松下まつしただい三郎さぶろう

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松下まつした だい三郎さぶろう
人物じんぶつ情報じょうほう
別名べつめい 松下まつした きょくすい
生誕せいたん (1878-10-24) 1878ねん10月24にち
日本の旗 日本にっぽん静岡しずおかけん磐田いわたぐん下野部しものべむらげん磐田いわた
死没しぼつ (1935-05-02) 1935ねん5月2にち(56さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 國學院こくがくいん
学問がくもん
時代じだい 明治めいじ大正たいしょう
研究けんきゅう分野ぶんや 国文法こくぶんぽう
漢文かんぶんほう
国文学こくぶんがく
日本語にほんご教育きょういく
研究けんきゅう機関きかん 弘文こうぶん学院がくいん
にちはな学院がくいん
國學院大學こくがくいんだいがく
学位がくい 文学ぶんがく博士はかせ
特筆とくひつすべき概念がいねん 松下まつした文法ぶんぽう
おも業績ぎょうせき 現代げんだい日本語にほんご文法ぶんぽう研究けんきゅう
主要しゅよう作品さくひん標準ひょうじゅん日本にっぽん文法ぶんぽう
標準ひょうじゅん日本にっぽん口語文こうごぶんほう
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松下まつした だい三郎さぶろう(まつした だいざぶろう、1878ねん明治めいじ11ねん10月24にち - 1935ねん昭和しょうわ10ねん5月2にち)は、日本にっぽん国語こくご学者がくしゃ文法ぶんぽう学者がくしゃ文学ぶんがく博士はかせ國學院大學こくがくいんだいがく教授きょうじゅごうきょくすい

経歴けいれき[編集へんしゅう]

出生しゅっしょうから学生がくせい時代じだい[編集へんしゅう]

1878ねん静岡しずおかけん磐田いわたぐん下野部しものべむら野部のべむら磐田いわたぐん豊岡とよおかむらて、現在げんざい磐田いわたまれ。ちち久三郎きゅうさぶろう野部のべむら村長そんちょう

明治めいじ19ねん1886ねん)4がつ野部のべ尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん磐田いわた市立しりつ豊岡とよおかきた小学校しょうがっこう初等しょとうきゅうせい入学にゅうがく同級生どうきゅうせいに、河合かわい亀太郎かめたろう(日本薬剤師会にほんやくざいしかい会長かいちょう薬学やくがく博士はかせの)がいた[1]明治めいじ21ねん1888ねん)2がつ同校どうこう卒業そつぎょう

明治めいじ22ねん1889ねん)7がつ二俣ふたまた高等こうとう小学校しょうがっこう進学しんがく少年しょうねん時代じだいには落合おちあい直文なおふみ小中村こなかむら義象よしたか共著きょうちょの『中等ちゅうとう教育きょういく日本にっぽん文典ぶんてん』と『スキントンえい文典ぶんてん』を比較ひかく研究けんきゅうしていた[2]明治めいじ26ねん1893ねん)4がつどう卒業そつぎょう

明治めいじ26ねん(1893ねん)7がつ文法ぶんぽう研究けんきゅうふかめるために16さい単身たんしん上京じょうきょう同年どうねん10がつ東京とうきょう専門せんもん学校がっこうげん早稲田大学わせだだいがく英文えいぶん学科がっか入学にゅうがくしたが、文法ぶんぽう授業じゅぎょう満足まんぞくできず、3ヶ月かげつ退学たいがくにちしん戦争せんそう明治めいじ28ねん1895ねん)9がつ落合おちあい直文なおふみたよって國學院こくがくいん入学にゅうがく[3]1898ねん卒業そつぎょうし、1899ねん4がつ日本にっぽん最初さいしょ口語こうご文典ぶんてん日本にっぽん俗語ぞくご文典ぶんてん』を「国文学こくぶんがくかい」に発表はっぴょう[3]

大学だいがく卒業そつぎょう[編集へんしゅう]

1905ねん三矢みつや重松しげまつ推薦すいせん宏文ひろふみ学院がくいん教授きょうじゅまねかれ、1906ねんに『日本語にほんご教科書きょうかしょぜん3かん三矢みつやらとともに刊行かんこう1907ねんには『かんやく日本にっぽん口語こうご文典ぶんてん』を刊行かんこうした[3]宏文ひろふみ学院がくいん法政ほうせい学院がくいん教鞭きょうべんったのち1913ねんにはみずかにちはな学院がくいん創設そうせつして中国人ちゅうごくじん留学生りゅうがくせいへの日本語にほんご教育きょういく尽力じんりょくした[3]1924ねん國學院大學こくがくいんだいがく講師こうし、のち教授きょうじゅとなった。1932ねん学位がくい論文ろんぶん本性ほんしょうろん』を國學院大學こくがくいんだいがく提出ていしゅつして文学ぶんがく博士はかせごう取得しゅとく

昭和しょうわ10ねん(1935ねん)、脳溢血のういっけつにより夭逝ようせいした。

業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

日本語にほんご文法ぶんぽう研究けんきゅう[編集へんしゅう]

日常にちじょうもちいられる日本語にほんご研究けんきゅう対象たいしょうになることはまれであった状況じょうきょう[ちゅう 1]、そうした日本語にほんご松下まつしたけて文法ぶんぽう研究けんきゅう本格ほんかくてきんだ[4]日常にちじょうもちいられる母語ぼご関心かんしんせていたのには、松下まつしたが「ありふれた事象じしょう思索しさく対象たいしょうえる」という資質ししつわせていたことや、留学生りゅうがくせいへの日本語にほんご教育きょういく従事じゅうじした環境かんきょうによるという[4]。こうした結果けっかとして、のちに「松下まつした文法ぶんぽう」とばれる日本語にほんご文法ぶんぽう理論りろん確立かくりつした。

国文学こくぶんがく研究けんきゅう[編集へんしゅう]

著作ちょさく中心ちゅうしん日本語にほんご文法ぶんぽうかんするものであるが、このほかにも日本語にほんご教育きょういくかんするものや、国文学こくぶんがくかんするものもある。なかでも渡辺わたなべ文雄ふみおとの共編きょうへんちょ國歌こっか大觀たいかんただしつづけ1901ねん-1903ねん)は、国文学こくぶんがく和歌わか研究けんきゅうかくした[4]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

  • ちち: 久三郎きゅうさぶろう別名べつめい綱吉つなよし)は野部のべむら村長そんちょうつとめた。
    • おとうと: 鉄太郎てつたろう
    • いもうと: こころざしかの
  • つま: つる国文学こくぶんがくしゃ丸岡まるおかけいいもうと

著作ちょさく[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

  • 中學ちゅうがく敎程きょうてい日本にっぽん文典ぶんてん』1898ねん
  • 日本にっぽん俗語ぞくご文典ぶんてん』1901ねん
  • かんやく階梯かいてい』1906ねん
  • かんやく日本にっぽん口語こうご文典ぶんてん』1907ねん
  • 標準ひょうじゅん日本にっぽん文法ぶんぽう』1924ねん
    • あらためせん 標準ひょうじゅん日本にっぽん文法ぶんぽう』1928ねん
    • 女子じょし 標準ひょうじゅん日本にっぽん文法ぶんぽう』1928ねん
  • 標準ひょうじゅん漢文かんぶんほう』1927ねん
  • 標準ひょうじゅん日本にっぽん口語文こうごぶんほう』1930ねん

共編きょうへんちょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 幕末ばくまつから明治めいじにかけて西洋せいよう言語げんごがく紹介しょうかいされたことで、日本語にほんごがくかたおおきく変化へんかしたが、依然いぜんとして中心ちゅうしん古典こてん日本語にほんご研究けんきゅうであった[4]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

著書ちょしょ
  • 塩沢しおざわ重義しげよし松下まつしただい三郎さぶろう博士はかせでん国語こくご学者がくしゃ美哉みやどう書店しょてん、1961ねん 
  • 塩沢しおざわ重義しげよし国語こくごがくにおける松下まつしただい三郎さぶろう業績ぎょうせき人間像にんげんぞうさくらかえでしゃ、1992ねんISBN 427302604X 
論文ろんぶん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]