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歌学かがく

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歌学かがく(かがく)は、和歌わか本質ほんしつ作法さほううた解釈かいしゃく故実こじつ歴史れきしなど和歌わかかんするすべてを研究けんきゅうする学問がくもん通常つうじょう和歌わか本質ほんしつろん歌論かろんしょうし、それ以外いがい和歌わかかんするしょ知識ちしきもとめる学問がくもん歌学かがくしょうする。

概要がいよう

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歌学かがく起源きげん8世紀せいきにさかのぼるが、当時とうじ中国ちゅうごく詩論しろんしたものであった。日本にっぽん最古さいこ歌学かがくしょとされる藤原ふじわらはましげるの『うたけいしるべしき』は、中国ちゅうごくの『文選ぶんせん』などの影響えいきょうつよけている。

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき成立せいりつした古今ここん和歌集わかしゅう仮名がなじょ日本にっぽんてき歌論かろん展開てんかいされるようになってから歌学かがくさかんとなり、歌論かろんならんで「万葉集まんようしゅう」の研究けんきゅうはじまった。この時代じだい歌学かがく代表だいひょうてき人物じんぶつとして藤原公任ふじわらのきんとう源俊頼みなもとのしゅんらいなどがあげられる。

鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんきから中期ちゅうきにかけて和歌わか本質ほんしつろんじた歌論かろんしょ数多かずおおつくられたが、なかでも藤原ふじわら俊成としなり定家さだいえ幽玄ゆうげん有心うしん歌論かろん後世こうせい歌学かがく基礎きそとなった。鎌倉かまくら時代じだい末期まっきには歌学かがくいえ成立せいりつし、京極きょうごくじょう冷泉れいせん対立たいりつしたが、室町むろまち時代ときよはいり、古今ここん伝授でんじゅなどのかぜしょう歌学かがく固定こてい形式けいしきすすんだ。この時代じだい歌論かろんはそのわくえてひとつの芸術げいじゅつろん、ひいては思想しそう体系たいけいともうべきものになっており、芸能げいのうにもおおきな影響えいきょうあたえた。のう大成たいせいしゃ世阿弥ぜあみ能楽のうがく必要ひつよう学問がくもん歌学かがくのみというむね言葉ことばのこしている。

江戸えど時代じだい中期ちゅうきには、戸田とだ茂睡もすい下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう契沖けいちゅうなどにより中世ちゅうせい歌学かがくたいする批判ひはんこり、賀茂真淵かものまぶち田安たやす宗武むねたけなどの万葉集まんようしゅう模範もはんとするグループ、ざいまんほんきょ宣長のりながなどのしん古今ここん和歌集わかしゅう模範もはんとするグループ、小沢おざわ蘆庵ろあん香川かがわ景樹かげきなどの古今ここん和歌集わかしゅう模範もはんとするグループのさんだい潮流ちょうりゅうがうまれ、万葉集まんようしゅう古今ここん和歌集わかしゅうしん古今ここん和歌集わかしゅう研究けんきゅうさかんにおこなわれ、これが明治めいじ時代じだい初期しょきまでつづいた。

明治めいじ時代じだい中期ちゅうきになると、正岡子規まさおかしき写生しゃせい主義しゅぎがでて歌論かろん風靡ふうびしたが、明治めいじ以降いこう歌学かがくは、歌論かろんよりもうた歌集かしゅう研究けんきゅう重点じゅうてんがおかれ、万葉集まんようしゅう古今ここん和歌集わかしゅう研究けんきゅう和歌わか歌論かろんおよ歌集かしゅう書誌しょしがくてき研究けんきゅうなどが目覚めざましい発展はってんげた。

おも歌学かがくしょ

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関連かんれん項目こうもく

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