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斎藤さいとうみのるもり

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斎藤さいとう みのるもり
じつもりぞう小松こまつ太神おおがしゃ
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん てんひさし2ねん1111ねん
死没しぼつ 寿ことぶきひさし2ねん6月1にち1183ねん6月22にち
改名かいめい じょぼう[1]じつもり
別名べつめい 長井ながい別当べっとう
墓所はかしょ 石川いしかわけん加賀かが篠原しのはらまちじつもりづか
静岡しずおかけん熱海あたみ伊豆山いずさん岸谷きしたに
福井ふくいけん鯖江さばえ南井なおいまちどう坂井さかい丸岡まるおかまちどう
主君しゅくん 源義朝みなもとのよしとも源義賢みなもとのよしまさ源義朝みなもとのよしとも平清盛たいらのきよもりそうもり
氏族しぞく 藤原ふじわらきたじんりゅう斎藤さいとう
父母ちちはは ちち斎藤さいとうのりもり(または斎藤さいとう実直じっちょく斎藤さいとうみのるとお
養父ようふ斎藤さいとう実直じっちょく
もりぼう[2]ちょうおもね請房りょうおう[3]
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篠原しのはら古戦場こせんじょうちかくにあるじつもりくびあらったとされるいけ

斎藤さいとう みのるもり(さいとう さねもり)は、平安へいあん時代じだい末期まっき武将ぶしょう藤原ふじわらとしひとしながれを斎藤さいとうのりもり(また斎藤さいとう実直じっちょくとも[4])の越前えちぜんこくだしで、武蔵むさしこく幡羅はたらぐん長井ながいしょう埼玉さいたまけん熊谷くまがや)を本拠ほんきょとし、長井ながい別当べっとうばれる。

生涯しょうがい

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武蔵むさしこくは、相模さがみこく本拠ほんきょとする源義朝みなもとのよしともと、上野うえのこく進出しんしゅつしてきたそのおとうと義賢よしかたというりょう勢力せいりょく緩衝かんしょう地帯ちたいであった。じつもりはじあさしたがっていたが、やがて地政学ちせいがくてき判断はんだんから義賢よしかた幕下まくした伺候しこうするようになる。こうした武蔵むさししゅうごきを危険きけんしたあさみなもと義平よしひらは、久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん)に義賢よしかた急襲きゅうしゅうしてこれをってしまう(大蔵おおくら合戦かっせん)。

じつもりふたたあさ義平よしひら父子ふし麾下きかもどるが、一方いっぽう義賢よしかたたいする旧恩きゅうおんわすれておらず、義賢よしかた遺児いじこま王丸おうまる畠山はたけやま重能しげよしからあずかり、こま王丸おうまる乳母うばつまである信濃しなのこく中原なかはらけんとおのもとにおくとどけた。このこま王丸おうまるこそがこうあさひ将軍しょうぐん木曾きそ義仲よしなかである。

もとらん平治へいじらんにおいては上洛じょうらくし、あさ忠実ちゅうじつ部将ぶしょうとして奮戦ふんせんする。あさ滅亡めつぼうしたのちは、関東かんとう無事ぶじび、そのたいらつかえ、東国とうごくにおける歴戦れきせん有力ゆうりょく武将ぶしょうとして重用じゅうようされる。そのため、うけたまわ4ねん1180ねん)にあさみなもと頼朝よりとも挙兵きょへいしてもたいらかたにとどまり、平維盛たいらのこれもり後見こうけんやくとして頼朝よりとも追討ついとう出陣しゅつじんする。たいらぐん富士川ふじかわたたかにおいて頼朝よりとも大敗たいはいきっするが、これはじつもり東国とうごく武士ぶし勇猛ゆうもうさをいたところ維盛以下いか味方みかた武将ぶしょう過剰かじょう恐怖きょうふしんいてしまい、その結果けっか水鳥みずとり羽音はおと夜襲やしゅう勘違かんちがいしてしまったことによるという。

寿ことぶきひさし2ねん(1183ねん)、ふたたび維盛らと木曾きそ義仲よしなか追討ついとうのため北陸ほくりく出陣しゅつじんするが、加賀かがこく篠原しのはらたたか敗北はいぼく味方みかた総崩そうくずれとなるなか覚悟かくごめたじつもり老齢ろうれいしていちかず奮戦ふんせんし、ついに義仲よしなか部将ぶしょう手塚てづかひかりもりによってられた。

このさい出陣しゅつじんまえからここを最期さいご覚悟かくごしており、「最後さいごこそ若々わかわかしくたたかいたい」というおもいから白髪はくはつあたまくろめていた。そのため首実検くびじっけんさいにもすぐにはじつもり本人ほんにんからなかったが、そのことを樋口ひぐち兼光かねみつからいた義仲よしなかくび付近ふきんいけにてあらわせたところ、みるみる白髪はくはつわったため、ついにその確認かくにんされた。かつてのいのち恩人おんじんってしまったことをった義仲よしなかは、人目ひとめもはばからずなみだにむせんだという。この篠原しのはらたたかいにおける斎藤さいとうみのるもり最期さいご様子ようすは、『平家ひらか物語ものがたりまきだいななに「じつもり最期さいご」として一章いっしょうし、「むかししゅかいしんは、にしきたもとかい稽山にひるがえし、いま斉藤さいとう別当べっとうみのるもりは、その北国きたぐにちまたあげぐとかや。ちもせぬむなしきめいのみいて、むくろ越路こしじすえちりとなるこそあわれなれ」とひょうしている。

史跡しせき伝承でんしょうについて

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前賢ぜんけん故実こじつ』による斎藤さいとうみのるもり

室町むろまち時代ときよ前期ぜんきおうひさし21ねん(1414ねん)3がつ加賀かがこく江沼えぬまぐん潮津うしおづ(うしおづ)道場みちば現在げんざい石川いしかわけん加賀かが潮津うしおづまち所在しょざい)でななにちななべつ念仏ねんぶつもよおした4にちのこと、滞在たいざい布教ふきょうちゅう時宗じしゅう遊行ゆぎょう14せいふとしそらのもとに、白髪はくはつ老人ろうじんあらわれ、十念じゅうねんけて諸人もろびと群集ぐんしゅうのなかに姿すがたしたという。

これが源平げんぺい合戦かっせん当地とうちたれた斉藤さいとう別当べっとうみのるもり亡霊ぼうれいとの風聞ふうぶんがたったため、ふとしそら結縁けちえんして卒塔婆そとうばて、その霊魂れいこんをなぐさめたという。このはなしは、当時とうじ京都きょうとにまでつたわっており、「事実じじつならば希代きたいこと也」と、醍醐寺だいごじ座主ざすまんすみは、その日記にっきまんすみじゅんきさき(まんさいじゅごう)日記にっき』にめている。そしてこのはなしは、おそらく時宗じしゅう関係かんけいしゃつうじて世阿弥ぜあみのもとにもたらされ、謡曲ようきょくじつもり』として作品さくひんされている。以来いらい遊行ゆぎょう上人しょうにんによるじつもり供養くよう慣例かんれいし、じつもりかぶと所蔵しょぞうする石川いしかわけん小松こまつ太神おおがしゃでは、上人しょうにん代替だいがわりごとに、回向えこうおこなわれて現代げんだいいたっている。

松尾まつお芭蕉ばしょうも、『おく細道ほそみち』の途上とじょう小松こまつおとずれてじつもりしのび、いま太神おおがしゃ現存げんそんするじつもりかぶとて「むざんやな かぶとしたの きりぎりす」とんでいる。

寛延かんえい2ねん(1749ねん初演しょえん人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりのち歌舞伎かぶき)『源平げんぺい布引滝ぬのびきたき』は、さんだんきり青年せいねん時代じだいじつもり幼年ようねん手塚てづかひかりもり対面たいめん将来しょうらい対決たいけつ予言よげんする場面ばめんとく有名ゆうめいで、「じつ盛物もりもの」としてられている。

じつもりたれるさいっていたうまいねかぶにつまずいたところをられたために、じつもりいねらす害虫がいちゅういねちゅう)になったとのいいつたえがある[5]。そのため、いねちゅうとくウンカ)は「じつもりちゅう」ともばれ、このれいしずめる神事しんじは「じつもりおくり」という虫送むしおく行事ぎょうじとして全国ぜんこく各地かくちつたわる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 長井ながい系図けいず
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  3. ^ 埼玉さいたまけん熊谷くまがやにある聖天しょうてんさん歓喜かんきいん創設そうせつした人物じんぶつで、じつもり次男じなん斎藤さいとうみのるちょうつたえられる。
  4. ^ 長井ながい系図けいず』では斎藤さいとう実直じっちょくちちではなく、養父ようふとある。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では実直じっちょくちちじつとおとも
  5. ^ 山田野やまだのおっと怪談かいだん世界せかい時事通信社じじつうしんしゃ、1978ねん、99ぺーじ 

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