駿府すんぷはん

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静岡しずおかはんから転送てんそう

駿府すんぷはん(すんぷはん)は、駿府すんぷじょう現在げんざい静岡しずおかけん静岡しずおかあおい)を中心ちゅうしん静岡しずおかけん駿河するが遠江とおとうみ愛知あいちけん三河みかわ山梨やまなしけん甲斐かい地域ちいき江戸えど時代じだい初期しょき存在そんざいしたはんである。駿河するが府中ふちゅうはんもしくは府中ふちゅうはんともばれる。明治めいじ時代じだいさい設置せっちされ、はんけんさんせいにより明治めいじ2ねん8がつ7にち1869ねん9月12にち)に静岡しずおかはん(しずおかはん)となった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい駿河するが今川いまがわ支配しはいにあったが、武田たけだ信玄しんげん駿河するが侵攻しんこう今川いまがわ没落ぼつらくすると、武田たけだこう北条ほうじょう徳川とくがわ領地りょうち争奪そうだつとなり、不安定ふあんてい情勢じょうせいつづいた。天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ武田たけだ滅亡めつぼうすると、徳川とくがわ家康いえやす支配しはいはいる。天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ家康いえやす武蔵むさしうつりふうされると、駿河するがには豊臣とよとみ秀吉ひでよし家臣かしん中村なかむら一氏かずうじはいる。慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかで、中村なかむらいちちゅういち)はひがしぐんくみして武功ぶこうげたことから、伯耆ほうき米子よなごはんうつりふうされた。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

内藤ないとう[編集へんしゅう]

慶長けいちょう6ねん1601ねん)2がつ伊豆いずこく韮山にらやまより徳川とくがわ譜代ふだい家臣かしん内藤ないとう信成のぶなりが4まんせきにゅうふうし、駿府すんぷはん成立せいりつした。

家康いえやす時代じだい[編集へんしゅう]

慶長けいちょう11ねん1606ねん)4がつ3にち信成のぶなり近江おうみこく長浜ながはまはんうつりふうされ、大御所おおごしょとなった徳川とくがわ家康いえやすが、駿府すんぷじょうはいったため駿府すんぷはんはいはんとなった。なお家康いえやす隠居いんきょしたのち実質じっしつ幕政ばくせい執行しっこうする立場たちばにあった。

徳川とくがわ頼宣よりのぶ[編集へんしゅう]

慶長けいちょう14ねん1609ねん)12月12にち家康いえやすじゅうなん徳川とくがわ頼宣よりのぶ駿河するが遠江とおとうみこくおよびひがしさんかわ50まんせき[1]にゅうふうしたことから、駿府すんぷはん復活ふっかつした。ただし頼宣よりのぶ幼少ようしょううえ家康いえやすがなおも幕政ばくせい駿府すんぷじょうっていたことから、藩主はんしゅとはいっても実際じっさいには権限けんげんはなかった。

このとき、でんである水野みずのしげるなか浜松はままつじょう2まん5000せきどう三浦みうら為春ためはるはま名城めいじょうげん静岡しずおかけん浜松はままつ[ちゅう 1])8000せきあたえられた[2]どう15ねん1610ねん)、幕府ばくふ老中ろうじゅうだった安藤あんどう直次なおじ頼宣よりのぶでん兼務けんむとなった[3]

どう16ねん1611ねん)、これまで家康いえやす発給はっきゅうしていた知行ちぎょう目録もくろくが、頼宣よりのぶ重臣じゅうしんはっせられた[4]。このとき、安藤あんどう直次なおじ水野みずのしげるなかは、でんから年寄としよりてんじたとかんがえられる[4]財政ざいせいについても、家康いえやすから頼宣よりのぶ権限けんげん委譲いじょうされた[4]

どう19ねん1614ねん)の大坂おおさかふゆじんよく慶長けいちょう20ねん1615ねん)のなつじんには頼宣よりのぶ出陣しゅつじんした[5]頼宣よりのぶ独自どくじぐんをつくるには家臣かしんだん体制たいせい不十分ふじゅうぶんだったため、家康いえやす家臣かしん一部いちぶ一時いちじてきにつけられた[5]

元和がんわ2ねん1616ねんはる横須賀よこすかじょう城主じょうしゅ大須賀おおすがやすしだか旧臣きゅうしんである横須賀よこすかしゃとう)のおおくが家臣かしんになった[6]。また、同年どうねん4がつ家康いえやす死去しきょ、その家臣かしん一部いちぶ頼宣よりのぶぞくした(ひとけ)。これらにより、家臣かしんだん原形げんけいができあがったといえる[7]

元和がんわ5ねん1619ねん)7がつ19にち頼宣よりのぶ紀伊きいこく和歌山わかやまはん55まん5000せきへのうたてふうめいじられた[7]駿府すんぷはんはいはんとなった。

徳川とくがわ忠長ただなが天領てんりょう[編集へんしゅう]

寛永かんえい2ねん1625ねん)1がつ11にちだい3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつおとうと徳川とくがわ忠長ただなが駿河するが遠江とおとうみ甲斐かいなどに55まんせきふうじられ、駿府すんぷはんふたた成立せいりつした。忠長ただなが将軍しょうぐん後継こうけいめぐってあらそった経緯けいいから家光いえみつとは不仲ふなかだった。さらに寛永かんえい7ねん1630ねん)には浅間あさま神社じんじゃかみじゅうとされるさるころしたり、寛永かんえい8ねん1631ねん)には家臣かしん侍女じじょ領民りょうみんらを惨殺ざんさつしたりするなどの乱行らんぎょう目立めだったことから、発狂はっきょうしたとして5月29にち上野うえの高崎たかさきはん蟄居ちっきょとなった。ちち徳川とくがわ秀忠ひでただ没後ぼつご寛永かんえい9ねん1632ねん)10がつ20日はつかには改易かいえきされた。このとき忠長ただなが家臣かしんおおくも連座れんざにより改易かいえきされている。寛永かんえい10ねん1633ねん)12月6にち忠長ただなが高崎たかさき自害じがいした。

駿府すんぷはんはいはんとなり、以後いご幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうとして幕府ばくふ直属ちょくぞく旗本はたもと駿府すんぷ城代じょうだいとして赴任ふにんする駿河するがしろばん時代じだいつづいた。

明治めいじ時代じだい[編集へんしゅう]

慶応けいおう3ねん1867ねん)10がつ、15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんにより江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかいした。よく慶応けいおう4ねん1868ねん)1がつ鳥羽とば伏見ふしみたたか徳川とくがわかたしん政府せいふかたやぶれると慶喜よしのぶ朝敵ちょうてきとなる。しかししん政府せいふ中核ちゅうかく一人ひとりである三条さんじょう実美みみ徳川とくがわ存続そんぞく尽力じんりょくし、うるう4がつ29にち慶喜よしのぶわって田安たやす亀之助かめのすけ徳川とくがわ家達いえさと徳川とくがわ宗家そうけ相続そうぞくしゃとし、5月24にちには駿河するがこく遠江とおのえこく陸奥みちのくこくなどで70まんせきあたえ、駿河するが府中ふちゅうはんたてはんした。陸奥みちのくこく領地りょうちは9月4にち三河みかわこく変更へんこうされている。このだてはんともない、それまであった駿河するがこくの3はん沼津ぬまづはん田中たなかはん小島こじまはん)と遠江とおとうみこくの4はん浜松はままつはん相良さがらはん横須賀よこすかはん掛川かけがわはん)が上総かずさこく安房あわこくてんふうとなり、この両国りょうこく知行ちぎょうっていたはん玉突たまつじょう替地かえちあたえられている。

明治めいじ2ねん1869ねん)6がつ20日はつかいえたち版籍はんせき奉還ほうかんによりはんごととなるにあたり、「府中ふちゅう」は「不忠ふちゅう」につうじるとしてはんめい静岡しずおかはんあらためた。命名めいめいしたのは静岡しずおか学問がくもんしょ頭取とうどり向山むかいやま黄村こうそんである。同年どうねん8がつ28にちより十勝とかちこく上川かみかわぐん中川なかがわぐん河東かとうぐん十勝とかちぐん静岡しずおかはん管轄かんかつとなった。明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ14にち廃藩置県はいはんちけん静岡しずおかはんはいはんとなり、静岡しずおかけんとなった。

藩主はんしゅである徳川とくがわ宗家そうけは、明治めいじ17ねん1884ねん)に公爵こうしゃく叙爵じょしゃくされている。

藩政はんせい[編集へんしゅう]

内藤ないとう信成のぶなり時代じだい駿府すんぷはん内情ないじょう短期間たんきかんのため、史料しりょうすくなく、藩政はんせいくわしくかっていない。

頼宣よりのぶ時代じだい駿府すんぷはんは、大御所おおごしょである家康いえやすした、その側近そっきんによって東海道とうかいどう整備せいび金山かなやま開発かいはつ検地けんち駿府すんぷじょう改築かいちくなどがおこなわれ、藩政はんせい基礎きそかためられた。なお、家康いえやす駿府すんぷ江戸えど西にしまも要衝ようしょうかんがえていたようで、駿府すんぷじょう家康いえやす時代じだいだい規模きぼ改築かいちくがなされた。

忠長ただなが時代じだい駿府すんぷはんは、忠長ただなが乱行らんぎょう目立めだっているが、その重臣じゅうしんである朝倉あさくらせんただし鳥居とりいしげるらによって統治とうち無難ぶなんおこなわれた。

幕府ばくふりょう時代じだい駿府すんぷは、駿府すんぷ城代じょうだいとして幕府ばくふ直属ちょくぞく大身たいしん旗本はたもと赴任ふにんし、この駿府すんぷ城代じょうだいが、駿府すんぷ定番ていばん駿府すんぷざいばん駿府すんぷばんひとしとともにつがえかたつとめる一方いっぽうで、駿府すんぷまち奉行ぶぎょう代官だいかんやくかたつとめた。

家達いえさと時代じだい静岡しずおかはん職制しょくせいは、江戸えど幕府ばくふ役職やくしょくをそのまま名前なまえだけえて踏襲とうしゅうしたもの大半たいはんだった。また、いえたち幼少ようしょうのため、じゅん中老ちゅうろう大久保おおくぼいちおきな幹事かんじやくかつ海舟かいしゅう山岡やまおか鉄舟てっしゅうらがにんじられ、政務せいむおこなわれている。ちなみに政府せいふとの交渉こうしょうは、しん政府せいふりであるがちによっておこなわれた。しかし、江戸えど時代じだい幕府ばくふりょうはた本領ほんりょう総計そうけいやく700まんせきくらべて10ぶんの1の石高こくだかでのたてはんであり、あらたな俸禄で生活せいかつ可能かのう人数にんずうえるきゅう幕臣ばくしん郎党ろうとう移住いじゅうし、その生活せいかつ扶助ふじょのためにはん財政ざいせいはやくも悪化あっかした。そのためきゅう幕臣ばくしん渋沢しぶさわ栄一えいいち起用きようされ、財政ざいせい再建さいけんおこなわれた。

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

内藤ないとう[編集へんしゅう]

4まんせき譜代ふだい

  1. 信成のぶなり

家康いえやす直轄ちょっかつりょう[編集へんしゅう]

  • 慶長けいちょう12ねん7がつ3にちから元和がんわ2ねん4がつ17にちまで。

紀伊きい徳川とくがわ[編集へんしゅう]

50まんせき駿河するが遠江とおとうみひがしさんかわ)。親藩しんぱん

  1. 頼宣よりのぶ - 慶長けいちょう14ねん(1609ねん)〜元和がんわ5ねん(1619ねん

幕府ばくふりょう[編集へんしゅう]

  • 元和がんわ5ねんから寛永かんえい2ねんまで。

駿河するが徳川とくがわ[編集へんしゅう]

55まんせき親藩しんぱん

  1. 忠長ただなが

幕府ばくふりょう[編集へんしゅう]

  • 寛永かんえい10ねんから慶応けいおう4ねんまで。

徳川とくがわ宗家そうけ[編集へんしゅう]

70まんせき徳川とくがわ本家ほんけ

  1. 家達いえさと

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 和歌山わかやまけんへんさん委員いいんかい へん和歌山わかやまけん和歌山わかやまけん近世きんせい〉、1990ねん8がつ31にちNDLJP:9576602 (よう登録とうろく)

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
駿河するがこく遠江とおとうみこく三河みかわこく
行政ぎょうせい組織そしきとしては江戸えど幕府ばくふ
行政ぎょうせい変遷へんせん
1868ねん - 1871ねん 府中ふちゅうはん静岡しずおかはん
次代じだい
静岡しずおかけん駿河するがこく
浜松はままつけん遠江とおのえこく
額田ぬかたけん三河そうごこく