなん誕生たんじょうして以来いらい全部ぜんぶで8にんまれた。
島崎しまざき与之助よのすけ
ぶんよんろうおなどしさとかたまわりの次男じなんけんうではさっぱりだが、きょこまじゅくでははじまって以来いらい秀才しゅうさいばれ、ときにはわって論語ろんご講義こうぎすることもあった。15さいあきに、江戸えど葛西かさいじゅくまなぶためにうみざかはなれた。
江戸えどった3ねん葛西かさいらんどうともとしてうみざかはんはじめて一時いちじ帰国きこくして、藩校はんこう三省みつよしかんでの特別とくべつ講義こうぎ一部いちぶ担当たんとうした。それが評価ひょうかされ、これ以降いこう江戸えどでの留学りゅうがく費用ひようはん負担ふたんしてくれるようになった。また、このときぶんよんろうはふくの江戸えど藩邸はんていでの様子ようすらせてくれた与之助よのすけにだけ、ふくにたいする複雑ふくざつ気持きもちを吐露とろした。
20さいとき江戸えどでの学業がくぎょうえて帰国きこく藩校はんこうじょきょうとなる。このときも、ふくがひそかに帰国きこくしてけやき御殿ごてんにかくまわれ、しかも妊娠にんしんしているという情報じょうほうぶんよんろうにもたらした。
けやき御殿ごてん事件じけんのちぶんよんろう刺客しかくはなたれたというはなしぬすきし、逸平いっぺいつうじてぶんよんろう警告けいこくした。
物語ものがたり終盤しゅうばんには、藩校はんこう教授きょうじゅとなっており、すうねんにはまなべかんになるだろうとわれている。

石栗いしぐり道場どうじょう

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石栗いしぐり弥左衛門やざえもん
ぶんよんろうたちがとおった、鍛治かじまちにあるそらどんりゅう剣術けんじゅつ道場どうじょうあるじはつ登場とうじょう71さい[ちゅう 6]
74さい高齢こうれいでも、扇子おうぎ一本いっぽんぶんよんろう木刀ぼくとうみをなんめるちからっていたが、けやき御殿ごてん事件じけんころ(77さい)には、さすがにかなり耄碌もうろくしてきたとしるされている。
佐竹さたけきむ十郎じゅうろう
師範代しはんだい。10せきらずの馬乗うまのやく身分みぶんだが、道場どうじょうではてきするものなきつか努力どりょくだけに他者たしゃもとめるものもきびしく、後輩こうはいたちに過酷かこく稽古けいこけるためにおそれられている。
ぶんよんろうが20さいになったとし役付やくづきになって多忙たぼうとなり、師範代しはんだいした。
丸岡まるおか俊作しゅんさく
席次せきじ2高弟こうてい助左衛門すけざえもん刑死けいししたのちも、ぶんよんろうたいする態度たいどわらなかった。
佐竹さたけ師範代しはんだいしたのち、その後任こうにんとなった。
大橋おおはしすすむ
席次せきじ3高弟こうてい。120せきいえ部屋住へやずみで、なかなか婿むこくちがかからない。助左衛門すけざえもん刑死けいししたのちは、ぶんよんろうたいしてねちねちと意地いじわる態度たいどるようになった。
犬飼いぬかい兵馬へいばにひどくはたきのめされたのがきっかけで、婿むこくちがかかったといういいわけをして道場どうじょうめたが、兵馬へいばんでからふたたもどってきた。
塚原つかはら甚之助じんのすけ
席次せきじ4高弟こうてい。いいわざっているが、気魄きはくけるところがある。
矢田やたさくすすむ
席次せきじ5高弟こうてい温厚おんこう性格せいかくしろでは納戸なんどつとめ。ぶんよんろうちち同様どうよう横山よこやまくみし、反逆はんぎゃくしゃとして切腹せっぷくさせられる。
杉内すぎうちみちぞう
さとかたまわりので、ぶんよんろうの2さい年下としした後輩こうはいぶんよんろうちち遺骸いがいはこさい手伝てつだってくれた。その道場どうじょうぶんよんろうたいする態度たいどわらないすうめいなか1人ひとりである。
犬飼いぬかい兵馬へいば
300せきたまわ父親ちちおやが、江戸えど留守居るすいやくからくにつとめの使番つかいばんわり、ぶんよんろうちち刑死けいししたころ入門にゅうもんした。表情ひょうじょうみにくく、くせのあるけんつかう。一風いっぷうわった性行せいこうをしており、他人たにん馬鹿ばかにしたような態度たいどるため門弟もんていたちからはきらわれている。
ぶんよんろうのことは好敵手こうてきしゅみとめたようで、よく稽古けいこ試合しあいいどんでくるようになった。兵馬へいばあらっぽい挑戦ちょうせんに、ぶんよんろうちちくしたのちれた気持きもちをされ、丸岡まるおかが「おまえたちのは試合しあいではなく喧嘩けんかだ」としかるほどの、はげしい稽古けいこ試合しあいかえした。
けやき御殿ごてん襲撃しゅうげきたい一員いちいんくわわり、ぶんよんろう対決たいけつするも斬殺ざんさつされた。

小野おの道場どうじょう

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小野おのげん
そとりゅう道場どうじょうぬし石栗いしぐり道場どうじょう松川まつかわ道場どうじょう対抗たいこう奉納ほうのう試合しあいでは審判しんぱんつとめた。
布施ふせづるすけ
矢田やた淑江よしえ実弟じってい義兄ぎけいである矢田やたさくすすむのことを尊敬そんけいしている。矢田やた死後しごあねもとあししげかよっている野瀬のせいくこれしんかってかたないたところを、ぶんよんろう仲裁ちゅうさいし、それ以来いらい仲良なかよくなった。
ぶんよんろう松川まつかわ道場どうじょうとの対抗たいこう試合しあい興津おきつしんすすむ対戦たいせんすることをり、石川いしかわ惣六そうろくとも興津おきつ太刀筋たちすじ確認かくにんをしてくれた。
けやき御殿ごてん事件じけんでは、ぶんよんろうもとめにおうじ、すけくわわった。その恩賞おんしょうについて横山よこやま家老がろう意見いけんもとめられたぶんよんろうは、矢田やたいえ再興さいこうさせて布施ふせあとがせてはどうかと提案ていあんした。横山よこやまはその提案ていあん好意こういてきだったが、実現じつげんしたかどうかは不明ふめい
石川いしかわ惣六そうろく(そうろく)
松川まつかわ道場どうじょう興津おきつしんすすむ対戦たいせんしたことがあるため、布施ふせづるすけともぶんよんろう興津おきつ対策たいさく工夫くふうってくれた。
三宅みやけふじみぎ衛門えもん
師範代しはんだい一時いちじ石栗いしぐり道場どうじょう佐竹さたけもかなうまいというほどのけんめいげた。米倉よねくら役人やくにんをしている。
けやき御殿ごてん事件じけんのちけんであるはずの村雨むらさめっており、ぶんよんろうおどろかせた。
追放ついほう処分しょぶんとなったさとむら左内さないいのちによってぶんよんろうたいする刺客しかくとなり、横山よこやま家老がろうもとおとずれたかえりのぶんよんろう襲撃しゅうげきしたが、ぶんよんろうかえちにされた。

松川まつかわ道場どうじょう

[編集へんしゅう]
山根やまねきよし治郎じろう
230せき御徒おかちあたま嫡男ちゃくなんぶんよんろうより2さい年上としうえきょこまじゅくでは与之助よのすけ成績せいせきあらそったが、けられてめてしまった。剣術けんじゅつでは松川まつかわ道場どうじょう頭角とうかくあらわしつつある。高慢こうまん性格せいかくで、きたちと一緒いっしょ与之助よのすけいためつけたり、ちち刑死けいししたぶんよんろうをさげすんだりした。
ぶんよんろう17さいときの、石栗いしぐり松川まつかわりょう道場どうじょう対抗たいこう奉納ほうのう試合しあいでは、ぶんよんろう対戦たいせんしてやぶれた。
興津おきつしんすすむ(おきつしんのじょう)
松川まつかわ道場どうじょうでも実力じつりょくしゃ1人ひとり石栗いしぐり道場どうじょうとの対抗たいこう奉納ほうのう試合しあいでは、実力じつりょく4塚原つかはらやぶった。その翌年よくねんぶんよんろう18さい)の奉納ほうのう試合しあいではぶんよんろう対戦たいせんしてやぶれた。ぶんよんろうはこの勝利しょうりにより、けん村雨むらさめ伝授でんじゅされることとなった。
けやき御殿ごてん事件じけんのち、よく小野おの道場どうじょう出稽古でげいこるようになった。たまたま小野おの道場どうじょう訪問ほうもんしたぶんよんろうと1ほん勝負しょうぶ再戦さいせんし、そのさいには勝利しょうりした(もっとも、ぶんよんろうけん村雨むらさめ使つかわなかったし、つぎ対戦たいせんしたときにはけない自信じしんったが)。このときぶんよんろうは、興津おきつ失脚しっきゃくしたもと筆頭ひっとう家老がろうさとむらはなった刺客しかくかもしれないとかんがえた。

藩主はんしゅ

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藩主はんしゅ
正室せいしつおく女中じょちゅうであったふくにけ、側室そくしつとして寵愛ちょうあいした。ふくが側室そくしつおふねの一派いっぱによって危険きけんにさらされると、ふくは寵愛ちょうあいうしなってひまされて、屋代やしろにおあづけとなったというにせ情報じょうほうながし、ひそかにふくを国元くにもともどしてけやき御殿ごてんかくまった。そのさい磯貝いそがい北村きたむらという剣客けんかく護衛ごえいけ、おみちにふくのまわりの世話せわをさせた。
ふくとのあいだにできた最初さいしょ流産りゅうざんしたが、2人ふたり男児だんじけやき御殿ごてん無事ぶじ誕生たんじょうした。けやき御殿ごてん事件じけんのち、この男児だんじ大身たいしん旗本はたもといえ養子ようしとした。
参勤交代さんきんこうたいは5月におこなっている。
やすしひめ
藩主はんしゅ正室せいしつ。ふくがおくつとめとして江戸えど藩邸はんていはいったときつかえた。
亀三郎かめさぶろう
藩主はんしゅ嫡男ちゃくなんで、志摩しままもり名乗なのる。正室せいしつやすしひめんだ
ぶんよんろう19さいとしに、病弱びょうじゃく理由りゆう廃嫡はいちゃく隠居いんきょさせられる。
まつすすむ
藩主はんしゅ次男じなんははであるおふねが正室せいしつよりも勢力せいりょくがあるうえ藩主はんしゅ自身じしん亀三郎かめさぶろうよりもまつすすむほうっているため、亀三郎かめさぶろう病弱びょうじゃく理由りゆう廃嫡はいちゃくして、まつすすむ跡継あとつぎにしようという一派いっぱこった。一方いっぽう助左衛門すけざえもんらは亀三郎かめさぶろう廃嫡はいちゃく反対はんたいする一派いっぱぞくしていた。
亀三郎かめさぶろう廃嫡はいちゃくされたのちわりに世継よつぎとされて志摩しままもる名乗なのる。
おふね
江戸えど藩邸はんていおくもっと勢力せいりょくをふるっている側室そくしつまつすすむんだ。藩主はんしゅ愛妾あいしょうとなったふくにたいしては、様々さまざまいやがらせをおこなったとわれている。
おまん
国元くにもとにいるただ1にん側室そくしつで、しろおく権力けんりょくにぎる。
加治かじ織部おりべただし(おりべのしょう)
藩主はんしゅ叔父おじ先代せんだい藩主はんしゅ末弟ばってい)で、かつては家老がろうとしてはんない産業さんぎょうおこし、学問がくもんひろめて善政ぜんせいほどこせいた。ぶんよんろうが3さいころに、まだ30だいわかさで藩政はんせいからき、代官だいかんまちすぎもり御殿ごてんばれる屋敷やしききこもって人前ひとまえあらわれなくなった。
石栗いしぐり弥左衛門やざえもんからけん村雨むらさめ伝授でんじゅされた唯一ゆいいつ人物じんぶつで、老齢ろうれい石栗いしぐりわって、ぶんよんろうひめけん伝授でんじゅした。
けやき御殿ごてん事件じけんさいには、当初とうしょぶんよんろうはふく親子おやこ横山よこやま家老がろう屋敷やしきおくとどけるつもりだったが、稲垣いながき警戒けいかいきびしく、やむなく加治かじたよった。加治かじはふく親子おやこ保護ほごし、横山よこやま事件じけん経緯けいい報告ほうこくした。

横山よこやま

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横山よこやま又助またすけ
次席じせき家老がろう助左衛門すけざえもん矢田やたらはかれくみしていた。かれ股肱ここうものたちがらえられたときにはあしなかったが、事件じけん一段落いちだんらくしたころに、けいぎを執政しっせい会議かいぎ演説えんぜつし、そのおかげでまきふくおおくのいえが、りつぶしではなくいえろく3ぶんの2げでんだ。また、のち金井かない青畑あおはたりょうむらからされていた助左衛門すけざえもん助命じょめい嘆願たんがんしょ執政しっせい会議かいぎ提出ていしゅつし、まきいえろく元通もとどおりになった。
けやき御殿ごてん事件じけんのち稲垣いながきはん執政しっせいから一掃いっそうし(ただし、稲垣いながきさとむら以外いがいたいしては、閉門へいもんなどのかる処分しょぶんましている)、みずからは筆頭ひっとう家老がろういた。
平田ひらた帯刀たてわき
助左衛門すけざえもん切腹せっぷくした政変せいへんまえ家老がろう政変せいへんらえられ、切腹せっぷくめいじられた。
兼松かねまつ熊之助くまのすけ
政変せいへんまえ中老ちゅうろう一族いちぞくもろともりょうがい追放ついほう処分しょぶんとなった。
青木あおきまごぞう
さとかたまわりの見習みならいとなったぶんよんろうが、一緒いっしょんでむら々をまわることになった先輩せんぱい。30だいなかば。無口むくちだが有能ゆうのう役人やくにんぶんよんろう一目いちもくいている。
はじめてぶんよんろう金井かないむら巡回じゅんかいしたとき助左衛門すけざえもん助命じょめい嘆願たんがんしょ金井かないむら青畑あおはたむらひとたちがしてくれたということをおしえた。そして、ぶんよんろう横山よこやまさそったが、ぶんよんろう即答そくとうしなかった。のち稲垣いながきによって殺害さつがいされた。

稲垣いながき

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稲垣いながき忠兵衛ちゅうべえ
もと中老ちゅうろうで、名執なとりまさしばれた。家老がろうさとむら背後はいごからあやつっている。
けやき御殿ごてん事件じけんのちさと処分しょぶんとなった。
さとむら左内さない
助左衛門すけざえもん切腹せっぷくしたときには次席じせき家老がろうのち筆頭ひっとう家老がろうすすんだ。
けやき御殿ごてん事件じけんのち家族かぞく共々ともどもりょうがい永久えいきゅう追放ついほうとなった。追放ついほうまえぶんよんろうたいして刺客しかくはなった。
多田ただ左門さもん
中老ちゅうろうけやき御殿ごてん事件じけんのち、100にち閉門へいもん処分しょぶんけた。
村上むらかみ七郎しちろうみぎ衛門えもん
小姓こしょうぐみつとめる。松川まつかわ道場どうじょう出身しゅっしん助左衛門すけざえもん切腹せっぷくしたさいくびかわ1まいのこ見事みごと介錯かいしゃくをした。
のちうままわりぐみ異動いどう横山よこやまぞくする青木あおきまごぞうぶんよんろうれて金井かないむら巡回じゅんかいしていたところにくわし、徒党ととう真似まねをやめるよう青木あおきおどした。
けやき御殿ごてん事件じけんときには、襲撃しゅうげき部隊ぶたい実行じっこう責任せきにんしゃだったが、ぶんよんろうたたかってうでられて後退こうたいした。、その責任せきにんわれて、50にち閉門へいもんいえろく半減はんげん処分しょぶんけた。

重役じゅうやく

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尾形おがたひさまん(くまき)
大目おおめづけ辣腕らつわんとのうわさたかい。ぶんよんろうとは、さとむら屋敷やしきでも横山よこやま屋敷やしきでも対面たいめんしているが、尾形おがた自身じしん中立ちゅうりつ立場たちばのようである。
藤井ふじいはじめぞう
300せき番頭ばんがしら助左衛門すけざえもんとはわかころ道場どうじょう仲間なかま[ちゅう 7]で、生前せいぜん助左衛門すけざえもんぶんよんろう元服げんぷくさい烏帽子えぼしおやたのまれており、ぜひその約束やくそくたしたいと、ぶんよんろうとうねがった。そして、このことについて、助左衛門すけざえもん刑死けいししたことをげてとやかくものがあればいつでも相手あいてになるといいはなった。藤井ふじい言葉ことばは、失意しついうちにいたぶんよんろうとうちからづけた。
ぶんよんろう元服げんぷくは、17さいあき実現じつげんする。ぶんよんろう元服げんぷくさい名乗なのった重好しげよし(しげよし)は、藤井ふじいであるじゅういちをもらったものである。
遠山とおやまうしすけ
中老ちゅうろう江戸えど葛西かさいじゅくもと門人もんじんで、おなじくもと門人もんじんであるがくかん芝原しばはら番頭ばんがしら菰田こもた(こもだ)らと協力きょうりょくして、である葛西かさいらんどううみざかはん藩校はんこう三省みつよしかん」にまねいて特別とくべつ講義こうぎねがった。そのとき、ともとして島崎しまざき与之助よのすけが3ねんぶりに一時いちじ帰国きこくして、講義こうぎ一部いちぶ担当たんとうした。
樫村かしむらわたるすけ
ぐん奉行ぶぎょういえろく復旧ふっきゅうされてさとかたまわ見習みならいとなったぶんよんろう上司じょうし。3にんいるぐん奉行ぶぎょうなかでは一番いちばん人柄ひとがらい。ぶんよんろう就任しゅうにん挨拶あいさつおとずれたとき祝福しゅくふくするとともに、里村さとむら家老がろう策略さくりゃくおおひとだから油断ゆだんするなとさとした。
横山よこやまかどうかは不明ふめいだが、青木あおきまごぞうによれば、郡代ぐんだい瀬尾せおとも稲垣いながき農政のうせい懸念けねんいている数少かずすくないさとかた一人ひとり

その

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小柳こやなぎ甚兵衛じんべえ
ふくのちち。23せき普請ふしんぐみつとめ、屋敷やしきまき南隣みなみどなり
ぶんよんろう助左衛門すけざえもん遺骸いがいりにさい自身じしんはつとめがあってえなかったものの、荷車にぐるま手配てはいするのに奔走ほんそうしてくれた。またぶんよんろうとうくみ屋敷やしきからさいにも荷車にぐるまさがしてきてくれた。
のちにふくが藩主はんしゅ側室そくしつとなったことで、80せき御蔵おぐらかた出世しゅっせした。
小柳こやなぎます
ふくのはは。しばしばまき味噌みそ醤油じょうゆかねなどをりにて、催促さいそくしないとかえさないので、とうきらっていた。助左衛門すけざえもん通夜つや葬式そうしきにはかおさなかった。
きょこま礼助れいすけ
ぶんよんろうたちがまなんだ朱子学しゅしがくおしえるじゅく塾長じゅくちょう与之助よのすけ才能さいのうみとめ、江戸えど葛西かさいじゅくまなべるようにほねってくれた。
葛西かさいらんどう
与之助よのすけ江戸えど師事しじした朱子学しゅしがくものうみざかはんふくだい名家めいか3いえ庇護ひごけている。与之助よのすけ才能さいのうたか評価ひょうかしている。
相羽あいば惣六そうろく
普請ふしん奉行ぶぎょう助役じょやくぶんよんろうが15さいときあらしあいだかわ氾濫はんらんしそうになって、外出がいしゅつちゅう助左衛門すけざえもんわりにけつけたとき老齢ろうれい奉行ぶぎょうわりに指揮しきった。おくれて到着とうちゃくした助左衛門すけざえもんが、金井かないむらがつぶれるのをふせぐために、堤防ていぼう切開せっかい場所ばしょ上流じょうりゅう変更へんこうするよう進言しんげんしたさい即座そくざれて、指示しじをしなおした。
山岸やまぎし重助しげすけ
普請ふしんぐみ屋敷やしきで、まききたとなり助左衛門すけざえもん通夜つや葬儀そうぎにも出席しゅっせきしてくれた。
ぶんよんろうきゅうろくもどされてさとかたまわ見習みならいになったことを報告ほうこくったさい山崎やまざきつまが、ふくのちち小柳こやなぎ甚兵衛じんべえ出世しゅっせしてくみ屋敷やしきからしたことと、その理由りゆうかたった。
矢田やた淑江よしえ(よしえ)
矢田やたさくすすむつまおっと切腹せっぷくしたのちぶんよんろうたちとおなじ葺屋まち長屋ながやに、盲目もうもく義母ぎぼともうつされた。淑江よしえがいれば矢田やた養子ようしゆるされるかもしれないという意見いけん上層じょうそうにあったため、矢田やたるにれない境遇きょうぐうかれた。その鬱憤うっぷんからか、野瀬のせとのながした。
ぶんよんろうさとかたぐみ屋敷やしきしてあいだもなく、野瀬のせ心中しんじゅうした。
野瀬のせいくこれしん(いくのしん)
矢田やた淑江よしえ未亡人みぼうじんになってのちに、あししげかよってくる武家ぶけ正体しょうたいは、300せき奏者そうしゃいえ嫡男ちゃくなん淑江よしえ矢田やた結婚けっこんするまえ野瀬のせ一方いっぽうてき見初みそめて縁談えんだんんだが、かれ両親りょうしんでなかったうえ親戚しんせき身分みぶんちがい(淑江よしえ実家じっかは75せき)を理由りゆう反対はんたいしたために破談はだんとなった。のちに、淑江よしえ心中しんじゅうした。
藤次郎とうじろう
金井かないむら村役人むらやくにん助左衛門すけざえもん反逆はんぎゃくつみとらえられたとき金井かないむら青畑あおはたむら助命じょめい嘆願たんがんしょ提出ていしゅつしたが、そのりまとめをおこなった。
けやき御殿ごてん事件じけんとき一時いちじふく親子おやこかくまい、いの船頭せんどうけんろくねがって城下じょうかおくしてくれた。
磯貝いそがい主計かずえ(かずえ)
金井かないむらけやき御殿ごてんでふくの護衛ごえいをしていた。かなりのけんつかで、稲垣いながき襲撃しゅうげきしたときには、ぶんよんろうらと協力きょうりょくして、ふく親子おやこ無事ぶじふじ治郎じろう屋敷やしきのがした。
北村きたむら
けやき御殿ごてん護衛ごえい磯貝いそがいくらべると、少々しょうしょうおおい。稲垣いながき襲撃しゅうげきしてきたときに、殺害さつがいされたとおもわれる。
おみち
けやき御殿ごてんでふくにつかえた侍女じじょ。20さいぎの年頃としごろ

書誌しょし情報じょうほう

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関連かんれん書籍しょせき

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テレビドラマ

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せみしぐれ
ジャンル 時代じだいげき
原作げんさく 藤沢ふじさわ周平しゅうへい
脚本きゃくほん 黒土こくどさんなん
演出えんしゅつ 佐藤さとう幹夫みきお
田中たなか健二けんじ
出演しゅつえんしゃ 内野うちのきよし
水野みずの真紀まき
勝野かつのひろし
石橋いしばしたもつ
宮藤くどうかん九郎くろう
鈴木すずき杏樹あんじゅ
海部かいふ剛史たけし
荒井あらいおさむじん
石橋いしばし蓮司れんじ
村上むらかみ弘明ひろあき
竹下たけした景子けいこ
柄本えもとあきら
たいら幹二朗みきじろう
ナレーター 草笛くさぶえ光子こうし
エンディング 普天間ふてんまかおりはるかなあい…」
製作せいさく
製作せいさくそう指揮しき 菅野かんのこういたる
秋山あきやま茂樹しげき
制作せいさく NHK
放送ほうそう
放送ほうそうこく地域ちいき日本の旗 日本にっぽん
公式こうしきサイト
金曜きんよう時代じだいげき せみしぐれ
放送ほうそう期間きかん2003ねん8がつ22にち - 10月3にち
放送ほうそう時間じかん金曜きんよう21:15 - 21:58
放送ほうそうわく土曜どよう時代じだいげき (NHK)
放送ほうそうぶん43ふん
回数かいすう7
ハイビジョンドラマかん せみしぐれ
放送ほうそう期間きかん2003ねん11月1にち - 15にち
放送ほうそう時間じかん土曜どよう21:00 - 22:29
放送ほうそうぶん89ふん
回数かいすう3
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NHK総合そうごう金曜きんよう時代じだいげきわくにて2003ねん8がつ22にちから10月3にちまで放送ほうそうされた。ぜん7かい。また、ハイビジョンはんNHK BShi「ハイビジョンドラマかん」にて2003ねん11月1にちから11月15にちまで放送ほうそうされた。ぜん3かい

2006ねん10月2にち10月9にち10月16にち(いずれも月曜げつよう)には、東北とうほく地方ちほう午後ごご10プレミアム10わく)に1週間しゅうかん2回分かいぶんさい放送ほうそう

キャスト(テレビドラマ)

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スタッフ(テレビドラマ)

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放送ほうそう日程にってい

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金曜きんよう時代じだいげき(NHK総合そうごう
放送ほうそうかい 放送ほうそう サブタイトル 演出えんしゅつ 視聴しちょうりつ[8]
だいいちかい 2003ねん
08がつ22にち
あらし 佐藤さとう幹夫みきお 13.4%
だいかい 08がつ29にち ありのごとく 12.8%
だいさんかい 09月05にち ふくとぶんよんろう 田中たなか健二けんじ 12.2%
だいよんかい 09月12にち けん村雨むらさめ 佐藤さとう幹夫みきお 12.6%
だいかい 09月19にち わな 田中たなか健二けんじ 11.8%
だいろくかい 09月26にち 逆転ぎゃくてん 佐藤さとう幹夫みきお 11.4%
最終さいしゅうかい 10月03にち 歳月さいげつ 田中たなか健二けんじ 11.2%
平均へいきん視聴しちょうりつ %(視聴しちょうりつビデオリサーチ調しらべ、関東かんとう地区ちく世帯せたい・リアルタイム)
ハイビジョンドラマかん(NHK BShi)
放送ほうそうかい 放送ほうそう サブタイトル 備考びこう
だい1かい 2003ねん
11月01にち
あらし
だい2かい 11月08にち わな
だい3かい 11月15にち 歳月さいげつ 21:20 - 22:49に放送ほうそう
さい放送ほうそう(NHK BSプレミアム)
放送ほうそうかい 放送ほうそう 備考びこう
だい1-3かい 2021ねん
3がつ20日はつか
ぜん3一挙いっきょ放送ほうそう[9]

受賞じゅしょう(テレビドラマ)

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  • だい30かい放送ほうそう文化ぶんか基金ききんしょう 番組ばんぐみ部門ぶもん[10]
    • テレビドラマ分野ぶんや ほんしょう(ハイビジョンドラマかんせみしぐれ』 だい1かいあらし」)
    • 個別こべつ分野ぶんや 出演しゅつえんしゃしょう内野うちのきよし
    • 個別こべつ分野ぶんや 演出えんしゅつしょう佐藤さとう幹夫みきお
  • だい44かいモンテカルロ・テレビさい[11]
    • ゴールデンニンフしょう 最優秀さいゆうしゅう作品さくひんしょう(ハイビジョンドラマかんせみしぐれ』 だい1かいあらし」)
    • ゴールデンニンフしょう 主演しゅえん男優だんゆうしょう内野うちのきよし
  • ABUしょう テレビ:ドラマ番組ばんぐみ部門ぶもん金曜きんよう時代じだいげきせみしぐれ』 だいかいありのごとく」)[12]

映画えいが

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蟬しぐれ
監督かんとく 黒土こくどさんなん
脚本きゃくほん 黒土こくどさんなん
原作げんさく 藤沢ふじさわ周平しゅうへい
製作せいさく 俣木たておっと
出演しゅつえんしゃ 市川いちかわ染五郎そめごろう
木村きむら佳乃よしの
原田はらだ美枝子みえこ
緒形おがたけん
音楽おんがく 岩代いわしろ太郎たろう
撮影さつえい 釘宮くぎみやまきおさむ
編集へんしゅう 奥田おくだ浩史こうじ
製作せいさく会社かいしゃ 蟬しぐれ製作せいさく委員いいんかい
配給はいきゅう 東宝とうほう
公開こうかい 日本の旗 2005ねん10がつ1にち
上映じょうえい時間じかん 131ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
興行こうぎょう収入しゅうにゅう 14おくえん[13]
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キャスト(映画えいが

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スタッフ(映画えいが

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受賞じゅしょう映画えいが

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  • だい29かい日本にっぽんアカデミーしょう
    • 優秀ゆうしゅう作品さくひんしょう
    • 優秀ゆうしゅう監督かんとくしょう黒土こくどさんなん
    • 優秀ゆうしゅう脚本きゃくほんしょう黒土こくどさんなん
    • 優秀ゆうしゅう主演しゅえん男優だんゆうしょう市川いちかわ染五郎そめごろう
    • 優秀ゆうしゅう主演しゅえん女優じょゆうしょう木村きむら佳乃よしの
    • 優秀ゆうしゅう音楽おんがくしょう岩代いわしろ太郎たろう
    • 優秀ゆうしゅう撮影さつえいしょう釘宮くぎみやまきおさむ
    • 優秀ゆうしゅう照明しょうめいしょうきちかくそうかい
    • 優秀ゆうしゅう美術びじゅつしょう櫻木さくらぎあきら
    • 優秀ゆうしゅう録音ろくおんしょう橋本はしもと泰夫やすお
    • 優秀ゆうしゅう編集へんしゅうしょう奥田おくだ浩史こうじ
  • だい18かい日刊にっかんスポーツ映画えいが大賞たいしょう 主演しゅえん男優だんゆうしょう市川いちかわ染五郎そめごろう
  • だい30かい報知ほうち映画えいがしょう 最優秀さいゆうしゅう主演しゅえん男優だんゆうしょう市川いちかわ染五郎そめごろう

舞台ぶたい

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宝塚歌劇団たからづかかげきだん公演こうえん

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わかうたわすれじ」というタイトルで上演じょうえん

1994ねん - 1995ねんほしぐみ公演こうえん
宝塚たからづかだい劇場げきじょう東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう上演じょうえん
翌年よくねん中日ちゅうにち劇場げきじょうあささきのトップお披露目ひろめ公演こうえんとして再演さいえん
脚色きゃくしょく演出えんしゅつ担当たんとうした大関おおぜきひろしせいはこの作品さくひんかぎりで宝塚歌劇団たからづかかげきだん退団たいだん
当時とうじ中学生ちゅうがくせいだった映美えみくらら修学旅行しゅうがくりょこうでこの作品さくひん観劇かんげきして宝塚歌劇たからづかかげきこころざした。[1]
2013ねんゆきぐみ公演こうえん
2がつ中日ちゅうにち劇場げきじょう上演じょうえん。併演はグランド・レビュー『Shining Rhythm!』。
壮一そういちあいあゆのトップコンビお披露目ひろめ公演こうえん
8がつから9がつにかけてに全国ぜんこくツアーで再演さいえん。併演はロマンチック・レビュー『ナルシス・ノアールII』。
演出えんしゅつ大野おおのたく担当たんとう
キャスト
  1994ねんほしぐみ 1995ねんほしぐみ 2013ねんゆきぐみ
中日ちゅうにち劇場げきじょう
2013ねんゆきぐみ
全国ぜんこくツアー)
まきぶんよんろう 紫苑しおんゆう あささき 壮一そういち
ふく 白城しらきあやか あいあゆ
小和田こわだ逸平いっぺい あささき みのりこう きりせいな ゆめ乃聖なつ
島崎しまざき与之助よのすけ みのりこう 由季ゆき すなひさしくらま いろどりふうさき
まき助左衛門すけざえもん 夏美なつみよう きくむら奈緒なお 夏美なつみよう
とう しろりょ 梨花りかますみ
1994ねん新人しんじん公演こうえんキャスト
  宝塚たからづかだい劇場げきじょう 東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう
まきぶんよんろう みずうみがつわたる 神田かんださとし
ふく 星奈ほしな優里ゆり ばん理沙りさひとみ
小和田こわだ逸平いっぺい 神田かんださとし あさみや真由まゆ
島崎しまざき与之助よのすけ こうひさしりお あきらかずき
まき助左衛門すけざえもん 万波まんなみむらさきかい
とう まいはるか

大阪おおさか松竹しょうちく公演こうえん

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大阪おおさか松竹しょうちく新築しんちく開場かいじょう10周年しゅうねんおよび藤沢ふじさわ周平しゅうへい没後ぼつご10ねん記念きねんして、2007ねん9月2にちから9月24にちまで大阪おおさか松竹しょうちくにて公演こうえんおこなう。まきぶんよんろうやく商業しょうぎょう演劇えんげきはつ主演しゅえんとなる片岡かたおか愛之助あいのすけ、ふくやく大阪おおさかでは初舞台はつぶたいとなる相田あいだ翔子しょうこ新鮮しんせん顔合かおあわせとなる。

キャスト(大阪おおさか松竹しょうちく

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スタッフ(大阪おおさか松竹しょうちく

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明治めいじ公演こうえん

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明治めいじで2008ねん5がつ5にちから5がつ29にち公演こうえん

キャスト(明治めいじ

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スタッフ(明治めいじ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1986ねん6がつ30にちより連載れんさい開始かいしした『秋田あきたいさお新報しんぽう朝刊ちょうかん初出しょしゅつとするせつもある[4]
  2. ^ 作者さくしゃ創造そうぞうによる架空かくうはん庄内しょうないはんがモデルとされる。
  3. ^ うみざかはんではぐん奉行ぶぎょう支配しはいにある役職やくしょく通称つうしょうむらまわり。むら々を巡回じゅんかいして、年貢ねんぐ決定けっていするための基礎きそ資料しりょうとして、いね植林しょくりんした生育せいいく調しらべる仕事しごと
  4. ^ ただしけやき御殿ごてん事件じけんのち
  5. ^ まき本家ほんけはすでにえている。
  6. ^ ぶんよんろうが18さいとき記述きじゅつで、34ねんまえ石栗いしぐり道場どうじょうひらき、そのとき40さいだったとある。はつ登場とうじょうはその3ねんまえ
  7. ^ 御弓おゆみまち松川まつかわ道場どうじょうは、以前いぜん直心ひたごころりゅうおしえる戸村とむら道場どうじょうだった。二人ふたりはそこにかよっていた。
  8. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへいぼつ20ねん記念きねん出版しゅっぱん

出典しゅってん

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  1. ^ 鶴岡つるおか市立しりつ藤沢ふじさわ周平しゅうへい記念きねんかん 開館かいかん記念きねん特別とくべつ企画きかくてん 『蟬しぐれ』の世界せかい 展示てんじ図録ずろく、p.1.2011ねん11月23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b せみしぐれ】 城下じょうか近郊きんこうむら”. 藤沢ふじさわ文学ぶんがく魅力みりょく 藤沢ふじさわ周平しゅうへい庄内しょうない かいざかはんたずねるたび. 山形やまがた新聞しんぶん. 2018ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e プロダクションノート映画えいが『蟬しぐれ』公式こうしきウェブサイト semishigure.jp, 2010ねん2がつ18にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c 『「蟬しぐれ」コラムⅠ - 日本にっぽん最初さいしょ読者どくしゃ』、『「蟬しぐれ」と藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい所収しょしゅうオール読物よみもの責任せきにん編集へんしゅう文春ぶんしゅんムック文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2005ねん9がつ30にち、p.12.
  5. ^ 山本やまもと甚作物語ものがたり映画えいが『蟬しぐれ』公式こうしきウェブサイト semishigure.jp, 2010ねん2がつ18にち閲覧えつらん
  6. ^ 三友さんゆう月報げっぽう 平成へいせいさんねんはちがつじゅうにちごう新聞しんぶん小説しょうせつわたし
  7. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう だいじゅうさんかん
  8. ^ 「テレビ視聴しちょうりつほう関東かんとう地区ちく)」ビデオリサーチ。
  9. ^ さい放送ほうそう情報じょうほうせみしぐれ」ぜん一挙いっきょ放送ほうそう”. NHK. 2021ねん3がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん3がつ13にち閲覧えつらん
  10. ^ せみしぐれ」が放送ほうそう文化ぶんか基金ききんしょう受賞じゅしょう!”. NHKドラマ. 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい (2004ねん5がつ28にち). 2018ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  11. ^ せみしぐれ」がモンテカルロ・テレビさい受賞じゅしょう!”. NHKドラマ. 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい (2004ねん7がつ5にち). 2018ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  12. ^ NHK広報こうほうきょく (2004ねん9がつ26にち). “だい41かいABUアルマトイ総会そうかい ABUしょう NHKの4作品さくひん受賞じゅしょう” (PDF). らせ. 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. 2018ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  13. ^ 2005ねん興行こうぎょう収入しゅうにゅう10おくえん以上いじょう番組ばんぐみ (PDF) - 日本にっぽん映画えいが製作せいさくしゃ連盟れんめい

外部がいぶリンク

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